双風亭日乗

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2005年9月30日 (金)



 というわけで、私は東京生まれの神奈川育ちですが、「掛布・バース・岡田」で優勝して以来、阪神タイガースのファンです。だからといって「阪神寄りだから、双風舎の本は買わないぞ」なんていわないでくださいね。できれば。まあ、阪神ファンであることを告白し、それで本が売れなくなり、会社がつぶれてしまっても、とりあえず優勝してくれたから「よし」としましょう。(笑)


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2005年9月30日 (金)



 『デリダの遺言』は、再校の直しまで終了。一応、来週になったら念校をとって確認。最初の校正が初校、つぎが再校。さらに念を押す場合には念校をとる。カバーやオビの進行も順調。ほぼ予定どおりの発売が確定。


 『限界の思考』。第一章と四章、五章の再校が終了。第二章と三章の再校待ち。来週末の入稿まで、まったく手が抜けない。山場は超えていないが、なんとかなりそうな目途はついてきた。MさんKさんモリモト印刷さんデザイナーさん、ありがとうございます。ツカ見本(実際に使用する用紙で、カバーなしオビなし本文なしの見本をつくったもの)が届く。456ページだが、今回は薄めの紙を本文に使うので、ツカ(厚さ)は21mmくらい。宮台さんの本だと、『透明な存在の不透明な悪意』(春秋社刊)と同じくらいの厚さになる(ちなみに同書は282ページ)。重量感あり。


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2005年9月30日 (金)



 先日、拙ブログで紹介し、コメントまでいただいた、白田秀彰さんと国立で会いました。情報、著作権、ハッカー、アーキテクチャー、大学、自由などをキーワードに、刺激的な話しを聞くことができました。


 いつ出すのかはわからないけど、とりあえず双風舎から本を出していただくことに仮同意していただきました。(あくまでも仮の同意です)。とはいえ、本の装丁については、本文執筆前に決まりました。(謎)


 フツーは、原稿を読んで、イメージを膨らませて、デザイナーと相談してから装丁を決めるのですが、たまにはこういう展開があってもいいでしょう。


 白田さん、いま注目すべき論客だとつくづく思いました。


 ※白田webページのコスプレ写真にも大注目です! (笑)


  http://www.welcom.ne.jp/hideaki/hideaki/profile.htm


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2005年9月28日 (水)



 そういえば、月曜日、ひさびさに神奈川大学で授業をしてきました。経済学特講なるコマで、アジア各国を研究対象にする研究者(および私のような研究者もどき)が、だいたい1カ月ずつ講義を担当します。私は10月担当。


 編集屋というアコギな商売をやりつつ、「カンボジア社会経済論」などというタイトルで大学生向けに講義をしているのですから、いかにも胡散臭いですね。それに、このブログで書いているように、編集作業で死ぬほど忙しい時期ですから、ほんとうにまいりました。


 とはいえ、そんなことをいっていると学生さんに申し訳ないので、一応、ポルポト時代の虐殺を事例にしつつ、「どうなると人には、人を殺してしまうスイッチが入ってしまうのか」などということを考えてみようと、準備をして講義にのぞみました。


 非常勤は今年で3年目になるのですが、毎年初回は自己紹介で終わってしまいます。今回びっくりしたのは、受講している学生さんのなかに、カンボジア人がいたということです。授業が終わったときに、いきなりカンボジア語で話しかけられて、驚きました。


 お父さんがタイの難民キャンプ経由で日本に来て、その数年後、それを追いかけて残りの家族が来日したそうです。滞在13年目とのことですが、日本語はとても上手でした。でも、日本で暮らすのは、けっこうたいへんだと思います。


 アジア人ですと、いまだに根強い差別が学校などであるし、逆に「あなたたちを助けてあげよう。共にこの社会で生きよう」などといいながら、人助けと自己満足を取り違えているボランティアやらNGOの人がたくさん接近してくることでしょう。


 日本人、基本的にアジアの人(や中東の人)たちに対して冷たいですからね。


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2005年9月28日 (水)



 先日の予告どおり、MIYADAI.comに宮台さんによる『限界の思考』のあとがきがアップされました。まるで「こんなに面白い本なんだから、買わなきゃ損ですよ」と書いていただいた(もちろん隠喩として)ようで、誠に恐縮しております。


 以下で読めますので、ぜひご一読ください。



宮台真司・北田暁大著『限界の思考』


あとがき ――世代的文脈の特殊性に言及して普遍性を調達しようとする冒険的試み――


by 宮台真司


http://www.miyadai.com/index.php?itemid=308



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2005年9月28日 (水)



 ゲラが500ページ分くらいやってきました。この2日間で、寝られたのは3時間くらいです。このペースが、あと2~3日はつづきます。来週は、もっとすごいことになりそうです。とにかく2冊同時刊行の不可能性を克服し(宮台的表現! ゲラの読みすぎですなあ……)、停滞した日本の言説空間に風穴をあける(北田的表現! 何を書いているんでしょう、私は……)ため、粛々と作業をすすめます。


 あとすこしです。


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2005年9月25日 (日)



 自称イカサマ・アナウンサーの松浦大悟さんが「不機嫌な日常」というブログをやっています。双風舎の著者の情報などがひんぱんかつていねい更新され、とてもお世話になっています。


 本日付の同ブログは、「『労働組合』という名のエゴ」というエントリーです*1。松浦さんは、月刊『マスコミ市民』に掲載された新聞労連委員長の美浦克教さんのインタビューをとりあげ、そのエゴさ加減を批判しています。


 同委員長の記者クラブも再販制度も必要だという話を読むと、かつては組合の良心ともいわれた新聞労連が、すでに労使一体化の荒波にすくわれ、護送船団方式の護持と保身に走り、もはや良識を失いつつあることがよくわかります。


 記者クラブの弊害については、宮台さんや神保哲生さんが何度も何度も指摘していることなので、ここではくわしく触れません。すでに市民(なんて言葉を使うのもイカサマくさいですね)から理解を得られそうにないと指摘しつつ、再販制度は必要だというのは、まったくもって会社側(業界側)の論理を代弁しているにすぎず、会社様があっての組合だということを、新聞労連委員長が素直に認めているとしか読めません。


 すこし脱線します。昨日、東大の安心・安全セミナーで、法政大学社会学部助教授の白田秀彰*2さんが「知的財産権/プライバシーの危機」という講義をしてくれました。とても面白かった! ご本人は「暴論」といっていたけれど、私には「正論」に聞こえました。レジュメのまとめ部分を引用します。



知的財産権/プライバシーの危機


情報社会への移行に伴って、「知的財産権やプライバシーが危機に晒されている」という言説が流布している。しかし、これへの対処が、知的財産権の強化やプライバシー保護の法的・制度的強化と結合するとき、情報社会への官僚組織による支配を強化・正当化する結果となる。


過度に「知的財産権/プライバシーの危機」を煽ることは、情報社会の民主的統治にとって、危険である。


問題は、ユビキタス社会を駆動する機構が、a 官僚組織によって支配されるのか、あるいはb ハッカーによって支配されるのか、である。統治に関心をもたない一般の人々は、いずれにしても被治者としての利益と不利益を享受するのであるから、問題は、いずれの統治形態が*マシ*であるのか、ということである。


aの支配については、事前的予測も事後的検証も困難であるが、bの支配については、事前的予測も事後的検証も容易である。ゆえに、論者は民主的な統治を可能とするbの支配のほうが望ましいと判断する。



 とても挑発的で、興味深い内容の講義でした。とりわけ、ふたつの論点が印象に残ります。ひとつめ。わいせつなものであれ何であれ、すべての情報は自由に公開されるべきであり、それが公開されることが「危険だ」という言説は、基本的にマユツバであること。これは、宮台さんがつねづねいっていることにつながります。ふたつめ。知的所有権だ個人情報保護だといっているが、その根拠となっている「法」というものは、フィクションで成り立っているということ。これは、仲正さんがしばしば指摘していることだし、宮台さんもいっていますね。


 さて、ここで話しを戻しましょう。セミナーに参加した某新聞の記者さんが白田さんに、新聞報道のインターネット化が進んでいるが、この先、紙媒体のメディアとしての新聞は生き残っていけるのか、という質問をしました。白田さんいわく、メディアというものは古くから栄枯盛衰を繰り返しているものであり、とりわけ紙媒体のメディアは発展しては滅びるという道を歩んできた。インターネットで各種の無料情報を読む人が激増するなかで、おカネを払って紙媒体の新聞を買う人は、減少の一途をたどることになろう。新聞がなくなる日に備えて、「有能な記者」という「個人」を「ブランド」として市場に売り出せるような準備をしておいたほうがいい。そういう主旨のことを、白田さんはいっていました(以上の白田発言の引用は、あくまでも私が聞き取った範囲で、かつ私の文責で書いています)。


 私も白田さんの予言(!?)は、かなり現実化するような気がします。白田さんは、出版については、「本」という「もの」が人びとの「所有欲」を満足させることから、今後も生き残る可能性がある、といいます。薄っぺらい紙としての新聞は、おそらく人びとの「所有欲」を満足させることができない、ということです。


 で、白田さんからこうした新聞の明るい未来(!?)が提示されると、なぜ新聞労連の委員長が、護送船団方式の記者クラブ制度と、利権確保の再販制度を護持すべきだというのかが見えてきます。保身ですね。組合員の権利がどうのこうのというよりも、利権を確保しないとみずからの生活自体がたちいかなくなる可能性がある。会社あっての組合なのだから……。そういう危機感が感じられます。いまは、個々の大新聞の記者さんたちに、そんな危機感はないのかもしれませんが。そのうち大波がやってきますよ~。NHKみたいな。


 ちなみに私自身は、「それは甘い」と指摘されるのを覚悟でいいますが、再販制度は廃止してもいいのではないかと思っています。現状では、あくまでも「……のではないか」というふうに逃げざるを得ませんが、出版流通の利権を取り払い、もっと自由なかたちにすれば、おそらく読者には、いまよりメリットのあるかたちで本を届けることができるような気がします。あくまでも「気がします」と逃げておりますが……。再販制度維持を掲げる言説は、なぜか「逃げ口上」に聞こえますし、「少部数の良書が世に出回らなくなる」などと主張する大手・中堅出版社の方の言葉は、なぜか空疎かつマユツバに聞こえてなりません。利権保持のための安全地帯からの発言、とでもいいましょうか。 


 このブログを読んでいただいている方がたの、新聞の未来や記者クラブ制度、再販制度に関するご意見をお聞きしてみたいものです。


 



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2005年9月24日 (土)



 気をつけて書かないと「炎上」しそうなネタなので、気をつけて書きます。


 いま私は、マイルドセブン・ライトというタバコを吸いながら、『限界の思考』という本の校正をしています。わが賃貸アパートは3部屋あって、そのうちの1部屋の、さらに半分のスペース(約3畳)が双風舎の居場所です。わが家でタバコを吸えるのは、双風舎が含まれる部屋だけです。そうしている理由は、タバコの煙が、子どもの健康に悪影響をおよぼす可能性があるからです。


 外出時には、携帯灰皿を持っていきます。歩行喫煙が条例で禁止されている市区町村にいるときには、外でタバコを吸いません。禁止されていない市区町村にいるときには、できるだけ人のいないところで、タバコを吸います。食堂や喫茶店では喫煙席で吸い、昨日いった動物園では喫煙所で吸いました。


 他人と珈琲を飲んだり食事をしたりするときには、まず相手に喫煙可能かたずねてみて、可能であれば吸うし、不可能であれば吸いません。で、ほんとうは吸ってほしくないのに「吸っていいですよ」という方も多いので、そういう雰囲気を察知した場合には、吸わないことにしています。


 思い起こせば、カンボジアに滞在した10年間で、20回以上、プノンペン~東京間を飛行機で往復しましたが、いつのまにか喫煙席がなくなっていました。途中で立ちよるタイのバンコクでは、立ちよるたびに全面禁煙の場所(レストランなど)が増えていて、驚いたおぼえがあります。


 さて、禁煙・喫煙問題。私は、タバコを吸わない方に配慮をしたうえで、地域や場所の方針を尊重する、すなわちマナーを重んじたうえでタバコを吸うぶんには、何ら問題がないと思っています。


 なんでこんなことをいきなり書いたのかというと、以下の投票結果およびコメントを読んだからです。


 http://hotwired.goo.ne.jp/webvoter/


 いとうせいこうさんがやっているこの投票システム自体は、とても面白いものだと思うし、いろんな意味で参考になります。だがしかし、現在の投票テーマである「あなた的には、『喫煙』ってどう?」の投票結果(現在進行中)には驚きました。「禁煙がいいに決まっている」の投票数が、圧倒的に多い。そして、「禁煙がいいに決まっている」に投票している方たちのコメントを読んで、また驚きました。喫煙者が非喫煙者に、これほど嫌がられているとは……。


 まあ、嫌がられていることを自覚しつつ、しっかりとマナーを尊重したうえで、今後も私はタバコを吸い続けるわけですが……。「炎上」しないように気をつけながら、ただひとつだけいいたいことがあります。あまり酒が好きではない私にとっては、「禁煙がいいに決まっている」に投票した方のコメントの「喫煙」を「飲酒」に入れ替えると、「禁煙派」の言い分のほとんどに同意できてしまう、ということです。


 けっして免罪符的にいうわけではありませんが、酒にしろタバコにしろ、嗜好品にはある種の文化があるわけでして……。合理的な考え方を突き詰めれば、きっと酒もタバコも、いまごろは世の中から消滅しているような気がします。いま酒を飲んだり、いまタバコを吸ったりしているのには、合理では割り切れない何かがあるからなのでしょう。


 「だからタバコを吸ってもいいんだ」などというつもりは、まったくありません。でも、あまり強硬論を振りかざしていると、それが違うネタで、ブーメランのごとく自分に返ってきてしまうこともありえるわけでして。そのへんの微妙なさじ加減をお互いに気づかいつつ、世の中はまわっているような気もするわけでして……。


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2005年9月23日 (金)



 ご近所の書店で、双風舎の本も置いてもらっている千駄木・往来堂書店のオイリ店長が、はてなでブログをはじめました。店長の視点は、編集屋としても参考になるし、書店人や読書人にも、きっと参考になることが多いことでしょう。


 http://d.hatena.ne.jp/oiri/


 ぜひ一度、訪ねてみてください!


