双風亭日乗

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2005年7月31日 (日)



 一昨日、三省堂さんと打ち合わせた結果、以下のようなかたちで仲正×北田トークを開催することになりました。いろいろ日程の調整はできたのですが、あえて「9.11」にやることにしました。


 時事的な問題に関するおふたりの解釈を主軸にしつつ、「保守主義」や「アイロニー」、「ロマン主義」といった言葉の意味をじっくり解説してもらいます。例によって、書籍化を前提としたトークであり、全3回のすべてを三省堂書店神田本店でおこなう予定です。


 今回は日曜日なので、ぜひ時間をつくってご来場いただければと思います。



反復する歴史をどう認識するのか? ――伝統の創造からロマン主義へ――


講師 : 仲正昌樹さん(金沢大学教授)、北田暁大さん(東京大学助教授)


日時 : 2005年9月11日(日) 16時~


場所 : 三省堂書店神田本店8F特設会場、参加費 500円、先着100名様


内容 :


 小泉首相による靖国神社公式参拝の是非が、話題になっています。なぜ参拝するのか。なぜ参拝してはならないのか。これらの意見を細かく検証していくと、現代社会における創造された伝統の実態と、その伝統がロマン主義へと転化していく道筋が、おぼろげながら見えてきます。


 論壇で活躍するふたりの論客が、靖国や新宗教、教科書問題などをキーワードにして、伝統とロマン主義、そして歴史認識について徹底討論!


お問い合わせ先 : 三省堂書店 神田本店1F tel.03-3233-3312(代表)



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2005年7月30日 (土)



 7月27日に、東南アジア諸国連合と中国・日本・韓国(ASEANプラス3)の外相会議が、ラオスの首都ビエンチャンで開催しました。ところが、日本の町村外相は、国連安保理改革の調整を理由に、何と欠席。ASEAN外相会議で日本の外相が欠席したのは初めてのことです。外務省は何をしたいのでしょうか?


 ニューズ・ウィークの8/4号で、ジェームズ・ワグナーさん(同誌副編集長)が「安保理入りの夢より まずは優先順位を」というコラムを書いています。そこで彼は「外交的に何かを成し遂げるには、まず政府が優先順位を明確にする必要がある」と指摘します。


 いま日本の外交が直面している事柄が、国連安保理問題と6カ国協議、そしてASEAN外相会議の3つだとします。6カ国協議には、現段階では外相がいく必要はありません。そして、日本の安保理常任理事国入りは、ほぼ不可能だという見通しがたっています。ならば、町村外相はASEAN外相会議に出席しても、何の問題もないでしょう。


 同会議のフィナーレで、外相全員が手をつなぐいで写真を撮るのが恒例になっていますが、日本だけ外相ではない写真は、かなり違和感がありました。今回の町村外相の欠席は、日本の東南アジア外交、そして東アジア外交に、多大な影響を及ぼすような気がします。常任理事国入りするためには、中国の支援が必要です。だが日本政府は、中国の支援なしで常任理事国入りしようという絵空事に過ぎないことを考え、ASEANよりも絵空事に重きを置いています。


 「どうしてもASEANが重要だ」などと、青筋をたてて主張するつもりは、まったくありません。でも、アジアの国ぐにが「日本は、俺たちのことより、絵空事が重要なんだ。へぇ~」と考えるようになってしまったら、ちょっとマズいでしょう。「ODAでもバラまけば、そんなの忘れるよ」という軽い問題では、けっしてありません。


 何を考えているのでしょう、町村外相と日本外務省は……。


 これでは亜細亜主義も何も、あったもんじゃない。お先、真っ暗ではありませんか。ねえ、宮台さん。


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2005年7月28日 (木)




 今日は、生きづらさ系ライターのロブ@大月さんと会いました。先日、日テレの「ドキュメント2005」で、家族で丸ごと出演していて、びっくりしました。


 馬鹿話がほとんどでしたが、有益な話もできて、今後の展開に期待が持てました。ロブさんは、柔和で人当たりがよく、話も上手。すこし体重を減らせば、なおいいのになあ、などと思いました。健康一番ですから。(余計なお世話?)


 ロブさんも渋井哲也さんも、生きづらさ系の取材をし続けています。いまの時代(とりわけ若者層の実態)を見据えるためには、彼らの仕事を参照項にすることが、必要不可欠だと私は考えています。




「生きづらさ」を抱えて生きる人たちへ

「生きづらさ」を抱えて生きる人たちへ






リストカットシンドローム(2)

リストカットシンドローム(2)





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2005年7月28日 (木)




 おかげさまで、たくさんの事例があつまりました。いただいた情報は、私自身が裏付けをとったうえで、利用させていただきます。みなさまのご厚意に、深謝いたします。


 名前があがった方がたの悪口をいうために、情報を収集しているわけではありません。悪口が企画になり、本になっても、それを読む読者はついてこないでしょう。


 あくまでも、組織やら団体やら人の集まりから、誰かが排除されてしまう構造を指し示すわかりやすい事例として、使えればと考えています。


 では、引き続き、よろしくお願いいたします。


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2005年7月27日 (水)



 このブログを読んでいる方に、お聞きしたいことがあります。もちろん自分でも、徹底的に調べるという前提です。ちょっとした本の企画で、「データがあったら助かるなあ」という感じの質問です。


 いずれも、著名作家や著名ルポライターなどが、ふだんは権力と戦っているような姿勢を見せておきながら、自分が批判されると、権力の側の力を借りようとする、という事例です。


 誤解をまねくといけないので、ひとつお断りしておきます。以上のような事例について情報を集めるとはいえ、事例の対象となる人物の作品を否定するつもりは、まったくありません。あくまでも、あるときは反権力、あるときは親権力、というダブルスタンダードはマズいのではないか、という程度の事例としてあつかえればと思っています。


 もちろん、「うる覚え」程度の情報でもネット上の情報でもかまわないのですが、実証データとして使いたいので、活字になっているものだと非常に助かります。 




<その一> 大江健三郎さん


 安原顕さんがある音楽雑誌で大江さんを批判したところ、大江さんは、安原さんが当時所属していた出版社(中央公論社)にクレームをつけて、安原さんをつぶそうとした、との噂。


<その二> 鎌田慧さん


 某新聞もしくは新聞系の雑誌で鎌田さんが批判されたところ、鎌田さんはその新聞の上層部と連絡を取り、執筆した記者(または編集者、ライター)に圧力をかけた、との噂。




 いずれも伝聞情報なので、まずは「そういうことが本当にあったのかどうか」ということから、調べられればと考えています。


「教えて君」みたいになってしまい、情けない限りですが、このようなブログの使い方を実験してみるのもよいかと思い、みなさんにお願いさせていただく次第です。


 もう一度、確認しておきます。こうしたデータを集めるのは、大江さんや鎌田さんの「作品」を批判する目的ではありません。たとえば、私は『殺す側の論理』や『中国の旅』、『カンボジア大虐殺』など一連の本多勝一作品は、みずからがジャーナリズムを志した契機になったという意味で、いまだに大好きです。しかしながら、リクルート問題で言い訳をしつづけ、『週刊金曜日』で不合理な権力を行使する本多さんは、あまり好きではありません。


 お知らせいただく手段は、本ブログのコメント欄でも、メールでもかまいません。


 では、なにとぞご協力いただきたく存じます。



※追記※ 「著名」と書きましたが、それなりに名がとおっている作家やライターでしたら、まったく問題ありません。


 いま7月27日16時過ぎですが、すでに貴重な情報をいくつかいただきました。ご協力に深く感謝いたします。



※追記2※


 考えてみると、学者や研究者の世界では、もっとすごいことが起きているような気がします。とりわけ人事などで。良識の府の大先生が、ちまちまと圧力をかけて、気にくわない若手をつぶしたり、窓際に押しやったりする事例も、ぜひ知りたいところです。こちらは、コメント欄でむずかしいようでしたら、メールでお願いいたします。


