双風亭日乗

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2009年2月20日 (金)

カンボジア――虐殺の罪と大国のエゴの罪

1975年4月から79年1月までカンボジアを支配し、百数十万人の国民を死亡させたポル・ポト政権。政権崩壊から30年後の2008年2月17日に、同政権幹部の罪を問う特別法廷が開廷しました。一応、いくつかの大学で「カンボジア社会史」みたいなことを教えているカンボジア専門家もどきとして、この件に関してコメントさせていただきます。

同政権の幹部らの罪を問うことは、暗黒の歴史を忘れたことにしないためにも、必要なことだと思います。しかし、単純な疑問がひとつあります。それは、なぜ政権崩壊から30年も経過しないと、法廷を開けないのか、という点です。

私見を述べれば、大国のご都合主義が原因で、法廷を開けなかったんだと思います。ごく簡単に、その理由を記します。

まず、ポト政権そのものに関しては、政権発足前から1997年のポト派崩壊まで、ずっと中国がバックアップしていました。そして、ポト政権崩壊後の1982年、ポト派はシアヌーク派(フランスが支持)やロン・ノル派(アメリカが支持)とともに民主カンプチア連合政府(三派連合)をつくりました。

一方、ポト政権を崩壊に導き、その後のカンボジアを実行支配したヘン・サムリン政権は、ポト政権から離脱した幹部や兵士によって結成されたものです。同政権をバックアップしたのは、ベトナムと旧ソ連でした。

おどろくことに、79年から82年まで国連が議席を与えたのは、国を追い出された民主カンプチア政府(ポト派)であり、82年から91年のあいだは三派連合だったのです。つまり、ポト派の幹部らは、虐殺の責任を問われることもなく、国連議席を与えられた亡命政権として、大国から支援されつつ、ぬくぬくと生き延びていたわけです。

ここで75年以降、カンボジアに関わった大国を確認しておくと、中国、フランス、アメリカ、旧ソ連ということになります。

冷戦の真っ直中であった79年という時期に、ポト派をけちらしてカンボジアを実効支配したヘン・サムリン政権は、ベトナムやラオスとともに東南アジアの親ソ連の政権として、西側諸国から警戒されていました。東南アジアにおける共産圏の拡大をおそれるアメリカを中心とする西側諸国は、共産政権でありながら反ソ連であった中国と、三派連合を支援するというかたちで手を組みました。

そして、89年に冷戦が終結し、91年にソ連が崩壊すると、カンボジア和平の動きが一気に進み、92年には国連監視の下で民主選挙が実施され、立憲君主制のカンボジア王国が誕生しました。

ポト政権の悪夢があり、その後は三派連合とヘン・サムリン政権との内戦で悩まされたのですから、カンボジアで暮らす人々は国がひとつにまとまることを望んでいたと思います。でも、以上のような大国のご都合主義など、ずっとカンボジア国内にいた人には、情報不足で把握できません。

ようするに、カンボジアで暮らす人たちにしてみれば、わけがわからないうちに、政権が変わったり、内戦がはじまったり、和平が成立しているわけです。

ポト政権の幹部に虐殺の責任を問うことは必要ですが、それと同時に、ご都合主義でカンボジアをいじくりまわした大国の責任も問われるべきでしょう。特別法廷の開廷が遅れたおもな原因も、以上のような大国のご都合主義にあるのですから。

どの時期に、どの国が、カンボジアのどの派閥(政権)を、どう支援していたのか。武器や物資の流れはどうなっていたのか。悪夢のはじまりであった70年発足のロン・ノル時代から92年のカンボジア王国誕生前夜にいたる、大国のエゴイズムを徹底的に検証しなければ、カンボジアの現代史は終わりません。

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