「脳は心を記述できるのか」

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第1信  「価値のクオリア」は存在するか?(斎藤環)

斎藤環から茂木健一郎への手紙


 はじめまして。
 はじめておたよりします。斎藤環と申します。
 茂木さんの著書は何冊か読ませていただきましたが、その精力的な活動のすべては、とうていフォローし切れていない点をまずお詫びいたします。
 そのかわりといってはなんですが、妙なエピソードからはじめさせていただきます。
 じつは私は、茂木さんとこれまでに何度かニアミスしているんですよ。たとえば、私は2006年の夏休みにフライブルクに行ったんですが……(といえばピンと来るかも知れませんね)、ルフトハンザ機内で私たち家族の斜めうしろに茂木さんが座っておられました。驚いたのは、往路だけならまだしも、復路の機内でもほぼ同じ位置関係で、なんというか、この「偶有性」には驚かされました。思えばあの時点で、この企画は萌芽的かつ徴候的に成立しつつあったのかもしれませんね(笑)。

 私の茂木さんへの親近感はこれに留まりません。私たちは活字のうえでも、しょっちゅうニアミスしていますよね。たとえば、「文學界」の辛く長い連載を終えてほっとしていたら、すぐに茂木さんの連載がはじまりました(のちに『クオリア降臨』として出版)。「中央公論」の時評も、私のものが終わった直後からはじまったと記憶します。細かいところでは、「水声通信」や「フィルムメーカーズ」、「d/sign」などでもご一緒していますね。きわめつけは、文芸季刊誌「en-Taxi」で、例の「角川句会手帖」に茂木さんが呼ばれて「おやおや」と思っていたら、その次は私の番で「やれやれ」という感じでした。
 なにか、私たちは、この業界内では立ち位置が近いように思われているのでしょうか。
 この企画も、当初は対談形式が考えられていたようです。しかし、私からのたっての提案で、往復書簡というかたちをとらせていただきました。対談をたくさんこなされている茂木さんならおわかりいただけるかとは思いますが、この、かなりの程度日本に特有な座談文化は、「文化人」をキャラ立ちさせるための簡便な装置か、そうでなければ後日単行本に収録して分量を水増しするために採用されているようなふしもあり、およそ厳密な議論のための場所とは言いがたい。かなりましな対談でも、せいぜいのところヌルい共感とアイディアの断片をちりばめて結論は先送り、というものが多いのではないでしょうか。
 しかし、私は、このやりとりから、なにがしかのしっかりした「結論」を得たい。だからこそ、わがままをいって書簡形式をお願いしたのです。まずは、企画をこころよくお引き受けくださったことに感謝します。私は、かねてから茂木さんが、ご自身のウェブサイトで、高橋悠治さんとのあのたいへんな対談を平然と公開している姿勢に感じ入っていました。私とのやりとりをお引き受けくださった決断にも、同様のfairness(公平、公正)を感じます。まずは、この点に満腔の敬意を表しておきたいと思います。
 じつは、茂木さんの過密スケジュールから推して、絶対に断られると踏んでいました。企画を持ち込んできた双風舎の谷川さんから「茂木さんOKです!」と聞いて、しょうしょう慌てたくらいです。余談ですが、書き手がひそかに「これだけはやりたくないなあ」と思っていることを書かせるのが優れた編集者だ、と言ったひとがいます。その伝でいけば、谷川さんは、なかなかのやり手、と言えるのではないでしょうか。

 さて、茂木さんはすでにご存じかもしれませんが、私は茂木さんの活動に対して、さまざまな場所でちくちくと批判的に言及してきました。

 これはなにも、茂木さんが売れっ子で超ねたましいとか、茂木さん仕事選ばなさすぎだろうとか、茂木さん江原啓之と仲よし対談なんかして科学者としていかがなものかとか、茂木さん次はいよいよ中沢新一あたりとオカルト対談本ですかとか、脳科学が台頭すると精神分析のニセ科学性がはっきりしすぎて困りますとか、そういうスカで下世話な動機からではけっしてありません。そんなことはまったく、みじんも考えたことすらないので、私はあくまで否認を貫きます。仮にそうした批判が一瞬、私の心をかすめたとしても、そんなくだらないことはどうでもいい。メディアの露出が増えれば、やっかむ人間はかならずなにか言いたがるものです。そういうノイズはほっておきましょう。

