「脳は心を記述できるのか」

« 第1信  「価値のクオリア」は存在するか?(斎藤環) | 「脳は心を記述できるのか」トップ | 往復書簡のルール(改訂版) »

第2信 クオリア、そして偶有性(茂木健一郎)

茂木健一郎から斎藤環への手紙


■拝復

 たいへん興味深い手紙をありがとうございました。斎藤さんがあげられた問題は、どれも私の関心領域(意識の問題)の本質にかかわる、エッセンシャルなものと考えます。
 お返事を差しあげるまでに、ずいぶんと時間がたってしまい、申し訳ありません。この間、斎藤さんとの往復書簡のことがずっと気にかかっていましたが、さまざまな事情から、ご返信が遅くなってしまいました。心からお詫び申しあげます。
 斎藤さんがお手紙のなかでご指摘くださったさまざまな点は、たいへん興味深いことばかりでした。斎藤さんは、「クオリア」を疑いのないこの世界属性として立ててしまうことが、ナルシシズムにつながると書かれた。昨今のいくつかの危険な社会的風潮との関連性も指摘された。また、ジャック・ラカンの「我思う、または、我は在る」という言葉を引用して、(クオリアを感じる主体としての)「私」は、確固とした単一の存在としては成立していないと指摘された。また、私が言語の地位を相対的に低く見積もっているのではないか、とも書かれました。
 どれも、たいへん興味深い論点で、これらの点をふくめ、斎藤さんが提起された問題について、以下で私の考えるところをお話させていただければと思います。
 すっかりお返事が遅くなってしまったので、斎藤さんのほうでは、「なにをいまさら」とお思いになるかもしれません。また、さまざまな問題についてのお考えも、すでに変化しているかもしれません。それでも、私は、お返事を差しあげようと思います。もし、お時間があれば、お読みくだされば幸いです。
 お返事がたいへん遅くなってしまったことを、繰りかえしお詫び申しあげます。

■飛行機のなかの体験

 斎藤さんの手紙が飛行機のなかのエピソードからはじまったように(一緒の飛行機に乗りあわせていたとは知りませんでした。ボクは、飛行機のなかは食事をしたあと、たいていぐっすりと眠ってしまうので、周囲に気づかないことが多いのです。ごめんなさい)、私も、この手紙を飛行機のなかでのエピソードからはじめたいと思います。
 斎藤さんからお手紙をもらった夏、私はラスベガスで開かれた意識をめぐる国際会議(Association for the Scientific Study of Consciousness )に出席しました。1996年以来、年に一回開かれているこの会議は、意識に関心を持つ研究者が集まっており、脳科学をベースに、認知科学や心理学、哲学などのさまざまな分野の立場からテクニカルな議論がおこなわれています。
 会議の興奮がさめやらぬ帰りの飛行機のなかで、こんな出来事がありました。そのとき、書きはじめていた斎藤さんへの返信のなかにメモを残しておいたので、いまでもありありと思いおこすことができます。