 いま7月27日の22時ですが、興味津々な情報をたくさんいただき、ありがとうございます。


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2005年7月26日 (火)



 昨日、『不登校は終わらない』の著者である貴戸理恵さんにお会いして、企画の相談をしました。同書の内容について、東京シューレと一悶着あったのは、みなさんもご存知だと思います。


 私が以前、代表をやっていたK社は、登校拒否や不登校の「業界」ではなかなか有名な版元でした。1989年あたり(私がカンボジアへいくまえに、K社へ入社したころです)から、いちはやく奥地圭子著『登校拒否は病気じゃない』などを出していました。


 私自身、不登校やいじめ、引きこもりだけでなく、それらを取り巻く学校やフリースクール、NPO、そして家庭といった組織の実態にも興味があります。そんなわけで、『いじめの社会理論』の著者である内藤朝雄さんと貴戸さんとで、何か企画ができないかなあと模索しているところでした。


 貴戸さんと内藤さんに快諾いただけたので、上記で書いたようなテーマを中心に、10月あたりから連続トークを実施する予定です。詳細は、決まり次第、お知らせいたします。


 どんな組織であれ、長年つづけていると、よほどリフレッシュすることに気をつけないかぎり、疲弊してくるんですよね。発足当初は、新鮮で、活気があり、新しい息吹を社会に吹きこんでいても、だんだんとマンネリ化して、固定化してしまいます。とりわけ中心人物がかわらなかったり、へたに権威になってしまったりすると、「これは宗教なのか」と思えるようなものに変貌してしまうこともあります。


 純粋にいいことをやっていると思いこみ、その思いを他人に押しつけた場合、押しつけられた側が救われればいいのですが、押しつけられて「いやだな」と思われてしまった瞬間に、その「いいこと」は「暴力」に変わってしまいます。こうした「いいことの押しつけ的暴力」が、組織的におこなわれていると、ひじょうにたちが悪い。


 そんな私の問題意識をくみ取っていただきつつ、貴戸と内藤さんに議論してもらえればと思っています。ご期待ください。




不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ

不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ






 



いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体

いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体







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2005年7月25日 (月)



 『週刊読書人』7/29号に、丸川哲史著『冷戦文化論』の書評が掲載されました。


評者は首都大学東京の本橋哲也さん、タイトルは「戦後史の欠落を暴き出す」です。よろしければ、読んでみてください。



冷戦文化論―忘れられた曖昧な戦争の現在性

冷戦文化論―忘れられた曖昧な戦争の現在性





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2005年7月25日 (月)



 マジレンジャー・ショーやら盆踊りといったイベントの合間に仕事をして、第1章の本文と脚注のチェックが終了。即入稿。加筆の影響で、脚注が130カ所になっていた。本日午前、プリントアウトした本文と脚注を、印刷所に持っていく。


 なぜ持っていくのかというと、本文のなかには単語以外にも注をつける部分があったり(文末など)するからだ。すべてテキストファイルでやりとりしているため、ワープロソフトのように本文と脚注を、ひとつのデータに組み入れることはできない。ひとつのデータに、本文と脚注を並列させることは可能だが、それだと組版のときに混乱する可能性がある。だから本文と脚注は別データにしている。別データだから、該当箇所と脚注がずれてしまう可能性があるので、プリントアウトで該当箇所を指定して、ずれを防ぐ。


 以下、本文の内容で、あまりに痛快な部分があったので、すこしだけ紹介する。


 第1章には、以前は論壇誌に寄稿していた宮台さんが、最近になって寄稿しなくなった理由が書かれていたりする。まず、論壇誌は「団体職員七〇歳」のような人たちが読んでいればいい、とのこと。その理由は、論壇誌が不安になった年長世代にとっての「オヤジ慰撫装置」になっており、ジジイ向けのガラガラ(赤ちゃんをあやす道具)になっているからだという。


 「ジジイ向けのガラガラ」があまりにも面白く、かつ適切であり、また私には思いつかないような表現なので、作業中に大笑いしてしまった。この部分の前後には、なぜそうなのかが説得力に満ちた表現で語られている。


 以上は、前後の文脈抜きで、単に面白い部分を抜き出して紹介している。くわしくは、ぜひ出た本を読んでいただきたい。とはいえ、論壇誌が「ジジイ向けのガラガラ」になっているという認識は、私もまったく共有している。


 もし仮に、論壇誌にかかわる方がこのブログを読んでいらっしゃるのなら、ぜひともその論壇誌が「ガラガラ」になっていないかどうか、自己点検してもらいたいものだ。そして、「ガラガラになるのは仕方がない」と開き直るのではなく、どうすれば「ガラガラ」にならないのかを考えていただきたいし、「ガラガラ」であっても、せめて若年層の「ガラガラ」になってほしいなあ、と私は思う。


 もっともタチが悪いのは、「ジジイ向けのガラガラ」になっていることを認識していない、論壇誌の編集者なのかもしれない。そういう人に「ガラガラ」になっていることを指摘したりすると、逆ギレされたりする。まあ、大きな会社だと、人事異動で仕方なくやっている編集者もいるだろうし、「多少、売れればいいんだ」と思っている編集者もいるであろう。また、売れなくても、自己満足しながら採算がとれればいい、と思っている人もいよう。


 でもね~、それじゃあ、つまらないではありませんか。あなたのつくっているものが、「ガラガラ」だなんて思われているんですよ~。


 ここまで書いて、「お前はどうよ」といわれそうな気がしてきた。「お前のつくっている本は、人文系20~50歳代のための『ガラガラ』なのではないか」と……。たしかに「ガラガラ」っぽいものもつくったと思う。しかし、「ガラガラ」以上の挑発的なものもつくったと思うし、たとえ「ガラガラ」だとしても、けっして「ジジイ向け」ではない、とは思う。


 あえて挑発的に書いているとはいえ、書いた内容は、けっきょく自分に降りかかってくるんですなあ。この文章を書きながら、つくづく、しみじみ、そう思った。 


 さて、残るは、第2章と第3章。9月9日の発売に、間に合うのだろうか……。いまは全力を尽くすしかない。


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2005年7月24日 (日)



 ロンドンやエジプトでテロが起きました。ロンドンでは、厳重に警備をしているなか、2回目のテロが起きました。


 これらの事件でわかったことは、いくらセキュリティを高めても、それは所詮、人間がつくったものなのであり、ミスも抜け道もたくさんあるのだから、やろうと思えばテロリストは何でもできてしまう、ということですね。


 ブレア首相がいくら「徹底抗戦」を叫んでも、意味があるとは思えません。火に油を注ぐだけでしょう。そうではなくて、テロを未然に防ぐためには、「なぜテロが起きるのか」をもっと深く考え、「テロリストが、テロをやる気がしなくなる、または、する必要がなくなるような方策」を考えつづけていくしか、解決の糸口はないと思うのですが。


 各国でのテロを口実に、日本政府や東京都が監視カメラを増やしたり空港チェックを厳しくしたりするのは、まったくもって笑止千万だといえます。子どものセキュリティ対策に「ココセコム」を携帯させるようなことも、同根の問題なのでは。子どもにいたずらをする大人から子どもを守るというよりも、そういう大人が子どもにいたずらをしないような方策を考えることが重要だと思います。


 だからといって、私がいますぐに、何かの方策を提案できるわけではありません。簡単に解決するとも思わないのですが……。


 漠然と、そう思うわけです。


 


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2005年7月24日 (日)



