双風亭日乗

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2007年8月21日 (火)

デリダの思想を読む 1

「死」のエクリチュール




■第1回■

 ここまで取り上げてきたアドルノ、ベンヤミン、そしてアーレントが、ドイツ出身の思想家であり、ドイツの思想・哲学史を背景に言論活動したのに対し、デリダはフランスの思想家です。ただし、彼もユダヤ系です。しかも、長いあいだフランスの植民地だったアルジェリアの生まれです。「イスラム圏の中にあるフランスの植民地に生れたユダヤ人」という複雑なアイデンティティを背負っているわけですね。彼の少年期には、フランス本国がナチス・ドイツに占領された煽りを受けて、アルジェリアのユダヤ人たちは、植民地当局によって、公民権を剥奪されています。そして、一九五八年にアルジェリアが独立したことにより、彼の生まれ育った土地は、フランスではなくなりました。

 そうしたポストコロニアル的な体験が、多かれすくなかれ、彼の特異な文体や哲学、とりわけ文芸批評の素養のあるフランス人にさえ何をいわんとしているのかなかなか理解でず、まるで前衛詩でも書いているかのごとく言葉をまさぐりまわす、くせのある文体に反映されているといわれています。彼にとってのメインの言語は、フランス語のはずです。しかし、フランス語が自分の「母語」だと、彼は言いにくかったのかもしれません。彼の「母語」に対する微妙なスタンスは、『たった一つの、私のものではない言葉』というデリダにしては比較的わかりやすい文章で表明されています。

●「エクリチュール」とは?

 デリダというと、すぐに「エクリチュール」というフランス語の単語を思い浮かべる人が多いでしょう。ご存知のように、「エクリチュール」というのは、“文字どおり”には「書かれたもの」、「書くという行為」、あるいは「文体」を意味する言葉です。よって、別にデリダを読まなくても、フランスの思想家や作家が“書いたもの”の翻訳でよく見かけますね。ただし、彼のいう「エクリチュール」には、「音声中心主義批判」とのからみで、独特の意味が付与されます。
 フランス語では、「語り言葉」のことを「パロール」と言います――フランスかぶれした昔の左翼活動家の中には、アジテーションのための生き生きした台詞のことをパロールと呼んでいた人たちがいます――が、人間にとって、「パロール」と「エクリチュール」はどちらがより本質的に重要なのでしょうか?

 言語学的に考えれば、(普通の)人びとが日常的に生き生きと語っている「パロール」のほうが、生の人間の思考や感情と結び付いており、「エクリチュール」は、それを形式化・抽象化して人為的につくられた二次的・派生的なものだということになるでしょう。実際、文字を読み書きできない人でも、生き生きと「語る」ことはできます。だからといって、「話し言葉」は堕落しており、「書き言葉」のほうが日本人の民族精神をよくあらわしているなどといったら、保守・反動と思われてしまいそうです。日本の保守論客の中には、その手のことをいう人がいますので。
 しかし、デリダは、そうした通常の文化的保守主義とはかなり違う意味で、「エクリチュール」が「パロール」に先行していると主張します。その場合の「エクリチュール」というのは、“文字どおり”の意味で、紙などに文字のかたちで書かれたものだけを指しているのではなく、既成の文法とか論理によってフォーマット化された言語体系のことです。「私」が「パロール」を発するために、「私」の中にあらかじめインプットされている「プログラム」のようなものだと思えばいいでしょう。ちなみに「プログラム」というのは、ラテン語に語源をさかのぼれば、「あらかじめ(プロ) pro-」「文字(を書き込む)gramme」ということです。

 デリダの初期の著作に『グラマトロジーについて』という作品があります。同書で彼は、ルソーの「言語起源論」や文化人類学者レヴィ=ストロースの文字なき社会の“素朴な人びと”に対するまなざしを批判的に検討します。そして、たとえ具体的に文字を使っていない人びとであっても、その精神には、その人びとの生きている社会の言語体系が「書き込まれ」ているはずだと言います。さらに、そういう人びとを見つめる近代人の「まなざし」には、「『文字を持たない彼ら』は『穢れなき魂を持っている』」と解釈してしまうような「プログラム」が「書き込まれている」と彼は述べるのです。
 具体的にいうと、まずルソーのエクリチュールやアヴェロンの野生人についての本を読み、「穢れなき野生児」の理想化されたイメージがインプットされる。その状態で、未文字社会の人といった自分たちとは異なる人びとを見る。すると、“脊髄反射”的に本で読んだときのイメージをその異なる人たちに投影してしまい、そのイメージに即して、「彼ら」の風習や振る舞いを理解しようとするというわけです。ポストコロニアリズムの思想家として有名な比較文学者のサイードは、西欧人のオリエント(東洋)に対する勝手なイメージにそういう傾向があることを、文献学的に指摘しています。

