2009年2月 3日 (火)
連載第2回 「子猫殺し」再考 (目次の公開)
連載の第2回は、目次の公開です。私が『「子猫殺し」を語る』を出す理由についても、ちらっと触れておきます。
目次をごらんになると、全体の流れがわかると思います。第一部は、坂東さんが日経新聞夕刊に2006年7月から12月まで連載したエッセイの全文です。第二部は、東琢磨さんと小林照幸さん、そして佐藤優さんのそれぞれと坂東さんがおこなった、「子猫殺し」騒動に関する徹底討論を掲載しました。どの対談も、「子猫殺し」騒動の枠を超え、日本社会の現状を分析・検討する内容となっています。手前味噌ですが、おもしろいですよ~!
■「子猫殺し」は、連載エッセイの文脈のなかで読み込んでほしい
「子猫殺し」騒動の当時は、「子猫殺し」というエッセイのみを対象にして騒がれました。しかし、連載エッセイ(全24回)は、当時、暮らしていたタヒチ(フランス領ポリネシア)での見聞をもとに、坂東さんが生き物や自然と人との関係や、外国に住む日本人から見た日本の姿をテーマにして書いたものです。そして、その一部が「子猫殺し」なのでした。
ですから、連載エッセイの全体に流れる文脈のなかに、「子猫殺し」も位置づけていただくことが重要だと強く考えています。人と人以外の生き物との関係は、国や地域、そして宗教などによって、微妙に異なるものだと思います。そして、坂東さんは「子猫殺し」にも、タヒチでの出来事であることは明記していました。にもかかわらず、日本のペット事情を基準にして、坂東さんを批判・糾弾している人が多かったのが、私には気にかかりました。
いったことがない場所であれば、想像がおよばないのは仕方がありません。でも、想像がおよばないからといって、日本の基準や自分の基準を、何の検討もせずに絶対視するのも、どうかと思います。私がこの本を出す理由は、後日お知らせしますが、ここで簡単に触れておきます。
■坂東さんが排除された論理
基本的に私は、坂東さんが子猫を殺したことの良し悪しよりも、坂東さんを排除したり糾弾したりした人たちの振るまい方に関心があります。自分が知っていることや自分の思考、すなわち自分の価値観が、絶対に正しいと思っている人が驚くほどたくさんいる。そして、その人たちは、自分の価値観と異なる価値観を持ち、かつ気にいらない人があらわれると、その人を徹底的に排除し、糾弾する。それも、自分の価値観がまちがっているのかどうかを考えず、その異なる価値観が認めうるものなのかどうかを検討しない(もちろん、坂東さんを批判したすべての人が、そうだったとは言いません)。
つまり、みずからは思考を停止したうえで、気に入らない価値観を徹底的に叩きつぶす。私には、「子猫殺し」騒動という現象が、そういうふうに見えました。これって、かぎりなくファシズムに近い現象なのではないか、とも思いました。
糾弾の対象が坂東さんの一点に集中していれば、糾弾した人はとりあえず自分は糾弾されません。安全地帯にいるという安心感もある。でも、その糾弾した人は、自分が坂東さんの立場になりうるということを、考えないんでしょうか。叩かれるきっかけなんて、そこらに転がっているのですから。もし、そのように自分が一点集中で叩かれ、排除される可能性があるのだとすれば、人を叩くときにも慎重にならざるをえないのではありませんか。
■本来、人は暴力的に他人を排除したがる。しかし……
これは、学校や会社などで横行する「いじめ」と似ている話です。私は、人には、誰であれ、他人を暴力的に排除したくなる欲求があることを否定しません。そういう欲求がない、とか言い切るのは偽善だと思います。だからこそ、そういう欲求のスイッチが入りそうになったときには、気をつける必要があるのではないか、と考えています。「子猫殺し」騒動のときには、そのスイッチがたくさんの人に入りまくっていたように思えました。まるで、ネットを媒介して、感染していくように、多くの人にスイッチが入っていった。
あと、人を叩き、排除し、糾弾することは簡単なことです。とはいえ、後日、その叩いたり排除したり糾弾した理由が、じつは自分も認めうるようなものであるとわかった場合、あとになって恥をかくのは叩いた自分になってしまう。そういうことを考えれば、安易に人を叩くようなことはできないのではありませんか。ちなみに、ここでいう「認めうる」という言葉は、合意したり同意したりすることではなく、自分とは価値観が違うけれど、「そういう考え方もあるのかもしれない」と認めることを意味します。
『「子猫殺し」を語る』の第二部では、坂東さんが排除された論理について、徹底的に検討されることになります。
長くなりました。以下は目次です。
『「子猫殺し」を語る』
<目 次>
まえがき … 双風舎編集部
第一部 生き物の生と死を考える
生と死の実感
肉と獣の距離
付喪神のいる島
名前はまだない
「畏まりました」の背景
感情抑制の負の遺産
言霊の生きる国
オッカケの青春
「いいたいこと」はありますか?
