2005年5月10日 (火)
会社の話 5
さて「これらが複合すると、どうなるのか」という前日の問いからはじめよう。簡単にいうと、NGOの人びとに、ある錯覚を生じさせてしまうことになる。たとえば、こんな話がある。私はカンボジア滞在中に旅行会社を経営していた。一応は、ポルポト時代以降、もっとも古くから開業していた日系の旅行会社なので、現地NGOの旅行手配を承ることも多かった。ある日、某現地NGOから車の手配の依頼があった。日本で若い人たちをあつめ、小学校の建設を手伝うという主旨のツアーのための車手配であった。無事に車を手配し、ツアーが順調にすすんでいたある日、ツアーリーダーと称する若い衆がいきなり我が社を訪れ、こういった。「俺たちNGOなんだから、車代をもっと安くしてくださいよー」。
この若い衆の発言に、当時は血気盛んであった私は、一瞬キレてしまった。なんでNGO「なんだから」、車代を安くしなけりゃならないのか。そう私が問い質すと、若い衆はすぐに「俺たちボランティアなんだからさー」と切り返してきた。この論理破綻した発言に対して、「お前らに貸す車はない」といって車の手配を拒否した。そして若い衆は怒り狂って去っていった。
同じ日の夕方、そのNGOの日本側の副代表(俳優。娘が某歌手と結婚・離婚した)が我が事務所にきて、ものすごく丁重な姿勢で誤った。やはり心に「ゆとり」がある人は、ボランティアというものの本義をわきまえていることがわかり、安心した次第である。
まあ、これは極端な事例だが、ようするに「いいことをされている対象の視点」が抜けたまま、「自分はいいことをしている」と勝手に思い込んでしまうと、「いいこと」をしているから自分は何をやってもいいんだと勘違いしてしまう場合がある、ということだ。さらに、いいことをしているという気分は、自分を何となく「崇高」で「神聖」で「偉い」ような気分にさせてしまう、ということでもある。はっきりいえば、いいことをしているという気分は、エゴと隣り合わせだ、ということです。
NGOが、やれ「農村開発だ」とか「社会開発だ」とかいう大上段な目標をかかげ、現地のむらに入っていく。まず「開発」って何よ、と私は思う。何を基準にして、どう開発するのだろう。たいていは、予算がないので現地のことなどあまり調べずに、他国の農村や社会でやったプロジェクトの事例を、地域開発のためにそのまま導入する。うまくいくプロジェクトは数少なく、多くの場合、頓挫したり破綻したりする。そして、うまくいかないと、現地の日本人スタッフは、「現地の人たちの能力が足りない」とか「自分たちは一生懸命やっているのに……」といって逆ギレする。10年も滞在していると、そういう声を直接、山ほど聞く機会があった。なかには、「どうして自分はこんなに頑張っているのに、現地の人たちはわかってくれないのだろう」などと思い悩み、神経症を患って帰国する人もかなり多く存在した。
地域社会にコミットする(というかイジる)NGOがある一方で、いわゆる箱もの(学校とか職業訓練所など)をつくるNGOがある。こちらは、箱をつくってしまえば終わることなので、地域社会を変えようなどと思っている人たちよりも、すっきりと仕事をすすめることができる。とはいえ、カンボジアに必要なのは学校という建物よりも、教員の数を増やし、質を向上することなのではないか。NGOの人にそういうと、「きちんと育つかどうかわからないので、人材教育だとお金が集まらないんですよねー。だって、教育したって、ちゃんと仕事するのかどうかわからないじゃないですか。それに対して、箱ものだとカタチとして残るので、お金が集まるんですよ」といわれたりする。
おっと、ここで「仕事」と「お金」いう言葉をつかってしまった……。仕事やお金という言葉は、「無償の奉仕活動をする人」と定義されるボランティアには、あまりなじみませんなあ。そうです、このへんにNGOやボランティアを考える大きなポイントがあるのです。そのことは明日に。
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