双風亭日乗

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2005年10月11日 (火)

編集実況



 さきほど日記を書いたのだが、保留にしたまま別の仕事をしていたら、書いているのを忘れてプラウザを閉じてしまった……。今後は、秀丸で一度書いてから、webにアップすることにしよう。


 本日も『限界の思考』の最終チェックで出張校正。時間にゆとりのあるときは、初校や再校、そして青焼きのチェックを仕事場でおこなう。だが、今回のようにバタバタしているときは、印刷するギリギリの段階まで内容をチェックする必要が生じる。で、印刷屋にかようことになる。これが出張校正。


 一般的な書籍のオビは、製本屋の製本機で自動的に巻かれるものだが、『限界の思考』はオビが大きいので、人力で巻くらしい。つまり、通常の本よりも製本に時間がかかる。発売日は決まっているので、そこから逆算すると、『限界の思考』は今日中にすべての確認作業を終了しなければならない。だから出張して校正をする。


 『限界の思考』の内容について少々。この本の製作は、「A.編集がトーク内容を起こす→B.著者が加筆・修正・削除をする→C.著者校を編集が整理する→D.入稿」というかたちで進められた。本文の小見出しについては、Aの段階で私がつけた。私は小見出しを、読者の読みやすさを考慮しつつ、また内容にも配慮しつつ、適当なページごとに(なかば機械的に)つけている。ところが、拙ブログで知らせたとおり、著者のふたりの加筆量は、予想をはるかに超えた分量であった……。そうなると、加筆部分にも小見出しをつけたほうがよいのではないか、と思えてくる。だがしかし、以下の理由で、加筆部分に新たな小見出しをつけなかった。第一は、本文を読めば、どの小見出しの部分に筆者が加筆をしたのかが一目瞭然なので、「この部分は筆者が加筆した」ということを筆者からのメッセージとして、そのまま届けるのもよいのではないか、と思った。第二は、加筆前でも小見出しの分量が多いのに、これ以上ふやしてしまってよいのかどうかという迷い。第三は、ゆとりのない作業状況であったことから、新たな小見出しをつけている時間が、物理的にとれそうになかったこと。まあ、第三の理由が「主」で、第一と第二の理由は「言い訳」のような感じに受け取られよう。とはいえ、加筆部分に小見出しをつけるべきかどうか、最後まで迷ったのは事実。


 脚注についても、心残りがある。膨大な加筆分には、当然ながら脚注をつけるべき単語もたくさん出てきた。しかし、一部の単語については、脚注をつけたかったのだが、時間切れでつけられなかった。つけられなかった単語については、重版で対応していこうと思う。


 どの本も、「ああしておけば、よかった……」という思いが残る。その思いを教訓にして、次の本に活かしているつもりなのだが、ふたたび「ああしておけば……」となってしまう。まさに試行錯誤の連続なのだが、若輩者の編集屋に付きあわされている著者や、一応の完成品を手にとる読者にしてみれば、試行錯誤ではたまったものではあるまい。申し訳なく思っている。


 いずれにしろ、『限界の思考』にかんしては、上記のような問題点を差し引いても、十分にあまりがあるだけのモノができたと確信している。480ページにわたる分厚い記述により、低迷する現代思想業界に風穴をあけられればと願っている。『日常・共同体・アイロニー』のアマゾンの書評のなかで、「対談本体は、部分的に面白い箇所もあるものの、無駄に長過ぎ」というものがあった。まあ、それは読者の論理としては、「あり」の評価であろう。私は、読者の論理を尊重しつつ、それよりも著者の論理を優先して本をつくっている。すなわち、著者が言いたいことは、本のなかですべていってもらう、ということだ。著者の言いたいことが、私の言いたいことでもあり、それを伝えたいから、私は本をつくっている。活字商品として送り出すための最低限の対処はするものの、基本的に双風舎の本は、「著者の言いたい放題」である。そういう意味で、手応えのある本ができたなあ、とつくづく思う。


 おかげさまで、事前注文は5000部を超えた。アマゾンやbk1での事前予約も好調。あとは、満を持して刊行するのみ。


 『デリダの遺言』については、ちょうどデリダの没後1周年にあたる時期に発売できる。これも何かの縁なのか。この本は、仲正さんによる、デリダへの鎮魂歌だともいえる。


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