双風亭日乗

« 2006年1月 | トップページ | 2006年3月 »

2006年2月26日 (日)



ミリオン出版より『月刊実話GON!ナックルズ』が発売になりました。


今回は、とくに第一特集の「極左アウトロー伝説」がおもしろかったです。「ゲバ学研究」という記事では、立て看板やビラ、落書き、ヘルメットなどに書かれた左翼の「ゲバ字」に注目しています。


そういえば、編集長が久田さんから中園さんに代わったんですね。左翼を扱う記事が増えたのは、その影響なのでしょうか。久田さんは、『ザ・ハードコア・ナックルズ』の編集長として活躍するようなので、引き続き陰ながら応援させていただきましょう。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月24日 (金)



おくればせながら、スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」を観ました。ラストシーンで、不覚にも号泣しました。


当たり前なのかもしれませんが、戦時下で人を救うのは、多くの場合、商売をやっている人だったりするんですよね。権力はカネに弱い。


カンボジアにいるときは、私も権力にたくさんカネを払いました。カネがあれば、王様にも会えるし、首相や国会議長にも簡単に会える。そんな社会では、「賄賂はダメ」とか「クリーンな政治」とかいってられません。もちろん、賄賂や汚職がないに越したことはありません、とはいっておきましょう。


戦時下に入ったり、戦後の混乱期には、そんなふうになってしまうのかもしれません。日本の戦後もそうだったのかもしれませんが、生まれていなかったのでわかりません。しかしながら、社会状況によっては権力がカネ次第で動くことを、カンボジアで学びました。


そうなると、問題は非常時にカネで権力をどう動かすかということになります。シンドラーになることもできるし、私服を肥やすこともできる。どちらを選択するのかは、そういう状況にならないと、きっとわからないんでしょうね。私もよくわかりません。




長い映画なんですね~。鑑賞時間の計算を誤り、終わったら朝になっていました。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月22日 (水)



1月29日付の業界紙「新文化」の1面に、「アマゾン『なか見!検索』についての紙上議論」という記事が掲載されました。「紙上議論」は、言語学出版社フォーラムという組織の代表である岡野秀夫さんによる、「アマゾンに対する危惧」という文章を基本提言とし、それに対していろんな立場の人が意見を述べるかたちになっています。


くわしい内容は「新文化」を読んでいただくとして、以下に発言者と発言の要点のみ記します。基本的に、岡野さんが提示している「反対する理由」の是非をめぐって、他の方が意見を述べています。



岡野秀夫さん(言語学出版者フォーラム代表)


「アマゾンに対する危惧」


・出版社は自らコンテンツ価値極大化を。「利用する側」になるべき


・彼らは「書店」ではない。地球規模で覇権を争う巨大世界企業であり、コンテンツの内容よりもテクノロジーと資本の論理で動く会社だ


・そういう会社からのコンテンツ提供の要請に、出版社は慎重になるべき


・「なか見!検索」の出現で、出版界を支えてくれた書店の利益は、減るのではないか


<岡野さんが「なか見!検索」に反対する理由>


①このシステムは読者の利便性に適っているか? イエス


②それでは、著作権者、出版者の利益になるか? ノー


③今まで出版界を支えてくれた書店の利益になるか? ノー


高須次郎さん(流対協会長、緑風出版代表)


「出版者の存亡に関わる――結集し組織的に対応を」


・新品とユースドを並列販売するのは、出版社への営業妨害


・読者サービスの美名の下に本のコンテンツすべてをネット書店がスキャンすることを許したら、出版社の存亡にかかわる恐れがある


・著作権ビジネスとして組織的に対応していかないと、IT企業の前で出版社は埋没する


福島聡さん(ジュンク堂書店池袋本店副店長)


「ネットシステム、書店も利用――座り読み歓迎の現場から」


・書物は、実際にコンテンツの一部を確認した上で「読んでみよう」という欲求(=需要)を生み出す商品


・ジュンク堂では座り読み用の椅子・机を設置しているが、それらが売上げにマイナスの効果をもたらした感触はない


・インターネットは「開かれた空間」であり、リアル書店がネット書店のサイトを利用することは日常的。よって、「なか見!検索」はアマゾンによるコンテンツの「囲い込み」には、なりえない


・ただし、データが容易にダウンロードできる点には注意が必要


安藤哲也さん(楽天ブックス店長)


「相手にないもの追求――リアルとネットの共存は可能」


・「図書館栄えれば書店も栄える」の論理で、リアルとネットの共存は可能


・賢い読者はリアルとネットをうまく使い分けている


・互いに相手にないもの(サービスや売れ筋)を追求すれば、リアル書店とネット書店は共存できる


匿名(「なか見!検索」に参加している出版社の営業職)「読者動かす進化重視――出版社・書店こそ努力を」


・書店の利益にならない、とはいえない。ネットで検索してリアル書店で買う人は多い


・従来の売り方のまま進化しようとしない、多くの出版社や書店に問題がある


・アマゾンの問題点は、データを拾いきれていないことと「マーケットプレイス」



以上が紙上で議論されたことのポイントです。あくまでも私の要約なので、くわしくは「新文化」本紙を参照してください。


「なか見!検索」については、岡野さんと高須さんが反対、福嶋さんと安藤さん、匿名の方が賛成となっています。


私の立場を、上記の岡野さんによる三つの問いかけに答えるかたちであらわすと、以下のようになります。


①このシステムは読者の利便性に適っているか? イエス


これは、説明するまでもないですね。「なか見!検索」に反対している方も認めざるを得ない。


②それでは、著作権者、出版者の利益になるか? イエス


はじまったばかりのサービスに対して、なぜ著作権者や出版者の利益に「ならない」といえるのでしょうか。著作権者によっては、出版者が作品を囲い込むよりも、ネットでみずからの作品が広く読まれ、参照されることを喜ぶ可能性があります。さらに、「なか見!検索」によってリアル書店の本が売れなくなるということが実証されないかぎり、売上が横ばいであるか、前より上がっている可能性も否定できません。したがって、著者に払う印税額が上がるのか下がるのかもわからず、本の売上が上がるのか下がるのかもわかりません。わからないのに、著作権者や出版者の利益に「ならない」と決めつけてしまうのは、どうなのかなあと思います。


③今まで出版界を支えてくれた書店の利益になるか? イエス


これは福嶋さんが説明してくれています。リアル書店で立ち読みしても、ネット書店で立ち読みしても、リアル書店の売上げが下がるとは限らないということだと思います。ジュンク堂の椅子に座って、ある本の全文を読むことも、アマゾンの「なか見!検索」である本の全文を読むことも、読者にとっては同じく「読んでみようという欲求」を生み出す契機になりえる、ということでしょう。


