「脳は心を記述できるのか」

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第3信  「人間」と「言語」、あるいは偶有性のアスペクト

斎藤環から茂木健一郎への手紙


■はじめに

 茂木さん。2年半のブランクを経て、この往復書簡がゾンビのごとく蘇ったことを、とりあえずはどう受けとめたものでしょう。
 ずっと涙目で返信を待ち続けていたものの、私はこの往復書簡はとうに終わったものと考えていました。返信がいただけなかったのは、とても悲しいことではありましたが、その事実もまた「茂木健一郎」という人物の一側面であることを示しえたと考えて、それで満足することにしたのです。
 もっともこの企画、茂木さんによるガン無視パフォーマンスによって世間的に有名になったというところもあって、私もずいぶんとおもしろい経験をしました。
 いろんな媒体から取材を受けました。たくさんの人たちから「無視されてかわいそうに」と同情していただきました。なかでも、さる著名ミュージシャンは、この企画が往復しないほうに賭けてずいぶん儲けたということで、お礼にとごちそうしてくれました。これもまあ、茂木さんのおかげといえばいえなくもない気がします(しかし、これであの賭け金はどうなるんだろうと他人事ながら心配ですが)。ちなみに彼の話では、ミュージシャンには茂木さんシンパが多いらしいですよ。ちょっと、うらやましいですね。
 ただ、ひとつだけ見すごせない問題があります。
 どうやらこの件以降、私は「人気者にねちねちと嫌味をいうキャラ」というポジションを獲得したようで、福岡伸一さんと対談して嫌味をいったり、内田樹さんを批判したり、勝間和代さんに嫌味を書いたりという仕事の依頼が増えつつあります(私は原則として依頼原稿しか書きません)。
 せっかく営々と築きあげてきた「ひきこもりの第一人者(笑)」からのこうしたキャラシフトは、いったい昇格なのか降格なのか、実際のところよくわかりません。
 そこへこの返信です。はっきりいっておどろきました。このタイミングはどういうことなんだろうと、不審な思いすらいだきました。たまたまスケジュールに空きができたのだろうかとか、次のディケイドに向けてなにかをリセットされるおつもりだろうかとか、これが「アハ体験」だとかおっしゃりたいのだろうかとか、次々とわき上がるゲスの勘ぐりを必死で退けながら、はたしてこのお手紙に返信すべきか否か悩みました。
 遅れた事情はもうどうでもいいんですが、なぜいまお返事を出そうとされる気になったのか、この点については精神科医として興味があります。いや、この疑問については、お答えいただくにはおよびません。あれやこれやと「解釈」する楽しみは、私や読者のために残しておいてください。
 さて、二年半分の嫌味を吐きだして、すこしスッキリしましたので、さっそく本題に入らせていただきます。ちょっとまだ嫌味がくすぶるかもしれませんが、この点はご寛恕くださることを信じています。

■「アバター」が「人間」であるということ

 前回も述べたように、私にとって「人間」を考えるということは、まずなによりも「言語」について考えることを意味します。かならずしも「言語がすべて」とは申しませんが、われわれの日常を覆いつくしている圧倒的な言語の作用を無視した「人間」理解はありえない。私はそのように考えています。
 別の言い方をするなら、私の「人間」理解において、「脳」はそれほど重要ではありません。なぜなら、人間は「脳」がなくても考えることができるからです。これは冗談ではありません。医学的な話です。
 2007年7月25日付けの「FOX NEWS」に興味深い記事が掲載されています(http://www.foxnews.com/story/0,2933,290610,00.html)。
 44歳のフランス人男性が、左足に力が入らないという主訴(患者が医者に訴えるおもな症状)で病院を受診し、CTをとってみたところ、なんと彼には脳がなかったのです(下の図1参照)。

