双風亭日乗

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2007年9月18日 (火)

デリダの思想を読む 4

「死」のエクリチュール




■第4回■


●「死」を与える

 後期のデリダに、『死を与える』という本があります。これも「責任」論の文脈で書かれたものです。この本の主題は、キルケゴールが強く関心を持った旧約聖書創世記に出てくるアブラハムの「イサク奉献」です。旧チェコスロヴァキアの反体制活動家で哲学者のヤン・パトチカも、このエピソードについて論考を残しており、デリダの議論はパトチカのそれを受けたものです。
 その時代の義人であり、神の歴史の主人公であったアブラハムには、子孫が大地の塵のように増えるであろうという約束を神から与えられていましたが、正妻であるサラとのあいだには、なかなか子どもが産まれません。アブラハムもサラも年老いたころ、ようやくイサクという子どもを奇蹟的に授かりました。ところが神は、子どもを授かったアブラハムに「汝のイサクを供え物として捧げよ」と命じます。神の約束と命令が矛盾していますね。さんざん迷ったあげくのはてに、アブラハムは指定されたモリヤの山で、イサクを祭壇にのせて殺そうとします。ところが、殺そうとしたその瞬間、「汝の信仰はわかった。イサクを殺すな」という神の声が聞こえます。

 ユダヤ教徒やキリスト教徒でない人でも、この話が「信仰」なるものの核心を言い当ててることは、直感的に理解できると思います。多くの神学者や哲学者が、このエピソードに様ざまな解釈をくわえてきました。キルケゴールは、祝福の約束と死の命令のあいだの矛盾を超えたところに、キリスト教的な信仰における「実存」の本質があるとして、それを逆説弁証法と呼んでいます。デリダもまた、「他者」――としての神――に対する無限の責任は、人間が自分の常識とか計算で考えているような、通常の正義を越えたところにあるという意味合いで、このエピソードを解釈しています。
 ヒューマニズムに慣れている私たちは、人をより多く生かすことやひとりでも多く幸福にすることが正義であると、なんとなく考えているところがあります。しかし、はたしてそうなのでしょうか。自分の常識で、これが「人のためになる」と“主体的”に思っても、別の言い方をすれば、自分勝手に思い込んでいるだけなのかもしれません。さきほど述べたように、善意でやったことが、いろんな連鎖を経て、悲劇を生むことがあるかもしれません。生身の人間には、未来は見とおせませんし、地上の果てまで目を配ることなどできません。もし神のような超越的な存在がいるとすれば、人間の善意なんてでたらめで、瞬間的な思い込みの連なりにすぎないというかもしれません。

 では、神を信じて、神の視点で行動すればよいのかといえば、そんなに簡単な話ではありません。神がいるということ自体は、前提として受け入れたとしても、誰が神の言葉を正確に聞いて、私たち伝えてくれるかということなど、誰にもわかりません。神を信じる点では共通していても、信じるべき「宗派の教義」や「預言者の言葉」が異なれば、おたがいが神を騙(かた)る悪魔にしか思えません。そもそも、人間は有限な視点しか持ちません。ですから、無限の神が必要だといっても、有限な視点しか持たない人間が無限の神を知っているというのは矛盾です。おそらく、ほとんどの宗教団体は、フォイエルバッハが指摘しているように、自分が信じたいものを神に投影しているだけでしょう。

 では、どうやったら、そういう人間的な常識の投影を越えて、「他者」に対する無限の応答可能性としての「正義」に到達できるのでしょうか? 答えは簡単です。人間として、「死」ぬしかありません。つまり、人間としての常識をいったん白紙にして、人間の常識の範疇では表象しきれない、無限の他者としての神の声を聴ける体勢になる必要がある。それが「死」なのです。こういう言い方をすると、まるでオウム真理教のポアの話みたいで気持ち悪いという人もいるかもしれません。実際、『法の力』以降のデリダは、原理主義的な宗教と紙一重のところにいるのではないか、と指摘する人はすくなくありません。スピリチュアル系の新興宗教と、彼の「死」の限界の哲学との違いをあえてあげるとすれば、彼は「死」のあとに人がどうなるかという教義を展開していない、ということになるでしょう。その意味で彼は、こちら側の世界に踏みとどまっているといえます。とはいえ、デリダに感化されて、向こう側に行ってしまう人がいないとはいえません。
 また、デリダ自身の議論の文脈からはズレますが、本当の意味での「応答可能性=責任」とは、人間の肉体としての「死」の向こう側を視野に入れざるを得ないと私は思います。それは、おそらく彼自身の議論にも含意されていることです。