反対派の意見を読んでいて感じることは、第一に新しいシステムに対する恐れです。見たことのない怪物が目の前にあらわれ、その怪物が自分らの味方かもしないのに、驚きのあまり相手のことをよく知る前の段階で敵視してしまう。たしかに、新しいシステムは先行きが不透明です。とはいえ、ネットのシステムは不可逆に進んでいくし、そのシステムで動いていくネットが開かれた空間であることは、今後も変わりのないことでしょう。


ならば、そのシステムを止めようとしたり、逆行させたりするのではなく、システムに乗っかったうえで、出版者や著者が開かれた態度を示すことは、しかたのないことだと思うし、必然的なことだとも思います。よくわからないから拒絶するだけでなく、よくわからないから試してみるというのも選択肢のひとつです。試してみて、ダメだと思ったら、その時点でやめればいいことです。


第二は、利権確保の匂いです。ネット上で著作権という場合、基本的には「権利の保護」というよりも「申し合わせ」程度の意味になるのではないか、と私は考えています。コンテンツを提供する側と、それを利用する側の「良心」のみが、かろうじて著作権なるものを保護する武器になりえるような気がするのです。


よって、「なか見!検索」に反対するよりも、安易なコピーやダウンロードは著者や出版社に対していかなる影響を及ぼすのかという啓発をおこない、コンテンツを提供する側と利用する側の「良心」とが、しっかりと「申し合わせ」できるような環境を整えることのほうが、意味があると考えます。


ある出版社がネットとの関係を一切断ったとしても、その出版社の作品や作品の一部はネット上に流通し、著作権を無視したコピペが減ることはないと思います。ネットがそういった「何でもあり」の状況であるにもかかわらず、ネット上での著作権を声高に主張するのは、あまり意味のあることとはいえません。出版の著作権ビジネスをおこなう人や団体が、ネット上の著作権侵害を監視するようなシステム(JASRACがやっているような)を構築できるというのでしょうか。おそらく堂々巡りになって、いくらお金があっても足りない状況になるのが目に見えています。


こんなことを書いていると、老舗中小零細出版社のおじさんたちから、ますます相手にされなくなるのかもしれませんね。別にいいんですけど。


以上の論点に関連して、Hotwiredでいとうせいこうさんがやっているインターネット投票は、書店人だけでなく、出版人や読書人も要チェックです。「本のことなんですが、ウェブ上で注文する習慣がついてしまい、めっきり書店に行かなくなりました。行動形態の変化に自分でもとまどってます。皆さんはどうなってますか?」といういとうさんの問いに、「いや、やっぱり書店にはこれまで通り行っている」「行く機会は確かに以前より少なくなった」「ほとんど行かずに、ウェブ上で本を買う」「全面ウェブ」「書店でもウェブでも本自体買わない」という五つの選択肢が提示されています。投票の状況のみならず、回答者のコメントもひじょうに参考になります。


http://hotwired.goo.ne.jp/webvoter/?id=18


| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年2月21日 (火)



先週木曜の東京MXテレビ「5時に夢中!」で、コメンテーターの中瀬ゆかりさん(『新潮45』編集長)と岩井志麻子さんが出ていて、岩井さんが何の脈絡もなく韓国の飲み屋の店長に文句をいっていました。なんでだろう、と思っていたら、『新潮45』のカラーグラビアで、岩井さんと中瀬さんが韓国のソウルへカジノ旅行にいったことを知りました。「岩井志麻子、カジノ&イケメン三昧 in ソウル」ってタイトルのグラビアは、まさに「こんなの、ありなのかよー」と驚嘆すべきものであり、岩井さんの連載「ドスケベ三都ものがたり」と合わせて読むと、岩井さんのぶっとびぶりは他誌に例を見ないことがわかります。


特別企画「セックス難民」では、お友だちの二松まゆみさんが「下流セックス」という記事を書いています。二松さんは、ネット上で夫婦仲相談所を主催し、その所長をつとめながら、『となりの寝室』や『もっと、夫婦は恋できる』などの著書では作家の顔を持つ方です。内藤みかさんの紹介で知り合いました。みなさん双風舎の著者でも何でもないのですが、おもしろそうだということで、内藤さんや二松さん、玄月さんらで性に関するトークをやろうと思い、いくつかの書店に相談しましたが、どの書店からも冷ややかな反応がかえってきたのを覚えています。現場の方は受け入れてくれるのですが、上司と呼ばれる方に話しがいくと「×」になっていたようです。「性」と「書店」は、ミスマッチなのでしょうか?


というわけで、事件を読むなら『新潮45』です。「誰なんだ」とか「どこまで信憑性があるのか」などといわれて久しい一橋文哉さんによる、世田谷一家惨殺事件のレポートが掲載されています。この事件、すでにマスコミでは忘れられていますね。


新潮社の雑誌は保守的だ、といって読まない「進歩的」または「革新的」な人も、きっといるのだと思います。しかし、社会全体が保守化しつつある現状(私がそれを支持しているわけではありませんので。あしからず)で、「保守的だから読まない」とある種の新聞・雑誌を読まないうのは、けっして得策だとは思えません。革新的あるいは進歩的なのであれば、まず相手のことを知ることがたいせつだと思います。それでなくても、おもしろいものはおもしろいわけですから、変に色分けをしてしまったり、毛嫌いしてしまうのは、もったいない話です。


そんなことよりも、時間がなくて読めない人が多いんでしょうね。実際は。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月17日 (金)



おくればせながら、北田さんが連載をはじめた「文學界」3月号(文藝春秋)を購入。


連載タイトルは「思考の遊歩」。今回は、「音声中心主義的パーソナリティ」というテーマで、昨年、精力的におこなった対談などの「お話し企画」について記述しています。


北田さんは、「お話し企画」が音声中心主義を蔓延させてしまう可能性があることをしていますが、たしかにそのとおりだと思います。純粋なパロールでもなく、エクリチュールでもない。それが対談本の特徴といっていいでしょう。


これも北田さんが書いていますが、対策としては、修正の段階で徹底的にエクリチュール化すべく、編集者が筆者にお願いし、筆者もそれを了承するような環境を整えることなのかもしれません。とりあえず、私はそうしています。


「文學界」の連載。仲正さんが終わり、北田さんがはじまる。人って、つながってるんだなあと感慨深く思いました。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月15日 (水)



