双風亭日乗

« デリダの思想を読む 1 | トップページ | デリダの思想を読む 3 »

2007年8月31日 (金)

デリダの思想を読む 2

「死」のエクリチュール




■第2回■


●エクリチュールによって「生かされる」物たち

 話をもう一度、「音声中心主義」に戻します。人間が生活していて“自然”と発する「生の声」がオリジナルであり、「生の声」こそが私たちの“本当の気持ち=魂の叫び”を映し出す、まじりっけのない透明の媒体であるとしましょう。すると、それを無理やりかたちだけ記録するエクリチュールというものは、魂が抜けたあとの抜けがら、いわば「死骸」のようなものですね。
 多くの人は、何となく、エクリチュールはあまり生き生きしていないと思って、物足りなさを感じます。本屋さんでトーク・イベントなどが開かれるとき、「生・宮台を見る」とか、「生・東浩紀を見る」という人がいます。そういう言い方をするのは、死骸であるエクリチュールからはうまく伝わってこない、宮台さんや東さんの生き生きした“本当の声”=「本当に言いたいこと」を聞きたいという願望を、聴衆が抱くからです。
 イベントに行った人の中には、“生もの”を見て、ある程度満足する人もいるでしょうし、「あれこんなはずじゃなかったのに」と当てがはずれてがっかりする人も多いでしょう。“まじめなファン”の中には、「宮台さん、調子悪かったのかな。あれは本当の宮台さんじゃない」と思う人がいたり、逆に「見に来てよかった。あれこそ、本当の宮台さんだ」とひとりで納得してしまう人もいることでしょう。

 しかし、よく考えてみると、どうしてファンの人たちは、もともと自分とは何の縁もゆかりもなく、会ったこともない人間の“真意”とか“本当の姿”を、あらかじめ知っているような気になるのでしょうか? 変な話ですね。どうして、そうなるかは、はっきりしています。宮台さん自身によるエクリチュール、あるいは彼についてのエクリチュールをとおして宮台さんを知った気になり、見たこともない“宮台さん”の実像をあらかじめ自分の中で再現しているからです。
 自分の目で宮台さんを見たこともないのに、彼を自分の中で「再現」するというのは変です。一方、見たことのないもの撮影した映像を、ビデオやDVDで映像を「再現」するという言い方をします。こうなると、それほど変ではありませんね。ビデオやDVD、テープレコーダーなどがあれば、自分の目で見たのかどうか、また耳で聞いたのかどうかにかかわらず、オリジナルを「再現」できます。それと同じように、私たち自身の意識の中でも、実際に見たり聞いたりしていないものを、現在、目の前にあるかのように再現できます。記憶と想像は違うという人もいると思いますが、記憶も想像もオリジナルな「今、ここ」にはない、という点では共通しています。

 「表象する」、つまり「イメージ化する」という意味の英語の動詞〈represent〉の〈re〉のあとにハイフンを一本入れると、〈re-present〉というかたちになります。こういうかたちの英単語は、普通の辞書には出ていませんが、何となく「ここに居合わせている」、あるいは「現在の」という意味の形容詞〈present〉の状態を、「再(re)」現するという感じの意味に取れます。「エクリチュール」というのは、「私」の意識の外だけではなく、「内」側にも入り込んでいて、様ざまな“生き生きしたもの”のイメージを再現前化しているのです。
 もともと“生き生きした声”が抜け去ったあとの「死骸(corps)」――フランス語の〈corps〉には、「死骸」だけでなく、特定のテーマや人物の文章をまとめて「集大成(したもの)」という意味があります――であるにもかかわらず、エクリチュールは、私たちにとっての“生き生きした世界”――むろん、それはすべて再構成され、再現前化されたイメージの集積にすぎないわけですが――を背後で支配しています。拙著『デリダの遺言』では、そうした見かけ上の「音声中心主義」が、じつは死骸=エクリチュールによって支配されているという逆説的な関係をテーマにしました。

