双風亭日乗

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2007年2月28日 (水)



本日です!


わずかに残席ございます。



第2回分もすでに八割くらいの席が予約済みです。


早めのご予約を!




宮台真司×鏡リュウジ


真夜中のトークセッション at 三省堂書店



スピリチュアル・ブームの現在。テレビでは精神世界系の番組が視聴率をかせぎ、女性誌では占いの連載や特集が絶えず掲載されています。


一方で、「精神世界って何?」「占いって当たるの?」「うさん臭くない?」という素朴な疑問を抱く人も多いことでしょう。


今回は、宮台真司さんと鏡リュウジさんが、そんな疑問に答えつつ、精神世界とは何か、また占いとは何かを、それぞれの専門分野に引き寄せながら考えます。


第1回は、精神世界や心霊現象などを含めたオカルトと占いとの関係を検証しつつ、占いの歴史について振り返ってみようと思います。さらに、最近の出来事を事例にして、占いと世界の関係を考えてみます。


第2回は、占いと社会の関係や占いと学問のつながり、そして占いのこれからについて、じっくり語っていただきます。西洋占星術と社会学のコラボレーション(!?)のもと、おふたりが日本の未来を占ってくれるかもしれません。


■第1回


シンジとリュウジの「占いはセカイを変えるのか!? 」


〈場 所〉 三省堂書店神田本店 本店内特設会場


〈日 時〉 2007年2月28日 20時30分~22時


〈参加費〉 1000円


■第2回


シンジとリュウジの「セカイの未来を占ってみよう!」


〈場 所〉 同 上


〈日 時〉 2007年3月28日 20時30分~22時


〈参加費〉 1000円


■講師紹介


宮台真司(みやだいしんじ)


1959年、仙台市生まれ。社会学者。東京大学助手、東京外国語大学講師を経て、首都大学東京都市教養学部准教授。テレクラ、援助交際、オウム問題、郊外、専業主婦、少年犯罪、学級崩壊、盗聴法など、現在まで多くの分野で発言をおこなっている。著書に『権力の予期理論』(勁草書房)、『援交から天皇へ』(朝日文庫)、『挑発する知』(姜尚中氏との共著)、『限界の思考』(北田暁大氏との共著、ともに弊社刊)など。


鏡リュウジ(かがみりゅうじ)


1968年、京都府生まれ。占星術研究家・翻訳家。国際基督教大学卒業、同大学院修士課程修了(比較文化)。雑誌、テレビ、ラジオなど幅広いメデイアで活躍、とくに占星術、占いにたいしての心理学的アプローチを日本に紹介、幅広い層から圧倒的な支持を受け、従来の『占い』のイメージを一新する。著書に『占いはなぜ当たるのですか』(講談社文庫)、『12星座の恋物語』(新潮社)、『鏡リュウジ 星のワークブック』(講談社)など。


■お問い合わせ・ご予約


三省堂書店神田本店 電話 03-3233-3312 



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2007年2月25日 (日)



内藤さんの『いじめと現代社会』が発売となりました。


毎度のことですが、ネット書店では「出版社~取次~アマゾン・bk1~発送」という流れで作業が進むため、ご予約いただいた方々への配達が遅れ気味となっております。申し訳ありません。


本格的に配達がはじまるのは、発売から1週間くらい経過した時点からになるかと思います。しばしお待ちくださいませ。


さて、同書に関連するテレビ番組を、以下に紹介いたします。


内容の善し悪しは、見てみないとわかりませんが、「いじめ」がテーマの「NHKスペシャル」を「生放送」で「2時間30分」やるということなので、時間がある方はぜひご覧になってみては。



NHKスペシャル


日本の、これから


「いじめ」


NHK総合 2007年3月3日 19:30~22:00


いじめを苦にした子どもの自殺をきっかけに、子どものいじめが大きな社会問題として取り上げられたのは、今から20年以上も前のことです。その後も、いじめによる自殺が報じられるたびに、いじめをなくそうと声高に叫ばれてきました。


「いじめの早期発見を!」「心の教育が必要だ」「命の大切さを教えよう」…


しかし、いじめはなくなるどころかむしろ酷くなり、教育現場に蔓延しています。これまでにいじめをなくすために行なわれたさまざまな対策は、ほとんど効果を上げていません。


これまでの対策は何が間違っていたのでしょうか。学校の先生は、保護者は、あるいは教育委員会や行政は、子どもたちと真剣に向き合い、その苦しみをきちんと受け止めていたでしょうか。


私たちは、子どもたちのためにいったい何をすべきなのでしょうか。


「日本の、これから」では、行政の責任者、現役の教師、保護者、そして中学や高校に通う生徒のみなさんによる長時間討論を通じて、深刻ないじめをなくすために誰が何をしなければならないのか、徹底的に考えます。


(以上、番組webページより)


http://www.nhk.or.jp/korekara/



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2007年2月21日 (水)




先週、新刊の『いじめと現代社会』がオビの誤植により発売延期となったことをお知らせしました。



第一にオビを刷り直し、第二にPP(ビニール)をかけ、そのオビが製本所に納品される。製本所は、第三に誤植のあるオビを本体からはずし、第四に新しいオビをかけて取次に納品する(この第一段階から第四段階までの流れを覚えておいてください)。


そんな流れで、本日、取次のJRCに「オビの付け替えられた本」が納品される予定でした。



ところが……。JRCに納品されたすべての本のオビが、付け替えられていなかったのです。同じことを繰り返して笑いをとるのがドリフのギャグでしたが、オビの間違いを繰り返しても洒落になりません。


超久しぶりに「あきれてものがいえない」状況になってしまいました。



さっそく印刷屋さんに原因をたずねました。オビが付け替えられていなかった原因は、製本所が第三段階以降の作業をまったくしないまま、本日納品したことにあるようです。つまり、先週の半ばに製本所の倉庫に積んであった、修正前のオビがかかった梱包済みの本を、そのまま本日、納品したということなんですね。



すでに配本時期を一週間も延期しています。ご予約いただいた読者も多いし、注文をいただいた書店も150以上にのぼります。


つきましては、著者の内藤さんと相談したうえで、『いじめと現代社会』の初版については、修正されていないオビのまま出荷させていただくことにしました。



くわしい事情については、追ってご報告いたします。


みなさま、ほんとうに申し訳ありません。


自分で書くのもなんですが、「痛いニュース」です……。


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2007年2月21日 (水)




新刊の配本日が変更になったり、原稿を消してしまったりで、ながいあいだ和食の話が中断してしまいました。すみません。


くわえて、上記の混乱のなかで、ニューズウィークの当該号をなくしてしまいました。それを参照しながら、寿司ポリスたる松岡農水相を嗤う予定だったのですが……。


というわけで、うる覚えで恐縮ですが、ニューズウィークの内容を思い出しつつ、寿司ポリス問題の感想を書いてみようと思います。



海外で「ほんとうの和食」でない和食を食べて、松岡さんは寿司ポリス制度を思いついたんですよね。でも、「ほんとうの和食」の定義って、いったい何なのでしょう。私にはわかりません。


カンボジアで和食の店ができたときには、たしかに飛びつくようにかよったりしました。そこで食べたのは、カレーライスやコロッケ定食でしたが、それが「ほんとうの和食」であるのかどうかなんて、関係なかったですね。


ただただ、懐かしい感じがしました。そうなると、日本人が「懐かしさ」を感じるのが「ほんとうの和食」なのか、という問題が生じます。「懐かしさ」=「ほんとう」って、ちょっとヘンだと思います。



