2008年10月21日 (火)
「犯罪と社会の明日を考える」 第2回
「死刑」(その2)
さて、今回は死刑を存置すべきか廃止すべきかを考えてみます。
結論を先にいうと、私にはどちらがよいのかわかりません。あいまいで申し訳ありませんが、いろんな情報を得て、さまざまな人の意見を聞けば聞くほど、わからなくなってしまいました。
まず、廃止の立場を検討してみましょう。まっさきに問題となるのは、死刑が国家による合法的な殺人である、という実状です。私は「人権」というあいまいな言葉をあまり信用していないので、死刑を考える際にも人権がどうのとは言いません。それにしても、犯罪者を対象にするにせよ、国家による殺人が合法化されているという点については、疑問視せざるをえません。
現実に冤罪死刑囚がいたわけですから、無実の人が冤罪で国家に合法的に殺される可能性というのは、けっしてゼロではありません。これをショートカットして考えると、ごく普通の人が国家に殺される可能性がある、ということになります。ふだんは他人事として考えがちな死刑ですが、こうして考えてみると、誰もが国家に殺されるのかもしれないという感覚を持つようになります。もちろん、そうならないために警察や検察、そして裁判所があるわけですから、その可能性はかなり低いことはいうまでもありません(しかし、その警察や検察、裁判所が冤罪を生んでいるわけです)。
冤罪と死刑の関係についていえば、冤罪で国家に殺される可能性がある「から」、死刑は廃止すべきだというのは、あまり説得力がないように感じます。それは、死刑であれ何であれ、人を罰するかどうかを判断する場合に、冤罪というものはあってはならないものだからです。冤罪のみを理由にして死刑廃止をとなえた場合、では冤罪がなくなれば死刑があってもいい、という話になりかねません。
あと、世界的な潮流が死刑廃止になっている、という話をよく聞きます。ほかの国の刑罰を事例にあげて、「日本は乗り遅れている」というわけです。じつは、この議論には死刑以外にも似たものがあります。それは禁煙運動です。もちろん、具体的には異なる部分がたくさんありますが、他国の事例をもってきて、日本もそうしろという「形式」は、まったく同じです。
たしかに、他国の事例を参照したり研究したりすることは重要なことです。しかし、死刑にしろ禁煙にしろ、他国の真似をすれば済むという話ではありません。ほかの国と日本とでは、地理的条件や国民性、歴史、宗教、文化、政治など、違うことだらけです。一例だけあげましょう。さきほど「人権」という言葉を信用していないと言いました。それは、この言葉ほど国によって解釈や意味が異なるものはない、とカンボジアで多国籍な人たちと接して、つくづく感じたからです。
つまり、他国の事情を参照するのはいいけれど、それにどっぷりつかってしまうことは、思考停止につながってしまうのではないか、と私は危惧しています。死刑にしろ、禁煙にしろ、最終的には自分の国のことは自分たちで考えるべきだ、と思うわけです。そういう意味で死刑について、「世界的な潮流が……」という議論は参考程度に考えるにとどめ、日本で暮らす私たちが日本独自の解決法を考えぬく必要があると思います。
つづいて、存置の立場を検討してみます。第一に考えなければならないのは、これまでの司法行政が、加害者の「人権」を重視することに傾いていたという歴史です。その歴史の一端を知りたければ、日垣隆著『そして犯罪者は野に放たれる』(新潮文庫)という本を一冊読むだけで十分でしょう。こうした加害者重視の姿勢をひるがえすと、そこには司法が犯罪被害者や被害者遺族を軽視していたという歴史が浮かびあがります。いや、司法だけでなく、マスコミも含めて。
人を殺した犯罪者が、判例主義や精神鑑定の影響で、当初は死刑の予定だったのが無期懲役に減罪されたり、場合によっては無罪になったりしている、という現実があります。これは、刑法39条にからむ問題なので、別の回にみなさんと考えられればと思います。
殺された側の被害者またはその家族には、加害者に対する応報感情があります。殺されたら、殺したくなるのは当然です。でも、自分が加害者を殺したら、今度は自分が加害者になってしまい、その加害者の家族が応報感情を抱きます。こうした感情の連鎖を止めるためにも、殺人を犯した加害者には、できるかぎり被害者の家族が納得できるような刑罰をくわえる必要があろうかと思います。
