「脳は心を記述できるのか」

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第4信  「因果性と自由」

茂木健一郎から斎藤環への手紙


 斎藤環さま

 私の返信が大幅に遅れたにもかかわらず、お返事をくださりありがとうございました。寛大な対応に感謝いたします。
 私の返信がなぜ遅れたのか、また、あの時期に返信をする気になったのか、斎藤さんは精神科医としても興味があるとのことでした。この点については、ほんとうに、お詫びするしかございません。どうか、ご宥恕ください。伏してお詫び申しあげます。
 斎藤さんのお手紙は、多岐にわたる論点に触れています。ラカンにおける「主体」の問題、言語と人間の関係性、そうして、アスペクトのこと。興味深い論点の数々を提示してくださり、ありがとうございました。
 まず、冒頭の「「脳がすべて」とおっしゃる方には、私はこの画像をぜひお示ししたい」という議論にともなってお示しになった論文は、たいへん興味深いものと思われます。
 このような事例が示しているのは、人間の脳の持つ驚くべき可塑性です。人間の知性や感覚を説明するうえで、物質的な存在としての「脳」が必要だということは、経験科学の立場から心の問題を研究している人たちの多くが、正しいという蓋然性の高い事実として仮定しています。しかし、それは、典型的な脳を持っていることが、絶対不可欠な条件であるということまでを意味するのではありません。
 脳損傷患者の研究などをとおして、脳の神経回路には、高度の「代償機能」があることがあきらかになっています。典型的な脳について、機能局在的な議論がおこなわれることがありますが、それは、かならずそのような部位がなければ機能が果たせないということを意味するのではありません。
 典型的な脳の神経回路のトポロジー(位相)とその結合パターンがたとえ存在しないとしても、それと機能的に等価な働きを、より小さな容量の回路が代行することは、当然ありえます。斎藤さんが指摘されるように、この代償機能は、ときに私たちの想像を超えたものになります。脳の機能局在を固定化して考える傾向に対して、このような事実は確かに警告的なメッセージとなるでしょう。その一方で、だからといって脳の神経回路網の物理的基盤が、まったく存在しなくてもよいということを意味するのではありません。
 脳が存在しなくても、心は存在しえるというのは、一種の「二元論」(dualism)の立場です。それは、知的にはたいへん興味のある可能性ですが、いまのところそのような可能性を私は採用いたしません。
 とりわけ、世間における受容において、脳の機能局在が固定化したものとして考えられる傾向については、つねに警戒しなければならないでしょう。「脳」は、けっしてひとつの物象のことでありません。それは、たまたま進化の過程で現在、私たちが知る人間の脳のようなかたちで実現されているひとつの情報処理システムにほかなりません。「国家」や「日本人」といった、大文字で書かれて仮定されてしまいがちなさまざまな概念と同様、「脳」も、もしそれが大文字で書かれて固定されてしまうものだとすれば、警戒すべきひとつの対象である。この点において、私は斎藤さんに同意します。
 以下では、斎藤さんがご返信のなかで提起された問題に触発されつつ、私なりのスキームのもとで、ひとつの見とおしを立て、主張を提示することを試みたいと思います。公開の往復書簡という性質上、不特定多数の読者のために、おそらくは斎藤さんにとって既知と思われることにも触れることになりますが、その点はご容赦ください。