 日中は、娘と後楽園にいって「マジレンジャー・ショー」と「プリキュア・ショー」を観ました。


 夕方は、諏訪神社の盆踊りにいってきました。


 祭りや盆踊りなどに参加するたび、「あまりに隣人とべたべたするのも嫌だけど、地域コミュニティーが活きている街で暮らすのは、捨てたものじゃないなあ」と思ったりします。


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2005年7月22日 (金)



 同誌8/3号の第2特集は「大『朝日』が沈む日!?」。この特集のなかの「新聞なんてどれも同じ記事だから男性も『家庭欄』で決めてます」という記事で、なぜか私が2ページにわたってインタビューに答えています(93-94ページ)。


 ようするに、もはや大新聞には内容の差異がたいしてないので、男性であっても「家庭欄」が充実しているのかを基準にして、新聞を選んだりしている、という事例となりました。


 記事のなかで触れていますが、新聞記者のなかには協力者を「イヌ」よばわりする人がいます。鬼平犯科帳の密偵ではないんだから、いまどきそんな呼び方するなよ、って感じですが。1990年から92年までのカンボジアには、日本の新聞の支局がカンボジアにはありませんでした。で、ハノイやバンコクの特派員が兼務のかたちで、カンボジアへ取材に来ていました。


 K同通信は、他紙よりも頻繁にプノンペンへ取材に来ていたので、あるホテルの一室を絶えずキープしていました。それで、その部屋に「引き継ぎノート」を置いて、別の特派員が来たときの情報源にしていたのでした。当時、ハノイ特派員だったA記者は、そのノートに私のことを情報の「イヌ」だと書いていたとのこと。仲がよかったK同の別の記者が教えてくれて、そのことがわかりました。


 K同通信は、一般紙よりも記者の自由度が高く、優秀な書き手が多いと、当時の私は思っていました。辺見庸さんや斎藤茂男さんをはじめ、すばらしいルポを書く人が多かった。それだけに、A記者の「イヌ」発言はショックでした。そして、新聞記者という職種の人たちに幻滅しました。自分が飼い主だと思っている「イヌ」が新聞を買うことによって、あなたたちの職業は成立しているんでしょう。ならば、あなたたち「番犬」を飼っているのは、読者である私たちなのではないか。そんなことを思いました。


 もちろん、そんな呆れた記者ばかりが新聞社にいるわけではありません。クーラーの利いた部屋で助手が集めた情報を組み合わせて記事を書き、適当に仕事を切り上げてホテルのプールで泳ぎ、熱いシャワーをあびてから大使とディナーを食べる、という記者が多い一方で、暑い日差しのなかで地方を歩き回り、みずからの見聞を広めながらオリジナルな記事を書く記者も、少数ながらいました。その少数がたまたま「読売」に多かったので、ダカーポでは「読売」を持ちあげています。


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2005年7月22日 (金)



 第1章の原稿がすべてそろった。用語用字の統一と誤字脱字のチェックをパソコンの画面上でおこない、プリントアウトする。第4章と第5章のゲラが届く。プリントを素読みしているところで、トークの時間になる。電車のなかでプリントの素読みをつづける。昨日の作業はここまで。


 今日は、プリントを読んで引っかかった部分を、パソコンのテキストデータに反映する。そして、第1章の本文をメールに添付して、印刷所に入稿。それが終わると、第1章の脚注をプリントアウトして、本文と照合。宮台さんの加筆により、追加すべき新規の脚注が多いため、おそらく脚注の執筆に時間がかかりそう。とはいえ、本日中に脚注も仕上げて、データを印刷所に入稿しなければ。


 今月は決算だ。経理業務は、優秀な会計士さんのおかげで負担が軽減しているものの、すべての取引書店や取次に在庫数の確認をするのが一苦労。さらに、新刊の編集作業と決算が重なっているため、月末から月初めはバタバタしそうな予感。


 来月あたりから、紀伊國屋書店やブックファースト、ジュンク堂書店などへの納返品は、取次としてのJRC経由に移行する。これで、弊社が出荷する書籍の9割は、取次経由での出荷になる。


 以前のブログでさんざん取次の弊害を指摘しておきながら、情けない奴だと思われる向きもあるだろう。言い訳がましくなるが、直販オンリーを目指したものの、ひとり出版社にはそれが不可能(というか困難)であることを思い知った結果として、理解してほしい。いまでも、条件が整えば、直販オンリーでやれたらいいなあと考えている。 


 大手取次による金融業まがいの経理操作により、夢を見たうえで「国やぶれて山河あり」となる出版社は、今後もあとをたたないと思われる。取次による「パターン配本」なる奇妙なシステムにより、売れようが売れまいが、出版社の本が書店に届けられる。これもまた弊害だ。書店には、注文していない本が勝手に取次から送られてくる。出版社は、書店から注文されていない本を取次に出荷し、それが注文扱いであれば、売れようが売れまいが翌月にはカネになる。


 そのシステムのおかげで、いまの出版社は生きのびているんだ、などと開き直ってはいけない。売れていない本の売上をあてにするのではなく、書店や読者が求めている本を出し、その実売の売上で経営がまわるような体力をつける必要があろう。


 これは自慢していいことだと思うが、『限界の思考』の事前注文数5000部は、すべて書店から直接注文があった分であって、上記の「パターン配本」は一切ふくまれていない。というか、「パターン配本」をするような取次とは、まだ付き合っていない。ようするに、取次経由の押しつけ配本で本を書店に届けるのではなく、各書店の書店人一人ひとりに「この本は売りたい」と思っていただけた本を必要な分だけ届ける、という商売の基本を実践しているわけだ。


 基本を実践していると、書店人が「売れないかも……」と思った本の注文数は、露骨にすくなくなる。注文数がすくなければ、書店での露出度が減少し、売上もかんばしくなくなる。でも、それは当たり前のこと。売れない本をつくってしまった責任は、すべて出版社にあるのだから、そのリスクは引き受けなければならない。


 売れてもいない本の代金を取次に立て替えてもらい、いい気分になるということはあり得ないが、身の丈にあった経営にならざるを得ないという意味でも、「今度は売れる本をつくるぞ!」というモチベーションをあげる意味でも、やはり私は商売の基本を実践していきたい。資金が尽きそうになったら、日雇い労働や警備員でもやって、カネを稼げばいいじゃありませんか。


 だから、これから出版社を起こそうと思っている方は、いろんなスキルを身につけておいたほうがいい。運転免許があれば、宅急便。教員免許があれば、塾の先生。パソコンの技術があれば、事務の仕事。そして身体があれば、臨時の仕事なんていくらでもある。そういう覚悟をしたうえで出版社を起こせば、だいぶ気が楽になると思う。


 上記のとおり、これで弊社が出す本の9割が取次経由となる。しかし、トランスビューが実践している直販システムには、出版流通の希望があると私は思っている。日本の出版業界においては、出版社も書店も取次に依存しすぎている。過剰な依存は危険だ。「取次コケたら、みなコケる」というような、出版業界共倒れの危険性をはらむ体質を改善するためには、直販システムの導入は有効なカンフル剤となりうる。


 私に直販システムの指導をしてくれたトランスビューの工藤さん。討ち死にして取次主導となった出版社の代表がいうのも変だが、彼の試みには、出版業界の夢があるということを、ここでは強く強く確認しておきたい。


 


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2005年7月22日 (金)



 倉田真由美さんと宮台真司さんのトークセッション「君の瞳に恋してる!?」ですが、無事に終了しました。ゼミを終えて、急いで来てくれた宮台さん。みのもんたの「朝ズバッ」出演で午前4時から起きている倉田さん。そして寝不足で思考が止まりつつあった私。おふたりの話術により、私が朦朧としながら司会をやっていても、なんとか楽しいショーとなりました。


 内容は、おふたりの恋愛遍歴(初恋、初デート、失恋など)から最近の若い男女像など、興味津々のネタばかりでした。あと2回ほど同様のトークセッションをやり、本にする予定です。細かい内容は、ぜひ本でお読みいただければと思います。


 宮台×くらたまトークの今後の予定は、当ブログや双風舎webページなどでお知らせいたします。乞うご期待!


