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<title>書籍出版 双風舎：【連載】「思想の死相」</title>
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<title>フーコーの思想を読む</title>
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<description>「人間の終焉」とは何か？ 　前回はデリダのエクリチュールに付きまとう「死」の問題...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;「人間の終焉」とは何か？&lt;/strong&gt;&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　前回はデリダのエクリチュールに付きまとう「死」の問題について考えてみました。今回、取り上げるフーコーもまた、ある意味、「死」の思想家だといえます。彼は、近代の前提となっていた「人間」をめぐる、生き生きしたエクリチュールが終焉する可能性を示唆しています。その主著『言葉と物』の末尾のほうで、ニーチェの「神の死」とからめて、神を殺してしまった「最後の人間」の運命について、彼は以下のように述べています。&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;　彼は神を殺したのだから、みずからの有限性の責任をとらねばならぬのは彼自身であろう。しかし、彼が話し思考し実存するのは神の死においてであるから、その虐殺そのものも死ぬことを余儀なくされる。新しい神々、おなじ神々がすでに未来の大洋をふくらませている。人間は消滅しようとしているのだ。神の死以上に――というよりはむしろ、その死の澪のなかでその死とのふかい相関関係において――ニーチェの思考が告示するもの、それは、その虐殺者の終焉である。（渡辺一民・佐々木明訳『言葉と物』新潮社、四〇七頁以下）&lt;/blockquote&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　「神を殺した者は、自分も終焉しなければならない」。これは、伝奇的な文学とかアニメで出てきそうな設定です。キリスト教神学と西欧哲学の関係について勉強したことがないと、ぴんと来ないかもしれませんね。ただ、前回の「死」をめぐるカントとデリダの繋がりの問題を覚えていたら、どういう脈絡で出てくる話なのか、イメージできるのではないかと思います。「神」がいて、神が私たちの「不死の魂」の動向を見守っているという前提があれば、私たちの行為に対する「責任＝応答可能性」が雲散霧消することなく、「倫理」が成り立ちます。しかし、「責任」の最終的な準拠点としての「神」を殺してしまうと、すべては、いつか消滅する存在である「私」が「責任」の準拠点となる。そして、「私」がいなくなったら、すべては無意味になります。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　そうすると、とりあえず「私」が存在しているあいだは、あらゆる価値や規範、そして正義の唯一の源泉に、私がなります。それは、「この私」以外のものから見れば、無秩序、またはカオスと同じことです。「神」を殺して、自分自身が未来の“神”になろうとする人間は、（第三者的に見れば）何の規範もなく、気ままに動き回っている存在ですから、ただの「動物」と同じです。動物のほうに“人間”としての自覚があっても、それがほかの誰にも認知されないのであれば、何の意味もありません。自分で「俺は人間だ！」と叫んでも、誰も聞いてくれません。そのうち力がつきて、その叫びも消えていきます。それが「最後の人間」です。手塚治虫のアニメに出てきそうな、気持ち悪い話ですね。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　むろん、フーコーはSF作家でも預言者でもないので、「人間の終焉」というのは、何かしらの大破局があって、人間が生物学的に死滅していくという話ではありません。「人間」という理念が「終焉」するということです。東浩紀さんが「動物化」といっているのと同じような意味で、「人間」としての共通性が崩壊して、ヒトとヒトがばらばらになっていくというようなことです。&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■終焉とは何か？&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　まず、フーコーの議論に即して、「終焉」というものが何なのかを考えてみましょう。「終焉」というのは、フランス語で〈fin〉、英語で〈end〉で、この単語には「目的」という意味もあります。日本語の感覚からすると、「終わり」と「目的」が同じであるというのはヘンですが、「目的」というのを、何かが運動をスタートするときに、その運動の最後＝終わりにそこへ到達すべく、「目」指している「的」であると考えれば、[終わり＝目的]であることも理解できるでしょう。「人間の終焉」という場合の「終焉」は、「人間」という目的はすでに果たした、あるいは「人間」という目的自体が消滅した、だから「人間」はなくなっていくという意味合いがあります。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　さらにいえば、「終わる」を意味するフランス語の動詞〈finir〉の過去分詞形である〈fini〉は、「終わっている」という本来の意味のほかに、「有限である」という意味もあります。「無限」を意味する〈infini〉や「定義」を意味する〈definition〉（編集者注…これはフランス語で、本来は「e」の上にアクサン・テギュがつきます）にも、〈fini〉というつづりが入っています――これらは英語でもほぼ同じ言い方をしますね。これらの事例からは、「終わり＝目的」の地点が、そのものの「限り」、すなわち「限界」であるということを含意していることが読みとれます。こうしたかたちで「人間の終焉」という言葉の意味を読み込むと、「終焉＝目的」に達したせいで、「人間」の「限界」が見えてきた、ということにもなります。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　フーコーのいう「人間」とは、当然、生物としてのヒトということではありません。また、ＳＦのような人類滅亡の話をしているわけでもありません。あくまでも「人間」という概念のことです。それも、古代ではなくて西欧近代の、知の体系における「人間」という概念です。フーコーは、各時代には、その時代特有の知の地平（エピステーメー）があって、様ざまな学問、とくに人文系――日本語で「人文」というのは、英語では〈humanities〉、つまり「人間性」の複数形です――の諸科学の基本概念は、そのエピステーメーの中で相互に支えあう関係にあると考えます。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　ひとつの知の分野が、隣接するほかの分野とまったく関係のない概念体系を持っていることはありません。たとえば、現在の英文学だったら、仏文学や独文学などのほかの西欧文学研究や言語学、哲学、歴史学、社会学、そして精神分析などの隣接領域から、まったく独立するというわけにはいきません。それらの領域とのあいだで、ある程度、使う概念を調整しなければなりませんね。知の体系の大きな変動が起きるときは、個別の知の領域ごとに大変動するというよりは、「エピステーメー」全体がまとまって変化するとフーコーは言います。