■「計算可能性」と「リアリティ」

 斎藤さんは、「言語化」と私たちの存在の関係について、興味深い論点を主張されました。「彼らが人間とまったく異なった物質で構成され、あるいは脳の機能すらも人間とまったく異なっていたとしても、言語によって内省し、語る存在は、ことごとく『人間』なのだ」というジジェクの命題を提示され、言語の持つ力について言及されたものと理解します。
 映画『アバター』の仮想世界は、すべてプログラム言語によって書かれたものである。人工的な手段による仮想世界の構築。思えば、私たちはずいぶん遠くまで来ました。言語の普遍性、完全性の問題は、日常生活におけるエンタティンメントの次元まで降りてきました。斎藤さんのいわれるように、とても興味深く、またup to dateな論点だと感じます。
 言語の力。自然科学の文脈では、とりわけ、数学的言語についての議論が重ねられてきました。とりわけ、いま私たちが議論しているテーマにおいて、関連する重要な問題は、この世界は果たして「計算可能」かどうかということでしょう。斎藤さんがあげられた『アバター』も、その描像がコンピュータ・グラフィックスによってなされている以上、その映像世界は基本的に「デジタル・コンピュータ」の能力の枠内で生成されていることになります。すなわち、アバターは、「計算可能」な世界の内側にあるということになるのです。
 現代文明を支えているデジタル・コンピュータの理論的なモデルをつくったのは、イギリスの数学者、アラン・チューリングです。チューリングが考案し、1936年に発表した論文で記述した「チューリング・マシン」が、さまざまな計算をおこなうコンピュータのひな型になっているのです。
 チューリングは、単純なデータの書きこみ、読みとり、そうしてデータ操作を繰りかえすことで、さまざまな計算をすることが可能であることを示しました。「万能チューリング・マシン」をつくることで、さまざまなプログラムが実行可能であることを示したのです。
 チューリングがコンピュータのモデルを構想し、提案した段階では、それは概念上の存在にすぎませんでした。その後、フォン・ノイマンらが今日「フォン・ノイマン型」と呼ばれるコンピュータのアーキテクチャを考案し、世界最初の電子式コンピュータとされる「ENIAC」がペンシルヴァニア大学で構築されることで、現代文明を支える最大の発明品が産声をあげました。
 ムーアの法則に象徴されるテクノロジーの日進月歩によりコンピュータの演算能力が向上すると、次第に、「世界のすべてはシミュレーションできる」という主張が現実味を持って感じられるようになってきました。
 世界のすべては、プログラム言語で記述できる。この主張については、今日の識者のかなりの部分は、肯定的にとらえることでしょう。その意味で、斎藤さんが「言語」の重要性を主張されることには、それなりの合理性と現実感がある。
 もっとも、チューリング・マシンの文脈で問題とされる数学的な形式言語と、私たちが日常もちいている自然言語のあいだには、差異があります。この点については、のちほどまた触れたいと思います。
 さて、世界のすべての事象は、チューリング・マシンを一つのひな型とするコンピュータによってシミュレーションが可能であるという主張は、「計算可能性」(computability)の問題として議論されてきました。この世の事象のすべては果たして計算可能かどうか、とりわけ、私たちの脳のなかのプロセスが「計算可能」なものであるかどうかということについて、さまざまな議論がおこなわれてきたのです。
 イギリスの数学者ロジャー・ペンローズは、その著書 The Emperor's New Mind: Concerning Computers, Minds and The Laws of Physics (1989年)のなかで、人間の思考過程、なかでも意識的なプロセスの本質的な部分は計算可能ではないと主張しました。とりわけ、ある事柄の意味を「理解する」(understanding)という働きは、コンピュータでシミュレーションができるような「計算可能」なプロセスではないと主張したのです。
 意識の作用の本質は、「計算可能」ではないというペンローズの主張は、当時の研究コミュニティに大きな波紋をもたらしました。ペンローズは、人間の知能はコンピュータ上にプログラムとして実装できるという「コネクショニスト」の主張を聞いて、それに反論するためにEmperor's New Mindのような本を書かねばならないと考えたようです。Emperor's New Mindというタイトルは、あらためていうまでもなく、The Emperor's New Clothes (日本では『裸の王様』)という寓話のもじりです。王様が、「賢い者」だけに見える新しい服を着ている。みな、自分が愚かだとは思われたくないので、口をそろえて王様の服を褒めそやす。しかし、実際には、王様は服を着ていない。自分が他人からどう思われるか気にしない正直な子どもだけが、「王様は裸だ!」と叫ぶ勇気を持っている。
 ペンローズは、人工知能の研究者たちの主張、すなわち、コンピュータのうえで実装可能なプログラムによって人間の知性が実現可能であるという「イデオロギー」を、「裸の王様」と断じたのです。
 この本が出た直後、私はある学会で人工知能の世界における大家、マーヴィン・ミンスキーと話す機会がありました。「ロジャー・ペンローズの主張をどう思うか?」と聞いたところ、ミンスキーは憤懣(ふんまん)やるかたないというような表情で、「あんなのは愚にもつかないデタラメだ。ペンローズは、自分が他人よりも頭がよいことを鼻にかけて、あのような本を書いたのだ」とたいへんな剣幕でした。
 ペンローズの本が出版されてから、20年あまりの年月が経ちました。この間、果たして、この世界には計算可能ではないプロセスがあるかどうか、そうして、そのような計算可能ではないプロセスのなかに、意識がふくまれるかどうかという点については、論争として決着がついていないといえるでしょう。この問題について、ふたつの異なるレベルでの議論が可能であるように思われます。
 まず第一に、系の客観的な振る舞いとして、「計算可能」ではないものが存在するかどうかということです。第二に、たとえ、系の客観的な振る舞いが「計算可能」なものとして与えられたとしても、そのような系の振る舞いに随伴する(重ね描きされる)「主観性」自体は、「計算可能」なものではない、というようなことがいえるかどうかということです。
 あるシステムの客観的な振る舞い自体において、計算不可能なものがあるかどうかという点については、いまだ論争の決着がついていないといえるでしょう。直感的に考えれば、あるシステムの振る舞いとして、コンピュータでシミュレーションできないもの(すなわち、計算可能ではないもの)はないようにも思われます。たとえば、行動主義の立場をとれば、私の思考内容は、すべて、発話行為や書字活動をふくむ一連の身体運動をとおして把握されることになります。斎藤環さんへのこの返信を生みだした私の思考過程も、神経細胞の活動をふくむ一連の身体運動において把握されます。
 この返信の具体的な文字列について考えてみれば、一度確定してしまえば、それを「後付け」で再現するコンピュータ・プログラムを書くことは簡単です。一般に、どのような身体運動でも、十分な能力を持ったコンピュータさえ与えられれば、それを任意の精度でシミュレーションすることは可能であるように思われます。
 直観的には、人間の脳は、コンピュータ以上のことができるように思われます。とりわけ、いままでにない新しいものを生みだすという「創造性」の能力において、人間はコンピュータよりもすぐれているように思われます。現在のところ、人間のように「歩留まりのよい」かたちで創造力を発揮できる人工的なシステムは存在しません。
 しかし、現在のところ保たれているコンピュータに対する人間の脳の優位性が、果たして原理的なものであるかはわかりません。確かに、マーヴィン・ミンスキーも認めるように、ロジャー・ペンローズの理解能力は並はずれたものであり、その創造性も卓越しています。四次元時空の幾何学的構造を記述する「ツイスター」の概念は深遠なものですし、スティーヴン・ホーキングと共同でおこなった、一般相対性理論で記述される時空に存在する特異点についての研究は、重要な意味を持ちます。また、画家のエッシャーの無限階段のアイデアの元となった「ペンローズ三角形」や、空間を非周期的に埋めつくす「ペンローズ・タイリング」(のちに、その五回対称性が、「準結晶」(quasi-crystal)というかたちで自然界に実在することがわかりました)などのペンローズの業績は、そのすぐれた知性を示してあまりあります。
 しかし、ペンローズが展開する人間の知性に関するきわめてオリジナルな議論も、それが一度文字列として確定してしまえば、それを再現するコンピュータ・プログラムを書くことは可能です。その点において、ミステリアスな部分はまったく存在しません。
 人間の「理解」や「創造性」といった能力をふくめた知性全般をコンピュータ・プログラムで書くことはできるかどうか? つまりは、人間の知性は「計算可能」かどうかは、すくなくとも、それが「後付け」でシミュレートされる限り、可能であると考えざるをえないようです。
