双風亭日乗

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2005年8月30日 (火)



 定期購読している『ASAHIパソコン』で、一番面白いのは小田嶋隆さん(自称テクニカル・ライター?)の連載「価格ボム!」です。さまざまなモノやサービスなどの「値段」をキーワードにして、世の中の不条理を縦横無尽に斬っていきます。(そういえば、休刊になった『噂の真相』の連載も面白かったなあ……)


 今週号(9月15日号)のお題(=本日のお値段)は、「1000円以上1万円未満」。副題は「未成年と知りつつ酒を飲ませた監督者に科せられる罰金(科料)」。いうまでもなく、フジテレビの女子アナが、ジャニーズ事務所所属のNEWSの「メンバー」に酒を飲ませた、という事件の話がメインのネタとなっています。


 小田嶋さんは、話と話のつなぎがとっても上手ですね。プロだから当たり前なのかもしれないけど、短いコラムでいくつもの話をつなげるのは、けっこう難しいことだと思います。今週号の記事でいえば、「NEWSという言葉の由来」→「ニュースは新しくない」→「NEWS未成年メンバー飲酒問題」→「巨大プロダクションとマスコミの関係」→「事件の詳細」→「事件の報道のされ方(テレビ)」→「事件の報道のされ方(新聞)」→「まとめ(ニュースは広告プロモーションのおまけ)」という感じ。


 いくつか面白い文章をとりあげてみましょう。



 結局、「NEWS」は、「新しい」を意味する「NEW」に由来する単語だということになるわけだが、当然のことながら、常に新しいわけではない。


 それどころか、むしろ、ニュースの享受者であるテレビ視聴者および新聞購読者は、耳慣れない新情報より耳タコな常套句を喜ぶ傾向にある。



 面白いものです。この部分は、ただいま編集中の本(仲正昌樹著『デリダの遺言』)で仲正さんが言いたかったこと(だと編集屋の私が感じたこと)にカブるのです。視聴者や購読者が受け入れる「生き生き」とした情報とは、結局、いかに新しいかということよりも、いかに「わかりやすく」、「耳心地がいい」ものなのかが重視される傾向がある。しかし「わかりやすく」「耳心地がいい」言葉(=「生き生き」とした言葉)だからといって、それが「信用に値するに言葉」だとはかぎらない。だから「生き生き」とした言葉には、気をつけよう。小田嶋さんも仲正さんも、そう警鐘を鳴らしているように思えます。


 この飲酒事件について、なぜテレビメディアが報じなかったのか、という点について、小田嶋さんは以下のように記します。



 もう少し具体的に言うと、事件の一方の当事者であるフジテレビにとって、当該タレントの所属プロダクションであるジャニーズ事務所は、神聖不可侵な相手だったわけだ。相互利権供与体制。



 まったくそのとおりなのですが、新聞や雑誌でマイナスの意味において「ジャニーズ」という言葉を使うのは、なかなか勇気のいることです。ちょっと書いただけでも、「よくもASAHIパソコンで書いてくれたねえ。テレ朝の番組や朝日新聞に、ウチのタレント、出せなくなるかもしんないよ」なんてことに、なる可能性がないわけではありません(すこしビビって、バカボンのパパのように、まわりくどい表現になってしまいました……)。


 さすが小田嶋さん。


 さらに、「フジテレビの女子アナがNEWSのメンバーに酒を飲ませた事件」を、テレビ各局も新聞もほとんど報道しなかった事態を受けて、小田嶋さんは以下のようにまとめます。



 結局、このニュース(っていうかニュースの不在)から伝わってくるのは、事件の真相ではない。


 NEWSがわれわれに教えているのは、事件報道の枠組みが、情報を媒介とした弱い者イジメに堕してしまっているメディアの現状と、ニュースなんて広告プロモーションのおまけにすぎない、という現場の絶望。



 これまた、そのとおり。報道に関わるメディア関係者に、このコラムを読んでもらいたいものです。ていうか、メディア関係者もきっと、そのことは自覚はしているんでしょうけど、なかなか認めたがらないんですよね。皮を一枚めくれば、「報道の正義」とか「社会の番犬」だなんておっしゃるのがギャグにしか聞こえない、小田嶋さんが指摘するようなチャンチャラオカシイ実態があるわけです。


 生中継であろうと何であろうと、報道なんて、すべて恣意的になされているってことを、幼少の頃からわかっておいたほうがいい。誰に話を聞くのか。聞いた話のうち、どの部分をテレビで放映するのか。どこの現場を撮影するのか。どこからどこまで画面に入るように撮るのか、etc……。なんとなく客観的に報道している、と見せかけることはできるけれど、本質的な客観報道なんてあり得ません。だから報道を、疑うクセをつけておいたほうがいい。


 見たり読んだりする側も、メディアのチャンチャラオカシイ実態を理解したうえで、テレビを見たり新聞を読んだりしましょうね。小田嶋さんがコラムで、そう問いかけているような気がしました。


 なんだ、またメディア・リテラシーの話になってしまいましたねぇ。


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2005年8月30日 (火)



 以下のページで、小谷野敦さん(らしき方)による「いりません論壇時評」という文章が読めます。小谷野さん(らしき方)のように、朝日新聞と『諸君!』を読んでいるわけではありませんが、ほぼ全文について「そうだよね」と思いました。


 http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20050827


 こんなことを書いたら仲正さんには怒られるかもしれませんが、小谷野さん(らしき方)の文章を読んでいると、なぜか仲正さんの文章が頭に浮かんでしまいます。どちらがマネをしているなどという、低次元な比較ではありません。文体の「面白味」や内容の「ねじれ」っぷりが、かなり近いような気がするのです。


 


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2005年8月29日 (月)



 東京MXテレビという、東京ローカルのテレビ局があります。正直にいって、あまり面白い番組はやっていません。とはいえ、気になる番組がひとつだけあります。それは「陳平・談志の言いたい放だい」という番組です。毎週土曜日の11時から1時間ほどを放映しています。


 タイトルのとおり、野末陳平さんと立川談志さんが幅広いテーマに関して好き勝手にしゃべる、という番組です。そのトークに、毒蝮三太夫さんや西部邁さん(!?)ら常連ゲストがからんでいく、というパターンです。よくいえば、還暦をすぎたおじいさんたちによる辛口世論批評。悪くいえば、おじいさんの戯れ言を垂れ流しているだけの番組。


 この番組が気になる理由はただひとつで、立川談志さんの語りを聞きたいからです。


 昨日の朝、徹夜明けに、6時からやっている同番組の再放送を観ました。すると、ひとりおじいさんではない人が出演していました。その人は、なんと福田和也さんでした(ちなみに、あえて保守の立場をとりながら批評をつづける彼のスタンスを、私は嫌いではありません)。


 この日のメインーマは、総選挙でした。あの談志師匠に対して、福田さんがどのように斬り返すのか、興味津々で話を聞いてました。すると、福田さんはぜんぜんしゃべりません。談志師匠のキャラが強すぎるうえ、その発言が「辛口」をとおり超したものであることから、福田さんは「そこまでいって、いいのかよ?」といった感じでほほえみ、ぽつぽつと語るのみ。談志師匠が福田さんを煙に巻くその光景が、ただただ、とても面白かったのです。


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2005年8月29日 (月)



 本文がすべてそろった。編集サイドの原稿整理が終わり、仲正さんに原稿を確認してもらう。本文は、一部の修正をおこなって校了。本文の作業中に序文がとどき、用語統一や誤字脱字のチェックなどを一気におこなう。そして仲正さんに送信。これが帰ってきたら、序文を公開します。