 私が問題にしたいのは、もっとずっと、本質的なことがらです。おそらく、茂木さんの立場と私の立場とは、もっとも根本的なところですれ違う。どこでどうすれ違っているのかというそのありようは、まだ全体像がぼやけています。ただし、その本質的な異質性を見きわめることは、それなりに創造的な営みになりうると私は考えます。この問題をつきつめれば、ひょっとするとパラダイムの共約不可能性、といった大きな問題に直面することになりそうな予感もあります。しかし、対談ではおそらく、そのあたりの違いをはっきりと強調することができません。
 私の考えでは――「科学」かどうか、という議論を抜きにして考えるなら――認識と行動の説明原理として、現時点での「脳科学」は「精神分析」とそれほど隔たりはない。あるいはひょっとすると「スピリチュアリズム」とも(笑)。いずれもさしあたっては、仮説と解釈の集積にすぎません。おそらく私の予測では、この状況はあと50年くらいは変わらない。
 とはいえ、私自身は、脳科学についてはもちろん門外漢です。私は、この往復書簡を、私自身の脳科学に対する偏見(がもしあれば)を学習によって克服するための機会としても、大いに期待しているのです。

■私の立場

 やりとりをはじめる前に、私の立場をあきらかにしておきたいと思います。
 私は、単科の精神科病院に所属する勤務医なので、本業は精神科臨床医です。ご存じかもしれませんが、専門は「ひきこもり」です。余談ながら先日、某所で「斎藤氏は、みずからのひきこもり体験を臨床に活かして……」と、まことに光栄な誤解のもとに紹介されたことがあります。残念ながら、実際のひきこもり経験はまだありません。
 誤った紹介といえば、多くの精神科医がそうであるように、私もまた「心理学者」「精神分析医」などと、間違った肩書きを背負わされる経験が数多くあります。いちばん困るのは「評論家」ですが、いちいち訂正しなかったのは自己責任ですし、私のメディア上の活動はすべて副業ですから、誤解も含めてまあお好きにどうぞ、という感じです。
 ただ、「心理学」はともかく、「精神分析」については、積極的な擁護派を買って出ていることもあり、あながち間違いともいえません。もちろん、教育分析を受けておりませんから、臨床家として精神分析の技法を使用することはありません。かといって、私のように、批評のためのツールとして精神分析をもちいることには批判があることも承知しています。しかし、私の知る限り、「発見」ないし「還元」の享楽におぼれることなく「人間」を語りうる手段としては、ちょっとこれ以上のものがない。というわけで「まだまだけっこう使えますよねー」と、宣伝&リサイクルに、これつとめているのです。

 とはいえ、精神分析擁護派だからといって、脳なんかどうでもいい、と考えているわけではもちろんありません。むしろ、最近の分析家は、積極的に脳科学の成果を取り込もうとしています。たとえば、岡野憲一郎氏などは、脳科学の側から精神分析を再解釈しようと試みています(『脳科学と心の臨床心理療法家・カウンセラ-のために』岩崎学術出版社 )。対象関係論の泰斗、Otto F. Kernbergもそうした展開を試みつつあるようですし、私がしばしば依拠しているラカン派でも、最近はそうした動向があらわれつつあるようですね。
 もっとも、高いお金を出して分析家にかかることがセレブの証だったのも今は昔、北米ではDSM(アメリカ精神医学会が作成する、精神疾患の診断・統計マニュアル)とプロザック(SSRI型抗鬱剤)の普及以降、精神医学は一気に生物学主義に傾きつつあることは、茂木さんもよくご存じでしょう。この潮流に分析家も逆らえない、ということもあるのでしょうね。
 ところで、私が今でも「採血をしたり切創の縫合をしたりすることがある」というと、医者以外の知り合いはみんなびっくりします。「そんな、まるで医者みたいなことを!」と言いたげな表情を浮かべて。「だから本業が医者なんだよ!」と内心ツッコミを入れながらも、これなら機内アナウンスでドクターコールがあっても寝たふりでやりすごせるな、と安堵する自分がいます。まあ、急病で死にかけている時に私が医師として登場したら、私自身でもガッカリするでしょうけれど。

