2009年4月14日 (火)
酒井順子さんによる『「子猫殺し」を語る』評
エッセイストの酒井順子さんが、「週刊文春」2009年04月9日号の「私の読書日記」で、弊社刊『「子猫殺し」を語る』について言及していることを知りました。拙ブログにコメントしていただいた方、そして2ちゃんねるのみなさん、ご教示いただきありがとうございました!
坂東さんの本を出したのは、まさに酒井さんが書かれていますが、「自然の中で、人間がいかに不自然かつ傲慢な存在であるか、考えるきっかけに」なればと思ってのこと。「子猫殺し」と「避妊・去勢」のどっちがいいかという議論に固執したり、坂東さんが不快だから叩くような振る舞いは、まったく的はずれなわけです。何度もいっているとおり。
というわけで、酒井さんが「私の読書日記」で『「子猫殺し」を語る』について言及した部分を、同誌同号より引用します。
×月×日
身体の所有と、生命の所有。『「子猫殺し」を語る』(坂東眞砂子 双風舎 1700円+税)を読みながら、再びそれらの感覚が揺らぐような気持ちになってくる。
二〇〇六年、日経新聞に「子猫殺し」と題された坂東さんのエッセイが載った時、坂東さんは特にネット上において、ずいぶん叩かれた。生まれたばかりの子猫を殺した(実際には「捨てた」のだが)と告白する坂東さんは、どれほどバッシングしても構わない相手として、世間から認識されたのである。
「子猫殺し」は、日経新聞夕刊に坂東さんが二十四回書かれたエッセイのうちの、一本である。本書には生をテーマとして書かれたその二十四回分が全て掲載されており、まずはその全てを読むことによって、坂東さんがいかに生および死を真摯に考えているかが、理解できる。それは、タヒチという地に移り住み、人間が生きていくことの根源を見つめなおしたからこそ生まれた、価値観であろう。
ここで坂東さんは、人間にとっての生と幸福ばかりでなく、獣にとっての生と幸福を考える。「獣の雌にとっての『生』とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか」と。そして坂東さんは、飼い猫に避妊手術をしないという選択をするのである。
子種を殺すか、住まれてすぐの子猫を殺すか、そのどちらが正しいのか、正直に言って私にはわからない。が、私はそれまで、猫にとっての「生」とは何かという問題を、真剣に考えたことはなかった。猫は人間に所有されていて、だからこそ人間が猫に避妊手術をするのは当然のことだ、と思っていたのである。
いかなる生物も、他の生物に所有などされたくはなかろう。猫は、毛がはえていて愛らしいが故に人間に所有され、避妊手術をされる。対して、ゴキブリやゲジゲジのように可愛くない生物や、蚊や蝿のように小さな生物は、誰がどう殺しても問題にはならないのである。
害獣、益獣、ペットなどという分類は、人間の都合から来るものである。自然の中で、人間がいかに不自然かつ傲慢な存在であるか、考えるきっかけになるこの本。その不自然さと傲慢さを自覚するだけの謙虚さは、持っているべきだろう。
そして人間の死に関しても、「おくりびと」に任せてしまえば安心、というこの世。生きることと死ぬことから、いかに私達が目を逸らせようとしているかも、思い知らされる。
(「週刊文春」2009年4月9日号、126-127ページ)
「子猫殺し」再考 | コメント (2) | トラックバック (0) |
コメント
さすが酒井順子、事の本質を正確に捉えていますね。
「ネット」という「媒体」というか「空間」というかに関しての私見は、あまりに急速に拡大発展したがために、我々は未だにその「媒体」「空間」を適切に語り得る思想・言語・経験を持っていないのではないか、という疑念・懐疑です。
バッシングやブログ炎上などと騒がれるたびに、テーマに対する賛否が一見激烈な表現となって表出するが、舞台となっている「ネット」なるものの本質を語る思想・言語・共通の経験がないと言うことをもっと問題にすべきではないかと思う次第です。
IT・PCなどと言うと、その使い方・商売の仕方・儲け方などツールとしての実用書は幾らも目につきますが、「ネット」と言う閉じられているのか、開かれているのかさえ判然としない不可思議な「領域」に関する本質論が必要なのではないだろうか。
小生などには手に余る問題ですが、所謂「社会学」を専門・研究している方々にはもう少し真剣に捉え直して欲しいと思うわけです。寡聞にして、小生が知らないだけで、既に優れた論文なり書籍になっているとしたら、ゴメンなさいですが。
投稿: 八波むとし | 2009/04/15 8:17:03
真摯…
酒井さんがなぜわざわざ「捨てる」と言い換えられのかの意図が測りかねます。
坂東さんが批判後に、崖ではなく高低差のある場所くらいの意味合いだとおっしゃっていましたが(この言い換えの意図もよくわかりません)
投げ捨てられた動物が死ぬか生きるかといえば、坂東さんが
お書きになっているように腐敗しても迷惑にはならないと
あるように、はっきりと坂東さんは「殺す」気で投げ捨てているのだと読み取りましたが。酒井さんはなぜ「実際は」と注釈をくわえたのでしょうか。
毎回自分を殺しているほどの感覚は本当なら地獄のような苦しみと思いますが、なぜ繰り返し行なうのかも坂東さんの文章からは
わかりません。涙を呑んで始末したという紋切り型の表現からも
殺される犬の痛みはあまり感じないように思います。
私の感性優先で動物を好きにしている、それがナニ?あんたらも
同じじゃないのという批判をしたいのならば、もう少し書き方も
あったのではないでしょうか。
批判する側だけがおかしい人間で、坂東さん、擁護する方は
まったくの正常人なのでしょうか。
投稿: 謎ですね | 2009/04/16 12:43:46