 私たちがいろんな場面で、「これこそ生き生きした本当の姿」だと思うもののほとんどが、各種の記録媒体(エクリチュール)によって「再現前化」されたイメージです。「生きた庶民の暮らし」「現場の生の声」「生きた英語」「長年の経験に基づく生きた言葉」……。こうしたイメージは、各種のエクリチュールによって、私たちの内にいつの間にか原型として刷り込まれ、各種メディアでの反復的な再現(前化)によって(再)確認され、強化されていきます。
 このような“生き生き”のイメージは、通常はたいした害悪――せいぜい出版社などのメディアを安易に儲けさせ、サヨク/ウヨクに騒ぐ口実を与える程度――をもたらすものではないでしょう。しかし、ときとして、「ナショナリズム」の言説や宗教的な「終末論」の言説のような、危ないものを生み出すことがあります。「ナショナリズム」の言説は、ほとんどの場合、死んだ先祖たちの“生き生きした姿”を「再現前化」するというかたちで展開します。今のウヨクの人たちは、戦前の日本人は美しかったというイメージを広めようとしていますね。

 その際に、様ざまな「歴史」――西欧の言葉では、ドイツ語の〈Geschichte〉やフランス語の〈histoire〉のように、「歴史」と「物語」を同時にあらわしている場合が多く、〈history〉と〈story〉を使い分けている英語は、むしろ例外的です――のエクリチュールが、「生き生きた歴史の証言」として動員されます。さかのぼっていけば、本居宣長の国学なども、古代世界の生き生きした人びとの姿を、(もともとは中国の文字である)漢字で書かれたエクリチュールを介して再現する作業だといえます。一九世紀初頭のドイツのロマン派も同じようなことをやりましたし、日本浪漫派の保田與重郎も現代日本に「万葉の火のような精神」を再現しようとしたとされています。

 他方、死者のエクリチュールによって「現在」を支配するというのは、「右」の専売特許ではありません。たとえば、トロツキーやチェ・ゲバラのような、革命のために死んだ英雄の姿を生き生きと再現する儀礼を、サヨクもよくやりますね。北朝鮮では、金日成の英雄的活動をめぐる一連のエクリチュールに支えられるかたちで、偉大なる金正日の生き生きとした姿が、(国営・中央統制の)メディアに映し出されています。左翼のほうが、自分たちは宗教やナショナリズムのエクリチュールから解放されたと思い込んでいるところがあるので、右翼よりも始末が悪いところがあります。共産党やセクト、運動団体などの綱領も、「今、ここ」にはない“生き生きしたもの”を、理想化したかたちで再現前化するエクリチュールであることに変わりありません
 パロール/エクリチュールの転倒した関係に関するデリダの考察の背景には、キリスト教の伝統に対する批判的なまなざしがあるといわれています。すこしデリダそのものからはなれて、キリスト教の歴史における「音声中心主義」について、一般的に考えてみましょう。

 新約聖書――英語の〈New Testament〉の〈Testament〉には「遺言書」という意味があります――の第二コリント人への手紙三章六節に、「文字は殺し、御霊は生かす」という有名なフレーズがあります。ユダヤ教の律法学者は、文字として書き残されていた伝承にこだわりすぎていました。それに対して、イエスにひきいられる原始キリスト教団が、「聖霊」をとおして語りかけられる“生きた神の言葉”にしたがおうとした姿勢をあらわす言葉です。キリスト教の伝承――伝承というのは、そもそもエクリチュールですね――では、イエスの復活から七回目の日曜日に当たる五旬節(ペンテコステ)の日に、神の霊(聖霊)が使徒たちに降りて、彼らの口を借りて偉言を語ったとされています。そこから、キリスト教は、書かれた律法(エクリチュール)ではなく、神の生きた――愛の――言葉に従う集団だと自己規定するようになりました。