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   <図1 男性の脳のCT>

 脳がないにもかかわらず、彼はごく当たり前に生活していました。公務員として働き、結婚してふたりの子どもまでもうけています。
 種明かしをすれば、実際には「脳がない」わけではありません。彼は「ダンディウォーカー症候群」というまれな疾患により水頭症(髄液が異常に貯留する病気)を生じていて、そのため脳が紙のように薄くなっていたのです。
 こういう報告は、この事例にかぎらず時々あるようで、たとえば「サイエンス」誌の1980年12月号には、同様の事例を検討したRoger Lewin氏による「脳はほんとうに必要か?」なる論文が掲載されたりしています (Roger Lewin: Is Your Brain Really Necessary?. Science, 210(12), pp. 1232 – 1234,1980.)。
 前回もすこし述べましたが、「脳がすべて」とおっしゃる方には、私はこの画像をぜひお示ししたい。ハードウェアがこれほどダメージを受けていても、「人間」というOSは繰りかえし起動するということ。この事実は、ちょっと感動的ですらあります。
 で、ここから先は「脳」ではなく「言語」の話です。
 茂木さんは、ジェームズ・キャメロン監督の映画『アバター』(2009年)はもうご覧になりましたか。あの映画から受けた感銘や刺激を、“もれなく言語化する”ことはもちろん不可能ですよね。
 しかし、あの映画のほとんどは“言語”で成立しています。どういうことでしょうか。架空の惑星パンドラの世界は、3DCGでレンダリングされたものです。CGはプログラム言語で“書かれて”いますね。一説によれば、『アバター』のデータ量は1000テラバイト、つまり1ペタバイトを超えるそうです。
 あの獰猛(どうもう)なクリーチャーたちや不思議な植生、あるいは巨大なホームツリーまでもが、完全に“言語的に構成”されているということ。
 この意味でいえば、いまや“言語化不可能“なものは、なにひとつありません。あらゆる音、あらゆるイメージは、デジタル化可能です。味や匂いについてはまだむずかしいようですが、ようはインターフェイスの問題なので、解決は時間の問題でしょう。
 つまり、あらゆる感覚は、原理的にはデジタル化可能なのです。そして、デジタル化できるということは、言語化可能であるということです。私は、そこまでは“言語”の作用にふくめていいと考えています。
 もちろん『アバター』という作品自体も、非常によくできていたと思います。私は、キャメロンのB級テイストは大好きなので、よくいわれるような物語の凡庸さはあまり気になりませんでした。『ダンス・ウィズ・ウルヴス』(1991年)に似ているとか、ネイティリはポカホンタスだとか、『もののけ姫』(1997年)のパクリだとか、そういう批判ですね。
 ただ、この物語が、ある意味でハリウッド映画の「常識」をひっくり返している点が、意外に指摘されていない。本題ともかかわることですから、すこしくわしく触れておきましょう。
 『アバター』という映画の構造は、かの名作『マトリックス』(1999年)に似ています。“仮想空間”に自分の分身(アバター)を介して没入する、という設定が(もちろん惑星パンドラは仮想空間ではありませんが、比喩的な意味で)。
 しかし、似ているのはここまでです。
 映画『マトリックス』において(あるいは、奇しくも『アバター』と同時期に公開された『サロゲート』もそうですが)、現実世界は仮想世界よりもおおむね優位に描かれています。虚構より現実がえらい、というおなじみの議論です。
 たとえば『マトリックス』では、裏切り者、つまり悪役側のサイファーという人物がこんな言葉を口にします。
 「俺はな、このステーキが存在しないことは知ってるんだよ。口に入れると、マトリックスが俺の脳味噌に、これが肉汁たっぷりで最高にうまいと教えてくれるんだってこともな。9年かかって俺がなにを理解したか、アンタわかるか? 無知の至福さ。」
 現実よりも仮想現実を選択するという判断が「悪役」のものであるということ。この描写が象徴するように、「現実>仮想」あるいは「三次元>二次元」という価値観は、もはやハリウッド映画の強迫観念ですね。虚構産業の自浄作用のようなものでしょうか。まあそれはともかく。
  『アバター』で、主人公ジェイクは、あらゆるハリウッド映画的伝統に逆らって、なんと仮想現実に生きることを選択します。この部分、あまりにもあっさりと描かれているので気づかれにくいようですが、これは二重の意味で画期的なことです。
 前衛映画ではありません。超娯楽大作の主人公が、地球(=現実世界)に還らず、仮想空間(パンドラ)のヒロインと生きることを選ぶということ。なんともオタク的な「ネイティリは俺の嫁」宣言です。すいませんわかりにくかったですね。これは一般には、漫画やアニメのキャラクターにリアルな恋愛感情を喚起されてしまった漢(おとこ)たちが口にすべきテンプレートとされています。
 さらにいえば、キャメロンはこの映画で「もう現実とか仮想とか区別しなくてもよくね?」と提案しているようにもとれます。アメリカでは本作を観た観客のなかに、「パンドラから帰りたくない」という思いが高じて、うつ状態におちいった人々がすくなくなかったと報じられています。もしこれが事実なら、キャメロンの目論見は見事に当たったといえるでしょう。なにしろハリウッド映画に連綿と受けつがれてきたプラトニズム(イデア>現実>虚構)の伝統を、根底からくつがえしちゃったんですから。
 さらに視点を変えれば、『アバター』は、きわめて精神分析的な作品でもあります。
 すくなくともラカン派的な視点から見れば、虚構と日常的現実とは、ともに「想像界」に属するという意味で、本質的な区別はありません。同じように、「地球人」も「ナヴィ」も、ともに「人間」であるという意味では同一の存在です。
 あの大きすぎて顔色が悪すぎて目がはなれすぎているナヴィたちが「人間」だって? と不審に思われるかもしれません。
 しかし、たとえば、ラカン派哲学者のスラヴォイ・ジジェクは、こんなことを書いています。茂木さんは、映画の『ブレードランナー』(1982年)をご存じでしょう。あの作品にはレプリカントというサイボーグのような存在が登場しますが、ジジェクはそのレプリカントたちを「人間」であると見なします。
 なぜそんなことが可能なのか。
 たとえ彼らが人間とまったく異なった物質で構成され、あるいは脳の機能すらも人間とまったく異なっていたとしても、言語によって内省し、語る存在は、ことごとく「人間」なのだ、とジジェクはいうのです。
 じつは私も、この過激な主張を完全に支持するものです。
 言語システムは象徴界という普遍的な構造を持っており、それゆえ言語を語る存在は、それがいかなる言語であれ、共通の心的装置を持つことになります。もちろんこれは、科学的実証に耐える議論ではありません(「反証」できないため、でもあります)。しかし、だからこそ、精神分析による人間理解として、きわめて重要な「足場」たりうるのです。
 言語によって内省し、言語によって語るということは、「自分自身の存在について考える」という、一種のメタ認識能力を持つことを意味します。くわしく説明する余裕はありませんが、この能力ゆえにわれわれは『アバター』に同一化できるし、同時にアバターと自分を区別できます。
 そういえば荘子の「胡蝶の夢」も、マトリックスみたいな構造の寓話でした。ただし、ラカンのひねった解釈によれば、夢のなかで胡蝶になっているときは胡蝶であることを自問自答しないのに、目が覚めて荘子にもどってからは、自分が荘子か胡蝶かを自問自答しているのだから、胡蝶と荘子はかならずしも対等ではない、ということになります。
 ならば、もし胡蝶も、荘子と同じように自問自答していたとすればどうでしょう?
 私が『アバター』でもっとも感動したのは、ヒロインのネイティリがジェイクの障害を持った“本体”を救出し、抱きしめるシーンでした。
 これこそはネイティリが「自問する胡蝶」たる証であり、夢自身による「私はあなたに見られている夢」という告白であり、「ジェイクは俺の嫁(「嫁」です、断じて)」宣言でもあるのです。
 視覚的なイメージだけを信じる立場からすれば、ナヴィたちに「青のクオリア」以上のものは感じられないかもしれません。しかし、ナヴィとジェイクのあいだには、互いが言語的存在であるという共通認識があった。言語的存在であるということは、「コミュニケーションという幻想」を介して、リアルな「関係」を築きうるということを意味します。
 そして、この「関係可能性」さえ信じられれば、猫でも犬でも「人間」です。誰であれ、愛するペットに「おまえ、ほんとうはしゃべれるんだろ?」と尋ねたことのない人がいるでしょうか。そういえばうちの猫は、そう尋ねると目をそらすんです。まちがいありません、やつは猫をかぶった「人間」です。

■「主体」の構成について

 さて、いよいよ本題に入りましょう。
 今回の茂木さんの返信は、原稿用紙にして50枚ほどもありましたので、なかなか読みごたえがあります。それでも茂木さんの文章はリーダビリティが高くて、あっという間に読んでしまいました。
 で、とりあえず茂木さんの手紙のあらすじをざっと整理してみました。だいたい、こんな感じでしょうか。

 (1) 茂木さんは、飛行機でタイ人の少年に座席をゆずってあげた。
 (2) 言語だけでは、意識を現象学的に記述できない。
 (3) 主体は、無から偶有性という「鏡」のもとで構成される。
 (4) 茂木さんは、フルマラソンを走ろうとしたことがある。
 (5) 統計で脳はわからない。
 (6) ジークフリートは、ひどい男である。
 (7) そういう意味からも「偶有性」が重要である。
 (8) 地球は、いずれ滅びる。
 (9) なんといっても「偶有性」が重要である。

