2006年7月30日 (日)
またまた『チマ・チョゴリ制服の民族誌』が朝日の記事に!
2006年7月28日付け朝日新聞大阪版夕刊に、著者の韓東賢さんと『チマ・チョゴリ制服の民族誌』が紹介されました(おそらく関西方面の朝日新聞のみに掲載)。著者の近影と書影もばっちり掲載されています。関西での営業代行をお願いしている「るな工房」の山本さんからの情報です。山本さん、ありがとうございました。
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2006年7月28日付け朝日新聞大阪版夕刊に、著者の韓東賢さんと『チマ・チョゴリ制服の民族誌』が紹介されました(おそらく関西方面の朝日新聞のみに掲載)。著者の近影と書影もばっちり掲載されています。関西での営業代行をお願いしている「るな工房」の山本さんからの情報です。山本さん、ありがとうございました。
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私がブログをやりはじめてから1年ちょっとになりますが、「ワーキング・プアな親を持つ子ども」というエントリーは、「1」と「2」の合計で8000アクセスという、これまで経験したことのない反響がありました。
多くの方がこの問題に関心を持っているということがわかりました。
なぜ関心を持っているのか。
自分がその当事者になるかもしれない、という不安なのでしょうか。その不安の原因を、社会の制度に結びつけて、「世の中がいけない」と思いはじめると、どん底への道を突き進んでしまうような気がします。実際には世の中がいけない部分もあるのでしょうが、世の中を変えるのはそう簡単なことではありません。ここはやはり、ちいさな幸せでもちょっとした楽しみでもいいから見つけて、「世の中は捨てたもんじゃない」と考えたほうがいいような気がします。まあ、自分がそうしてきたということであり、それを押しつけることはできませんが……。
また、弱者は強者のことを、また強者は弱者のことを、お互いに理解していないし理解できない、という意見がありました。どこで両者の線を引くのか、という重要な問題をとりあえず置いた場合、両者がたいして違わないという論理自体は正論のようにも思えます。しかし、それを言ってしまうと、「弱者が強者になれないのは、弱者の自己責任だ。終了~」となってしまう危険性もあります。ワーキング・プアな方が存在する理由のなかに、すくなからず「世の中がいけない」という部分もある以上、弱者の自己責任で終わらせてしまうことには問題があろうかと思います。
どうして以上のように考えるのかというと、それは私が12年ほどカンボジアという国で、一般の日本人には「貧しい」とイメージされている外国人と暮らしていたことに起因します。
たとえば、日本人の誰かがカンボジアにいったとします。すると、その日本人はカンボジアに降り立ったときからすでに、カンボジア人には強者だと思われます。よほどの貧乏旅行をしている日本人以外は、カンボジア公務員の年収の4倍くらいする航空券を買って来ているんですから、金持ちまたは強者と思われて当然のことですね。
で、数日とか数週間とかの短期で滞在するのなら、強者×弱者なんてあまり気にしないで過ごせますが、年単位で滞在していると、嫌でもそういうことを気にしないと暮らしていけなくなります。私自身は、自分が平均的なカンボジア人よりもお金を持っているし、いいところに住んでいるということを十分に自覚したうえで、カンボジアの人たちと接していました。それを威張る必要はありませんが、隠す必要もないのですから(というか、隠す以前の話として、口コミですべてバレてしまいます)。
とはいえ、けっして強者×弱者という思考で自分とカンボジア人の関係を考えませんでした。また、強者=弱者(たえず関係性の反転がありうる)とも思いませんでした。では、どのような考えでカンボジア人と接していたのか。かなりベタに、日本人の私とカンボジアの人たちの違いについて、「これは『差異』なんだから、いくら相手と同じになろうとしても無理。同じ部分も違う部分もお互いに認めつつ、関係性をつくっていくしかない」と考えていました。
長く住んでいると、日本人のなかにも「カンボジア人と同じような家に住み、同じものを食べ、同じ生活レベルで暮らしていこう。そして、私は日本人だけど、カンボジア人に同化しよう」という絵空事をいったり、それを実行していたりする輩を見かけたりします。そういう人はとりわけ、カンボジアは「かわいそうだ」とか「貧しい」とかイメージしていることが多い。さらに、相手と同じに状況になって、相手を深く理解し、「かわいそう」で「貧しい」相手を「助けてやろう」とか「援助してあげよう」と考えていたりする。
これはタチが悪いですね。とくに自分で勝手に「良心」だと思って、そういうことをやっていたりすると、なおさらタチが悪い。相手と同じ生活レベルになってみた場合、自分は相手のことがすこしわかるかもしれませんが、相手が自分のことを理解しているかどうかはわかりません。この部分は、いくら自分が努力しても、平行線である可能性があります。また、そうやって相手のレベルに生活を合わせることが、相手にとって迷惑であることも考えられます。
逆に、助けたり援助したりすることを「しょせん、自己満足でやっている」と割り切っているほうが、ぜんぜん救いがあります。助けるほうは自分の満足のために助けているわけですし、助けられるほうも「やつが勝手にやっているんだから」と思えて気が楽でしょう。
以上のような話を、日本のワーキング・プアの話に直接むすびつけることはできません。しかし、ワーキング・プアを考えるときのヒントになるような部分は、あるような気もします。
たとえば、人と人との関係を「強弱」とか「同列」というふうに固定化してしまうのではなく、とりあえず強弱高低をぬきにした「差異」だと考えてみる、ということ。その「差異」を認めた(これが、相手を理解するということだと思います)うえで、その先の関係性を考えていくこと。さらに、「差異」を認めたうえで、自分が相手に何かを施したいと思ったら、それは自己満足で施すのであって、けっして見返りを強要しないということ(見返りもしくは成果を強要するタイプの人が、開発経済学とやらを勉強してきたNGOの人のなかに、たくさんいたのを覚えています)。
相手との「差異」がわかってくると、相手と同化することはできません(そんなことはする必要もないと思います)が、「共感」できるようにはなると思います。私は、こうして相手に「共感」できるかどうかということが、けっこうたいせつなことなんだと思うんですよね。相手に何もできなくたって「共感」してもいいし、「共感」したから何かをやろうと思ったっていい。
ただし、本とかテレビとかの情報だけでは不十分で、ある程度は相手と生身の接触をしないと「差異」がわからないし、わからなければ「共感」もできないというのも事実だと思われます。「じゃあ、どうしたらいいの?」と問われれば、やはりいまの私には「わかりません」としか答えようがありません。とはいえ、元ワーキング・プアな親を持つ子どもだった私には、この問題をずっと考え続けていこうというモチベーションはあります。
最後に一言。私は「ワーキング・プアな親を持つ子ども」というエントリーで、NHKの番組の一部に文句をつけましたが、番組全体については高く評価しています。そのことは同エントリーの冒頭で書きました。ですから、同エントリーを「NHKの番組がよくなかった」ということの論拠に使われるのは不本意なことだと思っています。
上記で「差異」とか「共感」についてさんざん書きましたが、いずれにしても「相手」が誰なのかがわからなければ、「差異」を認識することもできないし、「共感」する可能性もありません。私はカンボジア滞在時に、より多くの日本人にカンボジアのことを知ってもらおうという自己満足的熱意があったことから、数多くのテレビ番組制作に企画の段階から関わりました。しかし、テレビで何度も放映しても、遠い国の出来事に関心を向ける日本人はわずかであることを実感しました。
しかしながら、日本国内の問題となれば、関心の度合いはぐっと高まるでしょう。「相手」が誰なのかが、見えやすくなるでしょう。見えなければ、何が問題なのかもわかりません。ですから、問題点をわかりやすく明示してくれたという意味で、あの番組を私は高く評価しています。そこを起点にして、たくさんの議論が起こるということが重要なのではないかと思っています。
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2006年7月27日付けの業界紙「新文化」の「ジャンル別週刊ベストセラー」によると、三省堂書店神田本店の社会・人文ジャンルで『バックラッシュ!』が堂々の売上第一位!(7月10日~16日)。
三省堂さん、そしてご購入いただいた読者のみなさん、ありがとうございます。
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なによりも沖縄暴走族の眼差しが、とても強烈でした。
注目の記事は、以下です。
・グラビア 吉本興業、歌舞伎町乗っ取りか?