そういう意味では、殺された側の家族が加害者を殺せない以上、死刑という制度によって加害者が死ぬ(国家に殺される)ことをもって、殺された側の家族の応報感情がすこしは満たされるのかもしれません。とはいえ、加害者を死刑にすることを望まない殺された側の家族もいるのは、いうまでもありません。いずれにせよ、殺された側の思いは当事者にしかわからないのも事実です。よって、私たちにできることは、殺された側に思いをはせることくらいなのかもしれません。
死刑の廃止を求める声のなかに、殺人を犯した加害者の側にも家族があり、国家が死刑により加害者を殺すと、加害者の家族が悲しむというものがあります。しかし、この主張は、「死刑を廃止せよ」という文脈のなかでは、ちょっと説得力がないような気がします。それは、この主張には、被害者の家族の悲しみというものが抜け落ちているからです。
基本的には、法制度が感情に左右されてはいけないと思います。できるだけクールに、冷徹に、起きた事柄に基づいて、誰もが納得するような罪と罰のバランスをとれるなら、それに越したことはありません。でも、現状はけっしてそうなっていません。この件は、重罰化の話にからんでくるので、別の回でくわしく考えましょう。
ここで注目すべきは、上記のうちの「誰もが納得する」という部分です。つまり、死刑にしろ重罰化にしろ、「誰もが納得する」ような刑罰の制度を築くためには、その前提として「こういう罪を犯すと、こういう罰があたえられる」ということを、誰もが知っていなければなりません。ところが、そういった啓発が国家によってどこまで実行されているのは疑わしい。ていうか、どんな罪を犯したら死刑になるのか、知らない人が多いのではありませんか。これでは、凶悪犯罪を抑止する機能など、死刑には望めませんよね。
いろいろ書いていますが、けっきょく私は、死刑を存置したほうがよいのか、廃止したほうがよいのか、よくわかりません。わかりませんが、現状で死刑制度が存在するということを前提にすると、死刑廃止派の宮崎哲弥さんが『少年をいかに罰するか』(藤井さんとの共著、小学館プラスアルファ文庫)で書いていることには、説得力があるかと思います。以下、引用します。
死刑とは合法的に行われる最大の人権侵害です。そのような侵害行為が秘密裡に行われていること自体が、国民の知る権利に対する重大な侵害といわざるを得ません。そこで私は最低限、次のことを法務省に要請します。
(1) いつ、誰が、どこで処刑されるのかを予め公表すること。
(2) 被害者遺族をはじめ、事件に関わった人々、地元住民、ジャーナリストなどの立ち会いを許可すること。
(3) もし受刑者が望むならば、一般人の立ち会いやカメラによる撮影も一部許可すること。
(4) いつ、誰が、どのように処刑されたのか、その詳細を報告すること。
この四点を直ちに実行することができないのならば、死刑制度は廃止すべきです。
(『少年をいかに罰するか』 24-25p)
ようするに、死刑制度を維持するのであれば、こそこそやらず、情報を開示したうえで、堂々とやりなさいということですね。死刑に関する詳細な情報が開示されれば、国民もいまより死刑の存置や廃止について考えざるをえなくなるでしょう。また、国家による合法的な殺人がどのようにおこなわれているのかを、私たちは知ることができるようになります。
こう考えてみると、死刑については、存置か廃止かという議論が一部の専門家や遺族だけによっておこなわれており、情報不足な一般国民は「なんとなく存置」とか「なんとなく廃止」という程度にしか、死刑について考えていないのかもしれない、と思わざるをえません。きちんと判断するための情報が与えられていないのですから、白黒はっきりしろといわれたほうも困ってしまいます。
そうなると、まず情報がしっかりと開示されたうえで、国民の一人ひとりが自分も関わる問題として真剣に考え抜いてくことが、死刑の存廃を考えるうえでの前提となりそうです。
連載 犯罪と社会の明日を考える | コメント (1)
| トラックバック (0) |
コメント
人それぞれ考えはあるとは思いますが、私は、『目には目を。』『因果応報』他人の人生を奪うのなら、同じように自分も奪われるというのは当たり前だと思います。そしてその重犯罪者=死刑囚にな何年も何十年も税金で食べさせたくはありません。殺人者に人権というのであれば、早く死刑執行を行うことだと思います。
投稿: みむめも | 2008/10/28 22:28:53