ニューズウィークの記事のなかで、日本人が和食の基本だと思っているものや形式は、じつは朝鮮半島から流入したものだ、と書かれていたように思います。これはけっこう象徴的な話だと思いました。


たとえば、「外国人」がカンボジア料理といっているものがあります。一応は、それらしいものがあるものの、タイとベトナムの食堂でご飯を食べれば、「タイ料理+ベトナム料理÷2=カンボジア料理」であることが、なんとなくわかります。


さらに中華料理をくわえて3で割ってもかまいません。タイ国境に近づけば、限りなくタイ料理に近いカンボジア料理が食堂で出されるし、ベトナム国境も同様です。首都プノンペンには華僑がたくさんいるので、限りなく中華料理に近いカンボジア料理が出てきたりもします。



こうしたことから体感的にいえるのは、人が移動すれば料理も移動するということですね。料理が国をまたいで移動しているうちに、混じってしまったりすることもあるでしょう。料理の決め手ともいえる食材や調味料が現地調達できなければ、代用品で対応するしかなくなりますし。


そんなふうに考えてみると、そこに住む人たちが、そこの食材や調味料を使い、そこで食べているのが、「●●料理」と呼ばれたりするものであり、その「●●」にわざわざ国名を入れたうえで、ぎゃーぎゃー騒ぐ必然性はまったくないような気もします。



さらに、これだけ人の流動化が国を渡って盛んになっているんですから、料理だって流動化するのは当然のことだと思います。流動化して、混じり合い、新しいものが生まれたり、古いものがなくなったり……。


海外で「和食」を食べたらまずかった。もし多くの人がまずいと思ったら、その店には客が遠のき、つぶれてしまうでしょう。海外の日本料理店が、松岡さんが「ほんとうの和食」だと思えない商品を「和食」といって売っていても、それがおいしければその店は繁盛するだけのお話し。



以上のことから導き出されるのは、「ほんとうの和食」を世界に認知させるために、日本の政府が旗を振って和食の認定制度をつくるなんて、笑止千万なことだということですね。そんなことを日本が言いだした結果、「それじゃあ、俺の国もその制度をつくろう!」なんて他国がマネをしだしたら、日本の多くの飲食店にその制度のつけがまわってきかねません。


日本で多国籍料理やエスニック料理を売り物にしている店なんて、つぶれるところがけっこう出てくるんじゃないのかな。そうなったら、松岡さんはつぶれた責任をとってくれるのかなあ。



「ほんとうの和食」ってものがあってもいいと思います。でもそれは、「ほんとうの和食」を求めている人が勝手にそういう定義をつくり、勝手にその定義を守っていけばいいこと。その定義を知らない人や定義を流動的に解釈している人に対して、押しつけるようなものではないと私は思うんですよね。



さらにいえば、その「ほんとうの和食」って定義は、他国に日本を紹介するときには都合よく使ってもよいものだといいですね。カンボジア人に「日本料理って何?」と聞かれたときには、「ほんとうの和食」の定義を話したり(笑)。それでいて、海外の日本料理店でヘンな「和食」が出てきたら、ムキになって怒るのではなく、笑って写真撮影をしたり。そんな感じでどうですかね、松岡さん。


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2007年2月21日 (水)



ご予約はお早めに!



宮台真司×鏡リュウジ


真夜中のトークセッション at 三省堂書店



スピリチュアル・ブームの現在。テレビでは精神世界系の番組が視聴率をかせぎ、女性誌では占いの連載や特集が絶えず掲載されています。


一方で、「精神世界って何?」「占いって当たるの?」「うさん臭くない?」という素朴な疑問を抱く人も多いことでしょう。


今回は、宮台真司さんと鏡リュウジさんが、そんな疑問に答えつつ、精神世界とは何か、また占いとは何かを、それぞれの専門分野に引き寄せながら考えます。


第1回は、精神世界や心霊現象などを含めたオカルトと占いとの関係を検証しつつ、占いの歴史について振り返ってみようと思います。さらに、最近の出来事を事例にして、占いと世界の関係を考えてみます。


第2回は、占いと社会の関係や占いと学問のつながり、そして占いのこれからについて、じっくり語っていただきます。西洋占星術と社会学のコラボレーション(!?)のもと、おふたりが日本の未来を占ってくれるかもしれません。


■第1回


シンジとリュウジの「占いはセカイを変えるのか!? 」


〈場 所〉 三省堂書店神田本店 本店内特設会場


〈日 時〉 2007年2月28日 20時30分~22時


〈参加費〉 1000円


■第2回


シンジとリュウジの「セカイの未来を占ってみよう!」


〈場 所〉 同 上


〈日 時〉 2007年3月28日 20時30分~22時


〈参加費〉 1000円


■講師紹介


宮台真司(みやだいしんじ)


1959年、仙台市生まれ。社会学者。東京大学助手、東京外国語大学講師を経て、首都大学東京都市教養学部准教授。テレクラ、援助交際、オウム問題、郊外、専業主婦、少年犯罪、学級崩壊、盗聴法など、現在まで多くの分野で発言をおこなっている。著書に『権力の予期理論』(勁草書房)、『援交から天皇へ』(朝日文庫)、『挑発する知』(姜尚中氏との共著)、『限界の思考』(北田暁大氏との共著、ともに弊社刊)など。


鏡リュウジ(かがみりゅうじ)


1968年、京都府生まれ。占星術研究家・翻訳家。国際基督教大学卒業、同大学院修士課程修了(比較文化)。雑誌、テレビ、ラジオなど幅広いメデイアで活躍、とくに占星術、占いにたいしての心理学的アプローチを日本に紹介、幅広い層から圧倒的な支持を受け、従来の『占い』のイメージを一新する。著書に『占いはなぜ当たるのですか』(講談社文庫)、『12星座の恋物語』(新潮社)、『鏡リュウジ 星のワークブック』(講談社)など。


■お問い合わせ・ご予約


三省堂書店神田本店 電話 03-3233-3312 



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2007年2月19日 (月)




ある原稿を書いていました。


4000字くらい書いたところで、今日はここまでにしようと思い、日本酒をすこし飲みました。


眠くなり、パソコンの電源を落としました。


デスクトップの右上にある「電源を切る」というショートカット(写真参照)をクリックしちゃったんですね。



日本酒を飲む前に、また作業の途中で一度くらい、秀丸エディターの上書き保存ボタンをクリックしておけばよかった……。しかし、それをしませんでした。結果、パソコンの電源が消えるのと同時に、書いた原稿は消えてしまいました。



2時間くらいかけて書いた原稿なので、ちょっとショックでした。


すぐに書き直せば、書いた内容を思い出せるかもしれないとも考えました。でも、とても眠かったので寝てしまいました。あたふたするのも、何だか嫌だったので。


このように原稿が消えたのは、これで2度目です。けっこう注意深く対応しているんですけどねぇ。普段は。



1度目は、カンボジアで修士論文を書いているときでした。当時は、出始めのダイナブックを使っていました。ハードディスクが350MBとかいうやつです。220Vから100Vにする変圧器と、電流安定器をつけたうえでつかっていました。


修論を400字で200枚くらい書いて、「折り返し地点までキター!」などと喜んでいる、そのときでした。


急に家の電器が暗くなったり明るくなったり。まあ、96年当時のカンボジアでは、そんなことはよくあることでした。そのうちおさまるだろうと思っていると……。



こりゃやばい、と思う時間もなく、電流安定器がうなり、火を噴き、そしてパソコンの画面が真っ暗になりました。


相当大きな電圧の変動があったらしく、パソコンも変圧器も電流安定器も一発でご臨終でした。


このときは、超ウルトラ級のショックを受けました。当時は変に安心していて、バックアップをとる習慣がありませんでした。その結果、修論が消えてしまいました。



それにくらべれば、今回の損害は4000字ですから、たいしたことはありません。


気分がドヨーンとしていて、まだ書く気になれませんが、締め切りがあるので追いつめられて書くことになりましょう。


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2007年2月15日 (木)




