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<title>書籍出版 双風舎：【連載】「脳は心を記述できるのか」</title>
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<title>第6信　人間の自由について</title>
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<description>＜茂木健一郎から斎藤環への手紙＞ ■不同意であることを同意する 　斎藤環さま。 ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;＜茂木健一郎から斎藤環への手紙＞&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■不同意であることを同意する&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　斎藤環さま。&lt;br /&gt;
　とても興味深いお手紙を、ありがとうございました。&lt;br /&gt;
　私たちの祖先は、アフリカで誕生し、それから世界各地に散らばっていったと考えられています。遠くへ、もっと遠くへと赴こうとするのは、どうやら私たちの本能のようです。物理的空間だけでなく、概念の世界のなかにおいても。できるだけ、遠くにいくには、どうすればよいか。斎藤さんの議論を拝読しながら、なぜかそんなことを考えていました。&lt;br /&gt;
　議論をするということの意味は、いったいなんでしょう？　斎藤さんは、依然として私の観点の多くに同意できないといわれる。私は、それでもよいのかもしれないと思います。そもそも、多様性を育むことをよしとする現代において、共感とか同意などだけに価値を置く必要はないと考えるからです。&lt;br /&gt;
　むしろ、お互いの立場がどれほど離れているかを確認する。そうして、とりあえずは、その差異を認めあって、それぞれの人生を生きていく。そのような論争があっても、よいのではないでしょうか。&lt;br /&gt;
　多様性を認めあうことは、たとえば、政治的な文脈においては、成熟した民主主義の不可欠な要件であるようにも思われます。&lt;br /&gt;
　斎藤さんの最後のお返事をいただいたあと、どんなお返事を書こうかと思いをめぐらせながら、私はアメリカ合衆国を旅していました。移動の車内で、乗りあわせた「トニー」と「ピーター」のふたりが議論を交わしているのに、耳を傾けていました。&lt;br /&gt;
　トニーはかつて海兵隊に所属していて、沖縄にも何年かいたそうです。政治的な信条はどちらかといえば保守的で、政府があまり人々の生活に介入すべきではないという立場をとっている。はっきりとはいわなかったけれども、トニーは、共和党の支持者のようでした。一方のピーターは、古生物学を専門とする研究者。政治的な信条はどちらかといえばリベラルで、民主党の支持者のようでした。&lt;br /&gt;
　トニーは、高校を中退して、海兵隊に入りました、当時、母親とうまくいっていなかったのだそうです。トニーはなげいていました。「私が、かつて、その価値観やシステムを守ろうとした国は、もはや存在しない」と。&lt;br /&gt;
　トニーは、オバマ大統領の政策が、気にくわないようでした。「小さな政府」を支持するトニーにとっては、医療保険制度改革などにおけるオバマ大統領の政策は、がまんができなかったのでしょう。「私は、オバマを、私たちの大統領とは認めない」とトニーは言いました。「だから、私は、オバマを、オバマ大統領とは決して呼ばない。ただ単に、オバマと呼ぶ」トニーは、そのように断言したのです。&lt;br /&gt;
　それに対して、ピーターが静かに反論しました。「そんなことはない。オバマは、君の大統領でもある。彼は、民主的な選挙によって、多数の人々に選ばれたのだ。私は、ブッシュの政策が気にくわなかった。しかし、ブッシュも、まちがいなく私の大統領だった。それと同じように、オバマも、まちがいなく君の大統領だよ」&lt;br /&gt;
　トニーは納得しません。「オバマの問題点は、軍の経験がすくないことだ。だから、軍人の気持ちがわからない……」&lt;br /&gt;
　トニーの話を聞きながら、ピーターは、首を振ります。ふたりの意見が一致することは、なさそうです。&lt;br /&gt;
　トニーとピーターが、まったく異なる立場を貫きながらも、なおもお互いに議論を重ねるという姿勢をけっして忘れないこと。その様子は、感動的でさえありました。「同意しないということについて、同意する」（agree to disagree）という精神が、トニーとピーターのふたりの対話から、自然ににじみ出ているように感じたのです。&lt;br /&gt;
　重要なこととして感じたのは、トニーとピーターの政治的信条が、それぞれの人生の履歴や、そのうつろいのなかで経験してきたこと、現在置かれている環境などから「必然的」に導かれてきたことだということです。それぞれがそのような立場をとるということは、そうでなければならなかったわけではないという意味においては偶然であり、現在そうなってしまっているという意味においては必然でもある。それぞれの存在の、身体性をともなう重みをありったけ乗せて、固有の見解が披露されつつある。つまりは、それぞれの人の意見は、この世界における起こりえる経験の多様性を反映しています。&lt;br /&gt;
　そのような意味において、トニーとピーターの見解は、「相補的」です。アメリカの今後の政治的方向性をめぐる、さまざまな見解。それぞれ視点が異なる見解が組みあわさることによってバランスのとれた像を描くことができる。トニーが代表する政治的見解だけでも、ピーターの背後にある政治的な傾向だけでも、どちらだけでもアメリカ政治を語ることはできない。両者がお互いに補いあって、妥協し、場合によっては融合しあってこそ、時代の要請にしたがってフレキシブルに変わる政策が実現できる。&lt;br /&gt;
　トニーとピーターのように、異なる意見を持つふたりが自由に議論できるということこそが、アメリカの民主主義の持っている強さであるとさえ感じたのです。&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;■物理主義を経由することの意義&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　政治的な文脈における対論だけではありません。科学的な文脈における論争においても、安易に意見を融合させないことが、ときに有意義であるように思われます。&lt;br /&gt;
　ひとつ前の私のお手紙でも触れましたが、量子力学の本性をめぐって、かのアルベルト・アインシュタインとニールス・ボーアが意見をたたかわせた世に名高い「ボーア・アインシュタイン論争」は、ふたりの「知の巨人」が、量子力学についてそれぞれの見解を述べ、一歩も譲らなかった興味深い対論でした。量子力学の標準を築き上げた「コペンハーゲン解釈」の中心人物ボーアと、異を唱えたアインシュタイン。ふたりの主張のぶつかり合いから、私たちは、量子力学という重要な知的体系の全体像を読み解くことができます。&lt;br /&gt;
　ひとつ前の斎藤さんへのお手紙で、私があえて物理主義や計算主義にくわしく言及したのは、そのようにしなければクオリア問題ついての（私が理解するところでの）文脈づけができないように感じたからです。クオリアが、いかに驚異の問題であるかということは、物理学における方程式によってこの世界のさまざまな物質の振る舞いが、いかに精緻に記述できるかということを一度は認識したあとでないと、十分には受けとめられないことのように思います。&lt;br /&gt;
　物理的世界観は、私たちを遠くに運んでいってくれました。量子力学の持つ予言能力は、驚くべきものです。アインシュタインの統一場理論構築の努力、最近の超ひも理論、超膜理論の発展など、次々と新しい知的フロンティアが現れ、私たちを遠くに連れていってくれました。&lt;br /&gt;
　そしていま、さらに遠くにいくためには、クオリアや志向性といった、心の属性の問題に取りくまなくてはならない、と私は信じています。物理主義の枠内で、「万物の理論」（theory of everything）を目指す試みとはすこし異なる方向のベクトルを、心脳問題は示している。そのことがいかに「驚異」であるかということは、一度「物理主義」を経由しなければ、十分には認識できない。そのようにも感じるのです。&lt;br /&gt;
　「クオリア」に象徴される心脳問題の解明こそが、人類にとっての真の知のフロンティアである。そのように感じて、私は、1998年に、「クオリア・マニフェスト」という文を起草し、ウェブ上に掲載しました（http://www.qualia-manifesto.com/manifesto.j.html）。&lt;br /&gt;
　私は、クオリアの問題について、自分自身で取り組むだけでなく、広く世間に対しても訴えかけていくことが、私の役割のひとつであると感じています。私は、この往復書簡をとおして、斎藤環さんからいろいろなことを学びました。その一方で、世界の理解の方法論としての物理主義の有効性、そのなかでのアノマリーとしての意識の所在、そうして、その「象徴」としてのクオリアという構図についての私の確信は、一インチも動いていません。&lt;br /&gt;
　だからこそ、ひとつ前の手紙の最後で、私は、「信仰告白」という言葉をあえて使いました。私自身が、その問題を解けるかどうかはわからない。おそらく、解明できない可能性のほうが高いだろう。しかし、私にとっては、あきらかに重要な知的な課題が、そこにある。そうして、その問題の所在を、できるだけ多くの人たちと共有したい。&lt;br /&gt;
　斎藤さんは、この往復書簡をとおして、「同意できない」「反対の意見だ」という言葉をしばしば使われました。本当に正直なところを申しあげると、私は、斎藤環さんがなにを問題にしているのか、最後までわからなかった、といってもよいかもしれません。&lt;br /&gt;
　斎藤さんは、「なぜか量子力学に否定的な茂木さんの姿勢は不可解ですが」という言葉にもあらわれているように、私が量子力学に反対であるらしいというようなことをお手紙のなかで書かれていますが、まさか、そんなことがあるはずもありません。量子力学の現在の形式が最終的なものであるかどうかはわからないにせよ、電子をはじめとする「ミクロ」な世界の出来事に関する予測能力において、量子力学よりもすぐれた形式があるはずもありません。ただ、その「波動関数の収縮」などの問題をめぐって、未解決の理論的課題があると申しあげただけです。&lt;br /&gt;
　物理主義は有効である。だからこそ、私たちは月にロケットを飛ばすことができる。量子力学も有効である。だからこそ、トランジスタをつくることができる。コンピュータも、携帯電話も、液晶テレビも可能になる。この点については、現代文明を生きる私たちの多くが同意するものと思われます。&lt;br /&gt;
　そのような科学的世界観は、むろん有効だけれども、その一方で、私たちが心を持つというやっかいな事実がある。朝目が覚めると、そこに、「意識」を持つ「私」が所在するという顕著な出来事が起こる。心の現象学を、さまざまなクオリアが彩る。これらの、美しくも奇妙なものたちは、いったいどこに由来するのか。そこに、掛け値なしの難問がある。&lt;br /&gt;
　それから、言葉の「意味」の問題がある。とくに、「意味論」の深淵がある。言葉の意味は、私自身の体系でいえば、それが意識に「志向的クオリア」に属することとなります。複雑とは言いながら、単なる物質のシステムにすぎない脳の活動から、いかに意味を持った言葉が生まれるのか。ここには、確かに、心脳問題と同型の難問があります。&lt;br /&gt;
　どうやら、言葉は、斎藤さんご自身の情熱の由来するところのようです。言葉について、斎藤さんがこれまで書かれ、そうして今回の往復書簡で述べてこられたことは、私に多くの学びをもたらしてくれました。&lt;br /&gt;
　クオリアにくわえて、言葉の問題が難問であることは、私自身、『脳とクオリア』、『クオリア入門』、『心を生みだす脳のシステム』、『意識とはなにか』などのこれまでの著作で繰りかえし触れてまいりました。とりわけ、言葉の「意味」の持つ重大な意義については、重々承知しているつもりです。&lt;br /&gt;
