2010年3月13日 (土)
特定の生き物を愛す、ということ
南極の海で調査捕鯨をしている日本船にさんざん嫌がらせをしたうえ、船に不法侵入した「シー・シェパード」(SS)のメンバーが逮捕されました。FBI(アメリカ連邦捜査局)が「エコテロリスト」と分類するテロリスト組織のメンバーが、テレビで何度も放映されたように、民間船に対して暴力をふるったわけですから、今回のメンバ逮捕は当然のことでしょう。
SSが、「世界の海洋における野生生物の棲息環境破壊と虐殺の終焉」を訴えようがなんだろうがかまいません。そういう立場もあっていいと思います。しかし、そういう立場を認めるからといって、日本の調査捕鯨を暴力的に妨害することまで認めることはできません。
「棲息環境破壊」とか「虐殺」とかいっていますが、どうなったら破壊で、なにを虐殺というのか、ひじょうに定義があいまいです。海にも生態系があり、食物連鎖があります。この食物連鎖に関していえば、どの魚が増えすぎだとか減りすぎだと、いくらでも恣意的な見方が可能です。
SSの活動に、特定の生き物への「愛」みたいなものが感じられる点も、気になります。「鯨を愛しているから、鯨を捕ったり食べたり殺したりするのはけしからん」などとガチで言いだした場合、「鯨」という部分は、ほかのあらゆる生き物に入れ換えることが可能ですから、あらゆる生き物が排除の対象になってしまうかもしれません。
ある生き物を、愛したり、かわいがったりするのは自由でしょう。しかし、「人」と「人以外の生き物」の境界線と距離感をちゃんと認識していないと、人は意外と簡単にSSみたいなことを言いだしたり、やりだしたりするような気がします。
そういう意味で、私からいわせれば、「子猫殺し」で坂東さんを糾弾していた人たちも、SSの人たちも、考え方の根っ子があまり変わりなく見えるんですよ。猫をかいわがるのもけっこうだし、鯨を愛するのもけっこう。でも、特定の生き物に自己投影「しすぎ」たり、生き物に自分の思いを没入「しすぎ」たらおしまいよ、ってことだと思うのですが、いかがなものでしょうか。このへんは、読者のみなさんがどう考えていらっしゃるのか、教えていただきたいところ。
そして、いまさらいうのもなんですが、私たちは今日も明日も、犬をかわいがっておきながら、牛の肉は喰ってるし、猫を愛しながら、豚の肉も喰ってるわけですよ。このように、人は、人以外の生き物と付きあうときには、「業」を抱えざるをえません。私自身は、人って、けっきょく都合がよくて、(高田純次さん的な意味で)調子のいい生き物だよね、って認めまくっていますけど……。
私は、そんないい加減な人間じゃない、って人もいるでしょう。それでもいいんですけど、ならばご自身が抱いている特定の生き物への愛みたいなものを、他人に押しつけないのがよいのでは。SSの事件は、鯨への愛を人に押しつけるとどうなるのか、というよい事例なのではありませんか。ひとり静かに、もしくは愛を共有できるグループ内で、ご自身が愛する生き物への愛について語っていただければ、その愛が暴力へと「昇華」することなどないと思うのですが。
日乗 | コメント (5)
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ココログおすすめのこちらの記事。久しぶりに坂東眞理子氏の名前を目にしました。ここ 続きを読む
受信: 2010/04/07 16:51:45
コメント
不法侵入が罰されるべきであるという点には同意します。
そのうえで、いくつか。
まず、FBIがある団体を「テロリスト」と認定したということを、お墨付きのようにして無批判に前提とするのはいかがなものでしょうか。9/11事件以来、というより本当はもっと前からですが特にその事件以来、「テロリスト」という言葉は米国政府によって、従来の反政府派や敵対勢力のように人権憲章や国際条約の保護を受ける対象ではなく、超法規的な手段を使っても殲滅するべき相手として扱われています。