 トランジットのサンフランシスコではネットにつないで仕事をしていて、飛行機に乗りこんだのは最後のほうでした。私の席の横は、初老のビジネスマンのような方で、英字紙を読んでいました。おやっ、日系の人かな、と思いましたが、アテンダントとの会話で、どうやら日本人らしいとわかりました。
 通路をはさんだ隣りの席にはアメリカ人が座っていて、携帯電話で熱心に話していました。(ご存じのように、アメリカやヨーロッパでは、ドアが閉まる前までは携帯が使えるというポリシーが多いですね。どのような文化的差からくるのでしょう)。
 ふと顔を見上げると、私たちの前方に、乳飲み子を一人ずつ胸に抱えた母親と、お婆さん、それに5歳くらいの男の子が立っていました。私の乗った飛行機は東京経由でバンコックまでいく便でしたので、どうやらタイの人たちのように思えました。アテンダントが、私の通路越しの隣人に、「あそこと席をかわってくれないだろうか? 家族の人たちを一緒に座らせようと試みているのだ」と話しかけました。隣りのアメリカ人は、まだ携帯電話で話しながら、「ああ、いいよ」と答え、足元の新聞をまとめはじめました。
 アテンダントは、すこし前のほうの席を指して、「君はあそこに座ればいい。男の子と君は、こちらに座って」などと言いました。つまり、まだ席の数が足りないので、家族は離ればなれになってしまうのです。そういわれて、「ほほえみの国」から来た人たちは途方に暮れているように見えました。アテンダントは、男の子に、「君は何歳だい?」と聞いています。一人でも座っていられるだろうか、と心配していたのでしょう。
 私は、そのような様子を見ていて、だんだんいたたまれなくなってきてしまいました。たまりかねてアテンダントに「私がそっちに移るよ」と言いました。アテンダントは私に謝意をしめしたあとで、家族に向かって、「それじゃあ、君たちは一緒に座ることができる」とにっこり笑いました。
 通路をはさんででも、家族が一緒のほうがよいに決まっています。
 前方の通路側の席に移ると、窓側にはどうやらアメリカに長く住んでいるらしい日本人の女の子が座っていました。彼女は、熱心にアメリカのスターの写真がたくさん載っている週刊誌を読みながら、サラダを食べていました。離陸前にサラダを食べる人というのは珍しかったので、印象に残りました。
 うしろの席の窓側の、うこし太った中年のアメリカ人女性が、「彼らはいったいどうやって予約をしたの?」などと、大声でとなりの人に話しています。どうやら、あのタイの家族のことを非難しているようでした。私は、すこし嫌な感じを抱きました。心細い異国からのフライトで、家族が一緒にいるために、少々めんどうな手続きがあったとしても、なぜそのことに目くじらを立てなければならないのでしょう。
 以上が、私が飛行機に乗りこむ際に起こったことです。それから、飛行機は離陸し、食事のときにワインを飲んだ私は、いつものようにぐっすり眠ってしまって、ふと気がつくと機内は真っ暗になって、みな眠っていたのです。
 私は十分に休んだような気がしたので、立ちあがり、トイレにいって、帰ってくるとリュックのなかからマックブックを取りだし、斎藤さんへの手紙を書きはじめました。そのまま書き終えてしまえば、こんなにお待たせすることも、ご迷惑をおかけすることもなかったのです。ほんとうに申しわけありません。