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　『言葉と物』では、西欧世界のエピステーメーには、ふたつの大きな切れ目があると述べています。ひとつは、一七世紀半ばにはじまった「古典主義の時代」とそれ以前とを隔てる切れ目。もうひとつは、一九世紀初頭にはじまって、フーコーたちの思考を規定している「近代性」の時代と、古典主義との切れ目です。ただし、その「近代性」のエピステーメーも、二〇世紀になって、文化人類学や精神分析が出てきた頃から揺らいでいて、そろそろ「終わり」に指しかかっていると彼は指摘します。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　フーコーは、「人間」という概念が「近代性」のエピステーメーの形成過程の中で発明されたものだと主張します。具体的にいうと、近代で重要な学問分野として形成されてきた生物学や言語学、そして経済学などにおいて、「人間」という概念が重要になってきます。近代の「言語学」において、「人間」が必要だというのは、こういうことです。つまり、文献を調べて、個別の単語が歴史的にどう変化してきたかとか、こういう用法は正しくて、こういう用法は間違っているということを、名文家の文章を基準に決めていくという作業をして済ませるだけであれば、言語を操る主体としての「人間」という統一概念を持ちださなくて済むかもしれません。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　しかし、チョムスキーの変形生成文法のように、表面に出ている言葉だけでなくて、その言葉を操り、文法にあったかたちへと組み立てる人間の「精神」の深層構造まで問題にするような研究ですと、「人間はこういうふうに言語を操るものだ」というような法則を立てる必要があります。近代の言語学は、単に実際どう話すかとかどう書くかを文法として記述するだけではなく、人間の心の中で、どのように各音がイメージされ、文が組み立てられるかを探究して、あらゆる言語に共通する普遍的な法則を探究しようとするところがあります。だから、あらゆるヒトに共通する「人間性」を仮定する必要があるんですね。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　生物学や医学など、生命関係の諸科学で分類の項目として、「人間」という統一概念が必要であることは、説明する必要はないでしょう。「経済学」でも、市場での価格の動向や収益率、そして企業経営のパフォーマンスなどを一般的な法則として導き出そうとすれば、「労働価値説」などの仮定を立てて、「人間」とはどういう条件下で何を欲しがり、そのためにどういう行動を取るのか、という仮定が必要です。どの人間にもほぼ当てはまるものでなければ、法則を立てられません。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　アダム・スミスは、『諸国民の富』で、「労働価値説」に基づく普遍的な「人間」観を打ち出しました。心理学も、「人間はこういう刺激を与えると、このように行動するものだ」という前提がなければ成り立ちません。社会学も人類学も政治学も、「こういう関係性のなかで、こういう利益を求めるとき、人間はこういう振る舞いをするものだ」という一般的な法則性がなければ、近代的な科学として機能しません。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　このように、人間に関する諸科学は、「人間」とはこういうものだという普遍的な前提をそなえていて、はじめて成立するような「知」の体系です。ちいさな共同体の中で共同生活している段階では、その共同体の慣習にしたがって生きていれば、とくに問題もなく暮らしていけました。ですから、「人間」の普遍的性格を規定する必要などなかったのです。ところが、社会の規模が大きくなると、習慣も考え方も違うよくわからない人同士や、場合によっては一度も出会ったことない人同士が共同生活するようになります。そうなると、社会全体を統制したりまとめたりする必要が生じます。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　そして、人というのはどういう欲望を持ち、どのようなメカニズムにしたがって行動しているのか、ということを考えることが、だんだん必要になってきます。一九世紀になると、市民社会を構成する不特定多数の人間をまとめ、同じような労働に従事させながら、相互の利害関係を調整し、大きな対立が起こらないよう制御するため、その見とおしを与えてくれる「人間」という統一概念が不可欠になったということでしょう。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　フーコーは、マルクスの下部構造決定論のように、生産関係によってすべてが決まるというような論法は取りません。むしろ、そういう還元主義的な発想には批判的です。とはいえ、「知」が自己完結的なものだとも考えません。「知」は、そのときどきの社会をコントロールしようとする技術的な試みと連動しながら発展します。「統治」の術です。その「統治」の術にしたがって、人間の身体性も変化します。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　単純化していえば、ある社会で、「性」的衝動をコントロールするために、性的刺激を感じさせるようなところ――社会によって、体のどこを見せたら性的に興奮するか微妙に異なるようです――を念入りに隠す服装が発達し、それを権力が強制したとします。すると、統治される一般民衆の側にも、そういうところを見せるのは恥ずかしいことだというメンタリティ（精神性）が育ってきます。このように、権力による統治（gouvernement）と、それを受ける側のメンタリティ（mentalite）（編集者注…最後の「e」の上にアクサン・テギュがつきます）が一致している状態のことを、フーコーは、統治（精神）性（gouvernementalite）（編集者注…最後の「e」の上にアクサン・テギュがつきます）と呼びます。これは、フランス語の辞書には載っていない、彼の造語です。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　そのようにして、近代的なエピステーメーの中で「人間」という普遍的な概念がつくられ、それを応用するかたちで、軍隊や警察などを中心に「人間」を統治するための技術が発達します。軍隊というところは、兵隊の身体を管理し、闘いに向けての士気を高めるために、医学や精神医学、そして公衆衛生などの「人間」の身体の知識を動員する場所ですね。また、警察は、指紋とか血液などの「人間」の身体の特徴を研究して、それを捜査に生かします。捕まった囚人は、監獄などで矯正教育を受けますが、ここでも「人間」の本性に基づいて、人間を再教育する技術が問題になります。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　フーコーは、有名な著作『監獄の誕生』で、功利主義者のベンサムが提案した一望監視装置（パノプティコン）を備えた監獄の構想を、近代的な人間管理術の典型だとしています。パノプティコンというのは、ドーム状の円形建築で、円周上に沿って囚人の独房を設置し、中央に監視所を置くような構造です。独房と監視所のあいだは、上から下まで吹き抜けになっています。そこで、ブラインドなどをうまく利用し、囚人のほうからは監視所は見えないけれど、監視所からは独房の中の囚人の動きがよく見えるようにするわけです。