2009年2月 9日 (月)
連載第6回 「子猫殺し」再考 (本を出す理由 その1)
『「子猫殺し」を語る』を出す理由①
■刊行の目的
私が坂東眞砂子著『「子猫殺し」を語る』を刊行する理由は、いろいろあります。とはいえ、前提としてみなさんにわかっていてほしいことが、ふたつあります。
ひとつめは、坂東さんが書いた「子猫殺し」エッセイに反発した人たちを単純に批判することが、刊行の目的ではない、ということです。ふたつめは、「子猫殺し」エッセイの内容を過剰に擁護することが、刊行の目的ではない、ということです。
まず、私個人が坂東眞砂子さんの「子猫殺し」というエッセイに出会ったときのことから書きましょう。出会いは、「きっこのブログ」の以下のエントリーがきっかけでした。
「きっこのブログ」 2008年8月21日
猫殺し作家の屁理屈
http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2006/08/post_3aec.html
きっこさんの上記エントリーをうけて、私は以下のエントリーをこのブログにアップしました。
双風亭日乗 2006年8月22日
http://sofusha.moe-nifty.com/blog/2006/08/821_e8b2.html
■問題意識
今回、『「子猫殺し」を語る』を刊行する理由は、その延長線上にあります。私の問題意識を整理すると、以下のふたつになります。
第一は、坂東さんのエッセイは、罵詈雑言を浴びせられるような内容のものなのか、ということです。第二は、坂東さんのエッセイは「言論」として発表されていることから、内容に違和感があるのなら、どこに違和感があるのかを表明したうえで、きちんとした「言論」で批判をすればいい。それなのに、「死ね」「本を燃やせ」「バカ」などという、坂東さんへの悪意と殺意のこもった言葉がたくさん出まわりました。それはなぜなのか、ということです。
まず、第一の問題から考えていきましょう。
■私自身は猫とどう向きあっていたのか
たしかに、エッセイを読み、坂東さんが子猫を殺しているということを知ったときには、多くの人が多少のショックをうけるでしょう。とくに、ご自身で猫を飼っている方ならば。
とはいえ、ショックをうけたあとに考えるべきことは、エッセイへの(批判的・中立的・擁護的)感想であると同時に、自分は飼っている猫とどう向きあっているのか、ということなのではありませんか。
当時の私は、二匹の猫を子猫のときから飼っていました(キョウダイで雄雌一匹ずつ)。そして、盛りがついたときに、もだえる姿を見るに見かねたのと、近所から鳴き声についてのクレームが来たことから、やむなく二匹に去勢手術をほどこしました。
去勢しない場合を考えてみましょう。二匹の猫は雄雌だから、キョウダイで交尾をしはじめ、どんどん子どもが産まれることでしょう。産まれた子どもが、どんどん人にもらわれていけばいい。けれど、もらわれていくスピードよりも、産まれてくるスピードが速くなることはあきらかです。そうなると家が猫だらけになってしまう。
■「子猫殺し」は思いつかなかった
一匹の猫を死ぬまで育てるためには、数百万円のお金が必要です。二匹の猫を飼っているだけで、かなりの出費を覚悟しなければなりません。これ以上、飼い猫が増えたら、家計に打撃をあたえかねません。飼い主の生活が立ちいかなければ、猫の生活も立ちいかなくなるので、猫の生活のために人の生活を犠牲にするというのは本末転倒です。
「産まれた子猫をどこかで捨てる。捨てれば、もしかしたら誰かが拾って、育ててくれるかもしれない……」。そういう考え方もありそうなものですが、これは無責任の極みです。なぜかといえば、猫が拾われるかどうかなど、誰にもわかりませんし、拾われない猫は害獣になる可能性が高いからです。
残された道は、産まれてすぐの子猫を殺す、ということになろうかと思います。しかし、私にはその道が「思いつかなかった」のでした。
ここで私が飼い猫を去勢した理由を整理すると、第一に猫のつらそうな姿を見るのがいやだったこと、第二に近所のクレームを避けるため、第三に経済的な余裕がないこと、第四に去勢しないで産まれた子猫を殺すという発想がなかったこと、の四つに集約できると思います。
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