リアル書店やネット書店で予約していただいた読者の方々。


いつも双風舎の本を買っていただいている読者の方々。


発売日に書店で買おうと思っていた読者の方々。


誠に申し訳ありません。



内藤朝雄著『いじめと現代社会』の発売日は、


印刷上のミスが原因で、


2月22日に延期となりました。


今後はこのようなことがないよう、


細心の注意をはらうようにいたします。



通常の出版社であれば、ご報告は以上。


ところが、双風舎はここでは終わりません。


ふたたび同じミスをしないためにも、


ひとり出版社の実態を知ってもらうためにも、


「印刷上のミス」の詳細をご説明します。



13日に見本の50冊が、取次のJRCに届きました。


見本を手に取るときというのは、


出版人をやっていて幸せを感じるときでもあります。


「手塩にかけてつくった本」と出会うときですからね。


この日も例によって、「やっとできた!」と喜んでいました。



その帰り道、漫画喫茶に寄って、本をじっくりながめました。


すると……。


オビに違和感を感じるんですよね。


「何か違う。何が違うんだろう」と。


穴が開くくらいオビを見てみると、違和感の理由に気づきました。



右上の写真をご覧になってください。


「精神的買春」と印刷されていますね。


これは、正しくは「精神的売春」なのです。


「買」でなくて「売」。



何か嫌な思いをした猫が、それを忘れるために、


顔を洗ったり毛づくろいをしたりする。


これを転移行動というとのこと。


「買」の文字を見た私がまっさきに思ったことは、


「これは夢なのではないか」ということでした(笑)。


ほんとに。



オビは2000部(プラス予備500部)ほど刷り上がり、


いまごろは製本所で、すべての本に装着されている。


そのオビがすべて、使い物にならない……。


嗚呼、なんてこった……。


これはきっと、夢なんだ……。


約1分くらいでしょうか、


私は猫と同様の転移行動をとっておりました。



そして1分後、現実にもどってきました。


まず、著者と取次と印刷屋さんに連絡しなければ。


どのようにリカバーするか考えなければ。


本屋さんにもあやまらなければ。


何より、自分のミスを反省しなければ……。



著者の内藤さんと取次(JRC)とは、


その晩のうちに連絡を取り合いました。


翌日、印刷屋さんに連絡すると、


すでにオビはすべての本に装着してしまったとのこと(涙)。


そこで、印刷屋さんにはオビのデータ修正と刷り直しを、


製本屋さんにはオビの取り外しと再装着を依頼しました。



以上のリカバー作業が終了するのが21日。


その日のうちに書店へ発送し、


22日から本が書店に並びはじめることになりました。



見本ができるまでのあいだに、


すくなくとも10回くらいはオビ原稿を確認しています。


それでも、このような凡ミスが発生してしまいました。


何度も確認しながらも、まさかオビに誤字はないだろうと、


油断してしまったのが凡ミスの原因だと思われます。



ミスの影響で配本が遅れ、


本の発売を楽しみにしていた読者のみなさんに、


多大なる迷惑をかけてしまいました。


重ねてお詫び申し上げます。



ミスにともない、オビの用紙代や印刷代、


製本代などの費用がふたたび発生します。


これも授業料だと思って、きっちり支払います。


発売延期にともない、内藤さんや業者のみなさんにも


迷惑をかけてしまいました。


申し訳ありません。



いずれにしても、ひとつだけ救いがあるとすれば、


書店に並ぶ前に、誤字に気づいたことですね。


「買春」と「売春」では、意味が逆なんですから、


そのまま発売してしまったら、それこそ赤っ恥でした。



こうやってミスを公開すると、


また「あんたはプロじゃない」なんていわれそうですね。


たしかに、凡ミスについてはプロならざる行為だと思っており、


深く反省しております。


でも、こうしたミスや会社の経営事情を公開することと、


プロかどうかということは、あまり関係がないと思っています。



ミスを公開することにより、


読者のみなさんにエキスキューズしよう、などということを、


まったく私は考えておりません。。


ただただ、ひとり出版社の実状と、それを取り巻く出版界の実態を、


読者のみなさんに知っていただきたいと思っているだけです。



ミスが恥ずかしいと思えば公開しなければいいし、


ミスを公開することにより、今後に役立てようと思えば公開すればいい。


ただ、それだけなんですね。


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2007年2月14日 (水)




カンボジアの治安は、ポルポト派が崩壊する90年代後半まで、よくなったり悪くなったりの繰り返しでした。


何度か書きましたが、私はカンボジアで現地手配会社を経営しながら、テレビのコーディネーターをやっていました。おもしろいことに、治安がよいと現地手配会社が儲かり、治安が悪くなるとテレビの仕事が多くなる、ということの繰り返しでもありました。


なんだか、旅行産業というのは幸福産業であり、テレビ産業というのは不幸産業なのかなあ、と思ったりもしました。まあ、治安が悪くてもよくても、ある程度の収入が得られるような業務形態だったから、カンボジアでの長期滞在が可能であったともいえます。


渡航自粛勧告とか出てしまった日には、勧告がとかれるまで日本人観光客がひとりもカンボジアにやってこなくなります。それでは、旅行業だけ生業にしていたら即帰国ですね。



治安状態に振り回されながらも、日本人で和食レストランをはじめる人がすこしずつ増えてきました。日本で料理を生業にしていた人が経営する店は、かなり本格的な和食を食べさせてくれました。でも値段が高いんです。一方、日本人でも料理人でない人が経営していたりすると、「なんちゃって和食」とでもいうような擬似和食が出てくる。値段は安い。私は、しばしば前者の店に行き、後者の店にはほとんどいきませんでした。



いずれの店も、従業員との付き合い方に難儀していたようです。接客マナーを教える。お金の管理を教える。そういう基礎的なスタッフ教育をしなければならない状態であるにもかかわらず、日本人オーナーのカンボジア語はおぼつかず、お金をだまし取られたり、店に何度も泥棒が入ったりといったことが多発していました。



オーナーの日本人は、カンボジアという「あらたな可能性のある(かもしれない)土地で、あらたな出発を」と考えて渡航し、腕を活かして和食レストランをやったりするわけです。しかし、かなり高い確率で、現地で安く買える現地の女性(ベトナム人、カンボジア人)にハマってしまい、身元のよくわからない女性を家に置いたりして、お金も貴重品も一気に盗まれるというような事件が多発していたんですね。それも、言葉がわからないから、まるで狐につままれたような感じで……。



すこし脱線しすぎました。和食の話にもどします。カンボジアで「まとも」な和食と擬似和食が登場したとき、私は迷わず、高額だけど「まとも」な和食に飛びついてしまいました。理由はよくわからないのですが、日本でよく食べていた当たり前の和食の味を、求めていたんですね。


私はちょくちょく通っていましたが、それでも値段が高いのと、泥棒に入られるなどの災難にあったりして、「まとも」な和食の店は長続きしないんです。別の店ができても、たいていは同じような理由で長続きしない。そうなると、「まとも」な和食はタイのバンコクで食べるしかない、ということになったりするわけです。


〈次回につづく〉


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2007年2月13日 (火)