 余談はともかく、いちおう私の医師のはしくれとして、脳についてもひととおり以上のことは学びました。今を去る20年以上も昔、医学生時代に解剖実習でパラフィンに埋包した延髄のミクロトーム切片をせっせとスケッチしたり、当時はまだ珍しかったCGで脳室の三次元構造を学んだりしたものです。
 教科書とは別に参考書としては、Guytonの生理学書とCarpenterの神経解剖学をよく使いました。とりわけ前者は、感動的なまでに平明かつ明晰な記述で、夏休みなどに英語の勉強を兼ねて繰り返し読んだものです。なかでも、顔の認識の話には深い感銘を受けて、のちに『文脈病』(青土社)なる本を書いてしまったほどです。
 筑波大学の臨床精神医学教室は、当時から生物学主義的なところで、通常は脳外科や神経内科に入院していそうな器質性疾患(ミトコンドリア脳筋症とか)の患者さんが、多数入院されていました。臨床実習中にグリオーマ(神経膠腫)の患者さんを担当したさい、彼女の「強迫泣」という症状のメカニズムについて、レビュー論文なみに詳細なレポートを作成したこともあります。余談ながら、当時は精神分析よりも神経心理学のほうがおもしろくて、ルリヤや山鳥重の解説書を勝手に読んだりしていました。

 まあそんなわけで、いちおう脳の解剖・生理・組織などについて、テクニカルタームなど基本的なところはわかっているつもりです。
 このほか、現在の私が脳について、多少は専門家面できるとすれば、脳波とCT(コンピュータ断層撮影),MRI(核磁気共鳴画像法)の読影でしょうか。脳波は日々の臨床でしょうしょう鍛えていますので(スケール使わずに周波数が判ります……って、自慢にもなりませんが)、例の『ゲーム脳』のトンデモぶりも、著者の森さんが気の毒に思えるほど見えてしまいました(こういう人でも脳科学者を名乗れるのですから、この業界はじつにフトコロが深い)。
 もっとも、世間の人たちがよく勘違いしているように、脳波で思考内容までわかったり、脳波をシンクロさせると思考もシンクロしたり(そんな珍マシンを使用したカルト集団もありましたっけ)するわけではありません。あれは、画像診断では見つけられない異常を発見するための、かなり目の粗い測定器具にすぎません。しかも、脳波異常が見つかれば、結局はCTやMRI検査も施行しなければならない。ただ、てんかんなどでは、解剖学的な異常がなくても脳波の異常があったりしますから、まだまだ検査項目としては必須なのですが。
 CT読影の経験からいえることとしては、無症状な人でも脳の奇形は意外なほど多いという臨床的な事実です。ベルガ腔とか透明中隔欠損などの異常は、いわゆる健常者にもときおり見られる異常ですね。こうした経験を重ねてくると、脳の解剖と精神症状とのあいだには、ある種のギャップが存在することを痛感させられます。この点は後日、「器質-臨床的隔たり」として、おもに「記述の問題」の視点から取り上げてみたいと考えています。

 そういうわけで、茂木さんのご専門分野に関していえば、私はまったくの門外漢というほどでもありません。とはいえ、大学院を卒業して以降は、神経心理学や精神薬理学を中心にほそぼそとフォローしているだけなので、最新の動向については知識の空白部分も多いことと思います。まあ私のことは、ちょっと偏った知識を持った素人、くらいに考えていただければけっこうです。ロートル学生でも相手にしているつもりで、必要とあらば、容赦なく専門的な語り口でお願いします。読者も茂木さんのそうした側面が、いかんなく発揮されることを期待しているのではないでしょうか。
 さて、そうはいっても、この場で専門的にトリヴィアルな話題を掘り下げようとは思いません。茂木さん自身もそのような志向性をお持ちだと考えますが、最終的には「クオリアとはなにか」「意識とはなにか」といった、高度に抽象的な問題を大づかみで捉えることができればと考えています。重要なのは個別と普遍を接続するようなメタレベルの抽象性です。あるいは、茂木さんなら「花の美しさ」と「美しい花」とを媒介するなにか、と言いかえられるでしょうか。