　それでも、私の論調のどこかが、斎藤さんの「心の音楽」と合わないようでした。ごめんなさい。&lt;br /&gt;
　「クオリアの実在性から出発するのは、天動説の現代版だ」とか、「クオリアは言語活動がもたらした幻想の一種ですが、言語そのものは幻想ではありません」といった斎藤さんの言葉は、見事な修辞であると感じました。しかし、私は、説得させられませんでした。斎藤さんが、どうやら、言語に特権的な地位を与えているということは伝わってきましたが、それが、物理主義との関係でどのような整合的な世界観に導くのか、私にはただちにあきらかではなかったのです。&lt;br /&gt;
　物理主義や、クオリアの問題についての私の見解は、今日の世界のなかで、それほど珍しく、また孤立している立場ではないと思います。むしろ、意識の問題に関心を持つ研究者のあいだでは、「常識」的に共有されている枠組みだといえるでしょう。私の見解は、そのかぎりにおいては、独創的でもなんでもなく、おそらくは「凡庸」なものです。私の心脳問題に関する現在までの貢献は、物理主義とクオリアの関係についての基本的な考え方の枠組みなどにはなく、「認識におけるマッハの原理」および「相互作用同時性」という、ふたつの概念に絞られると認識しています。&lt;br /&gt;
　それでも、斎藤さんは、私がなんらかの誤った信念に囚われているとお考えのようです。&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;　「そうとしか思えない」とか「私がそう感ずる」という事実は、なんら理論の正当性を保証するものではありません。むしろそれは、「なぜそう思い、そう感じてしまうのか？」という問いとして解明されるべき前提です。（往復書簡、第5信より）&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
　斎藤さんのこの文言には、全面的に同意します。しかし、それは、斎藤さんのいうように、クオリアを言語活動がもたらした幻想だと切り捨てても、なんら解決に向かわないように思います。&lt;br /&gt;
　「茂木さんのクオリアに私がしつこく疑義を呈し続けているのは、それがややもすると、かつての実感主義のほうに取りこまれてしまう危険性があると考えるからです」といった文章や、「コペルニクスの地動説も、ダーウィンの進化論も、そしてフロイトの無意識ですらも、共通しているのはひとつのこと、世界は“いまここ”で見たまま、感じられたままのものではない、という真理の主張にほかなりません」という文章を読みながら、私は、斎藤さんに、私の真意がはたして伝わっていたのか、大いに反省をしました。私自身、クオリアの問題の解明は、まさに、斎藤さんのいわれる「世界は“いまここ”で見たまま、感じられたままのものではない」というところを経由しなければ不可能であると考えているのです。&lt;br /&gt;
　もし将来、クオリアの問題が解明されるとしたら、それは、計算論や、物理主義などの抽象化された世界記述のモデルの系列に属する、なんらかの未知の形式的原理によるものでしょう。それは、斎藤さんが終始批判されてきた「実感主義」からは遠いものになるでしょう。まさに、「世界は“いまここ”で見たまま、感じられたままのものではない」という理屈を経由しなければ、“いまここ”で見て、感じているクオリアの起源は解明できないでしょう。&lt;br /&gt;
　そして、そのような理論体系を、もっとも見事なかたちで提供してきたのは、物理学ではなかったでしょうか。もちろん、私はここでいわゆる「物理帝国主義」の無反省な手下になろうとしているのではないし、いまの物理学の体系で、心脳問題が解決できると楽観しているわけでもない。それでも、私にとっては、どう考えても、物理主義を一端は経由しなければ、心脳問題にアプローチできるようには思えないのです。斎藤さんがかならずしもそう考えないとすれば、そこには、大きな世界観の差があることになります。また機会があれば、ぜひこの点について議論いたしたく思います。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■通奏低音に寄り添って&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　前回のお手紙で、斎藤さんは、ご自身の著書『文脈病』を読むようにと薦めてくださった。あらめて、『文脈病』を読みかえしてみました。&lt;br /&gt;
　私は、斎藤さんの議論を、大いに楽しみました。そうして、あるひとつの思いに囚われました。私は、斎藤さんがたいせつだと思っていることに、もっと寄り添うべきなのではないか。寄り添うべきではなかったのかということです。&lt;br /&gt;
　私にとって、物理主義あるいは計算主義は、この世界について考えるうえで、きわめて重要な意味を持つ考えの枠組みです。それに対して、自然言語はかならずしもそうではありません。言葉の意味や、ニュアンスはたいせつなものだと思うし、とりわけ、心脳問題との同型性において、重要なものだと考える。しかし、自然言語が、この世界の因果的発展との関連性がすでに実証されている数学的言語と同じ地位にあるとは、自明なかたちでは思えません。&lt;br /&gt;
　私には、深刻な「対立」を巻きおこすような論点があるようには思えないのに、斎藤さんがあえて「反対である」と繰りかえすのは、そもそも背景となっている「通奏低音」のごとき感情の差異に基づいているのではないか。そんなことを、『文脈病』のテクストに向かいあいながら考えたのです。&lt;br /&gt;
　往復書簡をとおして、斎藤さんは、私が技術的な文脈において記述しているだけのことに関して、しばしば、きわめて「重い」主観性を担わせて、強い言葉で非難されることがありました。たとえば、クオリアについて論じることが「ナルシシズム」だというような表現がそうです。私は、クオリアの問題を技術的に論じることが可能だと思うし、実際にそのようにしている人も多い。しかし、それでも斎藤さんがこのような言葉をあえて使われるのは、そもそも、「通奏低音」たる感情が異なるのではないか。それでも、そのような私の態度を「ナルシシズム」だと表現する斎藤さんには、ある種の必然性がありはしないか。&lt;br /&gt;
　斎藤環さんは、「引きこもり」の問題に取りくんでこられました。「引きこもり」をしている人は、つらい。本人がつらいというだけでなく、家族もつらい。「引きこもり」を起こしている、社会のほうもつらい。つらくても、「引きこもり」は起こるときは起こる。&lt;br /&gt;
　人間の脳は、すばらしい能力を持っている。環境と相互作用しながら、そのなかにあらわれる規則性や法則を認識しつつ、同時に容易には予想できない不確実性を引きうけるというかたちで、偶有性に適応している。しかし、その偶有性への適応戦略のなかに、心がつまずいてしまうような契機もある。場合によっては、与えられた文脈に過剰適応してしまうこともある。その結果、本人が苦しいだけでなく、周囲も影響を受ける。&lt;br /&gt;
　斎藤さんは、精神科医として臨床を続けていらっしゃる。そのなかで、人間の心の、やっかいな性質にずっと向きあってこられた。そのような斎藤さんの目から見ると、あくまでも科学主義のなかにいて、人間のやっかいな心の「暗闇」へと降りてこない私は、お気楽に見えたのかもしれません。だからこそ、「科学者のナルシシズム」というような表現が出てくるのかもしれません。&lt;br /&gt;
　『文脈病』を読みながら、私は、斎藤さんの本来の関心領域が、物理主義や計算主義、それをいったん経由したうえでの心脳問題といった課題設定に収まらないことを感じざるをえませんでした。その一方で、斎藤さんが関心を持って思考を積みあげてこられたことに、私自身も関心を持っているということを感じた。いや、むしろ、思い出さされた。そうして、そのたいせつな問題領域に、この往復書簡の中で十分に触れてこなかったということを認識したのです。&lt;br /&gt;
　「量子力学を精神分析とともに嫌悪する、といって言いすぎなら、その価値を積極的には認めないという茂木さんの一貫した姿勢は、このふたつの領域の親和性によってはっきりと示されたとも考えられます」という斎藤さんの発言は、私の真意をとらえたものではありません。私は、むしろ、精神分析に一貫して関心を抱いてきたのです。しかし、この往復書簡のなかで、そのことを伝える努力を十分にして来なかったのかもしれない。文字数が限られていたとはいえ、申し訳なく思います。&lt;br /&gt;
　とりわけ、斎藤さんの精神科医としてのお仕事に、私が抱いているリスペクトを、もっときちんとお伝えすべきだったのかもしれません。思えば、斎藤さんは、精神科医として、人間の心の中に巣くうやっかいな問題について、どれほどの経験を積まれて来たことでしょう。その点について、斎藤さんに深い敬意を表します。&lt;br /&gt;
　「引きこもり」に限らず、斎藤さんが関心を抱いてきた人間の精神の問題が、私たち一人ひとりが生きるうえで重要な意義を持つことは、否定できない。そうして、精神分析的手法が、現代の日本において緊急の課題となっていることを私は感じます。だからこそ、斎藤環さんをはじめとして、精神科医のみなさんが時代の「寵児」となっているのでしょう。&lt;br /&gt;
　斎藤さんは、偶有性について、次のように書かれた。&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;　つまり、偶有性を楽しもうというスローガンは、とりあえずいろんな意味で足場のしっかりした方々が、自分の足場が崩されてしまわない程度に、いろんな不確実性のスリルを楽しみましょう、と主張されているに過ぎず、ようするに「リア充爆発しろ」という話なので、私はちょっと乗れません。（往復書簡、第5信より）&lt;br /&gt;
&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
　この、「リア充爆発しろ」という表現がなにを意味するのか、私にはよくわからないのですが、全体の趣旨は、感じとれるように思います。&lt;br /&gt;
　斎藤さんは、人間の精神性のダイナミクスのなかには、「偶有性を楽しめ」という「スローガン」では救いきれない、やっかいな部分があると主張されたいのでしょう。そして、私は、その点については、全面的に同意いたします。くわえて、この問題意識には、この時代の日本ならではの、固有性と緊急性があるように思うのです。&lt;br /&gt;
　犯人に監禁された人質が、犯人に好感を持ってしまうだけでなく、ときには愛してさえしてしまうという「ストックホルム症候群」。考えて見ると、日本人は、生まれ落ちたときから、「根回し」、「段取り」、「談合」といった言葉に象徴されるように、あまりにも精緻に張りめぐらされた日本という社会的文脈の「人質」になっているのかもしれない。そうして、そのような文脈に付きあう必要は毛頭ないのに、いつの間にか日本という環境に適応し、「日本人」になっていく私たち。&lt;br /&gt;
　私たちは、知らず知らずのうちに、「ストックホルム症候群」の被害者になっているのかもしれぬ。そうして、昨今顕著な、私たちの愛する母国日本が「ガラパゴス化」するという傾向は、「ストックホルム症候群」に慣らされた私たち日本人に対して、「自然」が復讐をはじめているのかもしれない。&lt;br /&gt;
　見方を変えれば、「自然」の復讐は、斎藤さんのご専門である「引きこもり」の状態において、すでにはじまっているのかもしれない。&lt;br /&gt;
　大学三年生の秋から、就職活動をはじめることを「強要」する日本の企業。誰も、同じように振る舞えなどと求めてもいないのに、どうして、どの企業も申しあわせたように同じ時期に「エントリー」や「説明会」をはじめて、同じように「新卒一括採用」をしていくのでしょう。&lt;br /&gt;
　そんななかで、そのような息苦しいシステムに入ることを潔しとしない人たちは、日本という制度から落ちていく。冗談ではありません。私もかつて、そのような落ちこぼれの学生でした。物理学の大学院になどいったら、将来食える保証などどこにもないぞ、などと脅かされながら、それでも私は就活をすることもなく、大学院に進学した。お先真っ暗闇の人生。それでも、くじけず、めげずに生きてこれたのは、たまたま「根拠のない自信」にあふれた楽天的な（見方を変えればずうずうしい）性格であることが幸いしたのでしょうが、思えば、いつ塀から落ちても不思議ではない人生でした。&lt;br /&gt;