 本文は校了したものの、デザイナーへ本文組デザインの発注が遅れたため、初校ゲラが出るのは来週初めになる模様。弊社がデザイナーに依頼するのは、装丁(カバー、帯)と表紙、本文組一式(本文をはじめ、本扉や章扉、目次、奥付、広告など)。本文については、デザイナーから組版屋さんに組デザインを送ってもらい、私は組版屋さんに原稿を送り、組版屋さんが組む。その他の原稿については、デザイナーに組版もお願いすることが多い。で、最終的に、デザイナーが組んだ分を組版屋さんに送り、本文と合わせて、ゲラを出すことになる。


 デザインまわりについては、印刷屋さんにデータを入稿するまで、変更することが多いので、デザイナーには迷惑のかけどおし。組版についても、初校から再校、そして念校までとり、ぎりぎりまで細かい修正を繰り返すので、組版屋さんにも迷惑のかけどおし。


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2005年8月27日 (土)



 仲正さんの本の作業で、急に忙しくなりました。ブログの更新もままならず……。


 再来週に初校ゲラが出せるかな、といった感じですすんでいます。


 『限界の思考』が遅れているお詫びも兼ねて、『デリダの遺言』の「序文」は、発売前にこのブログで公開する予定です。ご期待下さい。


 いまから寝る(いま5時22分)のですが、今日は地元・諏訪神社の大祭で、子ども御輿が出るとのこと。よって9時に起きて、子どもと神社にいきます。体力がもつのだろうか……。


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2005年8月24日 (水)



 仲正さんの原稿は、95%くらい手元に入っています(=『限界の思考』よりもペースが速い……)。用語の統一や誤字・脱字の修正をしつつ、デザイナーに装丁を発注しました。


 以下、新刊に関して、現状で公開できるデータを記します。




■タイトル : 『デリダの遺言』


■サ  ブ : 生き生きとした言葉を語る死者たちへ


■著  者 : 仲正昌樹 (金沢大学教授)


■判  型 : 46版、並製、アジロ綴じ


■ペ ー ジ : 256ページ(予定)


■刊行時期 : 2005年10月末(予定)


■発行部数 : 2000部(予定)


■予  価 : 1800~1900円


■ジャンル : 現代思想・哲学・エッセイ


■内  容 : 「わかりやすい言葉」や「生きた言葉」で書かれた哲学書や思想書が多く出回っている昨今。とはいえ、安易にその「わかりやすさ」や「生き生き感」を信用してしまっていいのか。哲学や現代思想には、「生きた言葉」では「語りきれない」ものが、絶えず含まれるのではないか。そういった問題意識から、仲正は、まず思想史の痕跡を振り返り、「生き生き」とした思想の本質を探る。さらに、デリダの理論に即しつつ、「生き生き」とした思想を語る知識人(竹田青嗣、柄谷行人、高橋哲哉、宮台真司、斎藤貴男など)を徹底批判。



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2005年8月23日 (火)



 ノートン・アンチウイルスを入れてるので、ウイルス関係は問題ないだろうと思っていました。ところが、最近はスパイウェアというのがあるんですね。友人のサイトで知りました。スパイウェアの詳細は、以下を参照してください。


 http://e-words.jp/w/E382B9E38391E382A4E382A6E382A7E382A2.html


 さっそく「SpyBot - Search & Destroy Ver.1.4」というフリーソフトをインストールして、スキャンしてみたところ……。なんと、知らぬ間に40個のスパイウェアが私のPCに入り込んでいました。早速、削除しました。


 スパイウェア対策って、いまや常識なのでしょうか?


 私は、名前は知っていましたが、早急に対処する必要があるとは思っていませんでした。とはいえ、放置しておくと、PCに不具合が生じたりもするようですね。


 用心しなければ!


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2005年8月22日 (月)



 またもや葉っぱさんから、問題提起をしていただきました。「関西方面でもトークセッションやろうぜ問題」です。さらに、中堅版元の編集者punktさんからも、「ほんとうは、やりたいんだよね」コメントをもらいました。返答が長くなりそうなので、新たなエントリーとして私の考えを記します。


 著者の住居も版元も、たくさん本が売れる書店も、すべて東京周辺に集中しているというのは事実ですね。弊社の本の売上動向を見ても、紀伊國屋書店新宿本店と三省堂書店神田本店、リブロ池袋本店、ブックファースト渋谷店で、全体の3割くらいを占めています。この4つの「店舗」で、弊社の売上の3割ですから、かなりのシェアとなっています。ちなみに、チェーン店ごとの売上動向では、1位がジュンク堂書店チェーンで2位が紀伊國屋書店チェーン、3位が三省堂書店チェーン、4位がリブロチェーンとなっています。こうした事情と出張旅費が出せないのが重なって、現状では、販売にしろイベントにしろ、「東京重視、やむなし」といわざるをえません。


 punktさんが「関西にはABC(青山ブックセンター)がない」とご指摘しておりますが、ごもっともです。たしかにABCの存在はでかいと思います。けっきょく、姜×宮台対談も宮台×北田対談も、ABC本店でやりましたし。書店経営者と書店人の「理念」のようなものが、そこにはあるような気がします。いわば「しゃべり捲くれ」的なものですね(なんていったら、ABCの方に「ちょっと違うぞ」といわれてしまうかもしれませんが、あえて……)。その理念には、私も100%共感します。ジュンク堂書店や三省堂書店、リブロ、そして紀伊國屋書店にも同様の姿勢を感じます。


 で、「東京以外でイベントやりたい」の話。それこそ、イベントやって、それの起こしを本誌に掲載すれば、いいのになあと思ったりします。とはいえ、版元の規模が大きいほど、「一般公開」した「対談」の「起こし原稿」をバカにする傾向が強く、「書き下ろし」または「語りおろし」じゃなけりゃ「原稿」じゃないと思っている節がありますね。


 姜×宮台『挑発する知』も、某先輩から「内容は、すでに彼らがどこかで書いたり話したりしていること」を「うまくつなげた」だけのもの、などとご批評を賜ったことがあります。とはいえ、イベントに来た「のべ700人」の聴衆が楽しめて、「その程度のもの」が直販で1万部以上売れて、読者も版元も著者もすこし幸せになれれば、この『イベント+書籍化』企画は大成功だと思っています。


 イベントを書店でやってみて、気づいたことをひとつだけあげます。それは、書店人との接点が格段に増えて、書店人と著者との接点をつくれて、結果、書籍化の際に書店人の販売モチベーションがあがる、ということです。これは大きいですね。このことは書籍でも雑誌でも同じことでしょう。イベントをやって、活字にして、結果として本誌の売上があがるのであれば、上司も文句がいいにくくなるのでは。


 以前、ブログで書きましたが、「イベントができるのは、聴衆を集められるだけの人気がある著者を、その版元が抱えている場合にかぎられる」し、「そんなイベントは、所詮、東京でしかできないのだから、地方軽視だ」などといわれたこともあります。前者の問題については、「それなら、イベントが成立するような著者とコンタクトをとってください。それも版元の技量のうちです」としか答えようがありません。後者の問題については、前回と今回のブログで私の考えを記しました。東京以外を軽視しているわけではありません。やりたいのだが、そこでイベントをやる資金がないのです。


 資金の問題をのぞけば、版元にしろ書店にしろ、あとは「決裁」の問題になると思います。イベント開催の決裁権が、現場の書店人や末端の編集者にあるのかどうか。何でもかんでも上司に報告しながらすすめないと、話が進まないのであれば、イベントの実現はなかなか難しいでしょう。なにより著者は、「いまだから、これがいいたい」というタイミングだからこそ、イベントに参加するわけです。よって、「トークやりましょうか」と版元が著者に提案してから、イベントを実施するまでの「スピード」が、速ければ速いほどいいわけですね。


