2009年2月11日 (水)
連載第8回 「子猫殺し」再考 (本を出す理由 その3)
『「子猫殺し」を語る』を出す理由③
■人に猫の気持ちはわからない
ここで私の猫の話に戻します。そもそも、去勢手術をしたことだけでなく、部屋で飼っている時点で、本来は獣である猫の自由をうばっているんですよね。部屋にいたら、いろんな場所を歩きまわることができないし、ほかの猫と関わることもできません。本来、獣としての猫は、広い野山でネズミや鳥などを捕まえ、もてあそび、食し、くわえて異性と交尾する本能をもっていることでしょう。
そして、ここでふたたび、私が飼い猫を去勢した理由を記します。第一に猫のつらそうな姿を見るのがいやだったこと、第二に近所のクレームを避けるため、第三に経済的な余裕がないこと、第四に去勢しないで産まれた子猫を殺すという発想がなかったこと。
すべて私の都合で決めたことあり、猫にとってはいい迷惑なのではないか。ふと、そう思いました。「猫は愛玩動物なのだから、それは仕方のないこと」と思う方がいるかもしれませんが、猫が「愛玩動物」だというのも、人が勝手に決めたことです。「愛玩動物」だと位置づけられたことを、猫が喜んでいるのか悲しんでいるのかなんて、誰にもわかりませんよね。
■猫に対して「申し訳ない」と思えるか
坂東さんのエッセイを読んだあとで、去勢したことだけでなく、飼っている時点で、飼い猫に対して、とても申し訳ないことをしているのではないか、と私は思いました。そして、申し訳ないけれど、猫がいると癒されるし、さみしさがまぎれたりするし、観察しているとおもしろいし、何といってもかわいいので飼いつづけていました。離婚してからは、二匹とも元妻の家にいってしまいましたが。
ここまで考えてみると、坂東さんがエッセイで私たちに問いかけたかったことのひとつは、人が猫を飼うときに持つべき、猫に対する「申し訳ない」という気持ちが、いま、あまりにも欠けているのではないか、ということのように私には思えてきました。その「申し訳ない」という猫に対する気持ちを、家で飼っている時点で、去勢した時点で、子猫を殺す時点で、それぞれ持ちながら生きていく。人が猫と生きていくということは、そういうことなのではないか。
■去勢も「あり」、子猫殺しも「あり」
人と猫が共存する道のひとつとして、「子猫殺し」が思いつかなかった、と私は書きました。思いつかなかったことを、いきなり目前に提示されると、抵抗を感じるとともに、驚きます。それは、どんな問題でも一緒なのではありませんか。あのエッセイをはじめて読んだときには、私も抵抗と驚きを感じました。
しかし、すこし立ち止まって考えてみると、カンボジアでの猫の飼い方とその光景が、脳裏によみがえってきました。そういえば、彼らも子猫を殺していたな、と。そして、形式的には同じことを、坂東さんもやっているだけのことではないか、とも思いました。もちろん、カンボジアの飼い主も坂東さんも、おそらく「申し訳ない」と思いながら子猫を殺しているのでしょう。
以上のような思考を経て、私自身は産まれた子猫を殺す気にはなれないし、猫を去勢するのは苦渋の選択として「あり」だと思うものの、坂東さんの「子猫殺し」も「あり」なのではないか、と考えるにいたりました。たいせつなポイントは、いくら飼い主がよかれと思って猫にやっていることも、猫にとっては不幸なのかもしれないのだから、猫との日常の暮らしを楽しみながらも、どこかで「申し訳ない」という気持ちを飼い主が抱くのがよいのではないか、ということだと思います。
■騒ぐほどのことでもないのに、なぜ騒がれたのか
いってしまえば、坂東さんの「子猫殺し」エッセイについては、騒ぐほどのことではない、というのが私の見立てです。そうなると、エッセイが発表されてからの一カ月間、なぜあれだけ加熱して騒がれたのかが気になります。このなぞを解くことが、『「子猫殺し」を語る』を刊行するふたつめの理由です。
「『「子猫殺し」を語る』を出す理由」の最終回は、そのことについて考えてみようと思います。
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