双風亭日乗

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2006年8月31日 (木)




いろいろありますが、ミリオン出版から毎月、ナックルズを送っていただき、愛読しているわけでして。


おもしろい雑誌なので、ぜひみなさんもご一読ください。



<今月の注目記事>


・グラビア 「摂理」事件の全真相


 ※「そうだったのか」という感じ。


・戸塚宏インタビュー「私は静岡刑務所所長らを告訴する! 」


 ※戸塚さんの発言する場の確保は重要だが、発言を読むとやはりトンデモ。


・竹中労ゲバリスト残侠伝 琉球独立編


 ※竹中が琉球独立にかけた夢は何か? 今号で一番おもしろかった記事


・小泉首相、再婚か


 ※ネタ。奥菜恵がお相手とのこと。笑


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2006年8月29日 (火)




みなさん、コメントをありがとうございます。


以下、昨日の「本田さんブログ問題」エントリーのコメントに対するレスが長くなりそうなので、新たなエントリーとして私のコメントを書いてみます。



稲葉さん、おっしゃることはごもっともだと思います。ただし、私は「表」に出ることを抑制するのが「職業倫理」というよりも、何らかのしばりがあって「表」に出られないのではないか、とも思っています。そのしばりにほおかむりをして、「表」に出ないことを「職業倫理」だといっているのなら、それはちょっと違うでしょうと思うわけです。


著者のブログにコメントしたい編集者が、「著者が困っているようなので、コメントしていいんですかね」と上司にお伺いをたてるなんてことがあったら、「職業倫理」という以前の問題として、かなしすぎるような気がします。でもそれが会社組織というものなのかもしれません。


いずれにしても私は、稲葉さんが書かれたことが、そっくりそのまま編集者の責任逃れのための方便に使えてしまうことが気になっています。



仇さん、これは勝ち負けの問題ではありません。



怖いようさん、そういう電波的なノリのコメントはスルーされちゃいますよ。



suuuuhiさん、お気持ちは察しますが、自身が熱くなりそうなときほど、クールなコメントが効果的であると私は思っています。僭越ながら。



編集者一年生さん、出版編集の現状は、おそらくお書きになったとおりであり、若い人ほど迷いながら仕事をされているんだと思います。私だって編集屋5年生ですから、試行錯誤の連続です。このブログもそうですし。私の組織はひとりだから、意思決定に手続きが不要なので、「思い立ったら吉日」のノリですべてに対処しています。しかし、組織だとそうはいかないことも、よくわかります。私としては、担当編集の諸氏が、今回の一件の「裏」で本田さんをバックアップしていたんだろうなあ、と祈るほかありません。



たぬきバズーガさん、そういうコメントは内藤さんのブログに書き込むべきものだと思います。



いろいろありますが、ぶち壊すのは簡単です。ぶち壊すと、そのときは気が晴れることでしょう。ただし、壊したあとに残るのは虚無感だけであったりもします。


私は、そういうことにあまり興味がありません。壊れそうなものをなんとか維持したり、修復したり、和解させたりすることに興味があります。もちろん、今回の一件にかぎらず、です。とはいえ、それを実践するのは、ネットの世界ではなかなか難しいことなのではないか、と最近考えるようになりました。


難しいことですが、できることは粛々とやっていきたいなあと思う今日この頃です。


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2006年8月28日 (月)




あまりにも勝手なことを書いている人が多いので、私は友人として、思わずコメントを書いてしまいました。べつに本田さんの本を出したことはないのですが。と、該当ページにリンクを貼ろうと思ったら、すでにプライベートモードになっておりました。


本田さんの原稿に関わっている編集者とか、傍観しているような感じですが、こういうときこそ著者の状況を的確に把握して、援護射撃をうったりするのが筋ってもんじゃないんでしょうか。もちろん、見えないところで心の支えになっている方もいるとは思うのですが。


めんどうに巻き込まれたくないのかなぁ。せつないですね。


いずれにしても、本田さんの好きなようにさせてあげましょうよ。


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2006年8月28日 (月)




批判の効果が薄く、宣伝に転じているかのおもむきがあるのが興味深いです。本の書影もばっちり掲載されていますし。


→ http://www.worldtimes.co.jp/wtop/education/060825/060825.html


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2006年8月24日 (木)




板東さんの「子猫殺し」コラムは、ついに日経新聞以外の新聞に掲載されるほどのネタになってしまいましたねー。



板東さんがコラムを書いて、日経新聞に掲載されて、同新聞や動物愛護団体に抗議が殺到して、日本の法律では愛護動物の殺傷は罰せられて、そのあとで同新聞が掲載した板東さんのコメントを紹介。そう記す読売の記事自体が、板東悪玉説になっていることは、注目に値します。



記事では「批判が上がってる」と何度も書いてあり、それも「インターネットなどで」上がっているとしています。たしかに批判は多いけれど、そうじゃない意見だってあると思うのですが。加藤紘一自宅放火事件ときと同様に、ブログ界隈とミクシー界隈だって、雰囲気が違っていますし。


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2006年8月22日 (火)




そういえば、「きっこのブログ」が坂東眞砂子さんの子猫殺しについてとりあげています。


→ http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2006/08/post_3aec.html


同ブログに転載された板東さんの文章を読んだときに、私はすこし抵抗を感じました。とはいえ、板東さんを糾弾するきっこさんの書いたもののほうが、より気持ち悪く感じられました。


どこが気持ち悪いのか。もっとも気持ち悪かったのは、猫の話を人間の話に直結させてしまうところ。猫の件に関しては、板東さんが子猫を殺す理由を述べているので、それに対していくら反論してもかまいません。しかし、猫の話を人間にあてはめて考える場合は、ある程度の注意が必要でしょう。



アジアやアフリカの極貧地域では、ごく最近まで、いやいまも「間引き」がおこなわれているという実態を知る努力をしたり、日本における「間引き」の歴史を民俗学的な資料で参照してほしいものです。


なんで親は「間引き」する(した)のでしょうか。親は「間引き」したくてしているのでしょうか。避妊具が買えなかったり手に入らなかったりする極貧地域の性生活は、どうなっているのでしょうか。


うまれたばかりの子どもを親が殺すなんて、あってはならないことだと思います。しかし、過去から現在にいたるまで、日本でも海外でも「間引き」の事例が見られるということは、苦渋の選択の結果として、親が子どもを殺さざるを得ない理由があったからでしょう。その理由を考えることをせずに、またその理由を断ち切って親が子どもを殺さないようなアクションを起こしているわけでもないのに、なぜきっこさんはあのような大風呂敷を広げられるのか。


そういうことをすこしも考えずに、どこでもだれでも避妊ができるという前提で議論をすすめるきっこさんの文章は、ただただ自分の思い描く正義を基準にしたうえで、大きな道徳を振りかざしているように感じられ、気持ち悪くなった次第です。



ちなみに、板東さんの文章を何度も読み返した私は、板東さんがきっこさんのいうような「猟奇殺戮変質女」だとは思えませんでした。そして、あの板東さんの文章は、生死に関するタブーについて、あまりにも正直に書いたため、軽い気持ちで読んだ読者には反発をくらうだろうな、と思いました。