 そういう意味で、三省堂書店神田本店やABC本店、ジュンク堂書店池袋本店、リブロ池袋本店については、現場の書店人と話を進められるので、企画を持ち込みやすいのです。版元サイドは、私がひとりでやっているわけですから、時間のロスはありません。こうした書店サイドの「決裁」に関する問題も、書店でのイベントを考える場合のポイントになるような気がします。


 いずれにしても、前回も触れましたが、本がたくさん売れたら、かならず関西でトークをやります。葉っぱさん、しばらくお待ちください。(なーんて書いていますが、このままジリ貧で終わるかもしれませんし、いつ潰れてしまうかわからない虫けらのような版元であることは、十分に自覚しているで、あまり大きなことはいえないのですが……)


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2005年8月20日 (土)



選挙と、インターネットと、個人情報保護法に関する、宮台さんの発言です。


http://www.miyadai.com/texts/003.php


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2005年8月20日 (土)




 葉っぱさんの素朴なご要望に答えなければと思い、このエントリーで私の考えを書こうと思いました。トークセッションを関西方面でもやるべきではないか、という話です。


 たしかに、話せる著者は西にもたくさんいますよね。そういう著者は、おそらく書店や版元が誘えば、断る理由などあまりないんだと思います。大澤さんだって内田樹さんだって、職場は西ですからね。


 問題は、葉っぱさんのおっしゃるとおり、書店や版元の「やる気」だと思います。あと、書店にやる気があっても、場所がなければ仕方がない、という問題もありますが、それは工夫すれば何とかなるものでしょう。


 とはいえ、いくら書店にやる気があっても、版元の協力なしには、トークの企画は進まないと思われます。それは、いうまでもなく、トークする著者と直接のコンタクトがあるのが版元なのですから。


 そうなると、書店にやる気があって、著者もやる気がある、しかし版元がアクションを起こさない、という状況が原因で、西でトークが開催されない可能性が高まります。では、どうして版元は、西でのトークを企画しないのでしょうか。


 その最大の原因は、やはり版元が東京を拠点にして、すべての物事を考えているという点でしょう。東京に本社があると、営業力や交通費といった物理的な問題上、関西まで足を伸ばして何かをするということが、難しくなります。


 双風舎の場合ですと、第一にまず自分が関西にいくための足代を捻出することができません。くわえて、第二に講師に支払う車代(ひとり1万~3万くらいが相場)を全額、もしくは書店との折半で負担する必要が生じます。これも零細版元には大きな負担です。


 それでも私は、第二の負担をどうにか捻出しつつ、東京でトークを企画しています。講師にしても、○×会議所やら□△の会といった資金が潤沢な主催者が企画する講演にいけば、1回で10万とか20万とか講演料をもらえたりします。それを1万とか2万で了承してもらっているのです。


 いろいろたいへんなのに、なぜトークを企画するのかは後述します。問題は、東京の版元でも、潤沢な接待費やら交通費を使える状況にありながら、1年に数回だけ「●●先生講演会」をやることにより、「トークもやってるよ」という免罪符にしている大手です。


 大先生の接待を、年に5回のところを3回にするだけで、何十万円もお金が浮くのに、それを遠隔地でのトーク企画などに利用する気など、さらさらないようです。ときおり、そういう問題意識をもっている編集者もいますが、腰は重いといわざるをえません。


 どうなのでしょう。版元は、本だけつくっていればいいんでしょうか。「しゃべり捲くれ」が経営理念の私には、そんな甘い現状認識では、護送船団方式の出版流通システムが崩壊したときに、大手版元も大きな危機をむかえざるをえないと思っています。


 私だって、本の力を信じて、版元をやっています。でも、その力を全面的に信用してもよい時期は、すでに過ぎ去っているように思っています。ただただ本をつくるだけで、世の中に、著者の思考や声を、そしてその著者をフィルターにした版元の声を、どれだけ伝えることができるのでしょうか。


「本を出す→読者が読む→知り合いに紹介する」という流れだけでなく、「本を出し、イベントをやる→読者が読み、イベントに読者(や読んでない人)が参加する→それぞれに参加した人が、知り合いに本やイベントのことを紹介する」という流れにすることにより、読者以外の人たちにも、本のことやイベントのことを伝えるようにする必要があります。


 そこにインターネットやテレビ、ラジオ、新聞、雑誌などをからめ、本を出すことを契機とした「著者の声を広く届けようキャンペーン」をおこなうのが、これからの版元のやるべきことなのではないか、と私は思っています。とりわけネットは重視すべきです。


 そうしないと、本なんて所詮は本棚から消えたらお終い。もちろん本棚から消えないように、最大の努力はしますが、それには限界がある。大手には、「次から次へと出せばいいじゃん」という姿勢がうかがえますが、それが逆に、一人ひとりの著者の声を殺していることになっているような気もします。


 ちなみに私自身は、著者の声を使わせてもらいながら、世の中に自分が伝えたいことを表明していく、という目的で本をつくっています。で、零細版元が本を出すだけでは、なかなか広く伝わらないという危機感から、積極的にトークの企画を考えるようにしています。


 このように「しなやかな動き」がとれるのは、きっとひとり出版社だからなのだと思っています。リーマン編集者(勤め人としての編集者)では、私のような方向性に共感したとしても、なかなか実現は難しいのでしょう。その限界は、お察しします。


 とはいえ、現状で関西方面でもトークの企画が可能な版元といえば、やはり大手版元しかありえません。なおかつ、大手は、企画を実行してもペイするだけのお金を捻出することは、おそらく可能だと思います。さらには、リーマン編集者の方にも、そういう企画をやりたいと思っている人はいます。


 ならば、なぜ大手はトークの企画を関西でやらないのか。それは、大手の幹部連中が、そういうことに価値を見いだしていないからなのではないか、と私は予想しています。いまの幹部連中は、おそらく本の力を信じていられた世代の方がたですよね。お金の決裁権をもつレベルの人が、「版元は本を出してればいいんだ」という非現実的な信念をもっていた場合、いくら問題意識のあるリーマン編集者が「関西でトークを……」といっても、それは無視されてしまうのではないか、と思ったりします。


 一方で、著者の方がたからは、こういうことをいわれたりします。すなわち、大手のリーマン編集者は、まさにサラリーマン化がすすんでいる。上司からいわれたことを間違いなく遂行して、不祥事をおこさないで、高い給料をもらいながら、「●×館」とか「□△社」という大手の看板を背負っていること自体に価値を見いだしている。まあ、ここではそういうリーマン編集者だけではないと信じつつ、先にすすみましょう。


 「セカチュー」やら「さおだけ屋」やらでがっぽり儲けたお金を、関西でおこなうトークセッションに使ったって、いいじゃないですか。ねえ。物理的には、そうやってお金を使えるわけですよ、どう考えても。何に使っているのでしょう、億単位の純利益を。


 以上のように考えてみると、第一に関西でトークを実施する可能性があるのは、資金と人員の都合で大手版元(もしくは中堅も含む)に限られ、第二にその大手であっても、お金の決裁権がある人がトーク(というか、本の力を過信するのをやめること)に価値を見いださなければ、関西方面でのトーク企画は難しいような気がします。