 以下のkwktさんによる報告も、ご一読ください。宮台さんのネタが、笑えます。


 http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20050721


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2005年7月20日 (水)



選挙ではありませんが、最後のお願いをさせていただきます。


まだ残席がございますので、ぜひご参加くださいませ。



倉田真由美×宮台真司トークセッション「君の瞳に恋してる!?」


■2005年7月21日(木)19:00~20:30(18:30開場)


■会場:東京ウィメンズプラザホール


  (青山ブックセンター本店隣り)


■定員:200名様


■入場料:¥1,000(税込)電話予約の上、当日精算


■電話予約&お問い合わせ電話:03-5485-5511


人はなぜ恋をするのでしょう。人は誰に恋をするのでしょう。そんな素朴な疑問からはじめる恋愛学講座です。恋愛学の講師は『だめんず・うぉ~か~』でおなじみの倉田真由美さん(漫画家)と、社会学者であり、恋愛学者(!?)でもある宮台真司さん。(首都大学東京・准教授)


取材経験のみならず、ご自身の恋愛経験も豊富なおふたりに、まずは現代日本の恋愛事情を徹底的に語っていただきます。予定調和なんてありえません。どんな発言が飛び出すのやら……。乞うご期待!


主催:青山ブックセンター 協賛:双風舎


http://www.aoyamabc.co.jp/events.html#ao20050721_1



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2005年7月20日 (水)



 最近、『モンスター』に、はまっています。仕事の合間についつい観てしまいます。ビデオ屋には15巻までしかないのですが、5日間くらいで全部観てしまいました。話の先が気になります。先日、深夜にテレビをつけたら、『モンスター』を放映していました。まだ続いているんですね。驚きました。


 何よりも、場所の設定がドイツやチェコで、ナチ時代の内務省による孤児院での洗脳実験をうけた子どもが悪の主人公で、ベルリンの壁が崩壊したことによる東西ドイツの負の遺産のようなものをテーマにしていながら、コミックやアニメの商業ベースで勝負できているのがすごい。


 すくなくとも中学生以上の世界史の知識は必要で、へたをすれば大人が観てもストーリーの展開が理解できないようなアニメ作品です。「ナチス」「洗脳」「猟奇殺人」「子ども」「精神医学」「ドイツ近現代史」といったキーワードを、うまくつなげています。


 褒め殺しのようで変かもしれませんが、カンボジアの現代史を学んできた私にとって、ナチスの内務省が、洗脳によって子どもの人格改造をはかったというくだりは、ポルポト政権による子どもへの対処と完全に二重写しとなります。


 ナチスほど高度な洗脳の「実験」や「研究」がおこなわれおらず、また4年弱という短期間しか政権が成立しなかったポルポト時代のカンボジアでは、洗脳の対象となった子どもたちの行く末は悲惨です。感情がなくなり、虚無感だけが残った子ども。急に洗脳が中断され、精神に障害が残った子ども。他人との関係を築けず、親でさえも敵視するようになった子ども……。


 嗚呼、はやく話の先が知りたい。こうなったら、マンガ喫茶にこもって、とりあえずコミックを全巻読破するしかないのでしょうか。



Monster (1)

Monster (1)





 ※全18巻です


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2005年7月20日 (水)



 本日午前に会計事務所の方がくるので、現金の出入りや通帳、業者への支払、郵便振替、通帳、印税、請求書などを一通りチェックする。


 昨日、とても申し訳ない気分で、『限界の思考』の発売延期を知らせる「お詫びファックス」を、全国の書店に送った。


 第1章の90%が届いた。とはいえ、すべてそろってから作業をはじめ、終わり次第、入稿しよう。そろそろ第4章と第5章の初校ゲラがでる。


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2005年7月19日 (火)



 土曜日に、我が母校・神奈川大学にいってきました。


 自宅から1時間半くらいかかるため、通常ですと非常勤の講義があるとき(年5回くらい)しかいきません。講義といっても、「カンボジア経済」という仮テーマを設定しておきながら、生きづらい日本社会をどう生き抜くか、みたいな話をしているだけです。今回は、尊敬する『神奈川大学評論』編集者の小林孝吉さんが主宰し、宮台さんが出席するとのことで、駆けつけました。


 観客は200人くらい、いましたかね。その多くが初老の方がたでした。土曜日だとはいえ、大学のヨコにあるホールで、なおかつ無料で開催されているシンポに、宮台さんや『希望格差社会』の山田昌弘さんが参加している。にもかかわらず、学生の姿がほとんど見られなかったのは、どういうことなのでしょうか。ちょっと希望を失いました。でも、それが現実なんですよね。直視しなければ……。


 宮台さんは「過剰流動性社会に抗う」というテーマで講演しました。山田さんは「家族の個人化の光と影」。神大の笠間さんは「経済の自由化は、性別秩序の解体を加速して進行させているのか」。


 3人の講演が終わると、休憩をはさんでパネル・ディスカッション。講師の3人に、神大の的場昭弘さん(弊社刊『<帝国>を考える』の編者で、私に仲正さんを紹介してくれました)と橘川俊忠さんが加わって、すすめられました。


 私は別件で用事があったので、小林さんと宮台さんにあいさつをして、すぐに退席してしまいました。というわけで、シンポの内容については、あまりよくわかりません。それで印象に残ったのが、冒頭の「若者不在」という状況であった次第です。


 それにしても、『神奈川大学評論』はよくやっていると思います。「アカデミック・ジャーナリズム」という旗をかかげつつ、これだけ人文系の雑誌が売れない時代に、よく年3回発行で50冊も出せたなあ、と思います。すばらしい。やはり雑誌は、編集長のものであり、編集長のセンスがそのまま内容に反映されるものであり、それが読者に受け入れられるかどうかが問題なのだ、とつくづく思いました。


 小林さんは、図書新聞2005年6月11日号に、「ベルリンの壁の崩壊から希望喪失社会まで」という文章を書かれています。私が共感した部分を抜粋します。



日本社会は、終焉と呼ばれるほどさまざまな領域で断絶感が色濃く漂っている。経済も、社会システムも、文化、思想も……また、日本は新たな「希望格差社会」を迎えている。……本郷は、そんな日本社会論を終焉から未来への眼差しで見つめていきたい、と。


 その眼差しとは、ベトナム意向、生涯戦場に立ちつづけた作家スーザン・ソンタグが遺著『良心の領界』で、日本の若い読者に向かって書き残した、次のような言葉と通じあう。――「傾注すること、注意を向ける、それがすべての核心です」「良心の領界を守ってください……」と。ここには私たちを勇気づける、批評の表現することの「倫理」がある。ソンタグは、世界と歴史と人間の、どれほどの悪と闇を見届け、晩年このような美しい言葉にいたったのだろうか。



 「傾注すること、注意を向ける、それがすべての核心です」。ひさしぶりに、いい言葉を教えてもらいました。小林さんの『神奈川大学評論』は、その姿勢を実践できていますが、双風舎はそれを実践できるのであろうか、などと考え込んでしまいます。


 いくら詳細に説明しても、専門的に話しても、自分が「善」とか「正」とか思っていても、傾注されなければ、注意を向けられなければ、まったく意味がありません。ということは、自分がいいたいことを他人に理解してもらうためには、まずは傾注されるような努力をし、仕掛けをつくらなければならない、ということなんですね。それを怠ければ、ただカラカラと空回りしていくだけになってしまいます。


 空回りはしたくないなあ。


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2005年7月15日 (金)