■「私」と「クオリア」

 ここではまず、私なりの「脳」の位置づけを述べておきたいと思います。
 私の知る限り、現在の脳科学の知見をすべて動員しても、人間の社会的行動を直接に説明することは、まだできません。もちろん、要素的で断片的な知見から、あくまでも一次近似、あるいはときに文学的比喩として、ある種の行動を解釈して見せることまでは可能かもしれませんが。
 たとえば、ミラー・ニューロンの存在があきらかになったからといって、そこから人間の模倣行動全般を解説することは、まだできませんね。つまり、模倣という共通の要因を持ちながら、コピー、パロディ、二次創作といった区分が生ずる理由について、脳科学はまだ十分に説明できない。その限りにおいては、脳はまだまだブラックボックスです。
 さすがに茂木さんは、ほかの「脳科学者」とは異なり、まだ証明されていないことまで「すでにわかっている」と断ずるようなことは、されていないようですね? 
 それは、茂木さん自身が「ゲーム脳」や「脳トレ」を厳しく批判されている(いましたよね、確か?)ことからもあきかでしょう。「脳によい子育て」や「環境ホルモンが前頭葉を破壊して若者の心が荒廃する」といったトンデモ学説からも距離を取られている。すくなくとも、私に見える範囲での茂木さんは、そうした飛躍については正しく禁欲を貫かれているように思います。私はそこに茂木さんの、科学者の誠実を見て取ります。凡百の自称・脳科学者とは、この点が一番の違いでしょう。
 これは茂木さんが、脳そのものではなく、その効果としての「クオリア」に注目されているためもあるのでしょう。

 ところで、私の感ずる疑問の第一は、まさにこの「クオリア」という概念にきわまります。
 「クオリア」を肯定することは、「この私」のゆるぎなさを肯定することです。
 「この私」という立脚点を肯定することなしに、クオリア概念をつきつめて考えることはできない。言いかえるならば、クオリアについて考えることが可能であるためには、認識の主体である「この私」の肯定、すなわち実体化が前提となるのではないでしょうか。
 先日、茂木さんは、私のラカン理論入門書『生き延びるためのラカン』(バジリコ)をたいへん好意的に書評してくださいました。しかし、私はあまり手放しで喜べなかった。じつはこの本において、私は随所で「脳科学」への嫌味や違和感を表明しています。それにもかかわらず好意的に評価されるということは、ちゃんと読んでいただけなかったか、脳科学の圧倒的な優位性をふまえて、哀れなラカン派に憐憫の情をかけてくださったのか、そのいずれかではないでしょうか。
 ほんらい茂木さんは、随所でポストモダン的な発想に違和感を表明されてきたはずです。これはある意味では当然のことで、そのこと自体の当否を、今は問いません。ただ、ポストモダンへの嫌悪と、ラカンの思想の肯定的評価とは、けっして両立し得ないものです。その意味で茂木さんがラカン入門書などに向けてとるべき態度は、「まだそんなことをいっているのか!」と一喝後、本はくずかごに直行、というものであったはずです。
 ポストモダンとされる思想に共通のものがあるとすれば、それは「主体への懐疑」にきわまるでしょう。ラカンをポストモダニストに位置づけるかどうかは議論のあるところですが、それを準備した「思想家」のひとりであることは間違いない。ラカンの思想は、欠如と逆説の思想です。「人間」とは、欠如した主体の周囲に構成された幻想の一種であると見なすのが、ラカン派です。
 それゆえラカンは、デカルトのコギトを一蹴します。「我思う、ゆえに我在り」ではなく、「我思う、または、我は在る」だ、とはラカンの有名なジョークです。これは簡単にいえば、思う「我」と在る「我」とが、すでに同一物ではないことを意味しています。そのように、実感的に理解された「我」なるものは、シニフィアンの連鎖がもたらした想像的効果にほかならない。これがラカンの主張であって、それゆえラカニアンにとっての「クオリア」なる概念は、典型的なナルシシズムの徴候、ということになります。証明ができず、「あるとしか言えない(糸井重里)」場所にこそ、ナルシシズムは強く滞留するでしょう。