 このへんのことは、リーマン編集者で気概のある方から、ぜひ意見をうかがってみたいところです。


 最後に書いておきますが、もし双風舎の本がバカ売れして、第一の問題(資金と人員)がクリヤーできるようになったら、いの一番に関西でトークの企画を実施します。ここだけの話ですが、宮台さんや藤井誠二さんとは「関西方面でもやりたいねえ」などと話しているのです。仲正さんだって、「やるんだったら、いつでもいくよ」といってくれています。


 著者も版元もやる気があります。でも資金がありません。それが双風舎の現状です。


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2005年8月19日 (金)




 もう一度、貼り付けておきます。


 なんとこの日は「総選挙」。さらに、ABCでは見田宗介さんと大澤真幸さんのトーク。強敵がふたりもいます。まあ、選挙については投票してから来ていただければ解決しますね。問題は、見田×大澤トークです。「きっと、こっちのほうが、おもしろいですよ~」とだけいっておきましょう。



反復する歴史をどう認識するのか? ――伝統の創造からロマン主義へ――


講師 : 仲正昌樹さん(金沢大学教授)、北田暁大さん(東京大学助教授)


日時 : 2005年9月11日(日) 16時~


場所 : 三省堂書店神田本店8F特設会場、参加費 500円、先着100名様


内容 :


 小泉首相による靖国神社公式参拝の是非が、話題になっています。なぜ参拝するのか。なぜ参拝してはならないのか。これらの意見を細かく検証していくと、現代社会における創造された伝統の実態と、その伝統がロマン主義へと転化していく道筋が、おぼろげながら見えてきます。


 論壇で活躍するふたりの論客が、靖国や新宗教、教科書問題などをキーワードにして、伝統とロマン主義、そして歴史認識について徹底討論!


お問い合わせ先 : 三省堂書店 神田本店1F tel.03-3233-3312(代表)



ちなみに、見田×大澤トークの詳細は以下;


http://www.aoyamabc.co.jp/events.html#ao20050911_1


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2005年8月18日 (木)



 ブログを書いていてよくわかったことがあります。それは、本格的な編集作業がはじまってしまうと、「編集実況」などといっていながら、実況をしている時間がなかなかとれない、という当たり前のことでした。とはいえ、ずーっと作業をしているわけではなく、テレビを観たり音楽を聴いたり(自宅ならではの「ギターを弾いたり」)という息抜きの時間もあるので、そういう時間を利用して書くことにいたします。


 『限界の思考』。残り1/3の原稿が入らないため、作業が止まっています。数日中に決めますが、発売日は延期になる見とおしです。期待してお待ちいただいている読者のみなさま、多くの注文をいただいた書店のみなさま、発売日の遅れを深くお詫び申し上げます。私自身、ここまで発売日が遅れてしまうとは予想していませんでした。


 大手出版社でしたら、あまりにも発売予定がずれそうになると、著者をホテルなどに「缶詰め」にするなどの対処をするのでしょう。とはいえ、「缶詰め」にする経費を捻出できない弊社は、著者にただただ「書いてください」お願いし、著者から原稿が送られてくるのをただただ待つしかありません。


 いくらこのようなことを書いても、言い訳になってしまいますね……。しかし、いまの弊社にできることは、素直に現状を報告し、読書人と書店人に寛容なるご理解をいただくことのみです。ほんとうに申し訳ありません。


 一方で、仲正さんによる書き下ろしの原稿が、すでに9割くらい届いています。数日前から初校ゲラを出すために、原稿チェックをはじめました。


 原稿の内容は、「生き生きとした言葉を語りたがる人びとを多角的に批評することにより、現代思想を理解する」といったものです。第一章は、生き生きした人たち一般への考察。第二章は、生き生きとした思考の脱構築。第三章は、生き生きした言葉を語る知識人批評。これに序章と終章がつきます。


 ちなみに、第一章では宮台さんや東浩紀さんが、第三章では竹田青嗣さんや柄谷行人さん、高橋哲哉さんらが登場します。第二章では、ルソーやフィヒテ、ゲーテ、カント、ヘーゲル、マルクス、フッサール、ベンヤミン、ホルクハイマー、アドルノ、デリダなどの思考を手がかりに、生き生きとした言葉を語りたがる人を多角的に批評する論拠が提示されます。第一章で概況の説明がなされ、第二章で現状分析のための論拠が提示され、第三章で具体的な事例研究がなされる、という構成となっています。


 宮台さん流にいえば、第一章と第三章が「暴走」のパート、第二章が思想史を紹介する場合の「本格ぶり」を発揮するパート、となっております(なんて書いたら、仲正さんに怒られる!?)。ようするに、仲正節が炸裂します。ご期待ください。


 発売時期は、10月中旬から下旬になると思います。いずれにしても、詳しい情報は、あらためてお知らせいたします。


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2005年8月16日 (火)



 暑い日がつづき、なんとなく書く気力がおきず、更新をさぼってしまいました。東京の夏は、熱帯モンスーン気候のカンボジアよりも暑いような気がします。日本全国、こんなに暑いんですかね。


 さて、昨日は敗戦記念日。テレビでは「戦後60周年」を掲げた、番組がたくさん放映されています。


 宮台真司さんと宮崎哲弥さんが、TBSラジオの「軍歌も含めた(!?)Jポップ批評」特別編に出演していました。おたがいに、みずからの親から語り継がれた戦争話を紹介しつつ、戦後史における軍歌の位置づけを検討したりして、なかなか面白い構成でした。


 ところで仲正昌樹さんは、著書やトークで戦争責任問題に触れる際、しばしばドイツのヴァイツゼッカー元大統領が敗戦40周年記念日におこなった演説を取りあげます(演説のくわしい内容は、岩波ブックレットの『荒れ野の四十年』を参照してください)。仲正さんの理解によると、ヴァイツゼッカーの姿勢は、「ドイツ連邦共和国の下での経済的繁栄、福祉、教育、安全、自由など」といった遺産を享受しているのであるから、当時は生まれていなかった人であっても「親の遺産を相続する時に、負の遺産(借金)も一緒に相続しなければならないのと同じ理屈」で、過去の帰結に対する政治的責任を負う、というものです。(『日本とドイツ』ちくま新書、42-43p)


 ちょっと横道にそれます。私がカンボジアから帰国してK社の代表になったとき、前社長の残した個人保証の負債をどうするのかという問題が生じました。そして、基本的には故人が負債(借金)を残した場合には、「遺産」として故人の家族が相続する必要のあることを知りました。とはいえ、負の「遺産」を残された家族には、相続放棄という法的手続きをとることにより、その借金を背負わなくてすむようになっています。


 相続放棄というものを知ったときに、ある種の救済システムだということを理解しながらも、すこし違和感を感じました。だって、故人の家族が負の「遺産」を放棄した場合、放棄された側の債権者は法的な貸し倒れになってしまうのですから。K社の場合、私が会社を引き継いだので、借金はそのまま私が背負うことになったのですが。


 この遺産相続および相続放棄の問題は、「遺産」という言葉を「戦争責任」という言葉に入れ替えれば、戦争体験のない世代が、先人による戦争の正の遺産と負の遺産をどのように考えるのか(相続するのか)という問題に、そのまま直結すると思うのです。


 そう考えると、先の戦争において日本が侵略・侵出したからこそ、アジア諸国の近代化などが進んだという議論は、正の遺産の問題となりましょう。単純にうなずける議論ではないものの、ここでは正の遺産を相続するという文脈で「よし」としておきましょう。で、問題は負の遺産です。正の遺産を相続するのであれば、同時に、植民地化や侵略・侵出によってアジア諸国がこうむった負の遺産も、「戦争体験がないから……」といって放棄するのではなく、相続するのが筋だと私は思うわけです。