この件、思うところがたくさんあるので、時間があるときにつづきを書ければと考えています。



<関連ページ>


→ http://6022.teacup.com/masam/bbs


→ http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2349351/detail


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2006年8月22日 (火)



仕事は普通にしていたのですが、ブログについては夏休みをいただこうと思い、一週間ほど更新をしませんでした。


みなさん、ごぶさたしております。


先週は、インタビュー起こしをしたり、NHKを辞めた旧知のディレクターに会ったり、自宅で映画を観たり(「プリシラ」「キューブ 2」「キューブ 0」)、アニメを観たり(「新世紀エヴァンゲリオン」のテレビ版を最後までと劇場公開版)、炎天下のなかでブルーベリー狩りにいったり(Hさん、Nさん、おつかれさまです)、根津小学校での盆踊りにいったり(ビールを売っていないなんて)……。


いずれにしても、外が暑く、歩いているだけでボーっとするような日がつづいていたので、日中はさほど外出しませんでした。



こういうことを書くのが、日記というんですかね~。



プリシラ

プリシラ





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2006年8月16日 (水)




ドンキの上野店で買いました。


税込1999円。


ナイフを樽に刺すたびに、「セイセイ」「バッチコーイ」などというHGの声が出て、人形が飛び出るときには「フォ~」といいます。



この商品は、「バク天」という番組のネタとして企画されたものですよね、たしか。


ドンキで見かけたときには、「ほんとに発売していたのか、すごい!」と思いつつ、笑ってしまいました。


ネタを商品にしてしまうトミーという会社が気に入りました。



子どももHGファンなので、一緒に楽しもうと思います。


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2006年8月14日 (月)





『バックラッシュ!』の著者のひとりである山口さんが、みずからのブログで執筆の背景と想定読者について書かれています。


 → http://d.hatena.ne.jp/yamtom/20060813


山口さんが書かれたとおり、企画当初の想定読者は、あくまでも「ごく一般」の読者でした。そして、山口さんやマチュカさん、瀬口さん、長谷川さん、山本さん&吉川さん、そして小谷さんの原稿は、難解度から考えると、けっして読者共同体を限定するような内容ではありません。しかし、原稿があつまるにつれて、ある程度の予備知識がないと一読では理解できないような原稿も出てきました。そういった原稿への対応として、できるだけ注を入れたり、参考文献を掲載するようにしてみました。



結果として、同書には一般向けの平易に読める論考から、すこし難解な論考まで、さまざまな内容のものが掲載されることになりました。ですから、「ごく一般」の人にもスルりと読めるものはそのまま読んでいただき、すこし難解なものは注を読んだり参考文献を参照していただきながら読んでいただけたらいいなあ、と私は考えているわけです。



そうなると、平易なものとすこし難解なものが入り交じった本を、いったいだれが読むのか、また購入するのか、ということになりますね。私としては、あくまでも「ごく一般」の読者に読んでいただきたいという願望があります。で、ちょっと無理をすれば読みこなせるのではないかという希望もあります。とはいえ、願望や希望を棚上げにして現実を直視してみると、「ごく一般」ではなく、12日に書いたような「一定の知的レベルにあるバックラッシャーや女性学研究者、政治家やその周辺の職員、官公庁の職員、小・中・高校の教員、宮台さんや上野さん、斎藤さん、小谷さんらの固定読者」といった読者層が想定されると考えました。



だがしかし……。そういった願望や希望を捨てたくはありません。その気持ちを何であらわしたのかというと、価格であらわしてみたのです。基本的に、本をたくさん刷ることのできないひとり出版社でありながら、できるだけ多くの情報を提供しつつ、価格については「ごく一般」の読者が手を出せる範囲に抑える。本の内容や質、そして量がある程度の充実度を示しており、それゆえに製作コストが通常の本よりもかかりながらも、できるだけ安くして、多くの人に買っていただくように工夫する。その結果が同書の価格となっています。いま、こうして書くのは簡単ですが、実際にはけっこうたいへんなことなんです、製造単価が高い本の販売価格を安くするということは。



同書は442ページで、組版は一段組(1ページが920字。152ページで約14万字)と二段組み(1ページが1020字。250ページで約25万字)、そして三段組み(1ページが1242字。19ページで2万3000字)に分かれています。単純計算で、同書には41万3000字の情報が詰め込まれているんですね。最近の新書は、だいたい10万から12万字くらいで1冊ができています。よって、新書3冊半か4冊分の情報が同書に掲載されています。



膨大な情報量の本(文字数が多く、ページ数も多い)をつくると、情報量が普通の本(文字数もページ数も普通)よりどれくらい余計にコストがかかるのか。以下、情報量の多い本と普通の本とを、発行する部数は同じだと想定したうえで話をすすめます。


さすがに具体的な数字は記せませんが、情報量の多い本は、まず印刷前の組版代が高くなります(今回はかなり勉強していただきましたが……)。ページが多ければ、用紙代と印刷代、そして製本代も高くなります。編集者の作業量も多くなります(これもコストが高くなることを意味しています)。



そうやってつくる情報量の多いコスト高な本を、普通の本と同じような価格で販売するためには、どうすればいいのか。第一に、印税率を下げる(通常は7%のところを5%にする、など)。第二に、山口さんが書かれていますが、取材費などは執筆者の自腹で負担していただく(これについては、ほんとうに申し訳ないと思っています)。第三に、本の利益率をさげる(通常は、本体価格の30%が粗利益のところを20%にする、など)。こうした要素のすべてを駆使して、『バックラッシュ!』の本体価格1900円という価格が設定されています。



業界の方であれば、「たくさん注文とって、たくさん刷れば、安くできるじゃん」と考える方もいるでしょう。たしかに用紙代や印刷代、そして製本代については、刷れば刷るほど単価が安くなる要素です。ですが、弊社の場合は返品対策のために「書店から直接、注文があった分+α」だけしか刷りませんので、書店から注文がなければたくさん刷ることはできません。にもかかわらず、チラシをつくったり事前注文をとるために、あらかじめ価格を設定しなければなりません。ようするに、私がいくら「一般向け」の価格を設定しても、書店から注文をいただけなければ部数が刷れなくなり、部数が刷れなければ製造単価があがります。



印税率は事前に案内してしまっている状況で、製造単価が予想よりもあがってしまった場合、削れるコストは何かといえば、利益率をさげることしかなくなります。つまり、当初予想していた金額よりも、会社に入る利益が減少するわけですね。



以上の過程をごく簡単にまとめると、こうなります。



第一に、「この本はいい内容なので、できるだけ多くの人に読んでもらいたい」と考える。


第二に、「しかし、情報量が多いので、製造単価が高くなりそうだ」と考える。


第三に、「製造単価が高くなっても、多くの人に読んでもらいたいのだから、一般の人が買える価格にしよう」と考える


第四に、「この本はいい内容だし価格も一般向けなので、書店がたくさん注文してくれるだろう」と信じる。この「信じる」というのが大きなポイントです。


第五に、「書店が注文が来た分を発行し、配本する」。




第四段階で、本づくりが確実に博打っぽくなっていますね。


いくら信じたって、書店がどれだけ注文をしてくれるのか、誰もわかりません。わからないのに、私が勝手に信じこんで、事前に本の値段を決めてしまうわけです。まさに博打。当然、出す本によって博打の度合いが変わります。いずれにせよ、『バックラッシュ!』に関しては、大博打であったといっても、言いすぎではありません。