ライブドア事件について、ライブドアのwebページで、山形浩生さんがコメントしています。


http://blog.livedoor.jp/ld_opinion/archives/50214752.html


東浩紀さんが『論座』3月号へ寄稿した文章について、「ホリエモンに夢を託すのは現実逃避だ、とかいうどうしようもない後出しじゃんけんも甚だしい駄文を書いていますが」と酷評。とりあえず、いい悪いは抜きにして、現在活躍している言論人で、これだけズバッと書ける人はあまりいません。貴重だと思いました。尊敬しております、山形さん。


たしかにホリエモンの評価については、後出しジャンケンが多いですね。ワイドショーのコメンテーターなんて、超・後出しジャンケンで物をいっています。あれだけ便利にホリエモンを使っていたテレビ局も、そのことにはほおかむりをして後出しジャンケン。自民党の人たちも。一部の新聞・雑誌も。


拙ブログでさんざん書いてますが、こういうときには悪者(と世間でいわれている人への)バッシングばかりをしていても、事の本質は明らかになりません。悪者の論理をしっかりと調べ、聞き入れ、理解することが重要なのだと思います。それをせずに、ただただ悪者バッシングばかりしていると、なぜそのことが起きたのかという点がうやむやなうちに、ニュースバリューがなくなって、事件の存在が忘れ去られてしまいます。


たとえば、往来堂書店の店長がホリエモン逮捕の日のブログで「いまテレビではいっせいに『私も怪しいとおもってました』とか、『虚業』とか、『カネの亡者』とか言い出してるけど、いままで黙ってて、急にそういうこと言い出すのはとてもみっともない。その意味でイチバンえらいのはデーブ・スペクターでした」と後出しジャンケンの論理について真っ当なことを書きました。すると、「小泉改革を推進するために、ライブドアを黙認しろと言いたいのでしょうか? 変な陰謀説に取り付かれて頭がいかれてしまったのでは?」などというコメントがつくわけです。店長が指摘しているのは、ライブドアがいい悪いということではなく、後出しジャンケンの問題なのに、なぜかライブドアを擁護する人は「頭がいかれている」という論理にすり替わっています。なんでこうなっちゃうんだろう……。


http://d.hatena.ne.jp/oiri/20060123


念のためにいっておきますが、私はホリエモンを擁護しているわけではありません。とはいえ、ただただ逮捕されたからとか悪いからといって悪者の論理を無視したうえで、自分が正義だという前提の後出しジャンケンで一方的に物をいうのは、あまり感心できることではないと思うのです。そういう一方的な論理は、そのときは気分がいいのかもしれません。しかし、事の本質が見えないままで騒ぎが終息すると、おそらく同じようなことが繰り返されて、ふたたび後出しジャンケンの論理にハマっていくことになるような気がします。


というわけで、意味もなくチョキの写真を撮ってみました。(笑)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月14日 (火)



講談社から「RATIO」という雑誌が出ました。突然、amazonの検索で引っかかり、さっそく取り寄せてみました。「本」という雑誌の別冊で、ISBNがついているので書籍扱いの雑誌です。以下、講談社のwebページより「刊行の辞」を部分引用します。「可能性に満ちた論考が自在に参集する場」というスタンスがいいですね。



刊行の辞


RATIOは、そのような新しい思想の可能性を探り、吟味し、検証するために生まれました。


今、来たるべき思想の時代を予見するかのように、日本にも世界にも、新しい思想の萌芽が見られます。若い言論が生まれつつあります。そのような、可能性に満ちた論考が自在に参集する場として、この雑誌が枢要な役割を演じられることを念じつつ、02号、03号と続けていきたいと考えております。



大特集は「アジアのナショナリズム」ということで、表紙には(おそらく)ブーゲンビリアの花が咲く小道の写真を使っています(右上の写真参照)。この写真が、あまりにもカンボジアの中小都市の小道で見かける風景に似ていたのです。それで、なんか懐かしくなってしまい、内容がどうのというよりも、ジャケ買いしてしまったわけです。


デザイン、凝ってますね。表紙は文字の羅列ですが、細いゴシックの隙間からしっかりと写真が見えます。本文は、テーマごと、もしくは論文ごとに組版デザインを変えてあります。デザインについては、全体的に好感を持ちました。


掲載論文が、これまたすごいです。とりわけ、「世界の現代思想を読む」という特集に、ローティの「予想不能のアメリカ帝国」やアガンベンの「人間の仕事」という論文の翻訳が掲載されています。エスポジトの「生政治、免疫、共同体」もおもしろそうです。


とりあえず、ローティの論考を読みました。以下、エッセンスの部分を引用します。



私のように、我が国を左派的理想の勝利の象徴として描く物語を作る人々は、合衆国がそれらの理想を実現し広めるために活動する力を保持することを望んでいる。合衆国には他国に干渉する権利はないというチョムスキーに、われわれは同意しない。独裁者に支配された国を制圧してそれを民主国家に変えるために民主諸国の軍事力を使用することは、左派的視点から完璧に擁護できるとわれわれは考える。(「RATIO」1号、講談社、174頁)



このローティーの意見に私は同意できませんが、論文の内容は9.11以降の、そして現在のアメリカを状況を、彼の視点からきっちりと観測しているもので、読みごたえがありました。ほかにも興味深い論考が並びます。


この雑誌にはほとんど広告がなく(巻末の自社広告のみ)、情報量が膨大なので、残りは時間をかけて読もうかと思っています。


きっとお金がかかっているんでしょうね。ブックデザインから書き手の選択まで、かけたお金がかたちになっているのはよくわかります。そして、もちろん編集の技があるからこそ、こうしたかたちで世に出たわけですね。


どれだけの部数を刷っているのかわかりませんが、本体1700円だと、よほど刷らないと元はとれないのでは?