 このうち、(1)、(4)、(6)、(8)については、とりたてて異論はありません。いずれについても「なるほど、いわれてみればそのとおりかもしれない」と感じました。私だってなんでも反論したいわけではありませんのでね、この点はしっかり強調しておきます。
 あと、(5)については、そもそも私は統計の話をしておりませんので普通に読みましたけど、ちょっとこれまずくないですか。統計的手法を否定してしまったら、それこそ脳科学をふくむ経験科学の大部分は壊滅的な影響を受けませんか? それとも茂木さんは、脳科学を形式科学として実践されているのでしょうか? 「理論脳科学」のような?
 まあ、とりあえずこの部分は、「この往復書簡では科学よりも哲学モードで語り合いましょう」というモードチェンジ宣言と理解しておくことにします。私もそれに合わせるつもりです。
 私にとって重要な論点は、(2)、(3)、(7)、(9)ですね。
 茂木さんが誠実に書いてくださったので、私とはものの考え方が、もっとも根本的な部分ですれ違っていることがよくわかりました。最初に述べたとおり、この往復(に時間をようする)書簡は、論争ではなくて「立場の違い」の確認を目的としています。ですから、ここに示された論点について、いちいち細かな反論をするよりも、もっとざっくりと、私の思うところを述べておきます。
 まず、「主体の構成」について、私の考えを述べておきましょう。
 前回のお手紙で、茂木さんがラカンの鏡像段階について触れてくださったことは、たいへんうれしく感じました。
 しかし、しかしですよ、誠に失礼ながら、ここには大いなる誤解があるといわざるをえません。誤解という強い表現をあえてもちいるのは、茂木さんが、ラカンの名前を出されたからです。つまり、ラカン理論として考えるなら、茂木さんの鏡像理論に関する解釈は、端的に誤解と申しあげるほかないのです。
 茂木さんの文脈では、鏡像段階も接触によるフィードバックも、主体を生みだすブートストラップという点では同じことになってしまいます。しかしそれでは、「人間」の存在論的な特異性があいまいになってしまいます。
(※ちなみに、分野によってはこの「ブートストラップ」も、かなり意味に幅のあるコトバですが、ここでは「Wikipedia」にしたがって、もっともシンプルに「単純な要素から複雑なシステムを構築する過程」という意味にとらえておきます)
 よろしいでしょうか。人間の主体は、まったくの無からブートストラップ的な過程を経て形成される、と茂木さんはおっしゃる。ここで茂木さんは、幼児が鏡像とのあいだで刺激と反応を繰りかえしながら、徐々に自我の輪郭を形づくっていくような過程をイメージされているように思います。
 ところが、ラカン的な立場からすれば、こうした理解こそが、まさに主体の不当な実体化、ということになるのです。この理解ですと、一度“無から”形成されてしまった「主体」は、ニューラルネットワークという実体化を経て、脳内のどこかにしっかりと位置づけられることになってしまいませんか? 
 問題は、主体の起源が無根拠である、ということではないのです。むしろ順調に育まれつつあった人間の“生物的”自我が、鏡にふれることで、一気に欠如態に変換させられてしまうこと。これこそが本来の「鏡像段階」の“意義”なのです。
 それを信ずるかどうかは別として、鏡像段階の特異性は、システム論的なフィードバックを越えたところにあります。どういうことでしょうか。以下、ごく簡単に説明してみます。
 生後まもない赤ん坊は、神経系の発達も未成熟のままであり、それどころか、自分と母親の区別も十分についていないとされます。それゆえ、自分の身体イメージも混沌としています。これは「寸断された身体」などと呼ばれます。
 ところが、生後6ヶ月から18ヶ月くらいの時期に、子どもは鏡に写った自分の姿に関心を持ちはじめます。それが自分自身の映像であることを知って、子どもは小おどりして喜びます。ばらばらに感じられていた自分のイメージが、鏡のなかでひとつにまとめられることの歓びですね。こうした自己獲得の歓びが、触覚でも聴覚でもなく、視覚だけによってもたらされること。この圧倒的な視覚優位性こそが、のちのち重要な意味を持ちます。
 このとき、母親が子どもの喜びに承認を与える(「そう、それはお前だよ」)ことによって、「これが私だ」という認識が生まれます。これがラカンによれば、最初期の知能ということになります。
 重要なことは、このとき子どもが完全に騙されている、という点にあります。
 人間は、自分自身の眼で自分を直接に眺めることができません。それゆえ左右反転した鏡像という偽のイメージによって、最初の自己像を確立するほかはありません。このとき子どもは、自分が自分であるためには、鏡のような幻想の力を借りなければならないという意味で、きわめて大きな負債を追うことになります。
 別の言い方をするなら、子どもは鏡像の力を借りることで、ありえないほど早期に自己イメージを確立できる代わりに、「真の自己イメージ」と出会う機会は永遠にそこなわれます。これを精神分析では「主体は自我を鏡像のなかに疎外する」と表現します。
 多くの場合、こうした「疎外」は自覚されることはありません。だから、一部の人々は、「じぶん探し」と称する、ひたすらおのれの鏡像に騙され続ける旅をえんえんと続けます。しかし、ラカンによれば「じぶん探し」に真の回答がありえないことは、鏡像段階ですでに定められた運命なのです。
 ラカンは、この段階を構造的な必然と考えます。つまり、事後的に考えて、人間の自己はそのように確立されたと仮定するほかはない、という意味です。言い換えるなら、乳幼児をじっくり観察して、「鏡像段階」を検証することはできません。そういう意味で、鏡像段階は「神話」です。つまりそこには、茂木さんがおっしゃる意味での「偶有性」や「ブートストラップ」は存在しないのです。
 もっとも、こう述べるだけでは悲観主義すぎるかもしれませんね。
 主体が欠如としてもたらされること、真の自己像が不可能であることには、きわめて大きなメリットがあります。自己像が幻想でしかないことの恩恵として、われわれはさまざまなイメージに自由に同一化できるからです。尊敬する人物や飼っているペット、あるいは虚構のなかのキャラにまで、容易に自己投影できること。われわれは鏡像に騙されることで、嘘をつく能力を手に入れました。まさにこの能力こそが、想像力の起源でなくてなんでしょうか。

■“言語”の優位性について

 次に、言語について検討してみましょう。ここでは茂木さんの「言語だけでは、意識を現象学的に記述できない」という指摘に注目してみます。
 すでに『アバター』のエピソードで、私なりの「人間」理解についてはかなりくわしく述べました。
 そこにも書いたとおり、私が言語の機能を重視するのは、人間の心的装置をつくり上げているものが、徹底して言語的な成分であるというラカン派の公準にもとづいています。正確にはシニフィアンということになりますが、読者の便宜を考えて、ここはあえて近似的表現をもちいます。
 茂木さんがおっしゃりたいことはわかります。意識に生起するさまざまな表象は、しばしば言語を越えている。私もある時期までは、そのように考えたこともありました。というか、いまでは「言語を越えた経験がある」と思っていない人のほうが、きっと少数派でしょう。
 たとえば、茂木さんも私も接点がある現代アーティストの多くは、「いかに言語に回収されない表現を達成するか」という課題につきまとわれているようにすら思います。
 ここにはきわめて重大な逆説があります。それは「言語を越えた経験」の存在は、言語以外の方法ではけっして伝達できない、というものです。
 フロイト=ラカンによる精神分析は、「イメージは言語を越える」という「常識」をくつがえした点に大きな意義があった、と私は考えています。そう、逆に考えるのです。「言語は、表象や意識を越えている」と考えるのです。
 たとえば、フロイトの著書『夢判断』では、夢に現れるさまざまなイメージが、いかに言語的成分から構成されるか、ほぼそのことばかりが繰りかえし検討されています。もちろん、『夢判断』における夢解釈の妥当性には異論の余地があるでしょう。しかし、あっさり「言葉にならない」とすまされがちな夢のイメージにまで、なんらかの構造や文法を見いだそうとするフロイトの過激な意志そのものは、いまなお価値を失っていません。「言葉を超える」と称して、その実、ひたすら言葉から逃避しているだけの言説よりも、よほど信頼できます。
 ちょっと古い本ですが、名著『生物から見た世界』で、ヤーコブ・フォン・ユクスキュルは“Umwelt”(環世界)という概念を提唱しています。つまり、生物はそれぞれの認識能力によって、制約された世界を生きているという話ですね。この本でユクスキュルは、コクマルガラスが静止しているキリギリスを認識できない例や、雌のコオロギが雄コオロギの姿ではなく声しか認識できないなどの例をあげています。
 なかでも、いちばん有名なのは、マダニの例でしょう。マダニの雌は木の枝先の下を動物がとおると飛び乗って血を吸いますが、このとき、視覚や聴覚を持たないダニは、動物が皮膚から発する酪酸、動物の体毛、動物の体温という三つの刺激にしか反応していない。つまりダニの環世界は、光覚、触覚、温覚という三つの刺激だけで構成されているわけです。
 ほぼ同様のことを、ハイデガーはもっとうまく整理しています。