　自分の人生を振りかえってみれば、いま、こうして生きているのが不思議にも思える。どうして、私は仕事をして、生活し、このように斎藤さんと往復書簡を交わすことができているのだろう。首をひねって考えても、合点がいきません。それくらい、私は日本の社会というシステムに、かつて不適応を起こしていたことを告白します。&lt;br /&gt;
　私は、大学院で博士号を取る直前まで、就職先が見つからなかった。そのとき、研究室の先輩に、「茂木君、履歴書に穴が開くとまずいから、いまから研究生になる手続きをしておいた方がいいよ」といわれました。あのときの、なんともいえない息苦しい感覚は、忘れることができない。それまで、そんなことは考えたこともなかった。生まれてはじめて知りました。そうか、社会というところは、「履歴書に穴が開く」と、それこそ奈落の底に落ちるように、もうもどってくるのがむずかしいところなんだ。みんな、そのようなルールで動いていたんだ。私は、親切なアドヴァイスをしてくださった先輩に、感謝しました。同時に、そんな日本の社会をうらみました。ふざけるな、と思いました。首輪をつけた飼い犬じゃあるまいし、なんで、そんな人工的な文脈に、私の内なる自然が合わせなければならないのか。&lt;br /&gt;
　このような日本の社会に、適応することは、それ自体が、世界の趨勢から見れば、「過剰適応」なのだと思います。過剰適応している人たちも、それなりに苦しいはずです。なにしろ、それは、自然なことではけっしてないのですから。毎日満員電車に揺られ、言挙げせず、黙々と働く。ヨーロッパでは当たり前の、長期のヴァカンスも取らない。日本人は、なんとけなげなのでしょう。そして、そのような振る舞いを人間に強制している、日本の社会システムというオペレーティング・システムの、何と厚顔無恥なことでしょう。&lt;br /&gt;
　考えてみれば、引きこもりくらいして当然の社会なのかもしれません。じつは、私の近くにも、長いあいだ家にいて、社会と関わりをなかなか持とうとしない人がいます。その人を、私は、子どものころから知っていました。とても感受性が豊かな、素敵な人でした。その人が悪いとは思えない。もちろん、日本の社会にも、悪意などないのでしょう。ただ、想像力がたりない。社会のなかに、「風」が吹いていない。&lt;br /&gt;
　斎藤さんの『文脈病』を読みかえしながら、私は、今回の対談でまったく触れることができなかった「心」の次元があるな、と思いおこしていました。そして、それらの次元は、確かに、私自身の「一部分」でもあった、ということを反省していたのです。&lt;br /&gt;
　ここまでの私は、どちらかといえば禁欲的だったのかもしれません。論理明晰主義、科学主義、に傾斜していた。斎藤さんのご専門である精神病理の方向に、私自身の経験を踏まえて寄り添ってみたい。現代日本人の病巣も見つめてみたい。そのような視点から「偶有性」という概念を検討しなおしたい。一度「暗闇」を経由してこそ見える「未来」への「希望」を感じてみたいのです。人間の精神というもののやっかいさ、その「呪い」と「恵み」について、考えてみたいのです。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■臨床心理&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　大学生のころ、私は、臨床心理学や精神分析に、いま自分で考えても、異様なまでの興味を示した時期がありました。 &lt;br /&gt;
　きっかけになったのは、恋愛事件でした。はじめて、人を心から愛した。そのなかで、憧憬や、嫉妬、いらだち、恍惚など、あらゆる感情を味わった。その過程で、生まれてはじめて、ある不可思議な感触を持ったように思った。&lt;br /&gt;
　それはつまり、人間の心の奥底には、「自働機械」のようなものがあって、ある状況になると、それが作動しはじめるのだということ。自分でも抑えることができないさまざまな衝動や、感情、心の揺れ動き。そのような心の波を自分自身で経験して、私は、じつは大いに驚いたのです。&lt;br /&gt;
　どうやら、自分の無意識のなかには、自分でもコントロールできない、なにか不可思議なものが巣くっているらしい。その不可思議なものは、日常生活をなにげなく送っているかぎりにおいてはおとなしくしているけれども、なにかのきっかけがあると牙を剥きはじめる。そのようなことを、私は考えはじめました。ちょうど、20歳をすこしすぎたあたりのことです。&lt;br /&gt;
　無意識のメカニズムに大いに興味を持ちはじめて、私は心理学の勉強をはじめました。フロイトの『夢分析』を読んだり、ユングの『人間とその象徴』（Man and his symbols）について考えたり、あるいはまた、人間の心のメカニズムについて、実践的かつ臨床的な視点から論じた本を、何冊か読みました。&lt;br /&gt;
　とくに心に残っているのは、『態度の変化』（Attitude change）というタイトルの本です。黄色いマーカーで線をたくさん引きながら読みました。ひょっとすると、実家の本箱のどこかに、まだ残っているかもしれません。この本は、人々の態度の変化（attitude change）はどのように起こるのか、その際のダイナミクスはなにかということについて論じていた。とにかくおもしろくて、夢中になって読んでいた記憶があります。&lt;br /&gt;
　とりわけ、「認知的不協和」（cognitive dissonance）という概念がおもしろいと思った。人々に、内容が単調でつまらない仕事をしてもらう。そのあとで、高い報酬を与える群と、低い報酬しか与えられない群を作る。そのうえで、「この仕事は意義があるものだったと思いますか」と質問する。すると、高い報酬を得た群は、統計的に有意に、「つまらなかった」と答える傾向がある。一方、低い報酬を得た群は、有意に「おもしろかった」と答える傾向がある。すなわち、高い報酬を得た人は、仕事が（実際に）つまらなかったと「正直に」答えて、低い報酬を得た群のほうは、（実際にはつまらなかったのに、いわば「自分を偽って」）「おもしろかった」と答える。&lt;br /&gt;
　なぜか？　心理学者は、「認知的不協和」という概念によって説明する。単調でつまらない仕事をしたのに、低い報酬しかもらえなかった。そのような人たちは、自分たちが実際に単調でつまらない仕事をしたという「事実」と、その結果として低い報酬しかもらえなかったとう「事実」のあいだに、いわば矛盾を感じる。その矛盾を解消するためには、低い報酬しかもらえないとしても、仕事の内容が有意義だったからみずから進んで仕事をしたのだと、自分の認知の方を「書きかえる」しかない。そのように書きかえれば、ふたつの事実のあいだに矛盾が生じなくなる。&lt;br /&gt;
　このようなモデルが、将来、具体的な神経機構によって最終的に裏づけられるのかどうか、わかりません。しかし、当時の私は、そのようなモデルをとてもおもしろいと思った。とりわけ、自分でも気づかずに、無意識のうちに、そのような評価の書きかえがおこなわれてしまうという点に、たいへん心を惹かれました。&lt;br /&gt;
　当時、私はなぜこのようなことに興味を持っていたのでしょう。ひとつには、恋愛事件であきらかになったように、自分のなかに、「自働機械」とでもいうべき機構があって、隙さえあればいつでもそれが発動すべく待っている。そんなことを感じるようになったということがある。それまでの私は、どちらかといえば人々のあいだの差異にばかり目を奪われていました。&lt;br /&gt;
　人は、見かけが違うし、能力にも差があるし、趣味や嗜好も違う。ところが、恋愛事件のようなことがあると、誰でも、似たような感情を抱き、同じような衝動にかられる傾向がある。なによりも、この私のなかにも、そのような精神の力動がある。そのことを、とてもおもしろいと思った。無意識のダイナミクスに着目することによって、人間を、いわば普遍的存在として理解できる可能性がある。そのように感じたのです。&lt;br /&gt;
　もうひとつは、『態度の変化』（Attitude change）というタイトルの本を手にとったことからもわかるように、私は、自分自身が変わらなければいけないと感じていました。そのままでは、生きていけないとさえ思っていたのです。自分の心の「オペレーティング・システム」を書きかえなければ、未来はない。そのようにさえ、切迫的に感じていたのです。&lt;br /&gt;
　ちょうど、日本人もいま、自分たちのオペレーティング・システムの書きかえを迫られる時期を迎えているように思います。戦後ながらく、黙々と「ものづくり」をすることで繁栄してきたのが、そうもいかなくなってきた。iPhoneやiPadのように、情報ネットワークにつながって、世界的なシステムを構築しなければ、付加価値を生みだせなくなってきてしまった。そのことを、多くの論者が問題にしています。　&lt;br /&gt;
　ネットワークに向きあうということは、不可避的に「偶有性」を運んできます。世界が少数のノードでお互いに結びつけられ合う「スモール・ワールド・ネットワーク」の構造においては、ローカルな結合だけでなく、グローバルな長距離結合もだいじになる。その際、ローカルな結合において実行されている計算は、ある程度予想がつくものだが、長距離結合の向こう、たとえば地球の反対側でおこなわれている計算は、どのようなものになるかわからない。不可避的に、「予想ができること」と「予想ができないこと」がいり混じった、「偶有性」が避けられないものとなります。&lt;br /&gt;
　さまざまなものがお互いに結びつくネットワーク化された世界においては、「偶有性」が重大な意味を持つモティーフとなる。たとえば、最近、ギリシャの財政危機にともなって、ユーロの信認が揺らぎ、ドルや円などの主要通貨にもその影響が波及しました。この一連のプロセスは、まさに、世界のネットワーク化にともなって発生した「偶有性」の性質を象徴しているといえる。&lt;br /&gt;
　ギリシャの経済規模は、日本の10分の1程度。昔だったら、その財政が破綻しても、それはギリシャにとっては問題かもしれないし、近隣諸国もなにがしかの影響を受けるかもしれないが、遠く海を隔てて離れた日本にまで波及することではなかったでしょう。それが、ギリシャがユーロ圏に組みこまれ、相互依存のネットワークが強まったから、影響が波及するようになってきた。&lt;br /&gt;
　「スモール・ワールド・ネットワーク」をとおして、遠い地域の出来事が、思わぬかたちで自分たちに影響を及ぼすようになってきた。たとえ、自分たちの周囲の「ローカル」なネットワークをよく観察し、そのメンテナンスに心を砕いたとしても、不確実性を避けることができない。いつ、自分たちがコントロールできない遠い地域での出来事が、ネットワークをとおして伝搬し、自分たちの生活に影響を与えないともかぎらない。世界の偶有性が増してきたのです。&lt;br /&gt;
　日本人が、グローバル化し、偶有性が増す世界のなかで自分たちのオペレーティング・システムの書きかえを迫られているように、『態度の変化』（Attitude change）を夢中になって読んでいた当時の私もまた、自分自身のオペレーティング・システムを書きかえる必要を強く感じはじめていました。おそらく、当時の私は、次第に自分を囲む関係性のネットワークが拡大して来ているのを感じていて、そこで増大する偶有性に対処する必要に迫られていたのでしょう（もちろん、その当時は、「偶有性」という言葉を知っていたわけではないのですが）。&lt;br /&gt;
　そんな折、キャンパスのなかを歩いていた私は、大学の学生相談所が主催する合宿のポスターを見ました。「エンカウンター・グループ」という考え方に基づく合宿だった。数日間寝食を共にして、さまざまな問題を議論する会合らしい。私は、大いに関心を持ちました。&lt;br /&gt;
　当時の私は、そもそも、「学生相談所」というのがどのような場所なのか、よく知らなかった。あとで、それは学問や生活上のことで悩んでいる学生が訪れて、カウンセリングを受ける場所だと知った。そのようなポスターを目にして心にとどめた私も、いわば、学生相談所の潜在的な顧客だったということでしょう。&lt;br /&gt;
　とにかく、私はその「エンカウンター・グループ」の合宿に申しこみました。そのような手法の思想的バックボーンを提唱しているカール・ロジャースというアメリカの心理学者の存在を知り、彼の著作も読んでみた。とりわけ、その主著のひとつである『人間になるということ』（On becoming a person）を熱心に読みました。&lt;br /&gt;