 遺産を相続する、ということは、すなわち正負の遺産を同時に相続する、ということです。正の遺産だけを相続して、すべてを正当化してしまうのは、あまりにも安直で自分勝手な発想だと思います。8月14日のNHKスペシャルで、姜尚中さんや上坂冬子さんらが靖国問題を討論していましたが、靖国参拝支持派の議論はあからさまに正の遺産だけに注目したものでした。一方、姜さんら参拝反対派は、左翼チックに戦争責任を追及するだけではなく、正負の遺産をバランスよく相続すべきであるという議論に終始していました。議論がまったくかみ合わず、NHKで朝生を見ているような気分になりました。笑


 なぜこの話を出したのかというと、8月13日に日比谷野音でおこなわれたイベントでも、昨日のラジオでも、宮台さんがヴァイツゼッカーの姿勢に注目すべきだという主旨のことをいっていたからです。上記でだらだらと書きましたが、戦争責任という遺産を、戦争体験のない世代がどう相続するのか、という部分において、仲正さんと宮台さんの問題意識がかなり近いところにあるような気が、私にはします。


 単純に、著者のふたりがいっているから「みんなで信じてみようぜ」という気など、さらさらありません。思想的には、かなり離れたところに立つこのふたりが、戦後60年という節目の時期に、戦争責任問題についての見解をほとんど一にしているということについて、私たちは注視してもいいのではないか、と思うわけです。


 「戦争反対!」と「反戦平和」などというスローガンは、ごもっともです。しかしながら、そういうことが説明なしに、するりといえてしまったり、信じられてしまったりすることには、大いなる疑問を感じます。だから、自分の子どもに頭から「戦争は、いけないことなんだよ」なんて教えるつもりは、まったくありません。


 8月13日のNHK教育・ETV特集で「零戦ニ欠陥アリ」という秀逸な番組が放映されていました。内容は、「戦争に勝つという大義」と「よりよい戦闘機をつくろうという良心」で、戦中に零戦を設計した人たちが、海軍幹部による現場を無視した高圧的な指示を受けながらも、ひたすら戦闘機の性能向上を考え続けた、という話です。イデオロギーに支配され、自浄作用のなくなった組織が、いかに矛盾に満ちたものになってしまうのか、という側面を、零戦設計者と海軍上層部の関係からあぶり出したドキュメンタリーです。すこし極端な話かもしれませんが、この番組で「自浄作用を失った組織」の個別具体的な事例を見聞したほうが、「戦争反対!」などと頭ごなしに教え込むよりも、結果的に実りのある結果(戦争がバカらしいと思うような思考)をもたらすような気がしました。


 戦時の悲惨な写真や映像を見せて、「戦争は酷い」と子どもに知らせるのは、ひとつの反戦思想を継承するための手段なのかもしれません。駅前や街頭で、よく見かけますよね。とはいえ、そういうことを知らせるよりも先に、人と人は、集まった瞬間から、排除やいじめが自然発生してしまう可能性があるというシステムを知らせる。そして、人が集まって組織をつくり、その組織が自家撞着したときに、矛盾に満ちた暴走をはじめる可能性があるというシステムを知らせる。そういったことを、個別具体的な事例を取りあげながら検討することが、結果として、戦争のバカらしさを理解する近道であるような気がします。


 道路公団の談合、学校のいじめ、自民党分裂、イラク戦争、パレスチナ問題などなど、身近な事例はいくらでもあります。みずからも直面しそうで、かつ身近なところから入って、すこしずつ過去の歴史をさかのぼるように、私の子どもが反戦平和を学んでくれたらいいなあ。


 人は、ちょっとしたスイッチが入るだけで、いとも簡単に人を殺してしまうし、いじめてしまうし、排除してしまう。それらが拡大再生産していくと、最終的には戦争になってしまったりする。だから、スイッチが入らないように、気をつけるクセをつけようぜ。「みんなで仲良く反戦平和」なんて夢物語は、キッパリと捨て去ろう。そして、自虐史観だ自由史観だと騒いでるオヤジたちなんて、無視していこうぜ。そんな議論のもっともっと手前に、歴史認識を考えるヒントがごろごろしているんだから。


 このスイッチ問題は、私がカンボジアから日本に持ち帰ったお土産のひとつでもあります。そのうちスイッチに関する本でもつくろうと思っています。


 そんなことを、つらつらと考えた敗戦記念日でした。


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2005年8月 9日 (火)



 茅ヶ崎で花火を見たら、テレビ版「鬼平犯科帳」のエンディングで、ジプシーキングスの音楽にのって流れる花火の映像を思い出しました。さっそく「鬼平」のDVDを借りて観ました。長谷川平蔵がかいま見せる厳しさとやさしさのバランスは、いつ観ても「すごいなあ」と思います。


 池波正太郎の原作は、もちろん何度読んでも飽きない作品ですし、しばしば我が家付近で事件が起きたりして、とても楽しめます。とはいえ、テレビ版は別個の作品として、これまた楽しめる。中村吉右衛門はあまりにも鬼平の役にどんぴしゃりで、彼を抜擢した人は、これまた「すごいなあ」と思ったりします。また、時代劇のエンディングにジプシーキングスを採用した人も、「すごいなあ」と思います。


 このように、何回も「すごいなあ」と思いながら観るのが鬼平なのでした。


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2005年8月 9日 (火)



 『限界の思考』ですが、第4章と第5章、そして第1章の初校ゲラが出ています。ゲラは4通ほど出して、著者のおふたりと私、そして外部の方が読みます。やることは、まず用語・用字のチェック。誤字・脱字やルビなども確認しつつ、版面(ページ全体の体裁)を整えていきます。


 以上の作業を私自身がおこない、さらに著者や外部の方がゲラに入れた赤(加筆・修正・削除など)を、私のゲラに反映させます。


 ゲラにする前の状態(テキストファイルの原稿)で、著者が私に送ってくる最終的な原稿を完成原稿といいます。それに私が手を入れたものを、ゲラにしてもらいます。じつは、7月末には、全章の完全原稿がそろう予定でした。しかし、いまだに第2章と第3章の完全原稿が入っていません。へたをすると、9月9日の発売に間に合わないかもしれません。読者のみなさんには、ほんとうに申し訳なく思っています。


 まだ9月9日発売の望みはありますので、ギリギリまでがんばってみます。


 一方で、書く速度がとても速い仲正昌樹さんの原稿が、すでに2/3くらい完成しています。この本のコンセプトは、流行思想への批判をとおした現代思想入門書。おもに「生き生きとした思想」を語る「死者」(学者、研究者)の考察となっています。わかりやすい表現で、仲正節が炸裂します。


 この本も、そろそろデザインまわりの手配(装丁、組版など)を開始しなければなりません。『限界の思考』の発売時期に関係なく、10月中旬あたりには出せればと思っています。


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2005年8月 8日 (月)



 以前、おふたりのトークセッションを企画する、と当ブログで書きました。しかしながら、諸般の事情により、この企画は中止となりました。


 かわりに、内藤さんの独演会(連続講座)を企画しようと考えています。詳細が決まったら、お知らせいたします。


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2005年8月 8日 (月)



 昨日、昼過ぎに自宅を出発して、茅ヶ崎の友人宅に向かいました。第一の目的は花火大会の見物で、第二の目的は海水浴です。


 昨晩の7時すぎに、サザンビーチの花火大会を、打ち上げ場所からすこし離れたところで見物しました。ひさびさに花火を見て、ちょっと感動。今日は正午にサザンビーチへいって、海水浴をしました。これもひさびさ。夕方には、浜見平団地近くの「えぼし」という、行列のできる海鮮料理の店で食事。値段は高かったけど、おいしかったなあ。


