双風亭日乗

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2010年7月13日 (火)

FreePets?

ネットをぐるぐる巡回していたら、「FreePets~ペットと呼ばれる動物たちの生命を考える会」という会の存在を知りました。音楽家の坂本龍一さんも参加しているようです。

会をつくった理由に、「ペットと呼ばれる動物たちと暮らすことは、『飼い主』である人間に大きな喜びをもたらします。人間は、そんな喜びを与えてくれる動物たちの命や幸せにしっかりと責任を持つ。人間も動物も幸せになれる社会が実現してほしい」とあります。とりあえず、もっともだとは思います。

たしかに、私が二匹の猫と暮らしていたときには、だいぶ猫に癒されました。また、幸せな気分にもさせてもらいました。それでも、上記の文面には、大きな違和感があります。なにが問題なのか?

まず、はじめは「ペット」について語りながらも、途中から「動物」になっていること。「動物」と語った瞬間から、その言葉には牛や豚、そして鶏など、食用に殺処分される生き物もふくめられることになります。この違いを明確にしなければ、「ペット」について語ることはむずかしいと思うのですが。

その点につながりますが、「人間も動物も幸せになれる社会」というのもどうでしょう。「人間もペットも」なら、まだマシな表現だと思います。また、動物にとっての幸せって、そんな簡単に人間にもわかるのでしょうか。どうやってわかるのでしょうか。こういう難解な問題を、さらりと書いてしまうのは、ちょっとやりすぎではありませんか。

こうした単純化は、昨今の脳科学に関する議論に通じるものを感じます。つまり、人と動物の関係も、脳科学も、簡単に語れるようなものではないということです。

では、仮に、上記の理由がどう書かれていたら、違和感がなくなるのか。第一に、生き物のなかでも、「ペット」は人間に特別扱いされていることを明示してほしい。かわいがる動物がいる一方で、人間の幸せのために日々殺されていく動物が山ほどいることとセットで。ペットの命をたいせつにすることと、牛や豚を殺して食べていることは、生き物(私は、あえて「動物」ではなく「生き物」という言葉を使いたい)の生死を考えるうえではコインの裏表の関係だといえます。

第二に、ペットへの過度な感情移入は、思考の単純化をまねくとともに、スイッチが入るとすぐに他者の「排斥」や「排除」への道を準備する、ということについて、すこしは触れてほしいものです。この点に関する危惧は、坂東眞砂子さんの『「子猫殺し」を語る』(弊社刊)に書かれています。「ペットが死ぬほどかわいい」→「自分が気にくわない行為をペットにする奴はゆるせない」→「自分は正しいのだから、そんな奴は殺してやる」みたいな理不尽な三段論法が、いとも簡単に正当化されてしまうんですから要注意です。

犬猫の殺処分は、減らしたほうがいいに決まっています。減らすように、啓発をすすめる活動は、どしどしおこなったほうがいい。でも、その活動の理由が「人間とペットの幸せ」のためでは、どうしても「ペット以外の動物は、どうなの」という話になってしまいます。生き物に関する啓発をすすめる際には、できるだけ上記のようなコインの裏表に触れることが、たいせつなのではないかと私は考えています。

そして、人間と、人間以外の生き物は「違う」ということを認識し、前者は後者に対する「業」のようなものを抱えていることを心の奥で意識しながら、「ペット」なり「動物」なりと向き合っていくのがよいかと思っています。くわえて、たくさんいる生き物のなかでも「ペット」だけをえこひいきしているという自覚をもちながら、ペットをかわいがるという姿勢が必要なのではありませんか。

おしゃれな雰囲気で、有名な人を集めたりして、きれい事っぽいことを訴えることの意味は否定しません。とっつきやすいことは重要ですし、殺処分を減らすという点では、私も強く同意しますし。しかし、生き物がらみの議論には、繰りかえし述べたように、きれいじゃない部分もたくさんあります。そのへんをスルーしてなにかを訴えても、ただただ犬猫に感情移入している人たちが、思いつきで活動していると思われちゃうのでは。それでは、もったいないっす。

そもそも、「命」とか「生命」とか、簡単に使える言葉じゃないと思うのですが……。

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