 とはいえ、キリスト教の信仰を共有しない立場から見れば、聖霊によって与えられる「生きた神の言葉」のみを、キリスト教が信奉しているなどとは、とうてい信じられませんね。本当に使徒たちが聖霊に満たされて語ったのか、伝説というエクリチュール化されたイエスの生前の言葉を無意識的に再現していたのか、第三者的には区別がつきません。何よりも、そういう「神の生きた言葉」の奇蹟があったことを信者が知るのは、「聖書」というエクリチュールをとおしてのことです。しかも、キリスト教徒の中で、新約聖書を原典の古代ギリシア語で読めるような人は、ほとんどいないはずです。また、ローマ市民であったパウロはともかく、イエスや直接の使徒たちがギリシア語を話したはずがありません。当時、イエスらは、パレスチナで話されていたアラム語で話していたとされています。新約聖書自体が、ローマ帝国での布教用に、イエスや使徒たちの行動をエクリチュール化したものです。キリスト教における「神の生きた言葉」というのは、エクリチュールを介して、何重にも再現前化されたものなのです。

 紙に書かれた律法を神の言葉としてそのまま信じ、それを“文字どおりに”実践することを一般民衆に強いるユダヤの律法学者はおかしいということで、イエスは「愛」を中心に“生きた神の言葉”を語りました。ところが、紙に書かれたものを批判していたイエスの言葉を、紙に書く人が出てきてしまった。一般信徒の多くは、ギリシア語はおろか、文字が読めません。そこで、民衆の手に届かないエクリチュールを、民衆にわかりやすく語り聞かせる聖職者たちが登場しました。中世になると、ラテン語が共通言語になったので、ラテン語で書かれた聖書を読める学者が偉いとされました。もともと「大学」とは、そういうエクリチュールのプロを養成するところでした。
 近代に入ると、そうした知的特権階級のやり方に反発したルターが宗教改革を起こし、民衆の生きた言葉、つまり各国語に聖書を訳すということをはじめました。国民ごとの言語に訳すということは、一見すると特権階級のエクリチュールをとおしての支配からの“解放”を意味しているようにも見えます。しかし、聖書のエクリチュールを民衆の心に、直接的に植えつけるためのより巧妙な戦略が始動したと見ることもできます。このようなことは、デリダの用語では「散種」と言います。「種=精子」を撒き散らすというイメージです。

 こうしたことは、キリスト教の専売特許ではありません。明治維新後の日本では、教育勅語などがそういう役割を果たしました。また、かつての社会主義政権では、党是が聖なるエクリチュールの役割を果たしていました。余談ですが、「民衆の生きた声」をありがたがる東大などの左翼学生が昔はいましたが、彼らはマルクスやレーニンらの原典を読んだと、しばしばはったりをいっていました。デリダが「エクリチュール」とか「音声中心主義」を批判しているのは、こういう人たちへの皮肉を込めてのことだと思います。キリスト教とも左翼とも縁のない人は、「日本人にはあんまり関係ない議論だ」と感じるかもしれません。とはいえ、日本にも戦前の教育勅語のような、いつの間にか心の内面に入り込んでくるエクリチュールがたくさんありました。「日本人は、西欧的なエクリチュール批判に付き合う必要がない」という話をよく耳にしますが、こういうステレオタイプなことを無自覚的に口にしてしまうことこそ、エクリチュールに取り憑かれている証拠でしょう。

 拙著『「分かりやすさ」の罠』に書きましたが、思想史的に見れば、パロールを紙に書いて聖典化するということは、キリスト教以前にプラトンがやっています。プラトンは、ソフィストたちのような表面的でその場限りの言葉でない、魂にひびくソクラテスの“生きた言葉”を書き留めました。プラトンは、ソクラテスの“生きた言葉”の中から、地上の物理的なものによって覆い隠されている、物事の本質としての「イデア(理念)」なるものを抽出しました。イデアは、天上の世界にあるもので、地上の生身の人間には、直接見ることはできません。しかし、プラトンは、真理のために殉じたソクラテスの“権威ある言葉”をうまく再構成するかたちで、イデアとは「こういうものでなければならない」と規定しようとしました。