・第一特集 極悪政治家は誰だ!?
とくに「小泉首相の愛した『ちょんの間』」という記事
・及川健二さんによる「革命の国フランスでエロ革命が始まった!!」
・第二特集 お笑い芸人、黒い事件簿
とくに「お笑いと創価学会『本当の関係』」という記事
・渋井哲也さんによる「女子校生『ネット心中』事件の底知れぬ闇」
・横浜銀蝿27年目の「真実」
・フジ女子アナ高島彩「近日逮捕」か!?
ホリエモンとのつながりでインサイダー取引の疑惑が
久田さんがいなくなっても、ナックルズは元気です。
ぜひご一読を!
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前回は、私が養護施設に入ったというところまで書きました。ワーキング・プアとからめていえば、そもそも母子家庭という状況自体が、いくら働いても豊かにならないという可能性を秘めていたのだともいえましょう。現在のような母子家庭に対する行政の保護措置が、当時(33年前)はほとんどありませんでしたし。
いまはどうなのでしょう。母子家庭だからといって、ワーキング・プアになるとはけっしてかぎらないということを、多くのシングル・マザーが証明してくれているような気がします。私の知人でいえば、内藤みかさんもそうだし、くらたまさんだってそうですよね。
とはいえ、そういうパワフルなシングル・マザーばかりがいるわけでなく、自分の能力を発揮できない場所で働いていたり、思うように稼げなかったり、子育てと仕事の両立に疲れているシングル・マザーもたくさんいるのだと思います。そういう方は、やはりワーキング・プアそのものか、その予備軍になってしまうのでしょうか。
さて、話をワーキング・プアな親を持つ子どもにもどしましょう。
ワーキング・プアな親を持つ子どもが成長すると、やはりワーキング・プアな大人になってしまうのでしょうか。たしか番組では、そうならざるをえないと結論づけていたような気がします。親に教育費を出すお金がなければ、子どもの教育はおろそかになり、結果として進学も就職もうまくいかない、という構造ですね。
番組のこの部分は、どうかなあと思いました。前回、施設というのは、ワーキング・プア現象によって出てきた澱の溜まる場所なのではないか、と書きました。ようするに、働いても豊かになれない家族が、最終的に壊れてバラバラになってしまい、バラバラになった部品のひとつがたどりつく場所が施設だ、とでもいいましょうか。
もしワーキング・プアが親から子どもへと引き継がれ、再生産されていくものなのだとしたら、ワーキング・プアが壊れた結果として施設に送られた子どもは、ワーキング・プア以下のところから出発せざるをえない状況に置かれるわけです。
たしかに、施設に入れば、生活環境のすべてが「最低限の水準」に近いものになります。食事も服も学用品も、基本的には配給されます。自由に使えるお金は、中学生で月に1000円程度、高校生でも3000円くらいでした。登下校以外の外出は制限され、月に1度、日曜日に数時間だけ。当然、塾などに通えるはずもなく、集団生活なので就寝時間が早いため、勉強ができる時間も限られていました。
そのような環境に子どもが置かれると、ある程度は自助の努力をしないと、勉強はつまづきがちになってしまいます。勉強がついていけなくなったら、それをフォローする人はほとんどいませんから、どんどんついていけなくなります。おまけに、施設にいられるのは高校卒業までなのですが、「公立高校」に入れないと中卒で施設を出させるをえません。私立は受けられないので、まさにギャンブルのような受験をしました。落ちたときのことを考えて、受験勉強をしながら寿司屋に面接にいったりもしました。高校進学か寿司屋か。中学3年にして、そういった重大な選択を迫られるわけですね。(笑)
その施設には、私と同学年の子どもが8人くらいいたのですが、高校に進学できたのは私を含めた半分で、のこりの半分は中卒で就職しました。就職先は、板金工や縫製業、寿司屋などだったと思います。親がいるのに、引き取ってもらえなかったり、親がいなくて寮のある会社に入ったり。けっきょく、その4人とも就職先をやめてしまい、ある人はヤクザになり(いまは某組の幹部をやっているらしい)、ある人は右翼に入り(もう辞めて、いまは行方不明)、ある人は自殺し、ある人は風俗でシャブ漬けにされたあげく行方不明になりました。
施設を中卒で出ていった友の生き様を見ると、たしかにワーキング・プアは家族内で再生産される、といってもいいかもしれません。ある意味では、現在、ワーキング・プアである家族の行く末を例示しているようにも思えます。最近は、上記のような流れのほかにも、ホームレスという選択肢があるようなので、一概にどうだとはいえませんが。
では、高卒で施設を出た友の行く末はどうなったのか。工業高校を出た3人のうち、ひとりは某大手自動車会社の工場でいまも働き、ひとりは某宅急便会社の職員をいまも務め、ひとりは某ミシン会社の営業を辞めて行方不明になりました。私は普通高校を出て、鉄道会社や公務員、出版社を経てカンボジアで12年ほど暮らし、帰国してからは出版社をやっています。
番組に触発されたからといって、全国の統計データなど入手できず、こうして身近な事例を示すことしかできませんが、とりあえずワーキング・プア以下の状態であった施設の8人の子どものうち、現在、3人はワーキング・プアな状況ではないわけですね。この状況を見るときに、5人を見て「悲惨だ」と思うか、3人を見て「救いはある」と思うか。3人のうちのひとりである私は、5人の友のような悲惨な状況もありえるとわかっていながら、どうしても「救いがある」と思ってしまうんですよね。
番組の取材班は、かぎられた時間のなかで取材をし、撮影をしています。限られた情報のなかで判断した場合、ワーキング・プアは社会の構造的な問題であり、なかなか解決が困難であり、ワーキング・プアな親を持つ子どもは、やはりワーキング・プアになってしまう実状がある、という話はほんとうのことだと思われます。だがしかし、そういう悲惨な事例ばかりを取りあげて、いかにも未来がないように報道するのは、どうかと思ったんですね。
それでは、ワーキング・プアな親を持つ子どもが、いかにしてみずからがワーキング・プアにならぬようにすればいいのか。子どものうちから「未来がない」などと考えずにすむようになるのか。この点は、そう簡単には提案することができません。それは、各家庭によって、あまりにも社会に置かれた状況が違いすぎるからです。