 というわけで、この二日間は、レジャーな週末でした。週末の二日間、家族そろって遊んだのなんて、半年ぶりくらいです。


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2005年8月 5日 (金)



 突然ですが、今回は詩を取りあげます。なぜかというと、この詩は、私がひとりで出版社をやろうと思ったときに、「こういう姿勢で本を出していけたらいいなあ」という指針になったものだからです。一応、「会社の話」の一環として、紹介させていただきます。


 紹介するのは、小熊秀雄(1901-40)という詩人の「しゃべり捲くれ」という作品です。


 昭和初期から第二次大戦の敗戦まで、池袋の周辺に貧しい若手芸術家(詩人、画家、彫刻家など)が集まって暮らす地域がありました。池袋モンパルナスといいます。


 そこに小熊秀雄というひとりの詩人がいました。詩の創作だけでなく、童話や評論などの文章も書き、また多くの絵を書いた人です。プロレタリア詩人会や日本プロレタリア作家同盟に加わるなど、反体制・戦争反対の姿勢を貫きつつ、39歳の若さで亡くなりました。私が一番好きな詩は「しゃべり捲くれ」なのですが、ほかにもたくさんいい詩を書いています。日韓併合における朝鮮人の立場で書かれた「長々秋夜」もすばらしい。


 なお、小熊さんに関する詳細な情報は、下記のweb pageで得られます。ぜひご覧になってみてください。


 http://www2u.biglobe.ne.jp/~sagawa/oguma.htm


 この「しゃべり捲くれ」は、昭和10年ころの作品です。翌年、2.26事件が起き、そのあと盧溝橋事件を経て、日中戦争の泥沼に日本は足を踏み入れます。そういう時期にこのような詩を書き、発表してしまう小熊さんの勇気や気迫、緊張感。それが好きなんですよね。


 当時、反体制とか反戦を訴える人の多くは、共産主義運動に首を突っ込んでいたので、「しゃべり捲くれ」のなかにも「階級」とか「プロレタリア」などといった言葉が出てきます。でも、共産主義とはまったく関係のないところに、この詩の本意があると思いますし、私たちはその本意を、こんな時代だからこそ、確認してみる必要があるのではないかと思ったりします。


 じつは、双風舎の処女作である姜さんと宮台さん共著『挑発する知』のタイトル案のひとつが、この「しゃべり捲くれ」でした。それは、おふたりの社会との関わりや発言に触れるうち、おふたりは「しゃべり捲くれ」を体現しているのではないか、と思うようになったからです。『しゃべり捲くれ』がタイトルだったら、どうだったのかなぁ。ときどき、そんなことを考えたりします。


 詩に関わっていないと、小熊秀雄のことを知る機会もなかろうと思います。私は、池袋モンパルナスのテレビ取材をしたある人から、教えてもらいました。これを機に、ぜひお見知りおきのほどを。詩集は絶版が多く、なかなか手に入りません。私も彼の本は、すべて古本で買いました。


 以下の出所は、岩田宏編『小熊秀雄詩集』(岩波文庫、一九八二年)の89-90ページです。



しゃべり捲くれ  (小熊秀雄)


私は君に抗議しようといふのではない、


――私の詩が、おしやべりだと


いふことに就いてだ。


私は、いま幸福なのだ


舌が廻るといふことが!


沈黙が卑屈の一種だといふことを


私は、よつく知つてゐるし、


沈黙が、何の意見を


表明したことにも


ならない事も知つてゐるから――。


私はしやべる、


若い詩人よ、君もしやべり捲くれ、


我々は、だまつてゐるものを


どんどん黙殺して行進していゝ、


気取つた詩人よ、


また見当ちがひの批評家よ、


私がおしやべりなら


君はなんだ――、


君は舌足らずではないか、


私は同じことを


二度繰り返すことを怖れる、


おしやべるとは、それを二度三度


四度と繰り返すことを云ふのだ、


私の詩は読者に何の強制する権利ももたない、


私は読者に素直に


うなづいて貰へればそれで


私の詩の仕事の目的は終わつた。


私が誰のために調子づき――、


君が誰のために舌がもつれてゐるのか――、


若し君がプロレタリア階級のために


舌がもつれてゐるとすれば問題だ、


レーニンは、うまいことを云った、


――集会で、だまつてゐる者、


 それは意見のないものだと思へ、と


誰も君の口を割つてまで


君に階級的な事柄を


しやべつて貰はうとするものはないだらう。


我々は、いま多忙なんだ、


――発言はありませんか


――それでは意見がないとみて


  決議をいたします、だ


同志よ、この調子で仕事をすゝめたらよい、


私は私の発言権の為めに、しやべる。


読者よ、


薔薇は口をもたないから


匂ひをもつて君の鼻へ語る、


月は、口をもたないから


光りをもつて君の眼に語つてゐる、


ところで詩人は何をもつて語るべきか?


四人の女は、優に一人の男を


だまりこませる程に


仲間の力をもつて、しゃべり捲くるものだ、


プロレタリア詩人よ、


我々は大いに、しやべつたらよい、


仲間の結束をもつて、


仲間の力をもつて


敵を沈黙させるほどに


壮烈に――。




小熊秀雄詩集

小熊秀雄詩集






小熊秀雄詩集

小熊秀雄詩集





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2005年8月 2日 (火)



 読売新聞8月1日付朝刊からはじまった特集記事「膨張中国 第1部 新ナショナリズム」」は、かなり面白い内容です。総力取材で中国の行方を追う内容で、第1回の昨日は、1面トップで「反日デモ 1人も許さず」、6面で「民衆との衝突 恐れる党」という、反日デモと民衆、中国政府、そして日本政府の関係を報じたもの。


 8月2日は、1面が「ネット管理『鉄の長城』」、6面が「ネット世論 まるで津波」という記事。ネットが中国で、「都会から地方へ。エリートから大衆へ。広大な中国全土に目に見えない網が広がる。何の接点もなかった人と人をつなぎ、長い間、自由な移動も情報交換も許されなかった社会のあり方を変えようとしている」実情が、ていねいに論じられています(8月2日付朝刊6面)。


 先日、TBSテレビの討論で、中国に詳しい加藤紘一さんと中国が嫌いな安倍晋三さんが靖国問題を話していました。加藤さんは靖国慎重派、安倍さんは強硬派です。まったく論点がかみ合っていなかったのが印象的でした。加藤さんは、天皇の戦争責任が不明確なことが、靖国問題の発端であることを主張し、そんなあいまいな状況で首相が靖国公式参拝をすることに、外交上のメリットはない、といっていたような気がします。それに対し安倍さんは、戦争責任うんぬんは過ぎたことであり、現実に戦没者がまつられ、その遺族もたくさんいるのだから、首相の靖国公式参拝は問題ないとの見解。憲法第9条の解釈と同様に、既成事実化しているんだからいい、ということですね。さらに安倍さんは、中国が靖国問題にこだわるのは、外交戦略上のカードを増やしたいからだといい、そんな目的で靖国を使うのは不当だから相手にしなくていい、ともいっていたような気がします。


 これを聞いていて、私は加藤さんを見直しました。目先の票田や利権に目をとらわれず、日本にとってベターな選択は何なのかを、けっこうまじめに考えている政治家なのだなあ、と思いました。元外務相チャイナスクール出身であることを割り引いても、バランス感覚のある発言をしていました。一方の安倍さんは、イデオロギッシュでつじつまの合わない発言を連発していたのが目立ちました。