 私がラカンに依拠する最大の理由は、思考の前提に「欠如した主体」を据えるラカンの発想こそは、思想史的な意味でもあと戻り不可能な切断線だと確信するからです。「マルクシズムの復権」や「フロイディズムの復権」は局所的にはありえても、素朴な「主体の復権」はありえない。もしありうるとすれば、それは巧妙に擬装された退行的身振りとしてのみ可能である、というのが私の考えです。
 おわかりのとおり、今や「脳」こそは、誰も反論しようのない「主体の座」としての位置を固めつつあります。しかし、ここにひとつの逆説がある。主体の座としての脳がクローズアップされるほど、主体概念そのものは、構成主義的な性質を帯びてしまうのではないか。ニューラル・ネットワークのなかに「主体」が位置づけられてしまうことは、別のかたちでの「主体の死」なのではないか。ラカン派の立場に立っても、あるいはオートポイエーシス理論などのシステム論的な見地からしても、脳神経系は主体の「外部」に位置づけられるからです。
 さしあたり、私は、「どちらが真か」という論争を準備しているわけではありません。今はまだ、茂木さんと私の「立場の違い」についてはっきりさせようとしているだけです。私がなぜ「クオリア」という概念を素直に受けとめられないのかは、もうおわかりでしょう。「欠如した主体」をすべての出発点とする思想は、クオリアという否定しようのない実感についても、いったんは幻想として受けとめるからです。味気ない身振りではありますが、私はこれを倫理的要請と考えています。ならば、倫理とはなにか?

 私にとっての倫理とは、まずなによりも、「美」や「実感」に最大の価値を見いださないための、思考の拘束具です。
 どのような意味でも、「美」は倫理の基準にはなりえません。たとえば、リーフェンシュタールの写真集『ヌバ』は安心して褒められますが、彼女が監督したベルリン・オリンピックの記録映画『オリンピア』については、多くの人が複雑な表情で黙り込むでしょう。ほとんど同質の美が描かれているにもかかわらず、です。
 あるいは、爆発四散するスペースシャトル・チャレンジャーや炎上崩壊するWTC(ワールド・トレード・センター)にある種の崇高美を感じずにすますには、ほとんど洗脳に近い倫理的トレーニングで認知を歪めておく必要があるでしょう。しかし、たとえば後者をうっかり「宇宙全体で想像しうる最大の芸術作品」と素直すぎる発言をしてしまった音楽家シュトックハウゼンがどんなめにあったかは、すでにご存じのとおりです。
 美的判断は倫理とは無関係である。それゆえ、美は価値判断には結びつかない。クオリアも同様です。おそらく、「美のクオリア」はありえても、「倫理のクオリア」は存在しない。なぜなら、倫理性とは、否定と懐疑からしか導かれ得ないからです。それゆえ、倫理を純粋な肯定的質感のもとで「味わう」ことなどできません。また、そうでなければ、倫理など信頼に値しません。実感と経験に抗して超越論的に作用するもの、それが倫理です。あらかじめ存在する上位概念は超越的ですが、その都度、事後的に生成する超越性については、超越論的であると私は言います。

 ここでもうひとつ、困った例について述べておかねばなりません。クオリアについて考えるとき、よくカルトによるマインドコントロールの例を私は思い浮かべます。人がカルトにはまる最初のきっかけは、カルト体験に「真理のクオリア」をどうしようもなく感じてしまうからではないか。マインドコントロールの手法のひとつの典型は、懐疑的な自意識を抑圧することです(「アタマを取る」なんて恐ろしい表現もありましたっけ)。その結果、どういうことが起こるか。
 私はかつて、日本最大のコミューンを形成していたヤマギシズムというカルト集団の内部調査に参加したことがあります。ヤマギシズムでは、参画にさいして「特講(特別講習研鑽会)」という集会への参加を義務づけられています。くわしくは述べませんが、特講はエンカウンター(集団感受性訓練)などの手法を採用した典型的なマインド・コントロールです。
 ここで興味深いのは、特講を経験した人びとの感想です。かなりの数の人が特講を終えたあとで、「風景が生き生きと見えた」「新緑が眼に染みた」などという感想を口にする。茂木さん的な表現でいえば、クオリアへの感度が向上しているのです。
 ならば、彼らの感じているクオリアは「邪悪なクオリア」なのでしょうか? いや、経験に至るまでの過程はどうあれ、天才の感ずるクオリアと、カルト信者の感ずるクオリアとに、本質的な区別があろうはずがない。まさか「そんなのはニセのクオリアだ」とか「脳の品格が違う」などとはおっしゃらないでしょう? 
 こういう経験は、ヤマギシに限らず、さまざまなカルト経験者が述べていますね。興味深いのは精神療法のひとつとして知られる森田療法でも、同様の現象が起こることです。これはある意味では当然で、森田療法は自意識の悪循環、すなわち精神交互作用の暴走を解除するために、やはり懐疑的な自意識を抑圧する技法です。これをカルトと呼んではさすがにまずいでしょうけれど、ここにひとつの共通点がある。それは、懐疑を捨てれば捨てるほど、クオリアへの感受性が高まる、という臨床的事実です。