とはいえ、そういう子どもが「未来があるかもしれない」と思えるようなポイントは、いままで書いてきたなかでも散見されます。私自身が「未来があるかもしれない」と思ったポイントは、「高校に入れた」という部分でした。中学のときに、ボランティアで勉強の指導をしてくれていた歯科大生に、「施設にいるからといって、将来を悲観する必要はない。高校を出て、ちゃんと就職すれば、施設の外にいる人たちと何らかわりのない生活ができるんだよ」という、しごく当たり前の言葉をかけられました。けっきょく施設を出るまで、私はその言葉をリフレインのように繰り返し思い浮かべることになったのです。
歯科大生からその言葉を聞いて以来、中学生のときから「高校を出たら公務員になる」と心に決めて、公務員になるためにはどこの高校に入ったらいいのかとか、何の勉強をしたらいいのかということを考えつつ、施設ライフを送ったのでした。結果として、公務員に準ずるような安定度のある私鉄に入ることができました。
悲惨な状況にある人たちに、あなたは悲惨ですねと再確認をするということは、悲惨な状況にある人たちのことを、何らかのかたちで(たとえば番組というかたちで)悲惨でない人たちに伝えることと似ていますね。悲惨な人にとっては、そう確認されたり報道されたりすれば、「この人(テレビ局や番組を観た人)は、私たちのことをわかってくれている」というシンパシーが、テレビ局や番組を観た人にわくかもしれません。とはいえ、テレビ局や番組を観た人たちが、悲惨な人たちに、いったい何をしてくれるというのでしょうか。即効力のある処方箋は提供できませんね。
何もできないのがわかっているのならば、せめて悲惨な状況にある人の「未来がない」部分を表現するだけなく、そういう状況に置かれても「救いはあるかもしれない」という部分も指し示すくらいのことはしてほしかったなあ、と思いました。取材の結果として、現在、ワーキング・プアな親には未来がないことがわかったとしても、その子どもの未来がないとは、テレビ局の人にはいえないんですから。番組中に放映された施設の子どもの映像が、いかにも「この子どもたちにも未来がない」という文脈で使われていたのが気になって、ここまでつらつらと書いてしまいました。
ちなみに、こうしてみずからの体験にもとずく事例を示してみましたが、ワーキング・プアがいいとか悪いとか、どうすればなくなるといったような「価値判断」は排除してあります。実際、どうすれば悲惨な状況から脱却できるのかとか、どうすれば働いたらそれなりに豊かになるのかと聞かれれば、私には「わかりません」としか答えようがありません。
ただただ、「ワーキング・プアな親を持つ子どもの未来まで、勝手に番組で暗示するなよ~」ということが言いたかったのです。
つまらぬ体験談を書き連ねてしまい、すこし反省しております。
※ぜんぜん関係ありませんが、写真はうちの寅です。子猫だったのに、すぐ大きくなるんですね。
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放送してから話題となっているNHKスペシャル「ワーキング・プア」。さきほど、再放送を観ました。
よく取材していますね。それも長期にわたって。出演者の人選だって、さんざんリサーチをして、いろんな人にアプローチをかけた結果、あの方がたに決まったのだと思います。制作者の「ここが問題だ」という主張と熱意が感じられました。取材期間からいっても、予算からいっても、NHKじゃなきゃできない番組ですね。
でも、この「ワーキング・プア」という状況というか現象は、けっして新しいことではなくて、もっと前からあったような気がするのは、私だけでしょうか? 今回は、ワーキング・プアという現象そのものというよりも、ワーキング・プアな親を持つ子どもが、どのような状況におかれているのかということについて、私自身の経験をもとに取りあげてみます。
私は、物心ついたときから母子家庭で育ちました。かあちゃんは、ずっとキャバレーで勤めていて、夜はいつも家にいませんでした。それでも、かあちゃんが水商売をやっていて、ある程度の稼ぎがあったからでしょうか、私はフツーに「幼稚園」(保育園ではない)に通い、フツーに小学校にも通っていました。おまけに、リトルリーグとかに入って、野球もやっていました。
小学2年くらいになり、風呂なしのアパートに引っ越したときは、それこそ番組に出ていた中学生ではありませんが、銭湯代と夕食代を毎日わたされ、自分で風呂に入って、それからラーメンなどを食べていました。で、私が物心ついてからずっと水商売をしていたかあちゃんは、いい加減に身体のガタがきて、私が小学4年のときに亡くなりました。その後、児童相談所で半年、さらに親戚の家と里親に1年ずつお世話になり、小学6年のときに横須賀の養護施設に入り、そこに高校卒業までいました。
子どものときには気づきませんでしたが、大人になって振り返ってみると、母子家庭であった我が家はまさにワーキング・プア世帯だったと思います。まあ、かあちゃんがそうだったということですね。それで、かあちゃんの場合は、私にはできるだけフツーの思い(学用品や学費、給食費といった学校関係。お誕生会などの友だち関係。野球やマンガなどの趣味関係)をさせる、つまり金をかけるかわりに、みずからの健康管理がずさんになってしまった(健康にカネをかけなかった)ような気がしないでもありません。死人に口なしなので、実態はわからないのですが……。
働いても豊かにならない世帯や家族から、少なからずカネを稼いでいた働き手がいなくなったら、その世帯や家族が壊れてしまうのは、いうまでもありません。私の場合は、働き手がひとりしかいない母子家庭なので、働き手を失った瞬間に、上記のようなわかりやすい壊れ方をしました。
当時、1970年代の当時は、養護施設といえば「孤児院」というイメージがありました。施設は、親がいない子どもが入るところ。そういうイメージですね。私がいた施設は、乳児から高校生まで、100人くらいが暮らしていましたが、実際に両親が不在の子どもなんて、1割もいませんでした。両親がそろっている子どもがもっとも多く、その次が片親、その次が両親不在という順です。
施設の子どもは、ほかの子の家庭環境について、異常に興味を持ちます。よって、高校生まで施設にいれば、入所しているほとんどの子どもの家庭環境が、頭にインプットされたりもします。その記憶を思い起こすと、たしかに親が犯罪を犯して刑務所にいたり、精神的な病にかかっているケースもありました。しかしながら、もっとも多いのは、両親であれ片親あれ、経済的な理由で親が子どもを施設にあずけるケースだったと思います。つまり、私がいた施設には、ワーキング・プアな親を持つ子どもがウジャウジャいたわけです。