■体験の現象学的解剖

 さて、私の以上の体験は、取りたてて特別なものではありません。私たちの人生は、このような何気ないエピソードからできている。そのほとんどを私たちは忘れてしまいます。実際、当時、私が斎藤さんに往復書簡の返信をしたためようとしているということが無意識のなかになければ、以上のエピソードが私の記憶に残り、こうして文字に定着されることもなかったでしょう。
 私たちが日常で出会うさまざまな出来事は、それ単独で私たちの世界についての認識を革新したり、画期的な新理論に向かわせるものはありません。その一方で、具体的な「体験」のなかには、私たちが世界について考えるための類いまれなる素材がひそんでいる。たった5分ほどの何気ないエピソードのなかにも、真剣に向きあえば考えこんんでしまうような、不可思議な要素がたくさん詰まってます。
 斎藤さんが言語の意味を重視される、その意図されるところについては、私なりに理解いたします。人間の精神活動において、言語が中心的な役割を果たしていることは確かです。ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインが生涯にわたって探求したように、「言語」の本性をどう理解するかということが、私たちの存在、認識、そして「心と脳」の関係を理解するうえで、必要不可欠なステップであることはいうまでもないことでしょう。
 その一方で、いわゆる「言語」だけでは、意識の現象学的な記述をつくすこともできないことも事実だと考えるのです。
 私は、以上の飛行機のなかの「座席取りかえ」物語を記述する際に、記憶をさかのぼり、そのときに見たこと、聞いたこと、感じたことを振りかえって、それを言語に「置きかえ」なければなりませんでした。それは、ある種の努力が必要な行為でしたし、そのような置きかえをする過程において、私が実際に経験した事象のうち、さまざまな要素が失われていったことも事実だと考えます。
 たとえば、私は、母親や祖母と離れて座るようにいわれて、途方に暮れていたタイの少年の様子をありありと思い出すことができます。彼に、果たして英語がわかっていたかどうかはわかりません。しかし、周囲の様子から、どのようなことが起きているのか、悟ってはいたことでしょう。ひょっとしたら、お母さんたちと離れた場所に、一人で座らなければならないかもしれない。そんな気配を感じながらも、あわてず、騒がず、静かに通路に立っていた彼の様子を、私は好ましく思い出します。しかし、そのときに私が感じていた印象を、言葉に完全に置きかえることはむずかしいように思います。
 ウィリアム・ジェームズのいう「意識の流れ」は、けっして言葉のみから組みたてられているわけではない。むしろ、「意識の流れ」のなかには言葉には容易に変換できないものたちがあふれています。
 意識の問題に取りくもうとするとき、その「解剖学」からはじめるのは、おそらく適切なことでしょう。意識のなかには、さまざまな「クオリア」(感覚質)が並列的に感じられています。そして、そのようなクオリアを感じる主体としての「私」がいる。「私」は、単に世界を受動的に感じるだけでなく、能動的に働きかける存在でもある。その主体性(agency)の構造のなかに、心理的な時間を構成する原理が内在している。
 私たちの意識は、時々刻々、まるで「かけ流しの温泉」のように流れていくあふれるばかりのクオリアの豊饒を、その重要な構成因の一つとしています。ここでは、かならずしも意識=クオリアといっているのではありません。クオリアが、私たちが「意識」と呼ぶ主観的体験の欠かすことのできない「部分」となっていることが、体験に照らして事実であるように思われるのです。
 クオリアの問題を考えるということは、とりあえずのスタンスとして、「言語」以前の体験世界のリアリティを認めるということがなければならない。そのように私は考えます。ここでは「言語」という概念を、通常の含意にもとづいて使っています。「言語」という概念を、いわゆる「クオリア」的なものをふくむ、より普遍的なかたちで再定義するという道もあるかもしれません。また、そもそも「クオリア」というものが、言語的なるものとの関係性においてどのようにとらえられるかということは、ヴィトゲンシュタインの「私的言語」(private language論)との関係性においても、十分に吟味されるべきことでしょう。