 説明しやすくするために、また「反応」の話をしてみます。動物は、何かが起きると「反応」します。ただただ反応するだけです。この反応には、倫理学でいうところの責任はありません。過去にやったことを、みずからの内面で「反省」して、自分のアイデンティティとして心の中に反映させるということをしない限り、単なる反応でしかありません。本当に反省し、悔い改めるかどうかは別として、すくなくとも自分のアイデンティティに関わるような記憶がなければ、反応を越えた「責任」は生まれません。デリダの影響を受けた左派の人が、「記憶のポリティクス」ということを言いたがるのは、そういうことに由来するはずです――彼らがそれを、しっかりとわかっていっているのかは、わかりませんが。

 法的に考えてみても、同じことがいえます。たとえば、犬が人を噛んで、その人に怪我をさせたところ、怒ったまわりの人たちがその犬を殺したとしましょう。でも、犬を殺したからといって、それで犬に責任を取らせた思う人はいませんね。犬は、しかりつければ条件反射でおとなしくなるかもしれません。しかし、犬が反省して、自己のアイデンティティを変えるということはありません。すくなくとも、現在の科学では、犬の反省は確認できていません。犬を擬人化して、感情移入すれば別の話になるのかもしれませんが。つまり、まわりの人たちが怒って犬を殺したということは、犬が強暴だから排除したというだけの話です。この問題は、触法精神障害者の「責任」の問題とリンクしています。心神喪失状態の人の刑事責任が問えないということになっているのは、その人が物理的におこなったことの意味を理解したり、反省的に記憶に留めることができないと見なされているからです。言い換えれば、私は私であるというアイデンティティをしっかり持てず、自分の行動を自分の意志によって制御できないと見なされている、ということです。動物と同じなのだから、責任を追及することはできないということですね。だから、精神障害者の人権を擁護する人の中にも、むしろ、精神障害者の人格を認めて、法的に問題のある行動を起こした場合には、きちんと法的責任を追及すべきだという人もいます。

 ようするに、「責任=応答可能性」の基盤となる人格の「継続性」が、ここでは問題となるわけです。そう考えていくと、「責任」は、不可避的には「死」の問題とつながってきます。それは、なぜなのでしょうか? 普通に考えれば、「死」ねば「応答」のしようがないからです。法律的・政治的な「責任」の範疇で考えれば、私が悪いことをやったということが、私が死ぬまでどの他者からも感知されなかったとしたら、死んでしまった私はもうこの世には存在しないので、それ以上の責任を追及されません。ならば、自分の墓まで秘密を持っていけばよい、ということになります。実際、不祥事を起こした日本の企業の幹部が無責任に思えるのは、そういう発想をしているからでしょう。逆に、相手を消滅させても、責任は消えます。民族浄化やブルジョワの粛清といったことは、「応答可能性」を断つという発想に基づいているのかもしれません。
 そういう発想に対抗するには、どうしたらいいか。「誰かがかならず見ているので、悪いことはできない」といっても、説得力はありません。そんなことは、技術を磨き、権力を増大させれば、どうにか対処できてしまうからです。最終的には「お天道様が見ている」という感覚がないとダメなのです。死後にも、私の「責任=応答可能性」を継続させる“何か”がないと、法的正義を超えるような、絶対的な「責任」の観念は出てきません。だからこそ、「死」というモチーフが、「責任=応答可能性」の文脈で出てくるのです。それこそが、『死を与える』というデリダによるエクリチュールの“主題”なのです。