わたしの直接の知り合いには「エコテロリスト」と指定されている人はいないですが、知り合いの知り合いくらいのレベルにはそういう団体のメンバーだったり支持者だったりする人が割といます。かれらは、時に非合法な手段(大部分は、非暴力的な直接行動)を取ることもありますが、単なる違法行為として罰されるならともかく、あることないこと追加の罪をでっちあげられ、本来なら器物破損レベルの行為なのにもっとすごい重罪で訴えられたりしています。
日本政府は少なくともシー・シェパードに対してそのようなことはしていないかと思いますが、米国政府による「テロリスト」認定は無批判に受け入れてはいけないと思います。(わたしの知る限り、シー・シェパードはテロリストというよりは、単なる過激な直接行動グループでしょう。)
もう一つ、こっちの方が本題だと思いますが、「人」と「人以外の生き物」の境界線を(生命の価値という意味から)はっきりしろということの、倫理的な根拠は怪しいと思います。また、鯨の保護を主張する人たちの論理はそんなに情緒的な物だけであるとは思いません。わたしは肉も食べるし捕鯨を全面禁止すべきだとも思いませんが、倫理的な認識としてはシー・シェパードにも一理あると思っています。「立場は認めるが暴力は認めない」と言っても、かれらは捕鯨自体が暴力であると認識しているわけですから、「捕鯨させろという立場は認めるが、実際に捕鯨するのは認めない」と言い返されてしまうでしょう。
アニマル・ライツに賛同するかどうかは人それぞれだと思いますが、一方的に「あれは特定の生き物に対する愛情だ」とか「特定の生き物に自己投影しすぎている」と決めつけるのではなく、ピーター・シンガーあたりを読んで、その論理構成をきちんと受け止めたうえで批判する必要があると思います。(わたしがシー・シェパードの行為を否定するのは、それが暴力的であるからでも、情緒の押し付けであるからでもなく、倫理的・論理的な一元性と純粋さが危ういと思うからです。)
投稿: macska | 2010/03/13 18:08:36
マチュカさん、ごぶさたです。貴重なご意見をありがとうございました。私はピーター・シンガーを読んでいないので、くわしいことはよくわかりません。ぜひ、読んでみようと思います。
いいたいことはただひとつで、倫理的・論理的な問題がどうこうというよりも、この問題について「騒ぎすぎるのはよくない」という点です。
私は、自分の書いていることが「正しい」なんて思っていませんので、ご教示いただいたことは素直にうけたまわろうと思います。しかし、とにかく、子猫のときもそうですが、騒ぎすぎている人たちを見ていると、「おいおい」っていいたくなってしまうのです。問題にもよりますが。
投稿: lelele | 2010/03/13 19:21:31
共感です。
私は当時の騒動を全く知らず、興味本位で図書館の棚から子猫殺しの再考を選びました。
手に取った理由は題名が奇抜だったからに尽きますが、一読し思ったことは『バッシングを行う人間に、物事を考える力があるのか否か』でした。
特に作者の産んだ子供を崖から投げ捨ててやろうかとまで言ったブロガー達です。
問題の点がずれているし、代替え条件にすらなっていません。
動物と人間の同格化、人権の侵害、脅迫めいた発言に疑問符を感じてしまいました。
そもそも作者は飼い主として猫の幸福(言い換えれば快楽)を考慮したその上で責任観を交えエッセイを進めているのに、対する罵声が(あれは批判ではなくただの悪口だと解釈しました)人とペットの垣根を越えていて的外れです。
死ねやら本を燃やせ等も同様で、上手く言い表せませんが、コレは違うんじゃないだろうかという齟齬で一杯でしたが再考を読み進めていくうちに作者や対談した方々の考えが私にも近いことを感じました。
何年も前のエッセイでしたが、改めて検索すると悪口のページが消されることなく並んでいたのにがっかりしました。
当時の方々は再考を読んだのでしょうか?