 (1)石は世界を持たない(weltlos)。
 (2)動物は世界貧困的である(weltarm)。
 (3)人間は世界形成的である(weltbildend)。

 なぜ人間だけが世界を形成できるのか。それはまちがいなく、言語の機能ゆえでしょう。世界貧困と世界形成とのあいだには、決定的な断絶がありますが、これもたらしたものこそ言語なのです。もし人間に感覚やイメージしか許されていなかったら、人間の世界ははるかにちいさく、狭いものになっていたはずです。
 しかし、人間は言語の機能によって、認識できる世界を極大にまで拡張しました。これは、感覚ではなく認識の問題です。むしろわれわれは、(あえて言いますが)言語の力を借りることで、超音波や赤外線のような、感覚閾値(直接に感覚できない刺激)を超えた刺激まで“認識”できる。そうではありませんか(もっとも、言語ゆえに、存在しない“電波”まで受信しちゃう人もいるわけですが……)。
 茂木さんは、「体験のすべてを言語化できるか」とおっしゃる。もちろん、そんなことは無理に決まっています。なんであれ“完璧な言語化”などできません。というか、それはなにも、言語にかぎったことではない。「任意の感覚や情緒を完璧に媒介せよ」なんてことが、そもそも可能だと思われますか? そんな試みは、不可能であるばかりか、単に無意味です。
 私たちは、「すべてを映像化できるか」とか「すべてを聴覚化できるか」という疑問に、あまり悩むことはありませんよね。でも、なぜか、どういうわけか、「すべてを言語化できるか」という問いだけは、えんえんと問われ続けています。それは言語だけが、私たちにその種の万能感を与えているからでなければなんでしょうか?
 たしか漱石の『猫』に、「二十四時間で経験したことをもれなく書こうとすれば二十四時間かかるだろう」という趣旨のことが書かれていましたが、これはベタに受けとればまちがいです。あらゆる経験の記述が、わずか二十四時間で済むわけがありません。漱石は、ようするに、なにもかももれなく言語化することの愚かしさを言いたかったのでしょうが、それはともかく。
 むしろわれわれは、原理的には伝達不可能なはずの主観的体験すらも、比喩をもちいたり、「それは言語を越えている」などと言いあらわすことによって共有できてしまうほど、言語に浸りきった存在なのではありませんか?
 そもそも、「なぜ言葉が伝わるか」は科学的に解明されていません。というか、ほんとうに厳密に考えるなら、言葉でなにかが確実に伝わっていると実証することすらできません(「確率的」にはいえるかもしれませんが)。
 もしこれが言葉ではなく記号だったなら、意味は確実に伝わっていたでしょう。ラカンが例示したトゲウオの求愛ダンスや、あるいはミツバチの8の字ダンスは、単純な意味を確実に伝達するという意味で、記号的なコミュニケーションです。
 言葉による伝達の不確実さは、言葉が記号と違って、その意味を一義的に決定できないためもあります。それはきわめて文脈依存的に決定されるわけですが、この「文脈」がまた難物です。というのも、テクストからいかにしてコンテクストが生ずるのか、この疑問すら解明されていないからです。
 ベイトソンは、コンテクストの認識を「学習Ⅱ」に位置づけましたが、「学習Ⅱ」がいかにして可能になるかは謎のままです。だから、コンピュータはいまだに、真の意味でのコンテクスト認識ができません。漢字変換ソフトなどのコンテクスト認識は、実際にはせいぜいパターン認識止まりです。
 もっとも、もしコンピュータによる正確なコンテクスト認識が可能になれば、それはほとんど情報革命みたいなものです。この革命は、いわゆる「フレーム問題」をも同時に克服するわけですから、人工知能も夢ではなくなるでしょう。
 ラカンによれば、コミュニケーションは端的に“不可能なもの”です。言葉がなにかを確実に伝えているということに、いかなる根拠もありません。あとでふれる社会学者のルーマンも、ラカンとは別の角度(「ダブル・コンティンジェンシー」問題)からコミュニケーションの不可能性を指摘しています。精神分析とシステム論という、すくなからぬ対立点をふくむふたつの理論における巨人が、ふたりながら同じ結論に達していることは、きわめて重要です。
 これを茂木さんがお好きな言葉で表現するなら、“言葉が伝わっている”という事態こそが、偶有性以外のなにものでもありません。われわれは互いに、言葉によって理解し合えているかのような錯覚におちいっているだけなのです。
 つまり、言葉でなにかを表現したり、それが理解されたりするという事態そのものが、かぎりなく奇跡に近いのですね。
 しかし、われわれは言葉以外の有効な伝達手段をほぼ持っていません。
 SFなどでは、脳と脳を接続して意思の疎通をはかりうるような話がよく出てきますが、これがどんなにありえないことかは、たとえばアスペルガー症候群の当事者が書いた手記などを読めばわかります。人は、自分自身の身体に生じた感覚をほどよく抽象化し、言語にまとめあげてから、あらためて自分自身にそれを伝えます。ようするに、これが「認識」です。
 この過程に個体差があるために、神経系を接続して認識や感覚だけを共有できたとしても、それがなにを意味するかまでは伝わりません。言語という形式に情報を落とし込んでいるからこそ、われわれはそれを受けとり、ふたたびそれを解凍したり加工したりと工夫ができる。
 むしろ私が驚くのは、その不確実さにもかかわらず、言語が持っている過剰なまでの伝達性です。
 俳句や短歌、あるいは詩などが典型ですが、われわれは情報量からすればほんの数十ビットという言語刺激から、しばしば無限大の世界をイメージし、それを共有することすら可能です。描写や比喩は言語だけの機能ですが、まさにこの機能によって、わずかな情報量で膨大な共感覚を喚起することが可能になります。すくなくとも、可能であると感じています。
 言語以外のどんな手段で、はたしてわれわれは、これほどまでに相互理解し合えたでしょうか。
 音声と文字という、ほぼ誰もが使用できる素朴なインターフェイスをもちいて、これほど高速にやりとりできる“メディア” (と、仮に呼んでおきますが)が、ほかに考えられるでしょうか。われわれは言語という、異常なほど高機能な“メディア”にあまりにも慣れ親しみすぎているために、その途方もない恩恵に鈍感になってはいないでしょうか。
 そもそも他者の内面などというものは、哲学的にはほぼ完全に不可知の領域とされます。むしろ、私の主観的な体験を他者に伝達することそのものが、かぎりなく不可能に近い事態であるはずです。しかし、言葉のおかげで、われわれは他人の主観を類推したり、あまつさえ共感したりすることまでできる。
 なぜそんなことが可能であるかわからない以上、私たちは言葉を発するたびに、暗闇を跳躍(ちょうやく)しているに等しいのです。にもかかわらず、その跳躍はおおむね成功する。あるいは成功しているかのような結果が得られる。これはかなりとんでもないことです。
 繰りかえします。「言語化しきれない体験がある」というのは、当然のことです。むしろ、ある種の体験は言語化が可能であるような結果が得られてしまうことのほうが、謎であり奇跡なのです。この事実ひとつとっても、言語の圧倒的な優位性はゆるぎません。
 あるいは“逆説”について考えてみましょう。記号で“逆説”は表現できません。だから、「クレタ島人のパラドックス」のような自己言及問題をコンピュータは処理できません。
 しかし、われわれは、こうした“逆説”も言語で表現することによって、あっさり処理することができます。「『クレタ島人は嘘つきだ』とクレタ島人はいった」という記述のなかに、発言の主体であるクレタ島人と、言及されているクレタ島人は、論理階梯が異なることを自然に含意できるからです。それゆえわれわれはこの“逆説”を、ひとりの批評的精神を持ったクレタ島人(エピメニデス?)が、みずからが所属する「島民性」について論評している、と容易に理解することができるのです。
 さらに、きわめつけの“事実”があります。メディアとしての言語がとんでもないのは、これのみが一種の自律性によって情報をつくり出すことができるという点にあります。少々、オカルト風に表現するなら、こういうのが「言霊」などと呼ばれるわけでしょう。
 なにしろわれわれには、言語表現をもちいることで、経験したことのない風景や感情、あるいは魅力的なキャラクターを造形することすら可能です。こうした自律的機能は、視覚や聴覚に依存したいかなる記号にも不可能なことです。フロイトが見いだしたように、幻想や空想の領域では、イメージは完全に言語にしたがいます。そう、惑星パンドラの風景がプログラミング言語で描かれたように、です。
 フロイト=ラカンが発見したのは、こうした言語システムの自律的作動が、人間に「欲望」や「症状」をもたらす、という「真理」ですね。じつはここにこそ、精神分析の真骨頂があるのですが、今回は深入りせずにおきます。
 ちなみにラカン理論といえば、しばしば短絡的に「主体の欠如が欲望をもたらす」的なまとめ方をされやすいんですが、それはいくらなんでも乱暴というものです。言語システムによって媒介されることが、主体の欠如と欲望をかりそめの因果関係で結ぶ、というほうがまだ正確です。だって、欠如が欲望に直結しているのなら、それは欲求と変わりませんからね。
 まあ、さしあたり「言語がすべて」などとはいわずにおきましょう。しかし、私たちの心は、言語システムというきわめて特異な媒体にとことん浸されていること、この点はやはり、どうしてもゆずれません。
 だから、「イメージは言語を越えている」と主張される方にお願いがあります。「言語を越えたイメージ」への憧れや共感は、私にも理解できます。しかし、こうした感覚こそが、言語の作用がもたらした効果のひとつである可能性についても、ちょっと立ち止まって考えてみていただきたいのです。