話をもどします。なぜこうした大博打をうつのかといえば、それは一般の方がたもふくめた、できるだけ多くの読者の手に同書を届けたいという「志」があるからです。当初はオール一般向けの論考で編むことをもくろんでいた同書も、編集作業の過程で、内容が平易なものからすこし難解なものまで、幅広くなってしまいました。それでも、一般の読者にも買っていただこうという希望を捨てずに博打をうった結果が、「442ページ」で「41万字」が1900円というかたちになってあらわれているんですね。



私は、一般の方がたが買う可能性のある本の価格は、2000円未満だと勝手に考えています。深い根拠はありません。なんとなく、そう考えています。ですから、絶えずそのことを意識しつつ、価格設定をしています。双風舎の本をずらりと並べてみると、そのことがわかると思います(って、ずらりと並べるほど双風舎の本を持っている人なんて、そんなにいませんよね。その場合はジュンク堂書店のwebにて、「双風舎」で検索して比較してみてください)。



私の「志」と読者の購買意欲は別物だ、と思われてもけっこう。


値段が安くたって、内容がつまらなければ買わないよ、といわれてもけっこう。


いくらそういわれても私は、著者と読者と書店(そして関連業者や取次のみなさん)を信じているので、規模の大小はあるかと思いますが、今後も引き続き博打をうちつづけていくつもりです。



以上でおわかりかと思いますが、出版社とか編集者という単語自体は響きがいいものの、営業や販売、経営などを含めたトータルで出版社を俯瞰してみると、やっていることはあまり博打とかわりがありません。なんていうと、ほかの出版社の人からクレームの声があがるかもしれませんが、私は確実にそう思っています。



ですから、ひとりで出版社をやろうと考えている方は、くれぐれも「自分はこれから博打をうつことになる」という覚悟を決めたうえで起業していただきたいものです。逆に、その覚悟を決めてしまえば、こんなにスリリングでやりがいのある仕事も、そうそうありはしないことに気づくかもしれません。


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2006年8月12日 (土)




武田さんや赤木(智弘さん。reds_akakiさんではありません。)さん、宮田さん、栗山さん、そしてmacskaさんらによる『バックラッシュ!』議論が盛んになってきました。我が社の姿勢にかかわる記述もあるようなので、ここらで私からもひとこと述べておくことにします。



●なぜ『バックラッシュ!』を出したのか


まず、私は出版社をやっていますが、出している本はあくまでも、著者の文章をつうじて私自身が世間に言いたいことを表出する、という程度のものだと考えています。ですから、本の企画を考えるときにたいせつなことは、著者が何かをいっていて、そのいっていることが私の言いたいこととどれだけリンクするかどうか、という点です。著者は著者で、みずからの考え方を本という媒体をとおして一定の読者に伝えたいという思いがあり、その本を出す窓口を双風舎にしていただいたということになります。そういうかたちで、弊社と著者の利害は一致しています。



『バックラッシュ!』の場合は、「男女平等バカ」というトンデモムックが刊行されたのを機に、なぜあのようなトンデモ言説が一定の層に支持されているのか、ということを私自身が知りたかった、というのが第一の刊行理由。いろいろ知るにつれ、バックラッシュのあほらしさ(右も左も)を指摘したうえで、バックラッシュでも反バックラッシュでもない道をなんとなく示せたらいいな、と思ったのが第二の理由です。



こうしたふたつの理由で企画を立ちあげましたが、作業を進めるうちにそのふたつよりも重要な問題点に気づきました。それは、自民党の安倍晋三氏を中心とするグループによる、政治的な力を使った反ジェンダーフリー活動です。そういった一連の活動や言説に対して、「パックラッシュ批判」が「バックラッシュへのバックラッシュ」にならないように注意しつつ、アンチテーゼを投げかけること。さらに、バックラッシュと反バックラッシュの二項対立になるのではなく、第三の道を考えるヒントになるようなものをつくりたい。そのような思いが、私にとっては『バックラッシュ!』刊行の最大の理由となっていきました。



安倍グループによる反ジェンダーフリー活動が天上の出来事かといえば、けっしてそうではありません。とりわけ小・中・高校の現場に関わる人たちが、いかに「ジェンダー・フリー」という概念にかき回されつづけたのかは、『バックラッシュ!』をお読みいただければわかると思います。また、「ジェンダーフリー」という概念をあまり吟味せずに使ってきた女性学の研究者に対しては、聞き入れてもらわざるを得ないような問題提起もしています。くわえて、最大のターゲットである安倍グループとその周辺の政治家や学者に対して、同書はそれなりにバックラッシュ再発の「抑止力」になるのではないかとも思います。「ジェンダーフリー」に関しては……。



つまり、同書で展開される議論の当事者は存在するし、当事者が読んで理解できる程度の記述内容にはなっているし、上記で記したような当事者の方がたには読んでいただけるであろう、と想定して本を出しました。くわえて、同書が「机上の空論」といわれたり、「アタマのいい方」によって書かれた論理的だが倫理的ではないものと理解される(by 武田さん)ことに対しては、何の抵抗も感じません(世に出たテクストへの理解は、人それぞれ。書いた人の思いも、書いたあとに変わるかもしれません)。ですが、「机上の空論」や論理的だが倫理的でない本を読んでくれている当事者や読者は、確実に存在します。



●本が内輪でそこそこ売れることが、罪深いことなのか?


『バックラッシュ!』により、上記で示した企画の意図は、だいたい達成できたと思っています。で、この本が多くの読者に理解されればそれに越したことはありませんが、正直に申し上げて、読者に理解されるかどうかということに、私はあまりこだわりはありません。それは、冒頭で述べたように、私が言いたいことを著者にいってもらうということが書籍というかたちで達成されれば、私はそれなりに自己満足できるからです。私と筆者の手を離れた本がどう理解されるか、またどの程度理解されるかは、読者に任せるしか術がありません。



「どれくらい売れるのだろう」と考えるのは、1年に何冊の本を出して、合計何部くらい売って、来年の食いぶちをえられるのだろう、と思案するときだけです。そこから逆算して、食うためには何点で何部売ればいいのか、と思いながら企画を考えています。読者がどこまで理解してくれるのかという点については、この企画の段階で読者を想定するときに、あくまでもおおまかに気を配ります。しかし、基本的に私は、著者には書きたいことを書きたいだけ書いてもらう方針(だから本が厚くなるのです)で本づくりをしているので、読者の理解度の問題については、ときに企画段階に想定した度合いと、できたものの度合いがズレることもあります。



こんな感じですから、宮田さんにご心配いただいたような、『バックラッシュ!』を出したことによって双風舎のイメージがさがる(あがる)かどうかということには、私はあまり関心がありません。双風舎の出す本のトータルが私の時々の思考の表出であり、著者との協同作業の結果であり、その思考は絶えず流動的であり、何がいいのか悪いのかという私の価値観も著者の思考も、時とともに変化していくでしょう。前述しましたが、そうやって出したものを読者がどう読み取るのかは、読者にお任せするしかありません。ましてや、以下で述べるとおり、読者を「救おう」なんて傲慢な気持ちで本を出したことなど、一度もありません。



