2008年9月 8日 (月)
『カミュなんて知らない』
仕事上の必要があって、犯罪がらみの映画を連続で観ています。
まず、柳町光男監督『カミュなんか知らない』(2005年)。日大芸術学部(日芸)で映画づくりをやっていた知人から、学部時代の様子を聞いたことがありますが、映画づくりの様子については、ほぼそのとおりの内容でした。映画のモデルが日芸なのかどうか、知りませんが。
「芸術」にあこがれた男女の学生が、映画づくりをとおして出会い別れを繰りかえす。いわゆるモラトリアムな状態っていうんですか。そんな彼らがつくった映画。それが、不条理な殺人を犯す少年の物語だった。
モラトリアムな若者の出会いと別れも不条理、少年が犯した殺人も不条理。これが映画の結論なのかもしれませんが、比較の対象が飛躍しているうえ、学生らの恋愛模様を冗長に描いていることから、何度も早まわしして観ざるをえませんでした。
また、映画づくりを指導する教授の振る舞いを、ルキノ・ヴィスコンティ監督『ベニスに死す』(1971年)の主人公と二重写しにしていたのも、ちょっと陳腐な感じが否めませんでした。
少年犯罪を描写した部分では、藤井誠二さんの著書を参考にしているようですが、リアルとフィクションを中途半端に混同すると、できあがったものも中途半端なものになってしまうのでは。リアルを元ネタにするにしても、それをフィクションとしてきっちりつくり込んでほしかったです。
フィクションでしか表現できないこともあるし、フィクションだからこそ伝わることもある。そもそも、リアルだと思って観たり読んだりしているドキュメンタリーやノンフィクションだって、けっきょくは作者や著者が恣意的に取りあげたトピックスを示し、編集しているわけです。ほんもののリアルなんて、その場その時に自分が立ち会う以外にはあり得ない。
それでも、徹底的に調査・取材してつくられたフィクションと、それを元ネタに「いいとこ取り」したり「二次コピー」したフィクションとは、深みや厚みが違ってくるものだと思います。その「いいとこ取り」をする人が、みずから調査・取材をきっちりやったうえでフィクションをつくれば、それは作品の質に反映されるものでしょう。
『カミュなんか知らない』には、それが反映されているのかどうか。ぜひ、ご覧になったうえで、みなさんに判断してもらいたいところです。
と、まあ、このように勝手なことを述べているわけですが、映画をつくるということはたいへんなことであり、監督と呼ばれる方々は、そのたいへんな事業の責任をすべて引き受けるすごい人たちなんですよね。作品の内容とは別の次元で、映画監督というお仕事に対して、私は絶大なる敬意をもっているということを、申しそえておきます。
では、次回は『ユリイカ』の感想を。
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