 すると、その規定を元にして、「それはこういうことだろう」と解釈しながら思索することで真理を知ろうとする人びと、つまり哲学者や思想家が大量に生み出されてしまいました。数理哲学者のホワイトヘッドは、「西洋哲学史は、プラトンに対する一連の脚注である」とさえいっています。たしかにデカルトもカントもヘーゲルも、地上に生きる私たちには知覚することのできない究極の「イデア」を追い求め、それを記述しようとしました。そのために、えんえんと哲学のエクリチュールが大量増産されました。前の時代の哲学者のイデアをめぐるエクリチュールの解釈から新たなエクリチュールが生まれ、それを解釈しようとする人びとがあらわれてくる。本質であるイデアは目に見えないと言いながら、じつは(自分と同じように)ただの人間にすぎない別の哲学者・思想家のエクリチュールを解釈したり、批判したり、改善することをとおして、その“イデア”に到達しようとするわけですね。ひどく矛盾した話です。
 そうした“イデア的なもの”のエクリチュールの連鎖に反対して、人間の生の本性をつかもうとしたマルクスやニーチェも、普通の人間にはわからない“人間本性”を把握しようとした点で、“イデア的なもの”にハマっているといえます。彼らは、前の時代の哲学者のエクリチュールを大量に読んで、それに対する批判を大量に書いています。エクリチュールの中にこそ、真理があらわれるとでもいわんばかりに……。こうした人たちは、魂に響く言葉があるという幻想に取り憑かれていたわけですね。

 アーレントの師匠であり、デリダにも多大な影響を与えたハイデガーは、プラトンのイデア観念を原点とする西欧形而上学を批判します。ハイデガーにいわせれば、プラトン的な形而上学にハマったのはみな、地上の目に見える世界を“超えた”ところに「真理」を求めようとした人たちでした。しかし、いくらがんばってもその“真理”は、主体である「私」が「これこそが真理である」と思い込んで、再現前化=表象(represent)したものにすぎない。「(主体である)私が、いかにして(物質的なものの背後にある)真理に到達するか?」という問いを立てようとする限り、この真理をめぐる堂々めぐりから抜け出すことはできません。
 ハイデガーは、そうした堂々めぐりから抜け出すためのカギとして、「私」たちの思考を規定している「言葉」に注目するようになりました。「言葉」によって、様ざまな“もの”の混沌の中で、道が切り開かれ、それが「真理」になるということを主張したのです。ハイデガーは、このようにイメージしました。私たちは、ドイツのシュヴァルツヴァルトの森のように、様ざまな“もの”が密集し、見とおしがきかない密林状態のようなところに生まれてくる。そして、その森の中をいろいろな人が歩き回り、切り開くことで、ほんのすこし見とおしがよくなる。森林を「伐採」することを、ドイツ語で〈Lichtung〉と言いますが、この言葉をだじゃれ的に読むと、森に「光 Licht」を当てることとも読めます。また、切り開いて見とおしをよくするのが「言葉」ですが、周囲一帯が森林ですから、切り開き方は「言葉」の種類によっていろいろある、ということになります。

 そこまではよかったのですが、このあとハイデガーは、詩人ヘルダリンを特別扱いするようになります。ヘルダリンの言語によって示されたドイツ民族の「存在」を、解明する方向に歩み出したのです。どういう根拠があるのかはっきりしないのですが、ヘルダリンの詩は、ドイツ語によって物事を「表象=再現前化」できる限界を示しているといったり、ヘルダリンの詩的エクリチュールの内に、ドイツ人にとっての「存在」のすべてがすでにあらわれているというのです。日本でたとえれば、万葉集や古今集の内に、日本人の精神のすべてがあらわれており、日本語で書くいかなる詩人や作家、評論家も、この表象の限界を超えることはできない、と宣言しているようなものです。ここまでいくと、目に見えないイデアを、目に見えるエクリチュールをとおして探究することよりもひどいといえます。エクリチュールをとおしてイデアを求めるというより、エクリチュール自体をイデア化している感じですね。