　それからしばらくして、あるアメリカ人と会ったとき、私が『人間になるということ』を持っていることを見つかってしまった。彼が、私のことをからかって、「この年になるまで人間になっていなかったら、君はもう人間になれないと思うよ。もう遅すぎるよ」と言いました。それで、私は、とっさに、「いや、僕は、もうすでに人間になっているのだけれども、僕の周囲で、まだ人間になっていない人たちがいる。だから、その人たちが人間になるのを助けるために、この本を読んでいるのだ」と言いかえしました。&lt;br /&gt;
　もちろん、単なる強がりでした。彼は、ただ明るく笑っていましたが。&lt;br /&gt;
　さて、参加して経験したエンカウンター・グループの合宿は、じつにすさまじいものでした。あれほどの心の深層にまで、人間同士が降りていけるとは思っていなかった。その体験が、あまりにも強烈なものだったので、その後もしばらく、その感触が忘れられなかったほどです。&lt;br /&gt;
　実際、エンカウンター・グループにおいてやり取りされること、その結果構築される人間関係があまりにも深く強固なものなので、参加者のあいだではそのアフター・ショックのようなものが継続すると聞きます。「日常生活」にもどったときに、そのコミュニケーションが表面的で、もの足りないように感じられるというのです。その結果、何度もエンカウンター・グループの合宿に参加したり、あるいは、エンカウンター・グループの相互作用に参加しているあいだだけ、自分の生が充実しているように感じたりと、いわば「依存症」になる人もいると聞きます。&lt;br /&gt;
　エンカウンター・グループは、「クライアント中心」という考え方に基づいて構築、運営されます。臨床心理の専門家が、ファシリテーターとして参加するが、あくまでも助言を与えたり、議論の全体の方向をゆるやかに導く役割にとどまる。主役となるのは、参加者たちで、彼らが自主的に発言し、言葉をやり取りし、その「場」の雰囲気、ダイナミクスをつくっていく。&lt;br /&gt;
　忘れられないのは、初日の、第一回目のセッションです。畳の部屋で、10名くらいの参加者が一緒になって、ファシリテーターが真ん中に座る。あらかじめ、テーマもプログラムも、なにも与えられていません。ファシリテーターも、「これからはじまる」と宣言するだけで、あとはなにもいわない。初対面で緊張しているなか、誰も、最初の一言を発しようとしません。そのまま、30分くらい、沈黙が続きました。その際の、お互いに間合いを測りあう緊張感は、じつにスリリングで、印象的でした。&lt;br /&gt;
　やがて、ひとりがようやく発言する。重い口を開いた彼は、なんと勇気があったことでしょう。それから、ぽつりぽつりといろいろな人が発言する。言葉と言葉がつながり、やがて奔流のようになりました。&lt;br /&gt;
　エンカウンター・グループにおいては、自分が発言することだけでなく、他人の発言に耳を傾けることもまたたいせつです。その際、他者は、容易には知りえない「暗闇」のような存在として立ちあがってくる。言葉をとおして、未知の存在であった「他者」が、次第に近しいものと感じられてくる。その体験は、希有なものでした。&lt;br /&gt;
　私たちは、夢中になりました。いったん着火すれば、あとは会話の炎がずっと燃えさる。私たちは、セッションのあいだ中、真剣に、粘り強く話しあいました。話の流れによって、当然、深刻な論題もでてくる。親との関係。恋愛の問題。学業の悩み。将来への不安。話しているうちに、なかには、泣きだす人もいる。じっと耐えるように、虚空を見つめる人もいる。&lt;br /&gt;
　セッションが終わっても、夕食を摂りながら、あるいは外の海岸を散歩しながら、私たちは話し続けました。夜も、お酒を飲みながら話し続けた。ほとんど夜を徹して話し続けた。話し続けて、ふと気づくと、みな同じ部屋でうたた寝していた。その数日間、私たちは、毎日一時間か二時間くらいしか眠らなかったのではないかと思います。いわば、「ウッドストック」のようなお祭り状態となったのです。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■箱庭&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　そのときのセッションの様子から、こいつはおもしろそうだ、と目をつけられたのでしょう。私は、現在東京大学大学院臨床心理学コース教授をされている下山晴彦先生に誘われて、「箱庭」をやることになりました。当時、下山さんは、東京大学の学生相談所で、臨床心理をされていました。そして、下山さんが、私が参加した「エンカウンター・グループ」のファシリテーターだった。私は、箱庭というものはどういうものかよくわからないまま、下山さんが薦めてくれるのだから、と喜んで受けることにしたのです。&lt;br /&gt;
　なぜ、下山さんを信用する気になっていたかというと、「エンカウンター・グループ」の合宿で訪れた海辺で、下山さんがいきなり水中に入り、ウニを捕まえてきて、それに醤油をかけて食べて「うまい！」と笑ったからです。眼鏡をかけた、繊細そうな青年がそのような大胆な行動に出たことで、ギャップに魅せられた。私は、「この人はいい人だ」と一気に信用する気になってしまったのです。&lt;br /&gt;
　下山さんとのセッションは、毎回1時間くらいでした。最初の30分くらいで、箱に入れられた砂地のうえに人形や、木の模型や、動物や、花や、建物などのさまざまなアイテムを置いて、まずは箱庭をつくります。それから、自分がつくった箱庭について、下山さんといろいろと話しあっていきます。　&lt;br /&gt;
　それは、不思議な体験でした。毎回、セッションにいくときは、とくに「今日はこれをつくろう」と考えていくわけではありません。それでも、箱の前に立つと自然に手が動く。無意識のなかを探るようにしていくと、次から次へとイメージが湧いてきて、それを箱のなかのアイテムの配列として表現していくのです。まるで、自働機械のように。&lt;br /&gt;
　その後で、下山さんと、箱庭をつくりながら感じたこと、あるいは完成した箱庭を前に浮かびあがってくることについて話しあう。その際にも、ひとつの「正解」があって、それを突きとめるというアプローチではなかったように思います。脳の学習の一般則と同様、それは、「オープン・エンド」な会話だった。斎藤さんが、『文脈病』のなかで引用されているフロイトの言葉「すべての精神分析は、終わりなき分析である」。斎藤さんが続いて「この立場はいうまでもなく、ラカンによってもっとも正しく継承された」と解説しているそのような精神が、徹底して貫かれていたように思います。&lt;br /&gt;
　当時、私がつくった箱庭で、とくに印象に残っているものがふたつあります。ひとつは、村の祭りを表現したもの。村落のなかで、人々が踊りに熱狂している。その様子を、山のなかから、一匹の猿が見ている。&lt;br /&gt;
　完成後、私は、下山さんに、「この猿は私です」と言いました。「どういう気持ちをあらわしているの？」との問いかけに、私は、こう答えました。&lt;br /&gt;
　「私は、皆と一緒に祭の熱狂にくわわれないと感じている。それでさびしいと思うと同時に、自分の居場所は村のなかにはないと思っている。同時に、村を完全にはなれて、村が見えない深い山のなかに入るということもできないでいる。私は、皆が、村のなかで熱狂して楽しい時間を持っているということ自体は、自分でもうれしいと思う。そんな様子を想像したり、あるいは観察していたりするのは楽しい。肝心なのは、私からは、村人たちは見えるが、村人たちからは私が見えないということ。そんなポジションから、村人たちの様子を見ているときに、安らぎを感じる」&lt;br /&gt;
　自分でも、当時の私は「ネクラ」だったのではないかと思います。それでも、そのような箱庭をつくり、自分のなかに巣くう無意識の衝動のようなものを明示化し、言語化することで、ずいぶんと救われるような思いがあった。なにかが、動きだすような気がしていました。&lt;br /&gt;
　「村の祭りと山の猿」の箱庭は、ある程度自分でも意味がつかめましたが、そのように簡単に解釈できないものもありました。&lt;br /&gt;
　「ジャングルと白い人」の箱庭がそうです。これは、つくっているうちに、とにかく熱帯雨林に植物をはびこらせて、そのなかにたくさんの動物を詰めこみました。押しあい、へしあっている。殺しあいや食べあいこそしないものの、ものすごいエネルギーが充満している。&lt;br /&gt;
　そこに、彼らとつかずはなれずで、しかしあきらかにすこし違う場所、具体的には、密林の木のちょっとうえに、白い小さな人がいる。彼は、あきらかに、進化の階段でそれまでとは違うステージに来ている。それでいて、密林の動物たちと別世界にいるのではない。&lt;br /&gt;
　「この白い人は、どういう意味なの？」&lt;br /&gt;
　下山さんが私に聞いて、私は、明快に説明できませんでした。ぎゅっと、縮まったような感じ。さまざまなたくらみが、身体に詰まっている。元気いっぱい。敏捷。それでいて、悪意には満ちていない。その意味が、山のなかの猿ほどには、明確につかめない。それでも、なぜか印象的である。&lt;br /&gt;
　私は、下山さんと話しながら、魅せられたように白い小さな人を見つめていました。あれから20数年。いまだに、「白い小さな人」の意味はわかりません。&lt;br /&gt;
　下山先生は、私の箱庭のデータをもとに論文を書かれたとのことなので、いずれ、機会があったら、読んでみたいなと願っています。&lt;br /&gt;
　学生相談所で箱庭を作ってから、20年くらい経ったころ、当時文化庁長官を務められていた河合隼雄先生と対談する機会がありました。河合先生は、いうまでもなく、箱庭療法の世界的権威。日本人として初めてスイスのユング研究所に留学。帰国後、箱庭療法を、大きく発展させるとともに、日本人の精神性に根ざした精神分析の手法を開発していきました。&lt;br /&gt;
　河合先生との対話で、印象的だったことがあります。河合先生がタクシーに乗っていると、運転手さんがいつの間にか身の上話をはじめてしまう。「私もねえ、タクシーに乗る前は、こんなことをやっていて……」。&lt;br /&gt;
　河合先生は、「はあ、そうですか」「なるほど」と、相づちを打つだけ。バックシートでよく姿が見えないから、正体が河合隼雄とばれているわけでもない。唯一の「刺激」は、聞こえてくる相づち。それなのに、いわば感じいって、身の上話をはじめてしまう。それで夢中になって、目的地とまったく違うところにいってしまったことが何度もあるのだと、河合先生はおっしゃっていました。&lt;br /&gt;
　その河合隼雄さんの京都のクリニックを訪れ、20年ぶりに箱庭をつくりました。その際にうかがった、箱庭療法の実際が忘れられません。&lt;br /&gt;
　箱庭をつくる環境は、基本的に「オープン・システム」です。河合さんのクリニックには、先生が世界各地から集めてきた民俗的なアイテムがたくさん置いてあって、それを自由に使えるようになっていた。そのなかには、それぞれの土地の神話体系を反映した、印象的なものがずいぶんありました。&lt;br /&gt;
　東京大学の学生相談所でもそうでした。最初は、鉄道模型をつくるセットのようなものからはじめて、次第にアイテムが増えていったと、当時の下山さんはいわれていたように思います。相談に訪れる学生たちが、相談所へのお礼の意味もこめて、国内外に旅行したときなどに、さまざまなアイテムを買いもとめて「おみやげ」に持ってくる、そのように聞きました。その結果として、箱庭の棚に置かれていた「コレクション」は、種類も色もかたちも、雑多なものとなっていました。&lt;br /&gt;
　河合先生が、そのときおっしゃっていたこと。それはすなわち、箱庭療法には、「標準化」や「再現性」といった、近代科学がメルクマールとしてきた手法がなじまないということでした。もし、箱庭療法の「効果」を通常の意味での科学主義の下で実証しようとすれば、まずは「箱」のサイズを標準化しなければならない。そのなかに入れる砂の粒の大きさ、重さ、質感なども統一しなければならない。どのようなアイテムを使うか、その種類と数も決定しなければならない。そのようにして、「箱庭づくり」のプロトコルを標準化、再現可能なものにしなければ、通常の意味での「科学」の枠組みには乗らない。&lt;br /&gt;
