双風亭日乗

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2009年7月 1日 (水)

日の出

20090629044121
ふぅ~。

最近、一仕事おえて、ふと気づくと日が昇っていたりします。

で、朝のニュースを見て、軽く食事をして、寝る。

集中してやる仕事は、夜中にやるほうがはかどります。

不健康ですが。

まあ、きれいな朝日が見られるから、いっか(笑)。

小谷野敦さんが「死の絶対性」というエントリーで日記を書いていたけれど、「死者をめぐる言葉のあれこれは、生きている者の感傷に過ぎない」というのは、もっともだと思いました。さらに、小谷野さんは以下のように記します。

「近親を失っても、いつか、一日、その人のことを考えずに過ぎる日が来る、と言われるが、母が死んで一年半たった今、母が死んだことを思い出さない日はない。ほとんど生き地獄である。母の死の前と後とで、私の人生は二分されている」(http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20090628)

私は私生児で、母親が小四のときに死んだことは、このブログに何度か書いています。たしかに、母が死んでから数年は生き地獄でした。とはいえ、ある時期から母のことなど、まったく思い出さないようになり、現在にいたります。

そんな私が無情な奴なのかどうかは、他人が判断することなのでどうでもよいのですが、小谷野さんがご指摘になるのは、「近親を失っても……日が来る」という部分は人それぞれなのだから、そう思っていても他人にそれを押しつけるなっていう話のような気がします。

世の中には、自分が感じたことや思ったことは、きっと他人も感じたり思ったりしていることだと安易に考え、自分が感じたことや思ったことを他人に押しつけるひとがたくさんいます。とくに、酔っぱらいの多いバーとかに……。でも、感じることや思ったことが他人と同じであることなんて、まれでしょう。

結局、いろいろ違うけど、すこしずつ擦り寄って、合意点や同意点を見つけるしかない。違いが平行線なら、自分が許容する範囲で、違うことを認め合えばいいんじゃないのかな。こんな当たり前の話を、アホみたくつらつら書いているのは、眠気のなせる技かもしれません。とにかく、押しつけはやめてほしいっす。

「死の絶対性」といえば、藤原新也さんがブログの「ネダの死とナイラの偽証」というエントリーで、イラクで死んだネダという少女について書いています。どこの社会であれ、人の死を政治的に使いはじめたときには、すこし警戒したほうがいいのかもしれません。

靖国問題とかもそうだけど、「死の絶対性」を意識していれば、死んだ人が自分の死後に自分の扱いがどうなることを望んでいたのかなんて、遺書でもないかぎり誰にもわからないことは明白です。死んだ人を政治的に利用する人たちは、結局、利用する側の思惑を死んだ人に押しつけているように見えます。また、押しつけ……。

人は、生きている人にも死んだ人にも、押しつけることが好きなんですねぇ(笑)。

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日の出:

コメント

別の例だと、
「俺は生まれたときから家が貧乏だったがしっかり勉強して奨学金で大学まで出た。資格もちゃんと取って、失業したこともあるけど必死に就職活動して今の職を得た」
とか言う人。確かに立派ですけど、
「俺に出来たのだし俺はそれで幸せになったのだから、お前も派遣村なんぞでウダウダしてないで死ぬ気で働け!」
なんて余計なこと言い始めるパターン。これも同じですね。

もっともぼく自身も、「プレカリアートはすべからく正社員目指して努力もしくは闘争すべきだ!」とかはた迷惑なことを言ってたことがあるので、反省と自戒を込めて書いております(汗

投稿: yamazakura | 2009/07/01 19:01:44

そのとおりだと思います。

反貧困の問題も似ています。「誰もが反貧困の闘争に加わり、世の中から貧困をなくそう」などと、あまりに風呂敷を広げすぎると、「夜回り先生」みたくなってしまい、はじめっから無理なことをあたかも可能なように見せかける言説(=疑似宗教化)に化けてしまうような気がします。

浅草あたりに住んでいれば、あきらかに自己責任&自己選択で、道ばたに寝ている人がたくさんいます。自己責任とかいうと、鬼の首をとったように「ネオリベだ」などといわれるかもしれませんが、現実は現実として受けとめるのがよいと私は考えています。

投稿: lelele | 2009/07/02 0:38:56