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2005年9月22日 (木)



 Mさんから「あとがき」の原稿が入る。おそらく私は、筆者の次にそれを読んでいるわけだが、『挑発する知』をつくっているときに、姜さんの「あとがき」を読んだときと同じような感動をおぼえた。売れる売れないは抜きにして、「この本をつくって、よかったなあ」としみじみ感じた(編集屋の自己満足を垂れ流しているようで、申し訳ありません)。この「あとがき」は、近日中にMIYADAI.comで公開されると思うが、それに先行して「あとがき」のなかの数行だけ、以下にコピーしておこう。Mさん、お許しくだされ。



 でも、まさかこうした対談集になるとは思っていなかった。当初から決めていたのは、「自分の思考と実存との関係について徹底して語る」ということだった。結果的にみれば、私自身はこれ以上あり得ないほど語りつくした。その意味で、まるで遺作のごとき趣きだ。



 このMさんのコメントを読んでいただければ、もう『限界の思考』の内容の詳細を説明する必要はあるまい。本文には、長らくお待ちいただいた分の付加価値が、十分に盛り込まれている。偉そうな物言いになってしまうが、MさんもKさんも、ほんとうによく喋り、よく書いてくれたと思う。


 今週末からは、怒濤のゲラ読み作業が待っているが、そんなことはどうでもいい。あとは、できるだけ早く、確実に、読書人や書店人のもとへ『限界の思考』を届けることが、私の使命だと思う。


 みなさん、あとちょっとだけ、お待ちください。


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2005年9月19日 (月)



 土日は、近所の根津神社の祭だったが、来年が大祭とのことで、いまひとつ盛り上がりに欠けていた。


 『限界の思考』。届いた原稿のチェックを済ませ、印刷屋に送る。のこりはMさんの「あとがき」のみ。これは、最悪の場合でも、入稿の直前に入れればどうにかなる。とにかく本文のすべてをゲラにすることができて一安心。ここ数ヶ月で、Mさんには80枚くらいファックスを送ってしまった。ファックスの内容は、催促がメインなのだが、身辺雑記を記したり、フォントやデザインを変えてみたり、けっこうバラエティに富んでいる。もし連日、似たような内容とデザインのフィックスが送られてきたら、自分だったら嫌になってしまう。それにしても、7月刊行予定の期日をしっかりと守ってくれたKさんには、刊行が遅れてしまい、ほんとうに申し訳ないことをしてしまった。今度、谷中で一杯おごりますので、お許しくだされ。両筆者による怒濤の加筆のため、頁数が400を超える見とおし。原価が増えてしまうが、いろいろ調整して定価は税込み1995円に抑えるつもり(どうしても無理だったら、100円くらい上がってしまうかもしれません)。構成もすこしかわりました。以下、最終稿の目次を貼り付けておきます。目次だけで、こんなにたくさんあるんですよー。



宮台真司・北田暁大著


『限界の思考』


目次


まえがき  北田暁大


第一章 空虚な時代を生きる


 一 保守思想を考える


  あえてするコミットメントと保守主義の台頭


  崩壊するコミュニケーションの地平


  ホンモノの右翼と保守


  左派によるロマン主義への繊細な考察


  人間の理性は世界を覆えるのか


  私たちが物事をまじめに考える動機


 二 アイロニー、ロマン主義、そして社会学


  思考のパッケージとしてのハーバーマス=ルーマン論争


  社会学とロマン派とアイロニーの結節点


  天皇論を持ち出すことの本意


  ロマン主義とは何か


  「超越系」と「内在系」


  認識上の転向、実在上の非転向


  形式を反復するロマン主義の罠


  アイロニカルな社会学が立ちあがる土壌としての日本


  この空虚な時代を、どう色づけしていくのか


第二章 文化を記述する方法


 一 「価値自由」とは何か


  あえてウェーバーの価値自由を提唱する


  理論家/実践家としての廣松渉


  上野千鶴子という非還元主義者


  私が社会学者になった理由


  「理論家」宮台と「文化社会学者」宮台は断絶しているのか?


  日本のカルチュラル・スタディーズの問題点


  いまなぜ「政治の季節」を語るのか


  人はなぜ全体性に惹かれるのか


  政治への意志を社会と接続していく


 二 文化を研究することの意味


  流動性への抵抗力を供給するサブカルチャー


  認識は脱政治的に、実践は政治的に


  カルチュラル・スタディーズのあるべき姿とは


  非還元論的な文化研究をめざす


  文化を記述することの難しさ


  社会学的な想像力を磨く


  モードの変化に気づく力を養う


  反省を分析する手法の開発が求められている


  限界の思考


第三章 社会学はどこへ向かっていくのか


 一 「意味なき世界」とロマン主義


  人間であり続けることは、どういうことなのか


  ロマン的なものと動物的なものが反復する社会


  近代システムの特徴としての再帰性


  ロマン主義再考


  日本は思想の全体構造を見わたしづらい?


  かつて想像された全体性がよみがえる


  「意味なき世界」を肯定するような習慣


 二 「脱呪術化という呪術」の支配に抗う


  人間は壊れているという自覚


  乾いた語り口が切り開く思考空間を求めて


  ローティの「反思想という思想」


  虚構のうえに成り立つ近代社会という前提


  社会学者はいま、何をすべきなのか


  保守主義と構築主義というふたつの武器


  超越への断念と批判への意志を貫く 


第四章 アイロニーと社会学


 一 戦略的アイロニズムは有効なのか?


  時代とともに変化するアイロニーの構造


  ポスト八〇年代をどう見るのか


  日本には「消去しきれない理念」がない


  オブセッションが人をどう駆動するのか


  大澤真幸の単純さ


  アイロニーがオブセッションへと頽落する戦後サブカル史


  戦略的アイロニズムはオブセッションへの処方箋


  オブセッシブな後続世代は、先行世代の餌食


 二 楽になるための歴史と教養


  若い世代は軽いようで重い


  教養という旅をした世代、旅ができなかった世代


  八〇年代を退落の時代と位置づけてよいのか


  視界の透明性が存在しない後続世代


  歴史地図のなかに価値を滑り込ませたくない


  七〇年代的アイロニーを再評価することの危うさ


  歴史をとおして自分の位置を確認する


  強迫性を解除するための方策とは


第五章 限界の思考


 一 全体性への思考と専門知


  治療としての歴史記述


  奇妙なかたちで流用される専門知


  何が道具で何が知識なのかを考える


  教養主義者としての蓮實重彦


  依拠すべき参照項の消えた時代


 二 社会の操舵が困難な時代 


  いまこそギリシャ哲学に学べ


  分析哲学を見直す


  オースティン、サール、そしてデリダ


  何を意図しているのか、はじめに話してしまったほうがよい


  宮台アイロニーへの思い違い


  『歴史の終焉』という終焉を生きる


  啓蒙の対象はエリートなのか大衆なのか


  合理性のない欲望が肥大化する日本社会


  国粋はかならずしも、愛国の体をなさず


  公共的であることの困難


あとがき  宮台真司



 『デリダの遺言』。初校の直しは終了。印刷屋に送る。Nさんは、マジで仕事が速い! 助かります。


 来週なかばから再来週はじめにかけて、ふたつの本のゲラ(合わせて約700頁分!)が届く。届いたら、また寝られなくなる。とはいえ、ゲラが来るまでは、営業をちょこちょこやって、デザインまわりを確認するくらいの作業量(あっ、11月12月の仲正×北田トークの構成も考えねば)。というわけで、今日から2泊、家族で軽井沢にいってきます。おそい夏休みということで。


 中秋の名月。美しかったなあ。


 


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2005年9月18日 (日)



 ようやく『限界の思考』の原稿がそろいました。やった、やった! これで10月20日に、仲正さんの『デリダの遺言』とともに出せそうです。ほんとうにお待たせしてしまいました。


 お待たせしただけの内容のものが、できそうな予感がします。ちょっと大げさかもしれませんが、議論の中心が社会学となっているものの、その他の人文系学問も含めた「知の最先端」を、現状で語れる範囲で1冊に凝縮したようなものになりそうです。


 北田さんが「まえがき」で記していますが、本文はすでにトーク起こしの原型をとどめていません。書き下ろしの往復書簡とでもいうべき、質と分量になりました。それにともない、いま公表している「目次」にも、大幅な変更がありますので、一段落したらお知らせいたします。


 『限界の思考』といい、『デリダの遺言』といい、日々の作業はたいへんですが、発売日が近づくにつれて、胸がワクワクしてきました。以前に書いたとおり、私は「編集作業」自体があまり好きではありません。でも、この2点のような面白い原稿を、誰よりも早く読めることの喜びは、文章では表現できません。編集屋冥利につきる、の感ありです。


 いずれにせよ、この面白さを早く書店人や読書人の方がたとともに味わいたい。そう強く思いながら、作業をすすめることにします。


 


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2005年9月17日 (土)



 内田さんによる痛快な「コバンザメ」批判です。「現代思想」業界もけっこう似たような状況であるように思えるのは、私だけなのでしょうか?


 http://www.tatsuru.com/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/1234


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2005年9月16日 (金)



 ゲラばかり読んでいると、集中しすぎて頭が痛くなる。そんなときは、テレビを観たり、週刊誌を読んだり……。


 そんなわけで、昨日発売の「ニューズウィーク日本版」を読んでいるわけです。メインタイトルが「ニッポンを変えた男」。徹底的した地方取材の成果により総選挙を分析した「ニッポン政治の夜が明ける」という記事。充実してたが不安を覚えると今回の総選挙を評した「選挙とハリケーンが残した教訓を学べ」という記事。いずれも面白かったです。すくなくとも、購読している「読売新聞」や「週刊文春」などとは比較にならないくらい、クールに総選挙を取材しているし、興味深い内容の記事を掲載しています。あと、ハリケーンが浮き彫りにした貧困層の実態をリポートした「アメリカ貧困の暗すぎる闇」も読みごたえあり。「週刊文春」にも「ハリケーン災害後進国 ニューオーリンズ潜入記」というルポが掲載されているけど、写真も記事も「ニューズウィーク」の圧勝。


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2005年9月15日 (木)



 2冊同時発売という、労力的にも経済的にも、ひとり出版社がやってはいけない禁断の果実に手を出してしまったことから、まずは労力的に、ただいまたいへんなことになっております。


 2冊分のゲラが机のうえに高く積まれ、それを1枚ずつアカ入れする日が、すでに3日くらいつづいております。睡眠時間は、1日2時間くらいでしょうか。


 先日、会計の方と話したのですが、考えてみれば双風舎は、昨年の決算月である8月から現在まで、たった2冊(『日常・共同体・アイロニー』と『冷戦文化論』)しか出していないことに気づきました。まさに気づいたという感じです。笑


 よく食っていけてるなあ、とつくづく思います。まあ、しっかりと売れる本を出して、無駄遣いをしなければ、刊行点数がすくなくても食っていける、ということなのかもしれません。


 では、ゲラ読みのつづきを。


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2005年9月12日 (月)



 『限界の思考』、第2章の原稿が入りました。残るは第3章のみ。予定どおりに発売できそうな「予感」がします。ほんとうにお待たせして、申し訳ありません。


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2005年9月12日 (月)



 雨模様であり、大澤×見田トークと時間が重なっていましたが、おかげさまで100人弱の方がトークを聞きにきてくれました。来ていただいた方がたに、感謝いたします。


 ロマン主義を中心とした議論をすすめる予定でしたが、北田さんからの『嫌韓流』という漫画の紹介を契機に、ネットでも盛んになっている「論破の論理」、そして右派と左派の話などが議論され、たいへん盛り上がりました。


 突然のことで驚きましたが、宮台さんには「観客」として参加していただきました。質問コーナーで講師のふたりに詰めよったりと、さらに盛り上がりました。


 もうすこし歴史的な部分に踏み込む内容を考えていたのですが、靖国問題や総選挙など、タイムリーな話題が続出したことから、私の想定外の部分が、お客さんにとっては楽しめる要素になっていたと思います。だからトークセッションは面白い!