ようするに、ワーキング・プア現象によって出てきた澱の溜まる場所。それが養護施設だったような気がします。日本の福祉行政を持ちあげる気はありませんが、澱がどこかへ流れていってしまうのではなく、澱が溜まる場所があったということは、私にとってたいへんありがたいことでした。
次回は、ワーキング・プアな親を持つ子どもについて、もうすこし突っ込んで考えてみます。あくまでも私的な体験にもとずく記述なので、あまり期待しないでください。(笑)
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『週刊朝日』8月4日号の「ニュースな本」というコーナーで、あの永江朗さんの手による『チマ・チョゴリ制服の民族誌』の書評が掲載されました。またまた書影もついています。誠にありがたいことです。
おかげさまで、同書の初版1000部はほとんど出荷できました。残りわずかです。
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谷中・根津・千駄木では、夏になると盆踊りラッシュがはじまります。
一昨日と昨日はその第一弾で、諏訪神社での納涼盆踊り大会が開催されました。
小雨模様でしたが、多くの人が浴衣を着て来場し、踊りを楽しんでいました。
それにしても、どうして「東京音頭」と「大東京音頭」、「炭坑節」、「八木節」、そして「アンパンマン音頭」の5曲を繰り返しかけるだけなんだろうなあ、と素朴に思いました。昔の盆踊りだと、もっといろんな曲がかかっていたような気がするのですが……。気のせいでしょうか。
追記…あと「荒川音頭」もやってました!
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興味深い連載が、2006年7月13日付けの業界紙「新文化」ではじまりました。現役の書店員である伊達雅彦さん(匿名か本名かは不明)による連載で、タイトルが「傷だらけの店長 ――それでも本屋を続ける理由――」。私の世代ですと、このタイトルには敏感に反応してしまいます。「傷天」を見てましたからね。
内容を読みすすめていくと、なんともいえない気分になりました。以下、簡単に紹介します。
書き出しは、書店の閉店時の様子。スタッフが帰ってからはじまる本格的な仕事を、有線で流れる歌に合わせて大声で歌いながらこなす。補充分の棚入れ、常備の入れ替え、返品の整理……。終電を気にしながらこなす、山のような仕事。「書店員にとって『明日やろう』という言葉はない」。
妻に「先に寝なさい」と電話をする。また仕事をやる。このように「忙しいわりには給料が低い」。日中は「事情をよく知りもしない他人から『ラクそうだ』だの『ろくに商品知識がない』だのと侮辱的な言葉を投げかけられる」。台車に山積みされた本を見ていると「本なんかもう見たくない」と思う。「本が好きで書店員になった。しかし本が本当に好きなら、書店員になるべきではなかったのかもしれない、と思い始めている」。
最後の一行は「どうして私はここにいるのだろう。どうして私は書店員であり続けるのだろう」。
とりあえず連載初回分には、書店員をやることのメリットについて、ひとことも書かれていませんでした。おそらく最後の一行で発した問いに答えるかたちで、次回以降でメリットについても触れられるのでしょうか。それとも、このまま「傷だらけ」の状態で最後までいってしまうのか?
次回が楽しみです。
これを機に、現役書店人の方がたのお話しをぜひ聞いてみたいですね。現場では、いろんな苦労をされているようですから。とはいえ、嬉しいことや楽しいことの話も、よく耳にします。いずれにせよ、ブログを書いたりコメントしたりする時間もとれないくらい、忙しいのはわかっているので、あまり無責任に「お話し聞かせてください」などとはいえませんが。
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すこしずつですが、賛否両論が出そろってきました。
酷評大歓迎。反論も批判もめちゃめちゃけなすのもOKです。
評価していただけるのなら、それもまた大歓迎。
みなさまのご意見を、心よりお待ち申し上げております。
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ワイドショーやニュースで一方的な畠山被告バッシングがおこなわれるなか、作家の内藤みかさんが「母親だけが、悪いのか。」というエントリーで、以下のような発言をしています。
→ http://plaza.rakuten.co.jp/micanaitoh/diary/200607160001/
内藤さんは、ただ者ではないと思いました(前からそう思っていたけど、このたび再確認しました)。
畠山被告バッシングの嵐が吹き荒れるこの時期に、子どもを殺した母親をある側面で「かばう」ような発言をするのは、たいへん勇気のいることでしょう。かつ、その発言内容は、母親でない私でも十分共鳴できるものでした。
マスゴミ(とりわけテレビ)は、したり顔でテレビを見つめるハゲタカのような視聴者に対して、特定の個人のみを攻撃するような内容の特集を垂れ流しつづけるんじゃダメでしょう。それこそ、子どもを殺した母親(本人というよりも、似たような環境におかれた女性)にシンパシーをも感じているような、内藤さんのような方のコメントを放送することが重要なのでは。
そうしないと、内藤さんがいうように、畠山被告と同型(「シングルマザー」「生い立ち」などといった、かたちが同じということ)の母親に対する世間の風当たりが冷たくなる一方のような気がします。子どもを殺した母親個人の環境と平行して、その母親を取り巻く社会の環境も取材したり報道する必要があります。次のピック・ニュースが発生すれば、この事件の報道は母親攻撃でおわってしまう可能性があります。そんなことになったら、畠山被告と同型の母親たちはまったく救われないですよね。
もし畠山被告が罪を犯しているのであれば、その犯した罪の内容をあきらかにし、彼女が自分の犯した罪を何らかのかたちで償うのは、当然のことです。しかし、彼女を取り巻く社会の状況をしっかりと取材・報道・分析・研究しなければ、同じようなことが繰り返し起こるだけのように思えます。そのためには、内藤さんのような視点が不可欠になります。
ぜひぜひ、上記の内藤さんの発言を読んでみてください。異論反論のある方もいるとは思います。とはいえ、何度も書きますが、母親が子どもを殺す事件を考えるためには必要不可欠な視点を内藤さんは提供してくれているのです。しつこいようですが、内藤さんのような視点はたいせつなんです、ほんとうに!
