「脳は心を記述できるのか」

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第5信 「チューリングマシンの精神分析」

斎藤環から茂木健一郎への手紙


■脳はとてもたいせつです

 茂木さん、迅速なお返事をありがとうございます。今回は私のほうが、すこし遅れてしまいました。すみません。なにしろ私からのお手紙はこれが最終なので、ちょっといろいろ書きあぐねることもありまして。どうかご寛恕ください。
 それにしても、今回茂木さんにいただいたお手紙は、じつにすばらしかった。読み飛ばさずに、じっくりと堪能させてもらいました。これは最近私が拝見した茂木さんの文章のなかでも、ベストのものかもしれません。
 で、いうまでもありませんが、私は茂木さんが書かれている内容については、ほとんど同意できませんでした。そのことは、あとでくわしく述べます。でも、内容に同意できるかどうかなんて、些細といえば些細なことです。
 私の信ずるところでは、文章でいちばんたいせつなのは、たぶん内容の「正しさ」などではない。茂木さんに取り憑いて、あの濃密な文章を書かせた“なにものか”がすばらしい。それは情熱なのか使命感なのかその両方なのか、それはわかりません。
 ただ、茂木さんは最後に「信仰告白」と書かれています。ならばその「信仰」の中核部分がかいま見えたことが、重要だったのかもしれません。
 いずれにせよ、今回のようにきわめて有意義なお返事がいただけるのなら、この往復書簡をはじめた甲斐があったというものです。ありがとうございました。
 とはいえ、不満がないではありません。私が投げかけた問いについては、またしてもはぐらかされてしまったような気がします。正直、「こんなところでスルー力発揮しなくても……」とは思いました。私としては、言語の問題と偶有性の問題について、かなり本質的な問いかけをしたつもりだったんですが、なぜかお話しは脳科学ならぬ現代物理学のほうにどんどんいってしまって、これは微妙にしょんぼりですね。
 とりあえず気を取り直して、細かい訂正からいきましょう。
 まず、例の「脳のない」事例について。あれは、ちょっと示し方が悪かったかなと反省しています。「あなたは人間に脳がなくてもいいと思っているのか」といろんな人から指摘されて、自分の信念ではなく、文章力に自信を失いかけています。茂木さんにも私が「脳がなくても人間は考えることができる」と、本気で書いているように読めたのでしょうか?
 もちろん人間にとって、脳は必要不可欠なものです。 ですから、“脳がない男”の話は、脳の可塑性を示す事例に決まっています。やっぱり私は、現役の医師とは思われていないんですね。もし本気で「脳なんかなくていい」と考えているのなら、脳に作用を及ぼす向精神薬を患者さんに処方するはずがないんですが。
 ですから、ここに断言します。脳が心の座であることに、まったく異存はございません。
 ただ、脳の仕組みがこうなっているから人間の行動はこうなるんだ、と言いたい人に、行動がこうだから脳の仕組みがこうなるんだ、と突っ込んでみたいいたずら心があっただけです。それと、前回も述べたとおり、哲学的立場からは「脳が心の座であること」に、必然性はないと考えています。でも、こんなこと書くとまた誤解されそうですから、このくらいにしておきましょう。

■天動説と中の人

 さて。茂木さんはお手紙の最後のところで「言葉も幻想である」とおっしゃるけれど、私はなにも「あらゆることに根拠がない」「なにもかも幻想である」などと言いたいわけではないのです。そんな「パチもんの唯幻論」みたいな主張がしたいわけではない(“本物の唯幻論”なら賛成、というわけでもありませんけれど)。
 私の考えでは、幻想の対義語は“現実”ではありません。“現実”は幻想の一部であり、幻想の対義語は“言語”です。なぜなら、その関係は非対称的だから。言語は幻想を生みだしますが、幻想は言語を生みだしません。
 たとえば画家バルテュス(=バルタザール・クロソウスキー)は、脳科学者セミール・ゼキとの対談で「絵画とは、他の言葉では表現することができない言語活動なのです」と発言しています。まさにわが意を得たり!
 よって端的に申しあげるなら、クオリアは言語活動がもたらした幻想の一種ですが、言語そのものは幻想ではありません。
 とはいえ私は、茂木さんがダーウィンのたとえを持ちだされたことで、「ああそうか」と腑に落ちるところがありました。
 茂木さんはあそこで、“創造主”を人格神ではないと書かれていますが、はたしてそうでしょうか? 当時のダーウィンが置かれていた状況を考えるなら、ここはやはり人格神と理解するのが妥当ではありませんか? ですから天体の法則のくだりは、もちろん地動説を意味していたはずです。
 ダーウィンは『種の起源』が出版された当日、ノース・ヨークシャーのスパで水療法を受けていました。自律神経失調症気味であったということですから無理もないのですが、新訳を担当した渡辺政隆氏によれば、「論争の渦中から逃避するための一種の避難所」でもあったようです(解説『種の起源(下)』光文社古典新訳文庫)。
 論争とはもちろん、キリスト教会との論争です。
 ダーウィンは、自説がキリスト教会から猛烈に批判されることを予期していました。そう考えるなら、茂木さんが称賛した引用箇所は、どう考えても宗教側への挑発ではないでしょうか。いささか唐突に地球の公転の話がここに出てくるのは、かつてキリスト教会が天動説の立場から地動説を迫害した史実をふまえているとしか思えません。
 だからこのくだり、私なりの「超訳 ダーウィンの言葉」によれば、こう読めます。「それでも地球は回っているし、それでも生物は進化するんですが、なにか?」と。もしそうなら、これは「ひんやりしたリアリティ」どころか、アツい「宣戦布告」ですよね。実際、出版の翌年(1860年)には英国科学振興協会で、サミュエル・ウィルバーフォース主教(宗教代表)とトマス・ハクスリー(進化論代表)の対決が起きているわけですし。
 これは些末な揚げ足取りなんかじゃありません。むしろ茂木さんがこの例を出してくださったおかげで、私たちのいちばん根本的な対立点が、いっそう明らかになったともいえるからです。
 ダーウィンが進化論や地動説に感じていたものを、強いてリアリティであると考えるなら、それはけっして「実感的リアリティ」ではなくて「構造的リアリティ」とでもいうべきものでしょう。
 なぜなら、もし「見たものをありのままに信ずる」という姿勢がつねに真実ならば、ヒトが猿から進化した(とは『種の起源』には書かれていませんが)とか、地球が太陽の回りをまわっている、という発想は、人々の反発しか買わないでしょうから。
 「地球のほうがまわってる? んなバカな」「人の祖先が猿なわけないだろ、常識的に考えて」と、人々から非難されるのがオチです。「実感」や「常識」のリアリティは、これほど強力なものです。だからいまでも「地球は平たい」とか「進化論はデタラメ」とか確信して疑わない人が山ほど存在するのです。
 コペルニクスの地動説も、ダーウィンの進化論も、そしてフロイトの無意識ですらも、共通しているのはひとつのこと、世界は“いまここ”で見たまま、感じられたままのものではない、という真理の主張にほかなりません。だからこそ熱狂的に受けいれられる一方で、猛烈な反発や弾圧をこうむってきたのです。
 しかし、すくなくとも、二〇世紀以降の科学は、こうした実感主義に背を向けながら進歩してきたのではなかったか。
 茂木さんのクオリアに私がしつこく疑義を呈し続けているのは、それがややもすると、かつての実感主義のほうに取りこまれてしまう危険性があると考えるからです。もちろん茂木さんはきわめて真剣に、クオリアの発生機序を解明しようとされている。しかし、その手続きはあくまでも、“クオリアの実在性”を自明の前提にしてはいませんか?
 私が前々回のお手紙で、クオリアという発想をナルシシズムと結びつけたのは、それがどうにも“天動説の現代版”に見えてしかたないからです。どういうことでしょうか。つまり、事象を観察している自分のポジションをあくまでも不動の中心に据えている、という意味において、です。この種の“自己中心性”と、それを補強する実感主義こそが、ナルシシズムにほかならないと私は考えるのです。
 私は「百聞は一見にしかず」とか「見ると聞くとは大違い」といった素朴な実感主義(視覚主義?)には徹底して懐疑的です。「経験したものでなければわからない」という主張に対しては、「経験してしまったからこそ、わからなくなることもありますよね?」と反論したくなります。
 さらにいえば、「地球も太陽も、言語以前から存在するに決まっている」という断定にも、この種の実感主義はふくまれています。しかし、そもそもこの種の断定に、“常識”や“実感”以上の根拠があるでしょうか? 
 もしないのなら、これは「存在する(としか思えない)から存在する」というトートロジーですし、根拠があるのでしたら次の質問についてもぜひお考えください。「果たして“茂木健一郎”は、命名される以前から存在したのか?」。
 これは詭弁ではありません。私は真剣に聞いています。名前と存在との関係は、固有名詞だろうと普通名詞だろうと変わらないというのが私の考えです。固有/普通の区別そのものが、言語的なものなのですから。
 「そうとしか思えない」とか「私がそう感ずる」という事実は、なんら理論の正当性を保証するものではありません。むしろそれは、「なぜそう思い、そう感じてしまうのか?」という問いとして解明されるべき前提です。
 クオリアを錯覚であるとするならば、その錯覚がいかにして生ずるかは精神分析的に検討することが可能です。しかし茂木さんは、おそらくクオリアが「存在する」と考えておられる。だからこそ、脳内のニューロン発火パターンとの対応関係を解明しようとされるわけでしょう。とりわけその同型性を。ということは、やはりクオリアを“実体化”しようとなさっている。そうではありませんか?
 これは“言いがかり”みたいなものでしょうか。しかし私は、茂木さんが前回のお手紙に書かれていた“九州大学における講演会”のエピソードを読んで、ますますその確信を深めてしまいました。
 これは“偶有性”についてのエピソードですが、その点はいまはおくとしましょう。問題は茂木さんが、聴衆の顔をみながら人生の入れかわりを夢想するくだりです。