 次回の日程は、ただいま調整中です。第二回が、11月の第2日曜日か第3日曜日。第三回は、12月の第2日曜日か第3日曜日を考えております。場所は同じく、三省堂書店神田本店です。


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2005年9月11日 (日)



 仲正本の初校が出ました。懸命に読んでいます。この本は、作業が順調にすすんでいるので、予定どおりに発売できそうです。しばらくしたら、装丁の写真を貼りつけます。一方、『限界の思考』は、いまだすべての原稿が集まらず……。これ以上の発売日延期は、読者や書店との信頼関係に影響すると思われることから、強力にプッシュしているのですが……。


 今日は、仲正さんと北田さんのトーク・セッションです。伝統は創造され、創造された伝統はロマン主義に転化する。そして、歴史はそれを繰り返す。なぜなのでしょうか。それをおふたりにたずねます。靖国神社問題や神道などを事例にしつつ、戦前から戦後の「伝統→ロマン主義」路線について考えます。他方で、ドイツと日本の「伝統→ロマン主義」路線を比較するためのツールとして、ナチスを取りあげたりもする予定です。企画者がいうのもなんですが、面白くなると思います。場所は、三省堂書店神田本店8F特設会場。時間は、16時スタート。費用は、500円。まだ残席がありますので、よろしければいらしてください。


 今日で同時多発テロから4年。何が変わって、何が変わらなかったのでしょうか。とても気になります。トークのメインテーマではありませんが、仲正さんと北田さんに聞いてみることにしましょう。私見では、いくらテロを防御したり抑止しようとしたりしても、テロリストの暴力は抑えられないものだと思います。巷でいわれるようなセキュリティー強化は、テロに関してはあまり意味をなさない。ならば、どうすればいいのか。テロリストがテロを起こす動機や契機が何なのかを考え抜き、その動機や契機をなくしていく方法を探ることしか、解決策はないのでは? まあ、これは簡単なことではありませんが。さらに「そんなこと日本の俺たちが考えたって、無駄だね」なんていいながらシニカルに思考を停止せず、マスコミ報道などを参照しながら、「あの事件って、何だったんだろうねー」と考え続けることが重要なのかもしれません。と書いてみたものの、今日の夜は各局そろってヨコ並びの選挙報道をするんでしょうね。1局くらい、同時多発テロの検証番組を放映したって、いいじゃないですか。


 今日の日本は、総選挙一色。はじめのうちは、テレビの選挙報道を観ていましたが、あまりにもどーでもいい映像が流れ、コメンテーターがどーでもいいことをいっている。だから、今週のはじめから、選挙に関する番組は、観るのをやめました。とはいえ、選挙の動向には関心があります。もう投票しましたし。とりあえず、郵政民営化に賛成か反対かは抜きにしましょう。自民党参議院で郵政民営化に反対票を投じた議員のうち、何人かが「与党過半数なら、郵政民営化に賛成」とかいってますが、これって政策詐欺を公表しているようなものですよね。ころころ色(政策)が変わるカメレオン議員ではありませんか。「過半数なら……」と様子を見ているのがズルいし、そのズルさを許容して、選挙戦略として利用している政党もズルい。カメレオン議員に投票した有権者は、いったいどう思っているのでしょう。「新幹線を通してくれるから許す」って話じゃないでしょう。


 どーでもいいことですが、缶コーヒーのCMで、和田アキ子の名曲「あの鐘を鳴らすのはあなた」を、サンボマスターがカバーしていました。なんか、嬉しかったです。この曲、私はカラオケで十八番にしています。


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2005年9月10日 (土)



 ワイドショーのネタチェックで毎日お世話になっている「★てれびまにあ」(http://tvmania.livedoor.biz/)というブログがあります。テレビ好きの私には、たまらない情報が毎日、提供されています。おそらくテレビ局の内部事情に、かなりくわしい方が書いているのだと思われます。ときおり書かれる批評の内容は、テレビ業界をかじったことのある私には、思わず「ふむふむ」とうなずくものも多いんです。


 で、フジテレビ「めざましテレビ」の「めざまし調査隊」というコーナーにおける「やらせ問題」を、同ブログが9月8日に取りあげていました。以下、引用します。



★フジテレビ「めざましテレビ」やらせで処分、というニュース


「めざましテレビ」内のコーナー「めざまし調査隊」で”やらせ”が発覚し、同コーナー打ち切り、担当の外部ディレクター契約解除、社員ら減俸減給処分、という内容。


”やらせ”だった内容を読むと、「調査隊」の本来の目的から逸脱しており、批判は免れないような気もするが、”プロ”のエキストラを使わず自分の知人を起用しているなど、よっぽどネタもカネもなくて苦労していたのだろうな、と同情する。


生放送の情報番組では、「調査隊」のようなタイムリーでない話題は、取り扱わなくてもいいのでは、と思う。企画物に頼らず、今起こっているニュースをより多く伝えるべきでは。


最近の「めざまし」は、「めざまし体操」など、どうでもいいようなコーナーが多いような気がする。




 一般の視聴者って、どれくらい「これはやらせか演出か?」などと考えながらテレビを観ているのでしょうか。また「やらせ」と「演出」の境目って、何なのでしょうか。


 私はカンボジアにいるとき、NHKから民放まで、多くのテレビクルーと仕事をしましたが、その境目は最後までわかりませんでした。あえていうなら、出演する人にいったん起きたことを「再現」してもらうのが「演出」、起きていないことをやってもらうのが「やらせ」とでもいいましょうか……。


 私自身はそういう線を引いて、クルーに対して「演出」までは認めましたが、「やらせ」は絶対に認めませんでした。この線引きが正しいのかどうかは、よくわかりませんが。「再現」するとしても、出演する人が「朝、起きたら歯を磨く」といったらそれをそのまま信用するのではなく、私自身がいったん目撃したことについては「再現」を認めることにしていました。


 テレビの海外取材は、よほど予算が潤沢でないかぎり、取材期間が短いものです。短い取材期間のうちに、私のような現地リサーチャーが提供する情報をもとに、ディレクターが日本で考えた構成にそって、取材をすすめます。すると、自然発生的に出演者の行為が起こるのを待つ時間などほとんどないことから、どうしても「いつもやっていることを再現してもらおう」ということになります。


 ここでディレクターに「魔が差す」タイミングがおとずれます。ディレクターが「ホントに起きてるかどうかわかんないけど、構成上、やってもらわなきゃネ」と思って、現地リサーチャーがそれに同意したら「やらせ」。そういうディレクターに「それはやらせだからマズいっすよ」とリサーチャーが忠告し、それがホントウに起きることなのかをディレクターかリサーチャーが確認したうえで、出演者に再現してもらえば「演出」。


 もしリサーチャーが、そんなことどうでもいいから、数をこなしてカネを儲けようなどと思っていたら、抑止効果を失ってしまうため、海外番組での「やらせ」はいとも簡単に頻発するようになります。で、そういうリサーチャーも実際にいます。


 日本のワイドショーの1コーナーだと、そもそもリサーチャー不在であることも多く、ディレクターの判断で取材をすると思われます。テレビ局は、内部の人(プロパー)には厚遇を与え、外部の雇い人を冷遇する(その報酬の格差は、ものすごいものがあり、難関試験を突破して厚遇を得られることを「就職」の目的とする学生を量産し、就職の目的が番組づくりでない人が局には多いから、面白い番組ができない、という悪循環をまねいている)ことから、いくら大きな番組の1コーナーであっても、下請けの制作会社(または個人)におりる予算がすくない場合が多い。予算がすくなければ、リサーチの時間が減り、取材時間も減り、出演者も低額で引き受けてくれる人に限られます。


 予算がすくないので、数をこなさなければ食っていけない。低予算で数をこなすためには、できるだけカネと時間をかけない方法で取材するしかない。カネと時間をかけないための近道は、出演者に知り合いを雇い、なかったことでもあったように演技をしてもらい、人件費と取材時間を最短にちぢめるのが得策なり……。


 テレビで放映されている多くの番組が、それぞれの局ではなく、外部に発注しているという実態を考えると、それだけディレクターに「魔が差す」可能性が増えていることが予想されます。そして、確実なことはいえませんが、おそらく「魔が差している」ケースは、たくさんあるのだと思います。でも、「魔が差した」番組に立ち会った下請けのクルーの誰かが、「あれはやらせだ」と暴露してしまったら、下請けで働く人びとの生活がたちいかなくなります。だから、やらせだと知っていても、それはめったに告発されません。


 上記ブログで「★てれびまにあ」さんが「同情する」と書かれていますが、以上のような事情を知っている私もやはり、やらせディレクターに「同情」はします(もちろん「やらせ」で番組をつくったこと自体は、マズいという前提で)。だって、このやらせ問題の本質は、以上で書いたようなテレビ局の番組制作の構造にあるのであるのですから。ディレクター個人に責任を押しつけて、「スケープゴートを祭り上げたから、これでいいでしょ」で終わらせたら、何の解決にもなりません。


 かりにいま、理由は何であれ、「やらせ」なしには番組制作が成り立たなくなってきているのであれば、テレビ局はそのことを視聴者にぶっちゃけてしまったほうがいいような気がします。「この番組には、やらせも含まれています」というように。そういう意味では、「さんまのスーパーからくりTV」などは、タイトルに「からくり」という言葉を使うことにより、「やらせ」をほのめかしている点で、いさぎよいような気もします。


 いずれにしても、視聴者は「やらせか演出か?」などと気を配ってテレビを観ているわけではないでしょう。おそらく、リアルっぽければホントウの話、リアルっぽくなければ作り話。この程度の色分けなのでは。そうなると、リアルっぽい番組にやらせがあるかないかが問題になりますが、やらせがあるかないかを確実に知っているのは、局の下請けスタッフと取材に立ち会った(または居合わせた)人のみ。彼らがいわなければ、やらせの有無は迷宮入りとなります。


 ようするに、毎日観ているテレビには、やらせでつくられたものがたくさん混じっている可能性があるわけです。よって、私たち視聴者は、テレビに映ったことを安直に信じず、「テレビなんて、しょせん、やらせアリなんだ」という感覚をもちながら観たほうが、テレビの情報をベタに信じるという愚をおかさない近道であるように思います。


 「★てれびまにあ」様、今後ともよろしくお願いいたします。


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2005年9月10日 (土)



 東大の安心安全セミナーで講義を拝聴した平川秀幸さん(京都女子大学現代社会学部助教授。専攻は科学哲学、科学社会学。私と同じ年齢!)のブログが面白い。


 昨日のエントリーは「9月11日は日本マスゴミ死亡宣告の日?」。マスコミ(マスゴミ)による世論調査の胡散臭さを徹底追求しています。



 Mangiare!Cantare!Pensare! ――平川秀幸研究室ブログ――  http://hideyukihirakawa.com/blog/archives/200509/090338.php


 以下、9月9日のエントリーの冒頭部分のみ引用します。



 多少、変化は見せつつも、相変わらずマスゴミの世論調査の結果は、ほんとにこの国の「茶色の朝」はもうすぐそこ、というか、レミング(ねずみ)の集団自殺のような状況になってきている。


 その一方で、大手マスゴミによる世論操作、あるいは少なくとも偏向報道の疑いもあちこち夕刊紙や週刊誌、ブログで指摘され、思わずその可能性にすがりたくなるような心境だ。



 昨晩、某出版社の編集者Oさんと千駄木「あかしや」でいろいろとお話ししました。そして、マスコミ組織のなかで、「体制順応&創造力欠如」的マスゴミになっていないマトモな編集者やディレクターは、きっと全体の1割くらいしかいないのではないか、という話になりました。付き合いのあるテレビ●日やN●Kの中堅幹部も、口をそろえてそういいます。


 その1割が組織に存在するだけでも、まだ「マシ」な状況だと私は思いますが、一方でその1割がいなくなったときに、マスコミのマスゴミ化が本格化してしまうのではないか、と危惧しています。


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2005年9月 9日 (金)



 昨日の記事のつづきです。これは『週刊金曜日』(309号、2001年3月31日)に掲載されたものです。こうした出来事が、わずか30年前に起きていたことは、覚えておいていいと思います。


 ポト時代が終わった79年からしばらくのあいだ、いくつかの派閥に分かれて戦っていたカンボジア人ですが、いまは被害者も加害者も、同じ国内に暮らしています。同じ民族が同じ国のなかで殺し合ってから30年しか経過していないのに、殺し合った人びとが同じ国で暮らしている。そうした現状は、「なぜ人は殺し合うのか」という問いだけでなく、「殺し合ってから、どうするのか」という問いも、カンボジア社会が投げかけてくれるという意味で、きわめて重要です。