そうやって、個々の囚人に、自分は不可視の権力によって常に監視されているという意識を植え付け、いちいち見ていなくても、自分の立ち居振る舞いを自分でコントロールするように仕向けるわけです。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　近代には、そういう「人間」の習性をうまく利用して、社会を統治する「知」が発達したのです。社会学や心理学、文化人類学、そして教育学のいずれも、社会を統治するための「人間学」としての側面があることは否定できません。これらの分野の学者さんの中には、反権力的な立場を取る人もすくなくないわけですが、たとえ本人が反権力のつもりでも、「人間」というものについての知識を体系化することによって、権力に利用される可能性はあるわけです。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　ローカルなことを言いますと、日本の大学では、文系ですとフェミニズムやジェンダー研究、マルクス主義的労働者運動、そして反戦平和運動などの“反権力”的な研究をやっている人が、そうした研究枠での科学研究予算を文部科学省から割り当てられ、場合によっては、その研究をやること自体が就職に有利に作用するということはよくあることです。「こういうテーマだったら、絶対に権力に利用されない」という研究など、ないのです。さらに、権力の中枢が交代すれば、何が既成の権力保持にとって有用であるという判断も変化します。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　このようにして、様ざまな分野できあがった統治客体としての「人間」像が、治安対策や医療や教育、そしてメディアなどを通じて、個々人の身体性にすり込まれ、私たちの日常的な習慣の一部となりました。私たちは、みずからの身体の「内」から作用する「生・権力 bio-pouvoir」に操られているが、多くの場合、私たちはそのことをかならずしも自覚していない、というのがフーコーの議論の立て方です。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　「生・権力」という言い方をするのは、軍隊や警察のように、「したがわなければ死だ！」という感じで、露骨に脅かしていやいやしたがわせるのではなく、「こういうのが『人間』としての正常な生き方だ」という感じで、各主体の内面に「正常性＝規範」を埋め込んで、“まともな人間性”へと誘導するからです。当然、従来的な意味での外的な権力と違って、「生・権力」は、特定の支配者の占有物ではなく、私たちの内面にすこしずつ分布しているものです。人間としての“まともさ”は、誰か特定の権力者の意向だけで、好き勝手に決まるものではないですね。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　もうすこしわかりやすくいうと、「生・権力」とは、「人間であり続けなければならない」と感じさせるプレッシャーです。動物であれば、その場その場の欲求が満たされていれば生きていけます。しかし、人間として生きていくためには、一定のパターンに即して身体を動かしたり、型にはまった思考を持たないと、仲間はずれにされてしまう。男性が女性っぽい服装や仕草をしたり、女っぽい言葉を使うと、白い目で見られることがありますね。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　私は箸の持ち方がうまくありませんが、そういうのはダメな人間だと思う日本人は、若い人にも意外と多いようです。そうした慣習を自然に身体が覚えていて、意識しなくても「正常」に動いたり考えたりすることができるうちはいいが、それを忘れていくと生きるのがきつくなる。だから、様ざまな場における広い意味での「教育」を通じて、その型を身体に刻み込み、自然化していくことが重要になります。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　人びとを「正常性」へと導くには、「人間」という範型が必要です。ただ、「人間というものはこういうものだ！」という圧力があまりにも露骨で可視的だと、型にはまることを嫌がる人がいるかもしれなません。警察権力によっていちいち脅したりすると、反発する人間の抵抗が次第に強まっていくので、手間もコストもかかる。ですから、可視的な押し付けは、あまり洗練されていきません。洗練された近代の「生・権力」は、不可視な状態で範型を作り出し、それとなく刷り込んでいくのです。こうして、人びとが無自覚的に、みずから進んでその範型にはまってしまうと、「人間」としてまともに生きることの圧力から抜け出せなくなる、とフーコーは言います。&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■現代思想にとっての「人間性」&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　すこし話題がずれますが、サイードやスピヴァクなどによるポストコロニアリズムの思想は、一九世紀の西欧の先進資本主義諸国が植民地化とした第三世界の人びとの内に、統治する側の自分たちとの「人間」としての共通性と同時に、差異性をも“見いだす”ことを問題にします。西欧の植民者たちは、「彼ら」の内に、（自分たちがすでに発見した）どの「人間」にも普遍的にあるような共通性を“見つける”ことにより、「彼ら」も「人間」であることを確認します。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　しかし、その次に、現在の「彼ら」が「私たち」と違っている、端的にいえば、理性の働きや文明の面で自分たちよりも劣っていると見なすようになります。そして、そのギャップを埋めるべく、自分たちが実践してきた「人間」化の技術を移入しようとします。つまり、（自分たちがつくり出した）普遍的な「人間」性の尺度に基づいて、「彼ら」を「私たち」よりも遅れていると見なし、善意で「私たち」の水準まで引き上げようとしたわけです。いわゆる啓蒙主義ですね。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　西洋人の中には、「彼ら」は「私たち」のように物質文明によって穢れていないと、憧れのイメージを投影する人もいます。それが、サイードのいう「オリエンタリズム」であり、西洋世界でできた「理想の人間」像を、植民地化された世界の人々に押し付けているだけです。そういう人たちは、結局、「理性的な私たち」を「人間」の標準尺度にしているので、啓蒙主義者たちと同様に、[理性的な私たち＝野蛮な、あるいは、純朴な彼ら]という二分法で考えます。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　したがって、どうしても「彼ら」の「人間としての幸せ」を目指すというような、おせっかいな発想法から抜けられません。「人間」としての同一性を無理に設定するので、そのコインの裏側にある「私たち」と「彼ら」の差異が気になってしまうのです。いっそうのこと、「人間」という共通枠をはずしたらどうか、というようなラディカルな発想はなかなか出てきません。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　フーコー自身は、そうしたオリエンタリズムの問題にはあまり触れていません。しかしながら、スピヴァクは、フーコーによる西欧のエピステーメー内部における「人間」批判を、「外部」としての植民地との関係に置き換えることを試みています。フーコーの著作では、刑務所の囚人や正常なものではない狂人、そして同性愛者などが、理性的な私たちの「正常性」から逸脱している「他者」として表象されます。