私は、「なぜかその人になってしまった」という偶有性と、「それぞれの人生に予想できないことがある」という偶有性、二重の偶有性を楽しむことができる、というひとつの見とおしないしは決意のようなものを抱いていたのです。(往復書簡、第4信)

 これには正直、びっくりしました。外見や運命の偶有性は、たとえ話としてはわかります。でも茂木さん、どうしてあなたの「偶有性を楽しむ主体」だけは、誰になっても茂木さんのままなんですか? だって、脳すらも入れかわっているのに? これこそ二元論じゃありませんか? それも心身二元論というより霊肉二元論みたいな。
 これではまるで、茂木さんの魂が幽体離脱して、いろんな人の人生を着ぐるみよろしく取りかえては、「う~ん、どの人生も味わい深い。みんな違って、みんないい」とかつぶやいているような感じです。ドラえもんにたとえるなら、「入れかえロープ」か「トッカエ・バー」ですね。しかしこれ、どう見ても「上から目線」の典型じゃありませんか。
 茂木さん自身がどんな境遇におかれても、その人生を楽しんでみせるというのなら、まだわかります。でも、「その人になってしまう」ということは、感じ方や考え方も、あるいは知能や身体能力までも、その人のようになることでしょう。にもかかわらず、その“偶有性を楽しむことができるという”という楽観性は、いったいどこに由来するのか。
 おそらくこれは、茂木さんが主体というものを、一種のホムンクルスとして理解されていることから来るものではないでしょうか。
 もちろん私は、茂木さんの「メタ認知的ホムンクルス」説については存じあげています。くわしくは後述しますが、茂木さんが脳科学では無限後退につながる――ホムンクルス(中の人)がマトリョーシカ的に増殖すること――がゆえに、評判の悪いホムンクルス仮説をあえて提唱した勇気には感服するものの、システム論的な立場から自己言及の拠点としてメタ認知的ホムンクルスを持ちだすことには、やはり無理があると考えます。このホムンクルスを意識の根拠とするかぎり、やはり無限後退問題は免れないのではないか。
 それはともかく、ホムンクルス仮説というのは、科学者のナルシシズムがもたらす典型的な誤謬です。これが錬金術由来の言葉であるのは、たぶん偶然ではありません。精子にはとてもちいさな「中の人」が入っているという説から、人間は人工的に人間をつくりだせるという信念にいたるまで、きわめて素朴な人間中心主義が見てとれます。
 私がこれをナルシシズムと否定的に評価するのは、その自己中心性が理性的判断をゆがめてしまうからです。地動説や進化論への迫害ぶりを見れば、その弊害はあきらかでしょう。「九州大学のエピソード」について、私はそうした茂木さんの「素朴な自己中心性」をどうしても感じとってしまうのです。

■ラカンと量子力学

 次の対立点は、「計算」をめぐってのものです。
 茂木さんはひょっとすると、全事象が計算可能である、すくなくとも可能であるべきだ、とお考えなのでしょうか。端的にいえば、茂木さんは「ラプラスの悪魔」(すべてのデータがあれば未来は予測可能であるとする立場)を信じておられるのではありませんか? 
 統計学や量子力学に対する茂木さんの一貫した反発ぶりからみて、どうもそうとしか思われません。それは「事後的にならすべては計算可能」と書かれていることからもわかります。
 もし茂木さんが、私がCGの例で主張したことから敷衍してそうおっしゃっているのでしたら、それは誤解です。私が言いたかったのは、あくまでも感覚刺激をコンピュータで近似することは原理的に可能である、というほどの意味で、世界の全事象をシミュレートすることは、単に不可能です。
 ですから、茂木さんによる以下の指摘はなんとも不可解というよりほかはありません。
 人間の「理解」や「創造性」といった能力をふくめた知性全般をコンピュータ・プログラムで書くことはできるかどうか? つまりは、人間の知性は「計算可能」かどうかは、すくなくとも、それが「後付け」でシミュレートされる限り、可能であると考えざるをえないようです。(往復書簡、第4信より)