”加害者”側から見たポル・ポト政権


――証言しはじめた末端組織「サハコー」の幹部たち 下――


<暗黒政権を支えた虐殺装置>


 ポル・ポト政権時代、いわばその最前線で人民を監視・虐殺した当時の統治システムの末端組織「サハコー」の役割について、その長の証言をもとに前回報告した。今回は、数万人の虐殺に間接的に関与した副サハコー長、そして人民の監視活動をしていた密偵長の証言をもとに、ポト時代に人民を支配した「排除の構造」を検証する。


 「ここでは、1975年5月に都市住民がきたときから虐殺がはじまった。はじめは1日に数十人から100人くらいが労働に出かけるといって森へ連れていかれて、そのまま帰ってこなかった。78年に東部の新人民がやってきてからは、1日に200人から300人が殺されるようになった」


 遠くを見つめながら、Kさんはそう語った。


■ポト時代前夜


 カンボジア北西部のバタンバン州は、強制移住の終着点として、多くの新人民が送り込まれた地域のひとつである。地平線が見えるような規模の水田が広がるこの地は、古くからカンボジアにおける米の一大生産基地であった。


 チャム族のKさん(49歳)はコンポン・チュナン州出身で、51年に両親と9人の兄弟、そして50世帯のチャムの仲間と共に、農地を求めてバタンバン州M郡T村Y集落へやってきた*1


 農家の子どもが学校へ通うことなどほとんどなかった時代に、Kさんは小学校3年まで学校に通って勉強した。そのおかげで、字が読めるということが評価されて、69年からY集落の集落長に抜擢される。この時点でのY集落の世帯数は80である。


 72年になると、ベトナム兵の集落への出入りがはじまった。つづいてクメール・ルージュがやってきて、全世帯がY集落の西側にある森林地帯のS村D集落へ強制的に移住させられた。D集落の周辺は深い森であったため、移住した人びとの多くは開墾に駆り出された。マラリアが蔓延する地域であるとはいえ、食事もしっかりとれたし、休息時間も確保できていたので、この時点では住民が死ぬことなど滅多になかった。


 集落の代表として、クメール・ルージュとの連絡・調整を担当していたKさんは、「このころは世帯ごとに家を持てたし、食事も世帯単位であった。自分でつくった農作物は、自分で食べることができた。チャム族への迫害もなかった」という。


 しかし74年になると、村の指示により、チャム族世帯に限り、いくつかのグループに分割され、グループごとに別の集落への移住を強要された。その結果、D集落には約20世帯のチャム族世帯しか残らなかった。悲劇のはじまりである。


■強制移動と強制労働


 事態が急変したのは、75年の4月中旬からであった。まず、周辺のいくつかの集落を統合して、サハコーRが作られた。チャム族だからという理由で、ほかの集落長が横すべりでサハコー長となるなか、Kさんは幹部にはなれなかった。サハコーができると、組が組織された。以前から機能していた軍や密偵は、この時期から絶大な権力を握ることになる。そして強制労働がはじまった。


 プノンペンから強制移動させられてきた新人民が、数万人単位でサハコーRへ流入した結果、旧人民のおもな役割は、一般の労働から新人民の管理・教育へと変わっていった。とはいえ、Kさん世帯はチャム族なので、旧人民であるにもかかわらず新人民なみの生活水準を強いられた。


 新人民やKさんらチャム族の人びとは、おもに広大な森林地帯の開墾と、「4月17日水路」の建設に従事した。人口3000人弱のサハコーRへ数万人もの住民が流入したことにより、食糧や医薬品は慢性的に不足していた。強制労働で過労死する人や病死する人が激増するとともに、食糧不足で餓死する人もかなりいた。


 Kさんは73年に結婚し、4人の子どもと暮らしていたが、「76年に入ると、食べ物が確保できなかったため、3カ月のあいだに妻と子ども全員が飢えて死んでしまった」


■副サハコー長の仕事


 77年末になると、東部スバイ・リエン州からの新人民がサハコーへ大量に送り込まれてきた。ほぼ同時期に南西部から幹部がやってきて、「仕事ができない者はいらない」といいながら前サハコー長や副サハコー長、そしてその親族を皆殺しにしてしまった。


 文盲であった南西部の幹部は、文字が書けるという理由で、Kさんを経済担当の副サハコー長に任命した。同幹部はKさんがチャム族であることを知らなかったのである。


 副サハコー長のもっとも重要な仕事は、郡の経済担当が管理している物資(塩・砂糖・衣服など)とサハコーで生産した農作物を、定期的に交換することであった。物資は郡から配給されるのではない。郡とサハコーとの物々交換によって得られた物資が、住民に配給されるのである。よってサハコー内で生産された農作物の多くは郡へ流れ、すくない余剰を住民に配給するのが常であった。


 「当時は食糧がたりなくて、配給したくてもできないような状態だった。食糧不足の解決方法としてサハコー長は『必要のない人間は始末してしまおう』といっていた」と、Pさんはいう。


 Pさんのもうひとつの大切な仕事は、稲の作柄や水路工事の進行状況、餓死や病死者の人数、そして郡の治安組織へ連行された住民の数などを、サハコー長へ文書で毎日報告することである。さらに、字が書けないサハコー長から上部へ送る文書の代筆を頼まれたりもした。


■新人民の大量虐殺


 77年から副サハコー長として日々の報告書を作成していたKさんへ、サハコーRの人口推移について聞いてみた。


 「75年4月のサハコーの人口は、約3500人。その後、プノンペンからの新人民が数万人ほどくわわったが、私が副サハコー長になる直前の77年なかばには2800人程度になっていた」


 つまり、プノンペンから来た新人民のほとんどは、餓死・病死・虐殺などで死んだのである。Kさんは、さらに続ける。


 「78年になると、ふたたびスバイ・リエンからの新人民数万人がサハコーへやってきた。にもかかわらず、78年末のサハコーの人口は2000人程度となっていた」


 たった一年間で数万単位の人間を殺すことができるのであろうか。冒頭で紹介したKさんの証言からいえば、それが事実であると考えざるをえない。


 ポト時代が終わった直後、多くのサハコー幹部や密偵らが、住民によって彼の目の前で虐殺された。


 「私は虐殺には直接、関与しなかったので命は助かった」というKさんは、いまも後妻と共にR集落のはずれでひっそりと暮らしている。


■虐殺装置の心臓部


 カンボジア南西部のタケオ州T郡は、最強硬派として昨年までポト派を指揮してきたタ・モック氏の故郷である。同郡は、住民管理や農業生産などの面で、党の方針に忠実であったことから、ポト時代にはモデル地域に指定されていた。ようするに、ポル・ポトの理想とする地域社会の姿が、そこにあったのである。


 同郡G村N集落にクメール・ルージュが入ってきたのは、70年のことであった。その直後にベトナム軍もやってきた。当時、集落長を務めていたCさん(71歳)は、72年になると村の治安組織から集落の密偵長に任命された。おもな仕事は、小銃を持って12人の部下と共に、集落の周辺の警備をすることだった。


 Cさんが、村からの「15歳から20歳の若者を密偵に採用せよ」という指令により、部下の人数を増やしたのは74年であった。人選は、村の治安組織とサハコー長、そしてCさんとでおこなった。若者18人が新たに部下となって、彼は初めて気がついたという。


 「子どもは使いやすい」


 この地域では74年から集落をサハコーと呼ぶようになり、同時に労働と食事の集団化がはじまった。さらに治安組織が強化され、その一環として各サハコーの密偵が増員されたのである。


 密偵の仕事内容もこの年を境にして大きく変わり、これまでの「集落の警備」から、「サハコー内の住民の監視」という内容になった。言い換えれば、外にいる敵を監視して集落の住民を守る役目が、内に敵がいないかどうかを監視して組織内の秩序を守る役目になったのである。


 密偵長は、形式的にはサハコー長の管轄下にあるのだが、実際はサハコーの上部にある村の治安組織に直結していた。Cさんは村の幹部から、「サハコーの幹部もしっかりと見張るように」といわれたことを覚えている。


 密偵という仕事について、ここで確認しておこう。Cさんによれば、第一に住民がしっかりと働いているかどうかを見張ること。第二にサハコー内部に敵がいるかどうかを探ること。そして、第三に怠け者や敵を見つけたならば、サハコー長か村の治安組織に通報すること、などであった。


 具体的には、サハコー内の各組に数名ずつ、密偵が派遣される。こうして昼間に徹底した労働の監視をおこない、夜になるとサハコー内を見まわり、住民の会話を盗み聞きする。


 「住人に気づかれないようにして家屋の床下に入ることなど、いま考えてみると常軌を逸した行為をしていた。しかし当時は当たり前のことだと思って指示をだしていた」


■敵の「定義」


 前号でも触れたが、密偵長にとって誰を敵とするかという「定義」は、年を追うこどに変わっていった。


 75年、クメール・ルージュがプノンペンを制圧したあとに、Cさんのサハコーの近くで、ロン・ノル軍の兵士500人が一度に殺された。ポト時代になった直後は、ロン・ノル政権に関わった人物が敵であると上部からいわれていた。その後、敵の定義はCIA(米中央情報局)やKGB(旧ソ連国家保安委員会)、そしてベトナムへと変わっていく。


 以上は政治的な意味での敵の定義である。時間が経つにつれて、政治的な敵の定義が拡大解釈されるようになり、最終的には密偵が気に入らない人物がいたら、誰でも敵として上部に密告できるような状態になっていたという。


 「食事がたりない、といった。農具を壊した。仮病をつかった。鶏を盗んだ。ポト時代末期になると、上部に密告する理由は何でもよかった」


 住民虐殺へ直接関与したかどうかをCさんに聞くと、次のような答えが返ってきた。


 「私が虐殺に直接関与しているかどうかは、いえない。基本的にサハコーの密偵は、武器を所持していなかった。しかし、密偵に捕まった住民がどうなっていったのかは、把握していた」


 問題のある住民を密偵が見つけると、まず密偵長に報告する。密偵長がその対象人物を「とくに重要でない人物」であると判断した場合、そのままサハコー長に連絡する。この場合、密告した人物の対処は、サハコー長が決める。密偵長が「重要な人物」であると判断した場合は、サハコー長をとおさずに村へ報告する。いずれの場合も、村へ身柄を引きわたされることは、その人物が死ぬことを意味していた。


 「密告された人物は、サハコー長が教育するか、クレアン・タチャン刑務所(タケオ州T郡)もしくは109事務所と呼ばれる郡の治安組織の事務所へ連行した。それらの人びとは、ふたたびサハコーへ帰ってくることはなかった。部下の報告にもとづいて、私が上部に密告した人の数など、多すぎてわからない。密告すれば、ほとんど殺されることがわかっていたので、はじめのころは躊躇した。しかし、だんだん慣れてきてしまった」


 しばらくすると、虐殺の現場に立ち会ったことならあるといいながら、Cさんは虐殺現場の様子を話してくれた。


 「まず虐殺対象者らを縄で後ろ手に縛り、数珠繋ぎにして森のなかへ連れていく。現場に着くと縄をほどき、穴を掘らせる。掘り終わると、彼らを穴の手前でひざまずかせ、治安部隊の隊員が背後にまわって彼らの頭を腕に抱える。そして、つぎつぎにナイフで喉の動脈を切っていく。彼らは自分が掘った穴のなかに倒れ込み、絶命するのである。彼らへの斬殺が終わると、何かの間違いで生き残ることを防止するため、穴のなかへ小銃を乱射することもあった」


 「はじめのうちは、殺したあとに穴を埋めていたが、ポト時代末期になると穴を掘ることなどせず、殺したままの死体を放っておくようになった。何よりも印象に残っているのは、虐殺現場の匂いである。斬殺された人びとの首から流れ出た大量の血の匂いは、いまでもはっきりと覚えている」


 逃げようとした人は、いなかったのであろうか。


 「手を縛られ、数珠つなぎになって歩かされるので逃げられない。たとえ逃げられたとしても、隣のサハコーで絶対に捕まる。各サハコーの住民管理はかなり厳密であり、朝逃げれば夕方殺される、と人びとはささやいていた」


■排除の構造


 「貧しい人びとに権力を」というスローガンを聞いて、Cさんはロン・ノル時代にクメール・ルージュへ協力しようと考えた。ところが、ポト時代に入ると「たしかに貧しい人びとが権力を持ったように見えたが、実際は上部からの指示によって、末端の住民同士で殺し合いをしていただけであった」と当時を振り返る。


 79年に故郷を追われたCさんは、北西部の各州を渡り歩いた末、いまはバタンバン州の山寺で、ポト時代の自分のおこないを反省しながら、人目を避けて修行生活を送っている。


 取材を終え、私との別れ際にCさんはこういった。


 「ひとり目を殺せれば、あとは人の死が無意味に感じられてくる。だから何人でも殺せるようになる。問題は、社会がそういう雰囲気になってしまったことだ。誰が指示したかということは、いまとなってはあまり問題ではない。なぜならば当時、私たち密偵のなかで、ポル・ポトの名前を知っている者などいなかったのだから」