「ニューズウィーク日本版」の2007年2月14日号。表紙に「ここが変だよ 寿司ポリス」という見出しがおどっていました。一瞬、意味がわかりませんでした。が、「世界にあふれるトンデモ和食」「認証制度のナショナリズム」という小見出しを読んで、意味がわかりました。松岡農水相が正しい日本食を認証する制度をつくろうと言いだしたことをうけて、組まれた特集なんですね。



この和食のお話し、長く海外で暮らした者としては、たいへん興味のあるネタです。


以降、何回かに分けて、カンボジアにはいかにして和食が入り込み、その後どうなっていったのかという話を事例にしつつ、この問題を考えようと思います。



90年にカンボジアで暮らしはじめたとき、和食を売る店なんてありませんでした。日本人が7人しかいなかったのですから当然ですね。


その後、治安が安定し、長期滞在したり観光で訪れる日本人の数が増えてくると、すこしずつ和食レストランを名乗る店が出てきました。



私が住んでいたプノンペンは、昔から日本人がたくさん住んでいて、和食にそれなりの需要があるような海外の都市とは異なります。和食を出す店がまったくありませんでした。そういう国や地域に、どのように和食が入ってくるのかを、現地で暮らしながら興味深く見守っていました。覚えている範囲で、和食がカンボジアにやってきた経緯を記します。



カンボジアではじめて和食レストランを開店したのが、なぜかタイ人だったのをよく覚えています。たしかに、プノンペンで和食の食材を調達しようと思ったら、距離からいってもタイから入れるのがもっとも合理的。内戦のリスクを深刻に考える日本人とは異なり、タイ人や中国人は「儲かる」と思ったらすぐに事業を立ちあげ、「儲からない」と思ったらすぐに手を引くという意味でも、タイ人が和食レストランを立ちあげるのはうなずける話です。



しかし、和食の食材や調味料は、タイに輸入されている時点でかなり高額であり、それをカンボジアに持ってくるわけですから、値段は高くならざるをえません。そこの料理は、街中にある「高級風」の中華やフレンチのレストランにくらべて、数倍の値段がしました。あまりに高いので、当時は月に1回か2回いくのがやっとでしたね。商売が成立していたのは、道路補修でカンボジアにたくさんやってきた、自衛隊のみなさんの貢献があるかと思います。



治安が安定してくると、周辺諸国との物流も盛んになってきました。現地でつくられる野菜の種類も、90年から95年で10倍くらい増えました。こうした条件が整い、日本人の滞在者数が増えてくると、なかには和食レストランで一儲けしようと考える日本人も出てきます。


次回は、日本人による和食レストランがオープンしてからのことや、ほんとうの和食とは何なのか、そして食文化保護主義などについて考えてみようと思います。



〈次回につづく〉


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2007年2月 9日 (金)




昨日のエントリーには、たくさんの方にアクセスしていただきました。


ありがとうございます。


コメント欄やメールで、いろんなご意見をいただきました。



以下に、昨日の反響のなかで、あくまでも私が恣意的(笑)に選んだメールを転載いたします。私が思いつかなかった点や書き忘れた部分も指摘されており、たいへん参考になりました。


送り主は、中堅出版社で活躍する現役編集者Xさんです。



・「人文書は、じいさんのものなのか?」について


じいさんのものだ、と実はわたしは思います。


といいいますか、じいさんたちがつくっていた「人文書」というのは、サブカルだったわけですよね、いまにおきかえてみるならば。そう考えてみると、宮台先生がなんで「サブカル、サブカル」というのかといえば、半分は趣味だと思いますが、半分は「人文書=サブカル」ということを見越していたわけで、やはりさすがだというべきなのでしょうね。


名編集者なるものがいた理由は、市場拡大時に出版社も儲かった、というような話をぬきにしては語れない面はある、と思います。もちろん、当時の編集者は、わたしよりもずっと学識があると思います。しかし、その学識も著者の先生と同じゼミだったとか同じ大学だったとか、そういうものが背景になっていただけなのでは。まとめるなら、党派的に本を出していた、ということにすぎない面があるのでしょう。



党派的に本を出していたという点は、もっと強調されてもよいことだろうとわたしは思います。この観点からいえば、大塚さんなんて「はあ」です。長谷川さんもピントはずれですよね。ほかにもややはずれてるな、という方がいますけど……。西谷さん(未來社)とか。「論座」については、柄谷さんもよくわからない人選です。



個人的には、じいさんのものに徹底すればいいと思います。しかし、当のじいさんたちは、徹底するとまでは踏み切らないわけでして……。そういうシケタ空気感には、出版界(?)ではよくお目にかかります。



・「そんな紋切り型の結論に達してしまうほど、人文書の将来が行き詰まっているとは思えませんし、創意工夫の可能性はいくらでもあると思っているのは、私だけなのでしょうか!?」について


谷川さんだけではありません!!


わたしも同感です。工夫の意味やニュアンスには違いがあると思いますし、読者層のとらえかたにおいては、わたしは、じいさんのものとしての人文書派に、それなりに近い感覚をもってはいると思います。ですから、意見が違うところはあると想像しますが、わたしも「可能性はある!」と思っております。


といいますか、繰り言をいう経営者って、何を考えているのでしょうかね。自分はそれで食うと決めたのだから、なんでもするのは当然でしょうに……。なんなんでしょうかね。



Xさんのメール内容は以上です。


まあ、出版社は私企業ですから、どんな人を雇おうが勝手な話です。でも、私が聞き及ぶ範囲でいうと、昔は「幹部と同じ大学だから」とか「幹部と同じゼミだから」とか「親が著者だから」とかいうような、入社する本人の能力やモチベーションとはあまり関係ない部分が重視されたうえで、大出版社に入ってしまう人も多かったとか(いまもそうなのかなぁ?)。



つまり、その人の能力や可能性よりも、思想や人間関係において、出版社幹部にどれだけ近いのかが重視されていた節があります。はっきりいってしまえば、それが「コネ」であり、「党派」だったんですね。で、その「コネ」や「党派」で人選した側の人たちや、人選された側の人たちがつくった本が、Xさんのいうように「人文書=サブカル」の論理でもてはやされ、売れる時代があった。さらに、たまたまその時代に「人文書=サブカル」を手がけて、それがバカ売れした編集者が「名編集者」と呼ばれている、というわけですね。



正直にいって、ここまでの話はどうでもいい話なんですよ。「そういう時代があって、よかったね」ということですから。「コネ」や「党派」の仲間で集まって、「あのときは、よかったなあ」って話していればいい。


問題なのは、そういった「コネ」や「党派」の集まりの論理を、現状に当てはめようとしたり、押しつけようとしたりする姿勢なんだと思います。昨日も書きましたが。その押しつけの背景には、「自分たちがつくったものこそ、ほんものの人文書だ」というような誇りや自慢が見えかくれしているのが、これまた何ともいえません。



「人文書=サブカル」の時代は過ぎました。元「名編集者」の方がたが、そんな時代を懐かしむのは、おおいにけっこう(私は、読みたくも聞きたくもありませんが)。とはいえ、元「名編集者」のみなさんは、自分らの輝かしい時代にタイムスリップするだけでなく、いまや事後的にその時代が参照されるに過ぎないということに、もっと自覚的になってほしいものですね。


(サンボマスター風に)あなたがたの時代がいまの「若手」に参照されはしても、再現はできないんですよ。いくらあなたがたが再現を望んでいても。



でもね、いまだに大規模・中規模出版社で幅を利かせたり、権力を握っていたりするのは、輝かしい時代の再現を望む世代だったりするんですね。困ったものです。古参の小規模・零細出版社などには、もう救いようがないくらい、そういうじいさんがたくさんいたりもします。



