双風亭日乗

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2005年5月 9日 (月)

会社の話 4



 90年にカンボジアへ渡航し、まずは生活の糧を得るために旅行会社をはじめた。現地のことを勉強したいといっても、お金がなければ長期滞在ができないからだ。そのころカンボジアにいた日本人は、たしか7人くらいだったと思う。その多くがNGO関係者で、民間企業として滞在していたのは私と木材会社の駐在員だけであった。


 NGOや援助関係者のフットワークは軽い。この点は、すばらしいことだと評価できる。とりあえず、援助や支援や救助が必要な場所にいき、何らかのアクションを起こす。本来ならば、政府関係者がすべきことも多いが、国交がないと外務省は動かない。だから民間の人びとがそれをやっているわけだ。90年の時点では、日本とカンボジアには国交がなかった。


 滞在当初、首都プノンペンから300kmほど北西にあるアンコール・ワットへの旅が、日帰りでしか許されなかった。ヘン・サムリン政権の軍が、まだ国内の都市部を点でしか支配できていなかったため、都市から数キロ先にいくとポルポト派の活動地域になっていたのだった。


 そんな時期に滞在していた日本人は、誰もが強者だった。前回のブログで紹介した、アッコちゃんにおけるお星さまの助言を実践しているような人たちだった。ところが、カンボジアと日本とが国交を結び、日本の大使館ができた93年ごろから状況が変わった。何が変わったのか。


 カンボジアの日本人社会において、職業によるポジションの高低、すなわち職業の貴賤のようなものができていったのである。アホらしいとはいえ、興味深い現象であった。


 高低のうえからいうと、外務省職員→その他の公務員→国の外郭団体職員→NGO職員→大手商社の駐在員→学術関係者→その他の商売、といった感じであろうか。NGOから学術関係者までは、ほぼ同列といってもよい。面白いのは、「NGO職員」が上位に食い込み、「その他の商売」が最底辺におかれているという点である。


 この基準をつくったのは、大使館員(というか外務省)であろう。天皇の誕生日やら何やらのパーティーに呼ばれるかどうか。治安情報を提供する会議に呼ばれるかどうか。戦闘が発生した際に、連絡がくるかどうか。とにかく、以上のような職業的基準で、大使館との付き合い方が異なってくる。また、重要な情報が入手できる度合いが違ってくる。さらに、どれだけ大使館員と懇意にできるかどうか、という超くだらない基準も、実際に存在していた。


 こんなことを書いていると、ルサンチマンに燃えているかのように思われるかもしれないが、そんな気持ちは毛頭ない。あまりのアホらしさに、日本人のみなさんとすこし距離を置きながら、日本人社会を客観的に眺めて楽しんでいたのが実情である。重要な情報といっても、カンボジアのようなちいさな国では、私のようなちっぽけな人間であっても、大使館よりも多くの情報を得ることは可能であった。すくなくとも90年代前半までは、治安が悪いといって首都にこもりっきりの大使館員より、私は地方都市や首都での市井の事情を把握していた自信がある。


 そんなことはどうでもいい。問題は、大使館によってつくられた「カンボジアの日本人社会における職業の貴賤」だ。この弊害がどのようにあらわれるのか。ここでNGOが登場する。NGOが貴賤ランクの上位に食い込んでいることの理由は、正直にいってよくわからない。推測でいうと、日本でのボランティア神聖化が海外にまで波及していることのあらわれなのであろう。いずれにしても、NGOのみなさんは、「その他の商売」の人たちよりも大使館との付き合いを密にしていたし、外務省による「草の根援助資金」なるものを得るために、付き合わざるを得なかったのかもしれない。


 日本から一時的に来たNGOの幹部や職員、サポーターらが、大使館を表敬訪問して大使と会う。NGOがつくった建物の落成式に、大使や領事がいく。NGOをやっていると、カンボジア政府の大臣をはじめとするエラい人たちと、直接話したりする機会が多くなる。そして、カンボジアの日本人社会における職業の貴賤……。これらが複合すると、いったいどうなるのか。


 この話、さらに長くなりそうなので、次回もつづけます。書き進めながら盛り上がってきてしまった……。このブログは、ひとり出版社の日常を記す場なのではなかったのか?


 お許しくだされ。


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