双風亭日乗

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2008年6月 7日 (土)

論争

赤木智弘さんと杉田俊介さんが、杉田さんのブログで論争をしています。

http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20080526/p2

これを読んで、こんなことを感じました。
たとえば、ドイツでナチスを組織したヒトラーが、じつはとても気が弱くて、やさしくて、一対一の人間関係においては信頼のおける人だったとします。しかし、だからといってユダヤ人虐殺という彼の政策の間違いは免罪されることはありません。カンボジアのポル・ポトもそうですが。

つまり、ある人の内面の問題と、ある人が起こした(または、その人に起きている)状況は、分けて考える必要があると私は思うのです。ヒトラーやポルポトについては、彼らの内面はどうであれ、彼らが起こした悲劇についての責任はある、ということです。

あの大将はたいへんよい人柄で、部下にも慕われていたし、じつは戦争に反対していた。そんな話が、日本の戦争責任論などにもよく見られます。だからといって、その大将の指揮によって亡くなった戦争被害者に対する大将の責任は、なくなったり軽減されたりはしません。

もちろん、その大将を知る人や当時の部下が「あの人はいい人だった」と思う気持ちもわかります。そう思っていいんですよ。でも、大将が「いい人だった」から大将には「戦争責任はない」ということにはならない、と私は考えるわけです。

以上はかなり極端な例ですが、強調したいことは、ある人の内面の問題とある人が起こした(ある人に起きている)状況とを、ごちゃまぜにして考えてしまうことの危うさです。それらをごちゃまぜにすると、ある人が起こした(ある人に起きている)状況が、内面の問題によってあいまいに扱われてしまう。

弱者問題でいえば、「やる気がない」とか「努力が足りない」と弱者の内面を探ることと、弱者が貧困に苦しんでいる現状とは、きっちり分けて考えたほうがいいと思います。そうしないと、弱者に貧困をもたらしている社会的な原因(政策や政治家の愚)が、弱者の内面の問題を指摘する、すなわち「あいつが貧乏なのは、自分がいけないからなんだ」ということで、ほんとうの責任の所在があいまいになってしまう可能性があるでしょう。

そうなると、弱者の内面の問題が自己責任の問題として為政者に利用され、自己責任なんだから政策や政治家は悪くない、というネオリベ的な弱者排除の発想につながっていくような気がしてなりません。

「A.あの人はいい人」だからといって、「B.あの人の政策がもたらした大虐殺」は免罪されません。そして、「A.あの人はやる気がない」からといって、「B.あの人が貧困にあえいでいる」状況を是認することはできません。このAとBは分けて考えたほうがいいんじゃないか、と私は思うんですよ。

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 赤木さんと杉田さんとの論争に某お兄様がコメントを寄せていて、以下は元の論争というよりは、お兄様のコメントへのコメント。 弱者問題でいえば、「やる気がない」とか「努力が足りない」と弱者の内面を探ることと、弱者が貧困に苦しんでいる現状とは、きっちり分けて考... 続きを読む

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