そして、「彼らのようにならない」ようにするという「生・権力」的な誘導が働いていくことが指摘されています。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　フーコーが問題にする「他者」というのは、一応「人間」ではあるけれど、「人間」の本来のあり方からずれている存在です。そういうずれたものが、人間／非人間の境界線上を危なげにさまよっている。それを知った「私たち」は、その危ない境界線には近づくまいという思いを強くするわけです。「正常性」の名のもとに人びとを統制するには、「見せしめ」のための“ずれたもの”たちが必要なのです。フーコーの影響を受けたイタリアの思想家アガンベンは、そうした「他者」たちのうち、「見せしめ」のために命さえも危険にさらされるような極限状況に置かれている者たちを、「聖なる人（ホモ・サケル）」と呼んでいます。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　古代のギリシアやローマにも、「人間性（humanitas：フマニタス）」と呼ばれる、理想化された「人間」概念がありましたが、それはあくまでも狭い範囲で適用されるような概念でした。アーレントが依拠したようなポリス的な「人間性」です。基本的には、ポリスの公的領域において、自分の主張をほかの市民たちにアピールするための弁論術や文法、論理学、そして歴史学などの言語的な素養を見に付けている人のことでした。ここから転じて、ルネサンス以降になると「フマニタス」は、そうした古代世界で発展した人間的諸技術を身につけていること＝「教養」という意味で使われるようになりました。さきほど述べた「人文諸科学」という意味の〈humanities〉もここから来ています。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　「教養」とか「人文」というのは、もともとは、「人間」化するという意味だったんですね。いまでいうところの「教養」的な意味合いが強かった、つまり「フマニタス」という意味合いが強かった古代世界の「人間性」は、当然のことながら、そうした言語的な技術が共有されていない社会、あるいは別のタイプのコミュニケション技術が発達した社会では意味をなしません。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　こうした古典的な意味での「人間」概念は、当然、近代ヒューマニズム（humanism）が前提にしている「人間」とは異なります。近代のヒューマニズムは、人間には普遍的な本性があって、それは発見されたものだと考えます。その普遍的な本性として、たとえば理性や自由、真理への意志、兄弟愛などに価値がある、だから「人間」を大事にしなければならない、と考えるのです。ところが、フーコー的な発想をすれば、それは発見というよりは、むしろ「発明」です。古代世界において、きわめて限定的な意味しか持たなかった「人間」概念。近代人はそれを、人文的諸科学の対象として解明すべき「普遍的な本性」を備えたものへと拡張し、それに基づいて自分たちの住む「社会」を均質的に統治するためのものとして、それに依拠するようになりました。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　「人間性」の「解放」だという名目のもとに。しかし、それはけっして解放ではなく、「人間」という型を現実に生きる人びとに当てはめて、窮屈にすることだったのです。旧ソ連・東欧の社会主義政権は、「人間」を解放すると言いながら、じつは自分たちの「社会主義的な理想の人間」像を無理に押し付け、それに合わない人たちを虐殺したり迫害しました。近代市民革命の嚆矢とされるフランス革命からして、ルソー的な「生き生きした自然人」像を人びとに押し付け、逸脱した人たちを人非人として虐殺したこと（恐怖政治）で知られています。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　フーコーは、『言葉と物』を書いた前後、当時のフランスの左翼知識人業界では最大の大物であったサルトルと激しく論争したことで知られています。当時のサルトルは、まさに近代ヒューマニズムの権化のようになっており、「人間」の最終的な解放のためには、マルクス主義のような歴史的弁証法にのっとった運動が必要だと主張していました。ソ連の独裁的体質がわかっていたにもかかわらず、普遍的な「人間性」の名のもとに、ソ連のやっていること必要悪として擁護していたため、左翼内部からも批判を受けていました。フーコーの「人間の終焉」には、サルトルや教条的な共産党員たちに対する、「そこまでして普遍的な人間性を守ろうとするのか？」という皮肉が込められていたと解するべきでしょう。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　高校の教科書などにも書かれていることなので、ご承知かと思いますが、サルトルはもともと実存主義者で、「実存が本質に先立つ」といっていました。わかりやすくいうと、「人間」の本質なるものがあり、それによって私が規定されていているのではなく、いま、現に実在している「私」が、私のあり方を決定するのである、という発想です。いってみれば、非常に意識中心的な発想で、マルクス主義とはとうてい合わない発想ですし、「人間」の本質を規定しようとする近代思想全般とも対立するはずです。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　しかし、サルトルはどういうわけか、「私が私のあり方を決める」のが「人間らしさ」であり、それを阻害するものを除去することが「人間の解放」に繋がる、というような思考回路をめぐることにより、マルクス主義的なヒューマニズムに近づいていきます。そのおかげで、マルクス主義に甘くなりました。フーコーにしてみれば、「人間らしさ」ということに妙にこだわるから、そんなおかしなことになのであり、本当に「実存」が先立つのなら、別に「人間になる」ことにこだわらなくてもよいではないか、ということになるでしょう。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　「人間の終焉」という言説が、現代思想全体にどういうインパクトをもたらしたか、すこし大風呂敷な解説をしてみましょう。先に近代の経済学的なエピステーメーについて見たように、スミスにはじまる古典派経済学もマルクス主義も、近代的な「人間」観の重要な特徴のひとつである「労働価値説」に依拠しています。労働価値説は、「人間」とは社会的な「労働」に従事し、その労働の成果をとおして、他者たちから承認される喜びを感じる存在であるというような前提を、かならず含んでいます。「労働」をいかに組織化し、制御していくかということは、近代市民社会の重要な課題です。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　古典的な労働価値説では、工場での「労働」をとおして生産されるモノ（商品）の使用価値は、どんな人間にとってもほぼイコールであると考えていました。服にしても、机や椅子にしても、工場で生産され、市場で出回っているモノについては、どんな人も、その有用性は認めます（それを現在、必要としているかどうかは別として）。有用性は認めるけれど、いまは取りあえずいらないものと、有用でいま必要なものを交換することから、「市場」での相場が成立し、「交換」が可能になるわけですね。ようするに、他人から有用性を認められるようなものを作り出すことのできる「労働主体」になることが、社会的に認められるということです。