双風亭日乗

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2009年5月 2日 (土)

残虐とは

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桐野夏生さんの『残虐記』(新潮文庫)を読みました。主人公は、10歳のときに1年にわたって、ある男性に監禁された経験を持つ女性の小説家です。この主人公が失踪したところから、物語は始まります。

小説の冒頭とおわりに、主人公の夫が編集者に書いた手紙が配置され、手紙にはさまれるかたちで、主人公が書きのこした「残虐記」という小説が配置されています。あまり見たことのない構成で、新鮮に感じました。

ある男が小学生だった主人公を監禁したこと自体が、たしかに残虐といえば残虐な話です。しかし、私はこの本を読んでいて、監禁から救出された主人公をとりまく地域の住民や警察、検察、教師、友人らの振る舞いの残虐さが、強く印象に残りました。

桐野さんは作中で、主人公に「与えられた傷が深ければ深いほど、善意と同情でさえも更に傷を抉る」と語らせていますが、まったくそのとおりだと思いました(『残虐記』、127ページ)。

主人公が指摘するような目線は、犯罪被害者やその家族だけでなく、「貧しい」とか「かわいそう」などと思われている人々(国内、国外を問わず)に、しばしば向けられます。この目線には、けっして悪気がないのかもしれませんが、目線を受けとる側からすれば、その目線は好奇と悪意のレーザービームと感じられることが多々あると思います。


何らかの窮状を抱えた人に対し、親身になって同情している人もいるのかもしれません。とはいえ、多くの人は、ワイドショーを現場で見ているような感覚で、「たいへんだねぇ」なんてつぶやきながら、窮状を抱えた人を見物しているだけなんじゃないのかなぁ。

大規模災害など、被害を受けた人の人数が多い場合は、その目線が拡散するので、それほど気にならないのかもれません。ところが、個別の事件や事故などで、被害者が簡単に特定できてしまう場合になると、その目線はより強烈なものになるような気がします。

いつかのブログに書いたかもしれませんが、私は私生児で、育ててくれた母は小学四年のときに亡くなりました。当時、私たちふたりは、各階に3つずつ部屋がある2階建てのアパートで暮らしてました。1階の真ん中の部屋だったので、両隣にはA家とB家という世帯が入っていました。

母が亡くなるまでの1カ月は、小学校の同級生宅で寝泊まりさせてもらいました。亡くなった日にアパートへ帰り、一晩、母の亡骸と一緒に寝ました。で、翌朝になると、葬式の手伝いと称して、A家とB家の方々が「たいへんだったね」などと言いながら我が家にずかずかあがりこんできました。

彼らは、私の家にあったいくつかのタンスを開けて、「これ、いい服ね」とか「このバック、使えそうね」なんていいながら、母の私物をつぎつぎと勝手に持っていくではありませんか……。幼い私には、彼らが何をやっているのかが、その場ではよくわかりませんでした。

あとから考えてみると、彼らのやっていたことは、喪主がガキであることに乗じた、火事場泥棒ならぬ葬式泥棒だということがわかりました。白昼堂々とやるのですから、たいしたものです。まさに残虐。

母が生きていたときには、いつも笑顔であいさつをかわし、子ども同士の交流もあり、いい人だと信じていたA家とB家。その人たちが、母の死を契機にして、泥棒じみたことをやっているのを目の前で見たことにより、私の心には「おとなは信用できない」という文字列が刻印されてしまいました。

そこにいたる原因は異なりますが、『残酷記』の主人公も徹底的におとなを信用しません。また、薄っぺらい同情や善意も、徹底的に排除します。信用していない人たちから同情や善意を押しつけられても、私はありがたくなかったですね。子どもながらに、「どうせ、他人事だと思っているんでしょ」なんて思っていました。

母の死から30年以上が経過しました。自分がおとなになってみると、「信用」がどうこうというよりも、「人として」どう付き合えるかどうかという点に重きをおいて、人付き合いをするようになりました。

かといって、幼少期の体験により刻印された、「おとなは信用でき」ず、「与えられた傷が深ければ深いほど、善意と同情でさえも更に傷を抉る」という認識は、カンボジアに長期滞在した結果、ことさら深まったような気もします。

それがいいことなのか、悪いことなのか、私にはよくわかりませんが。

「かわいそう」という視線や「助ける」という行為の裏側には、相手に対する優越感とか「助けてあげている自分」を確認したいという自己満足がすくなからず付随している。いくらきれい事をならべても、その付随している部分(=残虐な部分)は、きっと相手に伝わってしまうことでしょう。

かといって、その残虐な部分は、ある意味では人間の性(さが)のようなものなので、なくそうと思ってなくせるものではありません。自分が持つ残虐性とうまく付き合っていくしかないでしょう。

それでも、自分にはそういう残虐な部分があるということを、何となく理解しているだけでも、困っていたり、たいへんな目にあった(あっている)人に対する接し方が変わってくるのでは。

『残虐記』を読んで、そんなことを思いました。

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