 ――――――――――――――――――――


 3人のサハコー幹部の証言を聞き終えたあと、私にはひとつの疑問が生まれた。それは、「この人たちは、加害者といえるのであろうか」ということである。


 この問いは、ポト時代に支配する側であった人びとを免罪するつもりで発しているのではない。絶えず敵をつくらないと、自分が敵になるという構造。平等化を唱えつつ、小さな差違が生じると処分されてしまう状況。言い換えれば、絶えずスケープゴートをつくり出し、それを排除しておかないと、みずからが排除されてしまうような社会、それがポト時代なのである。そういう時代のなかで、みずから進んで排除される側になろうと思う者など、果たしているであろうか。


取材協力/藤下超(NHK報道局国際部記者)・井上恭介(NHK報道局番組部ディレクター)





*1:敬虔なイスラム教徒であり、少数民族であるチャム族は、宗教を否定したポト政権により、徹底的に迫害された。一方でポト派は、カンボジア北東部の少数民族の一部を「純粋で忠実な部下」として利用した。こうしたポト派の少数民族への対応(一方では迫害し、一方では利用する)は、極めて重要な事実であるが、本稿の目的はサハコーの実態を解明することなので、ここでは深くふれない。


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2005年9月 8日 (木)



 宮台さんの新刊『サブカル「真」論』が発売になりましたね。


 でも、装丁が…………。


 http://www.miyadai.com/actions.php?action=plugin&name=TrackBack&tb_id=299


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2005年9月 8日 (木)



その1) 作家の見沢知廉さん自殺


http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20050908i507.htm


けっこう今後の活動に注目していたのですが……。



その2) 「毎日かあさん」論争、表現の自由か教育的配慮か


http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20050831i106.htm


武蔵野市教育委員会は、「教育的配慮」とか「児童の人権」などというお役所的かつあいまいな言葉を使って、漫画家の西原理恵子さんをいじめている、としか思えない。同教育委員会は、彼女の『毎日かあさん』がなぜ評価されているのか(同作品は、文化庁メディア芸術祭賞というお役所の賞を受賞している)、わかっていないのではないか。


100%、西原さんを応援します。


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2005年9月 8日 (木)



 前回のブログで、戦争を評価するうえでの加害者証言の重要性についてふれました。ただただ文献を読んだだけでそう判断したのではないし、適当に思ったことを場当たり的に書いたわけではありません。一応、農村調査や取材をとおして、そう思うにいたったということを知っていただくために、4年前に私が書いた記事を、2回にわたって転載しておきます。


 今回は連載2回のうちの第1回分です。媒体は『週刊金曜日』(308号、2001年3月24日)で、タイトルは「加害者側から見たポル・ポト政権」。まあ、そのものズバリのタイトルです。


 この記事から浮かびあがってくる最大のポイントは、被害者は「システム」がわからないまま殺されるが、加害者はみずからが置かれたポジションの範囲で、虐殺の「システム」を知っている、ということです。


 このことは、植民地化されたアジア諸国の人びとと、旧日本軍の幹部や兵士の関係性にも、そのまま当てはまることでしょう。また、葉っぱさん(id:kuriyamakouji)が指摘されるように、原爆を落とされた側の日本と、落とした側のアメリカの関係性にもいえることです。


 戦争や虐殺のシステムを知らなければ、人間なんてもともと暴力性を秘めた存在なのですから、同じシステムで同じことを繰りかえす可能性があります。システムを知っていれば、発露されそうになった暴力性を、事前に抑止することができるかもしれません。


 戦争の加害性をいったり書いたりすると、すぐに「左翼だ」「自虐だ」というレッテルを貼るお馬鹿さんがいます。しかし、加害性をしっかりと明らかにすることは、そういう党派制なんて何も関係ないのです。この点は、強く訴えたいものです。ただただ、多くの人を不幸に導くアホな出来事を繰りかえさないよう学習するため、できるだけ被害性と等価で加害性を追求し、アホな出来事を相対化する必要がある、ということですね。


 なぜ『金曜日』に書いたのかというと、単純にこの企画を採用してくれたのが同誌だった、ということです。日本ではマイナーな国だと認識されているカンボジアのネタだということもあり、同国がらみの記事は、どこの雑誌もなかなか掲載してくれませんでした。


 このあと、ポト時代にナンバー2であったイエン・サリ元副首相のインタビュー記事を書いたのですが、『AERA』という雑誌で半年近く「順番待ち」をさせられ、結局は原稿と写真を引き上げて、『金曜日』で掲載したようなこともありました。


 では、みなさんのご批評をお待ちしております。



”加害者”側から見たポル・ポト政権――証言しはじめた末端組織「サハコー」の幹部たち (上)――


<恐怖の相互監視システム>


 1975年4月から3年8カ月のあいだ、カンボジアを支配したポル・ポト政権下で、約150万人もの人びとが虐殺や飢え・病気などで死亡した。なぜ、ひとつの国家のひとつの民族のあいだで、一方が殺し、一方が殺されるという関係ができたのか。当時の統治システムの末端組織「サハコー」幹部の証言をもとに、虐殺の構造を二回にわたって報告する。


 これまでカンボジア大虐殺に関する報道や研究はいくつかなされているものの、その大部分は支配された側、もしくは虐殺された側の人びとの証言をもとにしたものだった。しかしながら筆者は、支配された側の証言を裏づけるための、支配した側の証言が得られない限り、その真相は明らかにならないと考えてきた。


 私は2000年5月から約3カ月間にわたって、NHKの番組制作のための調査でカンボジア国内を歩き回り、ポル・ポト時代に支配する側であった人びとを捜し出すことになった*1


■統治システム


 これから紹介する3人の元サハコー(生産共同体)幹部は、その調査のなかで知り合い、ポト時代の虐殺の実態を明らかにしたいという筆者の希望を、しっかりと受けとめてくれた人びとである。


 彼らの証言をもとに、支配する側から見たカンボジア大虐殺の仕組みを、サハコーという末端組織に注目しつつ報告する。


 本題に入る前に、ポト時代の地方統治システムについて簡単にふれておこう。ポト政権にはオンカーと呼ばれる実体不明の幹部組織が存在し、その下部組織として七つの管区(プムピァ)があった。管区はさらにいくつかの地区(ドンボーン)に、地区は郡(スロック)に、郡は村(クム)に、そして村は末端組織であるサハコーに分割された。このシステムの末端として、一般住民の管理をおこなっていたのがサハコーであり、一般的に被害者側の人びとが語るポト時代の証言の多くが、このサハコーでの暮らしに関するものであったといえる。


 一方、管区からサハコーにいたる統治システムと並行して、軍組織および住民監視システムとしての治安組織(中央はサンテバール、郡以下の行政単位ではサンテソックと呼ばれた)が機能していた。


 そして治安組織の末端として、サハコー内の要注意や危険人物を、さまざまな手段を利用して調査・報告・摘発していたのが密偵(チュロープ)である。


 今回は、当時、コンポン・トム州でサハコー長をつとめたPさん(65歳)の証言をとおして、おもに強制労働と相互監視システムの側面から、サハコーという組織の実態についてふれる(以下、本文中の証言はすべてPさん)。


■クメール・ルージュ


 Pさんはコンポン・トム州B郡Y村F集落で生まれ、妻とふたりの子、そしてふたりの孫とともに稲作を生業にしながら、いまもそこで暮らしている。彼の集落にクメール・ルージュ*2が出入りしはじめたのは、1970年からであった。当時の集落には、警察や軍をはじめ、病院や校などの公共組織はまったくなかったが、住民はとくに困ることもなく、平凡に暮らすことができた。


 当初、クメール・ルージュの兵士たちは、住民へ何かを強制することなどなく、ときどき「『シアヌークの組織する解放戦線に支援を!』といって食糧の支援を求めてきた」程度であった。


 Pさんは72年に集落長になったが、このころからすこしずつ農業生産部門における集団化がはじまった。集団化といっても、農具や家畜を共同使用する程度のものであり、のちのポト時代におこなわれたような労働を強制されるようなことはなかった。74年になるとロン・ノル軍による攻勢が強まり、Pさんの家も戦闘で焼けてしまった。


 反ロン・ノル感情が高まるなかで、住民は食糧や宿泊施設といった側面で、クメール・ルージュへ積極的に協力するようになる。くわえて、郡の党組織の指令による地域の治安体制づくりもはじまる。村レベルでは治安組織(サンテソック)、集落レベルでは密偵組(クロム・チュロープ)がつくられた。


 治安組織の整備と並行して、組(クロム)の組織化が急激に強化されていった。


 集団化の単位は、青年から壮年までの男女で構成される移動部隊や老人だけを集めたもの、青少年だけを集めたもの、子どもだけを集めたものなどに分類され、これら集団はさらに男女に分けられた。この集団化の一単位を「組」と呼び、それぞれの組にはPさんの人選による組長が任命された。


■新人民と旧人民


 75年4月17日にプノンペンがクメール・ルージュによって陥落すると同時に、都市住民の地方への強制移動がはじまる。約200世帯のF集落にも、100世帯ほどの都市住民がやってきた。その多くはプノンペンから来た世帯であった。都市住民は新人民(プロチアチュン・トゥメイ)、早くからクメー・ルージュに協力していた地元住民は旧人民(プロチアチュン・チャ)と呼ばれた。


 新人民が集落に到着してから一週間程度が過ぎ、生活が落ち着いたころに、サハコー長の立ち会いのもとで、村の治安担当者による履歴調査がはじまった。


「ロン・ノル軍の兵士や学校の校長、政治家であった人は敵である、と上部からいわれていた。正直にこれらの前歴を答えた人は、村の治安組織によって再教育を受けるために、どこかへ連れていかれた。再教育に連れていかれるということは、死ぬことを意味していた」とPさんはいう。


 旧人民に対する履歴調査は、71年からはじまっており、この時点では旧人民のなかに敵(クマン)はいないといわれていた。また「旧人民と新人民とでは権利が異なり、旧人民は新人民に対して思想教育をすべきであると村幹部からいわれていた」のであった。


■サハコーの構造


 F集落が「サハコーF」という呼び名に変わったのは、76年に入ってからである。集落長であったPさんは、村レベルの党組織からサハコー長に任命され、ポト時代が終わるまで務めた。


 サハコー長の仕事は、これまでやってきた集落長の仕事に、人員配置や徴兵、配給などの業務がくわわったものである。そしてこの時期に、食事の集団化がはじまった。ここで、ポト時代に入ってからのサハコーFにおける支配の構造を確認しておこう。


 最上部組織はオンカーと呼ばれていたが、末端組織であるサハコーとの直接的な関係はなかった。以下、管区・地区・郡・村・サハコーのそれぞれの党組織がタテにつながり、住民管理をおこなっていた。また、これらの組織とは別に、まったく同じタテの指揮命令系統で、住民への監視・指導・再教育などを実施する治安組織および軍組織がつくられた。


 つづいてサハコー内の管理体制についてふれる。まずサハコー長の下には、ふたりの副サハコー長(軍担当と経済担当)が配置された。さらに年齢や性別、作業内容などによって住民を組に分け、それぞれの組にサハコー長直属の組長が任命された。組長の下には副組長および構成員(サマチェッ)が配置され、それぞれの組の住民を管理した。


 このシステムの意味についてPさんはこう語る。


「上部をふくめたすべての組織で、トップがひとりと副がふたりという人員配置がつらぬかれていた。この体制は、トップが副を監視しながらも、副がトップを監視するという、上下関係を無視した相互監視体制ができていたことを意味する」


 サハコーFには、つねに軍が組織されているわけではなかった。戦闘が発生したり兵力が必要になると、随時、一般の住民が徴兵された。村から必要な兵士の数が指定され、サハコー長が人選をおこなう。徴兵の対象となるのは圧倒的に男性が多く、派遣された兵士が帰ってくることはすくなかった。よって、ポト時代に入ってからのサハコーFの人口に占める女性の割合は、高くなる一方であった。すべての住民は、老人・青年・少年・女性・密偵などの組のいずれかに所属して、稲作や畑作、水路づくり、そしてダム建設などの労働に従事した。


 いくつかあった組のうち、密偵組だけは特別な管理体制のもとにおかれていた。密偵組は、サハコー長の管理下であると同時に、村の治安組織とのホットラインをもっているのである。したがってサハコー長であっても「いつ自分の部下であるサハコーの密偵によって、自分のことが悪く村の治安組織へ報告されるか、たえず不安だった」という。


■強制労働の実態


 現在のF集落には、まったく水が流れていない大きな水路の跡がある。集落の北部にある川の水を貯めるための「1月1日ダム」から南部に向けて、数キロメートルにわたる水路をつくり、灌漑用水を確保することにより稲の収穫を増やすことが、ダム・水路建設当時の党の目的だった。ロン・ノル時代までは、一般的に農地1ヘクタールあたり1トン強程度だった籾(もみ)の収量を、ダム・水路をつくることで三倍に増やそうという無謀な計画だ。