 VanDykeParksさんに「厨」の意味を教えていただきました。「『厨房』→『中坊』→『中学生』となんていうか、未熟者みたいな意味です。ようするに、ポストモダンを中学生みたいに、ぶんぶん振りかざしているだけだ、とw」とのこと。ありがとうございます。


 今回は、教えていただいたうえで、引っかかったことをひとつ書きます。これは、教えていただいたVanDykeParksさんのことを事例に書くのではありません。もっと広いネットの荒野に向けて、書いていると思ってください。


 ブログを巡回していたりすると、たしかにしばしば「~厨」という書き方を見かけます。これは2ちゃん用語なんですかね。よく知りませんが。


 で、何が引っかかったかというと、「自分は~厨だから、~です」というふうに書くと、書いた内容がほとんど意味をなさなくなるのではないか、ということです。そういう書き方をしはじめると、どうなるか。


 書き手は「~厨だから」、すなわちひとつのすがるべき理論や思想を「中学生みたいに、ぶんぶん振りかざしているだけだ」という「言い訳」をすることにより、それ以下の文章は「その程度の者が書いたものなので、気にしないでください(または無視してください)」という文脈になりますよね、当然ながら。


 もし「気にしないで」とか「無視してください」とか本当に思って書いているのならば、そんなふうに思いながら書かれている文章(いわば、捨て文)を、読み手は読みたくはないと思うのです。実際、ほかの方のブログを読んでいて、「~厨だから、~」と書かれてある瞬間に、私はそれ以降の文章を読む気がうせます。我慢して読む場合もあり、なかには興味深い内容のものもあります。でも「~厨だから、~」が含まれていると、「もったいないなあ~」と思ったりします。


 何がもったいないのでしょう。「~厨だから」という「言い訳」をせずに、真っ向から勝負すればいいのになあ、という意味でもったいなく思うわけです。せっかく自分の思いをわざわざ文章にするのだし、「~厨だから」と書く方の多くは、それなりの専門知を身につけている方なのでしょう。ならば、間違っていようが合っていようが、「~厨」なしで真っ向から勝負して、批判も賛辞も真っ向から受け取るような姿勢を持つのも、重要なのではないかと思ったりします。


 ブログを書いたり、コメントを書いたりするのは、文章を通じて人に自分の考えを伝えるってことですよね。これって、けっこう覚悟がいることなんです。だって、いずれも公開した瞬間に自分の手を離れ、あとは読む側の読み方にすべてを委ねざるを得ないんですから。どう受け取られるのかが、自分にはコントロールできないという「不安」が生じましょう。


 でも、人前に自分の文章をさらすということは、この「不安」を覚悟のうえでおこなう行為であって、「~厨だから」といって書き手の「不安」が解消されるわけではないでしょう。どうせ「不安」にさいなまれるのならば、「~厨」などと書かずに、真っ向から勝負したほうがいい。なぜかといえば、文章は、叩かれれば叩かれるほど上手になるし、誉められれば誉められるほど上手になると思うからです。(「文章」を「思考」に、「上手に」を「深く」に入れ替えてもかまいません)


 書き手が「厨だから」と書くことによって、「そうか、この文章は意味がないんだなあ」と読み手に判断されてしまうのには、もったいないような文章がネット上にはたくさんあります。まあ、2ちゃんの場合は、「厨」という文字が上記のようなかたちではなく、空気のような記号になっているのでしょうし、「厨」と書いても「意味あり」と思う読み手が多いのでしょうから、「どうぞ、お使いください」でいいのかもしれませんが……。


 文章を書くこと自体は「自己決定」できますが、それがどう読まれるのかは「自己決定」できません。当たり前田のクラッカーなことを、いまさらいうな、とお思いの方も多いでしょう。でも私には、「厨だから」という「言い訳」を書き添えることにより、どう読まれるのかも書き手が「自己決定」できると勘違いしている方が、多いように思えて仕方がありません。


 「ネタをベタに受け取ってるぜ、こいつアホか」と思う方もいるでしょう。それはそれで、いいんです。だって、そんなふうに思う方に対し、「私がネタをベタに受け取っている」ということを指し示すのが、この文章の目的なのですから。


 とにかく、「厨だから」など書かれる方は、そんなことをいわず、真っ向から自分の文章や思考を他人にぶつけ、叩かれ誉められて、文章が上手になり、思考が深くなったらいいなあ、とベタに思っているわけです。


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2005年7月15日 (金)



 第1章のほとんどが届いたので、用語チェックを開始。明日までに残りの原稿が届くのを祈る。届けば、第1章が月曜に入稿できる。


 発売が延期になることを書店に知らせる「お詫びの手紙」を書く。この手紙を一両日中に、注文をくれたすべての書店にファックスで送信。


 北田さんに、「まえがき」の加筆を依頼。現状で10ページくらいだが、さらに分量が増えて充実する。


 事前注文は5000部を超え、初版は6000部に確定。とはいえ、予想以上のページ増しにつき、税込定価を「本体1900円+税95円」に引き上げざるを得ない様相。税込定価1890円は、320ページを想定してつけた値段であった。おそらく380~400ページ弱になるので、組版代と印刷代、そして用紙代の増加分を考えると、値段を上げざるを得ない。読者の方がた、申し訳ありません。値上げする分、確実に内容も充実するので、ご容赦いただきたい。


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2005年7月13日 (水)



 以下、コメントへの応答が長くなりそうなので、日記の本文に記します。内容は、「つくる会」の教科書が採択された件に関する問題です。


Pyotrさん、ご丁寧にどうもありがとうございます。私も言葉足らずで、議論が巻き起こるように仕向けている部分もあります。すいません。


VanDykeParksさん、はじめまして。私は、現行の歴史教科書がいい、とは思っていません。我が師の故・網野善彦さんからいわせれば、直すべきところがたくさんあるわけです。教科書にいくら記述してあっても、近現代史まで学ぶ時間が確保できないという、指導上の問題もありましょう。


とはいえ、「つくる会」の教科書をめぐる問題とは、子どもの教育の外側で起きている大人の問題だと思われ、大人の問題によって子どもが何らかの危害を被りそうなのであれば、私たちは声をあげる必要があるかもしれません。郵政民営化が、国民の利便性や合理性という観点を宙づりにしたまま、政局の問題となってしまっているのと、なんとなく構造が似ています。


宮台さんがよくいってますが、日本社会の将来をマシな方向へ導くためには、幼少期から徹底した感情教育をおこない、いわば良識ある大人が思うところの「よい方向」に子どもたちを「洗脳」するしかない。これは、私も同感です。で、現状において子どもたちを「よい方向」に導くためには、現行の歴史教科書か両論併記的(現行のものと、「つくる会」的なものの)なもののほうがマシなのではないか、と私は考えています。(何が良識か、何がよい方向かは、いろいろ議論があろうかと思います)


 現行の歴史教科書もだいぶ左翼の党派性(歴教協やら何やらの)は抜けてきています(この点で網野さんの貢献は大きい。ただし網野さん自身の党派性については、別の話)。一方で、「つくる会」の歴史教科書から、ある種の党派性の匂いを感じることは、否定できません。


 大人が歴史を学ぶのであれば、どちらの教科書を使うのか、どちらの考え方を支持するのか、自分で決めればいい話です。しかし、自分で決めることのできない(「洗脳」の対象なのですから)子どもたちに歴史を教えるための教科書選びについては、何がよいのか悪いのかということを、大人が喧喧諤諤(けんけんがくがく)しなければならないのではないか、と私は思っています。


 最後に、私自身の歴史認識に関して簡単に記述しておきます。第二次大戦中に日本軍がアジア諸国でおこなった蛮行について、私自身に責任があるとは、まったく思っていません。だから、アジア諸国を訪ねたときに、「私たち日本人があなたの国の人びとを殺し、犯したことを、深くお詫びいたします」なんてことは、いう必要がないと思っています。問題は、この先にあります。