■「感覚」と「言語」の問題
 
 前回のお手紙で茂木さんが指摘されたように、私たちが一個人として、自分の内面に生起するさまざまな感覚を味わうとき、あるいは言語は不要なのかもしれません(この点についても、ほんとうは異論があるのですが)。しかし、そうした感覚の存在を、他者とすこしでも共有しようと思ったら、私たちには言語を使う以外の方法がない。それは、さきほども申しあげたとおりです。
 赤いリンゴを見て、私がなにを感じたかを示そうとするとき、黙ってそのリンゴそのものを相手に示せばいいのでしょうか? おそらく、それではむずかしいでしょう。私はリンゴの色を見ているのに、相手はリンゴのかたちや大きさを見ているのかもしれない。たまたま空腹な私には、リンゴがおいしそうに見えたとしても、相手は歯槽膿漏でリンゴが苦手かもしれない。
 だからこそ、この私の感じている感覚を伝えるには、せめて「このリンゴは赤くておいしそうだ」といった言葉くらいは、そえる必要がある。なんらかの言葉や説明を添えなければ、私たちは同じものを見ていながら、ぜんぜん別のことを考えてしまう可能性があるからです。
 ちなみに、リンゴの、〈いわく言いがたい印象〉を簡潔に伝えようと思ったら、いまならこういうべきでしょう。「これが“リンゴのクオリア”というものだね」と。すみません、半分は皮肉です。こういう使い方が適切かどうかはわかりません。しかし、もしこんな使われ方が許されるなら、「クオリア」は単なるバズワードにすぎないと私は思います。
 ところで、こうした感覚の問題をつきつめていくと、前回に茂木さんも名前を出されていたルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタインにゆきあたります。
 彼は、感覚のなかでも、とくに「痛み」に注目しました。なぜ、「痛み」なのでしょうか。
 「痛み」ほど主観的な感覚は存在しません。ほかのあらゆる感覚には、原則として「対象」が存在します。でも、「痛み」にだけは、対象があるとはかぎりません。だからこそ、どれほど身体を精査しても原因がわからない痛みというものが存在するのです。
 しかし、身体的な原因がないからといって、「痛み」の存在を否定することはできません。痛みを訴える患者に対して、治療者は「あなたは、ほんとうは痛くないはずだ」とは、けっしていえないのです。
 たとえば、「幻覚」について考えてみましょう。存在しないものが見える「幻視」、存在しない音が聞こえる「幻聴」のほか、「幻嗅」「幻味」「幻触」など、さまざまな分類があります。しかし、「幻痛」だけは存在しません。なぜでしょうか(存在しない手足が痛む「幻肢痛phantom pain」は、「幻の痛み」ならぬ「幻の身体」です)。
 五感には、かならずその「対象」が存在します。われわれはなんらかの対象を見、聞き、嗅ぎ、あるいは味わい、触れることで、その存在を確認します。だからこそ、対象がないのに生じる感覚を「幻覚」と呼びうるのです。しかし、かならずしも対象を必要としない「痛み」だけは、それが「幻覚」か否かの判断を誰にも下すことができないのです。対象がかならずしも存在しない「痛み」は、「純粋感覚」ともいえるかもしれません。
 だから、「痛み」の測定はむずかしい。かつて室蘭市立医科大学教授が、「長さ1センチの鼻毛を鉛直方向に1ニュートンの力で引っ張り、抜いたときに感じる痛み」を「1ハナゲ」と定義することを提案し、国際標準化機構(ISO)によって認可された、と報じられて話題になりましたが、これは痛み測定のむずかしさをネタにした秀逸な冗談でした。
 こうした痛みの主観性は、その発生メカニズムによるところも大きいでしょう。医学的には、たとえば「プロスタグランジンやブラジキニンといった発痛物質がポリモーダル受容器を刺激する」といった説明が可能ですが、もちろんこれがすべてではありません。
 ひとついえることは、「痛み」発生のメカニズムが、かなりの程度、神経系に内在的なものであるということです。痛み刺激をもたらす対象が存在するとしても、その対象が痛みをもたらすまでには、ほかの感覚よりも複雑な過程を経ることになります。また、それゆえに、外部に対象が存在していなくても、神経系の内部だけで、痛み刺激が発生しうるのです。ほかの感覚にくらべて、「痛み」がすぐれて主観的な感覚であるのはこのためです。
 ながながと「痛み」について述べてしまいましたが、その特異性についてはこれで十分でしょう。
 ここでひとつの疑問がわき起こります。これほど主観的な「純粋感覚」を、われわれはなぜ言語化できるのか? 客観的対象が存在しない「感覚」を、われわれはなぜ、名指すだけで他者に伝達しうると信じているのか?
 結論を先に書きましょう。
 われわれが「痛い」と感ずるのは、まさに「痛い」という言葉があるからです。
 ウィトゲンシュタインは、後期の代表的著書『哲学探究』において、「痛み」についてくわしく検討しています。そのなかで、彼はたとえば、次にように述べています。