 いやいや、まさかそんな。ぜんぜん可能じゃないですよ? 
 茂木さんがしきりにその名を挙げているアラン・チューリングが創案したチューリングマシンは、あらゆる数学の形式体系をその動作に還元できるといわれた仮想機械です。しかし、万能のようでいて、この機械で決定できない命題も存在するのです。
 そのひとつがいわゆる「停止性問題」で、これは簡単にいえば、ある与えられたチューリングマシンが停止するかどうかを、別のチューリングマシンで決定することはできない、というものです。そういえばゲーデルの不完全性定理だって、同じ意味で計算不可能性の問題ですよね。これらについては「自己言及」問題として、あとでもういちど触れます。
 あるいは、そういった自己言及をふくまないような知性――それはありえない、というのが私の考えですが――の働きなら計算可能、という意味でおっしゃったのでしょうか? そうだとしても、やっぱり無理があります。
 計算でシミュレートできるってことは、その知性の活動メカニズムについてはとっくに解析済み、ってことですよね。ということはつまり、「クオリアを味わい、それについて記述する知性」までもが、完璧にシミュレートできる、計算できるということになります。
 それなら、茂木さんが「意識」やら「クオリア」やらについて、なにも悩む必要はありません。だって計算のためのプログラムが与えられた時点で、そのメカニズムの解析は済んでいるわけですから。
 ひょっとして茂木さんが「可能である」とおっしゃるのは、いまではなく将来的に「可能性がある(ただし量子コンピュータがあれば)」といった意味でしょうか。ならば、そこはいったん保留、ということでもかまいません。でも、私はやっぱりその可能性については否定的です。
 茂木さんは、ある知性の働きと計算プログラムの記述とを、一対一対応としてお考えではありませんか? しかし私の予測では、同じ知性の働きを可能にするプログラムが書きうるとしても、それは一対無限といってよいほど多様なものになると考えています。無限ということは、ようするに計算不可能ということにならないでしょうか?
 さて、計算可能性といえば、前回の茂木さんのお手紙の約半分は、私などまったく門外漢の現代物理学のお話しでした。初回で申しあげたとおり、脳科学でしたら私もそれなりについていけますが、現代物理はちょっと……。ただ、茂木さんが一般読者向けにわかりやすく書いていただいたので、おおよその趣旨は理解できたつもりです。
 なぜか量子力学に否定的な茂木さんの姿勢は不可解ですが、私なりにその理由を考えつつ、疑問をぶつけてみたいと思います。なんだかフリーザ対クリリン(いずれも漫画『ドラゴンボール』の登場人物)というかヴァニラ・アイス対イギー(いずれも漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の登場人物)というか、そんな感じで瞬殺をくらいそうですが(たとえが悪役ばっかりですみません)、つたない考察におつきあい願います。
 初回にもお話ししましたように、ラカン理論は量子力学によく似ているといわれます。前回も引用したスラヴォイ・ジジェクは、それをもっとも端的なかたちでまとめています(「ラカンと量子物理学」『仮想化しきれない残余』青土社)。彼が例示するのは、茂木さんも名前を出されていたファインマンの「二重スリット実験」でした。
 これ、本来は思考実験だったそうですが、その後、何度か追試がなされていますね。「量子力学の精髄」とも「もっとも美しい実験」とも呼ばれるこの実験は、電子銃から電子を発射して、その向こうにある写真乾板に当てるというシンプルなものです。途中の空間は真空になっていて、二本のスリットが入ったついたてで仕切られています。
 電子銃から発射された電子は、二本あるスリットをとおって写真乾板に到達します。写真乾板は電子に感光し、そこに濃淡の模様があらわれます。これによって電子が粒子として振る舞うのか、波として振る舞うのかを知ることができる、というわけです。
 ふたつのスリットが両方とも開いていると、乾板には干渉波が描かれます。開いているスリットがひとつのときは、干渉波は描かれません。奇妙なのは、両方のスリットを開けて発射する電子を一個だけにした場合でも、干渉波ができてしまうことです。
 もし電子が粒子であるなら、これはありえません。つまりこの実験は、電子が粒子であると同時に波でもあることを示している、というわけです。このほか「一個の電子がふたつのスリットを同時にとおった」と見なす解釈もあるようです。
 前回、茂木さんが触れられていた「コペンハーゲン解釈」によれば、電子は観測される前は波のような存在であるが、観測によって波束、すなわち波動関数が瞬時に収縮するため、乾板に当たった、つまり観測された瞬間に粒子になる、ということになりますね。
 このあたりのややこしい議論は、いったんおいておきましょう。
 ジジェクが問題とするのは、その先です。この装置で、どの電子がどちらのスリットをとおったかわかるようにして観察すると、波による干渉模様は消えてしまうのです。この現象について、ジジェクはこう書いています。
「一個の電子(それ自身はふたつのスリットのいずれかを通らなければならない粒子)が、もう一方のスリットが開いているかどうかを『知って』いて、それに合わせてふるまっているかのようだ。もう一つのスリットが開いていれば波としてふるまう。そうでなければ『ふつうの』粒子としてふるまうのだ。さらに先がある。一個の電子は、それが観測されているかいないかを『知って』いるように見える。それによってふるまい方を決めているからだ」(ジジェク、前掲書)

 ジジェクはこの実験から、量子力学と精神分析のさまざまな共通点を、いささかトリッキーな手つきで取りだして見せます。たとえば、電子の実際の軌跡は、仮想的な電子のゆらぎを計算に入れてはじめて説明できるという事実。これは心理的な「去勢」が象徴的去勢、すなわち実際にはなされない“去勢の脅威”としてのみ実現可能であることに似ている、とかですね。
 それだけではあきたらず、ジジェクはジョン・ホイーラーの実験にも言及します。これはファインマンの二重スリット実験の装置に手を加えたもので、くわしい解説は省略しますが、ようするに電子がスリットをとおり抜けたあとで、“電子の軌跡を観察するかどうか”を決定できるようにしたものです。
 この実験の結果、興味深いことがわかりました。なんと、観察者が“観察するかどうか”を決めることで、事後的に電子の通過する経路を変更できるのです。これはいってみれば、観察者が事後的に“歴史”を改変できるということを意味します。
 ジジェクはこの実験の解釈を、事象が象徴化される、すなわち言語化されることで遡及的に「あったことになる」という精神分析的な逆説になぞらえています。そう、これこそはまさに、フロイトにおける「事後性」の問題にほかなりません。量子力学の提示する問題は、ここでも精神分析と親和性を持つのです。
 ジジェクによるこうした親和性のリストは、まだまだ長く続けられますが、いまはこのくらいにしておきましょう。
 ようするに量子的過程は、言語という人間的宇宙にきわめて近く、そこでは“現実”が観察する主体によって構成されるのだという根本的な洞察が、科学そのものによって完璧に確認された、ということになります。
 この文脈では、まさに「見ていないときには、月はそこに存在しない」ことになるわけですね。アインシュタイン、ちょっとピンチ。いや、ずっとピンチか。まあそれはさておき。
 現代物理学における量子力学の優位を認めない茂木さんにとっては、この結論もとうてい受けいれがたいものでしょう。もちろん、ジジェクも物理学者ではありませんから、ラカンが数学でやらかしたような勘違いとは無縁ではないかもしれません。
 しかし彼自身、「ここに究極の真実がある」とか主張するわけではなく、ただかけはなれたふたつの仮説体系が妙にシンクロするさまをおもしろがっているふしもあります。実際、この一致ぶりはちょっとした知的興奮を誘いますし。
 まあ確かに「計算と言語、それぞれの抽象作用をつきつめて得られるふたつの系は、しばしばその振る舞いが似てしまうのだ」とかなんとか言いたくなるのは否定しません。しかし私自身は、こうした親和性について、さしあたり気の利いた比喩以上の関心を持たないように禁欲しているつもりです。茂木さんはどのようにお考えでしょうか。

■決定論と心的因果性

 ただし、量子力学と精神分析が事後性や潜在性という点で類似して見えるという事実には、この往復書簡という文脈において一定の意味を持ちます。
 量子力学を精神分析とともに嫌悪する、といって言いすぎなら、その価値を積極的には認めないという茂木さんの一貫した姿勢は、このふたつの領域の親和性によってはっきりと示されたとも考えられます。もしそうだとすれば、茂木さんの「信仰」には、もうひとつの要素が付けくわえられることになります。
 それは古典物理的な「決定論」です。
 すべてが計算可能であるとする立場は、必然的に決定論に近づきます。そして、この立場から脳について考えようとするなら、クオリアや偶有性といった“汽水域”の問題、すなわち、一見、決定論になじまないような問題領域をいかに“計算可能”にするか、という問題意識に引きよせられるのは当然なのかもしれません。
 一方、私は“記述”には関心がありますが“計算”は不得手ということもあり、どうにも関心が持てません。それに予想よりは後知恵のほうがずっと好きですし。また、脳と心の問題は、その作動原理においてまったくロジックが異なると考えています。その意味で私が同意するのは、依然としてベルクソンです。彼は次のように言いました。
「服はそれがかけられている釘とつながりがあります。釘を抜けば服は落ちます。釘が動けば服も揺れます。釘の頭がとがりすぎていれば、服に穴があき、破れます。しかし、釘のそれぞれの細部が服の細部と対応しているとか、釘と服とが等しいという結論にはなりません。(中略)同じように、意識はたしかに脳とつながってはいますが、だからといって脳が意識の細部のすべてを描くとか、意識は脳の機能だということにはならないのです」(『精神のエネルギ-』第三文明社)