ところで、宮田さんにご指摘いただいた『バックラッシュ!』に関する読者共同体の問題点は、あたっていると思います。しかし、この本の想定読者は、上記でも触れましたが、一定の知的レベルにあるバックラッシャーや女性学研究者、政治家やその周辺の職員、官公庁の職員、小・中・高校の教員、宮台さんや上野さん、斎藤さん、小谷さんらの固定読者などです。これで5000部から7000部くらいは売れるであろう、と見込んでつくりました。もちろん、この部数で来年の半分くらいは食えるかな、と思いつつ。



宮田さんにご指摘いただいた読者層を取り込むためには、内容的にはもっとわかりやすいものである必要があるし、分量的にはもっと短いものである必要が生じるでしょう。とはいえ、そういう本は大手が出せば物量作戦で売れるのでしょうが、弊社がつくっても、付き合いのある書店の数や置かれる場所を考えると、けっこう売りにくかったりします。双風舎の本は、「ちょい難し本」くらいがちょうどいい具合に売れる、という現実もあるのです。



この点について武田さんは、バックラッシュ批判の本が別のバックラッシュの火種になる可能性を示唆し、赤木さんらも読者共同体に取り込むような本を出すべきだとしたうえで、「本が内輪でそこそこ売れたからいいっていう考え方は罪深いよ」と書かれています。それもひとつの考え方ですが、飯を食うためには「罪深い」といわれても仕方のないような戦略が必要なのも、これまたひとつの考え方だと思います。



●「救う」ことと「救われる」こと


また、武田さんは、同書を読んで「誰かが救われるか」どうかということを問題にしていますが、私が出す本と「救い」とをからめて議論するのは不毛だと思います。宗教団体などでは「救い」を目的に本を出す場合もあるのでしょうが、私のようなひとり出版社が誰かを救うために本を出すなどという傲慢なことを、できるはずはありません。



そもそも、人を救うということは、救う側が自己満足のために、あくまでも勝手におこなうのが基本であると私は考えています。こちらがいくら「救ってあげよう」と思って対象に接しても、相手が「救ってもらった」と思ってくれるかどうかは不確定です。もっともタチが悪いのは、救ったと思っていた対象から「私はあなたに救われた」という反応がなかったり無視されたりすると、救った(と勝手に考えている)側が「せっかく救ってあげたのに」と逆恨みすることです。そうした具体的事例を、カンボジアに「人を救おう」と意気込んで来た人たちのなかに、私はたくさん見いだしてしまいました。



一方、何らかの災難が自分にふりかかって、救われたいと思う人は、その災難の原因である組織や団体、人などに対して、好きなだけ救いを求めていいと思います。その理由の第一は、声をあげないと困っていることがまわりの人に理解されない可能性があるからです。第二は、声をあげれば、救われたいのに救われないという心の息苦しさから、すこしだけ解放されるかもしれないからです。声をあげたことにより「救われたい」という気分で共通する仲間ができれば、ヨコのつながりができて、すこしだけ安心できるかもしれません。ですから、私たちは救われたいと思って声をあげる人の声を、さえぎってはいけないと思います。



ただし、声のあげかたというものはあると思うのです。たとえ「救ってくれ」と開き直る場合であれ、その声が挑発的であったり乱暴であったりしたら、「救われたい」という気分の仲間内では受け入れられるかもしれませんが、その仲間内の外側では、受け入れられない可能性が高い。とりわけ、若者の生きづらさをまねいている原因が、内藤朝雄さんがいうような「生活の質」を上げにくい制度や政策を進める為政者にある場合や、本田由紀さんがいうような「教育内容の有意味性」を無視した教育システム(すなわち政府)にある場合は、個人やちいさな集団が挑発的な声や乱暴な声をあげても、ただただ無視されるだけだと思われます。



ようするに、「救われたい」と声をあげて、それを何とかして対象となる組織や団体、個人に届け、そうした対象を自分らが救われるべく「動かす」ためには、挑発や怒りをどうにかして抑え、できるだけ冷静沈着かつ戦略的に言説をつむいでいくことが有効なのではないか、と私は考えています。こう書くと、「そんなに冷静になれるわけないじゃん、目先のことで困ってるんだから」といわれそうですね。私だって、母が死んで孤児になってからは、つらいことがたくさんあったし、そのつらさを誰にぶつけていいのか、ずっとわかりませんでした。だからこそ、現状をつらいと考え、救われたいと思っている当事者で、なおかつ文章技術を持っている赤木さんのような方が、みずからのつらさや救われたいという思いを、冷静沈着かつ戦略的に文章としてつむいでほしい。そして、赤木さんの文章が多くの人に読まれ、何かしらのムーブメントを起こし、制度や政策を「動かす」までの力を持ってほしい。そう私は思うわけです。



たとえば、私には赤木さんの議論が、みずからが置かれた状況にもとづく切実な訴えに聞こえます。しかし、東南アジアという「弱者」がたくさん暮らす社会で長年生活してきた私には、どっちの弱者がより弱者という比較にはあまり意味がないと思えます。だれがどう「弱者」というものを定義するのか知りませんが、おそらく世の中には赤木さんが考える「弱者」よりもさらに弱い「弱者」が存在することでしょう。そうなると、そういう「弱者」が赤木さんに噛みつき、マチュカさんと赤木さんの論争のようなことが、際限なく繰り返されてしまいます。それは悪循環であり、実りがないように思います。



●余裕のない「弱者」とどう向き合うのか


武田さんは「世の中には多様な弱者がいるのだからそれにも気付け、理解を示せと言ったって、弱者ってのはそういう余裕がないひとなんだから、それは出来ないって」と言います。そのようにおっしゃる場合、自分には誰が「弱者」に見えるのか、ということが重要になると思うんですよね。


武田さんのそばには、赤木さんという「弱者」がいる。かつて私のそばには、以前はポト派に属していたが、国連主導で帰国してからは地雷原を農地として割り当てられ、そこを自力で農地として耕しながら生活するカンボジア人の「弱者」がいる。マチュカさんのそばには、マチュカさんが「弱者」だと思う「弱者」がいる。



このように、人それぞれの評価によるさまざまなタイプの「弱者」がいるわけですが、そのうちどの「弱者」が一番深刻な問題を抱えているのかということを議論するよりも、先に考えるべきことがあると思います。「弱者」自身に「余裕がない」のなら、まずは「弱者」のそばにいる人同士が、さまざまな「弱者」のタイプがいるということについて情報交換をしたうえで、その情報をそばにいる「弱者」に伝える程度のことはできると思うからです。



このことは、じつは「強者」と「弱者」の差異についても、ほとんど同じことがいえるような気がします。どこに線を引くのか。誰が線を引くのか。どのような線を引くのか。線を引くのは「自分」であり、その「自分」は身近にいる人や報道などで知った情報によって、誰が「強者」で誰が「弱者」だと判断しているわけです。「強者」だって、「強者」であるがゆえにつらいことがあるかもしれませんし、「強者」になりたくてなったのではないのかもしれません。「救ってくれ」と声をあげたい人がいるかもしれません。