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　このように、マルクス主義をはじめとする近代の社会思想は、「労働」による「使用価値説」の産出のメカニズムを批判的に分析し、理想的な「労働主体」の形成メカニズムを探究してきた、といっても過言ではないでしょう。マルクス主義は、資本主義によって「労働」の成果が搾取されていることを批判し、搾取のない社会をつくることを標榜します。しかし、「労働」をとおして必要なモノをつくり出すようになれるのが、「人間」にとって、すばらしいことだという信念は、むしろ強化しています。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　フーコーをはじめとする現代思想の理論家たちは、そういった前提がそもそも間違っているのではないかと問いかけました。「人間」が、社会的に制御された「労働」という行為をとおして、均質な「主体」として形成されること。日本的にいえば、「まじめなサラリーマンになること」が自明視され続けている社会のあり方自体がおかしくないのか、と問いかけたのです。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　こうした問いかけは、ポスト工業社会において、産業構造・社会編成の原理が、近代的な「同一化」からポスト近代的な「差異化」へとシフトしたこととも連動しています。拙著『集中講義！ 日本の現代思想』でくわしく論じましたが、七〇年代から八〇年代にかけてポストモダン思想が台頭した背景には、均質化された労働力を大量に投入しての大量生産による成長が限界に達し、先進諸国が「消費」に成長の軸足を移しはじめたということがあります。人びとに消費させるには、店先に「同じモノ」ばかり並べていてはダメです。バライエティのある「様ざまなモノ」を展示して、人と違ったものを欲しがるよう、潜在的な欲望を喚起する必要があります。当然、従来の日本のサラリーマン的な「同じライフスタイル」ではなく、“多様なライフスタイル”がなければなりません。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　第三次産業を中心に、人の欲望の無限の可能性が探究されるようになったのです。人びとの内に眠っている無意識的な願望を探究するのは、まさに文化人類学とか精神分析の仕事ですが、さきほど述べたように、フーコーにいわせれば、それらは人文科学的なエピステーメーの「終焉」において登場してきた「知」の形態です。フランス系の現代思想では、精神分析や文化人類学の知識を動員して、各種の広告や百貨店の配置、そして都市の構造などを記号論的に分析されたりします。その分析をとおして、そこに表象されている人びとの願望をあきらかにすることが、しばしば試みられています。そういうのは、ポスト近代の都市空間が、（「同一性」を嫌って）「差異性」を志向していることと関係しています。東さんと北田暁大さんの『東京から考える』などは、全体的にそういう話になっていますね。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　むろん、広告産業などがつくり出す「差異」というのは、あくまでも「資本」が自己拡張するためにつくり出したものなので、まやかしものだと議論することは可能です。マルクス主義系の左翼は、よくそういう言い方をします。とはいえ、たとえ“まやかしもの”として生み出されたモノでも、それによってライフスタイルの多様化がある程度実現されてしまうと、これまでの均質的な「労働主体」化が困難になっていきます。ひとつところに腰を押し付けて、同じ仕事をすることをバカらしいと思うよう人たちが生まれてくる。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　浅田彰さんが「スキゾ・キッズ」と呼んだような人たちですね。労働価値説によってつくり出された「現実」を、“まがいもの”が凌駕してしまうわけです。先日亡くなった、大量消費社会の記号学的分析の先駆者ボードリヤールに「シュミラークル」という概念がありますが、これを単純にいえば「まがいもの」ということです。こうして、消費を中心に差異が拡大していくように見える新たな現実と、労働価値説を中心につくり出された現実と、どちらがよりリアルなのか、という話になってきます。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　昨今の日本のロンダンにおける「ニート」をめぐる議論では、「ニート」になった若者たちを「怠け者」と見なして非難する「右」の人たちだけでなく、彼らを犠牲者と見て同情する「左」の人たちさえも、社会から認めれるような価値のある「労働」をできるようになることが、「人間」にとってすばらしいことだと見なすような論調が強くなっていますね。とくに、工業的な技能を身につけて、昔の職人さんみたいに生き生きとしているのが、よしとされる雰囲気があります。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　「下流でも、一応、生きていられたらいい。結婚して、子どもを育てるのがめんどうなら、それでもいいじゃないか」とか、「日本に希望がなかったら、貧しくても、もっと自由にエクソダス（脱出）すればいい。代わりに、日本でもいいという移民の人に来てもらったら、国民国家は消滅するが、それもよかろう」とか、右も左も言いません。かなり常識的な労働価値説に先祖返りしている感じがします。これは、ポストモダン的な不安が広がったことの反動ではないかと、私は思っています。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　「スキゾ・キッズ」な生き方は、けっして楽なものではなく、不安だらけ。そのことは、理屈のうえでは前からわかっていたはずです。八〇年代は、まだバブル前で、大量消費文化によって日本の資本主義が成長していたから、スキゾ・キッズ＝ニート的な生き方をしても、十分に食っていけるように思っていた人が多かったのでしょう。しかし、いまごろになって、そんなに甘いものでないことがわかってきたのでしょう。ポストモダン的だった人たちの中にも、ニート論争に巻き込まれて、労働価値説に回帰している人がけっこういるように見うけられます。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　大量消費社会を肯定すれば、「労働」をアイデンティティの中心とする人間がだんだんと減っていき、「人間性」という共通性を失った人びとがふたたび「動物」化していく。浅田さんに影響を与えたドゥルーズやガタリなどは、精神分析的な視点から資本主義の変化を歴史的に分析して、これまでの画一的な「主体」形成のあり方が変動することを示唆しています。一方、フーコーもかなり早い時期からそうなっていくことを予期し、「人間の終焉」という、きわめてラディカルな表現で、問題提起していたのだと思います。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　もちろんフーコー自身は、自分は「人間」だと思っていたでしょう。彼は同性愛者だったので、近代的な「正常性」を窮屈に思っていたのでしょうけれど、その一方で、人文主義的な教育を受け、学者になったおかげで、「人間」というものについて批判的な目を向けられるようになったことは、十分に自覚していたはずです。彼は、いろいろな社会運動にかかわっていますが、彼の書いているものは、けっして“生き生き”していません。