2009年2月10日 (火)
連載第7回 「子猫殺し」再考 (本を出す理由 その2)
『「子猫殺し」を語る』を出す理由②
■カンボジアの猫
坂東さんのエッセイを読んだあと、よく考えてみれば、カンボジアでは猫を部屋で飼う人などほとんどいなかったし、猫を去勢する人もいなかったことを思い出しました。そうなると子猫がじゃんじゃん産まれる。誰もが、餌をあげられる分の猫は確保し、余分な猫は殺していました。
子猫殺しがカンボジアでOKだから、日本でもOKなどというつもりは、さらさらありません。でも、人が猫と暮らすための道というのはいくつかあって、そのうちのひとつが、カンボジアでとられていた対処であるということに気づきました。だって、そういう道が残されていなければ、獣医がいなかったり、手術費用が出せない人の多い社会で猫を飼うことなどできないじゃありませんか。これは、あくまでも私がカンボジアに滞在した当時の話ですが。
以上のような話を書くと、「だったら猫を飼わなければいいじゃないか」という方もいらっしゃることでしょう。しかし、カンボジアには猫がいて、飼い主がいなければ害獣として殺される可能性が高いわけです。そうなると、猫を飼うことは、猫が殺される可能性を低くすることになり、とりあえず飼っている猫の命を保護することにつながります。
■「飼わなきゃいい」ってもんでもない
「飼わなければいいじゃないか」ということになると、猫は害獣となって人に被害をあたえるかもしれないし、害獣である猫は殺されつづけ、極端なことをいえばカンボジアに猫がいなくなってしまうかもしれません。いなくなったら、飼いたくたって飼えなくなります。
カンボジアで誰かが猫を飼いはじめる理由の多くは、ネズミ避けという「家畜」的な意味と、単純に「かわいい」という意味があります。「家畜」的な意味では、一家に一匹(もしくは数匹)いれば事が足りるので、子猫が産まれたら処分するのは彼らにとって合理的な話です。他方、「かわいい」という意味では、産まれた子猫を処分するのは心情的にはきついことだと思います。とはいえ、獣医はいなくて去勢はできず、かといって産まれた猫にあげる餌が確保できそうになければ、「捨てるか、殺すか」という選択肢しかありえません。
そして、カンボジアで子猫を捨てた場合、ほかの獣に喰われてしまう可能性が高いことから、「捨てる」は「殺す」とほぼ同義になります。もちろん、「捨てる」にしろ「殺す」にしろ、かわいがっている猫の子どもを処分するのですから、飼い主は忸怩(じくじ)たる思いを持つと同時に、子猫には申し訳ないと思っていることでしょう。それでも、そうしなければ猫を飼いつづけることができないのですから、仕方ありません。
■ポイントは、飼い主の一人ひとりが猫とどう向きあうのか
ここまで考えたうえで、坂東さんのエッセイを読み直してみます。すると、坂東さんと猫の関係と、カンボジアの飼い主と猫の関係とが、形式的には同じことに気づきます。ここでいう「形式的」とは、坂東さんはエッセイで「子猫殺し」に関する心情を吐露しているのに対し、カンボジアの飼い主の心情はわからないけれど、人と猫の関わり方が似ているということです。
これは私の推測ですが、獣医がそれほどいなくて、猫を去勢して飼うという発想自体がない社会は、世界のなかにたくさんあるだろうし、そういう社会ではやむなく子猫殺しをしている飼い主がたくさんいるのではありませんか。私には、そういう人たちを責めることはできません。そういう社会に、獣医を派遣することなど私にはできませんし、「猫は去勢したうえで飼う」という啓発活動をおこなうこともできません。
さらに、そういう社会における人と猫の関わり方が、いいとか悪いとか簡単に判断できるものではないとも思います。人と猫の関わり方を決めるのは、けっきょくは飼い主という個人なのではありませんか。社会によって、人と猫の関わり方の傾向はあるかもしれませんが、いずれにしても人が一方的かつ勝手に猫との関わり方を決めていることについては、社会がどうのということではなく、基本的には飼い主一人ひとりの問題になってくると思います。
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