 問題は、創造性を、その時間的発展のなかにおいてとらえたとき、どうなるかです。このときにも、人間の知性の作用は「計算可能」なものと考えてよいのか? その際、すこし先の出来事でも見とおすことがなかなかむずかしいという時間の流れが、どのようにかかわってくるのか? 創造性を時間の発展において考えたときは、さまざまな難問が、そこに加わってきます。
 もともと、現代の物理学は、自然の発展法則を時空のなかのパターンとして記述します。アインシュタインの相対性理論の形式によれば、宇宙の全歴史は、時空のなかの物質存在の形式として描くことができます。そのような描像のもとでは、本来、この世界に本質的に新しいものなど存在しえない。すべては、「計算可能」なパターンとして、あらかじめ用意され、存在し、付けくわえるものも減じるものもない。人間の「理解」や「創造性」は、そのような物理的描像の内側にあるのか、外側にあるのか。結局、時間の進行というとびきりの難問を目の前に据えざるをえません。
 「いま」ということの絶対性。後付けでは、時空のなかのパターンとして把握されるものの、その進行の真っ直中においては、なにも将来を見わたすことのできない暗闇のなかへの「投企」としてしか定式化できないもの。そのような時間の流れのなかに、私たちは確かに生きている。「計算可能性」の議論のそもそもの前提になっている世界観の根本までさかのぼらなければ、問題の本質に到達することはできないのかもしれません。
 時間の進行の問題については、とりあえず置いておくこととして、物理的時間の存在を仮定したうえで、計算可能性についてもうすこし考察したいと思います。
 ペンローズは、Emperor's New Mindのなかで、「理解」や「創造性」といった意識の作用には量子力学が関与しており、その結果、コンピュータの上に実装可能なアルゴリズムによって実行できる「計算可能」な範囲を超えているのだと主張しました。ここには、量子力学の基礎についての、いわゆる「観測問題」ないしは「解釈問題」といわれる難問がからんできます。
 量子力学は、電子の振る舞いを、波動関数によって記述します。波動関数は、一つひとつの電子の振る舞いが、どのようになるかという「確率」を与えます。この確率の法則は、もし多数の電子の軌跡を観測したら、かならずそのような統計的法則を満たすという意味において、厳密なものです。そこには、非常に強い決定性があります。その一方、で、個々の電子の振る舞いは、波動関数が記述する範囲内においてランダムに変わる、という意味においては、非決定的です。そして、このような非決定性は、どのようなかたちでも解消されえないということが、さまざまな実験によって確認されているのです。
 この世のさまざまな物質を構成している基本単位を記述しようとすれば、そこには不確実性が忍びこむことを回避できない。そのようなこの世界のあり方を、量子力学は示しているのです。
 波動関数自体は、起こりえるさまざまなイベントの確率を与える。では、実際にはどのイベントが起こるか? 起こりえるイベントのうち、実際に起こるイベントはひとつだけです。起こりえるイベントのうち、ある特定のイベントにだけにシステムが着地するプロセスが、「波動関数の収縮」と呼ばれる現象です。
 「波動関数の収縮」は、過去、多くの論者によって量子力学の不可思議な性質、あるいは「欠陥」として認識されてきました。この点において、現在の物理学において標準的な世界観を与えている「コペンハーゲン解釈」は、実際的な観点を採用します。すなわち、波動関数はそれ自体なんらの物理的実体をあらわすものではない。波動関数に基づく量子力学の大系は、ただ単に、電子のようなミクロな物質の振る舞いを確率的に予言する手続きを与えるだけである。それ以上の世界の実在、あるいはその認識に関するなんらかの視点を、量子力学に求めるべきではない。
 「コペンハーゲン解釈」を推し進めたのは、物理学者のニールス・ボーアでした。ボーアらの実際的な見地に基づく量子力学解釈に対して、アルベルト・アインシュタインは生涯にわたって不満を表明しました。ボーアとアインシュタインは、ことあるごとに、量子力学の本質について論争を繰りひろげました。名高い「ボーア/アインシュタン論争」です。
 ボーアらの「コペンハーゲン解釈」に対してアインシュタインが抱いていた違和感は、「観測」ないしは「観測者」の役割が不当に大きすぎるというものでした。科学的記述をするために、確かに私たちは観測をしなければならない。その際、観測者の役割は重要である。しかし、そのことは、世界の在り方そのものを、観測者に依拠させるということを意味するのではあってはならない。それが、アインシュタインがコペンハーゲン解釈に対して抱いていた違和感の核心であったと考えられます。
 アインシュタイン自身が、科学理論における観測者の役割に鈍感だったわけではありません。「奇跡の年」といわれる1905年に出版された「運動する物体の電気力学について」は、いわゆる「特殊相対性理論」についての記念すべき論文です。このなかで、アインシュタインは、「同時」であることが観測者の立場からどのように定義されるか、具体的な観測の手続きに基づいた操作的定義を与えています。観測座標系にかかわらず真空中での光速度が一定であることを示したマイケルソン・モーリーの実験を説明するために、ローレンツやポアンカレがすでに定式化していた奇妙な変換。一見、複雑怪奇に見えるこの変換式が、「同時性の観測」の原理からみちびかれることを、アインシュタインは示したのです。
 科学的記述における「観測」の役割の重要性を骨身にしみてわかっていたはずのアインシュタイン。そのアインシュタインが、同じように「観測」のプロセスを重視する量子力学、なかんずくその「標準的」な解釈である「コペンハーゲン解釈」に対して異議を唱えたということは、どのように評価すべきなのでしょう?
 私は次のように考えます。確かに、コペンハーゲン解釈は、観測過程の役割を重視しているという点において、アインシュタインの相対性理論の立場に一見通底しているように映るかもしれない。しかし、ボーアたちの立場は、そのように見えて、じつは「一線」を超えてしまっている。「コペンハーゲン解釈」は、アインシュタインの相対性理論の立場と決定的に違う側面がある。この点において、アインシュタインは、やはり1905年に出版された「光量子効果」の論文で、みずから量子力学の創始者のひとりと見なされながら(この業績に対して、アインシュタインはのちにノーベル物理学賞を受けることになるのですが)、「コペンハーゲン解釈」に代表される量子力学の「標準的」な描像についに同意しなかった。そのように考えるのです。
 今日において、量子力学の認識論的、存在論的な地位についての科学者のあいだの見解は分かれているように思います。「コペンハーゲン解釈」に基づく量子力学が、電子のようなミクロな物体の振る舞いを予想するという意味において、「完全」なる記述を与えると考える論者もいる。その一方で、現状の量子力学が、世界観の問題として、きわめて不十分だと考える人たちもいます。
 量子電磁気学の分野における功績で、朝永振一郎やジュリアン・シュヴィンガーとともにノーベル物理学賞を得たリチャード・ファインマンは、「誰も量子力学を理解してはいないといってもまちがいではないと思う」という言葉を残しています。「コペンハーゲン解釈」を推し進めたボーア自身が、「量子力学によってショックを受けない人は、それをまったく理解していない」といっています。立場の違いはあれ、今日にいたるまで、量子力学が、世界観の問題として、その問題について深く考える人にある種の衝撃と(ときに)違和感を与えることはまちがいありません。
 私の見るところ、量子力学の問題は、そもそもこの世界の存在のリアリティをどう考えるか、その根幹に関係するなにかをふくんでいるのです。ボーアに対してアインシュタインが発したと伝えられる「君が見ていないときには、月はそこに存在しないというのか?」という有名な問いは、そもそも、人間の認識と世界の存在の関係をどのように考えるかという一点に関わっているように思います。そのことと、「言語」の存在論的/認識論的地位をどのようにとらえるかということは、深く関係しているように考えます。
 世界が、人類がそれを認識する以前から存在していること、言語的記述を与える前からそこにあること。このことは、私にとっては自明のことのように思われます。もちろん、そのように考えない人もいるでしょう。しかし、そのような人の世界観が、果たしてこの世界のリアリティにほんとうに接触できるのか、私は疑問に思います。
 チャールズ・ダーウィンは、その著書『種の起源』の最後を、次のように締めくくりました。それまで、人為的な選択による変異や、自然界でのさまざまなる姿の生物、種の近縁性などについて緻密な論証を積みかさねてきたあとで、最後にこのように(ある意味では)詩的なイメージが広がるかたちで全編を終えていることを、私は真に感動的なことと思います。