 「ある子供が怪我をして、泣き喚く。すると、大人たちがその子に話しかけ、叫ぶことを教え、さらに後に、文を教える。彼らは子供に、痛いときの新しい振る舞い方を教えるのである」(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』 #244)

 もちろん、これはひとつの極論でしょう。なぜなら、ウィトゲンシュタインは、言葉を覚える以前の子どもは、自分では痛みの存在を理解できないと見なしているからです。子どもは自分の状態について、それを自分よりもよく理解しているおとなの力を借りることで、はじめて理解する。つまり、子どもは、周囲のおとなから「痛み」の表出の仕方を教えられることで、はじめて「痛み」の存在を知る、というわけです。
 そんな馬鹿な、とわれわれの「常識」はつぶやくでしょう。しかし、さきほど述べたような「痛み」の徹底した主観性を考えるなら、ウィトゲンシュタインに反論することがいかにむずかしいかがわかります。
 ここでウィトゲンシュタインは、「痛み」を例に取ってはいますが、じつはこの指摘を感覚全般にあてはめようと考えていたはずです。なんらかの言動として表出されないかぎり、「痛み」はもとより、あらゆる人間の感覚は存在しないことになる、と。
 ひょっとして茂木さんは、「痛み」っていうのは「痛み中枢(前帯状回?)」のニューロンが発火することだ、とおっしゃりたいのでしょうか。まあ、常識的な医師や脳科学者なら、そう答えるのかもしれません。
 しかし、さきほども確認したように、私たちはすでに科学から哲学の領域に足を踏みいれています。この立場からは、「感覚」と「中枢」の関係にはいかなる因果関係もなく、単なる相関関係しかないことになります。だって医学的なエヴィデンスって、ようするに統計のことですからね。哲学的視点からは「感覚中枢」をめぐる議論になんの意味もないことは、前回のお手紙にも書きました。
 ところで、純粋に感覚と言葉の議論を延長していくと、かの「私的言語」の問題にゆきあたりますね。これはクオリア問題にも通ずる重要な問題ですから、ぜひ茂木さんのご意見もうかがいたいところです。以下、読者の便宜のために、私なりの要約を記しておきましょう。
 『哲学探究』においてウィトゲンシュタインは、ひとつの思考実験を試みます。私にしか知り得ない(私秘的)感覚を「E」と名づけ、その感覚が生じたら日記に「E」と記入します。もちろん「E」は、ある種の痛みと同様に、対象を欠いた感覚なので、その存在を客観的には検証できません。それゆえ「E」は、典型的な私的言語となります。はたして、このようなことは可能なのか。
 不可能である、というのがウィトゲンシュタインの結論です。
 さきほど述べたとおり、「E」を客観的に判断する基準は存在しません。ということは、昨日感じた「E」と今日感じている「E」が同じ感覚であるという保証も存在しないことになります。つまり、正しいかどうかの判定ができません。これは、言い換えるなら、私的言語が成立するためには他者と共有可能な外的(公的)基準が必要である、という逆説です。基準というのが、ようするに「言語ゲーム」のルールにあたりますね。つまり、このパラドックスゆえに、私的言語は不可能なのです。
 ただし、われわれには「ルールにしたがう」ことはできても、「ルールの正しさ」を実証することはできません。だから、ほんとうに厳密にいえば、茂木さんの見ている青と私が見ている青とが同じ感覚であることは証明できないし、私が昨日見た青と今日見た青との同一性すら実証することはできません。なぜなら、その証明こそは「語り得ないもの」の領域だからです。
 ところで、前期ウィトゲンシュタインでは「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する」とされます。これはきわめて独我論的な言いまわしのようですが、これをもし強引に「私的言語の不可能性」という後期ウィトゲンシュタインの命題と組み合わせるなら、独我論への徹底した反論になってしまいますね。しかし、そのことは、いまはおきましょう。
 重要なことは、世界と言語がこれほどまでに重ねられていることです。強引な解釈を続けるのなら、ウィトゲンシュタインは、ようするに語りうるもの(=伝達・共有可能なもの)の総体が世界であるといっているわけです。もし茂木さんがいわれるとおり、クオリアが徹底して私秘的感覚であるのなら、すくなくともウィトゲンシュタインは、それを否定していることになります。
 余談ながら、私的言語をめぐるウィトゲンシュタインの議論は、ラカンの理論と多くの部分で共鳴します。言語を「大いなる他者」と見なすラカンにとっては、もちろん「私的言語」など論外です。言語はつねにすでに他者として、端的に外部から到来するものであるからです。
 ラカンとウィトゲンシュタインに共通するのは、感覚に対する言語の先行性、という考え方です。その感覚を名指すための言葉があってはじめて、その感覚は可能になる。この命題は、表向きは、いかにもわれわれの常識に逆らうように思えます。しかし、感覚についてすこしでも厳密に考えようとすれば、このような結論にならざるをえない。
 ラカンとウィトゲンシュタインが、思想史的にはいわゆる「言語論的転回」(言語が存在に先行すると考える立場)と関係が深いのは、偶然ではありません。もっともこうした発想は、われわれが「言語によってしか思考できない」という制約のもとでの論理的帰結、という可能性もありますから、それが普遍的真理かどうかについては、まだ疑う余地があるのかもしれませんが……。

■「偶有性」は記述可能か?