 私の懸念は、もはやおわかりでしょう。私は、懐疑する能力こそが、倫理の前提であると考えています。しかし、クオリアの全面肯定は、はっきりと「懐疑する心」に対立します。
 私が懸念するのは、茂木さんがクオリアを私秘的なものであるとしながらも、どうやらそれを価値判断の根拠に据えたそうな身振りがかいま見えることです。クオリア概念の価値は、その徹底した共約不可能性にあるという私の理解が間違っていなければ、それはもちろん価値判断のスケールとしては使用できません。ところが、茂木さんは、たとえば次のように書いている。

 「クオリアによって価値が決まる。その点において、文学作品はゲルニカや松林図といった絵画となんら変わるところがない。モオツァルトのシンフォニーや、バッハのオルガン曲と変わることがない。文学を初めとして、あらゆる芸術ジャンルにおける傑作を特徴づけるのは、その作品を体験することのなかに潜むクオリアのピュアさであり、強度であり、熱であり、深さである。人間が生きるということの核への関わりである。
 だからこそ、よほどの覚悟をもって臨まなければ、分析や解体をその生業とする批評家は、実作者に対して負け続けることになる。才能や志において負けるのではない。クオリアのピュアさにおいて負けるのである」(『クオリア降臨』文藝春秋、三五頁)

 しかし一方で、茂木さんは次のようにも書かれています。

 「<クオリアの先験的決定の原理=認識の要素に対応する相互作用連結なニューロンの発火パターンと、クオリアの間の対応関係は、先験的(ア・プリオリ)に決定している。同じパターンを持つ相互作用連結なニューロンの発火には、同じクオリアが対応する>
 この原理が主張することは、「クオリア」自体は、経験や学習に依存して決定されるのではなく、それ以前に決定されているということである。認識の要素に対応する相互作用連結なニューロンの発火パターンとクオリアの間の対応に、任意性あるいは変化の余地はなく、その対応関係は必然的であるということだ」(『脳とクオリア』日経サイエンス社、一七一頁)

 ここに書かれていることは、私からすればもっとも典型的な脳還元主義に見えてしまうのですがどうでしょう。もっとも、後者はもう10年前に書かれた本のようですから、現在の認識は多少は変化されているのでしょうか。最近、茂木さんがいたるところで「偶有性」を強調されているところを見ると、今はこれほど固定的な考え方はされていないものと私は信じたい。
 なぜなら、ここに引用したふたつの箇所を結合すると、あらゆる価値は先験的に決定されているという、あのなじみぶかいトートロジー(同語反復)に直面することになるからです。もしそうであるなら、茂木さんは、もはや「車内で化粧する脳」や「ゲーム脳」を疑似科学と嗤うことはできません。『水からの伝言』などが典型ですが、ほとんどの疑似科学は、価値を科学的に根拠づけようとする動機において導かれるからです。

■「倫理中枢」は存在しない

 ここで、あらためて問いかけようと思います。
 茂木さんは、脳を価値判断の中枢として位置づけうるとお考えなのでしょうか?
 ちなみに『脳の中の倫理』の著者、マイケル・S・ガザニガの相当に慎重な主張ですら、私にはとても許容しかねるものでした。むしろ、倫理とは、科学的事実がどうであろうと、倫理中枢など存在しない、という前提から出発するべきではありませんか?
 これを私なりに言いかえるなら、仮に「殺人ができなくなる向精神薬」が開発され得たとして、その使用を全面的に禁止する姿勢のほうが、倫理的と見なされるべきだ、ということになります。
 倫理観も美的判断も、なべて「脳によい」ことは価値が高い、という判断。繰り返し申し上げますが、ここにはトートロジーの構造があります。同時に、そこには(岡崎乾二郎氏の示唆を受けていえば)、「美しい花」を肯定しつつ「花の美しさ」を切り捨てるような逆説もあります。ようするに、私秘的で共訳不可能な価値の存在を、共通言語でやすやすと言いあらわしてしまう矛盾、ということです。