It is interesting to contemplate a tangled bank, clothed with many plants of many kinds, with birds singing on the bushes, with various insects flitting about, and with worms crawling through the damp earth, and to reflect that these elaborately constructed forms, so different from each other, and dependent upon each other in so complex a manner, have all been produced by laws acting around us. These laws, taken in the largest sense, being Growth with reproduction; Inheritance which is almost implied by reproduction; Variability from the indirect and direct action of the conditions of life, and from use and disuse; a Ratio of Increase so high as to lead to a Struggle for Life, and as a consequence to Natural Selection, entailing Divergence of Character and the Extinction of less improved forms. Thus, from the war of nature, from famine and death, the most exalted object which we are capable of conceiving, namely, the production of the higher animals, directly follows. There is grandeur in this view of life, with its several powers, having been originally breathed by the Creator into a few forms or into one; and that, whilst this planet has gone circling on according to the fixed law of gravity, from so simple a beginning endless forms most beautiful and most wonderful have been, and are being evolved.

 「創造者(筆者注…ここでの『創造者』という語は、当時の社会状況を反映した便宜的なものであり、かならずしも通常のキリスト教神学におけるような『人格神ヶを指すとは限らないと考えられますが)が最初は簡単な生命体をつくり」、そして「この天体(すなわち地球)が重力の法則にしたがって(太陽の回りを)回っているあいだに、かくも簡単なはじまりから、もっとも美しく、そして素晴らしい生命体が次から次へと終わりなく進化してきたのであり、いまも進化し続けているのである」(whilst this planet has gone circling on according to the fixed law of gravity, from so simple a beginning endless forms most beautiful and most wonderful have been, and are being evolved.)という最後の一文。ここで、ダーウィンが、「この天体(すなわち地球)が重力の法則にしたがって(太陽の回りを)回っているあいだに」(whilst this planet has gone circling on according to the fixed law of gravity)と書いているところに、この世のリアリティに対するある感受性を読みとるのです。
 ダーウィンにとっての最大の興味は、生物学でした。一時期はフジツボの研究に熱中し、ダーウィンの子どもは、父親というものはどの家でもフジツボをいじるものだと思っていた。だから、友人に、「君のパパはいつフジツボをやるの?」と聞いたそうです。晩年は、ミミズの研究をしました。土壌形成という視点から見ると、ある深さの土を食べ、それを地表に吐くことによってミミズは循環作用を持つことになる。この、ミミズについて書いたモノグラフが、ダーウィンの著作のなかで生前もっとも売れたものなのだそうです。
 ダーウィンは、あくまでも生物に興味を持っていた。しかし、だからといって、世界のリアリティが生物にはじまり、生物に終わるわけではないことも知っていた。生命がこの宇宙のなかに存在しようと、しなかろうと、地球という天体は重力の法則にしたがって太陽の周囲を回っていたのだろうと考えた。そのひんやりとしたリアリティの感覚を、私は愛します。
 言葉は、確かに私たち人間がこの世界を認識するうえで、たいせつな役割を担っています。人間が思考し、感じたことをお互いにコミュニケートし合い、共有するという意味においては、言葉が非常に重要な意義を持っていることは論を待たない。
 しかし、言葉以前の世界が存在しなかったとは、私は思いません。とりわけ、いわゆる「自然言語」が世界の境界を画するとは、私は考えない。もし、この言語の普遍性を考える余地があるとするならば、それは、「この天体(すなわち地球)が重力の法則に従って(太陽の回りを)回っているあいだに」とダーウィンが記した、この宇宙の因果的発展を記述する、自然法則との関係においてでなければならない。
 だからこそ、認識論的にも、存在論的にも、果たしてこの世界に計算可能なもの以外があるのかどうかという問いが、重要な意味を持つと私は考えます。「計算可能性」が、数式のようなシンボリックな言語による解析的な世界か、あるいはチューリングマシンのうえに実装される再帰的な関数として把握されるのか、あるいはコンウェイが考案した「ライフ・ゲーム」のようなセル・オートマトンのようなものとして構築されるのか、それは問わない。いずれにせよ、世界の因果的進行がそのような普遍言語によって把握されつくすのかどうか、そのことが第一義的な重要性を持つと私は考えます。
 多くの論者が「完全ではない」と感じ、考える現状の量子力学ですが、電子をはじめとするミクロな物体の振る舞いを(確率的な法則を通して)記述するという意味においては、「完全」であるともいえる。「すべての実際的な目的において」(for all practical purposes,FAPP)量子力学は「完全」であることは、多くの論者が認めるところです(「FAPP完全性」)。ダブルスリットの実験などのセットアップにおいて、電子のようなミクロの系がどのように振る舞うか。その観測から得られるデータのすべての確率を、量子力学は与えることができる。その意味において、現状の量子力学に不足はないと考える論者にも、一理あるといえるでしょう。上のような文脈における「FAPP完全性」は、まずは認めてよいということになるでしょう。
 その一方で、量子力学の現状に、根本的な違和感を抱く人がいることも事実です。私もそのひとりです。根幹は、量子力学における「記述」の前提、「フレーム問題」にあるように考えます。「コペンハーゲン解釈」の現状は、一種の言語至上主義といえないこともない。「コペンハーゲン解釈」に満足する人は、ある記述のシステムが用意されて、それによって世界が十分に記述されれば、それでよしとするのでしょう。
 しかし、それでは満足できない人たちがいます。そもそも、そのような記述がなぜ可能なのか、そこで採用されている枠組みは、なぜ正当化されるのか。
 そのような問いをていすることは、「君が見ていないときには、月はそこに存在しないというのか?」という反問を立てたり、「この天体(すなわち地球)が重力の法則に従って(太陽の回りを)回っているあいだに」というフレーズを生物の種の起源を議論する本の最後に書いたりするセンスと、基本的に同じであると考えます。
 とりわけ、ロジャー・ペンローズが量子力学に対して立てている「フレーム問題」は、潜在的には深刻なものであると考えます。量子力学においては、波動関数を記述する基底ベクトルがとられ、ある状態の波動関数は、それらの基底ベクトルの(複素数を係数とした)線型和として与えられます。そうして、観測をすることによって、系の状態が基底ベクトルで記述される状態のひとつに「縮退」し、観測されると考えるのです。
 ペンローズがていした疑問とは、こうです。そもそも、基底ベクトルの取り方は任意のはずだ。三次元空間を記述するのに、(x、y、z)という座標系をとっても、それを回転させた(x'、y'、z')という座標系をとってもどちらでもかまわないように、本来は、ある特定の基底ベクトルのセットが特別な意味を持たなければならない理由はない。
 たとえば、有名な「シュレディンガーの猫」の実験にしても、同位元素が崩壊し、毒薬の入ったガラス瓶が割れて、箱のなかの猫が「死んでいる」状態と、崩壊がまだ起こらず、猫が「生きている」状態それぞれが、波動関数が収縮する先の「基底ベクトル」にならなくてはならない理由は、量子力学の数学的形式自体からは与えられない。猫が「生きている」状態と、「死んでいる」状態が複素数で結びつけられた、混合状態が複数あり、それらが基底ベクトルのセットになったとしても、等価なはずだ。それなのに、波動関数の収縮の先は、猫が「生きている」、あるいは「死んでいる」状態になる理由はなぜなのか? その理由は、「コペンハーゲン解釈」のような標準的な量子力学の体系の「外」から与えられなければならないはずです。
 それでは、その「外」とはいったいなんなのか? ここに、量子力学が現状で抱えているもっとも深刻な脆弱性があるように私は考えます。そして、それと同型な脆弱性が、(数学的なものを含めて)およそ言語で世界を記述する立場に、普遍的に付随しているように思います。
 波動関数の収縮のプロセスは「計算不可能」なものであり、そこに人間の「理解」を支えるメカニズムがあり、「意識」の起源があるというペンローズの仮説が正しいかどうかは現時点ではわかりません。すくなくとも、ペンローズがその後にスチュワート・ハメロフと共同で提唱した、細胞内のマイクロチューブル内の量子計算が意識にかかわるというモデルは、そのままでは妥当性を多くの論者が考えています。私自身もそうです。しかし、量子力学の「FAPP完全性」を認めたとしてもなお、記述そのものの枠組みという意味において、量子力学が深刻な脆弱性を抱えていることも、また事実であると私は考えるのです。
 その脆弱性が、意識の起源問題に結びつくことは、ありえないことではないでしょう。
 (以上の議論のなかでは、理論的に重要な古典的決定論における「カオス」の問題については触れることができませんでした)