私がカンボジアのポト時代を分析する際に、被害者のみならず加害者側の視点も重視するのは、「弱者」も「強者」も「被害者」も「加害者」も、お互いの情報をある程度は共有したうえで議論をしないと、それこそ「机上の空論」によって妄想がふくらみ、お門違いの反目や憎悪の感情がうまれたりするからです。情報を共有して、違う立場の人の立ち位置を相対化したうえで、自分の立ち位置を相対化すれば、反目や憎悪の感情は情報を共有する前よりもすくないものになるでしょう。



繰り返しますが、「弱者」に「余裕がない」のなら、その「弱者」のそばにいる「余裕のある」人が情報を仕入れ、ときには分析し、「余裕がない弱者」にすこしずつ提供していけばいいと思います。そうして提供された情報を、「余裕がない弱者」が「余裕がない」からといって受け入れられなければ、それはそれで仕方がありません。とはいえ、めげることなく、それをしつづけるしかないと思うんですよね。



ここで注意すべきは、「余裕のある人」が情報を提供した場合、提供された「余裕のない弱者」がそれを受け入れなくても、「余裕のある人」は「あくまでも自己満足でやっていることだから」と割り切り、けっしてイラついてはいけないということです。「せっかく情報を提供してるのに……」なんてイラついたら、それは「余裕のある人」による「余裕のない弱者」への単なる情報の押しつけとなってしまいます。



もっと端的に書けばいいのですが、文章能力が追いつかず、長いものになってしまいました。こうした問題は、なかなか簡単には自分の思いを伝えきれないんですよね。すみません。


前半が宮田さんに対するレスで、後半が武田さんと赤木さん、そして宮田さんに対するレスになっていると思います。


この文章の骨子は、宮田さんにメールとしてお送りして、公開するまでもないと考えておりました。しかし、武田さんの諧謔的(笑)なコメントを拝読させていただいた結果、同メールを大幅に加筆したうえで、公開したほうがよいと考えるにいたりました。



武田さん、赤木さん、宮田さん、今後ともよろしくお願いいたします。



●追記


と、ここまで書き終わったあとに赤木さんのブログを読んだら、以下のように『バックラッシュ!』がぼろクソにいわれていました。



 そして、こうした権威者全体に対する不信が、今回の『バックラッシュ!』非難。すなわち、なんだかんだと平等がなされるようなことを言いながら、この期に及んで今だ何ら達成せず、さらには過去の文脈を持ち出して金儲けを企む既存の「言ったもの勝ち左傾論壇」への不信とイコールであることは、言うまでもありません。


→ http://www.journalism.jp/t-akagi/2006/08/10/



こうやって私が出した本が議論の俎上にのぼることは、喜ばしいことだと思っています。上記で記したように、そのことに対しては何とも思いません。私自身が金儲けのために同書を出したのも否定しません。儲けなきゃ食えないんですから、これは私にとって切実な問題です。


ただし、「金儲けを企」んではいませんよ。著者のみなさんは、企画の意図に賛同して執筆されたのであり、私と一緒に「金儲けを企」んでいるわけではけっしてありません。


「平等」についても、『バックラッシュ!』の文中には「平等」などありえないという意味の記述も散見されます。帯に記した「男女平等」が半分ネタであることは、すでにキャンペーンブログで書きました。私自身、世の中に「平等」なんてありえないと思っていますし、それを強調するとロクなことがないと考えています。ただただ、理不尽な格差は是正していくべく、何かができたらいいなあとは思っています。



いずれにしても、やっぱり書き方ってあると思いますよ。書き方の問題までをも、「弱者だから」とか「余裕がないから」とかに還元したり開き直ったりするのはどうかと思うし、赤木さんだったら無駄な反発をまねかないような書き方ができるんじゃないのかなあ。上記でも書いたので、繰り返しませんが。それこそ「読者共同体」のことを考え、自分の主張が多くの人に受け入れられることを目指すのなら、書き方は考えたほうがいいかもしれません。もちろん、「読者共同体」なんてどうでもいいから、自分の書きたいことを書きたいように書くという姿勢も否定しません。ほかの人はどうかわかりませんが、それはそれで私自身はおもしろいとは思っていますので。



ついでにもう一点。武田さんには『バックラッシュ!』をお読みになっていただけたのかなあ、という疑問があります。読んでいただけたのなら、武田さんが揶揄されているような「アタマのいい方」ばかりが執筆しているわけではないということは、一目瞭然だと思うのですが……。お読みでなかったら、すぐに送りますので、ご一報くださいませ。



以下は、本エントリーの関連ページです。



深夜のシマネコ(赤木さん)


http://www.journalism.jp/t-akagi/2006/07/06/


http://www.journalism.jp/t-akagi/2006/07/12/


http://www.journalism.jp/t-akagi/2006/07/28/


http://www.journalism.jp/t-akagi/2006/08/10/


オンライン日記(武田さん)


http://162.teacup.com/sinopy/bbs 「バックラッシュ非難」および「バックラッシュ非難2」


人生出直します(宮田さん)


http://zakkityo.seesaa.net/article/22067409.html


http://zakkityo.seesaa.net/archives/20060811.html


macska dot org(macskaさん)


http://macska.org/article/147


歩行と記憶(栗山さん=葉っぱさん)


http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20060809/


http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20060810/


http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20060811/



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2006年8月10日 (木)



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台風一過の昨晩は、月が明るくて、きれいでした。


月も丸い光、青信号も丸い光、ということで、セットで写真を撮りました。撮影時には、残念ながら月は雲にかかってしまったのですが……。



月を見ていると、こんなことを思います。


どこらへんの国の人が、私と一緒にこの月を見ているんだろう、と。


あまり時差のない地域の人で、天候が晴れであれば、違う国の人も同じ月を見ているんですよね、きっと。



海外で暮らしたことのある人、とりわけあまり時差のない国で暮らしたことのある人は、この月の光の下で「あいつ」や「あの人」はいま、何をやっているんだろうなあ、なんて思ったりするのでは。



カンボジアの農村や国境付近にいくと、個人的に所有する発電機以外には電気を得る手段がありませんでした。


だから、テレビの取材時には、ほとんど発電機を持っていきました。でも夜中はうるさいので電源を落とします。


すると、頼りになるのは月の明かりだけ、という状況になるんですよね。



で、この月明かりが意外に明るいんです。


本が読めてしまうくらいに明るい。



一方、曇っていたり月が三日月だったりすると、あたり一面が真っ暗になります。


まさに漆黒の闇。滞在しはじめたころは、ポト時代にたくさんの人が虐殺されたという事実と、どこまでもつづく闇がリンクして、たいへん怖い思いをしたものです。


あまり意識しない程度の月明かりは、日本で経験していましたが、漆黒の闇は日本で経験したことがありませんでした。だから、ほんとうに怖いんです。



しかし、闇も怖いが慣れも怖いものです。何年も滞在していると、真っ暗な夜に虐殺現場をとおりかかっても、それほど怖くなくなってしまいました。こうやって記憶はマヒしていくんだなあと思いつつ、それも仕方がないことなのかなあ、などとぼんやり考えたものです。


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2006年8月10日 (木)



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「週刊金曜日」8/11・18合併号の「きんようぶんか 読書 書評委員が選んだ15冊」で、女性のためのアダルトグッズショップ「ラブピースクラブ」代表の北原みのりさん(同誌書評委員、写真では真ん中の方)に、お薦めの一冊として『バックラッシュ!』を取りあげていただきました。尊敬する北原さんにご紹介いただけて、たいへん感激しております。


