双風亭日乗

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2008年3月11日 (火)

物を書くときに、みずからのキャラクターを設定すべきか?

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先日、ある出版社の知人が高橋源一郎さんとお会いする機会をつくってくれました。ありがたきしあわせな話です。せっかくの機会なので、赤木さんにも声をかけて、同席していただいたんです。

高橋さんは、いちはやく赤木さんの「丸山眞男をひっぱたきたい」(「論座」2007年1月号)という論文に注目し、多くのメディアをとおして同論文を世に紹介してくれました。双風舎にとっても、赤木さんにとっても、恩人といえる方です。

食事をしながら話をしたのですが、話のテーマでもっとも印象に残っているのは、物書きのキャラクター設定についてでした。赤木さんがいたので、おもに実社会や思想を論じる物書きの場合で考えてみよう、ということになりました。つまり、詩人や作家は、また別の話ということです。そして、超単純に二項対立でキャラクターの色分けをすると、こんな感じになりますか。

ヒーローか、ヒールか?
善玉か、悪玉か?
右か、左か?

自分の存在を世間に認知してもらうためには、物書きはみずからのキャラクターを設定し、定めた方向に走る必要がある。また、自分が意図しなくても、世間が勝手に自分のキャラクターを設定してしまうことがある。それはそれで物書きとしては売り出しのチャンスなのだから、活かすべき。

キャラクター設定については、同席した方の誰もが、なんとなくそんなふうに結論づけていたように思います。ようするに、実際に会って話をしたときに受けるその人の思考や物腰、容姿などと、その人が自分なりのキャラクター(または世間が設定したキャラクター)を設定して書いたものの内容とは、乖離していてもいいのではないか、という話です。

いやいや乖離していてもいいのではないか、ではなくて、乖離していて当然でしょうということなんですね。思想系の論壇やら業界やらのなかで、自分がどんなキャラクターを演じていくのか。それを計画し、実践していく。そうすると、キャラ立ちした人を売り込むのは、そうでない人を売り込むよりも楽だという出版社のメリットがあります。また、キャラクターに役割を演じてもらうと、物事の対立の構図がはっきりするというメリットが、世間にはあります。

とはいえ、なんだかんだいって現状を支持する人が多いなかで、現状の虚妄を暴こうとする人がいると、その人はたいがいヒール役になってしまうのがいまの日本。ヒールというか、「左翼」ですか(笑)。何かに反対すれば、それが旧来の左翼的な思想や行動とどうつながっているのか検討されないまま、ただただ「左翼」といわれ、ののしられてしまいます。

赤木さんが「左翼だ!」とののしられなかったのは、普段は「何かに反対する人=左翼」と騒いでいる方々の思考が、「希望は戦争」という右っぽい言葉(笑)によって混乱したからなのではありませんか。そして、赤木さんは「左翼」でないけど、現状の虚妄を暴いているからヒールということになっている(笑)。論文「丸山眞男をひっぱたきたい」や著書『若者を見殺しにする国』の感想などを読んでいると、私にはそう見えて仕方がありません。

ここで高橋さんとの食事の席に話を戻します。何かに反対するとヒール役になってしまう構造があり、それは問題が多い。だが、赤木さん自身を含めて、その席にいた誰もが、現状では赤木さんはヒール役のキャラクターを演じきったほうがよい、ということで同意しました。これは、実際に会ったときの赤木さんが、悪役っぽかったり、態度が悪かったりというわけではありませんから(実際の赤木さんは、その逆ですよ)。あくまでもキャラクター設定ということです。念のため。

そのほうが物書きとして成功する可能性がある。世間に受け入れられる可能性もある。出版社からの原稿依頼が来る可能性もある(実際、けっこうきているみたいです。いいぞ!)。

この話を聞いていて、つくづく思いました。それは、私のように「右も左もよい部分があるし悪い部分もある。いいとこ取りしましょう!」みたいなスタンスで物を書いていると、商品になりにくいし、世間からも受け入れられにくいということです。そういう「あいまい」なスタンスで、編集屋として本を出すのは、別に問題ないとは思っていますが。

物を書いてギャラをいただくような仕事をするときには、キャラクター設定をしたほうがいいのかなぁ……。マジに悩んでいる今日この頃でございます。

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コメント

 読者として考えると、キャラ設定はどうでもいい話です。ただ、どうでもいいと言えなくなるのは、筆者に会ったときです。書いたもののイメージが読者にはありますので、良い本だと思ったら、その筆者もよいイメージなんだろうと期待します。しかしながら、個人的な体験でいうと、そうした期待は裏切られることが多いです。乖離しているのが当たり前なんだろうと私も思います。

 書く側の場合、私は、ある程度、キャラ設定しています。商品としての文章だけでなく、ブログやmixiでもキャラをコントロールしています。たとえば、ブログでは、あまりプライベートのことを書きませんが、mixiではプライベート中心。しかしながら、mixiでも、プライベートのある部分は書かずに、別のSNSで書くようにしています。これはキャラ設定というよりも、自己の持っている多面的な部分の一部しか、一つの日記には書かない、ということでしょうね。そして、それぞれの想定読者に自分を合わせることをしています。
 これは、商品としての文章を書くときも想定読者に合わせていると思います。筆者の年齢設定や文体を変えることもあります。ただ、思考そのものを合わせることはしていないと思います。たとえば、Aが好きなのに、文章ではAが嫌いといったことはしません。

投稿: 渋井 | 2008/03/11 11:25:06

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