元始より女は働いていた
文字の呪力
依代としての書物
でこぼこ
南の国の竹の子
魚市場の女呪術師
リアルになる、ということ
壊れたら、買い換える?
失われた「一線」
鬼は内、福は何処?
天の邪鬼タマ
充ちる時と待つ時
風の明暗をたどる(山頭火)
緑を愉しむ力
子猫殺し
第二部 「子猫殺し」を語る
第一章 管理できないものは愛されない (東 琢磨×坂東眞砂子)
誰に向けてこの本を発信するのか
東琢磨は「子猫殺し」論争をどう見たのか
ネットの暴力性
子猫殺しの真相
善と悪がはっきりしている
死と死者を考える
「子猫殺し」と広島平和運動
「不快なものはだめ」でいいのか
正義とは何か
「みんな」って誰のこと?
日本社会という大きな世間
隠蔽される本質
生き物を喰らうということ
管理できないものは愛されない
ほんとに「いいこと」をしているのか
自分が関わった生き物には責任を持つ
坂東眞砂子から東琢磨への質問
第二章 生き物の命と向きあうために (小林照幸×坂東眞砂子)
知られざる実態
「子猫殺し」に対する「文壇・知識人」の反応
「子猫殺し」論争を小林照幸はどう見たのか
生き物に対する責任
ペットとは何か
動物愛護センター
食育のたいせつさ
不快なものを隠す社会
絶壁犬のこと
犬猫を食べる街
動物愛護管理法は必要なのか
高知の闘犬は動物虐待?
身近な命である犬や猫
坂東眞砂子から小林照幸への質問
どうやって子どもに食育を進めていくか
動物を愛護する人たち
生き物は平等なのか
ペットフードの原料を知ってますか?
「猫を飼わなければいい」という紋切り型
生き物をめぐる問題はつながっている
第三章 「子猫殺し」バッシングはファシズムである (佐藤 優×坂東眞砂子)
「子猫殺し」がバッシングされた理由
限界状態でペットとどう向きあえるか
愚かなことをする権利を認めあう
坂東作品の核は「魂」と「暴力への嫌悪」
人と猫がうまく共存する社会
東京拘置所の猫
簡単にあやまってしまうことに対する抵抗
猫と資本主義
「子猫殺し」の騒ぎをファシズム論として考える
「順応の気構え」がバッシングを生んだ
操作される感動
想像する力が衰えてきている
人間の力では超えられない何かがある
地域社会と民主主義
健全や社会とは
わかりあえる人間のネットワーク
感情的な言葉が出まわっている
坂東眞砂子から佐藤優への質問
人間は他者を殺すことができる存在
物事を超越的な立場から見ることの重要性
人類とは平和を語りえない人たちの集まり
バッシングされる側の皮膚感覚
賛否両論の弊害
あとがき … 坂東眞砂子
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