「15冊」のコーナーでは、北原さんと雨宮処凛さん(作家)、本橋哲也さん(東京経済大学教授)の鼎談が掲載されています。そのなかから、北原さんの『バックラッシュ!』に関する発言を、以下に引用します。



北原 『バックラッシュ!』を読んだときは、久々に理論武装するおもしろさを思い出したけど。「男と女はかたつむりか」とか、フェミニズムを誤読した上で批判していく勢力があり、最初は誰も相手にしなかった。でも状況が変わっていて、とうとう現実が本当に動いてしまいました。


 この本には言葉で相手と議論をしていくおもしろさがある。久々にきちんと、じゃあ受け手立つよ、と相手を切っていこうとする気持ちを感じさせる本だなと。ちょっと希望を持てたかなと思っています。



北村編集長と編集部の小林さん、そして北原さん、どうもありがとうございました。


北原さんのラブピースクラブはこちら→ http://www.lovepiececlub.com/shop/index.shtml


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2006年8月10日 (木)




先週、お知らせした伊藤文學さんのインタビューですが、本日より後編がアップされております。


ご一読いただければ幸いです。



 ココセレブ伊藤文學さんインタビュー(後編)


 → http://celeb.cocolog-nifty.com/interview/2006/08/post_f631.html


 月刊『薔薇族』編集長伊藤文學の談話室「祭」


 → http://bungaku.cocolog-nifty.com/barazoku/



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2006年8月 9日 (水)



最近、なぜかマンガをよく読み、アニメをよく見ています。


双風舎の著者筋をはじめ、いろんなジャンルの研究者の方がしばしば言及することから、最近になって「新世紀エヴァンゲリオン」を見はじめました。


最初の放映も再放送も、私がカンボジアにいたときだったので、リアルタイムでは見ていません。また、再放送以降に加熱したブームも知りません。


で、はじめて見ているわけですが、これがとてもおもしろい。そのおもしろさについては、web界隈で言い尽くされていますので、ここではくわしく書きません。


鳥肌が立つ思いでこのアニメを見たということについて、ひとつだけ書いてみましょう。それは音楽です。オープニングはノリノリの「残酷な天使のテーゼ」。挿入歌はいろいろありますが、さきほど見た第弐拾弐話「せめて、人間らしく」に挿入されていた「ハレルヤ」にはぶったまげました。中学のときに合唱したあの「ハレルヤ」をフルコーラスで、アニメの挿入歌として聞くことになるとは……。


あと、それより感激したのはエンディングの曲です。私はそもそも「Fly me to the moon」という曲が大好きで、この曲はいろんな人がカバーしているのですが、i-TUNEではもっぱらフランク・シナトラ版を聞いていました。その大好きな曲が、エヴァのエンディングに採用されていることに、まず驚きました。さらに、何話か見続けていると、歌い手を変えたり、歌なしで演奏だけだったりと、さまざまなヴァージョンがあることに気づきました。


大好きな曲を、エンディングで手を変え品を変え出してくるんですから、たまりません。必然的に毎回、きっちり最後まで見てしまうわけです。


当初は、勧善懲悪スタイルで進んでいくものかと思っていましたが、ストーリーの中盤から雲行きがあやしくなりました。主人公が抱えるトラウマを徹底的に描写したり、正義だと思っていたものが悪と直結していることがあきらかになったり……。


第弐拾弐話まで見て、「次回は綾波レイが……」という予告を見たうえで、「なんとしても、次を早く見なければ」と思いつつビデオ屋にいったら、第弐拾三話が貸し出し中で大ショックでした。


とりあえず、第弐拾弐拾弐話まで見た気分を写真であらわしてみました。我が家から見た(第三新東京市のような)昨日の夕暮れです。


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2006年8月 9日 (水)



同書のカバーイラストは、鍋田哲平さんの手によるものです。あのイカしたイラストの女性が、以下の「アルクトゥルスの25°下」というブログで大変身しております。正直、萌えました。(笑)


 → http://spiegelfernrohr.way-nifty.com/blog/2006/08/post_9844.html


最高です!


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2006年8月 7日 (月)




『論座』2006年9月号に、斎藤美奈子さんによる『バックラッシュ!』の書評が掲載されました(同誌317ページ)。誠にありがたいことです。以下、たまには書評にレスを入れてみるのもよいかと思いたったので、しばしお付き合いください。


まず、書名が『バックラッシュ!』、副題が「なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?」、帯のコピーが「男女平等で何が悪い!」という点について、斎藤さんは「キーワードの三方固めで注意を喚起する。周到に仕組まれた本だといえる」と書かれております。まったくそのとおりで、周到に仕組んでみました。帯のコピーを読んで「男女平等」賛美の本だと勘違いする方が散見されましたが、それは想定内のことでした。本文を読めば、そのことが「ある意味ではホント、ある意味ではネタ」であることがわかる仕組みになっていますし、また三つのキーワードを組み合わせると「第三の道」につながっていくという「隠喩」も、カバーとオビの文字列には含まれております。


重要なことは、「バックラッシュ、ジェンダーフリー、男女平等」という三つの言葉をひとつの平面(カバー表1)に置くことであり、まさに斎藤さんが指摘するように、そうすることによって注意を喚起したかったというのが私の思いでした。


「2002年ごろからめきめき勢いづいてきた」バックラッシュの動きに「対抗すべく編まれたのが本書」であり、産経新聞や『正論』「お得意の爆笑論文を『愛読』してきた私も刊行を心待ちにしていた」そうです。斎藤さんから心待ちにされるとは、なんて幸せな本なのでしょう!


「本書の執筆者の中にも『ジェンダーフリーではなく男女平等でいいじゃない』派と『セクシュアル・マイノリティをも含むジェンダーフリーのほうが望ましい』派が混在していて、当たり前だが、用語ひとつとっても一筋縄ではいかないのだ」としつつ、その点については「新たな論争の火種も見えかくれする」と斎藤さんは指摘する。これはおっしゃるとおりです。私も企画の当初は、「バックラッシュ派 vs 反バックラッシュ派」という図式で議論が展開するのかと思っていました。しかし、論文が集まり、それらを読んでいるうちに、反バックラッシュ派のなかで「男女平等」や「ジェンダーフリー」といった概念に対する考えが異なっていることを知り、たとえ「バックラッシュ」が片付いたとしても、同書で提起したさまざまな議論が一筋縄では終息しないことを理解しました。


同書の議論の「全部についていくには多少の素養が必要かもしれない」という斎藤さんのご指摘も、ごもっともだと思います。議論についていっていただくために、用語解説や「注」を充実させたつもりです。とはいえ、仕上がった本は、バックラッシュ問題に関心がある「初心者」にも読める論文はありますが、全体的には「中級者」くらいの予備知識が必要なのかもしれないなあと思いました。