■主体の疑わしさ

 さて、自分の経験のなかに感じられる「クオリア」から出発することは、斎藤さんがご指摘されるように、「主体」というものを措定することと密接に関係しています。
 斎藤さんは、「主体」は、構成論的なものであり、「底」が抜けていると指摘される。この点において、脳科学的なアプローチは、斎藤さんと同じ出発点に立つといってよいのではないかと思います。
 物質である「脳」を分解していけば、一つひとつの神経細胞に到達する。神経細胞は、さらに分子から構成されている。分子は、さらに素粒子からなる。素粒子と素粒子のあいだには、割合としてはほとんど圧倒的といってよい真空が広がっています。
 私たちの素朴な生活実感(いわゆるfolk psychology)に照らして考えれば、そこには「私」という主体が存在しているように思われる。「茂木健一郎」や「斎藤環」といった個人が存在して、「出生」以来、人生のときを積み重ねてきた。個人の死によって、一つの主体の歴史がおわる。そのような素朴な理解を、私たちは抱いています。
 しかし、そのような主体をつくっているはずの脳のありさまをありありと見れば、その存在根拠はまさに「底」が抜けている。あるのは、お互いに複雑なネットワークをつくって相互作用しあっている素粒子の集合ばかり。その相互作用の基本的な性質は、「水」や「空気」と変わることはありません。
 現代の脳科学に依拠して「心脳問題」を議論しようとする立場は、けっして「主体」というものを疑いようのない前提とするものではありません。むしろ、「底」が抜けているところからいかに「主体」というものを構成するか。いわば、「無」から「有」を「ブートストラップ」(電源を投入してから実際に操作が可能になるまで、コンピュータが自動的におこなう処理のこと)する点にこそ、現代的な心脳問題の議論の本質があると考えます。
 1991年に『サイエンス』誌に発表された論文のなかで、ライトマンとジンジャリッヒは、科学革命は、既成の「パラダイム」のなかでは説明され得ない「異常項」(anomaly)の存在によって導かれるのではなく、むしろ当然の事実として前提とされてしまっていることのなかに、そのきっかけがあるのだと論じました。アリストテレスのいう「事実それ自体」(to oti)と、「説明されるべき事実」(di oti)の区別によれば、明示的に「説明されるべき事実」として指摘されるなにものかではなく、むしろ暗黙のうちに「事実それ自体」として前提とされてしまっているなにものかのなかに、科学革命へのきっかけがあると論じたのです。
 あまりにも当たり前のこととして「事実それ自体」だとされていたことが、じつはほかの原理から「説明されるべき事実」であったということは、科学革命が成しとげられ、新しい「パラダイム」が成立したあとにはじめてわかる。このような視点からは、一見すると当たり前だと思われていること自体の「根拠」を疑い、その成りたちを問いなおすことが必要となる。科学革命は、静かにはじまるのです。
 たとえば、アインシュタインが「相対性理論」という私たちの宇宙観の変革に成功した際がそうでした。経験的事実としては、マイケルソンとモーリーの実験によって、真空中の光の速度が、地球の公転の運動方向に対してどのような向きで測っても「一定」であることがしめされていた。このことによって、光を伝搬する媒質としての「エーテル」の存在は否定されました。
 光の速度が一定であるということは、ニュートン力学の体系においては、説明することができない「異常項」でした。この異常項を説明しようと、ローレンツらは奇妙な変換を考えていた。速度vを光の速度cで割り、二乗して一から引き、それをルートのなかに入れる、特殊相対性理論にひんぱんに出てくるなじみ深い式は、アインシュタインが考案する前にすでに世の中に存在していたのです。
 しかし、いわゆる「ローレンツ変換」は、光速度が一定だという奇妙な観測事実を説明するためにいわば「苦しまぎれ」に考えだされた「対症療法」にすぎませんでした。なぜそのような式が必要なのか、その深い意味合いについては、わかっていなかったのです。
 ローレンツ変換の式をふくむ相対性理論の式は、「光速度一定」というニュートンの旧パラダイムにおけるあきらかな「異常項」ではなく、一見すると当たり前のことのように思われていた「同時」という観念の根拠を問いなおすことで自然に導かれる。これが、1905年に出版された論文『運動する物体の電気力学について』のなかでアインシュタインが成しとげた偉大な認識革命の本質です。アインシュタイン以前には、ある出来事と別の出来事が「同時」であるということは、あらためてその根拠を説明されるべくもない「事実それ自体」だと考えられていた。アインシュタインは、事象の同時性自体が、じつは「説明されるべき事実」だとして根本から考えなおした。日常的にいえば、ごく当たり前のことと考えられていた「なにかとなにかが同時である」ということの根拠を問うことで、ローレンツ変換の奇妙な式を導くことに成功したのです。
 私たち人間が、「主観性」を持ち、そうして「意識」のなかで「クオリア」が感じられる。私たちの生活経験に照らして考えれば疑いようのない「事実それ自体」だとも思われます。しかし、その基礎にどのような事情が存在するのか、疑わないままに放置するのでは、心の本性を理解したいという人間の知的探求は、本質的な意味では前に進まないでしょう。
 相対性理論が、事象と事象の「同時性」というごく当たり前のように思われる前提自体を問いなおすことで、認識の枠組みの革命をもたらしたように、「主体性」や「クオリア」といった私たちの心のなかに映る「事実それ自体」の根拠を問うことで、私たちは「意識の科学」や「心の哲学」の風景を変えることができると信じます。
 懐疑することがたいせつである。その点において、私は斎藤さんと認識を同じくしています。「主体」は、「事実それ自体」として前提とされるものではなく、むしろ懐疑されるものであり、「説明されるべき事実」なのです。

