2009年2月17日 (火)
連載第12回 「子猫殺し」再考 (東琢磨さんのコメント)
連載「『子猫殺し』再考」の掲載用として、坂東眞砂子さんと東琢磨さんからコメントが届きました。ご多忙のところ、コメントをお送りいただいたおふたりに感謝いたします。
本日は、東さんから届いたコメントを以下に掲載します。坂東さんからのコメントは、19日の掲載です。
なぜ、この本に参加したか。
取り憑かれたのか、取り憑いたのか。
東琢磨(音楽評論家)
なぜ、この本に参加したのか。単純である。坂東眞砂子さんは、私がファンである作家であり、畏敬する友人であるから。そういう方が窮地に陥っているように見える時に、何もできないままでいて、声をかけられれば歓んで応じるのが人の道である。
と、それだけなのだが、実際のところ、この「猫殺し」バッシングに気持ち悪いものを感じていたのはたしかだ。せっかくの機会なので、その強烈な違和感について、坂東さんとともに考えてみたいと思ったのだ。
坂東さんの「猫殺し」だけではなく、なぜ人はこんなにバッシングに夢中になるのか。私自身も猫、特に野良猫は好きだが、ふだんはいろんなものを平気で殺している人たちが、いざ猫、子猫になるとこれだけ燃える(萌える?)のか。それも不思議だった。
私の本業は、一応、今でも音楽批評ということになっている。音楽は時にその存在自体がバッシングの対象になることもある。体制を堕落させる、不良になる……。あるいは、誰それがどうのといった芸能的なバッシング。一方で、音楽そのものが暴力的な存在になることもある。国歌などの戦争協力、騒音問題などなど。
このように、音楽が、時にバッシングを受けるような魔的な存在であることは間違いない。とはいえ、音楽や「うた」の持つ力は、それが反転して暴力的に働くことがあったとしても、基本的にはバッシングとは反対の「賛/讃」が本質なのではないか。
人をとことん蕩(とろ)かすから魔的なのであり、だからこそ時にバッシングされるのだ。「うた」の衰弱と、バッシングの跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)は、どこかで関係があるのではないか? 実のところは、そうした思いもあった。この答えは出ていない。
また、音楽やうたは身体から出てくるものであるがゆえに、生と死と、あるいは魔的・神的なものと、ほかの何よりも密接に結びついた文化でもある。広島で生まれ育ち、沖縄とのつきあいが密接になるにつれて、いつしか死や死者に取り憑かれていると感じることが数年つづいた。
しかし、取り憑かれるのも悪くはない。坂東さんに取り憑かれたのか、猫に取り憑かれたのか。あるいは、私が取り憑いたのか。
初校ゲラを拝読して、思わぬところまで喋ってしまっていることにも驚いた。
了
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