 これからの日本。いかにして中国とWIN×WINの関係を築けるのか、ということが、何よりも重要な外交上の問題だと私は思っています。WIN×WINの関係を築くためには、どれだけお互いの妥協を引き出せるのかが重要です。妥協を引き出すためには、相手の社会の実情を知る必要があります。それは政治家だけでなく、私たちにも課された宿題です。なにしろ、中国とのWIN×WINの関係を築き、東アジア情勢の安定と繁栄を目指す政治家を選ぶのも、中国との関係なんてどうでもいいけど、戦没者遺族会という票田を確保して連続当選を目指すだけのアホな政治家を選ぶのも、私たちなのですから。


 そういう意味で、読売の特集記事は、中国と日本との関係性を考えるうえでの出色の資料になりそうです。カンボジアで知り合った中国通の読売記者は、とても優秀で取材力のある人でした。読売国際部には、「憲法改正読売試案」などに関心のない、優秀で心のある記者が確実にいます。


 ぜひ読んでみてください。


※テレビでの加藤×安倍対談については、大筋では上記のような発言をしていたと思います。とはいえ、覚えている範囲で書いたので、間違った部分などありましたら、ご指摘くださいませ※


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2005年8月 2日 (火)



 pipiさん、貴重なコメントをありがとうございました。毎度ながら、コメントへの返答が長くなりそうなので、ブログ本文にて応答いたします。


 pipiさんの書かれたものが、北田さんの「作品」への、ある種の愛情のようなものを前提として書かれていることは、私に伝わってきました。世代論を書いている著者が、世代論で斬られるのも、これはいたしかたない。


 とはいえ、「●●年生まれの世代は……」とザックリ分別したうえで、その世代の空気や気分にどっぷりと、北田さんが浸かっているのかどうかは、あの本を読んだだけではわかりませんよね。たとえば、私は1964年生まれの世代なのですが、90年から10年以上も日本で暮らしていない(バブル経済が浮き沈みしていた最中)と、同世代の人びとが持つ世代の気分みたいなものが、あまり共有できなかったりします。で、共有できないのに、「お前も1964年生まれの世代だから、●●だねえ」といわれても、まったくしっくりきません。


 何がいいたいのかというと、世代論を論じる著者を世代論で斬るのはいいのですが、その斬った世代論に著者がどっぷり使っていたのかどうか、また著者に世代を代表させてよいのかどうかは、世代論で著者を斬るのとはまた別の次元の話であるような気がするわけです。


 最近、ブログなどで、北田さんと東浩紀さん、鈴木謙介さんを「やっぱ、あの世代のいっていることは同じだ」とか「いっていることが似ている」というようなことを、印象論で語っている人がいるようです。たしかに、彼らの言説のなかに共通する部分はあるものの、よく読めば三人三様です。三人を一色に染め上げるようなことを書いてあるのを読むにつけ、この書き手は三人の議論をちゃんと読み込んでいないのではないか、と思ったりします。


 まあ、以上のようなことを考えるかどうかは、人それぞれです。pipiさんのような世代論への対処もあろうし、世代論を斬る場合も著者の気分をすこしは想像しながら書いた方がいいという私のような考え方もあります。それでいいと思います。


 ただし、ここで私がいいたいのは、ただひとつ。北田さんが「●●年世代だから、■■だ」と論ずる場合には、やはり「どうしてあなたは『北田さんが●●年世代だから、■■だ』といいきれるのですか。その根拠は何なのですか」という問いに答えられる材料を準備しておく責任がある、と私は思います。そういう材料もないのに、印象だけで語ったり書いたりしたとたん、神の声になってしまうのだとも思います。こういった議論は、仲正さんの『なぜ「話」は通じないのか』にも通じるものかもしれません。


 勝手なことばかりいって申し訳ありませんが、pipiさん、今後ともご批評くださいませ。


 私がこんなことを「あえて」書いているのは、出版社の編集と著者との関係が、どんどん希薄化し、サラリーマン的なものに変貌しているからかもしれません。自分が担当する著者が、ブログで何を書かれようと、おかまいなしという人が、あきらかに増えています。一方で、大新聞や大雑誌への書評掲載に関しては、アホみたいに力を注いで取り組む。


 にもかかわらず、巷で氾濫する著者への罵詈雑言や中傷などについては、まったく干渉せずに、別の著者と飲んで騒いでカラオケやって、編集者ライフをエンジョイしている。または、一度にたくさんの企画を抱え込みすぎて、一人ひとりの著者への気配りをする時間が、物理的になかったりする。


 そんな関係であっても、著者は、大出版社から本を出すことにより、ネームバリューやら印税やらのメリットを享受したりするため、そんな編集とも付き合う(宮台さんのように、そういう方がたとは付き合わないし、そういう出版社からは本を出さないという稀少な人も、ときどきいます)。もちろん、そうじゃない編集者もいますが、サラリーマン的な人が増えているという傾向は、間違いなく進んでいます。


 私は、そうはなりたくないなあ、と思っています。これはカンボジアで感じたことですが、「肩書き」の問題と関わってきます。カンボジアの農村で調査をするときに、「肩書き」は一切、通用しません。私が「神奈川大学の大学院生です」とか「NHKのリサーチャーです」といっても、彼らは「はあ?」といっておしまいです。「肩書き」が通用しない世界で人間関係を取り結ぶときに、もっとも重要なのは、パーソナリティーだといえます。楽しい会話ができるか。共通の話題があるのか。表情や振る舞い、服装、持ち物など、「肩書き」とは関係ないことばかりが重視されたうえで、彼らは私を認めるかどうかを判断します。


 これは、けっこうキツいことです。日本だったら、難関試験を突破して、K談社に入り、著名人に本を書いてもらおうと思ったら、「K談社の●●です」といえば、その著名人はけっこう会ってくれたりします。逆に、著者がその人と関係を取り結んでいるのは、その人がK談社の人だからなのかもしれません。でも、そのK談社の人がカンボジアにいって、「K談社の●●です」といったって、まったく無意味なのです。


 このように、日本では重視され、重宝する「肩書き」が、日本を一歩出てしまうと「あまり意味ないじゃん」ということがわかってくる。それがわかってくると、人間関係を「肩書き」ではなく、パーソナリティーで構築するクセがついたりします。パーソナリティーで付き合うということは、全身で付き合うということです。そして、こちらが全身で付き合うと、相手も全身で答えてくれるような傾向があります。当然、こちらが全身でも、相手が半身ということもありますが……。


 で、全身で付き合うということは、「肩書き」経由のサラリーマン的な付き合いをするのではなく、もっと相手にコミットしたかたちで付き合うということなのだと思います。ノスタルジーに浸るわけではありませんし、浸るほど出版の歴史を知っているわけではありませんが、著者と編集の関係とは、以上のような全身をもってする付き合いであるような気が、私にはしているのです。


 そんなわけで、私は北田さんの本の書評に対して、あえて以上のようなことを書いている次第です。


 ちなみに、この「肩書き」問題は、日本における「世間」の問題と深く関わりがあります。そして、阿部謹也さんの「世間」へのまなざしは、私たちも共有しなければならない、とても重要なものだと考えています。そのうち「世間」に関する本も、かならず出そうと思っています。


 そういえば、その昔、大橋巨泉の「こんなものいらない」なんて物議をかもした番組がありましたね。まさに「世間」は、「こんなものいらない」です。



「世間」とは何か

「世間」とは何か





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2005年8月 1日 (月)