 そう、心は脳の一部じゃない。メガネが顔の一部じゃないように。
 この指摘は心身平行説の否定という意味で、現代の脳科学への徹底した論駁でもあります。脳は意識の座ではあるが、脳の機能と意識の機能は直接の対応関係を持たない、と断言しているのですから。
 そういえば茂木さんもお好きな小林秀雄は、ベルクソンのこのくだりを、講演会で引用していますね。もし小林氏がいまの無邪気な脳科学ブームを見たら、どんな辛辣な言葉を投げかけるのでしょうか。ちょっとイタコに聞いてみたい気もします。
 いずれにせよ、“心的決定論”は二重の意味で不可能となるでしょう。まず、脳活動の計算不可能性という点において。さらに脳の活動と心的活動の“平行性の欠如”において。そう、脳と心のあいだに“関係”はありますが、“平行性”はありません。つまり、それが私の「信仰告白」……と言いたいところですが、ここはあえて断言しておきましょう。こちらのほうが真である、と。
 茂木さんもゆきすぎた脳の局在論には賛成できないという見解を、前回のお手紙に書かれていましたね。「脳のない男」が教えてくれる脳機能の可塑性には、驚くべきものがあります。臨床的にみても、脳実質のありようと精神活動とのあいだには、安定的な平行関係はありません。パソコンのソフトとハードの作動に、かならずしも平行関係がないように。
 脳の損傷がただちに精神障害には結びつかず、精神障害にはかならずしも器質的基盤が見あたらない。この事実をアンリ=エイは「器質=臨床的隔たり」と呼びました。しかし、それほど慎重だったエイの器質力動論にすら、ラカンは徹底批判を加えるのです。
 ラカンもまた、精神現象の器質論がホムンクルスの無限後退をもたらすことに警戒的です。
「アンリ・エーが誘惑にかられてどこかで主張していることとは反対に、神経組織の解剖学的分化と心的発現――たとえそれが知能のそれであろうと――の豊かさとのあいだには、下等動物における行動についての無数の事実が証明しているように、なんらの平行性もないという事実です」(「心的因果性について」『エクリⅠ』弘文堂)

 ラカンは精神疾患の発症要因として、同一化をはじめとする象徴的なものの働きに注目していました。また、だからこそ、多くの精神疾患が、脳とは無関係に象徴システムの誤作動によってひきおこされると確信していました(ただし精神病については、その考えが100%は該当しない、と私は考えていますけれど)。
 さらにラカンは「『科学的心理学』を創設するために、『現実』ではなく『真理』に基づいた問題設定がなされるべきである」としています。これは現代でいえば、“エヴィデンス偏重主義”のような風潮への当てこすりでしょうね。
 この断言は、私はいまでも有効だと考えています。精神分析の正当性を保証するものを、心的装置の外部に求めることは危険である、ともいえますね。その正当性は、心的装置の作動の一貫性において保証される、と私は考えています。
 それでは、心的因果性とはいかなるものか。
 ここで重要になってくるのが、フロイトのいった「重層的決定」と、その延長線上にアルチュセールが見いだした「構造的因果性」です。いずれもアルチュセールがマルクス主義を解釈するために導入した概念ですが、その経緯はいまは忘れましょう(「認識論的切断」ってヤツです)。
 ある経験が将来トラウマとして病気の原因になるかどうかを、事前に予測することはできません。その個人のくわしい生活歴や性格傾向などが事前にデータとして与えられていたとしても、諸要素がいかに絡みあってひとつの「症状」を形成するにいたりうるかどうかを予測することは、単に不可能です。
 ならば天気予報のように、確率論的な予想なら可能なのか。残念ながら、それも無理です。天気のカテゴリーはごくかぎられたものですが「症状」のカテゴリーはずっと多様です。さらに経験→症状の過程は一回性の出来事なので、過去のデータも参照できません。
 経験が症状をもたらす過程には、偶然や矛盾をふくむ複雑な要素が、予想できないようなかたちで関わってきます。この過程を「重層的決定」と呼びます。このとき経験から症状へという因果関係は、事後的にしかわかりません(それを発見する手法が精神分析です)。もっともこれは、心だけじゃなく歴史や経済にもいえることですね。
 自然科学的な因果関係は、それを構成する要素や条件を限定できるなら、再現性が期待できますから計算や予測が可能です。しかし「重層的決定」が関わる過程については、要素や条件が限定できないためもあり、確実な計算や予測が不可能です。
 このような過程については、ただ事後に振りかえった場合のみ、そこになんらかの因果関係を見いだすことができます。これを「構造的因果性」と呼びます。事後性という点では似ていても、「重層的決定」と「構造的因果性」が関与するという点では、電子の振る舞いよりも心のほうがいくぶんかは複雑なようですね。
 ちなみに、脳科学方面でも評判がよいらしい認知心理学者、スティーブン・ピンカーの言語論(『言語を生みだす本能 (上下)』NHKブックス)に私がまったく賛同できないのは、彼が部分的に依拠するチョムスキーの理論と同様に、決定論的なもの(「なるべくしてなった」)に親和性が高すぎるからです。
 ピンカーの進化心理学が採用する心のモジュール仮説については、以前別の著書で批判しました(『解離のポップ・スキル』勁草書房)。彼もご多分にもれず、「道徳本能」とか「普遍道徳」といった概念を提唱して、価値を科学的に根拠づけようとします(http://www.nytimes.com/2008/01/13/magazine/13Psychology-t.html?_r=3&oref=slogin&pagewanted=all&oref=slogin)。ここから一気に、決定論と疑似科学の親和性を導きだすのは、はたして飛躍が過ぎるでしょうか。ちなみにピンカーは、「幸福の科学」についても語っています(だからどうというわけではありません)。
 いずれにせよ、どうしても心を決定論的に理解しようとなさりたい方には、ここで私が示した心的因果性の特性くらいはふまえたうえで、その野心を試みられることをお勧めします(どうせ無理だからやめておけばいいのに、とは思いますが)。