私は、そういう「党派」の匂いが感じて、押しつけがましい出版関係の方がたとは、ほとんどお付き合いがありません。ある意味で、汚染されるのが嫌だから、関係を持つのを避けているところがあります。なかよしクラブみたいなノリで、「私らはいい本だしてるのに、人文書が売れないね~」なんてアホなことをいいながら、酒を酌み交わす時間がもったいないと思うからです。



それでも……。向こうの方から勝手に助言をしてくれたりするんです。たとえば、「ブログで赤裸々に経営状況を語るのはプロじゃない。儲かっていないなんて書くと、業者が取引してくれなくなる。儲かってなくても、儲かってるふりをするのがプロ」とか。私が創業時に直販で本を売ろうとすれば、自分は取次の金融システムにどっぷりつかりながらも、「君は出版をあまくみている。ひとり出版社で直販なんて無理。やめたほうがいいよ」と直販などやったこともないのに平気でいったり。



そういうことを目前で直接いってくるのは、まだましです。なかには、わざわざ著者の口をとおして、そういうご助言を伝えてくる出版社の社長さんがいたりします。じつに姑息ですね。「そこまでして、自分の価値観やら『輝かしい時代』の残りカスを、『若手』に押しつけたがるのはなぜ?」と思わざるをえません。



印刷屋さんに聞けば、多くの中小零細出版社の社長が支払いの延滞を求めるときの決めゼリフがあるとのこと。それは「いい本を出しているんだけど、読者が買ってくれない。だから、支払いを待ってください」。ぜんぜん「だから」になっていませんよね。そもそも「いい本」かどうかは、自分じゃなくて読者や世間が決めるものだし、金銭の支払いは「いい本」とはまったく関係がありません。



ブログで何を書こうと、直販で本を売ろうと(これは挫折しましたが……)、きちんとした態度で付き合い、決められた時期にお金を支払っていれば、デザインから印刷まで、出版社が世話になるような業者さんがそっぽを向くようなことはありません。


私としては、取次金融システムにずぶずぶハマっている中小零細出版社があまりにも多く、前職(K社ですね)もその当事者だったことから、その腐った部分をできるだけ一般の方がたにも理解してもらい、出版流通の膿を出せたらいいなあと考えて、会社の経営状況などを比較的あからさまにしているだけの話です。



情報公開にも限度がある、というのは理解できます。私だって、変な評判がたつのが嫌な場合は、書かないこともあります。しかし、自転車操業であることを隠蔽し、順風満帆のように振る舞うことが「プロ」だというなら、そんなのはちゃんちゃらおかしいとしか言いようがありませんね。



葉っぱさん(id:kuriyamakouji)のような「気分が若手」の方がたには申し訳ありませんが、出版業界にいらっしゃるじいさんには、どうも押しつけ型の人物が多いように思われます。


学びや気づきの基本には、模倣があると思います。模倣しながら、それに自分のオリジナリティーをくわえて、新しいものをつくっていくわけですね。でも、押しつけられて模倣するのと、みずから進んで模倣するのでは、意味がまったくことなります。



一部の出版じいさんたちには、「自分の価値観やスタイルは表明するにとどめ、どうか押しつけないでください」、そして「『若手』が勝手にあなたの姿を模倣するのを、笑いながら遠くでながめていてください」と言いたいところです。



追記……「若手」の定義があいまいだったので、確認しておきます。私は、昨日と本日のエントリーで、押しつけがましい出版じいさん「以外の人びと」を指すものとして、「若手」という言葉を使っています。つまり、年齢は「おじいさん、おばあさん」でも、自分の価値観を押しつけないような方は「若手」に含まれますし、ちょっとむずかしい本を読み出す高校生も「若手」に含まれます。


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2007年2月 9日 (金)




昨日、ニフティーさんのお仕事で茂木健一郎さんにインタビューをしました。


お会して話すたびに、これほど人柄がよくて、頭脳が明晰な方もなかなかいないなあ、と思ったりします。



今回は、ブログやウエブに関する茂木さんの思いについて話を聞きました。


短時間でしたが、たいへん刺激的な話を聞くことができました。


インタビューの詳細は、ココセレブのスペシャルインタビューとして掲載されます。


掲載日は、追ってお知らせします。



そういえば、前エントリーで紹介した「論座 3月号」で柄谷さんが、「観念も物質もデジタルな『情報』に還元できるというようなことが、現実化」した結果、「『現代思想』が終わ」り、「現代思想」をあつかうような「『人文書』は読まれず、脳科学者の書いたものが読まれています。僕は嫌いですが。(笑い)」といっています。



私は、別に茂木信者でもありませんし、脳科学を過剰に信仰しているわけではありませんが、茂木さんの文章には、何らかの「気づき」を人びとに与えるようなものが多いと思っています。その「気づき」のソースとなる茂木さんの思考は、あきらかに福嶋さんがいうところの「オルタナティブの提起」に近いものがあるとも思います。



柄谷さんは上記の文章のなかで、「僕は嫌いですが。(笑い)」などと嘲笑的に「人文書」と「脳科学者の書いたもの」を分けていますが、それらを平気で分けてしまっている時点で「この人、終わっているなあ」と私は思いました。すくなくとも茂木さんの本を何冊か読めば、そんな分け方にあまり意味がないということは、わかるんじゃないのかなあ……。


そっか、読んでないのか(笑い)。


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2007年2月 8日 (木)




いま業界で話題になっている「論座 3月号」(朝日新聞社)を買いました。


買った目的は、特集「『人文書』の復興を!」を読むためです。


ちょうど春からT大で、「実践メディア産業論(出版)」という講座を担当することになり、同特集に登場する方の本なども読んでいたところでした。



だがしかし……。同特集を読んで、ちょっと拍子抜けしました。


以下、記事の短評を。



■柄谷行人 「可能なる人文学」


どうして柄谷さんに人文書の「いま」について語らせるのか、その意味がよくわかりません。ネームバリューを狙ったのかなあ。いろいろ書いてあるけど、「これはダメ」と書いたうえで、「でも仕方がない」の繰り返し。そうやって留保しまくったうえで書かれた内容は、ごく常識的なもののような気がするのは、私だけなのでしょうか!?


■長谷川一 「パブリッキングPUBLICingとしての出版」


長谷川さんは、この特集で唯一、起用された「若手」の論客。出版と出版産業を分けて考え、前者を「わたしたちの日常に埋め込まれた諸実践――書く、編む、形にする、手わたす、受けとる、読むなどの循環――を仕立て直していくこと」と定義し、そのような出版をPUBLICingと名づけています。


たしかに、「そうだったらいいのになあ」とは思います。しかし、分けられた側の出版産業に属しており、目先の資金繰りに四苦八苦しながら、一応は志のある本を出そうと考えてる側からすると、「夢」を語っているようにしか読みとれませんでした。文中で「人文書空間」という言葉が使われていますが、「空間」とかいう言葉を眼にした時点で、ちょっと引いた気分になるのはなぜ!?