　しかし、そんなことをしなくてもよいのではないか。「効けばそれでいい」と河合先生はおっしゃった。臨床心理の現場においては、科学的に標準化されているか、あるいは再現可能なものであるかどうか、そんなことよりも、まずは目の前の患者が治るかどうか、そのことのほうがたいせつである。そのような趣旨のことを、河合先生はおっしゃった。&lt;br /&gt;
　河合先生のいわれていることは、かならずしも「実験室」の枠内に収まらない日常のなかでの脳の働きを解明しようとする学問的関心や、要素に還元したのではわからない「複雑系」の振る舞いの謎と関係しているように思いました。標準化や再現性を捨てることが、かならずしも真理に対して不真面目な態度とはかぎらない。むしろ、標準化や再現性さえ保証していれば、それで科学になるという油断のほうが、真理から人を遠ざける可能性がある。そのようなことを、河合先生とお話しするなかで感じていたのです。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■人間の自由について&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　以上、私が臨床心理、および箱庭とかかわった経緯について、すこし振りかえらせていただきました。&lt;br /&gt;
　斎藤さんへの最後の返信が、なぜ、このような方向のものになったのか、私自身もわかりません。斎藤環さんの『文脈病』を読みかえして、なんとなくいままでの往復書簡の経緯が、いたたまれない気持ちになったことは事実なのです。私は、あと知恵で思った。私は、斎藤さんと、もっと、人間の精神の「自由」について対論すればよかったのではないかと。&lt;br /&gt;
　『文脈病』の序章での、斎藤さんの「顔の固有性とコンテクスト」に関する議論は、とてもおもしろいものでした。&lt;br /&gt;
　文脈は、人間の生存の条件であり、その自由の根幹と大いにかかわる。映画『エレファント・マン』のモデルとなったジョセフ・メリックは、ヴィクトリア朝時代の英国に実在した人物でした。大きく変形した顔や身体のかたちが、人々の耳目を引きつけた。どのような内面生活を送っていたとしても、外見がある姿をしていると、それだけでもう、ある文脈を暴力的に引きうけなくてはならない。&lt;br /&gt;
　真偽のほどは定かではありませんが、かのマイケル・ジャクソンがロンドンに保存されているジョセフ・メリックの骨格標本を買いとろうとしたという報道もある。整形手術を繰りかえし、肌がだんだん白くなっていったとも伝えられるマイケル・ジャクソン。「見られる」ことで生じる文脈性の暴力について、彼ほど敏感だった人もないでしょう&lt;br /&gt;
　私はいま、化粧品会社と共同で、化粧の研究をしています。鏡のなかのイメージが自分だとわかるかどうかの試験（「ミラーテスト」）に合格するのは、人間、チンパンジー、オランウータン、ゴリラ、イルカ、シャチ、ゾウ、カササギなど少数の動物しかいない。生きるなかで鏡を常用するのは人間だけです。さらに、鏡を使って化粧をする動物も人間だけです。&lt;br /&gt;
　「化粧」とはつまりは、自己のイメージを、他者からの視線にゆだねる行為。鏡を使うことを覚え、自分の姿を知ってしまった人間の原罪が、そこにあります。&lt;br /&gt;
　顔や外見の持つ暴力的な文脈性にくらべて、私たちの内面には、広大な自由と（その反面としての）リスクが担保されているように思われる。そうして、その内面の自由を支えるものが、「言語」である。その点において、「言語」は私たちの生命や精神にとって最重要である。その点については、私は斎藤さんの立場に同意します。&lt;br /&gt;
　私たちの心の内部のダイナミクスは、意識的にコントロールできない部分もふくめて、広い意味での言語、象徴的なものに支配されているのでしょう。ソラリスの海の表面のごとく、私たちはそのごく一部分しか把握することができない。しかし、突きうごかされるような内面は、かならずその下にある。&lt;br /&gt;
　無意識の下にある精神のダイナミクスを可視化し、意識下に引きずり出すためのひとつの手法として、精神分析は発達してきた。「無意識の意識化」が「治癒」に向けての有効な手法たりうることは、私自身の経験から見ても納得がいきます。かならずしも、つねに有効とはかぎらないが、事態を動かすきっかけにはなる。&lt;br /&gt;
　むろん、無意識のダイナミクスは、よきものばかりをもたらすとはかぎらない。ときには、妄想や、悪意や、問題行動をも引きおこす。&lt;br /&gt;
　「カプグラの妄想」と呼ばれる症状においては、夫や妻などの親しい人が、「本物」ではなく、「本物のふりをしている」よくできたロボットや、宇宙人だというような錯覚をもたらす。合理的に考えればありえないような、詳細にわたったデタラメなストーリーを、脳が勝手につくり出してしまう。しかも、本人は、それをすっかり信じこんでしまうのです。&lt;br /&gt;
　なぜカプグラの妄想が起こるのか。感情の中枢である扁桃体を中心とする辺縁系の機能自体、ないしはこれらの領域との情報のやりとりの経路が損なわれることが一因だと考えられている。顔の認識をつかさどる側頭連合野の働きは失われていない。顔を見ると、確かに自分の妻らしいとわかる。ところが、妻ならば当然感じるはずの、「親しみ」の感情を抱くことができない。その結果、一種の、「認知的不協和」の状態になるのです。&lt;br /&gt;
　そのような不整合を解消しようと、脳は、その主体が気づかないうちに、荒唐無稽なフィクションをでっち上げる。目の前の、「妻そっくりの人物」に対して自分が親しみを感じられないのは、その妻が「ニセモノ」だからという、「物語」をなかば自動的に生成してしまうと考えられています。&lt;br /&gt;
　斎藤さんのいうように、人間の精神運動において、言語の役割はきわめて重要です。無意識をふくめた概念のダイナミクス、そのネットワークが、現実世界とは無関係の、幻想さえをもつくり出す。そのような言語の自由は、物理的因果性と、一見切りはなされているようにも映ります。&lt;br /&gt;
　言語活動が、脳の活動にともなって生みだされていることは、確かである。しかし、その言語が指し示すところが、物理的空間の限定を受けていないことも事実である。いったい、言語の意味の起源はどこにあるのか。その「自由」はなにに由来するのか。ここには、掛け値なしの難問があります。そのようなことを考えると、斎藤さんが前回の手紙で引用された、アンリ・ベルクソンの言葉が、痛切に胸に響いてまいります。&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;「服はそれがかけられている釘とつながりがあります。釘を抜けば服は落ちます。釘が動けば服も揺れます。釘の頭がとがりすぎていれば、服に穴があき、破れます。しかし、釘のそれぞれの細部が服の細部と対応しているとか、釘と服とが等しいという結論にはなりません。＜中略＞同じように、意識はたしかに脳とつながってはいますが、だからといって脳が意識の細部のすべてを描くとか、意識は脳の機能だということにはならないのです」（『精神のエネルギ－』第三文明社）&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
　ご指摘のとおり、私が敬愛する小林秀雄は、講演会でこの部分を引用する。「意識は脳の機能だということにはならないのです」。この命題を、単なる修辞としてではなく、どれくらい真摯に受けとめられるか。しかも、あくまでも経験主義科学と整合性のあるかたちで。私のように、物理主義から出発する人間にとっては、ひとつの重要な課題であるといえるでしょう。そこには、切りたった崖があり、底の見えない溝がある。&lt;br /&gt;
　このような思考をたどってくると、私は、斎藤さんと、「自由」の問題をめぐってこそ、より深く討論をすべきだったのかもしれない。往復書簡の紙幅が尽きようとしているいま、あらためてそう思わずにはいられないのです。&lt;br /&gt;
　今日における心脳問題に関する通説にしたがえば、自由意志の問題は、「両立説」（compatibilism）で整理されます。すなわち、私たちの脳や身体をふくめ、世界の因果的運行は決定論で支配されている。そのことと、私たちが「自由意志」を持つという事実は、両立する。すなわち、行為者が、自分自身の「意志」の結果ある行動を選んだとすれば、たとえそれが客観的な立場からは因果的決定論で記述できたとしても、それは行為者が「自由意志」を持っていたということと矛盾しない。&lt;br /&gt;
　両立説における、「自由」は、言語の持つ意味（より一般的にいえば志向性）と同型です。私たちが、志向性を持つということが、自由の起源になっている。言語こそ自由である。ここには、深く味わうべき命題があるように思います。&lt;br /&gt;
　「偶有性」について、斎藤さんは、&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;　繰りかえしますが、「偶有性」は言語的にしか理解されえず、脳はすべての事象を「必然性の度合い（≒確率分布）」でしか理解できないからです。じつはこの箇所は、私がずっと構想中である〈主体における記述可能性としてのＰＳ／ＯＳ理論〉の応用なのですが、その説明は煩瑣(はんさ)になるので省略します。（往復書簡、第5信より）&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
と書かれました。偶有性と、ＰＳ／ＯＳ理論の関係を考えることを、私の宿題としたいと思います。&lt;br /&gt;
　私にとって、「偶有性」とは、まさに自由の問題でした。斎藤さんは、お手紙のなかで、「偶有性」を「偶然」の問題と解釈された。私は、さらに進んで、「偶然」と「必然」として受けいれることこそが、「偶有性」の中核であると考えます。&lt;br /&gt;
　アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』で、男が永遠に丘の頂きに石を運びあげるという罰を受けている。男がそのような運命に置かれなければならないという理由は、なにひとつない。男がそのような境遇になったということは、まさに「偶然」である。しかし、男が、自分が置かれたその状況を、まさにみずからのかぎりある生の「必然」として受けとめ、引きうけたときに、男は無限の自由を感じる。すなわち、その瞬間に、「偶然」が「必然」へと命がけの跳躍を遂とるのである。この命がけの跳躍のなかに、「偶有性」がある。私は、『シーシュポスの神話』に、「資すべき存在」としての人間にとって普遍の物語を読みとるのです。&lt;br /&gt;
　物理的因果性にしたがって、世界は発展していく。そのような決定論に相当する生物学の理論は、進化論でしょう。ダーウィニズム、およびそれを受けて発展したネオ・ダーウィニズムにおいては、生物の適応度は残す子孫の数で決まる。「遺伝子」の消長だけを考えれば、それは確かに厳格なる事実でしょう。&lt;br /&gt;
　しかし、生物の形態、振る舞いが進化論で決定されていたとしても、若い女よりも、目の前のしわくちゃの老婆を熱烈に愛するということはありうる。若い女のほうが魅力があると、したり顔で説明する生物学的常識論など、知ったことじゃない。それこそが、人間の精神の自由というものである。そのような思考の道筋にいたったとき、私はフランス現代思想の核を理解したと感じた。下宿のトイレで、ドゥールーズを読んでいたときのことですが。&lt;br /&gt;
　ああ、これこそが、まさに、フランス人のいうL&#39;esprit de l&#39;escalierでしょう。友人宅のパーティーで、発言に対してとっさに適切な言葉を思いつかない。辞して、帰りの階段を下りているときに、「ああ、ああいえばよかった」と思いつく。&lt;br /&gt;
　私は、斎藤さんと、自由をめぐってこそ対論すればよかったのかもしれない。そのせっかくの機会を、そこを経由しなければクオリア問題の切実さが立てられないと私が信じていた（そしていまでも信じている）物理主義、計算主義を強調することで、失ってしまったようにも思えます。一方で、それは、ひとつの必然だったようにも思えますが。&lt;br /&gt;
　また、ひょっとしたら、私と斎藤さんのやりとりのあちらこちらに、「自由」をめぐる言明が隠れているのかもしれません。私の返信の遅れにより（本当に申し訳ありませんでした！）かくも長きにわたった往復書簡のやりとりを、これからも精査していきたいと思います。すくなくとも、斎藤さんがお書きになったことのなかには、たくさんの原石が埋まっているはずですから。&lt;br /&gt;