■偶有性について

 さて、ここで、以上に議論したことと関連しますが、すこし方向性の異なる問題について言及したいと思います。すなわち、「偶有性」の問題です。
 いただいた手紙の最後のほうで、斎藤さんは「偶有性」(contingency)について触れ、「半ば確かで、半ば不確か」という私が掲げた偶有性の定義が、どこに由来するものか、というふうに尋ねてくださいました。
 「そして、〈硬いことと柔らかいことが入りまじった状態〉ですか? つまりそれは、外はカリッとしていて中はトロトロ、みたいな状態でしょうか。なかなかおいしそうなタコ焼……いやいや偶有性ですね。そう、ここは村上春樹ならまちがいなく『偶有的タコ焼き』とか表現するはずのところです」という斎藤さんの修辞を、私は愛しました。(批判される側がそういうのもなんですが)おもしろかったです!
 議論でもちいられる基本的な概念について、お互いに明確な理解を共有しておくことは、とてもたいせつなことと考えます。ですので、斎藤さんのご質問に感謝するとともに、私が理解するところの「偶有性」の定義、および性質をあらためて下で記述させていただきます。
 インターネット上で参照できるMerriam-Webster's Online dictionaryによりますと、「contingency」という単語について、
1 : the quality or state of being contingent
2 : a contingent event or condition: as a : an event (as an emergency) that may but is not certain to occur b : something liable to happen as an adjunct to or result of something else

と記述されています。

an event (as an emergency) that may but is not certain to occur

すなわち、「(緊急事態のように)起こるかもしれないけれども、起こることが確実とはいえないこと」が、contingencyの第一義であります。このような意味でのcontingencyは、神経経済学など、報酬系の働きを記述し、理解する認知神経科学の分野において重要な意味を持つにいたっています。
 たとえば、特定のアクションを起こしたときに、特定の報酬をえるということがある程度期待されるということがある。しかし、それは確実、というところまではいかない。まったく予想が付かないということではないけれども、かならずそうなるとまではいえない。そのような行動と報酬のあいだのcontingencyが、ドーパミン系をはじめとする脳の報酬システムによってどのように情報処理され、学習に結びつけられるか。そのような学習の積みかさねが、ある状況に置かれたときの被験者の選択や行動決定に影響するという意味において、contingencyは重要な意味を持ちます。
 また、2bに記述されている