■主体の成り立ち

 主体がどのように「ブートストラップ」されて成立するのか。現代の脳科学は、経験主義の立場から、さまざまな知見を積みあげつつあります。
 「ミラーニューロン」に象徴される認知神経科学の「システム論的転回」。そこにおける議論が示唆している方向性は、「自己」というものを安易に前提にせず、「他者」との関係性において動的にとらえるというものであるように思われます。
 子どもの発達の過程において、「ものごころ」がついて、自分が意識を持つ存在だと感じはじめる。ちょうどそのころに、他人にも心があるということに気づき、その内容を推しはかる「心の理論」(theory of mind)が成立しはじめる。つまりは、自己意識と、他者意識がほぼ同時に生みだされはじめる。この不思議な符合のなかには、深く味わうべきなにかがあるように感じます。
 斎藤さんもしばしば参照されるように、ジャック・ラカンは「鏡像段階説」を展開し、自己意識の成りたちにおいて、「鏡」が重要な意味を持つと主張しました。ラカンが指摘するように、「鏡」というメタファーないしは機構は、人間の「自己意識」の成りたちにおいて重大な意味を持つと私自身も考えます。この点において、斎藤さんとさまざまな議論ができればと希望します。
 「鏡」と自己意識のかかわりがもっとも明示的なかたちで現れるのは、いわゆる「鏡像自己認識」(mirror self recognition)においてでしょう。1970年、アメリカのギャラップは、チンパンジーが鏡に映る自分の姿を自分だと認識できるかどうかという研究をおこない、発表しました。ギャラップは、ある朝、鏡にむかって髭をそっていて、この実験を思いついたのだそうです。
 チンパンジーは、最初から鏡のなかのイメージが自分だとわかるわけではありません。最初は、別の個体が鏡のなかにいると思って、威嚇したりといった社会的な行動をとる。そのうち、鏡のなかのイメージが自分自身だと気づきはじめる。数日たつうちに、チンパンジーの行動は、自己に向けられた(self-directed)なものに変化していきます。
 興味深いことに、鏡を見てすごす時間は、社会的な行動から自己にむけられた行動への変化の過程で最大になる。鏡のなかのイメージが自分だとわかってしまうと、興味が減退してしまうのです。
 この変化のプロセスにおいて、チンパンジーの脳のなかでは、きわめて大きな変化が起こっていると考えられます。自分がこのように動くと、鏡のなかのイメージもそれに対応した動きを見せる。このような、自分の「行為」と「感覚フィードバック」のあいだの関連性をとおして、鏡のなかのイメージが自分のものであるということを学習していくのです。
 鏡の前で、「このような運動をすると、このような感覚フィードバックが生じる」という関連性にあたる英語の概念は、contingencyです。この言葉は、もし運動と感覚のフィードバックのあいだの相関をある程度定まったものととらえれば、「随伴性」と訳すのが適切でしょう。しかし、より一般的な文脈のもとでは、「偶有性」という訳語をあてることが適切であると考えられます。
 ここに、「偶有性」とは、規則性とランダム性、既知のことと未知のこと、硬いことと柔らかいことが入りまじった状態を指し、現代の脳科学において、たいせつな概念の一つとなっています。
 「鏡」というメタファーないしはメカニズムは、物理的な意味での「鏡」に接する以前から、私たちの脳のなかの回路がその機能を発現するうえで重要な意味を持っていると考えられます。「このような運動をすれれば、このような感覚のフィードバックがある」というcontingencyをとおして、私たちの脳は自分自身のこと、そうして周囲の環境のことを学んでいくのです。
 たとえば、新生児は、自分の身体の範囲を、自分自身の身体や周囲のものをさわったりすることで、学んでいくと考えられています。自分の身体を触れた場合には、「触れる」ということと「触れられる」ということが同時に起こる(「ダブル・タッチ」)。一方、他者の身体を触れたときには、「触れる」という感覚だけが単独で生じる。他者に触れられたときには、「触れられる」という感覚だけが単独で生じる。「ダブル・タッチ」が起こることが、自分の身体を確認するうえでのメルクマールとなり、そのことによって新生児の脳は自分の身体の範囲を学んでいくのです。
 「ダブル・タッチ」をとおした身体知覚は、contingencyが比較的規則的に起こる「随伴性」に近い領域だといえます。一方、より一般的に考えれば、なにか行為をしたときに、それがどのような感覚フィードバックをともなって帰ってくるかには、偶然性や不確実性が不可避的にともないます。まさに、「偶有性」の領域となっていくのです。
 たとえば、会話がそうです。他者と向きあって言葉をやりとりする。このとき、自分の発話によって、相手の発話はある程度は予想ができるものの、完全には予想しきれない。ときには、こちらの意図とはまったく関係のないことを相手がいうこともある。一方では、「琴瑟相和す」(きんしつあいわす)とでもいうべき、美しい調和が生まれることもある。
 他者と会話を交わすことは、つねに、規則性とランダム性のあいだに揺れうごくことを意味します。そこで、「自己」と「他者」の境界のようなものも自然に生まれてくる。そこでの「自己」は、けっして確固とした存在として最初からあるものではなく、むしろ偶有性をとおしてブートストラップされるものである。これが、最近の脳科学が描く「自己」の像であり、いわゆる心脳問題も、そのような文脈のなかで論じられなければなりません。
 「偶有性」というものを、「一般化された鏡」だと考えたとき、そこに映る自分自身の姿、他者の姿、そうした世界の姿は奥深く、味わい深いものです。そこには、最初から「事実それ自体」として措定された主体などない。主体は、なにもない場所からなんらかのかたちで立ちあげられなければならない。
 このような「知的不安」のなかにある無限の喜びこそが、現代を生きる私たちにとっての知のフロンティアであるという認識において、私は斎藤環さんと同じ地点にいるように感じています。
 