■鷲尾賢也×大塚信一 「『危機』の今を、チャンスに帰る」


おふたりとも、大出版社の大編集者である(あった)わけですが、このテーマの対談だからこそ、もっと「若手」に語ってもらうべきだと思いました。だって、このおふたりの名前を見た時点で、「おっ、昔話に花が咲くんだな」と予想がついてしまうではありませんか。


読んでみると、やはり昔話でした。いみじくも文中で鷲尾さんが「年寄りの繰り言」とおっしゃっている部分には、思わず「(笑)」。


結局、おふたりは、昔はよかったという前提に立ち、いまの若い編集者はダメ、著者もダメ、読者もダメ、ということをとくとくと述べます。そして、議論の結論は、団塊の世代からはじまる退職者たちがカルチャーセンターでむずかしい本を読んでいるという事例をあげたうえで、「人文書も、しばらくのあいだは団塊世代以降でつないでおいて、そのあとを若者にバトンタッチしていく。それ以外に手はないでしょうね」(鷲尾さん)という超無責任なもの。


そんな紋切り型の結論に達してしまうほど、人文書の将来が行き詰まっているとは思えませんし、創意工夫の可能性はいくらでもあると思っているのは、私だけなのでしょうか!?


■福嶋聡 「〈オルタナティブ〉を担うべき書物たち」


この特集で唯一、読みごたえがあった記事です。福嶋さんは、ジュンク堂書店池袋本店の副店長で、まさに本のマイスターといえるような方です。


記事では、まず八〇年代から現在までの人文書の系譜を、わかりやすく振り返ります。そして、「『人文書』とは何か」という問いへのひとつの答えとして、「オルタナティブの提起」を取り上げています。それはすなわち「ぼくたちひとりひとりの生きざまとともに世界のあり様にも今とは別様のモデルを提起すること」だと福嶋さんは言います。


まさに、おっしゃるとおりで、双風舎の目指す「人文書出版のあり方」の核心部分をズバッと書かれており、僭越ながらとても嬉しく思った次第です。



短評は以上です。


人文書の特集をあてにするのでしたら、福嶋さんの記事を立ち読みすればいいかもしれませんね。この特集を読むと、いまさらながら「人文書は、じいさんのものなのか?」と問い質したくなります。昔を参照したり、経験を語るのは、けっして悪いことではないと思います。「若手」はそこから学ぶことも多いかと思います。でも、その「昔」のよかったことを「いま」に押しつけたり、無責任に現状の可能性を低く見積もったりするのは、ちょっと勘弁してほしいなあ、と思いました。そういうことを「若手」がいうのなら、まだ説得力があるかと思ったりもします。



柄谷さんにしろ、対談にしろ、「論座」編集部がどういう基準で同特集の人選をしているのか、おおいに疑問の残るところです。それこそ人文書の特集だけ見れば、団塊の世代くらいの人しか買わないでしょう!?


編集部がそれでよしとしているのなら、センスがないとしか言いようがありません。



いずれにしても、「若手」出版人や「若手」読者、そして「若手」書店人は、この特集(とくに対談)を読んで、人文書はすでに「じいさんたちのものではない!」とこぶしを振り上げるくらいの気持ちになっても、いいんじゃないんすか(笑)。



人文書特集はつまらないものの、同じ号にはおもしろいルポ(横田由美子「嗚呼!医学部」、山岡淳一郎「患者に三歩、近づくために」)や足立正生さんのインタビュー(「獄中には特殊な時間と認識が流れている」)、おもしろい特集(性教育のススメ)、そして大佛次郎論壇賞の受賞記念論文として本田由紀さんの論文(「苛烈化する『平成学歴社会』)も掲載されています。



つまり、人文書の特集以外でおもしろい記事がたくさんある、という意味で「論座3月号」は「買い」だと思います。



追記… 本エントリーを読まれた業界の方がたに、ぜひ同特集の感想を聞いてみたいものです。


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2007年2月 7日 (水)




ようやく新刊の編集作業がおわりました。


印刷・製本の後、書店に配本します。


2月14日に配本し、15日から順次、書店の店頭に並ぶ予定です。



新刊は、『いじめと現代社会』です。その内容は、社会学者・内藤朝雄さんが「いま読者に伝えたいこと」を編んだものとなっています。


ぜひとも、ひとりでも多くの読者に読んでいただければと思っています。



作業が一段落して、内藤さんと出会ったときのこと思い出しました。


それは、宮台真司さんや藤井誠二さんらと名古屋で「ちんこ祭り」を見物したときのことです。


前日の夕食時に、黒い毛皮のジャンパーを着た内藤さんは、突然あらわれました。


黒い毛皮のジャンパーですよ!?


驚きましたね(笑)。



キング・クリムゾンのメンバーみたいな格好で登場した内藤さんの第一印象は、とてもシャイな雰囲気の、青年なんだかオッサンなんだかよくわからない、不思議なものがありました。鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』に出てくるキンドウ・ニチヨウさん(通称キンドーちゃん)と二重写しになるような、キラキラと光る眼。一方、学務や原稿書きで憔悴したような表情。


夕食時の途中から宮台夫妻が合流すると、私たちとなじんで熱弁をふるっていた内藤さんの口数が、ピタッと減りました。またシャイな内藤さんになってしまった。後日、「やっぱり宮台さんを前にすると、緊張するよ~」といっていました。



その後、藤井さんや私らとオカマバーに何度もいったり、ご自宅のある狛江駅付近で食事をしたり、トークセッションを企画したりと、この1年は内藤さんと会う機会がとても多かった。


何度も会ってるうちに、「この人の本を出したいなあ」と思うようになりました。本をどうのというよりも、内藤さんの考えていることや主張を、私が媒介となってすこしでも広く伝えられたらいいなあ、と思いました。



リベラルな社会をつくる、ということ自体の是非はあると思います。私自身は、それを支持します。


書店に並んでいる本を眺めてみると、百科事典のようにさまざまな事柄についての教養を持った方が、その教養をところどころで開陳したり、その教養を元にして他者の批評を展開する、という内容のものが多いように思えます。


たしかに、個別具体的な「もの知り加減」を競うことに価値を見いだすことには、知的「骨董屋」の世界では意味のあるとかもしれません。



とはいえ、考える対象が「社会の構想」となってくると、その全体を俯瞰したシステムを考察したり、そのプラットフォームとなるものを「生み出す力」が必要です。そして、その力は、百科事典的な知識や教養、すなわち「骨董屋」さんの能力とは、別の能力です。


そういう「生み出す力」のある人の本は、なかなか書店で見かけることがありません。



そのように考えてみると、社会のプラットフォームを生み出したり、その骨組みのアウトラインを考えるのが内藤さんであり、今回出す本は、社会の「建築現場からの発言」のようなものだと私は思うんですよね。家を建てるときには、建築士からはじまって、大工さん、左官さん、電器屋さん、家具屋さん、ガス屋さんなどなど、いろんな人が関わります。


社会を建築しようと思ったら、家を建てるように、いろんな人がさまざまな役割を分担すればいいと思います。だがしかし、設計図がなければ家は建ちません。さらに、設計するための要望や意見がなければ、設計図そのものが書けません。



いろんな人が社会学者としての内藤さんに意見や要望をいう。それを元に、内藤さんが社会のシステムやプラットフォームについて考える。その考えについて、それぞれの得意分野を持つ人たちがさまざまな議論をして、こうしたらいいんじゃないかという方向を定めていく。ようするに、さまざまな人たちが、それぞれの得意分野を持ちよって、相互に補完的な役割を担いながら、社会のあり方を考えていけたらいいなと思ったりします。



内藤さんは、ほかの人が考えないようなことを考えます。多くの人が、どこかに所属しつつ、「みんな」でものを考えている人が多いなか、内藤さんは「ひとり」で考える。そんな内藤さんの発言は、ときには過激に思われるかもしれません。


しかし、時代の変わり目や「みんな」が息づまっているときにこそ、こういう「ひとり」の力が必要になるのだと思います。なんといっても、内藤さんの所属する政治勢力は、右でも左でもないリベラリストの独立勢力である「ない党」なのだそうですから(笑)。