 デリダは、『精神について』などのいくつかの著作で、プラトン的な形而上学の伝統を「解体」しようとしたという意味でハイデガーを評価しています。一方、ハイデガー自身がエクリチュールの呪縛にとらわれ、みずからの母語の世界に自閉し、ナチス的なものに引き寄せられていったことを批判します。エクリチュールの外部(彼方)に、イデアや真理のようなものを“発見”しようとする態度を、形而上学だとしてデリダは批判します。他方では、逆に開き直って、自分のお気に入りのエクリチュールの世界に引きこもって、「他者」との関係を排除することにはならないように慎重なスタンスを取ります。自分がエクリチュールの呪縛から逃れられないことを十分に自覚しながらも、どうやってエクリチュールの外にいるかもしれない「他者」に応答しようとする姿勢を取るのか。それが、デリダのエクリチュールへの一貫したテーマであるといってもよいでしょう。

 いずれの方向であれ、何か極端な態度を取って、自分の立場を“生き生きした言葉”ではっきり表明しようとすると、真理を実体化してしまうエクリチュールの罠にはまってしまいます。だからこそ、デリダはわかりやすく書けません。簡単に書いてしまうと、彼のエクリチュールが「生き生き」したものに見え、真理を欲しがる人たちを引き付けてしまう。さらに、そのエクリチュールが彼自身をも呪縛することになるからです。ハイデガーのような「非常に精巧に形而上学を批判しながら、自分も形而上学を批判した人」を批判するための戦略のモデルをデリダが示したとします。すると、今度は「ハイデガーを批判するデリダのエクリチュール」が聖典化してしまい、「デリダのように、ハイデガーのような危ない思想家を批判することが現代思想の課題」などというような、おそろしくねじれたエクリチュールを生み出すことになってしまいます。しかし、日本のデリダ・ファンのあいだでは、「ややこしいことばかりいって本質からずらそうとする――たとえば仲正のような――輩」を、徹底批判するためにデリダを学ぶというような倒錯した傾向が支配的です。彼らは、究極の正義への展望がないと、我慢ができないのでしょう。

 デリダの先生でもあったマルクス主義的構造主義者アルチュセールが亡くなる前後、アルチュセールがいろいろな思想家に与えた影響についてまとめた『アルチュセールの遺産』という本が出ました。その中でデリダは、アメリカの比較文学者マイケル・スプリンカーによるインタビュー(拙訳「政治と友情」、『アルチュセールを読む』情況出版、二〇〇〇年)に答えて、自分が思想家としてデビューした当時(六〇年代後半から七〇年代)の状況について、以下のように述懐しています。
 当時はまだ、マルクス主義的な二項対立図式が支配的で、それを批判して構造主義的な方向に歩み出したはずのアルチュセールも、依然として肝心なところで、古いマルクス主義的な言葉や主体/客体の二項対立に依拠しているふしがあった。主体/客体の二項対立図式を構成しているものについて、もっと掘りさげて考える必要があると思ったが、哲学的な論議と政治的な党派対立とが結び付いていた当時の状況下で、下手なことをいうと誤解され、真理をめぐる二項対立に参戦せざるを得ない状況にあった。だからとりあえずは、フッサールやレヴィナスの現象学的な著作を、その中に書かれている“真理”に直接注目するのではなく、“真理を生み出すエクリチュール”として読むことで、脱構築することを試みた。エクリチュールにハマってしまう危険を、あえてむずかしい書き方(エクリチュール)で表現してきた。しかし、東西冷戦構造も崩壊し、自分が書くようなむずかしいエクリチュールの意味が、ある程度理解されるようになってきた。だから、そろそろ政治的なメッセージを含んだものを書こうと思うようになった。

 デリダの発言の要約は以上です。こうした経緯で、『マルクスの亡霊たち』や『法の力』のような、まだまだむずかしいけれど、一応は結論が何となくわかるようなものを書きはじめたのです。しかし、彼がいくらそういうことを強調しても、「これが本当のデリダだ」というふうに彼の思考を規定して、自分の稚拙な考えを正当化しようとする人がどんどん出てくるのですから、疲れます。

思想の死相 | コメント (0) |