というか、採算を度外視しているような佇まいがあります。


正直にいって、うらやましい。


「RATIO」を手に取りつつ、「よっしゃ~、来年あたりは書籍扱いの雑誌をやりましょか!」と強く思った次第です。大手であっても、ひとりであっても、出そうと思えば出せますからね。じつは、今年のうちにやろうかと思っていたのですが、『限界の思考』と『デリダの遺言』を一緒に出して、すこし疲れてしまいました。(笑)


みなさんの意見を参考にしながら、じっくりと雑誌づくりの準備しようと思います。


| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年2月13日 (月)



空がきれいでした。


昨日、東京都江東区の漫画喫茶で、ある女性が新生児を捨てたそうです。赤ちゃんは女児で、身長約38cm、体重1000g。店員が発見し、病院に運ばれたが死亡。女性は、いったいどんな気分で、赤ちゃんを捨てたんでしょうね。


きれいな空に、ひこうき雲。亡くなった赤ちゃんの思いは、ひこうき雲といっしょに、空高く飛んでいったのかなあ。そうだといいんだけど。


カンボジアでは、ポル・ポト時代が終わってから私が滞在しはじめた90年代初頭まで、農村では嬰児殺しがおこなわれていました。口減らしっていうやつですね。


農村の女性に子どもの話を聴くと、たとえば「ほんとうは6人だけどいまは4人」などという答えがかえってくる。ふたりはどうしたのか聞くと、病死だと答える。「ほんとうは4人だけど、いまは3人」で、ひとりは病死で亡くなったという。で、話を聞いた女性の子どもについて、別の家の人に聞くと、殺したとはいわないけれど、「死んだ」とか「処分した」と教えてくれる。


仲よくなっていくと、はじめは病死といっていたのに、みずから「子どもを殺した」という女性もいました。くわえて、集落の女性らは、どこの女性が子どもを何人殺したのかを、おたがいに知っていたりするわけです。女性らの認識は、「それは仕方のないこと」で共通していました。


いまいる家族だけ食うのもギリギリ。避妊の技術も用具もなし。それでも性欲はある。そして、子どもが産まれる……。そういう状況になったら、自分はどうするのかなあ、と考えました。いまより貧困になることを覚悟し、米の収穫がすくなかったら家族の誰かが餓える可能性があることも覚悟し、生まれた子どもを育てていくか。さらなる貧困のリスクを回避するために、生まれたばかりの子どもを殺してしまうのか。


もちろん、何があろうと殺しちゃマズいとは思います。そうは思いますが、私が彼らに「殺さないほうが、いいと思う」などといっても、状況は変わりません。私がちいさいときに「命たいせつに」を標語にしていた先生がいました。その先生が彼らに「命たいせつに」といって、いったい何の意味があるのでしょうか。彼らの困窮を継続的に救えるんだったら、そういうことをいってもいいかもしれない。そうじゃないんだったら、「命たいせつに」なんて、無責任で言いっぱなしの戯れ言にしか聞こえません。


すでに生きる家族の命をたいせつにするためには、新しい命を犠牲にせざるをえない。新しい命をたいせつにするためには、すでに生きる家族の命を犠牲にせざるをえない。頭ごなしに「子どもを産むな」なんていえる状況でもない。この状況を、どう考えたらいいんだ……。結局、よくわかりませんでした。


92年くらいから、アジア最貧国であったカンボジアの経済状況もすこしずつ底上げされ、嬰児殺しはあまり聞かなくなりました。とはいえ、生活に困窮して嬰児を殺してしまった女性の声は、いまだによく覚えています。


これは80年代カンボジアの話。現代日本で嬰児殺しはマズいと思います。どこかに相談すれば、なんとか育てていけるだろうし。月並みだけど、困ったことがあったら、誰かに相談してほしいなあ。哲学とかなら、ひとりで考え抜くことにも意味はあるのだろうけど、日常生活の困難をひとりで考えても、あまりいいことはありませんよね。


| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年2月11日 (土)



内藤朝雄さんが「図書新聞」で、月に一度の時評を連載するとのこと。


今回のお題は、「日本国憲法の価値は、『人類普遍』の人権、自由、平等でなければならない」。


論壇の吼える男として、邁進していただければと思います。


高速道路を疾走するのはいいのですが、暴走にはくれぐれも注意してください。(笑)


写真の「図書新聞」は、内藤さんの時評を担当する編集者の小山さんにお送りいただきました。ありがとうございます。最近、同紙で目を引く対談や連載は、ことごとく小山さんの担当ですね。心強いかぎりです。いろんな人のトークセッションでも、よくお会いしますね。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月10日 (金)




やはり、こういうご時世だからこそ、こういう文章を読んでおかねば。ちなみに、激高老人の正体は、社会学者の作田啓一さん(1922-)でございます。


http://gekko.air-nifty.com/bc/2006/01/post_d1ae.html


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月10日 (金)




ひさびさに参加しました。


テキストは、竹内洋著『丸山眞男の時代』(中公新書)です。


なぜ丸山さんが、いまの論壇で参照項たりえないのか。部分的な人びとだけにしか評価されないのか。そのことを考えていくと、現在の知識人の在り方にいきつく。そのような問題意識で、宮台さんは同書をテキストに採用したようです。


私は、刊行直後に購入して読みました。とてもおもしろい本です。ある知識人がさまざまな思想を生み出し、同時代の人びとに影響を与える。だが、その思想の裏側には絶えず実在がつきまとうものなんだなあ、と単純に思いました。


よく丸山さんは、普遍的知識人であり、アンガージュマンだといわれます。最近、なかなかそういう人がいないなあと思いつつも、「もしかしたら姜さんと宮台さんは、最近は数少なくなったそういう人なのかもしれない」と思ってつくったのが『挑発する知』でした。結果、やはりおふたりは普遍的知識人であり、アンガージュマンてあった、と私は思っています。


読者のみなさんは、どう思いましたか?


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月10日 (金)




昨日、セブンイレブンの飲み物コーナーにいったら、缶コーヒーを2本買うと「甦る絶版名車 スーパーバイク・コレクション」と称して、小さなバイクのフィギュアをもらえることを知る。


で、そのフィギュアにどんなバイクが含まれているのかを見たら、私が乗っていたバイクが2台もあったので、缶コーヒーを4本も購入してしまいました。フィギュア、けっこうよくできています。1台の長さは5cmくらいです。


1台が、YAMAHA RZ250(写真右)。これは高校3年のときに乗っていたバイクでした。友人の持ち物を長期で借りて、乗り回していました。2サイクルで、アクセルを握っただけそのままスピードが出るようなバイクでした。おなじタイプで排気量が350ccのほうは、横須賀地域では「走る棺桶」などといわれてたんですよね。あまりにも速く、あまりにも操縦がむずかしかったからでしょう。


もう1台は、HONDA CBX400F(写真左)。これは高校卒業と同時に、友人から購入しました。ヨシムラの手曲げマフラーをつけて、2年くらい乗りました。RZとは対照的で、乗り心地も操縦も安定していたバイクです。デザインもよかったなあ。