■中国語のゾンビの部屋

 さて、今回は最後のお手紙になりますので、意識やクオリアについて私の思うところを、すこしばかり述べておこうと思います。
 前回のお手紙で茂木さんは、ペンローズによる例のとんでもない仮説、すなわち「細胞内のマイクロチューブル内の量子計算が意識に関わるというモデル」を紹介されました。波動関数の収縮プロセスが計算不可能であることから、一気にそれを意識の起源に結びつけるという手法は、ひとつの謎を説明するのに別の謎をもってくるという意味で、論理的な誤謬を犯しているようにも思われます。
 意識とクオリアの起源について、それなりに洗練された仮説のひとつとしておもしろく読んだ本に、ジェラルド・M・エーデルマンの『脳は空より広いか』(草思社)があります。エーデルマンは抗体の化学構造に関する研究でノーベル医学・生理学賞を受賞した学者ですが、功成り名遂げた学者がその学問的余生において脳に関心を向けるのはよくあることですから、門外漢として排斥するにはあたらないでしょう。
 彼の仮説は、次のふたつ、すなわち神経細胞群選択説=TNGS(Theory of Neuronal Group Selection)とダイナミック・コア仮説です。
 “TNGS”において鍵をにぎるのは、「再入力」という概念です。
 エーデルマンは、脳内のネットワークが形成されるとき、神経回路の自然選択がおこると考えました。ここで再入力とは、単純なフィードバックではなく「いくつもの脳領域を結びつける並行的、同時進行的な信号伝達であり、行ったり来たりくり返し行われる信号のやりとりである」とされます。ここで再帰性をもって結びつけられるのは、ひとまとまりのニューロン群です。その結果、脳のさまざまな場所で起こっているニューロン活動が「同期」することになります。
 かくして「高等な脳では、再入力による相互作用で結びついたニューロン群が淘汰選択の単位」となります。エーデルマンによれば、こうしたTNGS仮説を裏付ける実験データや研究報告は、すでに多数あるとのことです。
 あらゆる意識活動の局面で、その都度こうした淘汰選択が起こるのですが、そのさい脳は「縮退」のメカニズムを利用します。これは、脳においては、構造の異なる複数のニューロン群が、同じ出力に対応することを指します。この仮説を採るならば、ある人のことを考えたときだけ発火する、いわゆる「おばあさん細胞」のような、細胞ごとの固定的な役割を考える必要はありません。なぜなら、縮退によって、異なったニューロン群が同じ機能を生みだすことができるからです。
 私がずっとこだわっている脳のハード面とソフト面のギャップをうまく説明してくれるという意味では、この仮説にも一定の説得力はあります。
 それでは、もうひとつの「ダイナミック・コア」仮説とはなんでしょうか。
 これは「主に(すべてではない)視床-皮質系の内部で、再入力によってダイナミックに変動しながら相互作用するこの機能クラスター」のことです。これは神経系のどこかに局在するのではなく、さまざまなニューロン群が縮退のメカニズムによってその都度ダイナミックに対応するような、同一機能を持つクラスターを指しています。
 ダイナミック・コアによって、外界や脳内からの信号は統合的に結びつけられ、その活動はさらに「高い次元の識別」を可能にします。その識別こそがクオリアである、とエーデルマンは主張するのです。
 この仮説をここで紹介したのは、エーデルマンがクオリアの説明において、ニューロン群の機能的同一性のみを重視しているからです。茂木さんは前回のお手紙でも、
ある特定の神経活動のパターンに、ある特定のクオリアが対応するというのは、そうでなければならないという理由はなかったという意味において「偶然」であり、しかし、現にそうなってしまっているという意味においては「必然」であり、そのような意味において徹頭徹尾「偶有性」が支配する領域なのか? この問題こそが、「クオリア」と「偶有性」の関係を考えるうえで重大な意味を持つと私は考えます。
(往復書簡、第4信より)

 と書かれていますが、これは以前から提唱されているクオリアの先験的決定の原理(相互作用連結なニューロンの発火パターンと、クオリアのあいだの対応関係は、先験的に決定しているとするもの)が前提となっていますよね。
 局在論にはこだわらない茂木さんが、かくも安定した対応関係にこだわられるのはなぜなのでしょうか。私にはエーデルマンの仮説のほうが、たとえば「脳のない男」の例が示すような脳の機能的柔軟性や高い代償性をうまく説明するように思うのですが。
 しかし、残念ながら、エーデルマンが快調なのもここまでです。彼はここから一気に、「ホムンクルス」や「哲学的ゾンビ」を成敗しはじめるのですが、だんだん議論の雲ゆきは怪しくなっていきます。
 知られるとおり「哲学的ゾンビ」とは、「意識を持たないゾンビにも意識を持つ人間とまったく同じ行動が可能か?」という思考実験です。これに対してエーデルマンは、コア・プロセスC’には必然的に意識Cがともなうと主張します。Cの存在によって、個体同士のコミュニケーションが可能になったから、というのがその理由です。
 しかし、それではまったく不十分でしょう。意識Cがコア・プロセズC’の反映であるのはよいとしても、その反映がなぜ必然的であるのかの説明になっていないからです。むしろこの仮説は、<C’だけあってCがないゾンビ>の存在可能性を補強するものになりかねません。
 これは、考えてみれば当然のことです。エーデルマンの議論は最初から、意識(=クオリア)の存在を前提として成立しています。それゆえ彼の議論は「なぜ意識があるのか」を説明できても、意識の実在性そのものを問題にすることはできません。
 これは、なにもエーデルマンにかぎった問題ではなく、ペンローズやダニエル・デネット、あるいはクリストフ・コッホらの仮説についても、まったく同じことがいえます。どれほど精緻に意識のメカニズムを解きあかしたところで、その実在性を証明できないという一点において、原理的困難を抱えこんでしまうからです。これすなわち“主観の存在を客観的に証明せよ”というアポリアです。
 現に「哲学的ゾンビ」問題の提唱者であるディビッド・J・チャーマーズ自身、こうした還元論に対して、根本的批判をおこなっています。
 「意識の存在はどこまでいっても、構造や力学の事実に照らして見たその先にある事実であり、したがってどこまでいっても、物理的な記述では説明されないままに終わる」(『意識する心』白揚社)と。
 しかし、当のチャーマーズが到達したのは、「汎心論」という途方もない――ほとんど「ちゃぶ台返し」じみた――仮説でした。
 彼は「あらゆる情報が経験と結びつく」という前提から、サーモスタットにも意識がある、と主張します。これはもちろん、サーモスタットに知性や自意識があるといった意味ではありません。ただ、そこに「経験」があるという可能性に、われわれの注意を差しむけようとするのです。
 汎心論で私がもっとも重要と考えるのは、次のくだりです。サーモスタットには意識の場所がないという反論に対して、彼はこう主張します。
「いくら詳しく調べても、システム内に意識を見いだすことはけっしてできないだろうし、われわれはつねに、意識を持ちださなくても処理プロセスを理解できるという教訓である。もし意識が論理的に付随していないのであれば、われわれはシステムの構成に意識が収まる<場所>が見つかると期待すべきではない。意識はシステムの処理特性とはまったく別個のものなのである」(チャーマーズ、前掲書)