something liable to happen as an adjunct to or result of something else

ですが、認知神経科学でさかんに議論され、研究されているsensori-motor contingencyはこの文脈です。なんらかのアクションをして、その結果として、ある特定の感覚のフィードバックがある。あるいは、視覚、聴覚、触覚など、複数の感覚モダリティのあいだで、相関が生じる。たとえば、手をのばしてなにかを触るというアクションを起こすと、触覚というフィードバックが起こる。あるいは、特定の視覚刺激とともに、触覚刺激が生じる。そのような相関が、contingencyとして重要な研究対象となっています。
 ここで肝心なのは、あるアクションをすると、かならずある触覚のフィードバックが起こる、あるいは、特定の感覚のペアどうしが、つねに生起すると保証されてはいないということで、その点を、上に参照した辞書ではsomething "liable" to happenという表現でとらえています(" "マークは筆者)。
 あるアクションを起こすと、ある特定の感覚フィードバックがあることが通例である場合でも、その期待が「裏切られる」こともある。あるいは、通常の場合には随伴しないような刺激どうしが、同時に起こることもある。脳は、そのような場合に、みずからつくった仮説と一致しない外界の事物を切り捨ててしまうことはせずに、むしろ自分の仮説モデル自体を修正し、新たに提示された外界の姿に合致させようとします。
 たとえば、いわゆる「ラバー・ハンド・イリュージョン」がそうです。視野から隠された右手を刺激しながら、目の前に置かれたゴム手袋をスティックで突くと、しばらくして、まるでゴム手袋が自分の手であるような錯覚が生じます。
 自分と離れた場所にあるゴム手袋が「突かれる」という視覚刺激と、自分の右手が触覚的な刺激を受けるということが同時に起こることは、通例ではありません。しかし、もしそのような事態が招来されたとすれば、脳はすぐさま適応することができる。たとえ、それが、自分の身体という、外界にくらべれば通常は安定している存在であっても、脳は適応してそれに関する仮説を修正することができる。
 このように、完全に確実ともいえず、完全に不確実ともいえない「汽水域」の相関(contingency)について研究することが、脳科学における重要なテーマのひとつになっています。
 さて、以上、Merriam-Webster's Online dictionaryにおいて与えられている定義に沿って、contingencyという概念が、今日の認知神経科学においてどのような意義を持っているかを記述しました。このような意味におけるcontingencyは、日本語でいえば「不確実な相関」あるいは、「半ば確実であり、半ば不確実である」というような意義にとらえられるでありましょうが、そのようなニュアンスをすべて要約して、私は「偶有性」という言葉をもちいています。
 もちろん、このような意味におけるcontingencyの用法は、認知神経科学という文脈に限られるわけではありません。災害時や緊急時にどのような対応を取るかという計画を立てることを、contingency planといいます。テロや地震、ハリケーンなどの人為的、あるいは自然の災害に対応するうえでは、完全には予測できない不確定要素を考慮することが不可欠です。しかし、不確定要素があるからといって、まったく予想ができないというわけではありません。
 たとえば、どれくらいの規模の地震が、いつどこで起こるかは、完全に予想できることではありません。しかし、だからといって、地震災害に向けた対策をあきらめるということはできません。地震の発生場所、日時、規模を完全に予想することはたとえできないにしても、ありえる事態を想定して、水、食糧などの備蓄計画を立てたり、人や物資の輸送計画を考える。一方で、その計画では予想できない事態が生じえることも、あらかじめ織りこんでおく。contingency planにおいては、「半ば予想され、半ば予想できない」事態に対する備えが本質的となります。
 アメリカ合衆国の政府機関であるNational Institute of Standards and Technologyは、2002年にContingency Planning Guide for Information Technology Systemsを公表しました。著者は、Marianne Swanson, Amy Wohl, Lucinda Pope, Tim Grance, Joan Hash, Ray Thomasです。インターネットが現代の私たちの生活にとって欠かすことのできない道具、メディアに成長するにつれて、災害やテロ、妨害行為などに対してどのような備えをするかということは、きわめて重要な政策課題になりつつあるといえましょう。そもそも、インターネットという情報ネットワーク自体が、アメリカの軍部による「敵の攻撃に対して強靱な情報ネットワーク」の研究から生まれたことは、著名な事実です。そのインターネットが、いまや平和や民主主義の重要な支援技術と認識されていることは、歴史のちょっとした皮肉でしょう。
  上のような意味でのcontingency planを構築し、実装し、実行することが、進化の過程で人間の脳に課されたもっとも重要な課題だということができます。生きるということは、つねに不確実性に満ちている。どんな緊急事態でも、臨機応変に対応できれば、それだけ生きのびて、子孫を残すことができる確率が高まる。しかし、まったく予想が立たないというわけではない。記憶することは、予想することと強く関係しています。脳の側頭連合野のなかで、記憶がエンコーディングされている領域と、未来を予想する領域はお互いに近い。だからこそ、ときどき両者は混同されて「deja vu」(既視感)という現象も生じます。
 ベイズ的な意味においては、脳の学習とは、相互作用を通して把握される環境の中に見いだされる規則性を獲得する過程だということもできる。このような文脈において、ベイズ主義者は環境のなかの規則性にこそ注目します。複雑系の研究コミュニティにおいては、(統計的な意味での)規則性では把握しきれない「一回性」(onceness)が注目されます。しかし、ベイズ主義者にとっては、「一回性」の学習、いわゆる「一発学習」(one-shot learning)も、環境との相互作用のなかに見いだされる規則性の発見という学習の一般則の例外ではありません。
 この点について、私がケンブリッジ大学に留学していたときにお世話になったホラス・バーロー教授と交わした会話が忘れられません。トリニティ・カレッジのダイニング・ホールで、私はホラスと当時興味を持って調べていたいわゆる「hidden figure」について議論していました。斎藤さんが前回提起してくださった論点にそくしていえば、「ウサギか、あるいはアヒルか」というようなアスペクトを、そのような手がかりがいっさいない状態から見いだすという問題であります。
 「Hidden figure」は、一度気づいてしまえば、時間が経っても忘れることがない。たとえば、下の「hidden figure」 (図1)は比較的容易なものですが、最初に見たとき、私はなかなかわからなかった。朝ご飯を食べながら考えて、その後、研究所に向かいながらときどきちらちら見てもわからず、昼食時に、カレーライスを食べているときに眺めていて「あっ、わかった!」と気付くまで、じつに半日間の時間を要したのであります。(答えはこのお手紙の最後に記します)