その後、HONDAのGB250クラブマンに乗ったりしましたが、いずれのバイクも身長180cm弱の私にはちいさすぎました。かといって、限定解除する気もなかったので、カンボジアへ渡るまでの数年は、HONDA XR250というオフロード・バイクに乗っていました。


カンボジアでは、もっぱらスーパー・カブの改造版を乗り回しつつ、ときどき年季の入ったVESPAに乗ったりしていました。「探偵物語」で松田優作がVESPAに乗る姿を見て以来、「いつか必ず乗るぞー」と夢見ていたのが、カンボジアで実現しました。


そしていまは、バイクなし、車なし。自転車一本の生活を送っている次第です。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月 9日 (木)




「ある往復書簡」と題された2月8日付「きっこの日記」は、かなりインパクトがある内容です。日常的なメディア報道においてはおそらく見えないような部分を、そして何よりも不気味な部分を、あからさまにしつつあります。


エイチ・エス証券の野口英昭副社長が沖縄で怪死した事件。「週刊文春」が三週連続で、「自殺は疑わしい」という前提で取材した記事を掲載しています(写真は「週刊文春」2月16日号の目次)。「きっこの日記」を読むかぎりでは、きっこさんはすでに「自殺は疑わしい」理由を知っているようです。すごい取材力だと思います。もちろん信憑性については、読んだ個々人が判断すればいい。


「きっこの日記」の記述が確かならば、かなり注目されている人であっても、ある見えないシステムに入り込むと、かなり簡単に自殺だと見せかけて殺すことができる。そんなとんでもないシステムが、日本にはあるのかもしれませんね。誰かがAさんを殺す。しかし、殺したのではなく、自殺したように偽装する。さらに、Aさんの死因が自殺ではないとわかっていても、何らかの強力な圧力がかかることにより、官憲もマスコミもAさんの死因を自殺で済ませてしまう可能性がある。


こんなことを書いたからといって、危機を煽る意図はありません。きっこさんが事件の実像を暴いてしまった瞬間に、「なんだ、そんなことだったのか」と納得し、安堵するのかもしれません。だかしかし、いまはそのシステムが見えません。見えないと、不気味に思えてなりません。私にできることは、官憲とマスコミを抑えているその強い圧力が、きっこさんに及ばないことを、ただただ祈るのみ。


一連のライブドアにまつわる大金の流れ。とりわけ堀江元社長の放蕩。ばらまき。カネと権力をめぐるホニャララ団や政治家とのつながり。重要人物の怪死。祭りのように騒ぐマスコミ。固唾を飲んで事件報道を見聞きする私たち。


麻雀ではありませんが、これだけ指が折れると、バタイユの「呪われた部分」を想起せずにはいられないのは、きっと私だけではないでしょう。


| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年2月 8日 (水)



『16歳だった――私の援助交際――』(幻冬舎)で衝撃デビューをはたしたフリーライターの中山美里さんが、第二弾となる著作を出しました。


『性職者の人々――あの世界の仕事師たち――』(宙出版)。オビには「性の最前線で光り輝く17人のプロフェッショナルたち。彼らが仕事観から自らの人生観までを語ったリアルなインタビュー集」とあります。


タイトルを、聖職者に引っかけて性職者にしたのが、なんともいえずいいですね。「聖」と「性」は、紙一重だと思いますし。


中山さんは、私が「これから会ってみたいなあ」と思っている人ばかりに話を聞いています。うらやましいなあ。17人のうち、私が会ったことのある方は、川奈まり子さんと溜池ゴローさん、内藤みかさん、江川達也さんだけです。


中山さんと会ったのは、夫婦仲相談所の二松まゆみさんの出版記念パーティーでした。川奈さんと中山さんとで美女軍団を形成して練り歩いていたところ、内藤みかさんがおふたりを紹介してくれました。


それが縁で、川奈さんのご自宅にうかがって、夫である溜池さんにごあいさつをしつつ、「なんかいいネタ、ありませんかねぇ」なんて話をさせていただきました。


人の出会いっていうのは、ほんとに不思議なものです。


食っていくのには厳しい職種であるフリーライターとして、地道に実績を築いている中山さんに、エールを送ります。


みなさん、ぜひご一読ください。


それにしても、「宙出版」と書いて「おおぞら出版」と読む。なんて壮大な版元名なのでしょう。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年2月 7日 (火)



私が横浜に住んでいたのは、1982年から90年の8年間でした。


中区で暮らし、働いていたのは横浜港周辺だったので、伊勢佐木町は「庭」のような場所でした。


その伊勢佐木町のメインストリートに、ときどき夜中にあらわれる真っ白なおばあちゃんがいました。うつむきながら、街角のベンチにぽつねんと座っていたおばあちゃんは、ハマのメリーさんと呼ばれていました。


メリーさんの詳細は、よく知りません。いつも荷物をたくさん持っていました。昔から横浜に住む人は、メリーさんが娼婦なのだといいます。髪の毛も白、化粧も白、服も白、腰が曲がり、いつもうつむいている。そんなおばあちゃんが娼婦だなんて……。


こういうのが、都市伝説というのでしょうか。


メリーさんは、私がカンボジア滞在中の95年に、忽然と伊勢佐木町から姿を消したんだそうです。


ショーケン(といっても若い方にはわからないかな。萩原健一さんです)が、アンドレ・マルロー・バンド(井上尭之さんやミッキー吉野さんら、すごいミュージシャンが集まったバックバンド)と活動していたのが、ちょうど私が横浜にいたころでした。そしてショーケンは当時、よく「メフィスト・ガール」という曲を歌っていました。この曲は、たしかハマのメリーさんのことを歌ったものだと記憶しています。


そんなハマのメリーさんの生き様が、映画化されたようです。その名も「ヨコハマメリー」(中村高寛監督、ナインエンタテインメント配給)。テアトル新宿と横浜ニューテアトルで、4月に「奇跡のロードショー」。


音楽でコモエスタ八重樫さんが参加、宣伝美術で鈴木一誌さんが参加、イラストで宇野亜喜良さんが参加……。なんか、すごい人たちがこの映画に協力しています。


この映画のチラシ(写真参照)は、「ホテル・ルワンダ」を観にいったとき、手に入れました。インパクトがありますね。たしかにメリーさんは、こんな感じのおばあちゃんでした。


このつづきは、映画を観てから書こうと思います。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月 4日 (土)



知人の手がけた番組が、今晩放送されます。ぜひご覧になってください。


以下、NHKのwebページから引用します。



NHK「ETV特集」(第2部)