　いずれにせよ、私は、この最後のお手紙で、感情の通奏低音に配慮することを試みました。私は、斎藤さんの音楽を一生懸命聴いて、私という楽器を、それに共鳴させてみようとした。その結果は、相変わらず調子っぱずれのものだったかもしれません。その際は、御宥恕ください。&lt;br /&gt;
　ここまでお付き合いいただいたことを、私の感情のありったけの奔流をもって、感謝いたします。&lt;br /&gt;
　人生は、終わりのない旅。言語の自由が、それを支える。斎藤さんのおかげで、さらに遠くにいくためのたいせつなきっかけをいただいたように思います。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
茂木健一郎&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>脳は心を記述できるのか</dc:subject>

<dc:creator>sofusha</dc:creator>
<dc:date>2010-06-28T09:55:00+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/2010/05/5-455b.html">
<title>第5信　「チューリングマシンの精神分析」</title>
<link>http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/2010/05/5-455b.html</link>
<description>斎藤環から茂木健一郎への手紙 ■脳はとてもたいせつです 　茂木さん、迅速なお返事...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;斎藤環から茂木健一郎への手紙&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■脳はとてもたいせつです&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　茂木さん、迅速なお返事をありがとうございます。今回は私のほうが、すこし遅れてしまいました。すみません。なにしろ私からのお手紙はこれが最終なので、ちょっといろいろ書きあぐねることもありまして。どうかご寛恕ください。&lt;br /&gt;
　それにしても、今回茂木さんにいただいたお手紙は、じつにすばらしかった。読み飛ばさずに、じっくりと堪能させてもらいました。これは最近私が拝見した茂木さんの文章のなかでも、ベストのものかもしれません。&lt;br /&gt;
　で、いうまでもありませんが、私は茂木さんが書かれている内容については、ほとんど同意できませんでした。そのことは、あとでくわしく述べます。でも、内容に同意できるかどうかなんて、些細といえば些細なことです。&lt;br /&gt;
　私の信ずるところでは、文章でいちばんたいせつなのは、たぶん内容の「正しさ」などではない。茂木さんに取り憑いて、あの濃密な文章を書かせた“なにものか”がすばらしい。それは情熱なのか使命感なのかその両方なのか、それはわかりません。&lt;br /&gt;
　ただ、茂木さんは最後に「信仰告白」と書かれています。ならばその「信仰」の中核部分がかいま見えたことが、重要だったのかもしれません。&lt;br /&gt;
　いずれにせよ、今回のようにきわめて有意義なお返事がいただけるのなら、この往復書簡をはじめた甲斐があったというものです。ありがとうございました。&lt;br /&gt;
　とはいえ、不満がないではありません。私が投げかけた問いについては、またしてもはぐらかされてしまったような気がします。正直、「こんなところでスルー力発揮しなくても……」とは思いました。私としては、言語の問題と偶有性の問題について、かなり本質的な問いかけをしたつもりだったんですが、なぜかお話しは脳科学ならぬ現代物理学のほうにどんどんいってしまって、これは微妙にしょんぼりですね。&lt;br /&gt;
　とりあえず気を取り直して、細かい訂正からいきましょう。&lt;br /&gt;
　まず、例の「脳のない」事例について。あれは、ちょっと示し方が悪かったかなと反省しています。「あなたは人間に脳がなくてもいいと思っているのか」といろんな人から指摘されて、自分の信念ではなく、文章力に自信を失いかけています。茂木さんにも私が「脳がなくても人間は考えることができる」と、本気で書いているように読めたのでしょうか？&lt;br /&gt;
　もちろん人間にとって、脳は必要不可欠なものです。 ですから、“脳がない男”の話は、脳の可塑性を示す事例に決まっています。やっぱり私は、現役の医師とは思われていないんですね。もし本気で「脳なんかなくていい」と考えているのなら、脳に作用を及ぼす向精神薬を患者さんに処方するはずがないんですが。&lt;br /&gt;
　ですから、ここに断言します。脳が心の座であることに、まったく異存はございません。&lt;br /&gt;
　ただ、脳の仕組みがこうなっているから人間の行動はこうなるんだ、と言いたい人に、行動がこうだから脳の仕組みがこうなるんだ、と突っ込んでみたいいたずら心があっただけです。それと、前回も述べたとおり、哲学的立場からは「脳が心の座であること」に、必然性はないと考えています。でも、こんなこと書くとまた誤解されそうですから、このくらいにしておきましょう。&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;■天動説と中の人&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　さて。茂木さんはお手紙の最後のところで「言葉も幻想である」とおっしゃるけれど、私はなにも「あらゆることに根拠がない」「なにもかも幻想である」などと言いたいわけではないのです。そんな「パチもんの唯幻論」みたいな主張がしたいわけではない（“本物の唯幻論”なら賛成、というわけでもありませんけれど）。&lt;br /&gt;
　私の考えでは、幻想の対義語は“現実”ではありません。“現実”は幻想の一部であり、幻想の対義語は“言語”です。なぜなら、その関係は非対称的だから。言語は幻想を生みだしますが、幻想は言語を生みだしません。&lt;br /&gt;
　たとえば画家バルテュス（＝バルタザール・クロソウスキー）は、脳科学者セミール・ゼキとの対談で「絵画とは、他の言葉では表現することができない言語活動なのです」と発言しています。まさにわが意を得たり！&lt;br /&gt;
　よって端的に申しあげるなら、クオリアは言語活動がもたらした幻想の一種ですが、言語そのものは幻想ではありません。&lt;br /&gt;
　とはいえ私は、茂木さんがダーウィンのたとえを持ちだされたことで、「ああそうか」と腑に落ちるところがありました。&lt;br /&gt;
　茂木さんはあそこで、“創造主”を人格神ではないと書かれていますが、はたしてそうでしょうか？　当時のダーウィンが置かれていた状況を考えるなら、ここはやはり人格神と理解するのが妥当ではありませんか？　ですから天体の法則のくだりは、もちろん地動説を意味していたはずです。&lt;br /&gt;
　ダーウィンは『種の起源』が出版された当日、ノース・ヨークシャーのスパで水療法を受けていました。自律神経失調症気味であったということですから無理もないのですが、新訳を担当した渡辺政隆氏によれば、「論争の渦中から逃避するための一種の避難所」でもあったようです（解説『種の起源（下）』光文社古典新訳文庫）。&lt;br /&gt;
　論争とはもちろん、キリスト教会との論争です。&lt;br /&gt;
　ダーウィンは、自説がキリスト教会から猛烈に批判されることを予期していました。そう考えるなら、茂木さんが称賛した引用箇所は、どう考えても宗教側への挑発ではないでしょうか。いささか唐突に地球の公転の話がここに出てくるのは、かつてキリスト教会が天動説の立場から地動説を迫害した史実をふまえているとしか思えません。&lt;br /&gt;
　だからこのくだり、私なりの「超訳　ダーウィンの言葉」によれば、こう読めます。「それでも地球は回っているし、それでも生物は進化するんですが、なにか？」と。もしそうなら、これは「ひんやりしたリアリティ」どころか、アツい「宣戦布告」ですよね。実際、出版の翌年（1860年）には英国科学振興協会で、サミュエル・ウィルバーフォース主教（宗教代表）とトマス・ハクスリー（進化論代表）の対決が起きているわけですし。&lt;br /&gt;
　これは些末な揚げ足取りなんかじゃありません。むしろ茂木さんがこの例を出してくださったおかげで、私たちのいちばん根本的な対立点が、いっそう明らかになったともいえるからです。&lt;br /&gt;
　ダーウィンが進化論や地動説に感じていたものを、強いてリアリティであると考えるなら、それはけっして「実感的リアリティ」ではなくて「構造的リアリティ」とでもいうべきものでしょう。&lt;br /&gt;
　なぜなら、もし「見たものをありのままに信ずる」という姿勢がつねに真実ならば、ヒトが猿から進化した（とは『種の起源』には書かれていませんが）とか、地球が太陽の回りをまわっている、という発想は、人々の反発しか買わないでしょうから。&lt;br /&gt;
　「地球のほうがまわってる？　んなバカな」「人の祖先が猿なわけないだろ、常識的に考えて」と、人々から非難されるのがオチです。「実感」や「常識」のリアリティは、これほど強力なものです。だからいまでも「地球は平たい」とか「進化論はデタラメ」とか確信して疑わない人が山ほど存在するのです。&lt;br /&gt;
　コペルニクスの地動説も、ダーウィンの進化論も、そしてフロイトの無意識ですらも、共通しているのはひとつのこと、世界は“いまここ”で見たまま、感じられたままのものではない、という真理の主張にほかなりません。だからこそ熱狂的に受けいれられる一方で、猛烈な反発や弾圧をこうむってきたのです。&lt;br /&gt;
　しかし、すくなくとも、二〇世紀以降の科学は、こうした実感主義に背を向けながら進歩してきたのではなかったか。&lt;br /&gt;
　茂木さんのクオリアに私がしつこく疑義を呈し続けているのは、それがややもすると、かつての実感主義のほうに取りこまれてしまう危険性があると考えるからです。もちろん茂木さんはきわめて真剣に、クオリアの発生機序を解明しようとされている。しかし、その手続きはあくまでも、“クオリアの実在性”を自明の前提にしてはいませんか？&lt;br /&gt;
　私が前々回のお手紙で、クオリアという発想をナルシシズムと結びつけたのは、それがどうにも“天動説の現代版”に見えてしかたないからです。どういうことでしょうか。つまり、事象を観察している自分のポジションをあくまでも不動の中心に据えている、という意味において、です。この種の“自己中心性”と、それを補強する実感主義こそが、ナルシシズムにほかならないと私は考えるのです。&lt;br /&gt;
　私は「百聞は一見にしかず」とか「見ると聞くとは大違い」といった素朴な実感主義（視覚主義？）には徹底して懐疑的です。「経験したものでなければわからない」という主張に対しては、「経験してしまったからこそ、わからなくなることもありますよね？」と反論したくなります。&lt;br /&gt;
　さらにいえば、「地球も太陽も、言語以前から存在するに決まっている」という断定にも、この種の実感主義はふくまれています。しかし、そもそもこの種の断定に、“常識”や“実感”以上の根拠があるでしょうか？　&lt;br /&gt;
　もしないのなら、これは「存在する（としか思えない）から存在する」というトートロジーですし、根拠があるのでしたら次の質問についてもぜひお考えください。「果たして“茂木健一郎”は、命名される以前から存在したのか？」。&lt;br /&gt;
　これは詭弁ではありません。私は真剣に聞いています。名前と存在との関係は、固有名詞だろうと普通名詞だろうと変わらないというのが私の考えです。固有／普通の区別そのものが、言語的なものなのですから。&lt;br /&gt;
　「そうとしか思えない」とか「私がそう感ずる」という事実は、なんら理論の正当性を保証するものではありません。むしろそれは、「なぜそう思い、そう感じてしまうのか？」という問いとして解明されるべき前提です。&lt;br /&gt;
