双風亭日乗

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2009年8月21日 (金)

『Nの肖像』は本日配本です!

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お待たせしました。仲正昌樹著『Nの肖像』は、本日より書店に配本されます。

いま私の手元に、現物が届きました。今回は、カバーの用紙をいつもの「双風舎の本」と変えてみたり、本文の文字に黒以外の色をつけてみたり(写真参照)。造本を工夫してみました。

ぜひ、書店で手にとってみてくださいね!

8月30日には、新刊の刊行を記念して、ブックファースト新宿店でトークイベントをおこないます。同店で本をご購入いただければ、無料で参加できます。こちらもよろしくお願いいたします。

刊行記念と新刊の紹介ということで、以下に『Nの肖像』の「序章」の一部を転載いたします。ご一読いただければ幸いです。

序章 消せない記憶

■なぜ宗教体験を語るのか

 私はこれまで、自身が統一教会の信者であったことについて、いくつかの著書のなかですこしずつ触れてきた。東京大学(以下、東大)に入学した直後の一九八一年四月から、桜田淳子氏や山崎浩子氏が合同結婚式に参加して騒がれた九二年一〇月までの一一年半、たしかに私は信者でありつづけた。
 そうした私自身の記述の断片を読んで、いまだに私が統一教会とつながっているとブログに書いたり、統一教会のシンパだと噂する輩が絶えない。一度、何かの宗教に入ると、たとえ脱会したとしても、色がついて見えるのであろうか。私は確実に、九二年一〇月には統一教会と縁を切っているのに……。

 私は、統一教会という宗教に入り、その宗教を信じ、そしてその宗教に醒めた。これまでも、統一教会体験について振りかえり、半自伝・半評論的な文章をまとめてみたいと思ったことは幾度かあった。しかし、本業(思想史・社会哲学研究)がけっこう忙しいのと、私自身がそれほど専門的に宗教学を勉強していないこともあって、なかなか手をつけられなかった。
 むろん、自分の専門領域に属するテーマではなくても、当事者に話を聞きながら、問題を再構成し、分析するという作業をやっていいとは思うし、医療訴訟に関連した問題では、そういう仕事をした経験もある。しかし、自分自身がその「当事者」だと、なかなかやりにくい。
 別に、自分自身のことを語り、自分で分析するのが、気恥ずかしいというわけではない。自分で証言したものを、自分で分析すると、どうしてもウソくさくなってしまう。ウソくさくなると、自分でもしらけてしまって、集中して取りくめない。第三者として話を聞いてくれる聞き手が必要だ。
 ただし、聞き手さえいれば、誰でもいいというわけではない。週刊誌や反統一教会運動のパンフレットに出ているような“統一教会に対する疑惑”を前提として、ありきたりの質問をされても、うんざりするだけだ。
 べつに、いまさら統一教会を擁護するつもりなどない。また、週刊誌に出ている内容を確認するだけなら、私でなくてもいいだろう。私が統一教会を辞めたのは、(二〇〇九年七月現在)一七年も前のことであり、その後はほとんどコンタクトがない。よって、アクチュアルな状況についての情報も持っていない。
 また、教会の幹部とか幹部候補生のようなものになったことなどなく、どちらかというと始終不信仰で不平ばかりいっていた私は、落ちこぼれ信者であり、教会にとっての重大な秘密のようなことを知っているわけでもない。
 さらに、統一教会のような新興宗教に入るような人間は、失恋経験の痛手とか、受験や就職活動での失敗といった、人生の深刻な挫折体験のようなものを抱えているに違いないと決めてかかって、そういうことを聴きだそうとすると人もいるが、そういうのもうんざりである。
 そんな体験が実際にあるのなら、打ちあけてもいいが、すくなくとも私自身に関していえば、誰でも納得してくれような深い挫折体験とか人生の悩みが、統一教会に入るきっかけになったわけではない。
 統一教会は、荒唐無稽な教えを簡単に信じさせる。地獄のイメージを思いうかべさせて、教団を出ていくことができないように仕向ける。そのような、すごいマインドコントロール技術があると思いこんで、それを聞きだそうとする人もいる。
 しかし、サイコ・ホラーか近未来SFに出てきそうな、すごいマインドコントロールの技術などあるはずがない。そういう幼稚な質問をされると、本当にがっくりくる。そんなものがあれば、とっくの昔に、日本国民のほとんどが洗脳されてしまっていることだろう――自分以外のほとんどの人間は洗脳されていると信じている人も、たまにいるようだが。
 統一教会で一一年半のあいだ活動し、その後は教会とは縁を切り、現在は大学の教師として哲学・思想の研究をしている私自身の体験を語るのであれば、週刊誌かスポーツ新聞のネタのような話ではなく、現在の私が一応の専門としている社会哲学あるいは現代思想の主要なテーマに関連づけることができるような、一定の問題提起を含んだ内容にしたい。そのためには、私から、そういう内容を引きだしてくれるような――ただし、わざとらしくはない――問いかけをしてくれる聞き手が不可欠だ。

