双風亭日乗

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2007年8月31日 (金)

デリダの思想を読む 3

「死」のエクリチュール




■第3回■


●「責任=応答可能性」の問題

 後期のデリダの思想では、「責任」概念が重要だということは、高橋哲哉さんがいろいろなところで強調しているので、知っている人も多いと思います。「責任」を意味する英語の〈responsibility〉は、語のつくりから見ると、「応答 response」する「可能性 -ability」ということです。自分以外の誰か(他者)に対して「応答」するということですね。「他者」から、ある出来事について、何らかの問いかけがあった場合、それに対して「答える」べき立場にいること。あるいは、「答える」準備をしていること、というのが西欧の言語における「責任」の原義です。
 後期のデリダは、『死を与える』をはじめ、いくつかのテクストで、(他者に対する)「責任」とはどういうことかを徹底して考えています。彼の思考を私なりに説明すると、以下のようになります。〈response〉は、しっかりとした言語による「応答」だけでなく、単なる「反応」も意味します。単なる「反応」であれば、私たちはつねにしています。戦争や災害、独裁政権下の圧制などで苦しい目にあっている人を目の当たりにしても、あまり感動しない“人非人”はたくさんいます。私もたぶん、そのひとりです。しかし、そういう私でも、苦しんでいる他者の情報を与えられれば、何がしかの反応はします。おたがい同じ地球上に住んでいるのですから、何がしかの極めて微小で物理的な反応が相互作用しているでしょう。

 相手が目の前にいるのに、それをあえて無視する。それはそれで相手に反応していることになりますし、それが実際に無言のメッセージや態度表明になっていたり、それがすでに「応答」となっている場合もありますね。どんなに小さなことや個人的なことであれ、私たちが何かの判断をし、行動を取れば、自分の知らない誰かに影響を与えてしまう可能性があります。「中南米で蝶が羽ばたいたのが、複雑な因果連鎖をたどった後に、日本で嵐を起こす可能性もある」というバタフライ効果というものが、複雑系の理論の文脈で語られることもあります。それを社会理論として、もうすこしリアルな話にすると、日本のどこかの自治体で今月制定された環境に関する条例が、二〇年後になって、韓国や中国に住んでいる人の生活に影響を与えていたことが判明する、というようなこともあるかもしれません。こういったことを、他者に対する無限の「責任=応答可能性」と言います。

 道徳・倫理・法で問題になる「責任=応答可能性」として論じられるのは、通常は無意識的に、あるいは単に物理的におこなわれる相互作用のようなものではありません。意識的におこなわれるやりとりだと考えられます。しかし、公害など環境の問題や医療技術などを考えると、かならずしも意識しなかった相手への「応答可能性」を度外視してよいということにはなりません。また、私たちが「他者に対して応答する」という場合には、かならずしも「あそこにこういうかわいそうな人がいる。私の内面の良心に基づいて、彼(女)に○○をしてあげよう」というようなかたちで、“主体”的に自己決定をしてから働きかける、というようなパターンばかりではありませんね。自分でも、道徳・倫理・正義など、まったく意識していなかったのに相手の声が聞こえてしまい、最初は「うるさいな」とか「よくわからない」などとぼやきながら、仕方なく関わっているうちに、いつの間にかかたちとして、相手に「応答」していたという受動的な「応答」もあると思います。むしろ、「応答」のきっかけは、そうであることが多いのではないかと思います。

 サヨクの人を私が嫌うのは、「これから善をおこなうぞ!」という“主体的な姿勢”が前面に出すぎているからです。その善が、いわば「ためにする善行」であるような気がしていやなのです。他者に対する「責任=応答可能性」は、もっと受動的で、いつの間にか関わっていた、というのが自然であるように私は思います。左翼思想などとは関係のない医療問題や環境問題で、当事者のために働いている人の中には、意識していない相手の声を聞いてしまったタイプの人は、すくなくないと思います。私が多少お手伝いしている、金沢大学の附属病院産婦人科のお医者さんで、患者に対して無断でおこなわれた人体実験の問題で内部告発している打出さんという人などは、どう見ても党派性とは関係のない人です。本当に患者の話を聞いてあげているうち、事件に巻き込まれて、いつの間にか“主体”になった感じです(仲正昌樹・打出喜義・仁木恒夫『「人体実験」と患者の人格権』を参照)。

 自分でも意識しないうちに、他者がいつの間にか迫ってきていて、その他者に対してよいことをやるとかやらないとか意識していないうちに「応答」してしまう。そういうことについては、デリダが議論するすこし前に、レヴィナスがやっていました。デリダは、レヴィナスが完全な「他者」というのをあまりにも形而上学的に描き出していること、つまりエクリチュールの中で聖なるものとして扱う傾向があることを批判していますが、「正義」というのが、本来、「応答可能性=責任」の無限の可能性の中から生じてくる受動的なものであるという立場は、継承しているように思えます。

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