上記のような役割分担を実践して、そのなかで内藤さんの思考を有効に活用すれば、きっといまよりましな社会像が浮かび上がってくるのではないでしょうか。「ひとり」の力が、多くの人びとにバトンタッチされることの意味は、けっしてちいさくないと思います。いみじくも、『いじめと現代社会』の「あとがき」で、内藤さんはこのバトンタッチについて、不器用な変人の吉田松陰からやり手政治家の伊藤博文へ、という比喩で描いています。



漠然と書きましたが、以上のような意味で、私は内藤さんに期待しています。そして、『いじめと現代社会』を読んでいただければ、いま私が書いたことの意味が、すこしわかっていただけるかと思います。


私は、内藤さんの言葉が、社会を変える「さいしょの一粒」になるだろうと期待しています。いろいろな人たちが、彼の言葉を盗んで、自分なりに加工して、さまざまな成果をあげることを期待しています。



これから、参議院選、衆議院選と続きますが、いろいろな政治家や評論家たちが、いまという時代の変わり目において、自分が生き延びるために、内藤さんのオピニオンを盗むかもしれません。いろいろな人たちに盗まれた内藤さんの言葉が、社会のあちこちで、変化を生み出すかもしれません。


 こういう期待があるから、一緒に本をつくろうと思ったのです。



キラキラと光る内藤さんの眼からは、たえず社会のあり方を考えるその熱意が感じられます。その熱意が読者のみなさんにも伝わったらいいなあ、と心から願っています。


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2007年2月 6日 (火)




葉っぱさん経由で、森達也さんがつくった「ドキュメンタリーは嘘をつく」をYouTubeで見ました。


ちらっと見るつもりが、とてもおもしろくて、最後まで見てしまいました。



ビデオで撮った映像というのは、たしかにリアリティがある「ように」見えます。基本的には、事件でも事故でも、現場にいかなければ映像は撮れないというのもあります。


私はカンボジアで、何度も何度もその「現場」と呼ばれる場所に同行して、ディレクターの指示にもとづいて撮影をするカメラマンの後ろ姿を見て、そうして撮られた編集前の映像を見て、放送された映像を見てきました。


その経験からいえることは、ただひとつ。テレビで流れる映像は、ぜんぶ虚構だということです。これは別に、偉そうな気分で鼻高々にいっているのではありません。すこし考えれば、まったく常識的なことだということがわかると思います。



私が「現場」で何かを見聞きしたとしましょう。映像であれ、文章であれ、音声であれ、それを私が事後的に誰かに対して「そのまま」伝えるということなどできません。小田和正さんのヒット曲ではありませんが、「あの日、あのとき、あの場所」にいた私が、事後的に「あの日、あのとき、あの場所」の状況を説明しようとすると、それはかならず私が見えた部分的な映像や、私が聞いた部分的な音声を切り貼りした程度のものになってしまいます。つまり、「あの日、あのとき、あの場所」で起きたことを再現するのは、まったくもって不可能なことなんです。



ただし、「あの日、あのとき、あの場所」で起きたことのうち、「ここが問題だ!」と意図的に選択したうえで、映像や音声、文章などを主観的に編集し、それを他人に見聞きしてもらうということはできます。「現場」にいると、過去に起きたことを当事者に再現してもらうこともあります。このへんは「再現」と「演出」と「やらせ」の境界線がどこか、判断するのがむずかしいところなんですが。そのように再現した映像や音声もおりまぜながら、あくまでも主観的に使用部分を選択し、つなげて、見聞きする他人に「ここが問題だ!」という部分がわかりやすいようなものをつくったりするわけですね。



考えてみれば、ニュースと呼ばれているものも、同じようなつくりかたで電波にのっかっていたりします。報道局の編集部門には、リアルタイム(といっても、実況中継以外はリアルではないんですが)で入ってくる映像や音声を、主観的にビシバシと切り貼りする編集さんが活躍しています。ニュースだと、さすがにやらせや演出が入り込むことはすくなくなろうかと思います。それでも、たとえ10秒前に起きたことの映像を流すのであれ、過去に起きたことを主観的に選択して報道しています。たいせつなのは、10秒前であれ10年前であれ、過ぎ去った「あのとき」の状況をそのまま伝えることは、ぜったいにできない、ということです。


それこそ弊社で出した仲正さんの『デリダの遺言』には、しつこいくらいそのことが書かれています。



ドキュメンタリーが事実を伝えることなど、あり得ません。伝えられるのは、事実に立ち会った人による、主観的で切り貼りされた映像と音声のみ、です。ドキュメンタリーでこうなのですから、バラエティーや情報番組などが事実を伝えることなど、なおさらあり得ないでしょう。


それでも、私はドキュメンタリーには力があるし、それを創る意味もあるし、それを見る意味もある、と思います。矛盾しているようですが、それが実際に何十本もドキュメンタリーの取材に立ち会った私の本音です。ただし、その力や意味は、やはりドキュメンタリーの虚構性を十分に理解したうえで、はじめて深まるものだと思うのです。



森さんの番組で、アジアプレスの綿井さん(イラクの戦場レポートで一躍有名になったジャーナリスト)も指摘していましたが、現場にいかなければわからないことはたくさんあります。その現場の状況やざわめき、匂い、温度、などなど。すくなくとも、テレビの取材だとすれば、現場にいかないと現場の映像は撮影できません。撮影された映像は、ディレクターやカメラマンが主観的に選択したものであり、カメラフレームの画角の外では、撮影されたものよりもはるかに多くの捨てられた光景があります。そして、現場のほんの一部を主観的に撮影したものが、さらに編集されて放送されたりします。しかしながら、その現場に「いた」というディレクターやカメラマンの経験は、とてもたいせつなものだと思います。



繰り返しますが、現場で撮影した映像や音声を、現場に「いた」というたいせつな経験を元に、ディレクターがみずからの主観的な選択により編集した番組。それがドキュメンタリーとして放送されたりします。そう考えてみると、結局、ドキュメンタリーの質や善し悪し、そして価値を判断する際の基準は、それを作っている「人」にならざるを得なくなります。ようするに、誰がそれをつくっているのか、ということが、もっとも重要なことになってくると思うのです。


それは、当たり前といえば当たり前のことですね。だって、虚構としてのドキュメンタリーが作り手の主観でつくられているのならば、虚構であっても「この人のつくるものは、おもしろい」とか「思考のヒントが隠されている」と思わせる根拠は、作り手本人に還元されざるを得ません。



「ドキュメンタリーは嘘をつく」があまりにもおもしろかったため、長々とくだを巻いてしまいました。すいません。言いたいことはただひとつで、テレビ番組に客観などあり得ないが、作り手によっては、主観的につくったものであっても客観性を感じ取ることができるものもあるし、「これが大事だ!」というポイントを気づかせてくれるものもある、ということです。つまり、ドキュメンタリーは作り手次第ということです。


幸い、カンボジアでテレビ業界の方とたくさん知り合い、ある程度は「どの作り手の番組が信用できるのか」を理解しているかもしれない私が実践していることがあります。それは、おもしろいドキュメンタリーを見たら、テレビのエンドロール(番組の最後に制作スタッフの名前が流れるやつ)をちゃんと見て、誰が作ったのか(誰が撮ったのか、までチェックするとマニアックか!?)をチェックしておくことです。



まあ、テレビを見ながら、そんな細かいことを気にする人はあまりいないと思います。しかし、しつこいようですが、「ドキュメンタリーは人」なのですから、良質のドキュメンタリーを見極めるためには、作った人を基準にして、その人を信用しつづけていくくらいしか、私たちにはできないんじゃないのかなあ、と思う今日この頃です。


番組名とか放送局とかでなく、「あのディレクターの番組、今日放送するらしいよ」というような、ディレクター単位の情報(いいディレクターには、いいカメラマンが付いてる場合が多いので、カメラマン単位というのもアリかもしれません)がもっと広く流れたりするような仕組みがあったら、いいのになあと思ったりします。



以下、おもしろかった森さんの番組を紹介しておきます。ぜひ見てくださいね!