 意識があるとしかいえないような存在(人間ですね)における意識の証明の困難さは、およそ意識がありそうもない存在における意識の存在を否定する困難さと対になっています。
 電子にすら意識があるとする汎心論において、意識の問題は実質的に消滅します。ここではっきりわかることは、あらゆる存在に意識があるという想定が、反転された独我論(「あらゆる存在は意識の産物である」)にほかならない、ということです。もしそうであるなら、それを論理的に否定することはできません。
 かくして問題は、理論のレベルから価値判断のレベルに踏みこむことになってしまい、そこから先は神学論争があるばかり、ということになるでしょう。
 まったく同じ意味で、「哲学的ゾンビ」の議論も、独我論の反転形です。こうした、主観と客観とのギャップを利用した思考実験はいろんなバリエーションがつくれそうですね。たとえば、〈脳がないのにあるかのように振る舞う精神分析的ゾンビ〉や、〈存在していないのに存在するかのように振る舞う独我論的ゾンビ〉の存在すらも、考えるだけなら可能です。
 意識の問題と同様に、いままさに感じられるこのクオリアを証明するのに、「いままさに感じている」という根拠しかないのはもどかしいことです。主観を自明の前提とできる精神分析、あるいは精神医学の側からいえば、クオリアとは感覚のメタ認知という意味において、心の象徴システムがもたらした現象といえます。
 それゆえにこの感覚は、離人症(ただし現実感喪失タイプの)のような器質的基盤を持たない疾患においても障害されるのでしょう。離人症患者の訴える「見えているのに現実感がない」という言葉は、そのままメタ認知の障害を意味するでしょうから。
 ところで、哲学的ゾンビとほぼ同形の思考実験として、哲学者ジョン・サールの「中国語の部屋」があります。これは茂木さんも前回言及されたアラン・チューリングによる「チューリング・テスト」の発展形です。人工知能批判としてしばしば引用されますが、意識の問題を考える場合にも有意義な思考実験です。
 いちおう概要を記しておきましょう。
 小部屋の中に中国語が理解できない人が入っていて、ちいさな窓から紙切れがやりとりされます。中の人は外から差し入れられた得体の知れない記号(漢字)の羅列を見て、手もとにある分厚いマニュアルにしたがって返事を書きます。そのマニュアルには、どんな記号にどんな記号を付けくわえればいいかが完璧に書かれているのです。それゆえ部屋の外の人からは、中の人が完璧に中国語を理解しているように見えます。しかし実際には、中の人は自分がしている作業の意味をまったく理解していません。
 これはようするに、統語論的には完璧に中国語をあやつれるのに、その意味はまったく理解していないという事態が可能かどうか、という議論に置きかえできますね。また理解を意識に置きかえるなら、この小部屋そのものが「哲学的ゾンビ」のモデルともいえます。
 おそらく言語学的には、“理解抜きの機能”という想定が可能になるのでしょう。しかしラカン的に考えるなら、こうした事態は単に不可能です。象徴界が「意味」を発生するための示差的体系である以上、統語論と意味論の厳密な分離はありえないからです。たとえば、ジョン万次郎がどうやって英語を身につけたかを考えてみれば、これはそんなに荒唐無稽な話ではないでしょう。
 それゆえ統語論的な理解が完璧になった時点で、意味論的な理解も可能になっているはずです。言いかえるならこれは、意味論抜きの純粋な統語論は――権利上はともかく――事実上はありえない、ということでもあります。
 さらに、現実問題として考えるなら、そもそもこうしたマニュアルは作成不可能です。それは人工知能の現時点での不可能性と同じ理由によるでしょう。正常な対話が成り立つためには、「文脈」(「空気」をふくむ)の理解が欠かせません。しかし、前回も述べたとおり、コンピュータは文脈を理解しません。それは私たちが「なぜ文脈を理解できるのか」が解明されていないためでもあります。
 ということは、逆のこともいえます。もし「中国語の部屋」との対話が自然に成立してしまっているとしたら、それは中の人が文脈を理解していることを意味します。文脈を理解しているのに意味を理解していないという事態はありえません。よって、意味をわからずに対話が成立し続けることはありえない、という結論になります。
 なかば戯れ言としていうのですが、もし量子コンピュータが完成したら、あるいは文脈理解も可能になるのかもしれませんね。なぜなら文脈理解とは、潜在する無数の可能性を、瞬時に単一の意味に収束させることなのですから。そして、その収束の方向は、人間関係(観測者)によって多大な干渉を受けるのですから。
 話を元にもどしましょう。「中国語の部屋」の思考実験に精神分析的な発想を持ちこむことでわかるのは、意味の理解、すなわち“意識”の必然性です。もっともこれはまだ、哲学的な意味での必然性の証明、というわけではありません。
 ここで私が主張しておきたいのは、意識の成立における「言語」(≒シニフィアン)の決定的な重要さについて、です。意識とはすなわち“自意識”のことであり、自意識が問題となるのは差しあたり人間においてのみですね。前回のお手紙で述べた意味での“人間”(ネイティリとうちの猫をふくむ)だけが、記号ならざる言語の使い手であることと自意識の問題は、おそらく不可分の関係にあります。
 フロイトは意識を「心的装置の表面」と見なします。このとき彼は、きわめて重要な指摘をしています。「なにかが、いかにして、意識されるかという問題は、より目的にかなったかたちで述べれば、なにかが、いかにして前意識的になるかということである。その答は、それに対応する言語表象との結合によって、となるであろう」(「自我とエス」『フロイト著作集第6巻』人文書院)。
 このようにフロイトは、意識の成立において、単なるイメージ――それは言語表象の視覚的部分として二次的なものと見なされる――ではなく言語表象そのものの重要性を強調するのです。

■自己言及と計算不可能性

 意識と言語の関係を検討するに先だって、ここで意識問題のもうひとつの側面である「自己言及」について考えてみましょう。
 システム現象学の提唱者である河本英夫氏は、意識の出現を一種の「相転移」と見なします。それは「相転移以前の状態をどのようにしても知ることのできない相転移」とされます。
 このため意識は、「みずからの由来を問うことができない。そのため意識は、みずから感じとるものだけを知ることができる。すくなくとも意識は、みずからの活動をそれとして感じ取ることができ、みずから自身を知ることができ(自己意識)、みずからをひとつのまとまりとして感じることができ、みずからの前史を解消し、さまざまな情報に対しての選択的制御(集中したり、緊張をすこし緩めたりという制御)のような働き、そして意識は意識以外のものへと向かうという働き(志向性)を行っている」(『システム現象学』新曜社)。
 河本氏の理論は、精神分析的な意味での言語の特権性についてはそれほど重視していません。この点では私の立場とは異なるものですが、ここでの意識の記述にはおおむね賛同できます。
 私の立場から付けくわえることがあるとすれば、ここで指摘されていることは、いわば意識に本来的に備わっている「メタ志向」です。フッサールが指摘したように、意識はつねに「~についての意識」なのですから。そのかぎりにおいて、意識とは空の器であり、この器は何重にも重ねることができるでしょう。
 ここで問題となるのが「自己言及」ですね。
 私は自意識の存在を、人間の「自己言及」回路を正確に機能させないバグのようなもの、あるいは、「自己言及する自己」と「自己言及される自己」の差分がもたらした効果のようなものではないか、と考えることがあります。この推測が正しければ、意識はまさに言語的な構成物ということになるでしょう。
 以前もちょっと触れたように、「私」についての「自意識」は、「私」そのものの正確な反映ではありません。デカルトのコギトについていえば、「思う我」と「在る我」はけっして一致しません。つまり、真の「自己言及」は不可能なのです。
 なぜなら一人称にかぎらず、「自己」を限定するものはつねに言葉であり、言葉は必然的に隠喩的な“不正確さ”を帯びてしまうからです。ですから、自己言及のパラドックス――前回例に出した「クレタ島人のパラドックス」のような――は、論理学や哲学のコンテクストにおいてしか成立しません。
 さきほど引用した河本氏にいたっては、自己言及問題について、それは深刻な哲学的問題などではなく「ギャグ」にすぎないと喝破しています。
「言明そのものが自己に関与するはずもなく、言明間の関連づけを行っているのは言明の外にいて操作を行っている観察者であり、厳密にいえば、言及している『自己』の範囲に観察者をふくめなければならなくなる。観察者をふくめたネットワークで見るべきとき、言明だけの自己言及では何を言い表したものかただちに不明になる。なにか意味ありげなネットワークの一部を作為的に取りだしたにすぎなくなるからである。これがギャグだと感じられる本当の理由である」(河本、前掲書)

