双風亭日乗

2008年4月17日 (木)

「人間の終焉」とは何か?




 前回はデリダのエクリチュールに付きまとう「死」の問題について考えてみました。今回、取り上げるフーコーもまた、ある意味、「死」の思想家だといえます。彼は、近代の前提となっていた「人間」をめぐる、生き生きしたエクリチュールが終焉する可能性を示唆しています。その主著『言葉と物』の末尾のほうで、ニーチェの「神の死」とからめて、神を殺してしまった「最後の人間」の運命について、彼は以下のように述べています。

 彼は神を殺したのだから、みずからの有限性の責任をとらねばならぬのは彼自身であろう。しかし、彼が話し思考し実存するのは神の死においてであるから、その虐殺そのものも死ぬことを余儀なくされる。新しい神々、おなじ神々がすでに未来の大洋をふくらませている。人間は消滅しようとしているのだ。神の死以上に――というよりはむしろ、その死の澪のなかでその死とのふかい相関関係において――ニーチェの思考が告示するもの、それは、その虐殺者の終焉である。(渡辺一民・佐々木明訳『言葉と物』新潮社、四〇七頁以下)

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2007年9月18日 (火)

「死」のエクリチュール




■第4回■


●「死」を与える

 後期のデリダに、『死を与える』という本があります。これも「責任」論の文脈で書かれたものです。この本の主題は、キルケゴールが強く関心を持った旧約聖書創世記に出てくるアブラハムの「イサク奉献」です。旧チェコスロヴァキアの反体制活動家で哲学者のヤン・パトチカも、このエピソードについて論考を残しており、デリダの議論はパトチカのそれを受けたものです。
 その時代の義人であり、神の歴史の主人公であったアブラハムには、子孫が大地の塵のように増えるであろうという約束を神から与えられていましたが、正妻であるサラとのあいだには、なかなか子どもが産まれません。アブラハムもサラも年老いたころ、ようやくイサクという子どもを奇蹟的に授かりました。ところが神は、子どもを授かったアブラハムに「汝のイサクを供え物として捧げよ」と命じます。神の約束と命令が矛盾していますね。さんざん迷ったあげくのはてに、アブラハムは指定されたモリヤの山で、イサクを祭壇にのせて殺そうとします。ところが、殺そうとしたその瞬間、「汝の信仰はわかった。イサクを殺すな」という神の声が聞こえます。

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2007年8月31日 (金)

「死」のエクリチュール




■第3回■


●「責任=応答可能性」の問題

 後期のデリダの思想では、「責任」概念が重要だということは、高橋哲哉さんがいろいろなところで強調しているので、知っている人も多いと思います。「責任」を意味する英語の〈responsibility〉は、語のつくりから見ると、「応答 response」する「可能性 -ability」ということです。自分以外の誰か(他者)に対して「応答」するということですね。「他者」から、ある出来事について、何らかの問いかけがあった場合、それに対して「答える」べき立場にいること。あるいは、「答える」準備をしていること、というのが西欧の言語における「責任」の原義です。
 後期のデリダは、『死を与える』をはじめ、いくつかのテクストで、(他者に対する)「責任」とはどういうことかを徹底して考えています。彼の思考を私なりに説明すると、以下のようになります。〈response〉は、しっかりとした言語による「応答」だけでなく、単なる「反応」も意味します。単なる「反応」であれば、私たちはつねにしています。戦争や災害、独裁政権下の圧制などで苦しい目にあっている人を目の当たりにしても、あまり感動しない“人非人”はたくさんいます。私もたぶん、そのひとりです。しかし、そういう私でも、苦しんでいる他者の情報を与えられれば、何がしかの反応はします。おたがい同じ地球上に住んでいるのですから、何がしかの極めて微小で物理的な反応が相互作用しているでしょう。

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2007年8月31日 (金)

「死」のエクリチュール




■第2回■


●エクリチュールによって「生かされる」物たち

 話をもう一度、「音声中心主義」に戻します。人間が生活していて“自然”と発する「生の声」がオリジナルであり、「生の声」こそが私たちの“本当の気持ち=魂の叫び”を映し出す、まじりっけのない透明の媒体であるとしましょう。すると、それを無理やりかたちだけ記録するエクリチュールというものは、魂が抜けたあとの抜けがら、いわば「死骸」のようなものですね。
 多くの人は、何となく、エクリチュールはあまり生き生きしていないと思って、物足りなさを感じます。本屋さんでトーク・イベントなどが開かれるとき、「生・宮台を見る」とか、「生・東浩紀を見る」という人がいます。そういう言い方をするのは、死骸であるエクリチュールからはうまく伝わってこない、宮台さんや東さんの生き生きした“本当の声”=「本当に言いたいこと」を聞きたいという願望を、聴衆が抱くからです。
 イベントに行った人の中には、“生もの”を見て、ある程度満足する人もいるでしょうし、「あれこんなはずじゃなかったのに」と当てがはずれてがっかりする人も多いでしょう。“まじめなファン”の中には、「宮台さん、調子悪かったのかな。あれは本当の宮台さんじゃない」と思う人がいたり、逆に「見に来てよかった。あれこそ、本当の宮台さんだ」とひとりで納得してしまう人もいることでしょう。

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2007年8月21日 (火)

「死」のエクリチュール




■第1回■

 ここまで取り上げてきたアドルノ、ベンヤミン、そしてアーレントが、ドイツ出身の思想家であり、ドイツの思想・哲学史を背景に言論活動したのに対し、デリダはフランスの思想家です。ただし、彼もユダヤ系です。しかも、長いあいだフランスの植民地だったアルジェリアの生まれです。「イスラム圏の中にあるフランスの植民地に生れたユダヤ人」という複雑なアイデンティティを背負っているわけですね。彼の少年期には、フランス本国がナチス・ドイツに占領された煽りを受けて、アルジェリアのユダヤ人たちは、植民地当局によって、公民権を剥奪されています。そして、一九五八年にアルジェリアが独立したことにより、彼の生まれ育った土地は、フランスではなくなりました。

 そうしたポストコロニアル的な体験が、多かれすくなかれ、彼の特異な文体や哲学、とりわけ文芸批評の素養のあるフランス人にさえ何をいわんとしているのかなかなか理解でず、まるで前衛詩でも書いているかのごとく言葉をまさぐりまわす、くせのある文体に反映されているといわれています。彼にとってのメインの言語は、フランス語のはずです。しかし、フランス語が自分の「母語」だと、彼は言いにくかったのかもしれません。彼の「母語」に対する微妙なスタンスは、『たった一つの、私のものではない言葉』というデリダにしては比較的わかりやすい文章で表明されています。

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2007年4月16日 (月)

「生き生き」とした言葉があふれかえる現代日本。人びとはなぜ、紋切り型の言葉を求めるのか。マスメディアや知識人はなぜ、「生きた言葉」を発するのか。そして、その歴史はどう語り継がれてきたのか。
「生き生き」とした言葉の裏側を覗いてみると、そこには死に絶えつつある思想の死相があらわれているのではないか。


本書は、「生き生き」とした言説を徹底批判した『デリダの遺言』(弊社刊)の続編である。アドルノ、ベンヤミン、アーレント、デリダ、ハイデガー、フーコー、マルクス、ニーチェ、ラカン、スローターダイク。10人の知の巨人が登場する。


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