双風亭日乗

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2008年1月14日 (月)

自分が書いた言葉は、自分にはね返る

ライブドアニュースの「眼光紙背」。執筆者には、佐藤優さんや門倉貴史さんらと並んで、『若者を見殺しにする国』の著者である赤木さんも含まれています。この「眼光紙背」、執筆陣もおもしろいし、個々の執筆者が取り上げるテーマも興味深いものが多いんですよ。

それらの記事には、一応、ログインすればコメントを書き込めるようになっています。アマゾンのレビューも似たような感じですが、いずれもログインしても匿名性が確保されるので、ひどい言葉を平気で書いてしまう人がいます。すこし赤木さんの「眼光紙背」の記事と、『若者を見殺しにする国』について書かれたアマゾンのレビューを見てみましょう。

「稚拙」「馬鹿」「物乞い」……。他人の書いたものを批判・批評する際に、こういう「単語」を平気で書けてしまうのは、いったいどうしてなのでしょうか。小心者の私など、内容を批判・批評するだけでなく、書き手個人を誹謗中傷するような「単語」を書いた日には、「おまえはどうよ?」と切り換えされてしまいそうで、こわくて書けません。

署名記事にしろ、コメントにしろ、他人について書いたテキストは、かならず書いた本人にもはね返ってくるじゃありませんか。もし自分が、会ったこともない人から「稚拙だ」とか「馬鹿」とか「物乞い」とかいわれたら、いい気分はしないでしょう。そして、記事の書き手が自分の場所をつきとめ、「あなたより私が稚拙ということですか?」と質問されたり、「馬鹿は言い過ぎじゃありませんか?」と問い質されたら、ひどい言葉を発した人はどうするのでしょう。

2ちゃんねるのように、匿名での誹謗中傷が常態化している場所では、書き込む人もそれを読む人も、その常態が前提となっているわけですから、それはそれでいいとは思います。しかし、ライブドアニュースとかアマゾンは、そんな誹謗中傷が常態化した場所ではないでしょう。また、記事の書き手や一定の読者が、読むと気分が悪くなるような「単語」をあえて使うような場所ではありませんよね。

では、なぜ、そういう場所で、ひどい言葉を平気で書いてしまう人がいるのでしょうか。第一に考えられるのは、上記のように、他人について自分が書いた言葉が、自分にはね返ってくるということを、まったく意識しないで書いてしまうこと。仲正さんがよく指摘する脊髄反射というやつですね。第二は、自分にはね返ることは意識しているものの、「匿名だから……」ということで、安心して人にひどい言葉を発するというパターンでしょうか。

第一のパターンですと、言葉が自分にはね返ることが理解できれば、ひどい言葉を使うのを躊躇するようになる可能性があります。しかし、第二のパターンは、変わりようがありませんから、他人を批判・批評するときには、どこの誰だかわかるようなルールを設けるしかありません。

物を書き、世に発表している人からしばしば聞く、以下のような言葉があります。

一言で批判・批評・誹謗・中傷するのは簡単。
だが、書く側は多大な時間と労力と思考を使っている。

ならば、読む側も書いたものをしっかり読み込んで、けっして一言で済ますのではなく、同じくらいの分量のテキストで批判・批評してほしい

まあ、書き手と同じ分量のテキストで批判・批評するというのは、あくまでも書く側の理想論であり、無理な話ですね。とはいえ、批判・批評をするのであれば、それくらい真剣に向き合ったうえで、してほしいという思いは、私にも理解できます。くわえて、他人が書いたテキストと真剣に向き合って読めば、その感想に「稚拙」「馬鹿」「物乞い」といった「単語」が出てくる余地はないでしょう。

逆にいえば、安直にそういったひどい言葉を発しているテキストは、記事にしろコメントにしろ、対象と真剣に向き合っていないということを公表しているようなものだといもいえます。つまり、ネットという空間で、パブリックなかたちで、他人の書いたテキストに対してひどい言葉を発する本人が、「私はあのテキストを適当に読んで、推敲することもなく、思ったことをそのまま書いているだけです」と恥をさらしているということになりませんか?

ネットがコミュニケーションの場といわれて久しくなりましたが、どうせコミュニケーションをするのなら、できるだけ多くの人が気分よく過ごせるような場にしていきたいものです。そのためには、ルールの設定が必要なのでしょうけれど、一方ではネット上でルールを設定すること自体、馬鹿げていることのような気もします。

いやいや、匿名でのコミュニケーションであっても、各人が「自分が発した言葉は、自分にはね返ってくる」ことを理解していれば、ひどい言葉を発する人がすこしは減るのでしょうか。ん~、むずかしい問題ですね……。

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受信: 2008/01/14 18:02:41

コメント

>各人が「自分が発した言葉は、自分にはね返ってくる」ことを理解していれば、ひどい言葉を発する人がすこしは減るのでしょうか。

まあ、そうですが、いつの頃か、僕はもっとある意味で過激で、そのような誹謗中傷、罵倒は殆ど相手に託して自分自身のことを「誹謗中傷・罵倒」しているのが殆どではないかと思いました。
特にネットで匿名の場合、そのようなことが多いのではないかと、考え始めると、「誹謗・中傷。罵倒」語を通して書き手を「こんなヤツなんだなぁ」と想像すると、腹立たしさより、寒々として気持ちになる方が増えましたね。
結局、「否定形のカタチ」で自分を語っているのではないか。それが僕の解釈の基準です。そう思うと、僕自身、生の感情を吐露したり、相手のこともよくわからないのに、又は、世代、党派、左とか右とか安易にカテゴライズして、喋ることによって僕でない「僕」を相手に偏読、誤読させてしまう危険が大である。
それが政治的動機ならば、それでもいいのだが、そうでない局面でもそんな語法で喋りたがる人がいます。そういう振る舞いの人の動機に興味がありますが、その人の喋る中味(多分政治的なもの)には、興味がないし、返答のしようがない。
僕は何が言いたいかと言うと、相手に言葉を届けるということの、難しさは、その基底にある種の繊細さが要請される。
それは、自分自身に対してもそうだし、相手に対してでもそうだと思う。「誹謗・中傷・罵倒」語を多用する人は、自己破壊願望が強すぎるのではないかと、最近は特に思うようになりました。
そうすると、「怒り」より前に「サビシ~イ」と思ってしまう。

投稿: kuriyamakouji | 2008/01/14 11:37:28

葉っぱさん、コメントをありがとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
コメントの内容ですが、おっしゃるとおりだと思います。ひとつだけ私と違うのは、葉っぱさんが「誹謗・中傷・罵倒」語を多用する人たちに「あきらめ」から来る「さびしさ」を感じているのに対し、私はそういう人たちに対する「あきらめ」や「さびしさ」はあるものの、メッセージを発することによって、何かが変わったらいいなあという願望を持っていることでしょうか。
こうして出版社をやっているのも、そういった願望のあらわれなんですよね、きっと。

投稿: lelele | 2008/01/14 21:58:32

こんにちは。
 Amazonのレビューって、どうやら本を読んでない人も混ざってるような感じがします。
 「どうやらこの著者は生意気なことを言ってる感じがするぞ」とわかると、その場の雰囲気で罵倒してしまう。
 枯れ木も山の賑わいなんで、無視されるよりはましなのかもしれませんが。

投稿: Inoue | 2008/03/10 0:58:06