 私自身に責任がなくても、一応は私が暮らしている日本という国の歴史を、できるだけ価値を排除したかたちで認識しておくことは重要です。私はアジアの友人に会ったら、こういうでしょう。


「第二次大戦中の一部の日本人が、あなたの国でとんでもないことをしたことを、私は知っています。そして、それはよくないことであると思います。もし日本の政府が、とんでもないことをした過去について、あなたの国に謝罪していないのであれば、それは許せないことだといえます」


 こう前置きしたうえで、「では、あなたの国は日本に対して、どんなことをしたのでしょうか」と確認します。


 さらに「私は、日本が過去にあなたの国で起こした蛮行を知っているし、その行為に憤りを感じます。しかし、私にはその責任をとる必然性がありません。きっと私と同年代のあなたも、日本軍の直接的な被害者ではないのでしょうから、過剰な被害者意識を持っているとは思えません。じつのところ、どうでしょうか?」と相手に問いかけます。


 あとは、そのつづきを対話しつづけるしかないでしょう。最終的にお互いのことがわかりあえる、なんて幻想は捨てたうえで、過ぎた歴史について正の部分も負の部分もとことん語り合う。わかり合えなくても、最終的にはお互いにメリットのある妥協点をめざして、微速前進していく。


 そんな対話を繰り返すことが重要なのだと思います。こうした対話なしには、アジア諸国と日本が共存していくことは、困難なようにも思えます。


 以上のような前提で考えると、「つくる会」の教科書は、アジアの友人たちとの対話の俎上にあげられるようなものではない、というのが私の評価です。繰り返しますが、過ぎた歴史の負の部分を自虐する(いわゆる自虐史観)必要もないし、隠蔽する(いわゆる自由主義史観)必要もない。北田さんじゃありませんが、感情や党派性を抜いた「乾いた記述」で、歴史を語り、それを子どもに知らせていくことが重要なのではないか、と思う次第です。


 以上のような観点から見ると、アジアレベル(アジア諸国の人びとと日本の私たちが対話をしたときに、常識的に通用するレベル)に達していないと思われる教科書を、大人の論理で安易に選んでしまうということが、とっても滑稽に思えてしまうわけです。どこぞの誰かが、自分の出世のため、保身のため、お金のため、名誉のために、子どものこともアジアレベルのことも抜け落ちたかたちで、歴史教科書を選んでいるのではないか、などという想像力を働かしてしまうわけです。だからギャグなのです。


 ギャグと書いただけで「leleleはサヨなのか?」などと早とちりした方。まったくの見当違いでしたね。


 この問題、異論反論がありましょう。おおいに議論しましょう。


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2005年7月13日 (水)



 読売新聞によると、「扶桑社教科書、大田原で選定 教師の意見決め手(栃木)」なのだそうです。そのうち消えるかもしれませんが、一応、記事を貼っておきます。


 http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news2/20050713wm00.htm


 以前、四国・松山を旅したときに、やはり「扶桑社の教科書を採択しよう」という署名運動をかなり大規模にやっていて、びっくりした覚えがあります。


 あの教科書で歴史や公民を教えちゃ、マズいと思うのですが……。この記事がギャグであることを祈りつつ……。


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2005年7月13日 (水)



 こんなことがあるんですね。


 読売新聞7月12日付朝刊のトップで、「2.26事件から69年 将校ら17人の遺書発見」という記事を読んで、驚きました。


 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20050712it01.htm


 ちょうど宮台思想塾で2.26事件の周辺を勉強しているところなので、驚きは倍増です。


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2005年7月11日 (月)



 トークセッションの打ち合わせで、仲正昌樹さんと北田暁大さんに会いました。9月11日の夕方に、三省堂書店神田本店でやる(予定の)イベントの打ち合わせです。せっかく根津に来ていただくのだから、ということで、串揚げで有名な「はん亭」で食事をしながらの打ち合わせでした。


 ロマン主義やアイロニーを隠れテーマにしつつ、初回は靖国問題あたりから入るそして、戦後日本の宗教などを議論しつつ、伝統とは何なのか、ナショナリズムとは何なのかを考えたりするのも面白い、ということになっております。とりあえず日本のことを考えてみましょう、という感じです。


 一応、第1回を9月に実施して、第2回を11月、第3回を来年1月にやろうかと思っています。


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2005年7月11日 (月)



 脚注の追加が終わったら、すべての原稿を一度、プリントアウトします。さっと読んで、誤字脱字などのチェック。この作業に数時間をかけ、問題がなければ、これで入稿用のテキスト原稿は完成します。ちなみに入稿とは、組版屋さんや印刷屋さんに原稿を入れることをいいます。


 双風舎の本は脚注がいっぱいあります。本文のどこに脚注番号をふるのかをしっかり指定しないと、混乱してしまいます。よって、まず各章の本文を一太郎に、組版と同じ「字数×行数」でコピーします。それと脚注原稿をプリントアウトして、本文と脚注を照会しながら、本文に脚注番号をふっていきます。


 ここまでの作業が終わると、印刷屋さんに本文と脚注のテキストデータを、メールに添付して送ります。いま3時45分ですが、2時間くらいまえにメールを送りました。そして、脚注番号を記したプリントアウトは、本日午前に印刷屋さんへ持っていきます。すると、数日後に初校ゲラがあがってくる、というわけです。


 これでようやく、1/4の作業が終わりました。


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2005年7月10日 (日)




 忙しくなってくると、以前の日記で番号を確認する気力がないので、以降の「会社の話」は番号をふりません。あしからず。


 『限界の思考』の作業がようやく本格的に動き出しました。どうなると本格的に動き出すというのでしょうか。著者に送ってあったテキスト原稿が、私の手元に返ってきたとき、動き出すのです。


 今回の場合、著者がふたりいます。なおかつ対談本です。よって、おふたりからの原稿がそろうまで、へたに作業を進めることができません。「1章はこの方で、2章はこの方で……」というように、著者が章単位で執筆していれば、手元に原稿が届いた順にゲラを出すこともできますが、対談本だとそれは不可です。


 さて、第4章のふたりの原稿がそろいました。まず、おふたりとも加筆の量が半端ではないため、ひとつの章では長すぎます。では、第4章はふたつに分けましょう。これで『限界の思考』は、4章立てから5章立ての本になりました。


 つづいて、4章と5章のおふたりの加筆済み原稿を、合体させます。すでに届いていた著者の原稿に、あらたに届いた著者の発言部分を貼り付ける、という作業です。コピペですね。


 合本ができたら、用語の統一をおこないます。漢字を開いたり(「間」→「あいだ」とか「一体」→「いったい」など)、逆にかなを漢字にしたりするわけです。この作業は、けっこうたいへんです。そして、その方針によって、出版社の「いかに読者を気づかっているか」「いかに日本語にこだわっているか」「誰に本を読んでもらいたいのか」といった部分が、はっきりとあらわれることになります。作業中に具体的なことを書く時間はないので、双風舎の用語統一に関する方針は、あらためて書くことにします。


 用語統一が終わったら、脚注のチェックをやります。加筆分に注が必要な単語があれば、これまで書いた脚注に追加します。いま、この作業をやりつつ、この日記を書いています。


 あとの作業については、つぎの日記にて。


 予備情報ですが、本来だと、すべての原稿がそろってから上記のような作業をまとめておこないます。用語統一にしろ脚注の整理にしろ、そのほうが一括でできて能率がよいからです。


 とはいえ、今回はできるだけ早く本をつくるため、ふたりの著者の原稿がそろった章から作業をはじめて、初校ゲラを出してしまいます。すべての原稿がそろってから作業をやると、おそらく発売は10月ころになってしまうかもしれませんので。


 というわけで、超特急で作業をやっております。


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2005年7月10日 (日)



 「世の中の理不尽に喧嘩を売る雑誌」の第2号が届きました。久田さん、いつもありがとう!