追記……「激高老人」こと社会学者の作田啓一さんが、畠山容疑者の振る舞いについて、以下のように分析しています。畠山容疑者の「頭の弱さ」うんぬんという部分以外は、たいへん興味深く読めました。
→ 畠山静香容疑者の自己破壊 http://gekko.air-nifty.com/bc/
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最近、けっこう長い期間にわたってブログを書いている何人かの話を聞きました。
共通して語っていたのが、「そろそろ飽きてきた」ということ。
ブログは長くやっていると飽きるものなのでしょうか。
飽きた理由を聞いてみました。
・忙しくて更新する時間がとれない。
・うざいコメントにいちいち答えるのがめんどう。
・そもそも、ブログをやりはじめたときには新鮮に感じたものが、いまはなくなってしまい、書くモチベーションがなくなってきたこと。
・ひんぱんに更新すればするほど、次に書くネタがなくなっていくこと。
ブログの優れた部分というのは、気軽にはじめられて、簡単に更新できて、コメントやトラックバックにより双方向のコミュニケーションが可能になること、などがあげられましょう。
とはいえ、それらの優れた部分のいくつかは、そのままブログの欠点をも示しているような気がします。気軽にはじめられる=気軽にやめられる。簡単に更新できる=簡単に更新をストップできる。双方向の交流=罵詈雑言や誹謗中傷も多くなる(批判や批評だったら大歓迎なのですが……)。
私の場合は、ブログに書くのは会社的な内容と個人的な内容が半々(会社のほうが多いかな?)であり、会社的にはたくさんの人に呼んでもらった方がいいので、けっこう更新することを心がけています。また、多少の罵詈雑言やら誹謗中傷やらも、あまり気にしないようにしています。
もし私が個人でブログを開設していたら、いまのペースでは更新しないでしょう。(笑)
また、個人的には、他人に向けて発信したいことなど、あまりありませんし。
そう考えてみると、個人で(営業的な側面もなく)、長期にわたって、コメント欄も閉じずに、ブログをやっている方は、そんなにたくさんいないんじゃないのかなあ、と思ったりします。
他人に自分のことを知ってほしいと強く思う人は、不特定多数の人に読まれたりコメントされたりするリスクを背負ってブログをやりつづけるよりも、ミクシーなどの半閉鎖的で相手がある程度、特定できるようなものに流れていくのでしょうか。
総務省によれば、2005年3月末に約335万人だったブログ開設者数は、2006年3月末には約868万人になったのだといいます。そのうち、ちゃんと定期的に更新していない人や開設したけどやめちゃった人は、何人いるのかなあ? そういう人は、かなりいるような気がします。しばらくやってみても、冒頭のように飽きてしまう人は、けっこう存在しているんでしょうし。
つらつらとそんなことを考えていると、よくいわれているようなブログが未来を指し示すコミュニケーション・ツールだなんて、あんまり思えなかったりするんですよね。いつか開設者数が頭打ちして、あとは下り坂になってしまうような……。これは個人的にブログを利用する人の話であって、法人が利用する場合はまた別の話だと思います。
いつのまにか、個人的にブログを利用するのは、自分のことをアピールしたい俺様系の人とかの独断場(というか、そういう人たちだけが最後に残る場)になってしまったりはしないんですかね。営業的に利用している法人や個人については、いつまでも有効なツールとして残っていくとは思うんですけど。
私自身は、ブログが双風舎のことを知ってもらうよい機会であると思っていますし、新刊とブログを連動させるなど、新たな試みが実験できる数少ない場所だと考えています。ですから、しばらくは書き続けようと思っています。しかし、コメントについては、匿名だから何でもいいやではなくて、最低限のマナーをわきまえたうえで書き込んでほしいですし、他人のブログに書き込むときにも自分はそう心がけています。
その最低限のマナーがあれば、どれだけ飽きたり投げたりせずに、ブログを継続する人が多くなるのでは、などと思っているのは私だけなのかなあ。
いずれにしても、なんだかブログ万能主義みたいな風潮になっているのが、ちょっと気になる今日この頃なんですよねー。
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動物愛護センターに勤務する獣医さんの日々を追いかけた、じつにたんたんとしたルポルタージュです。
何がよくて、何が悪いのかを、強くアピールしているわけでもありません。
しかし、強烈な内容の本でした。
その名称とは裏腹に、「動物愛護センターの主な仕事は、野良犬の収容と保護、引き取りによる犬と猫の収容、そして、飼い主に見捨てられ、飼育される当てのない犬や猫の殺処分」です。そして「毎年、日本では四十万匹近くもの犬猫が殺処分されています。殺処分とは耳慣れない言葉でしょうが、二酸化炭素を吸わせて殺し、灯油で集客処分をしていること」なのだといいます。
ドリームボックスとは、正式名称を「炭酸ガスドリーム装置」といい、炭酸ガスを注入して犬猫を殺すための鉄箱のこと。なんともせつないネーミングですね。
ペットを紹介するテレビ番組が高視聴率を稼ぎ、ペット関連の雑誌が安定した売上を示し、誰もがペットの写真を携帯の待ち受けにして自慢する時代。ペットブームが盛り上がるような情報は氾濫しているけれど、その裏で何が起きているのかは、なかなか明らかにされてきませんでした。
この本、読みやすいし分量も少ないので、さっと読むことができます。ですから、ここで内容を解説するよりも、ぜひ一読いただいたほうがいいと思います。とくに、これからペットを飼おうとしている人といまペットを飼っている人に読んでいただきたい。
過剰な動物愛護を唱える人たちは、自分たちの自己満足としてそれ唱えていればいいのに、その価値観を人に押しつけるので、結果として「エゴじゃないか」と思われたりします。そういう主張には、私も辟易します。小学校の時に「すべてのいのちをたいせつに」を標語にしている先生がいましたが、これも偽善ぽくて気持ちが悪いですね。そんなことは、いうのは簡単だけど、実践できるわけがないのですから。しかしながら、彼らがそういうことを唱える根拠や理由については、耳を傾けてみるべきかもしれません。それを受け入れるのも取り入れるのも拒絶するのも、自分でしっかり判断するという前提で。
同書で動物愛護センターの人びとが、センターの実情を社会見学と位置づけたうえで、小学生に知ってもらいたいという思いが描かれています。とはいえ、そのことを小学校に相談し、学校からOKが出ても、PTAの代表から「あまりにも悲惨。子供たちのトラウマになる」「こんな臭い環境では学習にならない」というクレームがつくのだそうです。