■消せない事実

 今回、私の本を何冊か編集してくれた関係で、親しくしている双風舎の谷川茂氏より、「統一教会体験についてまとまった本を書いてみませんか」という誘いを受けた。谷川氏が聞き手として、適宜質問してくれたうえで、整理して記録し、文章としてまとめてくれるという。
 彼は、人文書関係の編集者であるだけでなく、ジャーナリストとしてインタビュー取材の経験もかなりあるので、いい聞き手になってくれそうな気がした。それで今回、彼と一緒にこの企画に取りくむことになった。
 以下の文章は、形式上は私の一人語りのようになっているが、実際には、谷川氏の質問に対する私の答えを彼にまとめてもらって、正確を期すために、あとで私が最小限の手を入れたものである。語り足りなかったこと、舌足らずにおわってしまったことも、けっこうあるような気がする。とはいえ、それらの点は、今後機会があれば、あらためて語ることにしたい。
 人の記憶はあいまいだ。よって、どこまでリアルな体験が語れるか、はなはだ不安である。しかし、あいまいな記憶をたどりながら、みずからの宗教体験を振りかえることにより、「私にとっての統一教会とはいったい何なのか」を内省的に見つめることにも、多少の意味があるような気がする。
 一般に、統一教会は邪教だとか悪徳宗教だといわれる機会が多い。霊感商法で騒がれた時期があったり、数々の暴露本により教団の“実態”が伝えられたりしたからである。つまり、私は一般に好印象を持たれていない宗教団体に、一時期、入信していたということになる。
 その事実は、いまさら変えられないし、変えようとも思わない。それこそ、マインドコントロールでもやらなければ、記憶を消すことはできないのである。いずれにしても、一一年半にわたる統一教会での歴史が、私の経験の一部になっており、その経験がいまの私の思考に影響を与えていることは否定できない。
 なお、本書では、統一教会が邪教なのか、また悪徳宗教なのかという評価をおこなうつもりはない。その理由は、さまざまな原因で邪教よばわりされている統一教会であっても、信者だったからこそ“救われた”と思えるような経験が、すくなくとも私自身にはあるからだ。
 統一教会の教えを信じることによって、救われたと感じている人たちは、現在でも数多くいる。リベラリズムの教科書のような言い分になってしまうが、教会と関係のない人に迷惑をかけないかぎり、彼らの信仰も尊重されるべきである。
 かといって、統一教会を積極的に肯定するつもりもない。それは、統一教会の内部にいたからこそ、見えてしまったいやなな部分を忘れることができないからである。いまの私にとっては、統一教会はかなり不自由で、重苦しい存在である――むろん、それはあくまでも私の知っている、かつての統一教会をイメージを元にした印象だ。

 「他人に認めてもらいたい」。そういう願望は誰にでもある。
 「将来が見えない」。そんな不安に襲われる人は多い。
 「他人とうまく付きあえない」。万人が、人とのコミュニケーション能力に長けているはずがない。

 宗教とは、そういう思いを抱いた瞬間に、人の心の中に入ってくるものなのかもしれない。逆に、そうした思いを抱いた瞬間に、人は宗教を求めるものなのかもしれない。
 それでは、入信してから脱会するまでの記憶と向きあうことにしよう。

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『Nの肖像』は本日配本です!:

コメント

谷川様
 はじめまして。仲正さんの『Nの肖像』を早速読みました。
大変読みやすくて、大変興味深かったです。仲正氏が、東大の
理科1類の入学ということを初めて知りました。かなりプライベートのこと
(結婚のことなど)を包み隠さず書かれていて、好感が持てました(私も
ほぼ同年で、48歳、独身なので)。
 統一教会のことは、よく知らなかったので、コメントは出来ません。
しかし、勇気のあることだと思います。有難うございました。

投稿: ktt | 2009/08/24 1:55:40

kttさん、ご購読いただき、またコメントもいただき、ありがとうございました!

投稿: lelele | 2009/08/24 2:43:25