■メディアリテラシー特番


YouTube - 森達也『ドキュメンタリーは嘘をつく』(1~5)


http://www.youtube.com/watch?v=xhEwhbrmX2E


http://www.youtube.com/watch?v=nOa0x-lcSDQ


http://www.youtube.com/watch?v=bBaLKWH30yc


http://www.youtube.com/watch?v=wlMgG8aWl9Y


http://www.youtube.com/watch?v=rxDyslpbIjM




ドキュメンタリーは嘘をつく

ドキュメンタリーは嘘をつく



  • 作者: 森達也

  • 出版社/メーカー: 草思社

  • 発売日: 2005/03

  • メディア: 単行本




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2007年2月 2日 (金)




日頃、日本古代史について考える機会のない私ですが、さきほど放送されたNHKスペシャル「飛鳥発掘が覆す大化改新」という番組は興味深かったです。今朝の読売新聞朝刊の「蘇我氏邸 要塞化」という記事によると、奈良県明日香村の甘糟丘東麓遺跡で7世紀前半の大規模な石垣と塀のあとが見つかったと報道されたばかり。スペシャル番組にしてはあまりにもタイムリーなので、驚きました。



読売の記事では、発見された石垣や塀は、「蘇我氏が強大な権力を背景に、軍備の増強を進めて」おり、「天皇家を牽制か」などと煽っています。さらに社会面での解説では、「丘の上には望楼を築いて、天皇家の動向を見張っていた」だの「天皇家の維新を守ろうとした中大兄皇子は、(要塞化した)甘糟丘を見上げては焦燥感に駆られ、打倒蘇我氏を決意したのだろう」という「識者」のコメントとがあります。



一方、NHKの同番組では、発掘が進む甘糟丘には、(けっして豪勢ではない)小規模な建物が並び、おそらく武器庫などとして使われていた可能性があることを指摘。さらに、地政学的な配置から甘糟丘の蘇我家は天皇家を守っていたのではないかという仮説を展開。その根拠として、蘇我入鹿が東アジア各国との交流と理解を深めようとしていた可能性を示唆します。とどめの一発は、「日本書紀」の大化改新に関する記述が20カ所以上も改編・編集されており、その部分については記述内容の信憑性が低いという古代中国語学者の解説。



番組では、以上の点を踏まえたうえで、蘇我入鹿は東アジアとの協調路線を進めよう考えていた革新派で、中大兄皇子と藤原鎌足こそが革新を妨害する保守派だったのではないか、という歴史学者の説を引用。そうだとすれば、蘇我入鹿が殺害された年はけっして大化改新ではなく、中大兄皇子が天皇に即位したあとに唐との戦闘に敗れ、その教訓から都の守りを堅くするための大量動員を目的に実施した律令制の時期が「改新」なのではないか、と結論づけていたような気がします。



おもしろいですね。取材対象は同じ発掘現場なのに、読売は伝統を重んじた規定の歴史認識を強調する編集をしており、NHKはその真逆をいくような番組を放送しました。


いずれにしても、NHK説(!?)の信憑性が高まってくると、またまた教科書を書き換えなければならなくなってしまいますね。



どちらの説に軍配があがるのか。


これまでの「蘇我入鹿は悪者」説がひっくりかえって、「中大兄皇子と藤原鎌足が悪者」説になってしまうのか。


楽しみながら動向を見守りたいものです。


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2007年2月 2日 (金)




まだ本が出ていないのに、「ダカーポ 2/7号」(マガジンハウス)で内藤さんの『いじめと現代社会』が紹介されていてびっくり。76ページです。


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2007年2月 2日 (金)




以下の場所と日時で、宮台さんと鏡さんのトークセッションを開催します。


全2回です。もちろん第1回のみの可能ですが、せっかくですから第1回の参加時に、第2回の予約もしちゃってくださいね(笑)。



会場は、三省堂書店神田本店の本店内特設会場。なんと、20時30分から開演するミッドナイト・トークセッションになります。人文書に囲まれつつ、薄明かりの下で、ゆったりとおふたりのお話しを聞いていただければと思います。



宮台真司×鏡リュウジ


真夜中のトークセッション at 三省堂書店



スピリチュアル・ブームの現在。テレビでは精神世界系の番組が視聴率をかせぎ、女性誌では占いの連載や特集が絶えず掲載されています。


一方で、「精神世界って何?」「占いって当たるの?」「うさん臭くない?」という素朴な疑問を抱く人も多いことでしょう。


今回は、宮台真司さんと鏡リュウジさんが、そんな疑問に答えつつ、精神世界とは何か、また占いとは何かを、それぞれの専門分野に引き寄せながら考えます。


第1回は、精神世界や心霊現象などを含めたオカルトと占いとの関係を検証しつつ、占いの歴史について振り返ってみようと思います。さらに、最近の出来事を事例にして、占いと世界の関係を考えてみます。


第2回は、占いと社会の関係や占いと学問のつながり、そして占いのこれからについて、じっくり語っていただきます。西洋占星術と社会学のコラボレーション(!?)のもと、おふたりが日本の未来を占ってくれるかもしれません。


■第1回


シンジとリュウジの「占いはセカイを変えるのか!? 」


〈場 所〉 三省堂書店神田本店 本店内特設会場


〈日 時〉 2007年2月28日 20時30分~22時


〈参加費〉 1000円


■第2回


シンジとリュウジの「セカイの未来を占ってみよう!」


〈場 所〉 同 上


〈日 時〉 2007年3月28日 20時30分~22時


〈参加費〉 1000円


■講師紹介


宮台真司(みやだいしんじ)


1959年、仙台市生まれ。社会学者。東京大学助手、東京外国語大学講師を経て、首都大学東京都市教養学部准教授。テレクラ、援助交際、オウム問題、郊外、専業主婦、少年犯罪、学級崩壊、盗聴法など、現在まで多くの分野で発言をおこなっている。著書に『権力の予期理論』(勁草書房)、『援交から天皇へ』(朝日文庫)、『挑発する知』(姜尚中氏との共著)、『限界の思考』(北田暁大氏との共著、ともに弊社刊)など。


鏡リュウジ(かがみりゅうじ)


1968年、京都府生まれ。占星術研究家・翻訳家。国際基督教大学卒業、同大学院修士課程修了(比較文化)。雑誌、テレビ、ラジオなど幅広いメデイアで活躍、とくに占星術、占いにたいしての心理学的アプローチを日本に紹介、幅広い層から圧倒的な支持を受け、従来の『占い』のイメージを一新する。著書に『占いはなぜ当たるのですか』(講談社文庫)、『12星座の恋物語』(新潮社)、『鏡リュウジ 星のワークブック』(講談社)など。


■お問い合わせ・ご予約


三省堂書店神田本店 電話 03-3233-3312 



なお、本トークセッションの記録は、昨年に朝日カルチャーセンターでおこなわれたおふたりの講演記録と合わせて、弊社の書籍企画として出版する予定です。


ご期待ください!


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