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　後期になると、セクシュアリティの問題に関心を持ちますが、どこかの運動団体のように、「ナマの性」をイデオロギー的に掲げるのではなく、古典的な文献をじっくり読んで、古代の人たちがどのように自分の身体をケアしていたのかを、歴史的に再構成することを試みています。身体の古い位相を文献学的に発掘していく、知の考古学（アルケオロジー）と呼ばれる作業です。そういう作業は、当然、彼の身についている人文主義的「教養＝人間性（フマニタス）」に依拠しているわけです。いわば、「人間性」によって「人間性」を解体するという矛盾したことを、彼はやったのだといえます。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　フーコーは、そういう意味で、みずからは極めて「人文的」な世界観に留まりながら、耐用年数の切れた「人間」は次第に崩れていって、人びとがニーチェの「ツァラトストラ」的な世界に生きることを余儀なくされるだろう、という悲壮な予想をしていたんですね。しかし、本当にツァラトゥストゥラのような動物的な世界になれば、古典古代の文献だけではなく、それを批判したフーコーのテクストも紙くずになって、誰の記憶にも残らないでしょう。「人間」がいないのですから。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　雑誌「現代思想」や「論座」、「Ｖｏｌ．」などで、生き生きと執筆している若手の――ちょっと左翼な――研究者には、フーコー主義の人が多いようです。普遍的な「人間」を解体するというフーコーの思想が、マイノリティの権利擁護になると思っているのでしょう。たしかに、本当に「人間」がいなくなったら、強者も弱者も、負け組みも勝ち組もありません。「現代思想」や「状況」という雑誌を読む人もいなくなります。人文主義的なエクリチュールとは無縁の動物の群れが、いくつもあるだけの状態になります。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　私は「人間」でいたいので、安易にフーコーがよいとはいえません。でも、「人間の終焉」というのは、いやでも受け入れざるを得ないときが来るかもしれない。そう思っています。そうはいっても、「人間の終焉」をラディカルに称揚しながら、ニートの若者の自立支援を説くという、いまの若手ロンダン人の感性には、なかなかついていけません。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>思想の死相</dc:subject>

<dc:creator>sofusha</dc:creator>
<dc:date>2008-04-17T05:42:43+09:00</dc:date>
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<title>デリダの思想を読む 4</title>
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<description>「死」のエクリチュール ■第4回■ ●「死」を与える 　後期のデリダに、『死を与...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;「死」のエクリチュール&lt;/strong&gt;&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■第4回■&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
●「死」を与える&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　後期のデリダに、『死を与える』という本があります。これも「責任」論の文脈で書かれたものです。この本の主題は、キルケゴールが強く関心を持った旧約聖書創世記に出てくるアブラハムの「イサク奉献」です。旧チェコスロヴァキアの反体制活動家で哲学者のヤン・パトチカも、このエピソードについて論考を残しており、デリダの議論はパトチカのそれを受けたものです。&lt;br /&gt;
　その時代の義人であり、神の歴史の主人公であったアブラハムには、子孫が大地の塵のように増えるであろうという約束を神から与えられていましたが、正妻であるサラとのあいだには、なかなか子どもが産まれません。アブラハムもサラも年老いたころ、ようやくイサクという子どもを奇蹟的に授かりました。ところが神は、子どもを授かったアブラハムに「汝のイサクを供え物として捧げよ」と命じます。神の約束と命令が矛盾していますね。さんざん迷ったあげくのはてに、アブラハムは指定されたモリヤの山で、イサクを祭壇にのせて殺そうとします。ところが、殺そうとしたその瞬間、「汝の信仰はわかった。イサクを殺すな」という神の声が聞こえます。&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　ユダヤ教徒やキリスト教徒でない人でも、この話が「信仰」なるものの核心を言い当ててることは、直感的に理解できると思います。多くの神学者や哲学者が、このエピソードに様ざまな解釈をくわえてきました。キルケゴールは、祝福の約束と死の命令のあいだの矛盾を超えたところに、キリスト教的な信仰における「実存」の本質があるとして、それを逆説弁証法と呼んでいます。デリダもまた、「他者」――としての神――に対する無限の責任は、人間が自分の常識とか計算で考えているような、通常の正義を越えたところにあるという意味合いで、このエピソードを解釈しています。&lt;br /&gt;
　ヒューマニズムに慣れている私たちは、人をより多く生かすことやひとりでも多く幸福にすることが正義であると、なんとなく考えているところがあります。しかし、はたしてそうなのでしょうか。自分の常識で、これが「人のためになる」と“主体的”に思っても、別の言い方をすれば、自分勝手に思い込んでいるだけなのかもしれません。さきほど述べたように、善意でやったことが、いろんな連鎖を経て、悲劇を生むことがあるかもしれません。生身の人間には、未来は見とおせませんし、地上の果てまで目を配ることなどできません。もし神のような超越的な存在がいるとすれば、人間の善意なんてでたらめで、瞬間的な思い込みの連なりにすぎないというかもしれません。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　では、神を信じて、神の視点で行動すればよいのかといえば、そんなに簡単な話ではありません。神がいるということ自体は、前提として受け入れたとしても、誰が神の言葉を正確に聞いて、私たち伝えてくれるかということなど、誰にもわかりません。神を信じる点では共通していても、信じるべき「宗派の教義」や「預言者の言葉」が異なれば、おたがいが神を騙（かた）る悪魔にしか思えません。そもそも、人間は有限な視点しか持ちません。ですから、無限の神が必要だといっても、有限な視点しか持たない人間が無限の神を知っているというのは矛盾です。おそらく、ほとんどの宗教団体は、フォイエルバッハが指摘しているように、自分が信じたいものを神に投影しているだけでしょう。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　では、どうやったら、そういう人間的な常識の投影を越えて、「他者」に対する無限の応答可能性としての「正義」に到達できるのでしょうか？　答えは簡単です。人間として、「死」ぬしかありません。つまり、人間としての常識をいったん白紙にして、人間の常識の範疇では表象しきれない、無限の他者としての神の声を聴ける体勢になる必要がある。それが「死」なのです。こういう言い方をすると、まるでオウム真理教のポアの話みたいで気持ち悪いという人もいるかもしれません。実際、『法の力』以降のデリダは、原理主義的な宗教と紙一重のところにいるのではないか、と指摘する人はすくなくありません。スピリチュアル系の新興宗教と、彼の「死」の限界の哲学との違いをあえてあげるとすれば、彼は「死」のあとに人がどうなるかという教義を展開していない、ということになるでしょう。その意味で彼は、こちら側の世界に踏みとどまっているといえます。とはいえ、デリダに感化されて、向こう側に行ってしまう人がいないとはいえません。&lt;br /&gt;