そういうPTAの態度こそ、「臭いものにフタ」の典型的な事例でしょう。前に働いていたK社では、ニワトリを殺す授業をやっている先生の本を出していましたが、子どもらにとって身近な存在である犬や猫が、日本という社会でどのように扱われているのかを知ることは、小学生であっても損にはならないし、そんなことでトラウマになるほど小学生はヤワではないでしょう。
最近、千駄木・往来堂書店でジョージ秋山の『アシュラ』(上下巻、幻冬舎文庫)というマンガを買いました。このマンガは、1970年に少年マガジンで連載されたものなのですが、人肉食がメインテーマであったため、強烈なバッシングをうけました。でも、それを少年誌が掲載することに対する社会的な許容量があったからこそ、マガジンは掲載したのだと思います。臭いものにフタばかりしてても、はじまらないんじゃないか、ということですね。
『ドリームボックス』の主人公である獣医さんが、殺処分の確定した1頭の犬に思い入れてしまい、その犬だけ特別扱いをして自分が飼ってもいいのか、やはりほかの犬と同様に殺処分すべきかをさんざん悩むくだりは、めったに泣かない私も涙なしには読めませんでした。
作者の小林さんは、最年少で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したとても優秀な書き手であり、主に毎日新聞社を基盤にして作品を発表しています。しかし、はっきりいって毎日新聞社の出版営業さんや編集さんが、どれだけ積極的に自社の本を売ろうとしているのかは疑問が多く、小林さんがほかの出版社を基盤にしていたら、もっともっと売れていたんじゃないのかなあ、と思ったりします。まあ、売れるのがいいのか悪いのかは、また別の話なのですが……。
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共同通信の配信で、以下の新聞に『チマ・チョゴリ制服の民族誌』が紹介されました。
東奥日報(青森)、秋田魁新報、福島民報、富山新聞、北国新聞(石川)、山陰中央新報(島根)、四国新聞(香川)、宮崎日日新聞、熊本日日新聞、沖縄タイムス
あと、著者の韓さんが、昨日(13日)の朝日新聞夕刊文化欄の「テークオフ」という記事で紹介されました。近々、大阪朝日でも紹介される予定です。
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本日付の業界紙「新文化」の週刊ベストセラーによると、三省堂書店神田本店の社会・人文ジャンルで『バックラッシュ!』が堂々第4位に入りました。みなさまのおかげです。ありがとうございます。
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『バックラッシュ!』のオビに「男女平等で何が悪い」と書いた理由を白状しました。
お時間のあるときに、こちらからどうぞ→ http://d.hatena.ne.jp/Backlash/20060713/p1
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★てれびまにあさんがテレビ視聴記録で以下のように書いています。
●関西テレビ「結婚できない男」
先週の阿部ちゃん尻だしシーンが視聴率20%を越えた同ドラマだが、今後は10%台前半で推移していくんだろうなぁ、という感じ。高島礼子・高知東生夫婦が共演しているが、ツーショットのシーンはいつになるのか期待。
→ http://tvmania.livedoor.biz/archives/50560886.html
私は、録画した同ドラマを昨日の昼間に見たのですが、看護婦が病室のベッドでうつぶせ状態にある阿部ちゃんのズボンを脱がし、いきなり阿部ちゃんが尻を出したのには、たしかにびっくりしました。
ここで視聴率、または瞬間視聴率への疑問。
まず、阿部ちゃんが尻を出すことも尻を出す時間も、視聴者はあらかじめ知っていたのでしょうか。もし知っていたら、尻を出す時間にターゲットをしぼって、チャンネルを合わせればいいし、その時間の視聴率はあがりますよね。これを視聴者Aとします。
でも、尻を出すのは知っていたが、出す時間を知らなかった人は、番組冒頭から尻を出すまで番組を見るわけですよね。これを視聴者Bとします。
さらに、何にも知らなくて、たまたまチャンネルを合わせたりする人もいますね。これを視聴者Cとします。
しばしば瞬間視聴率何%とかいわれたりします。ようするに、ある瞬間に視聴率がぐっとあがったりするわけですね。上記の例で考えると、視聴者Aはその瞬間視聴率のベースになっており、視聴者Bは不確定ではあるが視聴率の高さに貢献するかもしれないけれど、視聴者Cというのはどうやって視聴率が高そうな番組の一場面を予期したり察知したりしているんでしょう。それが、いつも疑問に思います。
たとえば、口コミとかだと、「いまおもしろいのやっているよ」と友だちから電話で知らされたとしても、すでにおもしろい場面はおわってしまっている可能性が高いですよね。それとも、おもしろい場面がおわった直後あたりが、もっとも視聴率が高い場面になったりするのでしょうか。それなら、おおいにありうることですね。
本を出した直後で、頭がぼーっとしていると、こういう些細なことが気になったりします。笑
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北朝鮮がミサイルを発射してから、朝鮮学校の生徒への嫌がらせがおきているようです。
朝鮮学校の生徒に嫌がらせ60件以上 ミサイル発射後
「東北アジアの平和と日朝国交正常化」をテーマにしたシンポジウムが11日、東京都千代田区で開かれた。朝鮮半島情勢に詳しい研究者らが400人の参加者を前に、北朝鮮のミサイル発射を踏まえて北東アジアの平和への課題を議論した。
李鍾元(リー・ジョンウォン)・立教大教授は日本政府の対応について、「制裁や圧力の強化だけでは状況を不安定にする可能性が高い」と指摘した。在日本朝鮮人人権協会の宋恵淑(ソン・ヘスク)さんは、ミサイル発射後、朝鮮学校の生徒への嫌がらせが全国で60件以上あったと報告した。
asahi.com 2006年07月12日06時47分
嫌がらせをする人たちには、もし自分が同じような嫌がらせをやられたら、どう思い、どう感じるのかという想像力が欠如しているのでしょうか。現在の北朝鮮という国といま朝鮮学校にかよう生徒たちには、どのようなつながりがあり、どのような歴史があり、その両者がどれだけ浅く(または深く)関連しているのかということを、すこしでも考えたことがあるのでしょうか。