■統計的描像を超えて

 偶有性の立場から、どのように「主体」の問題を論じるか。そうして、意識の起源や、クオリアの成りたちを解明するか。ここには、さまざまな興味深い問題がふくまれているように感じます。その際に、「無根拠」であること、「不確実」であることは、私たちがどうしても向きあわなければならないこの世の実相である。そこには、私たちにとってかけがえのない「他者」の本質の問題もふくまれているでしょう。
 そして、私たちの生の実体を与え、脳もまたそれに適応している「偶有性」の本質をあきらかにするためには、乗りこえなければならない大きな障壁があると私は感じています。
 私は、その障壁について、斎藤環さんはどのようにお考えなのか、ぜひご意見をうかがってみたいと思います。そして、もちろん、丁々発止のやりとりをしながらも、できれば予定調和ではないかたちで共闘がしてみたいとも願っているのです。
 生の現場は、予想もできないような「サプライズ」に満ちています。生命の本質は、「オープン・エンド」なこと。今日、私たちが「当たり前」のことだと思っているさまざまな概念もまた、将来書きかえられる可能性が大いにあるといえるでしょう。
 生命が不可避的に直面する不確実性を、どのようにとらえるか。「統計」の概念を前面に押したてて問題を解決しようとするのが、これまでの科学における一つの有力なやり方でした。
 ブレーズ・パスカルがサイコロ振りの賭博を「確率」の概念で記述して以来、「確率」は、生きるうえでどうしても直面するさまざまな不確実性をあつかううえで、有効な道具の一つとなってきました。認知科学、脳科学においても、「確率」を中心とする「統計」の概念は、中心的な役割をになってきました。また、「主観的な確率」を基礎におく「ベイズ推定」のやり方も、不確実性をあつかううえで多くの論者によって援用されてきました。
 今日、科学的「真理」の多くは、「確率」の概念にもとづいて記述されています。論文を書く際、データは「統計的有意性」とともにしめされなければなりません。ミクロな物質の振るまいを記述する量子力学は、「確率」を計算する「波動関数」を与えることで、世界を把握しようとします。統計力学は、あからさまなかたちで確率をその基礎にすえます。経済的な事象や、社会の振るまいなど、ある程度の複雑さを超えた対象をあつかおうとすれば、統計的手法をもちいることが避けられません。
 私自身、物理学を最初に学んだ、ということもありますし、統計的なアプローチの有力であることは、重々承知しています。人間の特性についても、一人ひとりの行動を離れて、集団としての振るまいを記述しようとする場合には、統計的な方法をもちいるのが効果的であるということは承知しています。
 それでもなお、私たちの生の問題をあつかうという現場においては、統計的アプローチに限界があるということを痛感せざるを得ない。いかに「統計的真理」という呪縛を超えるかということが、私たち人間にとっての最大の知的な課題であるように感じるのです。
 たとえば、ある病気にかかっている人が、診断の結果、いま手術をすれば5年生存している確率が30%だといわれたとしましょう。このようなデータは、「証拠にもとづく医学」という視点から見れば、過不足のないものでしょう。また、そのようなデータにもとづいて、手術の方針が立てられたり、医療政策がつくられたりすることについては、それなりの合理性があるといえるでしょう。
 しかし、一人ひとりの患者の立場からすれば、5年後に自分が「30%生きている」ということはあり得ない。実際には、生きているか死んでいるかのいずれかです。自分自身にとっても、家族や友人たちにとっても、生きているかどうかという「0か1か」の質問にだけ意味があるのであって、「30%生きている」という中途半端な記述には意味が見いだせない。
 私たち一人ひとりは、この世にわけもわからないままに生みだされ、成長していきます。自分がある姿かたちを持っていることや、ある言語や文化のなかで育つことや、特定の両親のもとで暮らすことは一つの宿命であって、逃れることができません。
 私は、何回かフルマラソンを走ったことがあります。沿道の人たちがどれほど応援してくれたとしても、最後まで走りきれるかどうかは、自分次第。誰も助けてくれません。私は、体重がオーバー気味だということもあって、30キロ以降は走れなくなってしまった。フルマラソンを実際に走るまでは、小中学校の持久走大会のような苦しさがずっと続くだけだと思っていたけれども、そうではなかった。
 おとずれたのは、筋肉の限界でした。腕立てふせを繰りかえしていると、いつかは腕の筋肉が疲労して、もうまったくできなくなってしまうのと同じように、30ロを走った私の足のふとももの筋肉は、いまにも切れそうに痛くなってしまった。どんなに応援されても、どれほど自分を奮いたてても、とぼとぼとゆっくり歩くのが精一杯でした。そこにあるのは、絶対的に逃れようもない自分自身の肉体であって、「完走できる確率は30%」といったような、統計的真理などではありませんでした。
 誰も、統計的真理を生きるのではなく、たった一つの自分の肉体を生きる。私たちの意識や心も、本性においてそのようなものであると私は考えます。
 脳の神経細胞の活動の解析や、神経活動による情報のコーディングの解析において、統計的手法は欠かすことができない道具となっています。私自身も、fMRIのデータを解析したり、認知科学の実験データを参照するときには、統計的なアプローチを援用します。
 それでも、私たちの脳という「肉体」の活動から私たちの意識がどのように生みだされるか、という根本問題を解明しようとしたら、統計的なアプローチは無効である。純粋に理論的な立場から、そのように考えられるということを、私は『脳とクオリア』のなかで論じました。「アンサンブル」の考え方にもとづく統計的なアプローチではなく、神経細胞と神経細胞の活動のあいだの相互作用のパターンにもとづいて、主体やクオリアは「ブートストラップ」されなければならない。
 統計的なアプローチから離れることで、「マッハの原理」や「相互作用同時性」が導かれる。基本的な考え方は、いまでも変わっていません。

