双風亭日乗

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2006年8月22日 (火)

「猫殺し作家の屁理屈」(きっこのブログ 8/21)について




そういえば、「きっこのブログ」が坂東眞砂子さんの子猫殺しについてとりあげています。


→ http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2006/08/post_3aec.html


同ブログに転載された板東さんの文章を読んだときに、私はすこし抵抗を感じました。とはいえ、板東さんを糾弾するきっこさんの書いたもののほうが、より気持ち悪く感じられました。


どこが気持ち悪いのか。もっとも気持ち悪かったのは、猫の話を人間の話に直結させてしまうところ。猫の件に関しては、板東さんが子猫を殺す理由を述べているので、それに対していくら反論してもかまいません。しかし、猫の話を人間にあてはめて考える場合は、ある程度の注意が必要でしょう。



アジアやアフリカの極貧地域では、ごく最近まで、いやいまも「間引き」がおこなわれているという実態を知る努力をしたり、日本における「間引き」の歴史を民俗学的な資料で参照してほしいものです。


なんで親は「間引き」する(した)のでしょうか。親は「間引き」したくてしているのでしょうか。避妊具が買えなかったり手に入らなかったりする極貧地域の性生活は、どうなっているのでしょうか。


うまれたばかりの子どもを親が殺すなんて、あってはならないことだと思います。しかし、過去から現在にいたるまで、日本でも海外でも「間引き」の事例が見られるということは、苦渋の選択の結果として、親が子どもを殺さざるを得ない理由があったからでしょう。その理由を考えることをせずに、またその理由を断ち切って親が子どもを殺さないようなアクションを起こしているわけでもないのに、なぜきっこさんはあのような大風呂敷を広げられるのか。


そういうことをすこしも考えずに、どこでもだれでも避妊ができるという前提で議論をすすめるきっこさんの文章は、ただただ自分の思い描く正義を基準にしたうえで、大きな道徳を振りかざしているように感じられ、気持ち悪くなった次第です。



ちなみに、板東さんの文章を何度も読み返した私は、板東さんがきっこさんのいうような「猟奇殺戮変質女」だとは思えませんでした。そして、あの板東さんの文章は、生死に関するタブーについて、あまりにも正直に書いたため、軽い気持ちで読んだ読者には反発をくらうだろうな、と思いました。


この件、思うところがたくさんあるので、時間があるときにつづきを書ければと考えています。



<関連ページ>


→ http://6022.teacup.com/masam/bbs


→ http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2349351/detail


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「猫殺し作家の屁理屈」(きっこのブログ 8/21)について:

コメント

leleleさんが、親が子どもを捨てざるをえない社会について、あっさりとこういう文書を書けることに、尊敬の念を抱いています。leleleさんとカンボジア社会の研究は、わたしといじめ研究がつながっているように、つながっているのかもしれませんが、leleleさんの方が自由な感じでうらやましい。
人間と動物の境界をはっきりつける必要についても、そのとおりです。
責任をとわれた元ポルポト派幹部の老人が、人間の命を特権化しない「アジア的哲学」を説き、大量虐殺への反省(自分はその気はなかったが、結果的にといういいわけ)と、森をさわがせて森の動物たちにも迷惑をかけたことへの反省を同列に語るときに、人間の命がえらく軽くなったレトリックの作用を感じました。
まず話の前提に、猫を殺すことと人間をころすことを同列に扱うことに注意をうながすセンスもさすがです。

ブルーベリー狩り、楽しかったですね。わたしのような独り者は親の苦労も知らずに、「子どもはかわいい」と軽口をたたいてしまいます。leleleさんの子どもも、Hさんの子どもも、とってもかわいい。子どもたちの顔を思い出しながら、間引きや子売りがあたりまえだった社会に思いをめぐらします。

投稿: suuuuhi | 2006/08/22 7:54:17

>坂東氏の文章を何度読んでも「ペット」の子種殺しと子殺しについての「社会的責任」の考察はあっても「ペットを飼う」こと自体への社会的考察が抜けているとしか思えません。

そうでもないと思います。坂東氏は「愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ」と述べていますし、また「人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない」とも述べていますから、「ペットを飼う」こと自体が冒涜的であるということについては彼女自身が認識している筈です。そして「ペットを飼う」からには子種殺しを選択しようが子殺しを選択しようが飼い主としての選択的な話でしかない、というのが彼女の趣旨であると言えると思います。それゆえに、同じく「ペットを飼う」という冒涜的行為を行うきっこ氏によっていくら批判的な言葉が繰り出されても、それが坂東氏に対する説得的な言葉とはなり難いのではないでしょうか。ちなみに冒涜的行為であると分かっていながらなぜ「ペットを飼う」のかと問われれば、一つには「ペットを飼う」という行為が社会通念的に逸脱した行為であるとは言えないということ、もう一つには「そうは思っていてもなかなか止められない」という人間の特性を否定できないということ、が挙げられると思います。

投稿: fukudablog | 2006/08/23 16:11:43

ご無礼をいたしました。と私の早合点をお詫びして、恥じ入りつつ去ろうと思ったのですが一夜明けてみたら(笑)、「ペットを飼う」ことへの弁解、反省どころか、猫殺しを事実と前提した批判だらけ。ちょっとこれはどうなってるの?。坂東氏の文章が名調子過ぎたようです。

投稿: 小笠原功雄 | 2006/08/24 9:50:18

私は三者とも気持ち悪いです。
自分が生について深い見識を持ってるとばかりに
自己陶酔しているところが。

投稿: 106 | 2007/02/17 5:17:36