 特集は「ニュースを信じるな!」。今回は、電通やバーニングなどの芸能界タブー、そして北朝鮮タブーなどに斬り込んでいます。友人の渋井哲也さんが「『王子』と呼ばれた男の正体」を書いています。大塚英志さんの新連載「大塚英志の<反日>評論」は、第1回が「コンビニ化する『伝統』」。面白いので、ぜひご一読を。



 


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2005年7月 8日 (金)



 宮台真司×北田暁大著『限界の思考』ですが、編集作業がたいへん遅れておりまして、発売は9月9日ころになってしまう予定です。申し訳ありません。


 とはいえ、お待たせするだけの価値があるように、著者が大幅な加筆をおこなっております。当初、256ページで出す予定だったのが、360ページくらいになるのではないか、という勢いです。


 本の構成も、四章立てであったのが五章立てになるなど、だいぶ変わります。


 日本社会のいまを考えるための一般向け書物としては、現時点では最高水準のものをご提供できると思います。ご期待ください。


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2005年7月 7日 (木)



 昨年、吉野斉著『レクイエム』という本を出しました。解離性同一性症候群(いわゆる多重人格)の女性による手記です。こういう人が世に存在するということを、ひとりでも多くの人に知ってもらいたい、という動機で出した本です。


 治療が困難で、症状も重く、社会が面倒を見る必要のある病気のひとつだと思いますが、役所には「よくわからない病気」だと思われており、法的な救済手段が確立されていない病気でもあります。


 で、この本の装丁イラストは「内田春菊さんしかいない!」と勝手に思い込み、連絡をしたところ、なぜか快諾いただけたのでした。そうしたご縁で、事務所兼ご自宅に何度かお邪魔するようになりました。


 内田さんとは、知る人ぞ知る売れっ子の漫画家です。恋愛と性、精神、そしてユーモアなどを素材に、とっても面白い作品を長年にわたり書き続けている方です。舞台や映画、ドラマに出演したり、小説を書いたりもしています。いまさら書く必要もありませんね。


 昨日は、「父親」をテーマにして何か本ができないか、という相談をしにいきました。内田さんは、いきなりアサリと塩水の入った透明のボールをテーブルに置き、「これを置いておくと、打ち合わせがスムーズに進むのよね」なんていいだしたのでびっくり。私の訪問の前日、某社の編集さんが来たときに、アサリを置いたらいい感じだったとのこと。


 それで、打ち合わせらしきことを話したのは、合計15分くらい。四方山話をしているうちに、何時間もたったしまいました。何をやるのかほとんど決まらぬまま、「じゃあ、家で企画書のたたき台をつくっておきますね」といって私は内田家をあとにしました。


 私が自信をもって持参した「やなか珈琲店谷中本店」の「キリブレンド」(なんとカンボジア王国ラタナキリ産)を飲みつつ、おいしいパンプキンケーキをいただきつつ、2階で子どもたちがワーギャーいいつつ、お話しいたしました。


 内田さんの家にいくと、いつもこんな感じです。


 最新刊、よろしく!



ベッドの中で死にたいの

ベッドの中で死にたいの





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2005年7月 7日 (木)



 諸般の事情がありまして、はじめて欠席しました。今月は20日にもおこなわれるのですが、それもほぼ欠席が確定。とても残念です。継続は力なり、ですからね。


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2005年7月 6日 (水)




平日の夕方ということで、集客に苦戦しております。


ぜひご参加くださいませ。


ちなみに、私が司会をやります。



倉田真由美×宮台真司トークセッション「君の瞳に恋してる!?」


■2005年7月21日(木)19:00~20:30(18:30開場)


■会場:東京ウィメンズプラザホール


  (青山ブックセンター本店隣り)


■定員:200名様


■入場料:¥1,000(税込)電話予約の上、当日精算


■電話予約&お問い合わせ電話:03-5485-5511


■受付開始:2005年6月21日(火)10:00


人はなぜ恋をするのでしょう。人は誰に恋をするのでしょう。そんな素朴な疑問からはじめる恋愛学講座です。恋愛学の講師は『だめんず・うぉ~か~』でおなじみの倉田真由美さん(漫画家)と、社会学者であり、恋愛学者(!?)でもある宮台真司さん。(首都大学東京・准教授)


取材経験のみならず、ご自身の恋愛経験も豊富なおふたりに、まずは現代日本の恋愛事情を徹底的に語っていただきます。予定調和なんてありえません。どんな発言が飛び出すのやら……。乞うご期待!


主催:青山ブックセンター 協賛:双風舎



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2005年7月 5日 (火)



 7月2日に第1回がはじまりました。前半が武田徹さんによるセミナーの趣旨説明。後半が平川幸秀さん(京都女子大学現代社会学部助教授)によるリスクコミュニケーションに関する講義でした。


 組織ジャーナリズムによる組織的な記者の育成には、それなりによさもあるが弊害も多く、ひとりジャーナリストも同様によし悪しがあることを、現役のマスコミ記者の前で武田さんは話しました。その姿勢に、現状のジャーナリズムへの危機感と、その反対に希望をもったうえで、真剣にこのセミナーを企画した武田さんの意志が感じられました。


 平川さんは、私と同じ年齢の社会学者です。とても気さくで、説明もわかりやすかった。将来、一緒に仕事をしたいなあ、と思わせる学者さんでした。


 当日、利用されたレジュメを以下のwebページで見ることができます。


 http://hideyukihirakawa.com/sts_archive/regulatory/20050702Hirakawa.pdf


 けっこう濃い内容なので、簡単には語れません。また、速記録が参加者用のwebページで公開されるようなので、それを読んでから内容について記すことにいたします。失礼ですが、徹夜明けだったので「寝てしまうかもしれない……」と思っていましたが、ずっと目がさえていたので、それだけ面白い講義だったということです。


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2005年7月 5日 (火)



 上記の特集に「私が通いたい書店 理想の書店」というコーナーがあります。各界の115人に対して、好きな書店や書店への不満、理想の書店像などを好きなように書いてもらうという企画です。


 その115人のうちのひとりとして、私も以下のように書きました。




①好きな書店とその理由


 千駄木の往来堂書店。街の小さな書店なのに、特徴のある棚づくりを心がけている。


 池袋のジュンク堂書店。必要とするたいていの本が見つかる。店員が本に関してくわしい。


 神保町のヴィレッジヴァンガード。「本を買いにいく」ということを、楽しませてくれる仕掛けがある。


②書店への注文・不満


 根本的な問題は出版流通にあるという前提でいうと、どこの書店も似たような棚づくりになりすぎていることが気になる。あと、書店人の本への知識が不足していることが、「本探し」や「棚づくり」の面で露呈しつつあるのが気になる。


③書店に対する提案など


 以上であげた書店の問題点は、いくら書店人が気持ちを切り替えても、そう簡単には変えられないものだと思う。出版社と取次、書店とがスクラムを組んで、出版流通の諸問題を改善しなければ、いくら書店人ががんばっても無駄な努力になりかねない。



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2005年7月 3日 (日)




 近刊『限界の思考』の発売を記念して、私の選書(僭越ながら……)によるブックフェアが、紀伊國屋書店新宿本店5Fにてはじまりました。


 売り場にいくと「じんぶんや」という同書店人文書担当者が作成したフリーペーパーがあります。そこに、私が同書を出す理由などが書かれています。


 くわしくは、以下のwebページをご覧になってください。


 http://www.kinokuniya.co.jp/04f/d03/tokyo/jinbunya.htm


 フェアの開催期間は、7月1日から31日まで。そして大きな問題は、期間内に同書を配本できるのかどうか、ということです。


 この件については、数日中に正確な配本日をお知らせできると思いますので、続報をお待ちください。


 いずれにしても、私のような小モノに選書の機会を与えてくれた同書店のI係長に、この場を借りてお礼を申し上げます。


 このフェアのために選んだ本は、同書を読み解く際にかならず役立つものがそろっています。ですから、たとえ同書が今月末までに配本できなくとも、ぜひぜひご購入いただければと思います。買っておいて、事前に読んでおけば、同書への理解は深まることうけあいです。