■クオリアと生命原理

 統計的アプローチの有効性を認めつつ、それをいかに乗りこえるかと模索する。これは、きわめて困難ではあるけれども、必要なステップであると私は考えます。
 その際に、中心になる概念が「偶有性」であると考えます。そして、私は、斎藤さんが「偶有性」の問題についてどのようにお考えなのか、ぜひお聞きしてみたいと思います。
 その際に、中心となる課題は、いかに「懐疑する心」を持ちつづける一方で、「いま、ここ」の自分の身体を引きうけるか(引きうけざるを得ないことを認めつつ、それを受けいれるか)といことではないでしょうか。
 斎藤さんは、「しかし、クオリアの全面肯定は、はっきりと「懐疑する心」に対立します。」と書かれた。そのように書かれる含意は、理解いたします。この世に絶対的な「美」があると考えることは、あぶない。倫理的にあぶないだけではなく、この世界のもっともおもしろいものから、私たちを遠ざけてしまう。
 昔に読んだジョークの本に、ショパンを熱狂的に愛する批評家にしかけたいたずらというものがありました。批評家の目の前に、「これがショパンがはいていた靴下だよ」とぶら下げます。崇拝する作曲家ゆかりのものを前にした批評家は感激して、頬ずりしないばかりに眺めます。その様子をたっぷり見たあとで、いたずら者は、「バカだなあ。それは、ボクの靴下だよ」とばらして、バカにするのです。
 脱神話志向と神話志向のあいだの緊張感。クオリアは、そのような意味と無意味の邂逅(かいこう)のぎりぎりの境界面に現れるものだと思います。クオリアが、神話化しないように、つねに注意しなければならない。たいせつなのは、硬いものとやわらかいもの、必然性と偶然性、規則と例外、定番とサプライズが入りまじった生の偶有性を、いきいきとしたものに保つことではないでしょうか。
 あるものの価値が相対的で、底が抜けているとわかっているからといって、「いま、ここ」でその価値を取りあえずは信じることが、否定されるわけではないと考えます。たとえば恋愛。すべての愛がやがて色あせ、醒めることがわかっていたとしても、そのことを先取りして認識し、「いま、ここ」で自分がかかわっている恋愛に没入しないことは愚かだといえます。 
 私は、ドイツの作曲家、リヒャルト・ワグナーの楽劇を思春期のころから愛聴してきました。2009年夏には、生まれてはじめてバイロイト音楽祭にいくことができました。『トリスタンとイゾルデ』、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、そして『パルジファル』を観るという幸運に恵まれたのです。
 ワグナーは、しばしば、神話化原理の体現者のようにあつかわれます。しかし、ワグナーがその代表作『ニーベルングの指輪』で、英雄や愛、権力といった「価値」を描くとき、かならずそこには、そのような価値がやがては否定され、解体され、消滅するだろうという認識がともないます。ナチスドイツによって政治的に利用されたため、ワグナー本人のなかに、ファシズム的な危険な志向性があったと思われがちです。しかし、実際には、その作品を注意深く見れば、ワグナーはなにかの価値を説くときにも、その価値が相対的であること、いつかは否定され、解体されてしまうものであるかもしれないことがきちんとわかっている。
 『ニーベルングの指環』第二夜の『ジークフリート』三幕。おそれを知らない英雄ジークフリートが、炎に包まれて眠っていたブリュンヒルデを目覚めさせ、結ばれます。しかし、英雄はいつまでもじっとしているわけにはいきません。旅立つべきときが来ます。『神々の黄昏』の第一幕の愛の二重唱では、ジークフリートはブリュンヒルデに別れを告げる。ブリュンヒルデが不安なそぶりを見せると、ジークフリートは、「これから私が立てる武勲はすべてあなたの功績であり、私はあなたの腕にすぎない」という。そして、さらに、「私はジークフリートであるとともにブリュンヒルデなのであって、私がいくところ、どこでも二人一緒なのと同じなのだ」と歌います。