 人が倫理や美を認識しうるのはなぜか。それは、脳に倫理や美を感知する中枢があらかじめ存在するから。ひょっとすると茂木さんは、そのようにお考えではないでしょうか。
 ならば、そうした中枢の存在はどのようにして証明されますか? 倫理や美の刺激に接したときだけ、発火するニューロンを見つければいいのでしょうか。だとすれば、美の中枢が見いだされる以前に、倫理や美の判断が、あらかじめなされていなければなりません。すると「本当の判断」をくだしているのは、いったい「誰」なのでしょうか?
 もしクオリアを価値判断や美的判断の道具として不用意にもちいるならば、これと同じ状況に陥るほかはありません。
 価値観を霊性に求める論理も、同様のアポリア(難問)を抱えることになります。クオリアという概念が自己愛的に見えるのは、そこに徹底して「他者性」が欠けているからではないでしょうか。
 脳科学も精神分析も、いまだ「疑似科学」という評価を完全に免れてはいません。すくなくとも私は、精神分析が自然科学と同等の記述体系でありうる可能性はとうに断念しています。それにもかかわらず精神分析を捨てないのは、それがナルシシズムを排しつつ他者とかかわり、そこに懐疑と洞察を導くための、代替のきかない唯一の道具であるからです。

 失礼ながら、茂木さんの言説がしばしば危ういものに思えてしまうのは、茂木さん自身の意識はどうあれ、世間は茂木さんに「新しい価値を説く人」を見ているように思われるからです。すくなくとも、茂木さんの読者の大多数は、茂木さんがその華麗な身振りで、脳と価値観を結びつけてくれることを熱心に期待しているはずです。あるいは茂木さんは、まったくそのような自覚をお持ちではないのでしょうか。
 おそらく、現代ほど、ベタな価値観を説くのがむずかしい時代はありません。ぷちナショナリズムなどと揶揄される若者たちですら、別に日本的価値を心から愛しているようには見えない。むしろ、彼らの言動は、硬直化した「サヨ(左翼)」的言動へのアンチとしてなされており、それゆえ政治運動に結実する可能性はほとんどない。すくなくとも、私はそのように見ています。
 この状況下、私も含め、ある世代以下の言論人のほとんどは、ベタな価値ではなくメタ価値観を呈示しようとします。メタ価値、すなわち高い価値判断を可能にする条件のほうを問おうとするのです。私のいう倫理とは、そうしたメタ価値観のひとつです。

 こうした風潮の背景にあるものは、ニヒリズムに似ていますが、すこし違います。おそらく「価値観は底が抜けている」という真理が、暗黙のうちに共有されているのではないか。
 たとえば、ある価値観の正当性を説明しようとすると、「無限背進」「論理循環」「正当化の恣意的打ち切り」のいずれかに陥ってしまうことを、ドイツの哲学者ハンス・アルバートは「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」と呼んでいます。価値観を哲学的に根拠づけえないことは、すでに実証済み、というわけです。
 ならば、価値観に意味はないのか。もちろん、そうではありません。ご存じのとおり、カントは判断力を「規定的判断力」と「反省的判断力」に分けています。規定的判断力とは、あらかじめ普遍的な判断のモノサシが与えられたうえでなされる判断です。一方、反省的判断力は、個別の特殊な事例から、なんらかの普遍的な判断の原則を、そのつど見いだす能力のことです。これは一種のメタ判断力であり、さきに私が述べたメタ価値観でもありますね。

 「倫理」とはこの反省的判断力によって導かれる、超越論的なメタ価値を指しています。それゆえ他者性への配慮、とりわけ最大の他者であるところの「象徴≒言語」への信頼なくしては成立しません。茂木さんが言語の地位を相対的に低く見積もっておられるのは、学説としては一貫性があるのでしょうが、私が感ずる違和感の源泉もまた、ここにきわまるといってもよいでしょう。
 もっとも、言語についてはまた後日、じっくり展開したいと考えています。
 それにしても、もし仮に茂木さんが、ヘーゲル/ラカンの主張をもじって「クオリアは他者のクオリアである」などとおっしゃっていたなら、すくなくとも議論の前提くらいは共有できたかもしれません。いや、いきなりないものねだりをするのはアンフェアでしたね。
 ともあれ、お返事を心待ちにしています。

斎藤環

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