双風亭日乗

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2009年2月19日 (木)

連載第13回 「子猫殺し」再考 最終回(坂東眞砂子さんのコメント)

今回は、『「子猫殺し」を語る』の著者である坂東眞砂子さんから届いたコメントを掲載します。本を出す理由が明解に記されているので、ぜひご一読ください。

なお、本連載は、いったんこれにて終了します。以降は「『子猫殺し」再考」というテーマで随時、記事を掲載いたします。お読みいただき、ありがとうございました。

この本は自己擁護ではない

坂東眞砂子

「子猫殺し」と題したエッセイを発表したために受けた非難、中傷、そこから起きた騒動に関して、私は別に被害者意識は持っていない。自分が蒔いた種だから、そこから思ってもいなかった芽が芽吹こうとも、まあ、仕方ないか、と捉えている。

とはいえ、私の生業は、ものを書くことだ。書くためには、さまざまな思考をする。その思考の結実としての作品、この場合はエッセイの内容がきちんと読者に伝わったかどうかは気にかかるところだ。

この意味において、「子猫殺し」のエッセイは、騒動の渦中、歪曲され、誤解されてしまったという残念な気持ちは抱いている。

ただ、一度は、新聞紙上でエッセイ発表の場は与えられたわけだし、それが人々に届こうが届かなかろうが、私の責任ではない、とも思える。エッセイが発表されたという段階で、私の側の意見伝達という目的は達しているのだ。

だから、私が今になって、『「子猫殺し」を語る』と題する本を世に出すことにした最大の理由は、誤解を解きたい、などということではなく、「子猫殺し」を巡って起きた騒動の陳腐さを顕かにしたいということだ。

この世界の多くの場所で、飢餓も戦争も内乱もテロも起りつづけている。人がガリガリに痩せこけ、飢えて死んでいったり、人を殺戮するという事態が日常茶飯事の社会が存在しているのだ。そのことは、地球規模での情報交換がなされている現在、日本という島国の人々もよく知っているはずだ。なのに、一人の小説家が、生まれて間もない子猫を殺したと書いたことで、あそこまでの非難と中傷が沸き起こったことの不思議さ、可笑しさに、騒動のはじまった当初から、私はあきれかえり、驚嘆と興奮をも覚えていた。

ここに、日本社会がいかに変ちくりんになってしまっているかの見事な事例がある。テーマが「子猫」であるだけに、その狂乱ぶりの馬鹿さ加減が如実に表れている。なぜ、世にいう評論家や文化人たちは、この現象を取り上げて、そこから日本社会の歪みを検証しないのか。

騒動の渦中、私はずっとそんな動きを期待していたし、実際、呉智英さんなどは鋭い論評を出してくださったのだが、さほど大きな流れになることなく、騒動自体が、消えてしまった。

他の人がやってくれないならば、自分でやるしかない。しかし、日本社会を論ずるなどということは、私一人の手には余る。この本は、対談相手になってくださった、東琢磨さん、小林照幸さん、佐藤優さんのお三方のおかげで完成することができたものだ。

三人の方々と、さまざまな角度から「子猫殺し」を語る中で、現代日本社会の病理の実態がそこここに炙りだされてきたのではないかと思っている。

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連載第13回 「子猫殺し」再考 最終回(坂東眞砂子さんのコメント):

コメント

この人に、日本の社会の歪みを語って欲しくない。確かに世界中で飢えで死んでる人や、戦争で死んでいる人々が沢山いる。でも命に軽い、重いがあるとは思えない。一つ一つを大事にすることが、人としての道徳だと思う。彼女の変な意見に批判の意見が言える日本は、まだゆがんでいないと思う。彼女のコメントを見ていて気分が悪くなりました。

投稿: m | 2009/03/23 14:43:12