嫌がらせをする人たちは、ここは日本だから自分は嫌がらせをされない、と思っているのでしょうか。自分は安全地帯にいると思いながら、安心して他人に嫌がらせをしているのでしょうか。自分が安全地帯にいるなんて思うのはまったくの錯覚であり、嫌がらせをしている人が朝鮮学校の生徒の立場にたたされる可能性なんて、いくらでもあるんじゃないのかなあ。そうやって立場が反転し、自分が嫌がらせをされる立場になったことを想像すれば、「北朝鮮がアホなことをやったから朝鮮学校の生徒たちに嫌がらせをしてもいい」なんて安直な発想は、けっして出てこないでしょう。
それとも、自分が日本社会のなかで、どこぞのだれかに何らかの嫌がらせをうけたルサンチマンが、朝鮮学校の生徒への嫌がらせへと向かわせているのでしょうか。もしそうならば、卑劣な行為としかいいようがありません。怨念を連鎖させることがもたらすのは、暴力の再生産だけなのですから。
怨念の連鎖と暴力再生産の関係は、私が研究していたカンボジア大虐殺においても見られた現象です。ポルポト時代のカンボジアでは、指導者層から一般の人びとに対して、怨念をぶつけるべき対象が、ほとんど指導者層の「気分」にもとづいて、たえず提示されていました。アメリカ、CIA、ソ連、KGB、そしてベトナム……。ポイントは、個々人の怨念が連鎖して控えめな暴力として表出するというよりも、旗振り役によるお墨付きが個々人の怨念を正当化し、自信を持って暴力が表出されるという点です。
北朝鮮のミサイル発射は、どう考えても問題視せざるをえません。しかしながら、そのことと朝鮮学校の生徒をストレートに結びつけてしまうような発想は、これまた問題視せざるをえません。
いずれにしても、このような嫌がらせをする人や嫌がらせを支持する人たちに、ぜひ『チマ・チョゴリ制服の民族誌』を読んでいただきたいと思っています。
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いつのまにやらお友だちになっていた作家の内藤みかさん。
作品には、5カ月で150万アクセスを記録したケータイ小説『ラブリンク』(新潮ケータイ文庫)などがあり、ケータイ小説の草分け的存在です。もちろん紙媒体にも小説を書いていまが、いまは「ケータイ小説の女王・内藤みか」として各方面で名をはせています。
そんな内藤さんが、でっかい写真とともに、本日付の読売新聞朝刊37面で連載がはじまった「ケータイ文化」という記事で紹介されています。読売を講読している方は、ぜひ読んでみてください。
ついでながら、内藤さんは7月18日の24:55からTBSで放映される「激あま~い」という番組に出演するようです。内藤さんによれば「かなりキワドイ内容を絡めた恋愛トーク」とのこと。楽しみだなあ~。
激あま~い→ http://www.tbs.co.jp/program/gekiamai.html
さらに内藤さんのことをよく知りたい方は、ニフティーのココセレブというサイトで内藤さんの「Specialインタビュー」が掲載されていますので、そちらをどうぞ。リンクを貼っておきます。
内藤さんインタビュー前編→ http://celeb.cocolog-nifty.com/interview/2006/06/post_8ea1.html
内藤さんインタビュー後編→ http://celeb.cocolog-nifty.com/interview/2006/06/post_933f.html
内藤さんのことをもっと知りたいという方は、こちらのメインブログへ。
作家・内藤みかのメインブログ→ http://tb.plaza.rakuten.co.jp/micanaitoh/diary/
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『理戦』85号(実践社)が発売になりました。
この雑誌を手に取るたび、荒さんはすごい編集者(というかオーガナイザー)だなあと思います。何かの活動を継続してつづけるときには、オーガナイザーの人的魅力の有無が、継続できるかどうかを左右するような気がします。
今号では、広告でお世話になりました。ありがとうございます。
双風舎筋(!?)の執筆者も書いております。
ぜひご一読を!
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いきつけのスパゲティ屋さんである千駄木・ポリアンヌのマスターは、元バンドマンであり、いつも音楽話で盛り上がる関係なのですが、彼の勧めでDream TheaterというバンドのCDを聞いたら(以下の2枚)、さっそくハマってしまいました。i-TUNEに録音するとジャンルがMETALと表示されるけれど、あきらかにプログレでした。とはいえ、昔のプログレよりもロック度が増していて、とても聞きやすく、「これ、どうやって弾いているんだろう」などと想像して楽しめる曲ばかりでした。なんといっても、バンド名がいいじゃありませんか、夢の劇場ですからね。
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昨日、浅草・合羽橋商店街でやっている「下町七夕まつり」にいってきました。
阿波踊りあり、カントリーダンスあり、手品あり、出店あり……。
毎年、商店街の人たちは「よくやっているなあ」と感心します。
きゅうりの漬け物(かっぱの好物!)をかじりつつ、生ビールを飲んで帰宅しました。
で、行き帰りの足としてはじめて利用したのが、台東区が運営する「めぐりん」というバス。
うちの近くの谷中小学校前から合羽橋商店街付近まで、普通のバスが走らないような道をくねくね曲がりながら進んでいきます。私が乗ったのは「東西めぐりん」という路線でした。ほかに「北めぐりん」と「南めぐりん」という路線の違うバスがあります。
一回の乗車運賃がひとり100円。小型バスなので座席が少なく、立つ可能性が高いとはいえ、電車ではいきにくかったところに止まったり、信じられないような細い道を走ったりで、なかなか楽しめました。
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残念です。
以下は、最終号に掲載された岡留安則さん×鳥越俊太郎さん×元木昌彦さんの鼎談「反権力雑誌よ、どこへ行く」のなかの久田さんの発言です。
いや~、これでは身体を張って雑誌を出すのにも限度がありますね。
鳥越…… 抗議はどういうところから来るんですか?
久田…… 具体的にいうと国会議員や大企業。あと裁判にはなりませんが暴力団とか。普通に車に乗せられて山奥にみたいな所へ……。昼間は新宿にいたのに、夜は何百キロ離れた真っ暗な所へ。一日でそこまで移動しました。
岡留…… その日で新宿から××県まで持っていかれたの(苦笑)?