　クオリアを錯覚であるとするならば、その錯覚がいかにして生ずるかは精神分析的に検討することが可能です。しかし茂木さんは、おそらくクオリアが「存在する」と考えておられる。だからこそ、脳内のニューロン発火パターンとの対応関係を解明しようとされるわけでしょう。とりわけその同型性を。ということは、やはりクオリアを“実体化”しようとなさっている。そうではありませんか？&lt;br /&gt;
　これは“言いがかり”みたいなものでしょうか。しかし私は、茂木さんが前回のお手紙に書かれていた“九州大学における講演会”のエピソードを読んで、ますますその確信を深めてしまいました。&lt;br /&gt;
　これは“偶有性”についてのエピソードですが、その点はいまはおくとしましょう。問題は茂木さんが、聴衆の顔をみながら人生の入れかわりを夢想するくだりです。&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;私は、「なぜかその人になってしまった」という偶有性と、「それぞれの人生に予想できないことがある」という偶有性、二重の偶有性を楽しむことができる、というひとつの見とおしないしは決意のようなものを抱いていたのです。(往復書簡、第4信)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
　これには正直、びっくりしました。外見や運命の偶有性は、たとえ話としてはわかります。でも茂木さん、どうしてあなたの「偶有性を楽しむ主体」だけは、誰になっても茂木さんのままなんですか？　だって、脳すらも入れかわっているのに？　これこそ二元論じゃありませんか？　それも心身二元論というより霊肉二元論みたいな。&lt;br /&gt;
　これではまるで、茂木さんの魂が幽体離脱して、いろんな人の人生を着ぐるみよろしく取りかえては、「う～ん、どの人生も味わい深い。みんな違って、みんないい」とかつぶやいているような感じです。ドラえもんにたとえるなら、「入れかえロープ」か「トッカエ・バー」ですね。しかしこれ、どう見ても「上から目線」の典型じゃありませんか。&lt;br /&gt;
　茂木さん自身がどんな境遇におかれても、その人生を楽しんでみせるというのなら、まだわかります。でも、｢その人になってしまう｣ということは、感じ方や考え方も、あるいは知能や身体能力までも、その人のようになることでしょう。にもかかわらず、その“偶有性を楽しむことができるという”という楽観性は、いったいどこに由来するのか。&lt;br /&gt;
　おそらくこれは、茂木さんが主体というものを、一種のホムンクルスとして理解されていることから来るものではないでしょうか。&lt;br /&gt;
　もちろん私は、茂木さんの「メタ認知的ホムンクルス」説については存じあげています。くわしくは後述しますが、茂木さんが脳科学では無限後退につながる――ホムンクルス（中の人）がマトリョーシカ的に増殖すること――がゆえに、評判の悪いホムンクルス仮説をあえて提唱した勇気には感服するものの、システム論的な立場から自己言及の拠点としてメタ認知的ホムンクルスを持ちだすことには、やはり無理があると考えます。このホムンクルスを意識の根拠とするかぎり、やはり無限後退問題は免れないのではないか。&lt;br /&gt;
　それはともかく、ホムンクルス仮説というのは、科学者のナルシシズムがもたらす典型的な誤謬です。これが錬金術由来の言葉であるのは、たぶん偶然ではありません。精子にはとてもちいさな「中の人」が入っているという説から、人間は人工的に人間をつくりだせるという信念にいたるまで、きわめて素朴な人間中心主義が見てとれます。&lt;br /&gt;
　私がこれをナルシシズムと否定的に評価するのは、その自己中心性が理性的判断をゆがめてしまうからです。地動説や進化論への迫害ぶりを見れば、その弊害はあきらかでしょう。「九州大学のエピソード」について、私はそうした茂木さんの「素朴な自己中心性」をどうしても感じとってしまうのです。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■ラカンと量子力学&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　次の対立点は、「計算」をめぐってのものです。&lt;br /&gt;
　茂木さんはひょっとすると、全事象が計算可能である、すくなくとも可能であるべきだ、とお考えなのでしょうか。端的にいえば、茂木さんは「ラプラスの悪魔」（すべてのデータがあれば未来は予測可能であるとする立場）を信じておられるのではありませんか？　&lt;br /&gt;
　統計学や量子力学に対する茂木さんの一貫した反発ぶりからみて、どうもそうとしか思われません。それは「事後的にならすべては計算可能」と書かれていることからもわかります。&lt;br /&gt;
　もし茂木さんが、私がＣＧの例で主張したことから敷衍してそうおっしゃっているのでしたら、それは誤解です。私が言いたかったのは、あくまでも感覚刺激をコンピュータで近似することは原理的に可能である、というほどの意味で、世界の全事象をシミュレートすることは、単に不可能です。&lt;br /&gt;
　ですから、茂木さんによる以下の指摘はなんとも不可解というよりほかはありません。&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;　人間の「理解」や「創造性」といった能力をふくめた知性全般をコンピュータ・プログラムで書くことはできるかどうか？　つまりは、人間の知性は「計算可能」かどうかは、すくなくとも、それが「後付け」でシミュレートされる限り、可能であると考えざるをえないようです。(往復書簡、第4信より)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
　いやいや、まさかそんな。ぜんぜん可能じゃないですよ？　&lt;br /&gt;
　茂木さんがしきりにその名を挙げているアラン・チューリングが創案したチューリングマシンは、あらゆる数学の形式体系をその動作に還元できるといわれた仮想機械です。しかし、万能のようでいて、この機械で決定できない命題も存在するのです。&lt;br /&gt;
　そのひとつがいわゆる「停止性問題」で、これは簡単にいえば、ある与えられたチューリングマシンが停止するかどうかを、別のチューリングマシンで決定することはできない、というものです。そういえばゲーデルの不完全性定理だって、同じ意味で計算不可能性の問題ですよね。これらについては「自己言及」問題として、あとでもういちど触れます。&lt;br /&gt;
　あるいは、そういった自己言及をふくまないような知性――それはありえない、というのが私の考えですが――の働きなら計算可能、という意味でおっしゃったのでしょうか？　そうだとしても、やっぱり無理があります。&lt;br /&gt;
　計算でシミュレートできるってことは、その知性の活動メカニズムについてはとっくに解析済み、ってことですよね。ということはつまり、「クオリアを味わい、それについて記述する知性」までもが、完璧にシミュレートできる、計算できるということになります。&lt;br /&gt;
　それなら、茂木さんが「意識」やら「クオリア」やらについて、なにも悩む必要はありません。だって計算のためのプログラムが与えられた時点で、そのメカニズムの解析は済んでいるわけですから。&lt;br /&gt;
　ひょっとして茂木さんが「可能である」とおっしゃるのは、いまではなく将来的に「可能性がある（ただし量子コンピュータがあれば）」といった意味でしょうか。ならば、そこはいったん保留、ということでもかまいません。でも、私はやっぱりその可能性については否定的です。&lt;br /&gt;
　茂木さんは、ある知性の働きと計算プログラムの記述とを、一対一対応としてお考えではありませんか？　しかし私の予測では、同じ知性の働きを可能にするプログラムが書きうるとしても、それは一対無限といってよいほど多様なものになると考えています。無限ということは、ようするに計算不可能ということにならないでしょうか？&lt;br /&gt;
　さて、計算可能性といえば、前回の茂木さんのお手紙の約半分は、私などまったく門外漢の現代物理学のお話しでした。初回で申しあげたとおり、脳科学でしたら私もそれなりについていけますが、現代物理はちょっと……。ただ、茂木さんが一般読者向けにわかりやすく書いていただいたので、おおよその趣旨は理解できたつもりです。&lt;br /&gt;
　なぜか量子力学に否定的な茂木さんの姿勢は不可解ですが、私なりにその理由を考えつつ、疑問をぶつけてみたいと思います。なんだかフリーザ対クリリン(いずれも漫画『ドラゴンボール』の登場人物)というかヴァニラ・アイス対イギー(いずれも漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の登場人物)というか、そんな感じで瞬殺をくらいそうですが（たとえが悪役ばっかりですみません）、つたない考察におつきあい願います。&lt;br /&gt;
　初回にもお話ししましたように、ラカン理論は量子力学によく似ているといわれます。前回も引用したスラヴォイ・ジジェクは、それをもっとも端的なかたちでまとめています（「ラカンと量子物理学」『仮想化しきれない残余』青土社）。彼が例示するのは、茂木さんも名前を出されていたファインマンの「二重スリット実験」でした。&lt;br /&gt;
　これ、本来は思考実験だったそうですが、その後、何度か追試がなされていますね。「量子力学の精髄」とも「もっとも美しい実験」とも呼ばれるこの実験は、電子銃から電子を発射して、その向こうにある写真乾板に当てるというシンプルなものです。途中の空間は真空になっていて、二本のスリットが入ったついたてで仕切られています。&lt;br /&gt;
　電子銃から発射された電子は、二本あるスリットをとおって写真乾板に到達します。写真乾板は電子に感光し、そこに濃淡の模様があらわれます。これによって電子が粒子として振る舞うのか、波として振る舞うのかを知ることができる、というわけです。&lt;br /&gt;
　ふたつのスリットが両方とも開いていると、乾板には干渉波が描かれます。開いているスリットがひとつのときは、干渉波は描かれません。奇妙なのは、両方のスリットを開けて発射する電子を一個だけにした場合でも、干渉波ができてしまうことです。&lt;br /&gt;
　もし電子が粒子であるなら、これはありえません。つまりこの実験は、電子が粒子であると同時に波でもあることを示している、というわけです。このほか「一個の電子がふたつのスリットを同時にとおった」と見なす解釈もあるようです。&lt;br /&gt;
　前回、茂木さんが触れられていた「コペンハーゲン解釈」によれば、電子は観測される前は波のような存在であるが、観測によって波束、すなわち波動関数が瞬時に収縮するため、乾板に当たった、つまり観測された瞬間に粒子になる、ということになりますね。&lt;br /&gt;
　このあたりのややこしい議論は、いったんおいておきましょう。&lt;br /&gt;
　ジジェクが問題とするのは、その先です。この装置で、どの電子がどちらのスリットをとおったかわかるようにして観察すると、波による干渉模様は消えてしまうのです。この現象について、ジジェクはこう書いています。&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;「一個の電子（それ自身はふたつのスリットのいずれかを通らなければならない粒子）が、もう一方のスリットが開いているかどうかを『知って』いて、それに合わせてふるまっているかのようだ。もう一つのスリットが開いていれば波としてふるまう。そうでなければ『ふつうの』粒子としてふるまうのだ。さらに先がある。一個の電子は、それが観測されているかいないかを『知って』いるように見える。それによってふるまい方を決めているからだ」（ジジェク、前掲書）&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
　ジジェクはこの実験から、量子力学と精神分析のさまざまな共通点を、いささかトリッキーな手つきで取りだして見せます。たとえば、電子の実際の軌跡は、仮想的な電子のゆらぎを計算に入れてはじめて説明できるという事実。これは心理的な「去勢」が象徴的去勢、すなわち実際にはなされない“去勢の脅威”としてのみ実現可能であることに似ている、とかですね。&lt;br /&gt;
　それだけではあきたらず、ジジェクはジョン・ホイーラーの実験にも言及します。これはファインマンの二重スリット実験の装置に手を加えたもので、くわしい解説は省略しますが、ようするに電子がスリットをとおり抜けたあとで、“電子の軌跡を観察するかどうか”を決定できるようにしたものです。&lt;br /&gt;