『住民投票の10年 民主主義はどう変わるのか』


 2月4日(土) 教育テレビ 22:45~23:30


「日本の議会制民主主義をこわす」「革命的行為だ」「衆愚政治に陥る」──かつて国政を妨げるとして危険視もされた住民投票。それがいまや全国各地で年間150件以上(2004年)行われる一般的な政治手法となり、去年の衆院選挙は「郵政民営化を問う国民投票だ」とまで言われた。


新潟県巻町で全国初めての条例に基づく住民投票が行われてから10年がたつ。住民投票という直接的に民意を伝える手法は、どのような変化を遂げてきたのか。


住民投票に関するNHKアーカイブスの資料映像は5000件をこす。番組では、この豊富な資料映像と新たな取材によって住民投票10年の記録をひもときながら、住民投票という地方政治のうねりが日本にもたらした意義を探り、民主主義の将来を見つめる。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月 4日 (土)



以下、昨日のつづきです。


さきほどテレ朝「虎ノ門」を観ていたら、「こちトラ自腹じゃ!」という井筒監督が自腹で映画を観て、その映画を批評するコーナーで、「ホテル・ルワンダ」が取りあげられていました。辛口批評の井筒さんが、めずらしく星三つの満点をつけつつ、「この映画は啓蒙映画だ」といっていました。この映画が「啓蒙映画」だというのは、ある意味で正しい評価だと思いました。


「キリング・フィールド」にしろ「ホテル・ルワンダ」にしろ、「うちらの虐殺が、ほかの地域の虐殺よりもひどかったんだ」ということを表現しているわけではありません。そして、いい悪いは抜きにして、虐殺にあった国や地域の人は、自分らはこんなにひどい目にあったんだと言いたいに決まっています。私自身がそういう目にあったとしたら、やはり人に言いたくなるだろうし、ほかの人や国に対して理解と支援を求めることでしょう。


さらにいえば、ひどい目にあった側(被害者側)は、そのひどさを過剰に表現したり伝えたりすることでしょう。それは当然のことです。とはいえ、それをそのまま受け取ってしまうのはどうかなあ、と思います。そもそも、人の記憶なんて、かなりあいまいなものですし。


それで、ひどい目にあった側の「ひどい目」がどれほどのものであったのかと、なぜ「ひどい目」にあったのかを、ある程度の冷静さを確保しながら分析するためには、やはりひどい目にあわせた側(加害者側)の視点や証言が必要不可欠になると思います。


おもいきったことをいってしまえば、なぜ虐殺が起こるのかとか、虐殺を起こさないためにはどうすればいいのか、ということを考えるためには、殺される側の論理よりも殺す側のそれを知ることが、重要なのだと私は考えています。


だからといって、殺された側の論理を無視するのではなく、殺された側と殺す側のいずれの論理も取り入れ、相対化し、分析する必要があるということです。ただし、殺された側は話しやすく、かつ表現が過剰になりやすく、殺す側は話しにくく、かつ表現が過小になりやすいという前提があるとすれば、殺す側の視点や証言を重視せざるをえないわけです。


そういう意味でいうと、「ホテル・ルワンダ」には殺す側であるフツ族民兵の論理が、あまり表現されていなかったような気がします。歴史的な経緯を知らないでこの映画を観ると、どうしても「フツ族民兵は全員ひどい奴らだ」と思ってしまいがちになります。でも、短い時間のなかで、ストーリー的に整合性を保ちつつ、ルワンダ虐殺を表現するのは、たいへんなことだとは思いました。


「キリング・フィールド」では「旧人民と新人民」、「ホテル・ルワンダ」では「ツチ族とフツ族」という二項対立関係、もしくは敵/味方関係が浮かびあがり、その関係がちょっとした契機によって、虐殺へとつながっていく様が描かれています。


映画でも紹介されていたように、ルワンダではラジオが、虐殺の契機として重要な役割を担いました。カンボジアのポル・ポト時代では、逆にメディア機関がほとんど閉鎖されたことにより、地域共同体ごとのトップの判断次第で、虐殺がおこなわれたりおこなわれなかったりしました。いずれの国も、二項対立関係を強調し、一方が他方を排除する「号令」がかかり、虐殺が発生しました。


ようするに、ふたつの国の虐殺を描いたふたつの映画を観た私たちが考えるべきことは、二項対立やら敵/味方となってしまうと、人はいとも簡単に人を殺してしまう可能性がある、ということにつきると思います。


その意味で、「ホテル・ルワンダ」を観たうえで、ルワンダ虐殺よりもひどい虐殺があったとか、ルワンダ虐殺は表沙汰になったからまだマシだなどという議論は、その議論自体に二項対立を持ち込んでいるという点で、好ましくない見方をしているなあと思った次第です。


何事も、二項対立関係やら敵/味方関係に還元してしまうのは簡単だし、わかりやすいし、議論しやすいのは確かです。しかし、「ホテル・ルワンダ」を観た私たちは、そのように還元してしまうことには重大な問題点があるということを、それこそ「啓蒙」されるのではないでしょうか。


ただただ対立するだけではなく、たえず妥協や手打ちなども視野にいれた関係性を保つことが、虐殺の温床となるような「憎悪」を抑えることのできる唯一の方法であるような気がします。


二項対立にさせたがる人は、対立していないと自分の存在感や生き甲斐などが保てないのかもしれません。ポル・ポトなども、ポト時代の末期は、人びとにたえず敵を提示することによって、みずからの地位を確保していたように思えます。


とはいえ、これだけ世界でさまざまな事件が発生し、二項対立の行く末がしめされています。だから、自分の立ち位置がすこしくずれるかもしれないけど、対立しながらもすこし妥協したり手打ちをしたりして、対立以外の道を探ってみるのもよいかもしれません。


「自分が絶対に正しい」なんてことは、ありえないのですから。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月 3日 (金)




さまざまな感想や批評がネット上で書かれている「ホテル・ルワンダ」。


シアターN渋谷(旧ユーロスペース)で観てきました。


以下、感想などを。一部、ネタばらしが含まれますので、観てない方は観てから読んでください。


まず、日本人である私たちが、あまり想定できない状況を知るという意味で、おすすめです。


虐殺の実態を描いた映画といえば、「キリング・フィールド」を私は思い起こします。なぜかというと、第一に、同作品で描かれた国であるカンボジアに、虐殺について関心をもちながら長期で滞在していたからです。第二に、1995年以降は同国の各地でポル・ポト時代に関するフィールド・ワークをやっていたのですが、そのときに虐殺の実態が同作品で描かれたようなものなのかどうか、ということが絶えず参照項になっていたこともあります。