其れでなおその考えが変わらないのであれば、すじのとおった意見と批判を稚拙ながらも詳しく組み立ててから述べるべきだと思いました。
長々と失礼いたしました。
投稿: 佐々木 | 2010/03/14 2:29:56
谷川さんの意見におおむね同感です。海産資源が減少しすぎだから日本やノルウェーは漁を控えてくれ、という意見が客観的に正しいと信じうる統計をもって提出されたのであれば、これは耳を傾けるべきだと思います。
しかし、そういうことを当該国に対して届くようなアピールもせずに、いきなり酪酸を投げつけるという振る舞いは肯定しようがないですな。まして、3年前にムチャな特攻をかけてきたSSの連中のうち、海中に落ちた人間を捕鯨調査船が救ってやってるわけで。あの事件のときで、もう抗議方法の見直しを考えてくれたってよかったと思うのです。
そういえば、中国の大連あたりだったかな、犬を食う文化があるわけですが、ああいうものも悲惨だからやめろ、という話が動物愛護団体から出ているそうで。だけど、それだって、結局は食文化の違いという問題でしかないと思うんですよね。
どこかに野蛮/文明を巡る線引きみたいなものが、そういう団体の人たち/支持者たちにはあって、それを押し付けられているような不快感があります。シー・シェパードについてもそうですが。
最近は、和歌山のイルカ漁を批判的に取材したドキュメンタリー映画"コーヴ"がアカデミー賞を取ったそうですが、鯨を取るということについても、それが倫理的・動物愛護的な精神に依るというのではなく、単に偏見を投影して反対しているだけのように見えます。
(当事者の認識はともかく)ベジタリアンでさえ原罪を回避できないのが人間の定め。捕鯨を辞めろという主張に倫理的な基礎を見出すことにはほとんど意味がないと思いますね。
投稿: Lee | 2010/03/15 2:26:32
気になったので、コメントさせていただきます。
まず、彼らが「テロリスト」と認定されているかどうかは問題ではなく、その行為によって捕鯨が妨害されているという事実が問題であると思います。他国の判断を全く考慮しないのもどうかと思いますが、第三者の意見を重視する段階ではないでしょう。本文の論旨と密接な関わりはありませんが、一応。
人間は何かを偏愛したり、盲信しなければ生きていけない動物です。程度の差はありますが、誰でもそういったものを抱えて生きています。義理の親は自分からすればただのおっさんとおばさんであり、他人の子はただのガキです。どうなろうとしったこっちゃありません。一方、自分の親には親孝行しようと考え、自分の子が一番かわいいと確信します。一般論ですが……。
こうした感情は、ペットや宗教にも向けられます。時に、傍目からは異常とも思えるものとなります。SSの方々に異常なクジラ愛があるかないかと聞かれれば、私はあると思います。SSのメンバーの中に日本人女性でマリコという方がいるそうです。その方が、
「妨害することで日本が捕鯨をやめることができたら……。逆にホエールウォッチングのビジネスで栄えることができたら嬉しいと思いませんか?」
というコメントを残しています。
正直、私は捕鯨しようがしまいがどちらでも構いません。なぜなら、鯨肉を好んで食べないからです。さらに、好んでクジラを観賞しません。よって、ホエールウォッチングしたいとも思いません。
世の中には鯨肉をたまらないほど好きな方もいるわけです。そうした人を全く無視して、捕鯨<ホエールウォッチングと定義する彼女の発想を理解できません。たとえビジネスで大成功し日本の不景気が一気に回復しても、どちらでもいい私は嬉しいですが鯨肉愛好家は腑に落ちませんよね?
「うちの○○ちゃん言葉をしゃべるんです!」と豪語する愛犬家や愛猫家に、
「犬語や猫語がわかるなら保健所で処分されるのを待つ彼らの最後の叫びを聞いてあげてください。」
と皮肉りたくなる私からすれば、この類の人々とSSに差はあまり感じられません。
そう思う反面、SSにも一理あるとも思います。多くの日本人は捕鯨がいったいどのようなものなのか知りません。映画『The Cove』のイルカ漁についてもよく知りません。知らなくていいだろうといわれればそれまでですが、他人から異常だと思われ、しかも抗議されていることについて無関心でいるのは、保健所の犬達をないものとする愛犬家と全く変わりません。「The Cove」の映像をちらっと見ましたが、けっこうむごいことしていました。
私は谷川さんとは逆で、もっと騒ぐべきだと思います。たとえそれがSSの狙い通りの展開であったとしても、捕鯨とは何なのかということを皆で知り、論議する程度の寛容さを持つべきだと思うのです。メディア(主にテレビ)はSSがどうしたこうしたということばかり報道するので、実態がわからないままいつまでたっても平行線。これでよいのでしょうか?
私は捕鯨をやめてもいいと思っています。しかし、捕鯨の有用性、実態を知れば意見は変わるかもしれません。ただ、自分でコツコツ調べたいと思うほど興味がないのもまた事実なのです。
多くの人が捕鯨って何なのか?クジラって何なのか?をよく知らずに(考えずに)、SSへの反感だけが増している。
なんだか、気味悪いです。
投稿: akebo | 2010/03/15 23:34:40