 さて、今回のお手紙の最後は、ご提案いただいた「偶有性」問題について考えてみたいと思います。
 茂木さんは前回のお手紙で、「偶有性」を次のように定義されていました。
 「『偶有性』とは、規則性とランダム性、既知のことと未知のこと、硬いことと柔らかいことが入りまじった状態を指し、現代の脳科学において、たいせつな概念の一つとなっています。」と。
 この「偶有性」の解説は、私の知っている「偶有性」とはずいぶん違っているので驚きました。規則性とランダム性の中間? えーと、「中間」なんですか? なんだか、とても難解です。いったいどんな状態なのか、私にはちょっと想像がつきません。
 そして、〈硬いことと柔らかいことが入りまじった状態〉ですか? つまりそれは、外はカリッとしていて中はトロトロ、みたいな状態でしょうか。なかなかおいしそうなタコ焼……いやいや偶有性ですね。そう、ここは村上春樹ならまちがいなく「偶有的タコ焼き」とか表現するはずのところです。
 ふざけたことを書いてすみません。しかし、このくだりだけは、どうしても承伏しかねるのです。あらゆる発言のソースを示せとは申しませんが(それは私にも“ブーメラン”ですから)、茂木さん、ぜひ偶有性のこうした定義がいかなる典拠によるものか、私にご教示ねがえませんか。なにも一言一句まちがいなく引用すべきとまでは申しません。ただ、茂木さんのおっしゃる「偶有性」解釈は、あまりに特異すぎて……。
 たとえば、『広辞苑 第五版』で「偶有性」を引くと、「ある事物を考える場合に、本質的でなく偶然的な性質。例えば人間一般を考える場合、その皮膚の色のようなもの。偶有的属性。偶性。」とあります。
 ただし、茂木さんは、「偶有性」に該当する英語として、contingencyを採用されていますよね。そこで、contingencyについて、医学辞典などもふくめていくつかの辞書を調べてみましたが、どうしても「予測が付かない偶然」以上の含意が見あたりません。
 神聖ローマ帝国の元老院議員ググレカスによれば、いまやネット上で「偶有性」というコトバは、「クオリア」、「アハ体験」に続く、茂木さん発のキーワードみたいに流通しているようです。しかし、もし茂木さんの偶有性解釈が独自のものなら、そういう注釈抜きでこうした一般語の定義を改変してしまうことは、いろいろとまずくないでしょうか。
 なので、とりあえずこれ以降は、「偶有性」という言葉を「予測できない偶然」という素朴な意味で使用することをお許しいただきたいと思います。
 そういう前提で、いきなり結論からいえば、人間は「偶有性」をけっして認識できない、というのが私の考えです。いや、正確にはこう言うべきでした。認識不可能な領域に与えられた名前が「偶有性」ではないか、と。
 茂木さんがおっしゃる「ブートストラップ」の過程にも関連しますが、ここでもういちど「コミュニケーション」について考えてみたいと思います。人と人とが出会い、そこにコミュニケーションが生ずること。茂木さんはそれを偶有的過程、すなわち「規則性とランダム性のあいだに揺れうごく」プロセスとしてとらえます。しかし、偶有的なコミュニケーションが繰りかえされるなかで秩序が生まれ、コミュニティや社会が形成されていくこと。この過程は、はたして自明のものでしょうか。
 さきほども触れたとおり、社会学者のニクラス・ルーマンは、コミュニケーションを徹底して偶有的(『広辞苑』的な意味のほうの)なものと考えました。
 社会システム論では、人と人とがコミュニケーションを介して社会を形成していくとき、そこには二重の偶有性があると考えます。二重に不確実であるにもかかわらず、なぜか「社会」が成立してしまうという無根拠さにこそ、真の偶有性があるとも考えられます。これは社会学でいう「ダブル・コンティンジェンシー」の問題です。
 「ダブル・コンティンジェンシー(Doppelte Kontingen以下DK)」とは、もともとは社会学者タルコット・パーソンズが提出した概念です。
二人の人間がやりとりをするとき、お互いに相手の出方を見てから自分の行動を決定しようとすると、行動そのものが不可能になってしまうという問題です。自分の行動は相手の行動に依存しますが、相手の行動は当の自分の行動に依存している。つまり、自分と他者の相互作用には二重の依存性があるのです。このとき判断力が正確であるほど、双方にとって相手の行動は予測不可能、すなわち偶有的なものとなるため、行動は決定不可能となります。
 これは「囚人のジレンマ」や「ナッシュ均衡」などにつながる話でもあるのですが、それこそ茂木さんのお嫌いな確率論に接近してしまいますので、ここではあえて考慮しません。
 ルーマンによれば、DKから社会秩序がどのようにして可能となるかという問いに対する答えは、次のようになります。

 「社会システムの自触媒作用は、それ自体の触媒、すなわちダブル・コンティンジェンシーの問題それ自体を作り出している。自他の行動の相互的な規定不可能性がどのようにしてまたなぜ生じるのかをいっそう精確に分析すると、このことが明らかになる。<中略>他者の行動は、ダブル・コンティンジェンシーの状況においてはじめて規定不可能になるのであり、とくにみずからの行動規定を他者の行動に連結しうるために、他者の行動を予測しようと企てる者にとって、他者の行動は規定不可能になるのである。そのばあいに、ダブル・コンティンジェンシーのメタ・パースペクティブにおいて、相手の行動を予測することを介して作り出される規定不可能性が生じているのである」(ルーマン『社会システム理論(上)』)

 そう、ここにもひとつの逆説があります。なぜならルーマンは、社会秩序の前提として、自他の行動の相互的な規定不可能性を考えているからです。不可能なのに、なぜ秩序が生じるのでしょうか。ルーマンにとって、そのような問いかけは単に無意味です。なぜなら社会秩序が実際に存在している場合にのみ、秩序の起源としてのDK問題が事後的に見いだされることになるからです。問いがあって答えが導かれるのではなく、答えが存在する場合にだけ問いが導かれる。DKとはそういう問題なのだ、ということですね。
 じつはこのDK問題は、茂木さんが前回のお手紙で触れられていた「偶有性の鏡」問題に関連しています。
 自己と他者の偶有性をはらんだ会話から境界が生じること。あるいは自己が、偶有性をとおして「ブートストラップ」されること。この過程は非常にイメージしやすく、わかりやすい印象を与えます。脳科学に懐疑的な科学者であっても、こうしたロジックには同意される方が多いような気もします。
 しかし、ひとたびルーマンの苛烈な思考を経たあとで見なおしてみると、ここに一種の、根拠のない楽観性があるような気がしてなりません。
 ルーマンの議論を敷衍(ふえん)するなら、社会や主体といった概念と、その起源をめぐる問いとのあいだには、決定的なギャップがあることになります。すでに存在している社会や主体の存在と、その起源(ここではコミュニケーションの偶有性)とのあいだには、安定した因果関係はありえない。ただ結果がある場合にのみ、事後的に起源をめぐる問いが導かれるということ。これは、社会や主体の起源を語る理論が、いわば「神話」としてしか記述しえないことを意味しています。
 社会や主体といった概念について「科学的」にアプローチをしようとするなら、われわれはどうしても因果論の自明性を捨てられません。なぜなら「原因があって結果がある」という思考法は、科学の根幹をなしているからです。
 その意味でルーマンの問いは、いわば経験科学としての社会学の不可能性にまで及んでいます。
 ラカンやルーマンの側に立つということは、社会や主体といった問題については「原因から結果が導かれる」というかたちで記述する可能性を断念することにほかなりません。
社会や主体の起源に偶有性がある。そこまではいいでしょう。しかし、だからといって「偶有性から社会(主体)が導かれる」とは、けっしていえません。正確には「そこに社会や主体があることによって、はじめて『偶有性』の問題が生ずる」というべきなのです。すくなくとも、私はそのように考えるし、それゆえの「精神分析」でもあるのです。