ですから、どうしてもカンボジアとルワンダを、あらゆる意味で比較してしまいます。もちろん、作品としての「キリング~」と「ホテル・ルワンダ」も比較してしまいます。


あまり単純にはいえませんが、この二作品の構成はけっこう似ているような気がしました。平和な日々→突然おとずれる社会変動→不条理な苦難と虐殺→苦難を乗り越えて希望へ。そんな展開ですね。


どちらも元ネタが実話なので、外国人の観客に対して「両国でそんな悲惨なことがあったのか」とすこし思わせるような説得力は、あるような気がします。映画の最後に「この主人公は実在の人物で、いまはどこで何をやっている」というようなテロップが流れるのも両作品に共通しています。このテロップで、「そうか、ほんとにこんなことが起きたんだなあ」と観た人は納得するわけですね。


納得したからどうなんだ、という話は、あとにまわします。私が両作品に共通して「?」と思ったのは、西欧人好みのヒューマニズム映画になっているという点です。「キリング~」を観たときに感じたのは、こういうことでした。


映画のラストで、主人公が国境を越えてタイの難民キャンプにたどりつく。その主人公がキャンプで仕事をしていると、そこにポト時代の前に主人公を助手として使っていたアメリカ人新聞記者があらわれる。ジョン・レノンの「イマジン」が流れる。そしてふたりは抱擁……。


このシーンは必要ないなあ、と私は思いました。主人公が国境の地雷原を突破して、タイの難民キャンプが見えた時点でやめとけばいいのに。最後の最後にアメリカ人が登場して、「イマジン」がかかって、「アメリカ人の俺には何もできなかったけど、心配していたんだよ。この再会を神に感謝」みたいなノリになるのは、いったいどうなのか?


人生なんて一寸先は闇かもしれないし、光かもしれない。カンボジアという闇を越えたら、たまたまタイの難民キャンプという光があった。それでいいのではないか。難民キャンプが見えた時点で、すでにハッピーエンドじゃないのかなあ……。


「ホテル・ルワンダ」の場合は、最後のほうで、国連のバスで主人公がホテルを脱出する。バスはフツ族民兵の支配地域を越え、海外へ脱出するための避難所にたどりつく。そこで主人公は、以前、世話になった赤十字のねえちゃん(西欧人)と再会する。そして、ねえちゃんのおかげで、行方知らずになっていた親戚の子どもに再会できるわけですね。


ここで私は思うわけです。なんで最後に西欧人を出さなきゃいけないのか、と。さらに、たくさん並んでいる子どものなかから、主人公の妻が親戚のふたりを探し出すわけですが、ほかの子どもたちはその再会シーンを、どう思ってみていたのかなどと考えてしまいます。ほかの子は、もしかしたら「いいな~、あの子は」とか「私たちはどうなっちゃうんだろう」とか思っていたんじゃないのかなあ。


結局、この作品についても、フツ族民兵の支配地域を脱出したところで、やめておけばよかったんじゃないか、と思ったりしたわけです。


ヒューマニズムなんていう西欧キリスト教的な概念は、日本人にはあまり馴染みがありません。それでも私は、学部生あたりまで、「ヒューマニズムが重要だ」などと肩に力を入れていました。でも、カンボジアに長期滞在して、その幻想はずたずたに切り裂かれ、「なんだ、ヒューマニズムなんてないじゃん」と思うようになりました。ヒューマニズムという概念は、人権という概念と馴染みがいいわけですが、やはり「人権なんてないじゃん」とも思ったわけです。


西欧人は、「自分の国にはそれがある」というかもしれません。それはそれで結構。だがしかし、それをほかの国に押しつけてはいけません。人の尊厳の基準とかレベルは、国とか地域によって異なるんですよね。それを普遍化しようとすること自体、かなり違和感のあることだと思いました。カンボジアにいて強く感じたのは、彼らがヒューマニズムとか人権というと、それは宗教と同義語なのではないかと思えてしまうことでした。


両作品は、最低限の人の尊厳が守られなければならない、ということを表現しています。その点では私も同意します。しかし、なんとなく西欧的なヒューマニズムや人権の普遍化を匂わせている点が、ちょっと気に入りません。その匂いが強烈に漂うのがラストシーンだという点で、両作品は共通しているのです。


あと、どこかでルワンダの虐殺よりもひどい虐殺が隠蔽されているのに、たまたま映画でクローズアップされて、ルワンダの虐殺のみが注目されるのはおかしい、という主旨の意見を読みました。


この意見には違和感を感じますが、眠くなってきたので、つづきは元気があるときにでも。


いずれにしても、この映画、一見の価値はあります。結局は他人事なのだけれど、共有できるものが何かないのかを考えたりしてもいい。ただただ漠然と「人って、こんなになっちゃうんだー」などと考えてもいい。「人って、けっこう簡単に人を殺しちゃうんだなあ」などと思うのもいい。ルワンダという国があるってことを、知るだけでもいい。


好評につき、今月いっぱいはシアターN渋谷で上映しているらしいので、お時間があれば、ぜひ足を伸ばしてみてください。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月 2日 (木)



昨晩は、新宿でカラオケ三昧でした。メンバーは、本田由紀さんと内藤朝雄さん、そして本田さんの教え子が数名。


本田さんの歌唱力に驚愕しました。いろんな歌を知っているし。また、内藤さんの歌のレパートリーが、思ったよりも多くて驚きました。「どんぐりころころ」だけじゃありませんでした。ビートルズの「The Long & Winding Road」がよかった。本田さんの教え子のみなさんも、たいへんノリがよかったなあ。


というわけで、熱唱中の本田さんを激写しましたので、アップします。暗かったので、ちょっとピンぼけでスイマセン。手前に並ぶビールジョッキに、本田さんの気合いが強く感じられます。笑


<関連情報> 「諸君」3月号(文藝春秋)に、本田さんと稲葉振一郎さん、若田部昌澄さんの鼎談「ニート『85万人』の大嘘」が、そして仲正さんの「あんたたちが『下流社会』の元凶だ」が掲載されています。さらに「ユリイカ」2月号(青土社)の特集が「ニート」。何人かの筆者が、内藤さんの論文を参照しています。ニートが言及される機会が、多くなってきましたね。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月 1日 (水)



頼み事があって、「新潮45」の中瀬編集長とメールでやりとりしました。


中瀬さんと出会ったのは、3年前のいまごろでした。私はK社で働いていたときに、俳優の高嶋政宏さんの『高嶋兄』という本をつくりました。ちょうど政宏さんの父である高島忠夫さんが鬱病を乗り越えて、芸能界に復帰しつつあるタイミングで、同書を刊行したんですね。


そのパブリシティーの一環で、「新潮45」に手記を書くことになった政宏さんと、同誌編集部との打ち合わせの席に私も同席したところ、そこに中瀬さんがいらっしゃったのです。


お互いに「近々、一杯やりましょう」と言い残したまま、飲まずに3年が過ぎてしまいました。直接は会っていませんでしたが、私は毎週木曜の17時から、MXテレビで中瀬さん(および作家の岩井志麻子さん)がコメンテーターをつとめる番組を見ていましたし、いまも見ています。(この番組は、放送コードの存在を忘れさせてしまうようなコメントが炸裂するすばらしき番組なので、みなさんもぜひ観てください!)