 村の指示により、各サハコーには幅10メートル・長さ10メートル・深さ5メートル程度の水路の一部を、50人で掘ることが義務づけられ、サハコーFも労働者を選んで派遣した。人選はPさんがおこなったが、旧人民に楽な仕事をさせるように調整していたという。


 実際の作業は、水路掘りではなく、岩状の固い土をくだいて運ぶことであった。当時、すでにサハコーには男性があまりいなかったので、おもに女性が派遣された。1日2回の食事が与えられ、作業は朝から夜中まで続いた。病人が続出し、重病者は村の病院に運ばれるものの、「病院には医療器具も薬も何もないので、入院しても病気が治るわけではない。だが家で寝ていると、どんな重病であっても怠け者であると判断され、『教育』に連れていかれてしまう」のである。


 「教育」(アブロム)といっても、その真意は党の目標達成の障害にならぬよう幹部による指導をおこなうことであり、すなわち「再教育」を意味する。Pさんのような穏健なサハコー長が幹部である場合は、この教育の段階で作業に復帰でき、命を失う可能性は低い。一方、強硬派のサハコー長であれば、この段階で「怠け者は殺してしまっていた」という。


■監視される幹部


 密偵組がほかの組とは異なり、サハコー長のみならず村の治安組織にも直結していたことはすでに述べた。サハコーFの密偵組には、組長と副組長、構成員が各1名のほか、実際にスパイ活動をおこなう末端の職員が10人ほどいた。「若者は心が純粋で色がついていないから、使いやすい」という村幹部からの助言にしたがい、Pさんは17歳から20歳くらいの青年を密偵として起用した。


 密偵の大きな役割は、サハコー内にひそむ敵を見つけ出すことである。敵の定義は、党指導部の方針によって何度も変わった。76年まではロン・ノル政権の政治家や軍人、知識人などが敵であり、77年からはCIA(米中央情報局)やKGB(旧ソ連国家保安委員会)が敵の定義にくわわった。78年になると、かつては共にロン・ノル軍と戦った隣国ベトナムも敵になり、Pさんは村の幹部から何度も「内部の敵を見つけ出すことが大切だ」と指導された。


 各組に配置された密偵は、朝から晩まで住民の行動と発言を監視する。そして敵を見つけ出すと、サハコー長に報告するのである。報告を受けたサハコー長は、敵と見なされた住民に対して、これまでの履歴や考え方を反省するように「教育」する。この段階でサハコー長が、「コーサンが必要であると判断した場合、住民は村の刑務所へ送られて殺された」。コーサンとは「直す」という意味である。見つけた敵の対処については、サハコー長に決済の権限があったわけである。


 しかしながら、密偵が見つけた敵について報告する対象は、けっしてサハコー長だけではなかった。サハコーの密偵が、サハコー長へ報告せずに、村の治安組織へ敵のことを報告することもしばしばあった。


 こうして村の治安組織に認知された敵は、「ふたたびサハコーに戻ってくることはなかった」。密偵組長が「重要な敵」と見なした住民については、サハコー長が「教育」する間もなく、密偵から村へ直接、通報される仕組みだったのである。


 このようにサハコーの密偵と村の治安組織が直結していることは、Pさんらサハコーの幹部も密偵に監視されていることを意味する。ポト時代が終わりに近づくにつれ、サハコーの密偵と村幹部との関係が深まった結果、サハコー幹部は密偵による密告の不安に悩まされた。そしてPさんは、自分の部下である密偵の活動が管理不能になりつつあることに、戦慄を覚えながら日々の業務をこなしていった。


■虐殺装置サハコー


 Pさんの記憶によると、75年3月のサハコーFにおける旧人民の世帯数は200前後である。さらに4月から5月にかけて、100世帯前後の新人民が流入し、この時点でサハコーFの世帯数の総計は300前後となった。


 ところが、その4年後の79年1月の時点で、サハコーFには250世帯しか残っていなかった。では消失した50世帯は、どうなったのであろうか。


 Pさんによれば、「履歴に重大な問題があって、どうしてもかばいきれずに村へ引き渡したのが5世帯程度」で、「あとは水路づくりで過労死した人がたくさんいたし、病気になっても治療できないので、病死も多かった。密偵が直接、村へ引き渡した住民の数も多い」とのことである。さらに「同じ村のほかのサハコーでは、私のサハコーよりもたくさん人が死んでおり」、とりわけ「78年にサハコー長が南西部出身者に変わった同じ村の3つのサハコーでは、それぞれ数百人もの死者がでた」という。


 ようするに、刑務所送りや過労死・病死を虐殺の範疇に含め、1世帯を5人前後であると仮定した場合、サハコーFでは250人前後が虐殺されたことになる。


 私は、Pさんに虐殺の責任について聞いてみた。


 「自分はやれるだけのことはやった。私が命を救った世帯はすくなくない。履歴の問題から自分が村へ送り込んだ世帯については、申し訳なく思っている。また、住民に無理な水路掘りをやらせたことも、反省している。しかし、もっとも責任を追及されるべきなのは、郡レベルの幹部らであると私は思っている。私たちサハコー幹部への仕事の指示は、すべて郡幹部が村をとおしてやっていたものなのだから。当時は、とにかく人の命が軽い時代だった。村の幹部は口癖のように、こういった。『住民を生かしておいても得にならない。殺してしまっても損にならない』と」


 79年末、Pさんは約200人の元サハコー幹部らと共に、家族を残して森へ逃げた。ベトナム軍が彼らに対して「教育」をおこなうという情報を得たからである。食糧のない森で、仲間がつぎつぎに病死や餓死するなか、6カ月後には「こんな状態が続くなら、どんな目にあっても生きているほうがましだ」と考え、F集落へ戻る。帰って来てみてから、ベトナム軍が彼らを「教育」するということは、純粋にポト時代の間違った考え方を変えるための再教育であったことを知る。逃げた先で死んだ仲間の数は150人にのぼる。


 穏健派のサハコー長であったPさんは、ポト時代が終わった直後からはじまった地元住民による元サハコー幹部への差別を乗り超え、いまは稲作を生業としつつ、戦乱で破壊された寺の再建活動の中心人物として活躍している。  (以下、次回)





*1:1999年10月22日放送のNHKスペシャル『ポルポトの悪夢』


*2:シアヌーク政権下、ポル・ポトほかフランス留学を経験した共産主義活動家たちによってつくられた組織の呼称。


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2005年9月 7日 (水)



 ブログをまわっていたら、セクシータレントのインリン・オブ・ジョイトイが書いているブログにたどりつきました。タレント的日常が、おもしろおかしく書かれた内容なのですが、ときどき「あえて」議論を巻き起こすようなことを書いたりしています。ご存知の方も多いのだとは思いますが、ちょっと引用しておきます。


 まず8月12日の日記より。(http://blog.livedoor.jp/yinlingofjoytoy/archives/50100899.html)



ちなみに今日は、平和を愛する私としてはマジ許せない事が東京で起きました。


日本の侵略戦争を否定して美化してる人達が作った歴史教科書を杉並区が採用したんです(>_<)


日本人は過去の過ちを認めて反省して教えて、そしてアジアの国と平和な未来を築くべきだと思います。


今の若者に過去の責任はないけれど、過去の過ちを正しく知る権利と義務があると思います。


恐ろしい事に巻き込まれない為には、


何が恐ろしいか知っていなければ反対出来ません。


残念ながら、日本が侵略戦争を行ったのは事実です。


嘘で事実をごまかすのでは、日本人も含めた戦争犠牲者がかわいそう!


嘘の教育をしたら、また、未来の戦争犠牲者と加害者を作るだけです!


だから、女の子がセクシーで目標のある自立した人生を生きる為に、


絶対に守らなければならないこと


それは平和と自由と平等ってことなんですよね☆



 つづいて8月15日の日記より。(http://blog.livedoor.jp/yinlingofjoytoy/archives/50112375.html)



8・15終戦の日にこだわりたい


》日本国憲法《


第三章 国民の権利及び義務


第二十条【信教の自由、国の宗教活動の禁止】


1;信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。


2;何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。


3;国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。


9・11選挙の日にこだわりたい


 》日本国憲法《


第二章 戦争の放棄


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】


1;日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。


2;前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


・・・・って、今や地球規模で広めたいとっても大事なこと!


私は、こんな平和的で中立的で進歩的な憲法のある日本を尊敬してます☆


8・15の今日こそ、私が皆さんにお願いしたいのは、


9・11には、こういうすばらしい憲法を守ってくれる人だけに投票しましょ!


ってことです☆だって残念な事に、外国人の私には選挙権ありませんから・・・・。


私は、10歳から日本に住んでます。


平和を愛する文化的な日本が大好きです。


私は台湾人<中国人として、台湾にも中国にもいろんなイヤな問題があるのはよ~くわかってます。


去年は中華系の世界的芸術家18組の一人の選ばれ、台湾と中国大陸の間にある金門島で個展をやりました。


その時は、しっかりと台湾と中国政府を批判して、平和の為のエロテロパフォーマンスをして来たんですよ~☆


そして今年10周年を迎えたユニット「ジョイトイ」の作品ではいつも、


セクシー&パロディを武器に、人間の平等と平和をテーマに表現を続けてます。


天安門や紫禁城、在上海ロシヤ領事館、嘉手納基地等でのゲリラ撮りを皆さん楽しんでくれたと思います!


私に出来ることは小さいことかもしれません。


けど、これからも、国とか政府とか民族の勝手じゃなくて、世界中の普通の人々の生活が少しでも平和であることを願って、M字開脚を続けます(笑)



 前者の日記へのTBは300強、後者は250強。眞鍋かをりもすごいが、インリンもすごい。彼女の意見を純粋に支持する人。自分の意見は違っても、「ファンだから」支持する人。「ファンだけど」支持できない人。まったく支持できない人。そして、あいもかわらず匿名で誹謗中傷する最低の輩……。このブログを訪ねるだけで、いろんな意見の人がいるってことも、(名の売れた人が)ブログを書くリスクも、よーくわかります。


 教科書問題については、当ブログでも瞬間的に盛り上がりました(7月13日)が、私の意見はインリンに近いものでしょう。中国系(籍が台湾なのか中国なのかは、申し訳ありませんが知りません)のインリンがこのように考えるのは、至極当然のことだと思います(もちろん台湾にも中国にも、親日派が存在するということを認識したうえで)。


 ただし、上記のような書き方だと、どうしても党派性の強い左翼の言説との見分けがつきにくくなるような気もします。また「広島・長崎を忘れるな。日本は戦争被害者だ」という被害者的側面のみを主張したがる右系の人にも、食いつかれてしまう余地がありますね。


 さきの戦争における広島・長崎という被害者の側面を忘れてはならないことは、当然のことです。しかしながら、その一方で、同じ戦争のなかで加害者的な側面があったことも、否定のできないことです。それを否定してしまうと、インリンのいう「嘘」になってしまう。


 戦争の加害者的な側面は、被害者の証言により、ある程度の輪郭を理解することは可能です。でもそれは、あくまでもおぼろげな輪郭です。その側面をくっきりと浮かびあがらせるためには、加害者自身による証言が必要不可欠になると思います。


 とはいえ、加害者は自分の悪事をすすんで世に公表したくはない。さらに、その悪事は、自分の責任ではなく、組織的なしがらみによって強制的にやらされたので、悪事ではない、という人もいるでしょう。だからといって、戦中に人を殺したり殴ったしたことを簡単に忘れられるのかといえば、そうでもない。忘れないからこそ、語らないのだともいえます。


 私が、カンボジア大虐殺を勉強しているときに感じたのは、「被害と加害を秤にかけて、どっちが重いのか」などということを議論することには、あまり実りがないということでした。被害は被害として洗い出し、加害は加害として洗い出し、その双方の情報を得た個々が、「じゃあ、あの戦争って、何だったんだろう?」と考える。そして「あの戦争が何なのか」という受けとめ方については、個々の判断にゆだねる。


 ある程度の年齢になったら、そういう歴史教育をしてもいいのでは、と思ったりします。でも現状では、圧倒的に加害者情報が不足しているのも現実。そうなると、加害者情報の収集が、戦争の歴史を理解する鍵になるわけです。それも、けっして自虐的なものではなく、かなりクールなかたちで情報を集めることが、重要です。


 被害者情報を集めるのは、よほどの言論統制がなされていないかぎり、簡単です。カンボジアならば、訪問当日に何十人もの被害者と出会うことができるし、話も聞ける。問題は、加害者側の情報です。前述したような理由で、加害者は語りたがらない。ポルポト時代に「政権の手先となって人をたくさん殺した」という人を特定するだけで1カ月。その人に会うまでさらに1カ月。その人から「殺しました」という証言を得るまで、さらに半年かかったりします。