　また、デリダ自身の議論の文脈からはズレますが、本当の意味での「応答可能性＝責任」とは、人間の肉体としての「死」の向こう側を視野に入れざるを得ないと私は思います。それは、おそらく彼自身の議論にも含意されていることです。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　説明しやすくするために、また「反応」の話をしてみます。動物は、何かが起きると「反応」します。ただただ反応するだけです。この反応には、倫理学でいうところの責任はありません。過去にやったことを、みずからの内面で「反省」して、自分のアイデンティティとして心の中に反映させるということをしない限り、単なる反応でしかありません。本当に反省し、悔い改めるかどうかは別として、すくなくとも自分のアイデンティティに関わるような記憶がなければ、反応を越えた「責任」は生まれません。デリダの影響を受けた左派の人が、「記憶のポリティクス」ということを言いたがるのは、そういうことに由来するはずです――彼らがそれを、しっかりとわかっていっているのかは、わかりませんが。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　法的に考えてみても、同じことがいえます。たとえば、犬が人を噛んで、その人に怪我をさせたところ、怒ったまわりの人たちがその犬を殺したとしましょう。でも、犬を殺したからといって、それで犬に責任を取らせた思う人はいませんね。犬は、しかりつければ条件反射でおとなしくなるかもしれません。しかし、犬が反省して、自己のアイデンティティを変えるということはありません。すくなくとも、現在の科学では、犬の反省は確認できていません。犬を擬人化して、感情移入すれば別の話になるのかもしれませんが。つまり、まわりの人たちが怒って犬を殺したということは、犬が強暴だから排除したというだけの話です。この問題は、触法精神障害者の「責任」の問題とリンクしています。心神喪失状態の人の刑事責任が問えないということになっているのは、その人が物理的におこなったことの意味を理解したり、反省的に記憶に留めることができないと見なされているからです。言い換えれば、私は私であるというアイデンティティをしっかり持てず、自分の行動を自分の意志によって制御できないと見なされている、ということです。動物と同じなのだから、責任を追及することはできないということですね。だから、精神障害者の人権を擁護する人の中にも、むしろ、精神障害者の人格を認めて、法的に問題のある行動を起こした場合には、きちんと法的責任を追及すべきだという人もいます。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　ようするに、「責任＝応答可能性」の基盤となる人格の「継続性」が、ここでは問題となるわけです。そう考えていくと、「責任」は、不可避的には「死」の問題とつながってきます。それは、なぜなのでしょうか？　普通に考えれば、「死」ねば「応答」のしようがないからです。法律的・政治的な「責任」の範疇で考えれば、私が悪いことをやったということが、私が死ぬまでどの他者からも感知されなかったとしたら、死んでしまった私はもうこの世には存在しないので、それ以上の責任を追及されません。ならば、自分の墓まで秘密を持っていけばよい、ということになります。実際、不祥事を起こした日本の企業の幹部が無責任に思えるのは、そういう発想をしているからでしょう。逆に、相手を消滅させても、責任は消えます。民族浄化やブルジョワの粛清といったことは、「応答可能性」を断つという発想に基づいているのかもしれません。&lt;br /&gt;
　そういう発想に対抗するには、どうしたらいいか。「誰かがかならず見ているので、悪いことはできない」といっても、説得力はありません。そんなことは、技術を磨き、権力を増大させれば、どうにか対処できてしまうからです。最終的には「お天道様が見ている」という感覚がないとダメなのです。死後にも、私の「責任＝応答可能性」を継続させる“何か”がないと、法的正義を超えるような、絶対的な「責任」の観念は出てきません。だからこそ、「死」というモチーフが、「責任＝応答可能性」の文脈で出てくるのです。それこそが、『死を与える』というデリダによるエクリチュールの“主題”なのです。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　じつは、こうした問題は『実践理性批判』でカントが提起していました。カントは、人間が理性に基づいて善を追求するには、「意志の自由」と「魂の不死」、そして「神」が必要である、としています。この私は、自然の法則にしたがって機械的に動いている動物のような存在ではなくて、自由意志にしたがって自己の行為について選択し、判断できる存在である。だから、やったことに対しては「責任＝応答可能性」が生じる。そして、この私の魂は死後も継続していて、それを絶対的な神が見ている。したがって、自分がやったことに対する｢応答可能性｣から逃れられない、という話です。この三つのうち、「魂の不死」と「神」が抜けてしまうと、善を追求する意味がなくなります。人格の継続性を考えるときに、性格は変わるかもしれないし記憶も変わるかもしれないが、その根底にある「魂」は死後も――神の目から見て――変わらないものである。そういう信念こそが、倫理や道徳が成立する根拠になるわけです。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　カントは、神の存在を証明することは不可能であると、『純粋理性批判』で明言しています。一方で、道徳的な振る舞いの根拠としての「神」という観念は不可欠だと主張するのです。さらに、自分と他人の魂を関係づけているものは「神」である、と便宜的に述べます。デリダは『死を与える』で、そのことを間接的に示唆しているようです。彼としては、いきなり「神」というわけにはいかないので、キルケゴールやパトチカの「死」のモチーフを契機として、責任＝応答可能性を見守る絶対他者としての「神」のことを暗示しようとしたのだと思います。神を絶対他者だというと、キリスト教系の思想史になじみのない人は、違和感を覚えるかもしれませんが、そんなむずかしいことではありません。前述のように、「人間、死ねば終わりだ」と思っていれば、責任＝応答可能性を引き受ける“主体”としての「私」もいつか消滅してしまいます。それと同時に、責任を追及する他者もいつかは消滅するはずです。そもそも、相手の中に、私と同じような“心”があるかどうかさえ、わかりません。「私と同じような自由意志を持った他者がいて、その他者も私と同じように不死の魂を持ち、永遠に私に応答を求めてくる」ということが成り立つには、やはり他者にとっても“他者”である絶対他者としての「神」が必要になってくるわけです。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　西欧では、キリスト教の影響で、死後も地獄や天国に魂が残るとされています。とはいえ、そうした考え方が通用するのはキリスト教圏だけなのではないか、という疑問も残ります。（ユダヤ人として生まれた）デリダは、キリスト教的な形而上学として、神を無条件に前提としてしまうような考え方を脱構築します。そして、その脱構築と同時に、どうしても倫理につきまとう「死」というものを取り上げます。そうすることで、カント的な実践倫理の前提をめぐる議論を、できる限りキリスト教抜きで再構成しようとしているように、私には読めるのです。魂のようなものが死後も存在しつづけると想定しなければ、道徳や倫理は、その場のリアリティの問題としてのみ解釈されてしまい、機能しなくなってしまいます。このことはおそらく、特定の宗教を信じない人も認めざるを得ないことでしょう&lt;br /&gt;