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図1 hidden figureの例

 一度わかってしまえば、基本的に忘れない。その意味で、「one-shot learning」は一回性の出来事であり、そこには統計性はあらわには介在しないように思われます。しかし、ホラスは、そのような場合でも、外界の規則性について主観的な確率を積みあげるベイズ的な方法が有効であると言いきったのです。このあたりの議論は、追求すればかなりおもしろいものになるでしょう。
 肝心なのは、たとえ、ベイズ的な立場をとったとしても、偶有性が払拭されるわけではないということです。この世の中に、完全なる規則性(たとえば「計算可能な」規則性!)があったとしても、それが、脳の限られた計算資源によって、すべて把握できるわけではありません。また、ある問題領域において、たとえ、原理的には(ほぼ)完全なる規則性の知覚に到達することが可能であるとしても、学習の過程では、不完全な規則性知覚の状態を経由せざるをえません(ここにおける「完全な規則性知覚」とは、その記述が確率的側面を含むことを許容します。たとえば、電子の振る舞いを扱う限り、確率的なプロセスを含む量子力学の記述は、「完全」なものとなります)。つまり、学習の過程では、「偶有性」が避けられないものとなります。
 量子力学においては、「必然」と「偶然」、「予想できること」と「予想できないこと」が一体となった「偶有性」が重要な役割を持っています。すなわち、電子などのミクロな物体の振る舞いを記述する数学的な形式において、必然性と偶然性が渾然一体となっているのです。ミクロな物体の振る舞いが、その確率的な記述に関する限り波動関数でつくされるという意味では、必然的である。しかし、波動関数で記述される確率分布のなかで、どの状態に落ちつくかということが予想できないという意味においては、偶然である。波動関数とその収縮というかたちで記述される量子力学の数学的形式そのものが、「偶有性」の純粋な表現になっています。
 ここで、重要な補足があります。「contingency」には、上と関連しますが、すこし方向性の異なる意義があります。すなわち、「いま、ここに実現されていることは、必然性のあることではなかった」とでもいうような意味にとることのできる文脈です。
 論理哲学においては、かならずしも正しいとはいえないし、かならずしもあやまりだともいえない命題が、「偶有的」(contingent)な命題だとされます。あきらかに正しい命題は、トートロジーである。一方、同時に正しいことはありえない「矛盾」する命題もある。偶有的な命題とは、論理内部では正しいとも、正しくないとも断ずることのできない命題です。
 たとえば、「茂木健一郎はもじゃもじゃの髪の毛である」という命題は、偶有的です。たまたま、私の髪の毛はもじゃもじゃなので、この宇宙に出現した「茂木健一郎」については、「もじゃもじゃの髪の毛である」という命題は正しい。しかし、「茂木健一郎」の髪の毛が、論理的必然として「もじゃもじゃ」でなければならなかったということはないのです。
 茂木健一郎が、ストレート・ヘアだったり、スキンヘッドだったりしたこともありえる。それは、同じくらい「正しい」可能性があった命題です。「茂木健一郎はもじゃもじゃの髪の毛である」という命題は、あくまでも偶有的なものにすぎないのです。
 スピノザは、『エチカ』のなかで、神を、ありとあらゆる意味において絶対的な「無限」であるとします。したがって、キリスト教をはじめとする宗教における通常の解釈のもとでの神学において神が持っていると仮定されている属性、すなわち、「身体」や「知性」、「意志」のようなものとは、神は無縁だとスピノザは論じます。
 それに対して、人間という存在は「有限」のものである。したがって、人間という存在は、「偶有的」(contingent)なのだと、スピノザは論じます。ある人間が、ある名前と性質を持って存在するということは、必然的なことではない。どんな人間も、「偶有的」な存在にすぎない。ある人間が、ある姿かたちで存在するということには、なんらの必然性も存在しない。そのようにスピノザは断じるのです。
 たとえば、私が、「茂木健一郎」という名前で、現代の日本に存在していることに、なんらの必然性もない。一方で、絶対的な無限である「神」のなかには、有限の存在のすべては内包される。だから、「茂木健一郎」という存在は、無限たる神の「一部分」ではある。しかし、絶対的な意味で無限な神にくらべれば、「茂木健一郎」という存在は、必然であるとはいえない。
 「死後の世界」(afterlife)は、人間にとって切実な「仮想」のひとつですが、それが具体的な風景や、制度や、体験として描かれている限りにおいて、「無限」である神の領域ではなく、「有限」である人間の領域に属する問題となる。David EaglemanのSum: Forty tales from the afterlivesは、このような「有限」の立場から、「死後の世界」を描いた興味深い短編集です。 「有限の存在」たる人間に関する限り、「死後の世界」でさえ、偶有的な存在にならざるをえないのです。
 個人的な話になりますが、このような文脈における「偶有性」を私が自分自身の問題として切実に感じたのは、九州大学における講演会の際、会場にいらしている方々一人ひとりの顔を見つめているときでした。自分自身の講演の際にはそんな暇はなかったけれども、その後のパネル・ディスカッションでは、たっぷりと時間があった。なにしろ、議論する人が五人もいれば、私が話す時間は五分の一ですみます。
 もちろん、他人の話を聞いていなかった、というわけではありません。一生懸命、ほかのパネリストの話を聞いていた。それでも、私は以前から「多動症」の気があり、ただ人の話を聞いているというだけでは脳に対する負荷としてもの足りない。だから、ちゃんと他人の話を聞き、しかもその場の平穏を乱さないアクティヴィティとして、会場の一人ひとりの顔を見つめるという行為にふけっていたのです。
 「もし、この人の人生と、私の人生が入れ替わったとしたら。」
 私は、会場にいる一人ひとりの顔を、じっくりと見つめながら、そんなことを考えていました。
 もし美人と入れ替わったら、楽しいだろう。しかし、一方で、平凡な見かけの女の子と入れ替わっても、人生にはさまざまな喜びがあるだろう。たとえば、自分が慕っていた人が思いがけなく優しくしてくれるときのように。髪の毛がふさふさした人、髪の毛があまりない人、若い人、年老いた人、やせた人、太った人。どんな人の人生と入れ替わっても、私はその人の人生を「楽しんで」みせる。そのときの私は、そのようなインスピレーションにとらわれていたのです。
 その感覚には、「偶有性」が二重の意味で関わっていました。まず、どんな人も、その人でなければならなかったという必然性はない。しかし、一度そのような立場を引き受けてしまったら、それはひとつの「必然」となる。この世界には、そのなかに存在する人の数だけの「必然」がある(この点は、斎藤さんのいわれる「偶有性を必然性として肯定するための認識装置」に大いにかかわることでしょう)という意味においての「偶有性」。もうひとつは、それぞれの人生において、かならず「簡単には予見できないものがある」という意味での「偶有性」。
 九州大学の会場に集まった人たちを見ながら、私は、「なぜかその人になってしまった」という偶有性と、「それぞれの人生に予想できないことがある」という偶有性、二重の偶有性を楽しむことができる、というひとつの見とおしないしは決意のようなものを抱いていたのです。
 さて、斎藤さんが書簡のなかで提起された問題のなかで、(私から見て)もっとも重要な論点のひとつは、果たして偶有性は認知できるのか、ということです。この点は、まさに、偶有性に適応するために進化してきた脳の機能を考えるうえで、本質的な問題であると考えます。
 結論からいえば、偶有性自体は、知覚できないと考えます。その理由は、斎藤さんのいわれるように、偶有性が、「偶然」と「必然」の境界面に横たわっているからです。「偶然」から「必然」への跳躍は「命がけ」のものであり、そのプロセス自体は知覚できない。いうならば、それは「経験される」ないしは「生きられる」しかない。しかも、このときの生の経験は、意識のなかで「これ」というかたちで把握されるものではない。それは、無意識から意識までのすべてのスペクトラムをふくむ認知のプロセスをとおして、包絡線のように浮かびあがってくるものでしかない。
 脳の回路の問題としていえば、偶有性の処理において本質的な役割を果たす報酬系の活動が、そのほとんどが意識にのぼらないものであるという事実がある。意識のなかでそれと感じられるfeelingに対して、emotionはその本義において無意識のものである。したがって、その本質は、意識の起源を問う心脳問題と関連するが、それを包含した、より一般的な問題群へとつながっていく。
 このような認識のもとで、「クオリア」と「偶有性」の関係を考えることが、現在の私にとってもっとも重要な課題になりつつあります。
 まず端的には、「クオリア」の本質に「偶有性」が関わっている可能性がある。(私の体系でいえば)「認識におけるマッハの原理」(Mach's principle in perception)によってクオリアが生みだされるとして、ある特定の主観性の構造、クオリアを生みだす一連の神経活動の時空的クラスターが与えられたとして、それが「私」の意識のなかでたとえば「赤」のクオリアとして感じられるのは、必然なのか? しばしば議論される、行動的に、また脳内の物質過程としてはまったく同じふたつの主体において、たとえば「赤」のクオリアと「青」のクオリアが逆転しているということはありえるのかという問題(いわゆる「逆転クオリア」)は、この点に関わります。
 果たして、心脳問題における対応関係(neural correlates of consciousness)の根幹に、偶有性があるのかどうか? ある特定の神経活動のパターンに、ある特定のクオリアが対応するというのは、そうでなければならないという理由はなかったという意味において「偶然」であり、しかし、現にそうなってしまっているという意味においては「必然」であり、そのような意味において徹頭徹尾「偶有性」が支配する領域なのか? この問題こそが、「クオリア」と「偶有性」の関係を考えるうえで重大な意味を持つと私は考えます。
 進化論的な視点から見れば、クオリアは、脳が環境との相互作用においてさらされてきた偶有性に対して、適応してきた結果なのでしょう。認知的安定性と、動的適応性という、一見矛盾するふたつの傾向を同時に内包しなければ、偶有性に対する適応を実現することはできない。その意味において、クオリアが認知的安定性と動的適応性をどのように結ぶのか、この点に、もっとも本質的な問いがあるように思います。