久田…… ま、そうです。正直ビビりました。自分でも顔から血が引くのがわかりましたし。
久田さん、ほんとにお疲れさまでした。
『選択』での活躍を期待しております。
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■論争!
小谷野敦さん→ http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/ およびミクシーにおける『バックラッシュ!』の書評
荻上チキさん→ http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20060706
macskaさん → http://macska.org/article/144
t-akagiさん → http://www.journalism.jp/t-akagi/2006/07/post_136.html
macskaさん → http://macska.org/article/145
■批評!
macskaさん → http://macska.org/article/140
PreBuddhaさん → http://d.hatena.ne.jp/PreBuddha/20060628#p1
葉っぱさん → http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20060707/p1
discourさん → http://d.hatena.ne.jp/discour/
rossmannさん → http://d.hatena.ne.jp/rossmann/20060706
■その他
『バックラッシュ!』キャンペーンブログ → http://d.hatena.ne.jp/Backlash/20060708/p1#tb
ジェンダーフリーとは(by チキさん)→ http://seijotcp.hp.infoseek.co.jp/genderfreeQandA.html
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韓さんの元職場である朝鮮新報が、2006年7月3日号で『チマ・チョゴリ制服の民族誌』の書評を掲載してくれました(写真参照)。ありがとうございます。
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初回納品分がすべて売れてしまい、7月4日にふたたびアマゾンに納品しました。一両日中には「24時間以内」に変わると思います。書評がたくさん掲載されて、購入を希望する読者がたくさんいるというのに在庫を切らしてしまい、ご迷惑をかけました。
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我が家から徒歩3分のところにある街の本屋さん、文京区千駄木の往来堂書店。
私は日々、本の世界では大先輩であるオイリ店長(通称オイリー)から、本作りに関する指導や助言をいただいております。宮台さんと姜さんの『挑発する知』を週刊SPA!で紹介してくれたのもオイリーでした。お世話になっております。
さて、その往来堂書店で、『バックラッシュ!』の刊行にちなんだミニフェアを開催中です。大手書店のように、大規模にはできませんが、街の書店で弊社の本を契機にしたフェアをやっていただけるなんて、恭悦至極でございます。
→ http://d.hatena.ne.jp/oiri/20060705
谷中・根津・千駄木は、いまや土日の散策コースの定番となりつつあります。下町めぐりのついでに、ぜひぜひ往来堂書店に立ちよっていただければと思います。下町の書店で、メガネの向こう側から世の中をじっくりと見据えているオイリ店長に、会えるかもしれませんよ。
いろんな街の書店を営業でまわって、本の紹介をして、フェアのリストを店長さんに渡して……。それが出版社の基本だと思いますので、ほんとうはそんなことをやりたいのですが、なかなかそこまで手がまわりません。
さて、『バックラッシュ!』ですが、発売後の出荷が好調なことから、重版することに決めました。在庫も300冊を切ったことですし。
引き続きご支援をいただければ幸いです。
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若者の実態も知らずに、若者をカテゴライズして、若者を批判する。
そんな風潮が高まっています。そして、そんな風潮に抗うような活動を、『バックラッシュ!』の執筆者のひとりである後藤さんらがやっています。
まったく知らないのに、メディアが若者をカテゴライズしてバッシングするから、若者より上の年代の人たちがそれに乗っかって、若者バッシングをするという構図ができあがっているような気がします。
『16歳だった』(幻冬舎)の著者である中山美里さんは、同書でみずからの援交体験を赤裸々に語りました。29歳になった中山さんは、街を歩き、若者に会い、彼らの悩みや苦しみ、悲しみを聞きました。そうしてできたのが『Street』(幻冬舎)という本です。
この本からは、若者バッシングに抗うというよりも、生身の若者の姿をひとりでも多くの読者に知ってほしいという思いが感じられます。若者には若者の事情がある。そんな事情も知らないくせに、私たちのことをどうしようもないとかアホだとか決めつけるなよ。中山さんのルポからは、そうした若者の声が聞こえてきます。
「いまどきの若者は……」と紋切り型の台詞をのたまうオジサンやオバサンこそ、こういう本を読んだらいいとは思いますが、きっとオジサンやオバサンは買わないんでしょうね、この本。読者は若い人が中心だという前提で、値段も1300円になったのだと思います。つくづく思うのは、こういう本をいかにオジサンやオバサンに売る工夫ができたらなあ、ということです。
いずれにしても、興味深いルポルタージュなので、みなさんもぜひご一読ください。
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すでに3件のレビューが掲載されており、平均評価は5点満点の4.5点となっています。これ以上、星が増えることはないでしょうから、「今後どれだけ星の数が減っていくのであろう」とビビりながら、ときどきアマゾンの『バックラッシュ!』のページをクリックしております。
みなさんも批評や意見、異論・反論などがありましたら、アマゾンのカスタマーレビューをはじめ、『バックラッシュ!』キャンペーンブログ、拙ブログなどにどしどし投稿してください。くれぐれも遠慮なきように。
同書をつくった意味のひとつは、議論のたたき台になるようなものをつくる、というものなので。
よろしくお願いいたします!
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NTTドコモのモバイル社会研究所では、「モバイル・コミュニケーションの現在および将来への社会・文化的影響を、各分野における内外の専門家が研究・分析し、論文発表や出版、シンポジウム等を通じて、広く研究成果を発表して」いるそうです。そこから出ている『未来心理』という雑誌があります。とても興味深い論考がならぶ雑誌なのですが、おそらく非売品だと思います。
同誌の6号の執筆陣を見てビックリ。堀内進之介さん(「配慮なき世界への配慮」)と鈴木弘輝さん(「差異を大切に」)、そして鈴木謙介さん(「グローバルな情報社会はローカルなコミュニティを再生するか」)という、3人もの宮台門下の方がたが執筆に参加しております。まさに宮台門下生スペシャルと思えてしまうような感じです。
そして、なによりも3人の写真がカッコいいんです。とりわけ鈴木弘輝さんの写真は、まるで別人かと見まごうばかりの出来だと思いました。この雑誌、随時投稿論文を受け付けています。採用されればカッコいい写真を撮ってもらえるかもしれません。書いてみようかな……。でも、もう5年くらい論文なんて書いていないので、まともなものは書けそうにありません。
写真だけとってもらうのは、だめですよね、萩原編集長。
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同書が2006年6月30日付け朝日新聞夕刊の「成実弘至のファッション新論」という欄で紹介されました。「衣服の背後にある隠された歴史に迫る興味深い本」と好意的な内容紹介となっております。
成実さんは、京都造形芸術大学の先生です。
情報が後手後手ですいません……。
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