久々の連絡であるにもかかわらず、中瀬さんは私の頼み事について、まことに丁寧な対応をしてくれました。そのお礼に、微力ながら拙ブログで「新潮45」を紹介することを約束いたしました。



新潮45 2月号


■総力特集 明治・大正・昭和 文壇13の「怪」事件簿■


人生より難しき芸術はなし。日本文学に金字塔を打ち立てた文豪もまた、例外では なかった――。教科書には載せられない〈文壇版黒い報告書〉。


◆森鴎外「舞姫事件」の真相◆島崎藤村「姪との不倫」と不幸の連鎖◆岡本かの子「夫と年下の愛人」との共同生活◆狂気の天才小説家・島田清次郎「令嬢監禁陵辱」事件◆有島武郎の「軽井沢・人妻心中」◆芥川龍之介の服毒自殺◆徳富蘇峰・蘆花「兄弟喧嘩15年」の最期の一日◆谷崎潤一郎と佐藤春夫「妻譲渡宣言」◆プロレタリア作家・小林多喜二の拷問死◆猥褻か、芸術か? 伊藤整訳「チャタレイ夫人」裁判◆文壇の魔性・坂本睦子の華麗なる大物遍歴◆永井荷風の「1700万円預金通帳紛失」騒動◆深沢七郎「風流夢譚」嶋中社長宅襲撃事件


■小特集  結婚地獄変■


◆結婚できない「B型男」…丸山あかね◆夫を監視する妻たち…横田由美子◆恐怖の離婚ものがたり 「鬼嫁とカネ篇」…有島薫


◆オバはんに捧げる「2006年ニッポンの宿題」…福田和也◆「闘犬」の世界を往く…桑嶋維◆冬季トリノ・オリンピックを 45倍楽しむための薀蓄集…稲垣正浩◆中国共産党の聖都「延安」秘聞…坂井臣之助◆達人対談 香りの達人 中村祥二×ビートたけし◆ドスケベ三都ものがたり 誕生日には誰かを想って…岩井志麻子


■特別寄稿■


タリウム事件に見る、「殺さねば出会えない母」に関する一考察…藤原新也



などなど、内容は盛りだくさん! 毎月18日の発売です。


※写真は、新潮社のwebページをディスプレー上で撮影したものです。うまく撮れなくてすいません、中瀬さん。



来月、中瀬さん&岩井さんという最強メンバーと、一杯飲むことになりそうです。楽しみです。しかし、ちょっとビビっています。どうなることやら……。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月 1日 (水)



すごく久々に編集日記などを書いてみます。


といっても、ずいぶん先まで新刊を出す予定がないので、編集というよりも「仕込み」日記といったほうが正しいかもしれません。


チマ・チョゴリ本は、著者の韓さんが学業に忙しいため、昨年末からストップしています。まだ初校ゲラも出ていませんし、装丁も決まっていません。時事ネタというわけでもないので、のんびり取り組もうと思っています。


もうひとつの企画は、順調に進んでいます。というか、いまはこの企画の「仕込み」を懸命にしているところです。まだ内容をくわしく公表できませんが、そうそうたる執筆者がそろいそうです。すべてを紹介するとネタバレすると思われるので、主な執筆者のみを紹介します。


精神科医の斎●環さん、社会学者の鈴●謙●さん、SF評論家の小●真●さん、社会学者の宮●真●さん、社会学者の上●千●子さん、などなど。けっして社会学に肩入れしているわけではありませんが、弊社の書籍にはなぜか社会学者の執筆者が多いんですよね。その理由は、別の機会に書こうと思います。


ぜひ漫画家の方にも参加していただきたいと思っているのですが、なかなかうまくいきません。引き続き交渉をつづけていきます。


たまには在庫情報を。『デリダの遺言』は発行部数2000部(2刷)で、在庫は392部。在庫には返品分の66部(返品率4.1%)が含まれます。『限界の思考』は発行部数8000部(2刷)で、在庫は834部。在庫には返品分の171部(返品率2.4%)が含まれます。


これから返品が増えるとはいえ、発売から3カ月以上が経過していることから、この2冊の返品率は、おそらく10%以下になると思われます。


この返品率の低さについていえることは、第一に著者の力によるものが大きいです。第二に、大手取次をとおして大規模な配本をせず、事前注文によって「弊社の書籍を売ってみたい」という意思のある書店のみに配本していることが、功を奏していると思われます。もし大手取次に配本を依頼していたら、『限界の思考』ならば初版8000部で、すぐに2000~4000部くらい重版となり、3カ月後には2000~3000部くらいの返品がやってくる、ということになるのでは。


弊社の本が欲しくない書店も含めて、できるだけたくさんバラまいて露出度を高めたことにより、案の定、弊社の本が欲しくない書店から返品がたくさん返ってくる。これって、版元にとっては納品作業のムダとなり、書店にとっては返品作業のムダですよね。このムダな作業をすることによって、誰かが儲けているんでしょうか?


弊社の場合、こういったムダが、「書店が売ろうと思って置いてみたが、売れなかった」というような、書店も版元もあきらめのつく最小限のものにとどまっているのだと思います。


とはいえ、なんといっても弊社の本を買っていただいた読書人の方がたに、深く深く感謝しなければなりません。版元が自信作をつくっても、それを書店人が棚に積んでみても、けっきょくは読書人に買っていただかなければ仕方がありません。


『デリダの遺言』と『限界の思考』を買っていただいた方がたに、この場を借りてお礼を申し上げます。ありがとうございました!


そして、これからも何卒よろしくお願いいたします。


| | コメント (0) | トラックバック (0)