 しかし、こうした長期にわたる重苦しい加害証言の収集は、苦難がつきまとうぶん、スリリングで、高い達成感を味わえるものです。けっして「つまらない」ものではありません。やっていて思いましたが、とても(知的に)面白いものです。若手研究者がそういった研究に食いつかない原因の一端は、「加害証言の重要性」や「それを追求する意味」「それを研究することの面白さ」を伝えられない、研究者を育てる側の問題もあるような気がします。日本だけでなく、ルワンダにだってコソボにだって、研究素材はごろごろ転がっています。


 この手の話は、すぐにイデオロギーへと還元されてしまい、「細かいことはどうでもいいから、ナショナリズムでいこうぜ!」という風潮になりやすい。でも、そんなことをいっていたら、日本はアジア諸国に干されてしまうような気がします。アジア諸国と日本とが共存していくためには、さきの戦争における被害と加害をクールなかたちで見つめなおす必要があろうかと思うし、最低でも「クールなかたちだけど、俺はさきの戦争に関する被害面も加害面も認識してるよ」とアジアの人びとにいえるようにすべきだと思います。いや、ニッポンの「国益」を考えれば、そう思わざるを得ません。


 一方で、アジア諸国の若者には、「過去のことは保留にしておいて、とりあえずお互いのメリットを享受し合おう」といった気運も、確実に浸透しつつあります。K社にいるとき、山田ゆかりさんというスポーツ・ライターの『日本はライバルか?』(ISBN:487652422X)という本をつくりました。コリアン・アスリートたちの日本への思いをつづった本です。この本を読むと、韓国では世代によって、「反日」の度合いがかなり違ってきていることがわかります。


 それはそれで、悪いことではないと思います。とはいえ、あくまで「保留」なので、何かの拍子に問題が噴出する可能性があります。とくに戦争の被害情報は、若者が知りたいかどうかということを抜きにして、年長者から脈々と言い伝えられていきます。その噴出に備えて、とりあえず加害情報をインプットしておく。で、戦争での加害的な側面について、たまたま日本に生まれてしまった者としての道義的な責任があることは、クールに認める。それを認めたからといって、恥をかくわけでも何でもないんだから。


 そういう姿勢が大切だということを実感できるのは、やはり実際に海外で(それもアジアで)、現地の人と腹を割って話したときなのかもしれません。その意味では、若いうちに海外への(それもアジアへの)旅をしてほしいですね。


 同時に、ときには、日本国内にいる海外の方や在日など外国籍の方(帰化した方も含めて)の声に耳を傾け、「なぜ彼らが日本にいるのか」ということを考えてみる。そういう知的好奇心を持つことも、大切なことだと思います。


 たとえば、上記で引用したインリンは、なぜあのようなことをブログに書くのか。たとえば、和田アキ子は、なぜ今のタイミングで、みずからが在日であることを『週刊文春』でカミングアウトしたのか。


 ちょっとカルチュラル・スタディーズ的かつポストコロニアル的な物言いになりましたが、「日本における両者の政治的なコミットの度合い」という部分を除けば、私はこのふたつの学問を支持しています。実際、アジアに長期滞在をして研究をすすめると、このふたつの学問から学ぶことも多い。この点では、宮台さんと見解を異にします。


 ほんとうは、「話」が通じない人たちへのインリンの断固たる姿勢についても紹介したかったのですが、さらに話が長くなりそうなので、TBのみしておきます。自分の話を聞いてもらいたかったら、人の話もちゃんと聞く。自分の書いたことを読んでもらいたかったら、人の書いたものもちゃんと読む。書いた人が自分と違う意見であっても、噴きあがらず、熱くならず、書き手に礼儀をつくしてコメントをする。そんな当たり前のことができず、目先の議論に勝った負けたと一喜一憂している輩が、いかに多いことか……。


 以下、9月12日付けインリン日記のTBです。


 http://blog.livedoor.jp/yinlingofjoytoy/archives/50185608.html


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2005年9月 7日 (水)



 我が家から徒歩3分のところに、「ふるほん結構人ミルクホール」というレトロな雰囲気の古本カフェがあります。うまい珈琲を出してくれる店です。


 古本ではありませんが、ぜひ弊社の本も売ってもらいたいと思い、去る日曜日に『挑発する知』と『日常・共同体・アイロニー』各1冊を納品しました。すると昨日、『挑発する知』が売れたとの嬉しい知らせがありました。


 谷中にいらっしゃったら、ぜひたずねてみてください。



 ふるほん結構人ミルクホール http://kekkojin.blog16.fc2.com/


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2005年9月 5日 (月)



 『日刊ベリタ』(2005年9月1日付)でこんな記事を読みました。以下に転載します。 



進化論に対抗し、神の「知的計画」 米で影響力増すキリスト教原理主義


 ブッシュ米大統領が最近、キリスト教原理主義者らが唱える「知的計画(ID)」を、ダーウィンの進化論とともに公立学校で平等に教えるべきだと発言、波紋を呼んでいる。知的計画は、地球上の生命の誕生には、創造主の力が働いていたとするもので、多くの科学者が認知している進化論とは、大きく内容が食い違う。大統領の政権与党、共和党リーダーであるフリスト上院院内総務も、大統領を支援する形で、ID教育に賛成の意向を表明するなど、ID推進派の力が勢いを増す気配だ。(ベリタ通信=エレナ吉村)



 ハリケーン被害の救済で失態を演じているブッシュさん。嵐とともに去っていきそうな票を、宗教票を増やして挽回しようということなのでしょうか。小泉首相の「靖国の論理」に似ていますね。


 しかしまあ、「神の『知的計画』」を学校で教えようと、大統領が推進してしまうんですから、すごい話です。


 記事の詳しい内容は、http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200509011401484




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2005年9月 5日 (月)



 次の日曜は仲正×北田トークの日なので、昨日、はじめて不在者投票なるものにいってきました。衆議院議員比例代表と小選挙区、ならびに第19回最高裁判所裁判官国民審査の投票です。


 9月4日から10日まで、午前8時から午後8時の時間帯で投票できるのですが、投票する気のある人にとって、これはありがたいシステムです。投票所には6人が常駐し、受付から投票までスムーズにおこなえました。


 「なんで、いままでやらなかったのだろう」とつくづく思いました。人件費や場所代などのコストはかかるのでしょうが、そういうことに税金を使うのなら、納税者も納得して払うんじゃないかなあ。それとも、投票率があがると困る議員を守るために、いままでやらなかったのかなあ。


 選挙日と同様に、子どもには風船をくれました。めでたし、めでたし。


 ちなみに、裁判官国民審査は、すべて「×」をつけました。理由は、第一にどの裁判官がいいのか悪いのかということを判断する情報が極端にすくないこと。この場合、「よくわからないけど○」と「よくわからないから×」という選択肢がありますが、私は後者です。第二に、情報がすくないのに「○×」で国民に審査をさせる、というシステム自体が気に入らないので、システムに対して「×」。


※訂正…不在者投票ではなく、期日前投票(きじつぜんとうひょう)でした。


 


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2005年9月 3日 (土)



 お待たせいたしました。仲正昌樹著『デリダの遺言』(10月20日発売予定)の序文を、以下に掲載します。感想などありましたら、ぜひコメント欄に書き込んでください。ちなみに、同書のサブタイトルは「『生き生き』とした思想を語る死者たちへ」です。



 序文



 本書のタイトルは『デリダの遺言』であるが、別に二〇〇四年に亡くなったデリダの思想を忠実に再現することを目指して書かれた本ではないし、そもそもデリダの解説書でさえない。ここで書かれているのは、デリダを含む何人かの現代思想家たちの言説を“適宜”利用しながら展開していく、著者の独断的かつ表層的な見解である。よって、デリダ自身の思想は、かならずしもメインになってはいない。「デリダ亡きいま、その遺志を継いで現代思想をリードできるのは、私だけだ!」というような誇大妄想に取りつかれているわけでもない。いっそのこと、それくらい思い込みの強い人間になれたら、きっと楽だとは思う。だが、なかなか楽にはなれない。


 また本書は、デリダのように、ごく少数の専門家にしかついていけない、きわめて難解な文体や不思議な言葉を駆使しているエクリチュール(書かれたもの=書く行為)でもない。いま書いているこの序文自体がそうであるように、それほど難しくはないはずである。思想的な本の著者には「(私の)心に響く生きた言葉」を語る義務があると勝手に決め込み、自分の知らないむずかしげな言いまわしがテクストのなかに出てくるや否や、「言葉が生きていない!」という言いがかりをネットに「書き込む」ことが習慣となっている人がいる。さらに、神のごとき”素人哲学者”さんにとっては、どう書こうと「むずかしい死んだ言葉の連なり」ということになるのだろうが、現代思想系の文章を普通に読み慣れている読者にとっては、どちらかというと、カンタン系に属するはずである。


 では、デリダとそれほど関係のない本に、売りのために、強引に彼の名前を借りた“だけ”なのかというと、そうとも言い切れない。デリダのエクリチュールに繰りかえし登場する重要テーマのひとつに、「音声中心主義」批判というものがある。それは本書のメイン・テーマでもある。その意味では、デリダが書き残してくれたエクリチュール(=遺書)を、書き続けていこうとする意図をもった本であるということはできる、と著者としての「私」は思う。そういうことをいうと、「デリダが『いおうとしていた』のは、この本に書かれているような、陳腐で下卑(げび)たことではない。偉大な哲学者を冒涜(ぼうとく)するな」と、デリダの「真意」に基づいて、「私」を責めるデリダ専門家――あるいは、その手の“専門家”を装って、いつものパターンの「書き込み」をやる2ちゃんねらー――も出てくると思う。確かに、これはどう考えてもテリダの「真意」を再現しようとする本ではないわけだ。


 とはいえ、“心”ある読者は、すこし立ち止まって考えてほしい。テリダが書き残した膨大なエクリチュールの背後に、彼が本当に「言いたかったこと」、つまり彼の「真意」が隠れているという大前提に立って、それから「ズレる」ものを間違った理解として排除することに、どれだけ意味があるのだろうか? デリダ「自身」がもういない以上、霊能者(medium)でもない限り、本人を呼び出して、どういうのが「正しいデリダ理解」で、どういうのが「間違ったデリダ理解」なのかを聴くことはできない。これまで彼が「書いてきたもの」をざっと見わたして、だいたいこういうのが彼の「言いたいこと」なのではないか、と類推することはできるかもしれない。しかし、それは絶対的に確かな解釈ではない。くわえて、思想系の本を書く人のなかには、本文の執筆が最後に近づいたところで、「……と述べてきましたが、残念ながらじつは……」とひねりたがる私のようなタイプの人が、すくなからずいる。デリダは、テクストの、あるいはエクリチュールのいたるところでそれをやる。よって、デリダをいくら細かく読み解こうとしても、「これぞ彼の真意だ……」という部分がなかなか見えてこない。


 では、デリダのように「死んでいる著者」ではなくて、「生きている著者」の本人をつかまえて、「このテクストに、こういうことが書いてあります。これを書いた時点でのあなたの真意は何ですか?」とたずねたとしよう。本を執筆したあとに、その著者が答えた内容は、テクストの「真意」と見なされるのであろうか。けっして、そう簡単にはいかない。まず、その著者が嘘をついている可能性があるし、それを書いたときの“真意”を本人自身が忘れたり、記憶が変形していたりする可能性もある。さらにいえば、他人の批評に触れたあとになって、ようやく自分の“真意”に事後的に気づくこともある。ネットでの批評文の圧倒的多数は、便所の落書き――むろん、落書きにも落書きなりの社会的「意味」はある――よりひどいものだが、まれに、批評された著者が「私はこういうことを書いたのだ」と感心するものもある。しかも困ったことに、いろいろな批評を見ているうちに、事後的に発見した“真意”が、時間が経過したあとで、さらにズレていくということがある。


 「私」のように“真意”がころころ変わるのは、カントの真意やヘーゲルの真意、そしてマルクスの真意などを口にしたがる各哲学教団の信者たちにとって、腰がすわっていない「立ち位置系」の思想屋――どういう脈絡でそう思ったのかは知らないが、2ちゃんねるのスレッドに、たいして印税で儲けていない私のことを、「思想屋」と評している書き込みがあった――ということになるのだろう。だが、それらの大思想家の“真意”が、ある時点(たとえば本を書き上げた時点)から生涯の終わりまで変化しなかった、ということは証明できない。神ではないので、他人の「心の動き」を読み切ることは誰にもできない。我われが参照することができるのは、どこまで当人の“真意”に対応しているのかわからないエクリチュールだけなのである。エクリチュールを解釈する絶対的権威を持つ存在は、著者自身を含めて存在しない――一番信用できないのは、著者自身なのかもしれない。


 「私」が書き残したエクリチュールは、けっして“私の真意”を忠実に映し出す透明な媒体ではない。“私の真意”は、それがエクリチュールとして「書き留められた」時点で、すでに「私のもの」ではなくなっている。むずかしい言い方をすると、「疎外態」になっている。ネット空間のなかでの「書き込み」の無秩序的な連鎖に象徴されるように、エクリチュールというかたちで、疎外態としていったん「私」の外に出た言葉は、本当にあったのかどうかわからない“私の意図”を離れて、ひとり歩きしはじめる。「私はそんなつもりでいったのではない!」と叫んでも、私の一言をネタにしてはじまった「書き込み」の連鎖を止めることはできない。「私」は、私が生み出したエクリチュールの主人ではないのである。