 言明の不完全性ゆえに、正確な自己言及はありえない、ということ。しかしそれをいうなら、言語の介在しない生理的メカニズムとしてのフィードバック(ホルモン分泌の調節のような)がそうであるように、いかなる再帰性も自己言及も、つねに自己の一部が別の一部に関係する、という形式でしかありえません。
 だからここで問題となるのは、言葉がもたらす「全体性」の錯覚のほうにあるでしょう。この錯覚を全面的に信ずるかぎりにおいて、はじめて自己言及のパラドックスが成立するのですから。
 今回の議論にからめていえば、ウィトゲンシュタインとチューリングの対話が両者の対立点を示していて興味深く思われます。ご存じのとおりチューリングは、ケンブリッジでウィトゲンシュタインの講義に参加していました。
 数学の中で自己言及問題のような矛盾があったとしても、なんらまずいことはないと言いはなつウィトゲンシュタインに、チューリングは反論します。矛盾をはらんだ数学が応用されれば橋が落ちるのだ、と(星野力『甦るチューリング コンピュータ科学に残された夢』NTT 出版))。
 ウィトゲンシュタインの写像理論は、チューリングマシンの発想にも影響したといわれていますが、この種の矛盾に対する態度はかなり対照的ですね。しかし、例の「語りえないもの」への問題意識は、チューリングにおける「計算不可能性」の問題に潜在的に受けつがれたと考えるのは、こじつけが過ぎるでしょうか。
 ちなみに、さきほど計算不可能性のところで触れた「停止性問題」というのは、せんじつめれば、あるプログラムがそれ自身をふくむ系をつねに正しく処理できると仮定するとかならず自己矛盾を引き起こす、という問題です。これを、ある系それ自体の正当性をその系の内部で証明することはできない、と言いかえるなら、ゲーデルの第二不完全性定理そっくりの言いまわしになりますね。実際、両者の証明の手順はかなり似ていたそうですが。

■偶有性から自意識へ

 かくもハード・プロブレムの中核をなしている自己言及問題ですが、同じくハード・プロブレムである自意識やクオリアの問題と、いかなる関係があるのでしょうか。
 お待たせしました。ここにおいてようやく“偶有性”が問題となるでしょう。
 茂木さんの定義によれば、“必然と偶然の中間”である偶有性は、徹底して言語以降の問題です。なぜか。茂木さんは脳にとっての偶有性を、たとえば次のように表現しますよね。
 あるアクションを起こすと、ある特定の感覚フィードバックがあることが通例である場合でも、その期待が「裏切られる」こともある。あるいは、通常の場合には随伴しないような刺激どうしが、同時に起こることもある。脳は、そのような場合に、みずからつくった仮説と一致しない外界の事物を切り捨ててしまうことはせずに、むしろ自分の仮説モデル自体を修正し、新たに提示された外界の姿に合致させようとします。
(往復書簡、第4信)

 つまり、ある行動がある感覚フィードバックを起こすか起こさないかが不確実である。にもかかわらず、脳はいかにして学習と適応をなしとげるのか。そういう問題ですね。
 すみません、私にはこれ、典型的な「偽の問題」に見えるんですが。
 結論から言います。脳にとっては、ある感覚フィードバックが「ある」ことだけが問題なのです。フィードバックが「ない」ことは脳にとって問題ではありません。つまり、「ない」ことは「ない」として認識されません。なぜでしょうか。
 「ある」ことと「ない」ことが同じくらい問題になるのは、それが言語として表現された場合のみです。脳は言語の介在なしに「否定」を理解できません。人生において「なかったこと」(なくしもの、死別、失恋など)が一大事になるのは、われわれが徹底して言語的存在であるからです。逆に、子どもや動物が「死」を理解できないとされるのは、彼らが十分には言語的存在ではないからです。
 茂木さんが出された「ラバー・ハンド・イリュージョン」でもよいですし、私の連想でいえば「逆さ眼鏡」の実験でもいいんですが、この種の錯覚に脳が適応できるのは、おそらく脳が柔軟だから、ではありません。脳がバカだからです。すみません言いすぎました。脳が「否定」を理解できないから、ではないでしょうか。
 私の考えるところでは、これらの実験のおもしろさとは、被験者が「意識では違うとわかっているのに、脳が勝手に錯覚してしまう」という不随意性を意識できる点にあると思います。このとき脳には、錯覚をもたらすような感覚刺激と、それが錯覚であるという否定的な自意識とが同時に流れこみます。にもかかわらず、なぜか脳は(まちがった)感覚刺激のほうにだけ適応して、錯覚が生じてしまう。
 もっとも、われわれが単なる光の点滅を「映画」として楽しむことができるのは、この錯覚しやすい脳のおかげですから、これは悪いことばかりではありません。
 こうした錯覚が起こったり起こらなかったりするというのなら、確かに“偶有性”は問題でしょう。しかし、ほぼ決まって、この錯覚は生じますよね。つまりこの錯覚は、言語の助けなしでは「否定」を理解できない脳が、必然的に起こすものではないでしょうか。
 整理すると、こういうことです。おそらく脳単独では「偶有性」は問題にならない。そこに言語が介在して、はじめて「偶有性」は理解可能になる、と。
 ところで茂木さんは、今回スピノザを引用されました。
 それに対して、人間という存在は「有限」のものである。したがって、人間という存在は、「偶有的」(contingent)なのだと、スピノザは論じます。ある人間が、ある名前と性質を持って存在するということは、必然的なことではない。どんな人間も、「偶有的」な存在にすぎない。ある人間が、ある姿かたちで存在するということには、なんらの必然性も存在しない。そのようにスピノザは断じるのです。
(往復書簡、第4信)

