2009年3月26日 (木)
勝ち負けのこと、差別のこと
昨日のエントリーでいただいたコメントに応答します。
まずは、渋井哲也さん(ですよね!?)のコメントから。
こうした議論の場合は、なにをもって「勝ち」「負け」とするんでしょうか。その場の論理性だけをもって「勝ち」「負け」とするのなら、勉強している人や論理性がある人が「勝ち」になってしまいます。
仮に「勝ち」だとして、それが自分の考えを見直すことや、相手がなぜ主張するのかを考える動機につながるのかな?あるいは、日常の行動を見直したり、考える動機になったりするんでしょうか?
不快で感情的な反発だけならば、これまでの考えを余計に強化してしまうだけになってしまうかもしれません。議論するというよりは、主張しあうだけになってしまいます。
赤木さんが書いた「勝ち」の意味は、私もわかりませんでした。もし「勝ち」の意味が、「とどめをさす」とか「論破する」ということなら、それはちょっと違うと思いますし、私はそういうことを目指してはいません。
ただ、結論がすぐに見いだせない問題については、あなたと私は考えが違う。違うけれども、お互い主張を述べ合うことに意味があることに同意することができれば、その後の発展があるかもしれません。
そのとおりです。渋井さんが書かれたことについては、拙ブログで何度も同じ主旨のことを書いていますが、何度書いても、そうなりそうな気配が感じられません。「お前とは違う」→「そして自分のほうが正しい」→「だから、議論する必要なし」(または「相手の主張など聞かず、自分の主張だけを述べる」)という図式が、とりわけ「子猫殺し」騒動に関しては大多数を占めています。
つづいて、macskaさんの以下のコメントに応答します。
こんにちはです。
谷川さんは「日本で部落差別や在日差別などがなかなか解決しなかった」と書いていますが、赤木さんは「それらの差別はほとんど解決しており、被差別部落出身者や在日コリアン(や女性)は今や特権者である」という認識だったのではないですか。かれはそのあたり認識をあらためたのでしょうか。かれの最近の主張をよく知らないので、もし認識をあらためたということでしたらわたしもかれに対する認識をあらためなくてはいけないのですが。
それとも、もしかすると「なかなか解決しなかった」のは過去の話であり、現在では既にほぼ解決されている(つまり、部落差別や在日差別などほとんどないに等しい)、という意味で、谷川さんも赤木さんと同じ考えなのでしょうか?
確認したところ、深夜のシマネコBlogの「格差社会を容認する類の弱者が望むもの」というエントリーで、赤木さんは「もはや差別などほとんど無きに等しいのに今だに非差別者としての特権のみを得ている、女性や在日や部落。」と確かに書いていますね。
私は、この件については、赤木さんと見解が異なります。部落差別も、在日差別も、女性差別も、部分的には解消されつつあるものの、いまだ全面的に解消されたとはいえないでしょう。差別される側の人たちとタッグを組んできた左翼やサヨクの陣営が凋落したため、問題が解決していないのに、不可視化されているような気もします。
私自身、養護施設にいたときには、心のない奴らに「親なし」と差別されました。また、社会に出てからは、親キョウダイがいない(=保証人がいない)ということで、いまだに不動産屋などから差別され、保証人協会などという救済組織にカネを払わないと、部屋も借りることができません。
なにかしらの差別をうけたことがない人に、差別される側の気分をわかってくれといっても、むなしい結果に終わることが多い、という経験を何度もしました。まあ、わかるのはむずかしいと思うので、想像してもらうしかないのですが。それでも、差別は許せないと思っています。
一方、そのむなしさゆえに、「人って基本的に差別するのが好きなんだな」という感覚が、中学生くらいのときから芽生えてきました。なにかしらのレッテルが貼られる(または貼る)と差別する。人は、そのレッテルが貼られること(貼ること)を、虎視眈々と狙っている。そして、貼られた(貼った)瞬間、ものすごいパワーをつかって、レッテルに対する不快さを解消するために感情的な反発をおこなう。
レッテルは、何でもいいんですよ(笑)。そこがポイントです。
多くの差別問題って、タマネギの皮をむくように、皮をむいてみれば中身がなかった的なものですよね。つまり、まともな根拠や理由がないのに、勝手に何かをイメージしたうえで差別する。それで、差別する側の言い分は、「不快」だとか「気持ち悪い」という感情的かつ抽象的なものが多い。
中身がない(差別される根拠がない。差別される理由がない)のに差別したり反発したりすれば、もともと差別や反発をするような論点がないわけですから、差別する側や反発する側がみずからの立場を保持したり、プライドを維持するためには、開き直るしかなくなります。こうした「開き直りの論理」ともいうべきものが、私はファシズムの萌芽だと思うわけです。
このように書いてみると、差別する人たちの特徴と「子猫殺し」騒動で坂東さんに(感情的に)反発した人たちの特徴が、とてもよく似ていることに気づきます。だからこそ、坂東さんが展開した猫の話が、とりたてて騒ぐようなものではないと考えている私にとって、「不買運動」だとか「崖から突き落とす」などという人たちは、一時の感情的な反発でコミュをつくり、そこに集ったようにしか見えません。
もしかしたら、そういう人たちは「騒ぐような問題だ」と思っているのかもしれません。とはいえ、実際にはもう騒いでいないのだから、不買だ何だという一時の感情的な反発ではじめたことは、そろそろお開きにしてもいいんじゃないんですか、という話を、コミュの管理人さんとしたかったんですよね、私は。
いずれにせよ、女性や部落、そして在日に対する差別の問題について、いまはどう考えているのかを、赤木さんに聞いてみたいものです。上記のエントリーは2年半前のものなので。
※写真は、本文とぜんぜん関係のない浅草の裏通りです(笑)
| コメント (3)
| トラックバック (0) |
コメント
とりあえず、差別の問題は書くと長くなるので、先に「勝ち負け」の方だけ。
というか、私は「勝ち」としか書いてないので、勝ちの方だけですが。
コメントで書いた「勝ち」とは、あの不買運動が現状ではなんら運動としての価値を持たず、単なる嫌がらせに成り下がっているに過ぎないという谷川さんの指摘通りになることを、不買運動コミュ側が自ら露呈させてしまうことです。
しかし、その後すぐに「空しい」と書いているように、「勝ち」に対して、私はなんら価値を認めていません。
この問題が単純に勝ち負けの話になることなく、不買コミュの方からちゃんとした意見が出てきれくれればいいなと思うし、谷川さんも単純に不買コミュが無くなればいいという話ではなく、そこまで考えてやっているのでしょ? というのが、あのコメントの意味です。
投稿: 赤木智弘 | 2009/03/26 10:45:35
赤木さん、説明してくれてありがとう。
「勝ち」の意味を理解しました。
たしかに、ちゃんとした意見が出ることを期待して、管理人さんに連絡をしました。しかし、エントリーに引用したとおり、あのコミュは「バナー用途」なのだそうですから、ちゃんとした意見が出てくる可能性は低いと、いまは考えています。
そんなわけで、ミクシーに対して「特定電気通信役務提供者の損害賠償責任の制限及び発信者情報の開示に関する法律」に基づく手続きをおこなうかどうか、坂東さんと相談しようと思っているところです。
投稿: lelele | 2009/03/26 11:00:17
>渋井哲也さん(ですよね!?)
はい、そうです。
私も「勝ち」の意味がわかりました。
それにしても、発信者情報開示請求ですか。ミクシーの対応次第では面倒ですけどね。
投稿: 渋井 | 2009/03/26 12:05:36