　ここで「死を与える」という表現に注目してみましょう。「死を与える」と直接的にいうと、日本語としては違和感があるかもしれません。とはいえ、封建時代などに、主君が家臣に対して切腹を命じて、家臣がそれを慎んで受け入れるというのも、基本的には「死を与える」「死を賜る」という関係だといえますね。殉死というのも、「死」のやりとりです。しかし、よく考えてみると、「死」の「受け手」が死者、つまりすでに死んでいる人であれば、「与える」という行為は成立しません。人が死んで、肉体的に消滅したとしても、魂は残るという前提だからこそ、「死」を「与える」という行為が成立しているのです。「与え」られようとしている「死」と直面することにより、魂の不死性という観念への気づきが生まれ、そこから人は、「責任」について本格的に考えるようになるわけです。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　デリダはまた、『死を与える』の中で、普通の人間同士の関係で、「交換＝ギブ・アンド・テイク」ではなく、純粋に「与える」ということが成立するのかどうかを検討しています。人間同士の関係として、ＡさんがＢさんに対して、Ｘをあげたとします。そうすると、ＢさんはＡさんに対して、精神的な負い目や負債を感じることになります。ＡさんがＢさんに精神的な見返りを求めなくても、負い目のあるＢさんには、Ａさんにもらったものに対する応答責任が生じます。人間社会の倫理は、通常、そうした「負い目」に対する「責任」の連鎖としてできあがっているわけですが、それをよく考えてみると、交換を拡大・延長しただけではないかという気もします。Ｂさんは、Ａさんに負債を直接返す代わりに、まだ見たことのないＰさんやＱさんに、いずれその負債を返す責任を負うことになるわけです。「情けは人のためならず」ということですね。&lt;br /&gt;
　「情けは人のためならず」で、みんなが恩恵を受けるのなら、それでもよいではないか、と思うかもしれません。しかし、基本的にはその人たちが属する共同体の中の交換関係の延長なので、共同体の外部の人は、その交換関係から排除されるおそれがあります。また、本人は「何々をしてあげた」というようにプラスのことをしたつもりでも、共同体の外部にとってマイナスであることなど、よくあることです。コミュニケーションが成立していなければ、善意のつもりでおくったものがマイナスだと理解され、負のお返しが来ることも、大いにあり得ます。では、そうした交換のエコノミーの円環を超えた、真の贈与・倫理の絶対的根拠のようなものがあるのでしょうか？&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　倫理の絶対的原点としての純粋な「贈与」ができるのは、やはり「神」だけだ、という話になると私は思います。すべての負い目の連関を超越したところに神がいて、神が「全体」を見わたしていると考える。だからこそ、個人の理解の範囲を超え、共同体の倫理を超えたところで、「善」を考えようとする契機が生じてくるのです。そうでなければ、倫理とは、その状況やその共同体ごとにバランスを取りながら、単に問題を解決するメカニズムでしかありません。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
●「死」を与えるエクリチュール&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　こうした魂の継続性と神の問題は、比喩的にはエクリチュールの問題とからんでいます。さきほど述べたように、エクリチュールは、生き生きとした言葉が消滅したあとの、いわば死骸のようなものです。そして、その死骸であるエクリチュールを通じて、私たちの語った言葉は、私たちの死後も保存されていきます。デリダの肉体は死んでも、彼の署名の入ったエクリチュールは残っています。彼の署名で書かれたことに対する責任を、私たちは、生きている主体に対するのと同様に、死んでいる彼に対して帰そうとします。エクリチュールをとおして、私たちは、いずれ死すべき主体、あるいはすでに死んだ主体とつながっているのです。魂の死骸であるエクリチュールは、ある意味では「神」のメタファー（隠喩）のような役割を担っているのです。&lt;br /&gt;
　そして、その死骸をとおして、人びとは無限に連鎖する責任＝応答可能性について考えさせられ、ふたたび責任＝応答可能性について記述しようとする……。イサク奉献の物語が、ユダヤ教からキリスト教へとエクリチュール的に継承され、カント、キルケゴール、パトチカ、デリダ、そして日本のデリダ読者に取り憑きつづけます。このように「責任＝応答可能性」は、エクリチュールを介してくるくる回っており、私たちはその回転の中にハマっているわけです。キルケゴールやデリダのように突き詰めて考える人はあまりいないでしょう。しかし、エクリチュールを介して他者とつながり、「応答」し合っている“私たち”全員が、いま述べたような問題圏の中に身を置いているのだもといえます。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　「どうして人を殺してはいけないの」と素朴に問う人も、その問いのあて先があること、つまり「応答」してくれる誰かがいると想定しています。そして、その存在がただの機械ではなく、私のように心を持った自由意志の“主体”であると、どこかで信じている。そうでなかったら、そんな無意味な問いかけをするはずがありませんね。そうやって問いかけるときには、その問いかけがマスコミなどを通じて、エクリチュール的に拡散していくことも期待しているでしょう。神のように時空を越えて“存在”するエクリチュールの中から、純粋な「答え」が「与え」られるのかもしれない、と期待するからこそ、一見すると「答え」が「返って」きそうにない問答が可能になるのです。２ちゃんねらーやブローガーたちこそ、もっとも切実に、「死」を越えた純粋な「贈与＝神の賜物」を期待しているのかもしれません。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　こうしたデリダの物の見方から学ぶべき教訓があるとすれば、それは自分の内なる形而上学的な欲望を自覚せよ、ということです。「つながり」を求めるということは、じつは「死」を越えたエクリチュールを求めていることだといえます。つまり、サヨクもウヨクも、自分では自覚しないままに、魂の不死に対する欲望を喚起するエクリチュールに取り憑かれているのです。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>思想の死相</dc:subject>

<dc:creator>sofusha</dc:creator>
<dc:date>2007-09-18T04:42:39+09:00</dc:date>
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