 愛する男にこのようなことをいわれて、うれしくない女はいません。ジークフリートは歓喜するブリュンヒルデと抱擁を交わし、新たな武勲を立てるために旅立ちます。このあたりの音楽は、限りない輝きと希望に満ちています。
 もし、ワグナーが愛や英雄といった価値が絶対だと思ってこの部分の音楽を書いていたのだとしたら、それはまさに「ゲルマン民族の優越」を唱えるナチスの伴奏曲としてふさわしかったといえるでしょう。しかし、ワグナーという人は、それほど単純ではない。大自然の中の岩山で、ジークフリートがブリュンヒルデに永遠の愛を誓ったそのすぐあとで、崩壊の場面がおとずれます。ジークフリートは、文明のなかに旅し、そこで退廃の味を知る。そのあげくに、文明の体現者、グンターと偽りの盟約を結んで、最愛の女であるはずのブルンヒルデを裏切るために、岩山にもどってくるのです。考え得る、もっともひどいやり方で。
 そもそも、この世に絶対的な価値などあるわけがない。永続的に存在するものなどありません。地球上で恒久平和を築こうがどうだろうが、何十億年後かには太陽は赤色巨星になってしまい、現在の地球軌道を飲みこんでしまいます。
 ナショナリズムは、社会のなかで、ある一定のリアリティを持ちます。日本、アメリカ、中国はそれぞれ独自の政治体制、文化をになっていて、それぞれの国で「自分たちが一番だ」と主張する心性があるわけです。しかし、地質学的な時間を考えれば、地球がなくなるそれ以前から、ナショナリズムは相対化される。数億年ごとに地球上の大陸が集合、離散を繰りかえす「ウィルソン・サイクル」。このメカニズムによって、アジア大陸とアメリカ大陸は2億年後に「合体」し、「アメイジア大陸」と呼ばれる超大陸になるといわれているのです。
 地球科学的、あるいは天文学的スケールから見れば、人間同士の争いは、しょせ意味のないことになってしまう。それでも、私たちをとらえるものに力があるからこそ、私たちの悩みは深いのです。
 私は、人と人のあいだに横たわる価値の相対を、たいせつな価値だと考えます。同時に、「いま、ここ」の身体を引きうけざるを得ない人間というものを、かけがえのない、そして愛しい存在だと感じます。
 私自身は、きっと多くのものにとらわれている。なににとらわれるか、ということも、ときとともに移ろいゆくかもしれない。私は、とらわれていない自分を想像することができる。他人がとらわれてしまっていることに対して、寛容になることができる。より自由になることを、働きかけることができる。その過程で、自分自身がとらわれてしまっているものの正体を見極めるかもしれない。そのような一連のやりとりのなかで、生の偶有性のダイナミクスは展開していきます。
 理性を持ち、学習することに中毒している私たち人間は、つねに変化を志向している。その一方で、「いま、ここ」の自分のあり方を引きうけざるを得ない。脳が解かなければならない認知課題は、いかに動的適応性と認知的安定性を両立させるかという点にある。そのメカニズムの核心に、クオリアや主体がある。
 すべては、虚無からブートストラップされる。無根拠ではあるが、とりあえず「いま、ここ」に存在する「私」。私の希望は、私が心から不思議だと感じるいくつかの問題について、すこしでも新しい視点を得ることです。そのためには、他者と向きあうことがどうしても必要です。
 すべては、「延長された鏡」のなかで。
 それは飛行機のなかか、あるいは街角か。斎藤さんと、またどこかで偶然の鉢合わせをすることはあるのでしょうか。こうして、遅すぎた返事を差しあげることで、希望をつなぎたいと思います。

茂木健一郎

脳は心を記述できるのか |