 こうして、自分の慣れ親しんだエクリチュールどおりの「純粋で生き生きした彼ら」を“発見”したつもりの人間が、その“体験”をどこかに「書き込む」ことによって、「彼ら」をめぐるエクリチュールは増殖していきます。2ちゃんねるやブログ用語でいえば、コピー&ペースト(コピペ)の連鎖が起こっているわけですね。2ちゃんねるやブログを見ているとよくわかりますが、コピペしている人は、意外とコピペだという自覚がありません。独自のアイデアのつもりで書いていたりします。ネット上で操作しているにもかかわらず、自分がコピーしたことを忘れているわけです。「心」の中に深く書き込まれたエクリチュールがなかなか自覚できないのは、当然のことなのかもしれません。
 「私たち」の人格のかなりの部分が、無限に連鎖するエクリチュールから供給される様ざまな情報の取り込みによってできあがっています。私たちは、日々の生活において、自覚的・無自覚的に、エクリチュールの中から「意味」をくみ取って生きているのです。エクリチュールから自由に思考することはできません。デリダ批判者の中には、「エクリチュール」を、具体的に紙などの物質的な媒体に文字として書かれた文章にだけ限定して考えたうえで、「エクリチュールの拘束力など、たいしたことはない」と豪語する人がいます。しかし、このように“聞いたふうな”口調で批判すること自体が、エクリチュールに汚染されている証拠なのです。

 プラハ生まれのユダヤ系小説家で、現代思想・批評理論に大きな影響を与えているカフカ――ちなみに、村上春樹の小説の題名『海辺のカフカ』は、このカフカから来ています――の小説に『流刑地にて』という作品があります。この中で、「戒め」を破って罰せられる囚人の身体のうえに、その「戒め」を書き込んで、苦痛を与える「機械」が出てきます。これは、デリダの「エクリチュール」にかなり近いイメージだと思います。「私」たちは、この寓話小説に出てくる囚人のように、「プログラム」にしたがって自動的に作動する機械により、それぞれの「身体」に、人間としてしたがうべき掟を書き込まれているのです。「流刑地」の原語は〈Strafkolonie〉、文字どおり訳せば「処罰のコロニー」です。いかにもポストコロニアル系の人が喜びそうなタイトルですね。
 すこしだけ留意しておく必要があるのは、そうした私たちの身体に刻み込まれた「エクリチュール」が、私たちの意識や振る舞いを全面的に規定しているなどと、デリダがいっているわけではないということです。エクリチュールが意識を規定しているなどといってしまったら、昔の正統マルクス主義が、「存在=下部構造(生産様式)が、意識を規定している」といっていたのと、同じ論理構造になってしまいます。仮に、それが事実なのだとすれば、下部構造やエクリチュールを――ヒト・ゲノム解析をやるように――科学的に解明して、人間を「正しい方向」へ導けばよい、ということになりそうですが、彼はそのような間の抜けた話はしません。そんな単純なことでよいのなら、現代思想などいらなくなってしまいます。

 デリダに代表される「ポスト構造主義」というのは、マルクス主義の下部構造決定論やレヴィ=ストロースなどの構造主義が、人間の振る舞いを規定している不可視の「構造」を、あたかも客観的に解明可能であるかのようにあつかう傾向があることを批判します。そして、その「構造」は、(「構造」の自体の産物であるはずの)“私”(=主体たち)が容易にとらえることのできないものであることをあらためて強調します。くわえて、その“構造”が、私たちの知らないところで自己変容している可能性があることを示唆する立場です。
 すでに述べたように、エクリチュールというのは、あらかじめ書き込まれたもの=プログラム、つまり「構造」であると同時に、そのプログラムにしたがって具体的に「書く行為」をも意味します。書いているうちに、書くための雛形を提供してくれているプログラムそのものがどこかで突然変異してしまう可能性。あるいは、私たちが知らない潜在的可能性を発揮しはじめる可能性もあること――映画『マトリックス』三部作などに示唆されているように、プログラムに操られている「私」たちの側からは、プログラムの突然変異か潜在的可能性の展開なのか、はっきり区別をつけることはできません。これらを示唆するために、デリダは「エクリチュール」という比喩的な言いまわしをしているのです。

 もうすこし身近な例で説明しましょう。誰かのネット上の作文をコピペしているうちに、コピーしている人の主体的な自覚とは無関係に“コピー・ミス”が起こって、そのミスのほうを、コピー元という意味での“オリジナル”よりもおもしろく解釈できるということがよくありますね。2ちゃんねる用語の多くは、コピー・ミスから生まれています。デリダは、みずからのエクリチュールをとおして、エクリチュールの硬直性や反復性と共に、いつどのように起こるか予測できないコピー・ミスによる変容の可能性という側面を、同時に示そうとしているわけです。その両面性を視野に入れておかないと、彼が何のために、わざとむずかしく書いているのかわかりません――むろん、「なぜむずかしく書かねばならないのか?」がわかっても、ただちに彼のエクリチュールがすらすら読めるようになるわけではありませんが。

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