双風亭日乗

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2008年9月11日 (木)

『ユリイカ』

『カミュなんて知らない』につづいて、青山真治監督の『ユリイカ』(2000年)を観ました。

偶然に起きたバスでの無差別殺傷事件。偶然、そこに居あわせた運転手。そして、兄と妹のキョウダイ。この映画は、無差別殺傷事件に巻きこまれながら、偶然、生き残った運転手とキョウダイの物語です。

運転手は、その街にいることができず、数年間失踪。その後、街にもどる。しかし、もどった彼は、殺人事件の容疑者だと思われるなど、地元の人たちから「不気味なストレンジャー」のまなざしを注がれる。

一方、キョウダイの家庭は崩壊し、事件の影響で失語した彼らは、親のいない豪邸で自堕落な生活を送る。親戚は、財産を目当てに、彼らのめんどうを見ると申し出る。しかし、彼らは誰も信用しない。

地元社会から排除された運転手とキョウダイは、いつしか共同生活を送るようになる。そして、キョウダイの親戚の若者も含めた4人は、排除の街を捨てて、バスで旅に出る……。

あらすじは、そんな感じです。運転手もキョウダイも被害者の側なのに、地元の人々は彼らを排除するという構造に対して、やり場のない憤りを感じました。とはいえ、いくら憤ったり、矛盾を感じたりしても、生活の場を変えることなど簡単にはできません。

そこで運転手が選んだ手段は、バスの旅に出ることにより、自分らを排除する街を捨てるというものでした。つまり、運転手らが街を排除するんですね。この部分は、ある意味では学校や職場での「いじめ」への対処に通底するものを感じました。

映画の後半で、キョウダイの兄が連続殺人犯であることがわかるのですが、その兄が運転手に「どうして人を殺してはいけないんだ」と問う。それに対し運転手は「何か大事なものが壊れてしまうから」と答える。そして、出頭する警察の前で、運転手は兄に、ずっと待っていることと「生きろとはいわん。死なんでくれ」と告げます。

この運転手の振る舞いに対して、私は「そんな人、ほんとにいるのかなあ?」と疑問を持ちました。すこし宗教くささも感じました。一方で、「そんな人がいたら、このせちがらい世の中も、すこしは変わるのかなあ……」なんて思ったりしました。

3時間27分という長い映画なので、集中して観るとけっこう疲れます。とはいえ、犯罪の加害者と被害者の関係や犯罪が起きた場所の人々の様子、そしてその場所の風景をきっちり描き、人の気分の変化や揺れを描くためには、長い時間が必要だったのだとも思います。

見終わってからまっさきに感じたのは、何らかの理由で心に傷を受けた人が「再生」するためには、「再生」をうながす人との出会いが必要であることと、「再生」には長い長い時間がかかるということでした。もちろん、心に傷を受けた人には、被害者も加害者も含まれるという前提で。

さて、次は『誰がために』です。犯罪がらみの映画を連続で観ていたら、だんだん気が重くなってきました(笑)。でも、現実に起こる事件は一過性のものであり、そのものを再現することはできないことを考えると、映画というかたちで事件や事故を追体験できることは、それなりに意味があることなんでしょうね。そうなると、さまざまな意味で映画のクオリティーが問題になるわけですが。

若くしてこのような大作をつくってしまった青山さんは、まわりが勝手に抱く次回作への期待やら何やらで、この8年間、けっこうたいへんな日々を送ってきたんじゃないのかな。お察しします。

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受信: 2008/09/14 0:12:22

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