 葉っぱさんのブログで、北田さんの本が取りあげられていました。


 http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20050801


 同ブログを起点にして、『嗤う日本の「ナショナリズム」』(以下、『嗤う』)の書評をいくつか拝読しました。それで、ふと、書評って何なのだろう、などと考えてしまいました。


 まず、それぞれの書評は、とても的確に北田本の特徴を指摘されていると思いました。しっかりと読んだうえで書かれているのが、よくわかります。私自身、同意した部分が多かったのも確かです。


 だがしかし……。疑問に思うところも、いくつかありました。今回は、ただ1点にしぼって、疑問点を書いてみます。


 その疑問は、書評なのか「個人の評価」なのかの境界が、あいまいな「書評」がある、ということです。


 当たり前のことですが、本(とりわけ人文系の学者が書く本)というのは、著者が身を削り、考え抜いて、「その時点での」見解を書きつづったものですよね。とはいえ、いくら考え抜いても、限られた範囲で論点を整理しなければならないので、説明不足な部分が絶対に生じます。ということは、それが生じることにより、批判されたり批評されたりするのが目に見えていながらも、書き手は勇気を振り絞って、あえて本を出しているといってもいい。不満あり、不安あり、不足あり。それでも、あえて出す。


 したがって、読者が実際にその本を読んでみた結果として、その本に対する不満や不足をいったり書いたりするのは、当然のことだと思います。また、「作品」の範囲内での不満な点や不足な点を読者が指摘した場合、たいていの著者はそれを謙虚に受けとめることでしょう。問題点を指摘されて、それに反応したり改めるのかどうかは、著者が学者である場合、人それぞれとしかいえません。間違いが露呈しても、意地になって改めようとしない人もいるし、間違いを聞き入れて、議論を修正する誠実な人もいます。(すくなくとも双風舎の著者は、後者だと自負しております)


 さて、ここからが私の疑問です。著者が「その時点での」思いや考えを記した「作品」としての本を評する場合、「あの世代はこうだから……」といった世代論や、「彼は何人家族で、田舎から上京して大学に入り……」といった出自に、あまりに引きよせすぎるのは、どうなのでしょうか。


 書評とは、著者の「作品」を評するのが本来の目的ですね。著者だって、すべて「作品」のなかで勝負しているわけです。ならば、その「作品」を真っ向から評するためには、ほんとうは評する側も「作品」で勝負しなければ、イーブンの関係にはならないでしょう。でも、「作品」で勝負できる評者など、現実的にはあまりいないであろうからこそ、その代替案としての書評があるのだと私は思っています。


 すなわち書評とは、本来は「作品には作品を」で批評し合うべきものを、それが物理的に困難な場合に、評者の側が「作品を書く」という行為をショートカットして、「作品」の代わりに提示するものなのだと思うわけです。言い換えれば、著者は本という「作品」で勝負して、書評を書く人は「作品」の代替としての「ショートカットした作品」で勝負する、ということになろうかと思います。


 そうだとすれば、「その時点での」思いや考えを記した「作品」を評する側は、その「作品」の議論の範囲内で、「その時点で」の思いや考えを慎重に述べるのが筋だと思います。評する側が、いま述べたような最低限のリテラシーを失った場合、それは書評ではなく、単なる「書評」になってしまうような気がするのです。(書評と「書評」の違いは、以下で説明します)


 評する側は、いつも安全地帯にいて、何でも書ける神様の視点を持っています。たとえば、誰かが北田さんの出自を「想定」して書くこともできる。北田さんの世代がどうだからと、一般化して書くこともできる。それが事実であろうとなかろうと、何でも書けてしまうのです。「作品」の範囲に踏みとどまらずに、神様の視点で書きたいことが書かれたものを、ここではカッコつきの「書評」としておきましょう。


 本を読んで、生真面目にその本を評するのだから、その評者には真剣に著者と向き合ってもらいたいなあ、と思ったりします。北田さんの『嗤う』は、とても禁欲的に書かれた本だと私は思います。もっと詳細に述べたい部分もあっただろうし、読者の誤解をまねくおそれがあるのを承知で、出してしまったところもあろうかと思います。自分のことをしっかりと説明したうえで書く意志もあっただろうし、自分の世代の傾向とみずからの生き様の違いも、もっと説明したかった部分もありましょう。


 それでも、あえて、北田さんはあの本を世に出しているわけです。そんな彼の「作品」を、本来は評者が「作品」で勝負するべきなのに、「ショートカットした作品」で勝負するのですから、評者の側も説明不足になりがちなのは自明です。だからこそ、評者は、説明不足になりがちな、みずからの批判や批評については、著者の禁欲的な意向を意識しつつ、慎重に記すべきだと私は思います。評者の側も、禁欲すべきは禁欲しないと、知らぬ間に神様の発言になってしまいます。私にいわせれば、神様の発言は、書評ではなく「書評」なのです。


 くどいようですが、もう一度書きます。結局、一冊の本を評するのには、本来ならば一冊の本でおこなうべきところを、ショートカットしたうえで、評者は書評を書かれますよね。ならば、説明不足を覚悟でショートカットするわけですから、批判したり反発する記述に関しては、慎重に書いたほうがいいと思うのです。


 そういう意味で、「北田さんの世代は、こうだから……」と安易にバッサリ斬ったり、「北田さんの出自は、こうだから……」と安直にバッサリ斬ったりするような書き方は、北田さんのことをよほどよく知っているという場合を除いては、する必要がないのではないか、と思うわけです。評する側が、それくらいの禁欲をしたって、いいのではないか、と思うわけです。だって、そんなことをいいだしたら、「作品」対「ショートカットした作品」としての品位が、確保できないじゃありませんか。


 一部の『嗤う』の批評を読んでいて、「書評」で「個人の評価」をするのではなく、書評で「作品」の評価をしてほしいなあ、と思いました。さらに、書評に「神様の視点を持ち込まない」というリテラシーが必要なのではないか、とも思いました。それが今回、もっとも私がいいたいことです。


 ここまで読まれて、「品位なんてどうでもいい」とか「自己満足の自己責任で書いてるんだから、いいじゃん」と思っている方の「書評」は、すくなくとも著者には届かないと思います。また「本をみんなに紹介する目的なんだから、著者に届かなくてもいい」という方がいるかもしれませんが、それはちょっと無責任なスタンスだといわざるを得ません。だって著者も、そうやって書かれる書評という「ショートカットした作品」の読者のひとりなんですから。


 以上、「書評」ではなく書評が読みたいなあ、と思う私の戯れ言でした。「こんなことを書いているお前は、北田のシンパなんだろう」といわれれば、「そうです」と答えざるを得ません。以下、最大級に照れくさいことですが、あえて書くことにいたします。


 傲慢な言い方になりますが、私は彼の今後に、大いなる期待をしています。期待する最大の理由は、これまでの短い付き合いのなかで、彼が単なる「頭でっかち」ではない、という確信に近いようなものを持てたからです。


 北田さんは、まだ30歳代なかば。重箱の隅(それも根拠のない空箱)をつつくのではなく、長いスパンで言動を見守っていこうではありませんか。「書評」ではなく、書評を書けば、彼もきっと反応してくれると思いますし。そういう人です、北田さんは。


 北田さんには迷惑なのかもしれませんが、「この人、面白そうだ!」と思ったら、徹底的につきまとう。銀蝿と呼ばれようが、小判鮫と呼ばれようが、くっついていく。それが編集屋の性(さが)でござんす。ただし「この人、面白そうだ!」と思ったからといって、その人の考え方にすべて合意しているわけではござんせん。肝心なのは、何かを「共有」できていることなのでござんす。


 では、異論反論、お待ちしております。


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