斎藤さんが、宮台論文について「半分に縮めて後ろにまわしたほうがよかったよ」と述べていますが、半分はごもっともで、半分は弊社なりの理由があることでした。宮台さんの論文が長くなったのは、はじめに仕上がった原稿には読者から誤解をまねく可能性のある表現が多かったため、全体にわたる修正をお願いしたからです。結果として宮台さんは、多少の加筆・修正と徹底した注をつけることにより、誤解されないようなかたちの論文に仕上げてくれたわけです。ところが、その加筆・修正と注とで、私が想定していたページ数をはるかに超えること(当初は60ページを予定。最終的には約100ページ)になりました。


読者の持久力とほかの著者とのバランスを考えれば、宮台論文については当初に予定していた分量が妥当であることは承知していました。でも、入稿が迫っており、最終的にいただいた原稿を短く調整する時間的なゆとりがありませんでした。ですから、宮台論文が長いと斎藤さんにいわれるのは、当然のことだと思います。と思いつつも、宮台論文は同書において重要な位置を占めていますし、加筆・修正と注により内容は当初よりも充実しましたので、分量が多くなったことについて後悔はしておりません。


一方、宮台論文を後ろに回す件ですが、これは原稿執筆者が確定したときから、「巻頭は宮台、巻末は上野」という線で決めていたので、まったく後悔はしておりません。「ツカミ」と「シメ」をおふたりにお願いした、という位置づけですね。


さらに斎藤さんは「表紙カバーの執筆者名に大小の差があるのもどうかと思うし」と述べております。これも弊社が意図的にやったことです。ラフの段階では、大きなフォントで書かれた四人の執筆者しか、カバーには掲載しないつもりでした。その理由は、まったくもって営業的なものです。多くの人が参加している共著本や雑誌のつくりにならい、知名度のある執筆者をできるだけ強調したかったのです。基本的に、共著本というのは内容いかんにかかわらず、「共著本」というだけで単著本よりも売りにくいものです。ですから、その点をどうにかするための苦肉の策として、四人の名前のみを出そうと考えていました。


しかしながら、カバーをつくっているうちに、やはり執筆者全員の名前は出したいなあと思い直しました。そこで、上記のような「共著本の法則」から逃れつつ、全員の名前をカバーに掲載するためにはどうしたらいいのか、と考えた結果、現在のような「大小の差」でそれをクリヤーしようということに落ち着きました。


書評の最後で、「親切な用語解説などもあり、現状を俯瞰するには便利な本。いわゆる女性学とは専門を異にする多様な論者の立ち位置に『いま』を感じる」とお褒めの言葉(?)を斎藤さんにはいただきました。ありがたきしあわせでございます。


いろいろ書きましたが、なにはともあれ、斎藤さんに『バックラッシュ!』の書評を書いていただいたということ自体に、大いなる意味があると私は考えております。そして、書評を読んだいま、「あまり怒られなくって、よかったなあ」と思っているところでもあります。


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2006年8月 5日 (土)




nancyKOsekiでつくってみました。


「誰だかわからない」風になりましたね。


ナンシー"小"関 風の版画作成ソフトはこちらです。


 → http://www.hirax.net/diaryweb/2006/07/02.html#200607021


作者のjun hirabayabashiさん、ありがとうございます!


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2006年8月 4日 (金)




ニフティーのココログに「ココセレブ」というコーナーがあります。


そのトップページでは毎週更新で、「ココセレブ」に登録されている方のインタビューを掲載しております。


今週は月刊『薔薇族』編集長の伊藤文學さんへのインタビュー記事が掲載されています。同インタビュー記事は、僭越ながら、私が取材・執筆を担当させていただきました。


よろしければご一読くださいませ。



 ココセレブ伊藤文學さんインタビュー


 → http://celeb.cocolog-nifty.com/interview/2006/08/post_0984.html


 月刊『薔薇族』編集長伊藤文學の談話室「祭」


 → http://bungaku.cocolog-nifty.com/barazoku/



これは前半で、来週木曜の午後に後半が掲載されます。


以下、取材後の余談をいくつか。


まず、会ってお話しをさせていただいた伊藤さんの印象。


なによりもユーモアがありました。伊藤さんは、楽しかったことも辛かったことも、たえずユーモアをまじえながら語ります。そんな語り口からは、やはり三十数年ものあいだ、一貫して一冊の雑誌を出し続けてきた気概と自信を感じるとともに、多くの人から好かれる人気者であったことがうかがわれました。


聞き手の私が出版社をやっていることを知ると、かなり突っ込んで流通や営業に関することを伊藤さんは聞いてきました。それも鋭いツッコミばかり。単に編集者というだけでなく、出版社の経営者としての側面も大いに感じた次第です。


また、記事でも触れていると思いますが、伊藤さんからカミングアウトしていないゲイの見分け方を教えてもらいました。そんなことを知っていても、何の得になるわけでもないのですが。


もっともわかりやすいのは、何も聞いていないのに「私は(俺は)、女好きだから」とみずからいってくる男性。それはそうですよね。ヘテロであれば、そんなことは当たり前のことだから、わざわざいう必要がありません。


寺山修司さんは、自分ではけっしてゲイだと言いませんでしたが、同性愛を語る集会に参加したときに、講演の冒頭で「私は女好き」だと宣言されたそうです。それで伊藤さんは「彼はゲイだ」とピンときたとのこと。


あと、本文ではまったく触れていませんが、伊藤さんは少年愛について、ひじょうに寛容な考え方を持っていました。男が男を好きになるように、女が女を好きになるように、大人が子どもを好きになることもありえる。そして、そういう人は実際に存在する。それを、臭いものにフタをするがごとく、禁止したりなかったことにするのはマズい。そんなことをおっしゃっていたような気がします。


伊藤さんのこの意見については、留保つきで同意します。たしかに、フタをしてしまえば、はけ口がなくなってしまい、それこそ『薔薇族』を書店で買えないゲイの人や結婚して子どももいるゲイの人と同じような立場になってしまいますね。ですから、大人の男性が少年を好きになってもいい、とは思います。


ただし、少年の側からすれば、まだ誰が好きだ嫌いだという判断もつかず、一方的に大人から好かれてしまっても、わけがわからなかったり嫌だったりするかもしれません。少年が好きな大人の男性は、この点については十分に配慮する必要があるかと思います。


そうなると、残された道は、大人の男性が少年に対して「片思い」をする、ということなのかもしれません。片思いをしているという前提であれば、自分が少年愛者であることを世間に表明してもいいと思いますし、それを世間がフツーに受け入れてもいいような気がします。


片思いであることから逸脱すると、そこには犯罪という結果が待ち受けています。少年愛は犯罪と隣り合わせだからこそ、カミングアウトしにくいし、世間からも受け入れられにくくなっているのでは。ならば、しっかりと片思いであることを前提としたうえで、少年愛者であることを表明することがたいせつであるような気もします。


もう一点は、『薔薇族』という雑誌が、一部のゲイの人たちに商業主義であることを批判されていた、ということ。「ゲイをくいものにしている」といった意見ですね。そうした批判や意見は、一応は言論(というか商業出版)に関わる私から見ると、ちゃんちゃらおかしい(by 立花隆)としかいえません。たしかに、雑誌によってゲイの存在が大衆的になり、商業的になったのかもしれません。しかし、その反対側では、インタビューで伊藤さんが語っているようなゲイにとってのプラスの側面もあったわけです。