 あのう……ここで使われている「偶有性」は、どう考えても普通に「偶然」のことだと思うんですが……。だってこれ、汎神論のもとで究極的にはすべてが必然である、とするスピノザ哲学における「様態」の話ですよね。だったら茂木さん定義の「偶然と必然の中間」とかとは、なんの関係もない話だと思いますよ。
 でも茂木さんがスピノザの考えに親近感を抱くのは、なんとなくわかります。万物が自己保存のために一生懸命がんばる力(コナトゥス)のもとにある、なんて発想には、まさに「神に酔える哲学者」ならではの肯定性がありますよね。
 それはいいんですが、ここを読んで、私はやっぱり茂木さんの「偶有性」という言葉は、粉飾された「必然性」のことではないかと思いいたりました。
 「偶有性」を問題にする方々は、茂木さんをはじめ、なぜかみなさん、それを「楽しむ」ことを勧められる。これ、自己啓発的には正しい態度かもしれませんが、科学的、あるいは哲学的にはどうでしょうか。本来、これは価値中立的な言葉ですよね。ということは、楽しい偶有性もあれば悲惨な偶有性もあるわけで。
 早い話が、茂木さんや私が突然「うつ病」に罹患することだって偶有性の問題です。じゃあ、そのときは「うつ」を楽しもう、とお考えですか? もちろんそんなことは無理です。まず楽しむ機能がやられてしまうのがうつ病なんですから。
 つまり、偶有性を楽しもうというスローガンは、とりあえずいろんな意味で足場のしっかりした方々が、自分の足場が崩されてしまわない程度に、いろんな不確実性のスリルを楽しみましょう、と主張されているに過ぎず、ようするに「リア充爆発しろ」という話なので、私はちょっと乗れません。
 そういうわけで、やはりここからは「偶然」の意味で「偶有性」を使いたいと思います。
 スピノザの発想は、近景すなわちオブジェクトレベルでは偶有的に見える事象も、遠景すなわちメタレベル(神の視点)からは必然であるというふうにもとれます。
 これ、否定の機能によって作動する言語に「メタ言語がない」ことと、メタ志向を持つことで「学習」と「文脈理解」を可能にしている脳単独の機能という分業と無関係ではありません。
 繰りかえしますが、「偶有性」は言語的にしか理解されえず、脳はすべての事象を「必然性の度合い(≒確率分布)」でしか理解できないからです。じつはこの箇所は、私がずっと構想中である〈主体における記述可能性としてのPS/OS理論〉の応用なのですが、その説明は煩瑣(はんさ)になるので省略します。
 もし関心がおありでしたら、どうか拙著『文脈病』(青土社)をご参照ください。
 さて、前回のお手紙で、私はルーマンを引用しつつ、社会や主体の起源を、通常の因果律のもとで解明することは原理的に不可能であると述べました。これは、今回述べた「重層的決定」や「構造的因果性」の話題にも関係します。
 脳と意識の関係を解明する場合にも、同じ困難が指摘できるのかもしれません。
 違うところがあるとすれば、それは意識が、諸学において自明の前提とされている点でしょうか。“観察者の意識”なくして、いかなる科学も成立しえないように。そのなかでほぼ唯一、意識そのものの根拠や実在性を問題にできる領域が「哲学」でしょう。チャーマーズが提出した「哲学的ゾンビ」の問題が反転した独我論であったように。
 コンピュータのOSは、そのプログラム領域が勝手に書きかえられないように保護されています。意識とはいってみれば、このOSのようなものです。ウィルスでOSが書きかえられたらパソコンが作動しなくなってしまうように、意識そのものの前提を疑いだしたら学問アプリケーションが立ちあがらなくなります。
 哲学的問題でしかないゾンビが、脳科学者をおびやかすのは、意識の存在論までが脳科学者の守備範囲であるという誤解にもとづいているように思います。ですから、ここにおいても「領域保護」が必要になるでしょう。
じつは、私が「語る存在」はすべて人間と見なすべきである、としたのには、そうした含意もあります。
 脳科学が意識のメカニズムを解明しえたとして、それを再現するシステム(プログラムなりロボットなり)を構築したとします。このシステムが「意識を持った」と証明するには、なにが必要となるでしょうか?
 私は医師として、救急隊に搬送されてきた患者の「意識レベル」を判定することがあります。ここで重要になるのは、患者が疼痛刺激に反応するか、呼名に反応するか、そして居場所や日時などの見当識を“語りうるか”、ということです。そう、臨床の現場において、“語り”によって“意識の存在”が判定されるということ。
 ここで、哲学的議論をすべきではありません。それは袋小路です。私からの提案はおわかりでしょう。システムが「語る存在」であるのなら、そのシステムは自意識を持っている。この判定ルールを採用することで、脳科学の「領域保護」は可能になるでしょう。
 おっと、「そりゃ『チューリングテスト』だーッ!」というツッコミは想定の範囲内ですが、ちょっと違いますね。チューリングテストは、観察者との「対話」によって知性の有無を判定しますが、こちらの「精神分析テスト(仮称)」では、「語り」に「内省」あるいは「自問自答」がふくまれていることを重視しますので。
 こうした前提で私なりの「意識」のメカニズムを考えるなら、まさにここにおいて「偶有性」が問題となるのでしょう。
 言語的な主体があらゆることを偶有性の相のもとで経験し、その一方で器質的な主体(「脳」ですね)がすべての刺激を必然性の相のもとで認知すると考てみます。ここに必然的に生ずる「ずれ」において、自己言及問題のパラドックスは回避されるわけですが、なんらかの統合機能をメタレベルに置かないことには、主体はバラバラになってしまいます。
 前回も触れたアスペルガー障害当事者の手記によれば、感覚を言葉に“まとめあげる”機能なくしては、「空腹感」も理解できないと言います(綾屋紗月、熊谷晋一郎『発達障害当事者研究 ゆっくりていねいにつながりたい』医学書院))。彼らがしばしば混乱におちいるのは、ここでいう「言語的な主体」の機能になんらかの問題があるためかもしれません。
 あるいは、精神科医の中井久夫氏が精神健康の目安として挙げる「世界の中心であるとともに世界の一部(という感覚)」というバランスの問題もあります。
 自分が“かけがえのない個人”であると同時に、“霊長類ヒト科ホモ・サピエンス”に分類される個体であるということ。固有性と匿名性。これらの、まったくベクトルの異なるふたつの認識が、認知的不協和もおこさずに成立することは、われわれが偶有的不安や必然的絶望のいずれにも落ちこまずにいられることと、同じ原理によるのでしょう。
 おそらく意識は、主体におけるこうしたふたつのベクトル間の不協和によって生じ、不協和を調停することで透明化します。神経症のような自意識過剰も、都知事のような無意識過剰も、それぞれの問題を抱えうるとすれば、意識の両義性はあきらかでしょう。
 この不協和を構成するという意味で、偶有性は意識の糧であり、同時に意識の排泄物でもある。意識と偶有性の関係について、差しあたり私はそんなふうに考えていますが、すでに大幅に枚数を超過してしまいました。これ以降の議論については、機会を改めて展開できればと考えています。

■おわりに

 さて、長いようで短いようで、でもやっぱり長かったこの往復書簡、これが私から茂木さんへの最後のお手紙になります。
 対立を固定したくないという茂木さんの趣旨に逆らうように、最後まで対立点に粘着する私の姿勢は、いささかおとなげなかったかもしれません。しかし私は、けっして些細な揚げ足取りばかりしていたつもりはありません。
 やりとりをつうじて私が問いをぶつけていた相手は、ひとり茂木さんばかりではありません。やみくもに生物学主義を奉る精神科医であったり、あまりに還元主義的な脳科学者であったり、無意味なほど楽観的な決定論者たちであったりと、さまざまな「仮想敵」を茂木さんの背後に見ていました。
 彼らが茂木さんの「援軍」として、うしろから、あるいは横から私の所説を批判してくれることも、じつは期待していました。いまのところそうした反響はほとんどありませんが、この挑発的な第5信が掲載されればあるいは……と期待しています。
 しかし茂木さんは、やっぱりいろんな意味で「いい人」なんですね。ここまでアイロニーと無縁な文章は、なかなか書けるものではありません。きっと茂木さんは私と違って、文章のどおりの人、というかキャラなんでしょう。アイロニーを禁じられたら一行も書けない私とは、やっぱり大違いです。
 その一方で、私たちのやりとりにおける私の“性格の悪さ”については、満場一致で可決されることもまちがいありません。ときとしてネットは、残酷なほど正確な鏡像を与えてくれますが、いまさら性格は変えられません。せいぜいこの往復書簡を、今後の「論争よけ」として活用させてもらうつもりです。
 しかし、いろいろ紆余曲折はあったものの、結果的に私はこのやりとりを楽しんでしまいました。量子だ宇宙だという「デカい話」をする機会に、ちょっと飢えていたのかもしれません。
 こういう議論は不毛とみる方もおられるようですが、私はまったくそうは思いません。誹謗中傷や人格攻撃をしないというルール設定さえしっかりしていれば(私、守れてましたよね?)、議論はきわめて生産的な機会になりえるでしょう。
 私の考えでは、論争の目標は説得や論破ではありません。それは、相手の言葉で自分の立論が語り直されるという特異な経験です。紙の裏から眺めるとデッサンの狂いがわかるように、語り口を変えることで自分の立場の偏りが見えることもある。
 現に私は、もし茂木さんからの問題提起がなかったら、「クオリア」や「偶有性」について考えることもなかったはずです。さらにこの問題は、私がずっと考えているOS/PS理論においても、新たな展開の糸口をもたらしてくれそうです。そのことに感謝したいと思います。
 もちろん「クオリア」は幻想だし、茂木さんが定義する「偶有性」は依然として腑に落ちません。しかし、茂木さんとの手紙のやりとりは、掛け値なしに有意義なものでした。
 茂木さんからの最後の返信を、心待ちにしています。

斎藤環

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