双風亭日乗

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2009年1月26日 (月)

人は現実と向き合うことを嫌う(映画『ファニーゲーム U.S.A.』の感想)

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日本の経済が不況であったり、雇用不安がまんえんしていることの発端は、小泉純一郎元首相による構造改革であることは、もはや確認するまでもないことだと思います。ところが、国民を不幸に陥れた小泉政権を、多くの国民が支持していた時期があります。

一方、坂東さんの「子猫殺し」騒動を、一歩引いた目でながめてみましょう。坂東さんが子猫を殺したことに過剰反応した人たちが、あらゆる卑劣な言葉を使ったうえで坂東バッシングをしていたわけですが、その人たちの多くは、「自分の飼い猫に去勢をすることの意味は、どういうことなのか」というみずからへの問いかけを、棚上げにしたまま坂東さんを罵っていました。

このふたつの事例に共通することは、ある種の空気が社会にまんえんしてしまうと、その空気のなかにいる人たちには、その空気が「正」なのか「負」なのか、よくわからなくなってしまうということだと思います。もし、その空気が「正」なのであれば、とくに問題はないのですが。

しかし、その空気が「負」の場合、早めに気づかないと、とりかえしのつかないことになることもあります。その場そのときには、自分が絶対に正しく、よいことをしていると信じている。しかし、あとから考えてみると、自分は絶対には正しくなかったし、よいことをしていたとも思えない。そういうことは、けっこうあると思います。

前置きがながくなりました。今回は『ファニーゲーム U.S.A.』という映画を紹介します。この映画は、ミヒャエル・ハネケ監督が1997年に製作した『ファニーゲーム』という映画のリメイクです。私は、渋谷のシネマライズで観ました。上映時間は111分ですが、半分くらいのところで、観つづけるのが苦痛になってきました。でも、我慢して最後まで観ました。

内容は、とでもシンプルです。夫婦と息子の三人家族がバカンスで別荘にいく。そこに突然、ふたりの若い男性があらわれ、その家族に暴力をふるい、ひとりずつ殺していく。そして、三人が死んだところで映画がおわる……。

人は殺されますが、殺人シーンは映像に出てこない。妻が服を脱がされるシーンがありますが、服を脱いだ妻の身体は映さない。でも、観ていると不快になる。途中で、不条理な殺人をおかす若者が、カメラに向かって問いかけたりします。また、若者のひとりが殺されると、もうひとりの若者がDVDのリモコンで殺される前のシーンに映像を巻き戻して、殺された若者を生き返らせたりする。

不条理な暴力が「これでもか」というくらいつづくものの、映像から残虐シーンが排除されている。このことは、目に見えないところにも暴力は存在することを意味しているのでしょう。また、登場人物がときおり観客に向けて語りかけるのは、不条理な暴力がおこなわれている映像が虚構であることを、観客に確認しているのでしょう。

ミヒャエル・ハネケ監督がインタビューで、この映画をつくった意図を語っています。

『ファニーゲーム』は間違いなく、私が2度作りたいと思う唯一の作品です。オリジナル版が“ファニーゲーム”という英語のタイトルになっているのは、けっして偶然ではありません。この映画は、映画における“消費者”と呼ばれる“観客”をターゲットにしたものであり、すなわち“消費者”と呼ばれる“バイオレント・アクションを好むような人々”を対象にしています。私は、暴力の本質を描くことで彼らを震えあがらせ、普段自分たちが見ているものが一体何なのか、メディアとは何なのかを気づかせたかったのです。
<中略>
少なくともこの作品で、私は期待通りの衝撃を与えられることを願っています。つまり観客が作品に魅入ると同時に自分たちが何をただ受動的に飲み込んでしまっているか、いかに暴力を消費しているかを実感させ、別のアプローチを体験させられないか、と。人は現実と向き合うことを嫌います。残虐な暴力は、恐怖感を与えはするけれども決して触れないで済むような方法で提示され、人々に消費されていきます。私は常に実際に作用し、衝撃を与えられるような方法を模索しているのです。
(『ファニーゲーム U.S.A.』パンフレットより)

メディアは、巧妙な手段をつかって、人々に暴力を消費してもらおうとする。暴力を欲しているという人の本性を刺激すれば、もうかりますからね。そして、暴力を消費する人たちは、自分が暴力を消費していることに気づかない。しかし、虚構の暴力を消費しつづけていると、暴力が空気のようになり、現実に発生している暴力に対して無意識になったり無関心になったりする。

それは好ましくない状況なので、ここらで暴力を消費していることを観客に気づいてもらおう。この作品から私は、そのような監督の意図を感じました。さらに、「人は現実と向き合うことを嫌います。残虐な暴力は、恐怖感を与えはするけれども決して触れないで済むような方法で提示され、人々に消費されていきます」という監督の言葉には、坂東さんの「子猫殺し」エッセイに対する反発がなぜ起きたのかを考えるヒントが隠されていると思いました。

坂東さんは「子猫殺し」エッセイで読者に対し、「人と猫の関係性」という現実に向きあってみてはどうか、と問いかけたのだと思います。自分はこうしているが、あなたたちはどうしていますか、と。ところが、猫に去勢をしているという暴力的な現実と向きあうことを嫌う人々は、みずからの暴力を棚上げにしたうえで、坂東さんを徹底的に叩いた。

普段は見なくすんでいた、去勢という猫に対する暴力の是非が、坂東さんのエッセイによって問いかけられ、パニックになった。私が『ファニーゲーム U.S.A』の上映途中でパニックになって、観るのが嫌になったように。とはいえ、すこし冷静になって考えれば、いくら気分が悪くなったとしても、しょせん映画は虚構だということがわかります。それと同じように、猫を増やさないための方策として、去勢だけが最良の方法ではないということに気づくことでしょう。

だがしかし、余分な猫を増やさないためには「去勢しかありえない」という空気が日本中を支配していると、去勢の良し悪しを検討することはスルーしたうえで、それ以外の方法を提示した人に対する強烈なバッシングがはじまる。それがまさに、坂東さんに対するバッシングの真相だったのではありませんか。

『ファニーゲーム U.S.A.』を観た感想を一言でいうと、私たちは、知らぬ間に暴力を消費しているということについて、いかに気づいていないのか、ということでした。逆にいうと、そういうことを気づかせてくれる、貴重な映画だったということです。私は、この作品と同じような効果が「子猫殺し」エッセイにあったのではないか、と考えています。不快な気分になり、抵抗を感じて、はじめて気づくこともある、ということなのかもしれませんね。

「負」の空気がまんえんしているときに、その空気が「負」だと指摘したり気づかせたりすることは、とても勇気のいることです。この場合、「何も考えない」というのも「負」の空気にふくまれます。『ファニーゲーム U.S.A.』は、たくみな演出で観た者を不快にさせることにより、「負」の空気(日常的な暴力の消費)のなかにいる観客に気づきをあたえるという、すごい作品だと思いました。

我慢して最後まで観てよかったです。

『ファニーゲーム U.S.A』公式サイト

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コメント

ハネケの大ファンです。知りませんでした。今、やっているんですね。調べたら1月30日まででした。ぎりぎりです。見逃していたところでした。ありがとうございます。

投稿: やまもと | 2009/01/26 22:49:13

1997年製作のオリジナル版も、1月30日まで以下で観ることができるようです。上映時間は、21:20~23:05 です。

http://www.ht-cinema.com/

投稿: lelele | 2009/01/26 23:16:49