 じつは、こうした問題は『実践理性批判』でカントが提起していました。カントは、人間が理性に基づいて善を追求するには、「意志の自由」と「魂の不死」、そして「神」が必要である、としています。この私は、自然の法則にしたがって機械的に動いている動物のような存在ではなくて、自由意志にしたがって自己の行為について選択し、判断できる存在である。だから、やったことに対しては「責任=応答可能性」が生じる。そして、この私の魂は死後も継続していて、それを絶対的な神が見ている。したがって、自分がやったことに対する「応答可能性」から逃れられない、という話です。この三つのうち、「魂の不死」と「神」が抜けてしまうと、善を追求する意味がなくなります。人格の継続性を考えるときに、性格は変わるかもしれないし記憶も変わるかもしれないが、その根底にある「魂」は死後も――神の目から見て――変わらないものである。そういう信念こそが、倫理や道徳が成立する根拠になるわけです。

 カントは、神の存在を証明することは不可能であると、『純粋理性批判』で明言しています。一方で、道徳的な振る舞いの根拠としての「神」という観念は不可欠だと主張するのです。さらに、自分と他人の魂を関係づけているものは「神」である、と便宜的に述べます。デリダは『死を与える』で、そのことを間接的に示唆しているようです。彼としては、いきなり「神」というわけにはいかないので、キルケゴールやパトチカの「死」のモチーフを契機として、責任=応答可能性を見守る絶対他者としての「神」のことを暗示しようとしたのだと思います。神を絶対他者だというと、キリスト教系の思想史になじみのない人は、違和感を覚えるかもしれませんが、そんなむずかしいことではありません。前述のように、「人間、死ねば終わりだ」と思っていれば、責任=応答可能性を引き受ける“主体”としての「私」もいつか消滅してしまいます。それと同時に、責任を追及する他者もいつかは消滅するはずです。そもそも、相手の中に、私と同じような“心”があるかどうかさえ、わかりません。「私と同じような自由意志を持った他者がいて、その他者も私と同じように不死の魂を持ち、永遠に私に応答を求めてくる」ということが成り立つには、やはり他者にとっても“他者”である絶対他者としての「神」が必要になってくるわけです。

 西欧では、キリスト教の影響で、死後も地獄や天国に魂が残るとされています。とはいえ、そうした考え方が通用するのはキリスト教圏だけなのではないか、という疑問も残ります。(ユダヤ人として生まれた)デリダは、キリスト教的な形而上学として、神を無条件に前提としてしまうような考え方を脱構築します。そして、その脱構築と同時に、どうしても倫理につきまとう「死」というものを取り上げます。そうすることで、カント的な実践倫理の前提をめぐる議論を、できる限りキリスト教抜きで再構成しようとしているように、私には読めるのです。魂のようなものが死後も存在しつづけると想定しなければ、道徳や倫理は、その場のリアリティの問題としてのみ解釈されてしまい、機能しなくなってしまいます。このことはおそらく、特定の宗教を信じない人も認めざるを得ないことでしょう
 ここで「死を与える」という表現に注目してみましょう。「死を与える」と直接的にいうと、日本語としては違和感があるかもしれません。とはいえ、封建時代などに、主君が家臣に対して切腹を命じて、家臣がそれを慎んで受け入れるというのも、基本的には「死を与える」「死を賜る」という関係だといえますね。殉死というのも、「死」のやりとりです。しかし、よく考えてみると、「死」の「受け手」が死者、つまりすでに死んでいる人であれば、「与える」という行為は成立しません。人が死んで、肉体的に消滅したとしても、魂は残るという前提だからこそ、「死」を「与える」という行為が成立しているのです。「与え」られようとしている「死」と直面することにより、魂の不死性という観念への気づきが生まれ、そこから人は、「責任」について本格的に考えるようになるわけです。

