双風亭日乗

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2009年9月16日 (水)

この人は、何でも知っているのだろうか?

三省堂書店のブログに書評コーナーがあるのを知りました。評するのは、「神保町の匠」と称する方々だそうです。

仲正さんの『Nの肖像』も取りあげられていました。内容は以下です。とりあえず、読んでみていただけますか、みなさん。

http://www.books-sanseido.co.jp/blog/takumi/2009/09/post-132.html

一読した感想は、表題のとおりです。とくに文章の後半は、「決めつけ」に満ちあふれています。たとえば、以下のくだり。

こう紹介すれば、かなり熱心な会員だと思うだろう。しかし、そこがおもしろいのだが、平凡な存在なのである。次第におちこぼれになり、不満も生まれる。万物復帰では人より劣る。つまり物が売れない。合同結婚式(「祝福」という)の相手も気に入らない。(こんな記述がある。「まず見かけが好みでなかった。そのせいで気分が乗らなかったということもある」)。率直な記述だが、どうも宗教的ではない。しかし、さすが東大生(特権だと私など思うのだが、著者はそれほど気づいていない)、「こんなところにいたくない」とごね、原理研から西ドイツに派遣される(新宗教でもこういう格差がでもあるのだと感心した)。

「率直な記述だが、どうも宗教的ではない」と書かれていますが、「宗教的」っていうのは何なのでしょうか。よくわかりません。「しかし、さすが東大生(特権だと私など思うのだが、著者はそれほど気づいていない)、」という記述を読むと、評者は他大学の原理研の学生を知っていて、こういう比較をしているのだろうか、という単純な疑問がわきます。また、よくまあ「著者はそれほど気づいていない」なんて断定してしまえるなあ、と思ったり。

入会動悸から脱会にいたるまで、自己救済を求めるという部分がほとんど見えないのも、本書の特色である。だから統一教会への批判もそれほど大きくない。悔恨も反省も同時にそれほど大きくない。醒めているといえばいいのだろうが、あらゆる宗教、組織、イデオロギーもほぼ似たようなものだというような一般的解釈に終始している印象がある。

この文章をひっくり返すと、評者が同書にもとづく仲正さんの宗教体験をどう考えているのかわかります。すなわち、「自己救済を求める姿勢が見られて、統一教会をしっかり批判する。また、統一教会に入ったことを悔恨し、反省する。そして、宗教、組織、イデオロギーはさまざまなのであって、似たようなものだと解釈するのはどうか」。つまり、宗教とか組織とかイデオロギーは多様なのではないかとほのめかしつつ、「統一教会に入った人なんだから、こうなんじゃないの」と決めつけているように見えます。ぜんぜん多様じゃないじゃん(笑)

新興宗教、新宗教に取り付かれてしまった人は(社会的エリートでない人、またそれを捨てようとした人)、生活ぐるみ、家族ぐるみの活動になる。だから、著者のよう比較的平穏に脱会できなくなるのではないか。さらに傷痕も大きい。脱会したオウム真理教信者の回想録をいくつか読んだことがあるが、大分ちがう。

またまた、決めつけです。宗教にハマり、評者の指摘するような状況になった(なっている)人は、確かにいると思います。でも、それがすべてではありません。いろんな人が、いろんなかたちで宗教に入り、いろんなかたちで脱会するわけで。「大分ちがう」って、それを「基準」にしてしまっていいものなのでしょうか?

もうひとつ、本書の隠れたテーマは、東京大学である。東大に入学できたことが原理へのきっかけであるし、活動中も、東大生であるがゆえの寛大な処遇、辞めるのも、それゆえにあまり問題なく脱会できる。しかも、大学に就職できる(もちろん、努力は大変なものだったろう)。著者が無意識に頻発する東大という単語。そんなことも考えさせられた。

「東大生であるがゆえの寛大な処遇」とか「あまり問題なく脱会できる」などと評しているけれど、私には本をつくっている最中を含めて、この記述を読むまで、仲正さんが東大生「だから」、寛大な処遇を受けていた、とは一切考えていませんでした。くわえて、東大生「だから」、「あまり問題なく脱会できる」なんて、どうして言い切れるのでしょうか。

「東大」についても、確かに東大という単語は頻出します。とはいえ、仲正さんは東大に入り、東大の大学院受験に失敗し、リベンジして合格し、博士後期課程まで学んだという経緯があるのですから、何度も出てくるのは当たり前のことです。なおかつ、東大という単語を「無意識に頻発する」って何なのでしょう。なんでこの評者に、仲正さんが「無意識」に記述していることがわかるのだろう。不思議です。

そんなこんなで、この書評を読んでみると、「この人は、何でも知っているのだろうか?」と思わざるをえません。そして、決めつけに満ちあふれた書評だという感想を持ちました。おそらく評者は、思ったことを素直に記述しているのでしょうけど、それをそのままアップしちゃうんじゃあ、自分のブログで書評を書いている多くのブロガーとおんなじで、ぜんぜん「匠」じゃないじゃん。

最後に。他の書評には書影があるのに、なぜ同書の書評だけ書影がついていないのでしょう、三省堂さん(笑)

追記…9月17日の15時に、書影が掲載されたことを確認しました。三省堂さん、ありがとうございます。

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