自分の言いたいことをとおすには、いつでも妥協が必要です。『薔薇族』でゲイが取りあげられることのマイナス面とプラス面を計算し、プラス面が多いのならば、ある程度のマイナス面には妥協するしかないと思います。妥協もせずに、気に入らないからダメだと文句をいうのは簡単ですが、そういう文句は、計算高く着実に物事をすすめている人に対しては、あまり有効ではありません。


そういう「闘い」も裏でおこないながら、三十数年にわたって『薔薇族』を出し続けた伊藤さんを、やはり私は尊敬せざるをえません。


いずれにしても、伊藤さんの最大の問題意識は、マイノリティの存在を世に知らしめ、マイノリティ自身が自立し、世間に受け入れられるためにはどうすればいいのか、というものだと理解しました。その実践のひとつが、『薔薇族』だったのだと思います。


『薔薇族』は廃刊になりましたが、最近も二冊の新刊を出し、ふたたびゲイ雑誌をつくる構想を練るなど、伊藤さんはまだまだ元気です。今後の活動に期待するとともに、いつまでも応援していければと私は考えています。


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2006年8月 3日 (木)




初回にダウンをして、終盤はふらふらしていた亀田くんが判定勝ちしたのには、ちょっと驚きました。


判定の際、ひとりめの審判が相手のランダエタに。ふたりめが亀田に……。ここまでは「亀田に一票は番組を盛り上げるためのネタだろう」と思っていました。しかし、三人目が亀田にポイントをいれたとアナウンスされた瞬間、これは八百長なのではないかと私は思いました。


さらに、判定のあと、ランダエタ側の様子をカメラがまったく映さなかったのが不自然。あれだけ大風呂敷を広げた番組なのだから、いくつものカメラが同時にさまざまな被写体を撮影しています。当然ながらランダエタ側を撮影していたカメラはあったのでしょう。そして、当然ながら通常の試合であれば、判定負けした相手サイドの映像も流すでしょう。


そんなことを考えながら、ブログを巡回していたら、藤原新也さんがみずからのブログの「国民的屈辱の一夜」というエントリーで、ほとんど同じような疑問を持ちつつ番組を観ていたことがわかりました。


 → http://www.fujiwarashinya.com/talk/


そして最近、NHKのドキュメンタリーとして亀田一家を取材していた知人のディレクターが、すでに取材を開始していたのにもかかわらず、亀田一家の取材はTBSオンリーになったからということで取材を拒否され、いきなり番組自体がポシャってしまったという事実を知りました。


亀田一家に、いったいどういう力が働いているのでしょう。


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2006年8月 3日 (木)




金沢大学医学部付属病院の産婦人科で、自分が知らないうちに卵巣がんの臨床試験に登録され、実験用の抗ガン剤を投与された女性が亡くなりました。その女性が亡くなる前に、女性から臨床実験に自分が同意した覚えはないと聞かされた同大付属病院の打出医師は、女性の死後、臨床実験のデータを遺族にわたしました。


こうして金沢大学医学部付属病院の人体実験に関する裁判がはじまり、データを遺族にわたした打出医師は、病院側から内部告発者としてさまざまな嫌がらせをうけることになります。


1999年に金沢地裁ではじまった裁判は、遺族側の上告を最高裁が棄却したことで、遺族側の勝訴が確定しました。とはいえ、これは民事裁判なので、実質的に人体実験をおこなった医師らには何のペナルティもあたえられず、ただ漠然と大学側が敗訴し、遺族に罰金を払うという、あいまいな結果しかもたらしませんでした。ただ単に、責任の所在があきらかになった、というだけです。この訴訟には金沢大の仲正昌樹さんが一貫して関わりつつ、支援をしています。


これまでの訴訟では、人体実験がおこなわれたことに対する医師らの説明責任がいまだ果たされておらず、大学病院という組織内での自浄も見込まれません。そこで、打出医師や仲正さんらは、当該医師らを刑事告発・告訴しました。


訴訟の概況や打出医師のコメント、年表などが、以下のページに掲載されています。


 → http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/newsup/


ある医師が患者に対し、患者に無断で抗ガン剤の人体実験をしていた。その事実を知った同僚の医師が、「証拠の改ざんが許されれば、立場の弱い患者は裁判で医師の責任を追及できなくなり」、「地域の信頼を寄せられるべき大学病院の不正は見逃せない」という思いで内部告発をした。その告発をした医師が、あきらかに制裁的な人事を発令され、大学内で肩身の狭い思いをしている。


これって、どう考えてもおかしなことですよね。しかし、99年に訴訟がはじまってから、現在にいたるまで、打出医師のそうした状況はほとんどかわっておらず、逆に大学病院側が「大学病院で内部告発をすると、こんな目にあうぞ」と、ほかの大学病院関係者に対して指し示しているようにも思えます。


「しょせん法律なんてそんなもの」とか「正義が勝つとはかぎらない」などと思うのは簡単です。「何となくすぎていく私の日常に、そんな出来事は関係ない」と切り捨ててしまうこともできましょう。だがしかし……。大上段に立って唱えるうさんくさい正義ではなく、最低限の正義というものは、やはり尊重されるべきだと思いますし、その正義が踏みにじられようとしているのならば、どうにかしなければと思わざるをえません。


私は、この人体実験に関する訴訟の経緯と、内部告発者である打出医師の処遇について、最低限の正義を踏みにじっているような気がして仕方がありません。かといって、それに対して私に何ができるのか。こうしてブログを使い、人体実験と内部告発について、ひとりでも多くの人に知ってもらうようなことしか、いまはできません。


上記でリンクした記事をお読みいただき、最低限の正義について、すこし考えてみていただければと思います。


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2006年8月 1日 (火)



2カ月にわたって「毎日更新」されてきた『バックラッシュ!』発売キャンペーンブログが、昨日で更新終了となりました。


ブログをやっている方ならおわかりだと思いますが、「毎日更新」ということはたいへんなことです。


この荒技を成し遂げてくれたchikiさんとmacskaさんに、この場を借りて、深くお礼を申し上げます。ありがとうございました!


最終日の更新分には、これまでの主要コンテンツを網羅した目次が掲載されています。


 → http://d.hatena.ne.jp/Backlash/20060731/p1


キャンペーンブログの更新は終了しますが、バックラッシュはこれで終わったわけではありません。「ジェンダーフリー」にかぎっていえば終息気味ではあるともいえますが、老人介護の問題などをはじめ、これからバックラッシュが起きそうな問題や事柄は、まだまだありそうです。


『バックラッシュ!』は、けっして「ジェンダーフリー」に対するバックラッシュを考えるため「だけ」につくったものではありません。今後、起きうるバックラッシュ現象のすべてに対して、有効な参照項になるべくつくったものです。


ほんとうなら長嶋茂雄さんのように「『バックラッシュ!』は永遠に不滅です」と言いたいところですが、バックラッシュなんてなくなったほうがいいに決まっています。


だったら、キャンペーンブログ更新終了にちなむ締めの言葉としては、「はやく『バックラッシュ!』が参照されないような世の中になったらいいなあ」とでもいえばいいのでしょうか。(笑)


いずれにしても、キャンペーンブログを主宰してくれたおふたりにはもう一度、そして何度もたずねてくれた読者のみなさんや『バックラッシュ!』をご購入いただいた方がたに、深く感謝いたします。ありがとうございました!


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