■言語と自由

 さて、最後に、これまでの斎藤さんとのやりとりのなかから、私が受けとったなかば「無意識」のレベルでの刺激について触れることで、今回のお返事を終えたいと思います。この点は、斎藤さんがラカンを援用して主体の「虚構性」について議論されたこととも、深く関係するように思います。
 斎藤さんは、お手紙の最後で、「アスペクト」の問題を提出された。そうして、そのすこし前で、(ふたたびび私から見て)とても重要なことを書かれています。

ルーマンの議論を敷衍(ふえん)するなら、社会や主体といった概念と、その起源をめぐる問いとのあいだには、決定的なギャップがあることになります。すでに存在している社会や主体の存在と、その起源(ここではコミュニケーションの偶有性)とのあいだには、安定した因果関係はありえない。ただ結果がある場合にのみ、事後的に起源をめぐる問いが導かれるということ。これは、社会や主体の起源を語る理論が、いわば「神話」としてしか記述しえないことを意味しています。
 社会や主体といった概念について「科学的」にアプローチをしようとするなら、われわれはどうしても因果論の自明性を捨てられません。なぜなら「原因があって結果がある」という思考法は、科学の根幹をなしているからです。
 その意味でルーマンの問いは、いわば経験科学としての社会学の不可能性にまで及んでいます。
 ラカンやルーマンの側に立つということは、社会や主体といった問題については「原因から結果が導かれる」というかたちで記述する可能性を断念することにほかなりません。
 社会や主体の起源に偶有性がある。そこまではいいでしょう。しかし、だからといって「偶有性から社会(主体)が導かれる」とは、けっしていえません。正確には「そこに社会や主体があることによって、はじめて『偶有性』の問題が生ずる」というべきなのです。すくなくとも、私はそのように考えるし、それゆえの「精神分析」でもあるのです。

 この点こそが、私と斎藤さんのあいだで、斎藤さんのいわれる「誠実な知的対立」が起こるべきひとつの位相なのかもしれません(もっとも、私自身は、「対立」を「対立」として固定することにはあまり関心がなく、私にとって興味のある他者、すなわち、この往復書簡における斎藤環さんがある言葉を吐くその必然性を、ぜひ理解したいと共感的に思考するタイプなのですが)。
 斎藤さんは、前回の手紙で言語の重要性を強調された。それに対して、私は、今回のご返信で、(斎藤さんにとって既知であろうことを重々承知しつつも)計算可能性や、量子力学の問題を持ちだしました。一度、そのような地点にもどって、私にとってのこの問題についての見とおしを確保したいと思った。そうして、斎藤さんとそれを共有したいと願った。
 斎藤さんが正しく指摘されるように、「原因があって結果がある」という思考法は、科学の根幹をなしています。生物が誕生するそれ以前から、人間が言語を扱うはるか前から、宇宙は因果的法則にしたがって時間発展していた。生命や言語という現象は、このような宇宙の(無機的)在り方の延長線上になければならない、すくなくとも、整合性がなければならない。私は、そのように考えます。
 そうして、宇宙の因果的な法則を与えるのは、数学的な形式であると思っている。たとえば、「シュレディンガー方程式」。「クライン・ゴルドン方程式」。あるいは、アインシュタインの「一般相対性理論の方程式」。あるいは、セル・オートマトンの「世代更新のアルゴリズム」。「ルール110」。「クラス4」。このような数学的言語、形式的言語を第一義的に思い浮かべるのは、それらが、この世界の万物の運行を、精緻に記述するということを、多くの事例をとおして知っている(と信じている)からです。
 ところが、ここにクオリアがある。あるいは言語がある。クオリアや言語は、因果主義者にとってつまづきの石です。なぜならば、そこには、一見、「断絶」があるように思われるからです。
 言語の意味は、(私の理解では)すくなくともその意識のなかでとらえられるニュアンスにおいては、クオリアと同型のプロセスで生まれてきているように考えます(言語の意味をふくめ、脳内の世界モデルに依拠した能動的意味づけを、私は色などの「感覚的クオリア」(sensory qualia)に対して「志向的クオリア」(intentional qualia)と名付け、体系的に理解しようと試みています)。
 果たして、脳の物質的なプロセスと、クオリアや自然言語の意味の対応には、必然性があるのか? あるいは、そこには本質的に「偶有性」(すなわち、必然だけでは決まらない事情)が介在するのか。ここに、重要な問題が所在すると私は直覚いたします。
 「私」という「主体」は、幻覚(illusion )にすぎないのでしょう。それをいうならば、すべての言語は幻覚である。しかし、それは疑いなく「いま、ここ」に存在する。それでは、これらの幻覚の存在論的、認識論的権利はなにか。
 因果的決定論(そこには、量子力学力学的な確率法則を含みます)を重視し、それとの整合性をあくまでも追求しようとするのか? あるいは、クオリアや言語といった、私たちの存在の物質的基礎から「浮遊」しているものの「自由」に仮託し、偶有性を生きようとするのか? ここには、さまざまな態度のスペクトラムがあり、取りうる立場があり、そして、そこから生じる(多くは表面上の)対立があります。
 いわゆる「ソーカル事件」は、この世の物質的存在基盤(およびそれを記述する数学的言語)の(理念上の)厳密性と、自然言語の意味の「自由」の間の乖離をめぐって起きたひとつの「茶番劇」だと考えています。
 思想家(斎藤さんもそうですが)は、言語の自由を追求してよい。一方、自然科学者は、因果的拘束をひとときたりとも忘れることはできない。自由と因果と。私は、そのあいだをなんとかつなごうと、努力してきました。この世界は整合的であるはずだという「信仰」(あえてこの言葉を使いますが)を捨てることができないからです。 
 私はこう考えます。たとえ、脳内の物質的プロセスと、クオリア、あるいは言語の意味の対応関係が「偶有的」なものだとしても、それは、この宇宙のなかでは、どの主体に対しても平等に、同型なかたちで起こっているのだろう。なぜならば、偶有性の作用が主体によって異なるということは、よほどアドホックな事態であるように思われるからである。この宇宙は、そのようなアドホックな事態を、何の理由もなしに招来することはないのではないか。対称性は、そのようなかたちでは破れていないのではないか。なによりも、私たちが言語を通してかりそめにも理解し合える(この往復書簡がその一例であると信じたい)という事実自体が、偶有性の作用がこの宇宙でいたるところ同型に起こっていることを示している。
 それならば、その同型性に、なんらかの法則性を見いだすことはできないか。そこに私の希望があります。結論からいえば、私は、因果的拘束も、言語の自由も、どちらも忘れることができないのです。
 私は信仰告白をしました。世界は、生命や言語誕生以前から因果的に進行していた。そうして、思想家は、なによりもまず「自由」であるべきだと信じるのです。

茂木健一郎


※図1のこたえは、「地中海」の地図

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