 ちなみに本書のタイトルは、私の発案ではなくて、私の「書いているもの」を途中から読みはじめた谷川さん(双風舎代表)の「読み」から生まれたものである。また副題のほうも、この本のもとになった企画について、ほかの出版社の編集者と相談しているうちに出てきたものである。本文を著者として書いた“私”と、「いま、ここ」――具体的にいうと、二〇〇五年八月二十六日未明に、金沢市平和町の公務員宿舎――でこの序文を書いている「私」は、まったく同じ“意図”を持っていないはずだし、この本が出版された時点での「私」の“意図”は、さらに変容していることだろう。


 「言葉」というものが、それを発した生身の人間によるその時どきの気持ちを、直接的に生き生きと「表象 represent」するはずのものであるとすれば、エクリチュール化されて疎外態になった“言葉”は、あきらかに「死んでいる」。生身の人間の“意図”から切り離されていて、「生き生き」していない。「私」は、「言葉」が発せられた瞬間に「死んで」しまうのは、仕方のないことだと思っている。とはいえ、そう思わないで、人びとの真意を伝えられる透明な媒体としての“真の言葉”を求めたがる人たちが、世の中にいることが問題なのだ。


 家族や友人、好きなタレント、作家、そして尊敬する政治家や思想家たちの“真意”を知りたいと願っている人にとって、生き生きしていないエクリチュールは、無機的な文字の連なりになってしまっているので、かえって“真意”を知ることを妨げていると思えるときがある。そこで、エクリチュール化されたものではなくて、当人の口から直接的に発せられる「生の言葉」を、“ホンモノ”としてありがたがる「音声中心主義」的な傾向が生まれてくる。官僚が「書いて」くれた作文を、たんたんと読みあげていた歴代の首相と違って、自分の「生きた言葉」――おそらく、「本音」や「真意」のことを指していると思われる――で語りかけてくれる「小泉さん」には、人気がある。トーク・セッションやトーク・ライブなどで、エクリチュールでは見られない「生きた言葉」で語りかけて、その“人間性”をあらわしてくれる作家や思想家も、人気がある。


 普段は忙しくて、むずかしい本など読むことができない人にとっては、日常生活に根ざし、しっかりした現実感覚を持っていて、庶民の「心」に響いてくるような「生きた言葉」のほうがいい、ということになる。もっと極端になると、その「生きた言葉」が、役人や知識人が使っているジャーゴン(専門的でわかりにくい言葉)では許されない。庶民、とりわけ「おかみ」の支配のもとで公的な場での発言権を与えられてない「苦しんでいる民」が、日常的に慣れ親しんでいるものでなければならない、という話になっていく。


 ようするに、「庶民」感覚に根ざした「心」と「心」が触れ合う「生きた言葉」の反対項が、エリートたちが庶民を欺くために使う、血の通っていない、いかにも作文したような「死んだ言葉」である。“一般大衆”をお客さんにしているマス・メディアや企業広告が、お客さんを味方につけるために、庶民に耳心地のよい「生きた言葉」というイメージを乱発するのは、ある程度は仕方がない。しかしながら、最近では、もともと「死んだ言葉」としてのエクリチュールを操ることを生業とする思想家や哲学者、そして評論家まで、「庶民の心」にじわっと伝わる「生きた言葉」を語ろうと必死になっている。「生きた言葉」を語らないと、罵倒されて、舞台からおろされる。人間としての「生の声」から疎外され、エクリチュール化のなかで硬直化して「死んでしまった言葉」を、機械的に反復することしかできない奴には、用がないのである。「私」のように、過去の偉い思想家のエクリチュール化された言葉しか語れない奴は、「庶民の生き生きした言葉」を抑圧しようとする敵なのである。


 こうした「生きた言葉」にもとづく「生きた思想」というイメージは、「生き生きした言論」の場からすこしだけ引いて考えてみれば、かなり怪しいものであることがわかる。第一に、あらゆる人間の言葉は、自分で発明したものではない。どんな庶民の“人間味あふれる言葉”であっても、自分以外の誰かから教えてもらったものであり、自分のオリジナリティなどごくわずかである。他人から教えてもらい、型にはまった言葉ではなく、私の“心の叫び”を“自然”と伝えるものこそが、「生きた言葉」であるとすれば、「生きた言葉を語る庶民」など、この世界のどこにも存在しない。先に述べたように、あらゆる人間の言葉は、口の外に、つまり音声として出た瞬間から、どこかで聞いたり読んだりしたような言葉として(エクリチュール化されて)、「再現 represent」される。そもそも、どこかで聞いたり読んだりしたような「言葉」として「表象=再現」されなければ、「意味」のある言葉として他人に理解されるはずはない。エクリチュールとして記号化されていなかったら、ただの雑音でしかなく、その印象はすぐに消え去ってしまう。


 第二に、「庶民の生活感覚に密着した言葉」といっても、庶民は日常的にいろんなことをしゃべっている。一日中、「感動した」とか「泣けたよ」などといっているわけではない。そんなせりふを口にするのは、ごくまれである。テレビのバラエティ番組を見て、アイドルや芸人のパフォーマンスをネタにしたり、近所のオバさんや会社の同僚の悪口をいっているほうが圧倒的に多いが、そんな言葉の断片をとらえて「生きた言葉」ということはまずない。マスメディアや生き生き知識人たちが、好んで取り上げる「生きた言葉」というのは、センスのない服を着て、しゃれた言い回しを知らないような、いかにも“庶民”らしい人が、権力者などに対して怒ったり、「反権力闘争に勝ち、感動して泣いている」といった“劇”的な場面で発せられる――当然のことながら、けっしてオリジナリティがあるわけではない――せりふである。


 しかも、そうした劇的な場面でのせりふのうち、「生きた言葉」として認定され、メディアに記録されるのは、一定の決まった型にハマっている言葉、つまりすでにエクリチュールに登録されている言葉である。たとえば、「偉い学者の先生には、俺らの気持ちなんかわかりっこないよ」といった、時代劇にでも出てきそうなせりふである――たぶん、それを口にした“庶民”も、時代劇を見てそのせりふを覚えたのだろうと想像できる。そういう言葉が、「庶民の生きた言葉」として新聞や雑誌で活字になったりすると、知識人も、それくらいの字や文は読める庶民も、そういう言葉こそが“生きた言葉”だと考えるようになる。「死んだ文字」からなる活字が、「生きた言葉」を「再現=表象」するという逆説が生じているわけである。それが、デリダが問題にしている「音声中心主義」のおおよその本質である――「おおよそ」としておかないと、「意味」のズレが大きくなるので、そういっておく。エクリチュールが、生きた「語り言葉(パロール)」の「再現=表象」様式を根底において規定しているにもかかわらず、エクリチュールによる支配が見のがされ、あたかも「生きた言葉」がいかなる媒介もなしに、“自然発生”するかのように見なされてしまうことを、デリダは問題にしているのである。


 では、「生きた言葉」のエクリチュール性が隠蔽されてしまうことは、なぜ問題なのか? その理由を、デリダ自身はそれほど具体的に語ってくれていないので、それを「私」なりに「補う」――デリダの重要なキーワードのひとつに、(エクリチュールによる「自然」の)「代補」というのがある――かたちで書いたのが本書である。


 とりあえず、生き生きした左翼な人向けの事例として、「小泉さん」や「真紀子さん」たちの、庶民の心に響く言葉のことを考えてみたらいいだろう。彼らを嫌っている左翼の人たちにとっては、彼らの言葉は空疎きわまりない騙しの言葉であっても、それは彼らの信仰者にとっての「心に響く生きた言葉」なのである。一度「生きた言葉」の魔力に取りつかれてしまうと、まわりの人たちがどれほど「あれはおまえを騙す悪魔による死の言葉」だと騒いでも、信仰者らの目は覚めない。いや、騒げば騒ぐほど、呪縛は強くなる。当然、こうした「生きた言葉」の呪縛は、右からだけでなく左からも生まれてくる。「権力者の言葉は殺し、庶民の言葉は生かす」などと、キリスト教の教えを変形したようなせりふを繰りかえしているうちに、「音声中心主義」にハマってしまう。対立している双方が、同じように「生きた言葉」の呪縛にかかり、相手の信仰はインチキで、自分の信仰はホンモノだと信じている。そのように、お互いが鏡に写った像のように同形的な発想をしている状態を「二項対立」と呼ぶ。


 ちなみに、ネット上で「生きた言葉」というのを検索すると、「イエスの生きた言葉」や「釈迦の生きた言葉」といった、偉大な教祖や聖人の教えを意味するものが、やたらと出てくる。これらの「生きた言葉」というものが、そもそも本人が実際に語ったのかどうか確かめようがない。にもかかわらず、権威ある教典(エクリチュール)のなかで「……と語られた」ということになっているおかげで、その権威を受け入れている信徒にとっては、「生き生き」と聞こえるものである、ということあきらかだろう。イエス=キリストを信じない人間が、「イエスは、自分で新訳聖書を書いたわけじゃないだろう。本人に直接会ったこともない弟子が、適当に作文したんじゃないか」という感じの懐疑的なことをいくらいっても、本気で信じている人間は「これは神の試練だ」と思って、よけいに「生きた言葉」への信仰を深める。ちょっとややこしい理屈をいうと、「教典」に権威があるのは、「生きた言葉」を「再現」しているからであり、「生きた言葉」が「生きている」という証は、それが「権威ある教典」に登録されている、という循環構造になっているのである。宗教のほかにも、左翼・市民運動団体や「新しい歴史教科書をつくる会」のような右系団体の宣伝ページでも、自分たちこそ「生きた言葉」を語る、心ある者たちであることが強調されている。それら左右のグループ内における「生きた言葉」に対する信頼性もまた、それぞれの団体の“生き生き”した綱領的な文書(エクリチュール)に支えられているのである。


 ここでようやく、本の「序文」らしい説明をしておくと、本書で論ずるのは、日本の現代思想の業界に、このところ蔓延し続けている「生きた言葉」の問題である。「生きた言葉」のエクリチュール性が意識されないことによって、どういう弊害が生じているのか。そして「生きた言葉」が近代の思想のなかで、どのようにあつかわれ、かつ批判されてきたのか……。この手の本――どういうのが「この手の本」かわからない人は、もっと勉強してください――では、思想史的な流れや現在の問題を指摘したあとで、なにがしかの「解答」を出さなければならない、というのが習わしになっている。だが、そういうことを、「私」はやらない。というか、現代思想の業界で、何かというと「解答を出せ!」と急かす傾向があるのを、狂った傾向だと私は思っている。多くの場合、「解答を早く出せ!」と叫ぶ人は、「生き生きしたもの」を追求する自分なりの路線が正しいと信じて疑わない人間であり、そういう意味のない急かしをまともに取り合っていたら、私もまた、「生き生き」路線にハマってしまうことになる。そもそも、このテーマで無理に「解答」を出すとしたら、「『生きた言葉』を追求するかわりに、△△の言葉を語る」というようなかたちにならざるを得ない。しかし、そんな答えを出したら、△△が仲正ヴァージョンの新しい“生きた言葉”になってしまうだけである。そういうバカげた話を再生産するのがイヤだから、その“真意”のマニフェストとしてこういうものを書いているのである。


 構成としては、第一章で、すこしだけ私自身の――さほど「生き生き」はしていない――個人的体験にそくしつつ、「生き生き」がどういう場面で、どういうふうに使われているのかを論じる。そして第二章と第三章では、「生き生き」への賛否をめぐる思想史を、かなり大雑把に概観する。第四章で、思想業界における「生き生き論客」たちのあり方を批判的に検証し、最後の第五章では、「解答」や「代案」を記すのではなく、私個人がどれくらい「生き生き」を嫌っており、どのようにして「生きた言葉を語る死者」にならないよう、心がけているのかを説明する。実際に「生き生き」と威勢よく書いた文章ではないので、“心”の底で「生き生きしたもの」を期待している人は読まなくてもいい。これだけ何度も断っているのに、2ちゃんねるや「はてな日記」に、「生きた言葉で書かれていなかった」「薄っぺらの言葉が素どおりしていった」「心に響くような、深い問いかけがなかった」といった、ステレオタイプな「死んだ決まり文句」を書き込まれるのは、うんざりである。



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2005年9月 2日 (金)



 宮台真司・北田暁大著『限界の思考』の発売日ですが、10月20日に決定いたしました。発売日の度重なる変更で、読者や書店人に迷惑をかけてしまったことを、この場をかりて深くお詫びいたします。


 なお、10月20日には、仲正昌樹著『デリダの遺言』も発売いたします。双風舎の本が、2冊同時に発売となる、ということですね。同書の「序文」は、お約束どおり、数日中に本ブログにて公開いたします。


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