■「アスペクト」の問題

 最後に、できれば次回につなげるかたちで、私からも問題提起をしておきたいと思います。
 「偶有性」の対義語は「必然性」ですよね。一応、そのように考えることにしておきます。
 私は、このふたつの言葉は、ようするに「アスペクト」の問題であると考えています。どういうことでしょうか。
 つまり、「この世界」というものを考えるに際しては、それを「偶有性」という様相のもとでとらえるか、「必然性」という様相のもとでとらえるか、という認識の問題と考えるのです。
 ここでちょっと「アハ体験」みたいな話をしてみましょう。

2
   <図2 Jastrow図形>

 この図2を見てください。有名な「ウサギ-アヒル」の絵(Jastrow図形)ですね。この図にウサギを見てしまうと、アヒルはいなくなります。アヒルを見ているときは、ウサギは見えません。アハ!
 ひとつの対象をどのように見るかが「アスペクト知覚」と呼ばれ、そこには単なる感覚だけでは説明できない、意味の知覚の端緒があります。
 こんなふうに対象を「~として見る」ということができない人を、ウィトゲンシュタインは「アスペクト盲」と呼びましたが、そのことはひとまずおくとして。
 私が言いたいのは、ものごとというものは偶有的か必然的かのいずれかであって、その「中間」はない、ということです。さらにいえば、事態を偶有的に認識しているときは、必然性の相は見えなくなり、必然性の相で認識しているときは、偶有性の相は見えなくなるでしょう。これを「解釈」ではなく「認識」と呼ぶのは、そこにアスペクト的な認識の排他性があるからです。
 まあ、実際には、アスペクトなんて話を持ちだすまでもなく、こんなことはカントが「偶然と必然のアンチノミー」として、とっくに指摘しているわけですけれど。
 早い話が、宗教とは、偶有性を必然性として肯定するための認識装置でなくてなんでしょうか。科学とは、さまざまな偶有性を因果関係という必然性のもとで記述しうることへの信頼ではなくてなんでしょうか。いわゆる「反証可能性」には、そこで記述された「必然性」が「真理」である保証はない、ということもふくまれるでしょう。
 そして、精神分析とは、人生におけるさまざまな偶有性を象徴界の作動の名のもとで必然化(≒物語化)してみせるためのテクニックにほかなりません。
 テーバイの王オイディプスが、それとは知らずにみずからのじつの父親であるラーイオスを三叉路で殺害するのも、じつの母親であるイオカステーをめとって子をなすのも、いずれも偶有的な出来事です。この悲劇を、人間が人間になるうえで必然的に反復される悲劇として神話化(オイディプス・コンプレックス)したのがフロイトでした。
 このように、偶有性を必然性の相のもとで事後的に解釈(物語化)することが、精神分析のテクニックの中核にあります。ここから、近景における偶有性の連鎖を、遠景における必然性の構造としてとらえなおすことが、物語化の端緒であるということもできるでしょう。
 精神分析が時にカルトに似て見えるのは、このためもあります。ただ、偶有性の解釈に際して、「神」という超越的存在に依拠するか、「無意識」という超越論的な審級を想定するかの違いがあるだけです。
 ウィトゲンシュタイン“風”の言い方をすれば、あらゆる「事物」は偶有的だが、「事態」はすべて必然的、ともいえましょうか。あるいはデカルト“風”にいうなら、「我がある」のは偶有的、「我思う」のほうは必然的(「我」といった瞬間に、すでに「思って」いるから)ともいえますね。
 ラカン風な言いまわしでは、「現実界」は偶有性の領域であり、「象徴界」は必然性の領域である、と見なすことも可能でしょう。このことをラカンは、「手紙はかならず宛先に届く」と表現しました。じつはこのロジックは、かなり「後出しジャンケン」めいたもので、ようは「たとえ誤配であれ、その手紙が届いてしまったところがほんとうの宛先なのだ」という意味です。
 もちろん、こうした極論には反論もありえます。「それなら、人が死ぬのは必然じゃないのか」とかですね。でも、ほんとうに死は必然なのでしょうか。じつは私には、どうしてもそうは思われないのです。いや、私にかぎらず、ほとんどの人々は、自分がいずれ死ぬ存在であることを忘れて生活しています。なかには、ホリエモンのように「僕は死なない」宣言をする人もいます。
 正直に言いましょう。「人が死ぬ」というのは、たまたま確率100%の「統計的事実」でしかないのではないでしょうか。あるいは「メメント・モリ」風な、「倫理的お説教」でしかないのでは。だって、「この私」がほんとうに死ぬかどうかは、死ぬまでわからないんですから。
 つまり、「人が死ぬ」ことは、経験論的には必然であっても、哲学的には偶有的な出来事でしかない、とも考えられるのです。ここにもアスペクト知覚がありますね。
 人間の認識は自由なようで狭いものです。とりわけ感情がからむと視野狭窄が起こりやすい。一般に人間は、自分の不幸は必然性の相のもとで、幸福は偶有性の相のもとでとらえがちです。楽観性というのは、偶有性を介した必然性への信頼であり(そのうちなんとかなるだろう)、悲観主義というのは、必然性の名のもとで偶有性を切り捨てることです(どうせ、なにをやってもうまくいかない!)。
 どうせ認識のちがいなら、あくまで肯定的に生きよう! と言いたいところですが……しかし「肯定だけ」になってしまった人の無残さは、「カルト信者」や「マルチ信者」らの“自己啓発”ぶりをみていると、嫌というほどわかります。洗脳というのは「アスペクト盲」をつくり出すテクニックなのだから、当然のことですが。
 偶有性に満ちた「知的不安」、あるいは「知のフロンティア」という認識において、私も茂木さんと「同じ地点にいる」としていただいたのは光栄なことです。せっかくそのように高く見積もっていただいた以上、予定調和的な対談をお引き受けしなかったのは、やはり正解でした。
 茂木さんは、ご自身が「他者と向き合うことがどうしても必要」とおっしゃる。ならば、私たちにいまここでできることは、自身の“とらわれ”を誠実に開陳しあうことで、互いにとってできるかぎり扱いにくい、出会ったことを後悔しそうな偶有的他者として振る舞うことでしょう。不誠実な共感や“プロレス”などよりも、誠実な知的対立こそ、書簡の読者が求めているものでもあるはずです。
 言語と偶有性について、とりわけ偶有性の定義とそのアスペクト的理解について、茂木さんからの“ハードコア”(科学哲学的な意味で)な返信を、畏れとともに期待しています。

斎藤環

脳は心を記述できるのか |