 兎にも角にも、いまは編集作業を急がねばなりません。


 というわけで、今日はこのへんで失礼します。


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2005年7月 1日 (金)



 昨日は子どもの誕生祝いで、サンリオ・ピューロ・ランドなるテーマパークにいってきました。ディズニーランドと比較しては申し訳ないが、アトラクションはすくないし、ショーはいまひとつで、帰路は疲れがどっと出てしまいました。移動が長いし。谷中から多摩センターは、片道1時間以上かかりますから。


 テーマパークなんて、子どもがいなければ絶対にいかない場所なので、よい社会勉強になるとは思っています。どんな人たちが来ているのか。何人で来ているのか。何をしているのか。観察しているだけでも、面白いものです。昨日、興味深かったのは、中国人の客が多かったこと。さらに、従業員もダンサーも中国人ばかりであったこと。「なんでだろう?」などと考えるうちに、キティーちゃんやウサハナちゃんとお別れする時間になってしまいました。


 さて、会社の話。


 月末が近づくと、かならずやることがふたつ。ひとつは、業者さんなどへの支払。これは25日に決めていて、その日が土日または祝祭日ならば、前倒しして支払います。支払ってもらう側の立場で考えた場合、そうしないと資金繰りの計画がたてづらくなってしまいます。


 月の末日にやるのが、請求業務。現在、売上の6割強が直販で、そのほかが取次経由となっています。取次分は、すべてJRC経由で出荷しているので、請求もJRC一本。これは、多少の手数料がかかるものの、かなり楽です。残りの6割は、書店ごとに実売分を請求します。


 とはいえ、この実売分の計算方法が複雑です。大手書店の多くは、本店レベルのお店で一括して実売数を出していただき、その数にもとづいて請求書を作成します。このパターンだと、毎月ではなく、3カ月に1度くらいの請求になります。たいてい、まとまった冊数の実売があるし、翌月か翌々月にかならず支払ってくれるので助かります。納品月の月末に請求書を出して、売れた分から自動的に支払ってくれる書店もあります。これも助かります。


 問題は、大手であっても店舗ごとに直販で契約している場合と、中小書店の実売精算です。正直にいって、JRC経由で取次に流すラインがなかったら、このパターンはいまごろお手上げになっている可能性が高いですね。それくらい手間がかかります。こんな感じでやっています。


 毎月末にこちらから各書店に「在庫調査票」をファックスで送る→担当者に記入していただき、返送してもらう→前月の在庫と当月の納品を足して、そこから報告のあった在庫数を引き、実売数を出す→請求書をつくる


 書店の方は忙しいので、調査票を出してもなかなか回答がきません。なんといっても、刊行している弊社の本の在庫を、1点ずつ調べるという話ですから……。はやくて1週間、おそいと1カ月後くらいに調査票が届いたりします。たとえば1カ月後に届いた場合、調査票を出した翌々月に請求書を送り、支払われるのはさらに翌々月となったりします。ですから、1月末に「調査票」を出して、5月末に支払われたりするわけです。


 それでも、支払ってくれる書店は、まだ良心的です。こちらから何度も催促しないと、半年たっても、1年たっても、支払ってくれない書店もありました。そういう書店の多くは、こちらからお願いして、順次、取次経由に変更してもらっています。実売精算ですから、確実に売れている本の代金を請求しているのに、なかなか払ってもらえないと、どうしても不信感がわいてきます。しかしながら、ここがひとり出版社の弱みでもあるわけです。経理だけやっているわけではないので、どうしても未払いのチェックが甘くなりやすくなるのです。


 一般的な出版社ですと、こういった書店への請求業務は取次がやっています。だから、出版社は取次に請求すればいいわけです。取次に請求といっても、たとえば私が以前勤めていたK社などは、10社以上の取次と取引がありました。よって、伝票の集計や請求書の作成は、毎月の大きなイベントになっていました。おまけに、請求しても、請求どおりに支払ってくれません。それでも「まあ、いいや」となるのは、すでに書いたような取次の金融機関的な機能により、「売れてない分の本代も前払いしてくれるから、いろいろあるけど、まあいいか」ということになるからだと思います。


 書店が出版社と直販で付き合う場合のメリットは、第一に卸し正味が安いこと、第二に納品が早いこと、などです。出版社側のメリットは、第一に自分が出した本がどこの書店に納品され、どれだけ売れているのかが一目瞭然であること。意外に思うかもしれませんが、取次経由で新刊を配本してもらう場合、お金を払わないと取次は配本先のリストを出版社に提供してくれません。つまり、自分が出した新刊が、どこの書店にどれだけ届いているのかがわからない。変なシステムですね~。第二に実際に売れた本代が、取次をとおすよりも早い時期に支払われる可能性があること(これは書店との契約条件にもよりますが……)。第三に、これがもっとも重要なのかもしれませんが、実売分のみの代金が、支払われるということ。つまり、取次経由で新刊を出した場合、新刊の委託期間はたいてい6カ月です。そして新刊の納品数と6カ月のあいだの返品数を相殺した分が、刊行から8カ月後くらいに取次から出版社に支払われます。とはいえ、さんざん指摘しているように、新刊であっても「注文扱い」で納品すれば、取次は出版社に対して、翌月にその代金を支払ってくれます。売れてようが、売れてなかろうが……。


 売れたら売れた分だけ請求し、支払ってもらわないと、売れていないのに売れた気になってしまうという錯覚が起こります。その錯覚が現実だと気づいたときには、売れようが売れまいが新刊を出して「注文扱い」で納品し、翌月に取次に支払ってもらう、という悪循環に陥ってしまいます。その先の悲惨な実情は、すでに書いたとおりです。


 というわけで、出版社が書店と直販で付き合うことの最大のメリットは、取次というお化け金融機関を介在させずに、みずからの商品を流通させることであり、売れた分の本代を着実に書店から支払ってもらうことにより、身の丈にあった経営が実現できるということなのかもしれません。


 だかしかし、出版社が直販を志せば、取次と同じような業務を、みずからがおこなわなければならない、という苦難が待ち受けています。それを覚悟したとしても、ひとりでできることには限界がある、ということを事前に知っておいたほうがよいでしょう。大先輩のトランスビューは、「ふたり」ではじめたから、いまでもほとんど直販で勝負することができているのだと思います(ちなみに、いまは3人です)。それを、ひとりで真似しようとした私は、いま考えてみると愚かだったように思えます。


 いまから少人数で出版社をやろうとする方に助言ができるとすれば、ひとりでやるなら、直販はやめておいたほうがいいということです。ふたり以上なら、直販は可能(あくまでも「可能」)だと思われます。取次へ交渉にいっても、あまりの悪条件を提示されて、きっと嫌な思いをすることでしょう。それでもいいや、という方は取次と付き合ってください。とはいえ、書籍の流通において、別に取次が絶対ではありません。よって、取次の条件が悪いから、直でやってみよう、というのもアリです。アリですが、ひとりでやるのはおすすめしない、ということですね。


 流通に関することを書いてきましたが、以上の大前提となることは、書店に対して(読者に対して)魅力的な商品を提供できるかどうか、につきると思います。この点については、日を改めて思うところを書こうと思います。


 では、いまから月末恒例、請求書づくりの旅に、いってきまーす! (眠い……)


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