さて、お金と仕事というキーワードが出て、それがボランティアとなじまないという話になった。なぜなじまないのかは自明なことで、無償で何かをやるのならお金はいらないし、無償で何かをするのなら、その何かはけっして仕事などではないからだ。
そういう前提で考えると、カンボジアでNGO職員またはボランティアとして活動している日本人のほとんどが、給料をもらって仕事をしている「職業」としてのボランティアをやっていることになる。つまり彼らは「職業ボランティア」だといえよう。そもそも無償で活動をするボランティアなど、よほどの蓄財をして、よほどの空き時間がなければできない。
私はこんなことを書いているが、ボランティアとか援助活動と呼ばれているものを否定しているわけではない。それが、知恵をしぼって、適材適所に人材やモノを送れば、それなりに意味のある活動であることは、10年も現地に暮らしていればよくわかる。なぜ、こんなことを書かざるを得ないのか。それは、ボランティアを称する本人と、ボランティアを見つめる世間一般のまなざしと、ボランティアの対象となる現地の人びとの気持ちが、ズレているからである。
ズレていても、結果オーライならば、それはそれでよい。結果オーライとは、援助などで関わる日本人の思惑とは関係なく、現地の人びとがやってもらって「よかったなあ」と思えるような状況である。逆に、いちばん質が悪いのは、前者の思惑が「やってあげてよかったなあ」で、後者の思惑が「やってもらわなくてもよかった」というものだといえる。
このネタをだらだらと続けていると、読んでいる方に申し訳ない。このへんで、まとめに入ろう。
現地にとって、どうすれば的確な支援ができるのか。第一に、現地の社会をよく知ること。第二に、何を支援するのかを的確に判断すること。第三に、誰を現地に送るのかを的確に判断すること。第四に、送られた人は、自分が「ボランティア」だなどとは思わず、職業人としての最大限の能力を発揮すること。第五に、その職業人に対して、送った側の組織はしっかりと生活を保障すること。
私がカンボジアで体感した範囲でいえば、まず第一の問題を多くのNGOがクリヤーしていない。その理由は資金難である。十分な事前調査ができるような資金が、各団体にはない。よって、第二の問題についても、的確に判断されていない場合が多い。まあ、NGOの資金源がドネイション(募金)であり、熱心に募金をするのが宗教団体くらいしかない、という悲しい事実もあることから、きわめて日本的な問題なのかもしれない。
日本のNGOの場合、募金で集めた資金の使い方に関して、ものすごくドナーに配慮している。NGOは「こう使ったら、もう募金がもらえなくなる」という思いを抱きながら活動をつづけ、ドナーも「変に使ったら、もう出さないよ」と考えているようである。そうなると、いくらNGOが的確な支援を思いついても、それを実現できない場合が多くなる。
前述したように、カンボジアの教育には、学校よりも教員育成のほうがたいせつなのである。で、そのことを現地NGOの人びともわかっていたりする。でも、人材育成は失敗のリスクが多いので回避され、建設して写真をとれば「かたち」となってドナーに見せられる、学校のような箱ものをつくることが多くなるわけである。つまりドナーの側が、NGOに自由な資金運用をさせればよいのだが、一方で資金を悪用する詐欺まがいのNGOもあるので、事情は複雑になる。
さて、第三の誰を現地に送るのかという問題。これは単純な話です。手に職を持っている人を送ればいい。現地の人は、そういう人を求めているのだから。大学院で開発経済を学んでからNGOに入ったとか、英語ができてボランティア活動に興味があったからNGOに入った、などという人は、それほど必要としていない。「俺は井戸を掘れる」とか「自動車の修理が得意」、「稲作のことなら任せておけ」という人を派遣したほうが、現地にとって役に立つのである。もちろん、経理や渉外、管理などで「英語ができる」人も活きる可能性はあるが……。
それで、上記のような人は給料をもらって仕事をする職業人(職人)だから、与えられた仕事はきっちりとするでしょう。よって第四の問題は解決する。だがしかし、その給料が安いというのが、NGO業界の大きな問題でもある。数ヶ月から数年のあいだ、日本での職をなげうって現地入りする職業人に対し、「ボランティアですから」とか「援助ですから」といって、安月給しか与えないのは、どう考えてもおかしい。帰国してからも、しばらくは生活できるくらいの額を支給して、当然のことでしょう。ドナーもそれを承認したうえで、寄付なり募金なりをすべきだと思う。
国によって違うのだろうが、海外のNGO職員には職人が多く(医者、技術者、研究者など)、資金のうち多くの部分を政府がまかなっている場合もあったりする。日本の場合、左翼系の人びとがNGOの創設に関わっていることが多いため、政府との連携がいまひとつとれていないように見える。NGOは「政府のカネをもらうと、体制寄りだと思われる」と考え、政府は「反体制の団体に与える資金はない」と考えるような、最悪の循環ができている。90年代なかばから、その循環がすこしかわったような気もするが、左翼系の人びとが団体の幹部をやっていたりするうちは、大きな構造の変化は見られないような気もする。
ようするに、前述したような現地支援の原理原則をまっとうするための環境は、日本ではまだできていないということなのであろう。とはいえ、どうでもよい人材ではなく、できるだけ現地で実力を発揮できるような人材を派遣する努力は、NGOにしてほしい。そして、自分たちをボランティアなど呼ぶのはやめて、職業にとしてのボランティアに関わる人、すなわち「職業ボランティア」と呼ぶようにしてもらいたい。
そういう自覚があれば、「俺たちボランティアだから、車代を安くしろ」などという馬鹿げた錯覚を抱く輩は減るであろうし、現地の人びとに喜ばれる内容の活動を展開できるのではないか、と私は考えている。
宗教の広告としてのボランティアとか、まじめな人ほど早くつぶれてしまう実情など、援助にまつわるネタはたくさんあり、いろいろ書いてみたいが、だいぶ長くなったのでボランティアの話はこれにて終了。