 デリダはまた、『死を与える』の中で、普通の人間同士の関係で、「交換=ギブ・アンド・テイク」ではなく、純粋に「与える」ということが成立するのかどうかを検討しています。人間同士の関係として、AさんがBさんに対して、Xをあげたとします。そうすると、BさんはAさんに対して、精神的な負い目や負債を感じることになります。AさんがBさんに精神的な見返りを求めなくても、負い目のあるBさんには、Aさんにもらったものに対する応答責任が生じます。人間社会の倫理は、通常、そうした「負い目」に対する「責任」の連鎖としてできあがっているわけですが、それをよく考えてみると、交換を拡大・延長しただけではないかという気もします。Bさんは、Aさんに負債を直接返す代わりに、まだ見たことのないPさんやQさんに、いずれその負債を返す責任を負うことになるわけです。「情けは人のためならず」ということですね。
 「情けは人のためならず」で、みんなが恩恵を受けるのなら、それでもよいではないか、と思うかもしれません。しかし、基本的にはその人たちが属する共同体の中の交換関係の延長なので、共同体の外部の人は、その交換関係から排除されるおそれがあります。また、本人は「何々をしてあげた」というようにプラスのことをしたつもりでも、共同体の外部にとってマイナスであることなど、よくあることです。コミュニケーションが成立していなければ、善意のつもりでおくったものがマイナスだと理解され、負のお返しが来ることも、大いにあり得ます。では、そうした交換のエコノミーの円環を超えた、真の贈与・倫理の絶対的根拠のようなものがあるのでしょうか?

 倫理の絶対的原点としての純粋な「贈与」ができるのは、やはり「神」だけだ、という話になると私は思います。すべての負い目の連関を超越したところに神がいて、神が「全体」を見わたしていると考える。だからこそ、個人の理解の範囲を超え、共同体の倫理を超えたところで、「善」を考えようとする契機が生じてくるのです。そうでなければ、倫理とは、その状況やその共同体ごとにバランスを取りながら、単に問題を解決するメカニズムでしかありません。

●「死」を与えるエクリチュール

 こうした魂の継続性と神の問題は、比喩的にはエクリチュールの問題とからんでいます。さきほど述べたように、エクリチュールは、生き生きとした言葉が消滅したあとの、いわば死骸のようなものです。そして、その死骸であるエクリチュールを通じて、私たちの語った言葉は、私たちの死後も保存されていきます。デリダの肉体は死んでも、彼の署名の入ったエクリチュールは残っています。彼の署名で書かれたことに対する責任を、私たちは、生きている主体に対するのと同様に、死んでいる彼に対して帰そうとします。エクリチュールをとおして、私たちは、いずれ死すべき主体、あるいはすでに死んだ主体とつながっているのです。魂の死骸であるエクリチュールは、ある意味では「神」のメタファー(隠喩)のような役割を担っているのです。
 そして、その死骸をとおして、人びとは無限に連鎖する責任=応答可能性について考えさせられ、ふたたび責任=応答可能性について記述しようとする……。イサク奉献の物語が、ユダヤ教からキリスト教へとエクリチュール的に継承され、カント、キルケゴール、パトチカ、デリダ、そして日本のデリダ読者に取り憑きつづけます。このように「責任=応答可能性」は、エクリチュールを介してくるくる回っており、私たちはその回転の中にハマっているわけです。キルケゴールやデリダのように突き詰めて考える人はあまりいないでしょう。しかし、エクリチュールを介して他者とつながり、「応答」し合っている“私たち”全員が、いま述べたような問題圏の中に身を置いているのだもといえます。

 「どうして人を殺してはいけないの」と素朴に問う人も、その問いのあて先があること、つまり「応答」してくれる誰かがいると想定しています。そして、その存在がただの機械ではなく、私のように心を持った自由意志の“主体”であると、どこかで信じている。そうでなかったら、そんな無意味な問いかけをするはずがありませんね。そうやって問いかけるときには、その問いかけがマスコミなどを通じて、エクリチュール的に拡散していくことも期待しているでしょう。神のように時空を越えて“存在”するエクリチュールの中から、純粋な「答え」が「与え」られるのかもしれない、と期待するからこそ、一見すると「答え」が「返って」きそうにない問答が可能になるのです。2ちゃんねらーやブローガーたちこそ、もっとも切実に、「死」を越えた純粋な「贈与=神の賜物」を期待しているのかもしれません。

 こうしたデリダの物の見方から学ぶべき教訓があるとすれば、それは自分の内なる形而上学的な欲望を自覚せよ、ということです。「つながり」を求めるということは、じつは「死」を越えたエクリチュールを求めていることだといえます。つまり、サヨクもウヨクも、自分では自覚しないままに、魂の不死に対する欲望を喚起するエクリチュールに取り憑かれているのです。

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