双風亭日乗

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2009年2月 9日 (月)

「あるゆる生命は無条件に価値がある」のか?

前回のエントリーに対して、以下のようなコメントをいただきました。「子猫殺し」騒動を考える際に、たいへん重要な論点がこのコメントには含まれていると思います。連載を一回やすんで、このコメントについて考えてみようと思います。

「あらゆる生命は無条件に価値がある。」
大人はこの建前を永久に護持すべきであると思います。

「あらゆる生命は無条件に価値がある」という場合、「無条件に」と言い切ってしまえるのかどうか、私には疑問です。まず、人と人以外の生き物を分けたうえで、「あらゆる生命に価値がある。けれども、人以外の生き物について、場合によっては人の都合で殺さざるをえない生命もある」とつづける。さらに、殺さざるをえない生命に対しては、できるだけ感謝したり、哀悼の念を抱いたり、申し訳ないと考えたりする。

そう考えないと、一般の人であれば、動物を殺して食べていることの理由が説明できなくなるでしょう。また、菜食主義者であっても、植物を殺して食べていることの理由が説明できなくなるのではありませんか。

小学校のとき、朝礼のたびに校長が「いのちをたいせつに」といっていました。たしかに、いのちをたいせつにすると考えるのは、いいことだと思います。しかし、問題はその先です。いのちをたいせつにするということは、生き物を殺してはいけないという意味でなく、人が生きるためにやむなく殺さざるをえないいのちもあることを認識すること。さらに、そういういのちに対しては申し訳ないと思い、感謝するということが、「いのちをたいせつに」するということにつながる。

ですから、「あらゆる生命は無条件に価値がある」というのもいいけれど、その前に、人が生きるために殺している、人以外の生き物のいのちについて、ひとつずつ検証していくことにより、いのちを殺して人が生きていることを自覚することが重要だと私は思います。

私たちが日常的に食べている牛肉や豚肉、鶏肉、そして馬肉といった肉類は、生きている動物がどのような過程を経たうえで、食卓にならんでいるのか。私たちが化粧品や薬を使える影には、多くの実験動物の犠牲があるということ。犬や猫といった愛玩動物でも、見かけがかわいいアザラシでも、人に危害をあたえたりあたえる可能性があれば、害獣として処分せざるをえないという現実。

そういったことを、子どもたちに隠すのではなく、認識してもらうことがおとなの役目なのではありませんか。朝礼で「いのちをたいせつに」といっていた校長は、その先にある問題を説明したり解説したり、してくれませんでした。

「あらゆる生命は無条件に価値がある」とか「いのちをたいせつに」と大風呂敷を広げても、べつにいいんですよ。そのへんは、宗教や価値観を含めた、個々人の趣味の問題だと思いますので。私自身は、大風呂敷を広げるまえに、日々、人以外の生き物が殺されている、また殺さざるをえない現実を見すえ、なぜ殺さざるをえないのかを考え、人が生きるために殺されている生き物に対しては、申し訳なく思い、感謝することがたいせつだと思います。

この話を「子猫殺し」騒動と関連して考えてみましょう。私たちは日常的に、牛や豚、鶏といった動物を殺し、その肉を食べている。そんな状況のなかで、子猫を殺したと告白した坂東さんに対して、罵詈雑言があびせられました。しかし、坂東さんに罵詈雑言をあびせた人たちが、罵詈雑言をあびせるまえに立ち止まり、考えたほうがよかったことがふたつあったと思います。

第一に、自分らは牛や豚は殺しても騒がず、子猫を殺すと騒ぎたくなる理由は何なのか。第二に、牛や豚は殺してもよくて、子猫は殺してはいけない理由は、いったい何なのか。このふたつです。

坂東さんに対して「死ね」とか「馬鹿」とかいう前に、この二点についてじっくりと考え、自分の見解をブログなどで表明する人がたくさんいたら、生き物のいのちに関する議論も活発におこなわれたと思われますし、坂東さんが「子猫殺し」エッセイを書いた意味もあったかと思います。とはいえ、けっしてそうなりませんでした。

では、なぜそうならなかったのか。それが、『「子猫殺し」を語る』の主要なテーマのひとつとなっています。

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