2009年3月18日 (水)
内澤旬子さんによる『「子猫殺し」を語る』評
昨日、「週刊現代」の「リレー読書日記」に『「子猫殺し」を語る』が紹介されたことをお知らせしました。以下、内澤さんの許可を得たうえで、同日記のなかの『「子猫殺し」を語る』に関する記述を転載いたします。
「子猫殺し」が提起した問題の根本にある「人間のエゴ」や身勝手を考え直させる本の深み
忘れられない事件がある。今から三年前、ちょうど拙著『世界屠畜紀行』の原稿をまとめていた時のこと。作家の坂東眞砂子が生まれたばかりの子猫を殺していると、日本経済新聞のコラムに書いて大騒動となった。ネットにも雑誌にも嫌悪感だけを募らせた批判が相次ぎ、まるで魔女狩りか、集団ヒステリーのような状態になった。
供給過剰とならざるをえなかった愛玩動物を殺処分することは、日本全国津々浦々の地方自治体で行われていることだが、多くの人はその現実を直視することを嫌う。愛玩動物と食肉動物の差こそあれ、屠畜場で行われていることも基本的には動物を殺すことに変わりはないので、自分が本を出しても誰も読みたがらないのでは、と怯えた。
『「子猫殺し」を語る 生き物の生と死を 幻想から現実へ』(坂東眞砂子著・双風舎、1785円)は、坂東眞砂子が当時日本経済新聞に掲載していたエッセイの初回から最終回までの24本と、東琢磨、小林照幸、佐藤優の三人と騒動について話した対談を収録したもの。三人との対話の最後にかならず筆者は問う。「人間が獣の幸せを確定することができるのか、人が他者を殺すことの意味はなにか」と。
著者がエッセイで問いたかったことはまさにこれに尽きる。獣の幸せとは何かなんてだれも決められる訳がない。それを承知の上で、著者はあえて生殖行為を獣から取り上げないことを選んだ。その結果、生まれた子猫を自らの手で始末せざるをえなかった。多くの人が採用する選択肢ではないだろう。私も同じ立場であったら去勢もしくは避妊を選択すると思う。しかしだからといって著者の選択を安易に非難できるだろうか。
愛玩と使役は同義
結局のところ動物を愛玩することも、動物を使役することのバリエーションのひとつにすぎない。現代の人間は、望む望まないに関係なく、意識するしないにも関係なく、ほとんどの動物の生殺を管理する責任を担わされている。保護するにせよ食べるにせよ、無駄に殺すにせよ増やすにせよ、愛玩するにせよ。
その現実を直視した上での議論や騒ぎであったらどんなに興味深かったことだろう。
当時ネット上にヒステリックな書き込みをした人たちは、今やもう書き込んだことすら覚えていないのではないか。
(「週刊現代」2009年3月28日号、126ページ)
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