　この実験の結果、興味深いことがわかりました。なんと、観察者が“観察するかどうか”を決めることで、事後的に電子の通過する経路を変更できるのです。これはいってみれば、観察者が事後的に“歴史”を改変できるということを意味します。&lt;br /&gt;
　ジジェクはこの実験の解釈を、事象が象徴化される、すなわち言語化されることで遡及的に「あったことになる」という精神分析的な逆説になぞらえています。そう、これこそはまさに、フロイトにおける「事後性」の問題にほかなりません。量子力学の提示する問題は、ここでも精神分析と親和性を持つのです。&lt;br /&gt;
　ジジェクによるこうした親和性のリストは、まだまだ長く続けられますが、いまはこのくらいにしておきましょう。&lt;br /&gt;
　ようするに量子的過程は、言語という人間的宇宙にきわめて近く、そこでは“現実”が観察する主体によって構成されるのだという根本的な洞察が、科学そのものによって完璧に確認された、ということになります。&lt;br /&gt;
　この文脈では、まさに「見ていないときには、月はそこに存在しない」ことになるわけですね。アインシュタイン、ちょっとピンチ。いや、ずっとピンチか。まあそれはさておき。&lt;br /&gt;
　現代物理学における量子力学の優位を認めない茂木さんにとっては、この結論もとうてい受けいれがたいものでしょう。もちろん、ジジェクも物理学者ではありませんから、ラカンが数学でやらかしたような勘違いとは無縁ではないかもしれません。&lt;br /&gt;
　しかし彼自身、「ここに究極の真実がある」とか主張するわけではなく、ただかけはなれたふたつの仮説体系が妙にシンクロするさまをおもしろがっているふしもあります。実際、この一致ぶりはちょっとした知的興奮を誘いますし。&lt;br /&gt;
　まあ確かに「計算と言語、それぞれの抽象作用をつきつめて得られるふたつの系は、しばしばその振る舞いが似てしまうのだ」とかなんとか言いたくなるのは否定しません。しかし私自身は、こうした親和性について、さしあたり気の利いた比喩以上の関心を持たないように禁欲しているつもりです。茂木さんはどのようにお考えでしょうか。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■決定論と心的因果性&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　ただし、量子力学と精神分析が事後性や潜在性という点で類似して見えるという事実には、この往復書簡という文脈において一定の意味を持ちます。&lt;br /&gt;
　量子力学を精神分析とともに嫌悪する、といって言いすぎなら、その価値を積極的には認めないという茂木さんの一貫した姿勢は、このふたつの領域の親和性によってはっきりと示されたとも考えられます。もしそうだとすれば、茂木さんの「信仰」には、もうひとつの要素が付けくわえられることになります。&lt;br /&gt;
　それは古典物理的な「決定論」です。&lt;br /&gt;
　すべてが計算可能であるとする立場は、必然的に決定論に近づきます。そして、この立場から脳について考えようとするなら、クオリアや偶有性といった“汽水域”の問題、すなわち、一見、決定論になじまないような問題領域をいかに“計算可能”にするか、という問題意識に引きよせられるのは当然なのかもしれません。&lt;br /&gt;
　一方、私は“記述”には関心がありますが“計算”は不得手ということもあり、どうにも関心が持てません。それに予想よりは後知恵のほうがずっと好きですし。また、脳と心の問題は、その作動原理においてまったくロジックが異なると考えています。その意味で私が同意するのは、依然としてベルクソンです。彼は次のように言いました。&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;「服はそれがかけられている釘とつながりがあります。釘を抜けば服は落ちます。釘が動けば服も揺れます。釘の頭がとがりすぎていれば、服に穴があき、破れます。しかし、釘のそれぞれの細部が服の細部と対応しているとか、釘と服とが等しいという結論にはなりません。（中略）同じように、意識はたしかに脳とつながってはいますが、だからといって脳が意識の細部のすべてを描くとか、意識は脳の機能だということにはならないのです」（『精神のエネルギ－』第三文明社）&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
　そう、心は脳の一部じゃない。メガネが顔の一部じゃないように。&lt;br /&gt;
　この指摘は心身平行説の否定という意味で、現代の脳科学への徹底した論駁でもあります。脳は意識の座ではあるが、脳の機能と意識の機能は直接の対応関係を持たない、と断言しているのですから。&lt;br /&gt;
　そういえば茂木さんもお好きな小林秀雄は、ベルクソンのこのくだりを、講演会で引用していますね。もし小林氏がいまの無邪気な脳科学ブームを見たら、どんな辛辣な言葉を投げかけるのでしょうか。ちょっとイタコに聞いてみたい気もします。&lt;br /&gt;
　いずれにせよ、“心的決定論”は二重の意味で不可能となるでしょう。まず、脳活動の計算不可能性という点において。さらに脳の活動と心的活動の“平行性の欠如”において。そう、脳と心のあいだに“関係”はありますが、“平行性”はありません。つまり、それが私の「信仰告白」……と言いたいところですが、ここはあえて断言しておきましょう。こちらのほうが真である、と。&lt;br /&gt;
　茂木さんもゆきすぎた脳の局在論には賛成できないという見解を、前回のお手紙に書かれていましたね。「脳のない男」が教えてくれる脳機能の可塑性には、驚くべきものがあります。臨床的にみても、脳実質のありようと精神活動とのあいだには、安定的な平行関係はありません。パソコンのソフトとハードの作動に、かならずしも平行関係がないように。&lt;br /&gt;
　脳の損傷がただちに精神障害には結びつかず、精神障害にはかならずしも器質的基盤が見あたらない。この事実をアンリ＝エイは「器質＝臨床的隔たり」と呼びました。しかし、それほど慎重だったエイの器質力動論にすら、ラカンは徹底批判を加えるのです。&lt;br /&gt;
　ラカンもまた、精神現象の器質論がホムンクルスの無限後退をもたらすことに警戒的です。&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;「アンリ・エーが誘惑にかられてどこかで主張していることとは反対に、神経組織の解剖学的分化と心的発現――たとえそれが知能のそれであろうと――の豊かさとのあいだには、下等動物における行動についての無数の事実が証明しているように、なんらの平行性もないという事実です」（「心的因果性について」『エクリⅠ』弘文堂）&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
　ラカンは精神疾患の発症要因として、同一化をはじめとする象徴的なものの働きに注目していました。また、だからこそ、多くの精神疾患が、脳とは無関係に象徴システムの誤作動によってひきおこされると確信していました（ただし精神病については、その考えが１００％は該当しない、と私は考えていますけれど）。&lt;br /&gt;
　さらにラカンは「『科学的心理学』を創設するために、『現実』ではなく『真理』に基づいた問題設定がなされるべきである」としています。これは現代でいえば、“エヴィデンス偏重主義”のような風潮への当てこすりでしょうね。&lt;br /&gt;
　この断言は、私はいまでも有効だと考えています。精神分析の正当性を保証するものを、心的装置の外部に求めることは危険である、ともいえますね。その正当性は、心的装置の作動の一貫性において保証される、と私は考えています。&lt;br /&gt;
　それでは、心的因果性とはいかなるものか。&lt;br /&gt;
　ここで重要になってくるのが、フロイトのいった「重層的決定」と、その延長線上にアルチュセールが見いだした「構造的因果性」です。いずれもアルチュセールがマルクス主義を解釈するために導入した概念ですが、その経緯はいまは忘れましょう（「認識論的切断」ってヤツです）。&lt;br /&gt;
　ある経験が将来トラウマとして病気の原因になるかどうかを、事前に予測することはできません。その個人のくわしい生活歴や性格傾向などが事前にデータとして与えられていたとしても、諸要素がいかに絡みあってひとつの「症状」を形成するにいたりうるかどうかを予測することは、単に不可能です。&lt;br /&gt;
　ならば天気予報のように、確率論的な予想なら可能なのか。残念ながら、それも無理です。天気のカテゴリーはごくかぎられたものですが「症状」のカテゴリーはずっと多様です。さらに経験→症状の過程は一回性の出来事なので、過去のデータも参照できません。&lt;br /&gt;
　経験が症状をもたらす過程には、偶然や矛盾をふくむ複雑な要素が、予想できないようなかたちで関わってきます。この過程を「重層的決定」と呼びます。このとき経験から症状へという因果関係は、事後的にしかわかりません（それを発見する手法が精神分析です）。もっともこれは、心だけじゃなく歴史や経済にもいえることですね。&lt;br /&gt;
　自然科学的な因果関係は、それを構成する要素や条件を限定できるなら、再現性が期待できますから計算や予測が可能です。しかし「重層的決定」が関わる過程については、要素や条件が限定できないためもあり、確実な計算や予測が不可能です。&lt;br /&gt;
　このような過程については、ただ事後に振りかえった場合のみ、そこになんらかの因果関係を見いだすことができます。これを「構造的因果性」と呼びます。事後性という点では似ていても、「重層的決定」と「構造的因果性」が関与するという点では、電子の振る舞いよりも心のほうがいくぶんかは複雑なようですね。&lt;br /&gt;
　ちなみに、脳科学方面でも評判がよいらしい認知心理学者、スティーブン・ピンカーの言語論（『言語を生みだす本能 （上下）』NHKブックス）に私がまったく賛同できないのは、彼が部分的に依拠するチョムスキーの理論と同様に、決定論的なもの（「なるべくしてなった」）に親和性が高すぎるからです。&lt;br /&gt;
　ピンカーの進化心理学が採用する心のモジュール仮説については、以前別の著書で批判しました（『解離のポップ・スキル』勁草書房）。彼もご多分にもれず、「道徳本能」とか「普遍道徳」といった概念を提唱して、価値を科学的に根拠づけようとします（&lt;a href=&quot;http://www.nytimes.com/2008/01/13/magazine/13Psychology-t.html?_r=3&amp;oref=slogin&amp;pagewanted=all&amp;oref=slogin&quot;&gt;http://www.nytimes.com/2008/01/13/magazine/13Psychology-t.html?_r=3&amp;oref=slogin&amp;pagewanted=all&amp;oref=slogin&lt;/a&gt;）。ここから一気に、決定論と疑似科学の親和性を導きだすのは、はたして飛躍が過ぎるでしょうか。ちなみにピンカーは、「幸福の科学」についても語っています（だからどうというわけではありません）。&lt;br /&gt;
　いずれにせよ、どうしても心を決定論的に理解しようとなさりたい方には、ここで私が示した心的因果性の特性くらいはふまえたうえで、その野心を試みられることをお勧めします（どうせ無理だからやめておけばいいのに、とは思いますが）。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■中国語のゾンビの部屋&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　さて、今回は最後のお手紙になりますので、意識やクオリアについて私の思うところを、すこしばかり述べておこうと思います。&lt;br /&gt;
　前回のお手紙で茂木さんは、ペンローズによる例のとんでもない仮説、すなわち「細胞内のマイクロチューブル内の量子計算が意識に関わるというモデル」を紹介されました。波動関数の収縮プロセスが計算不可能であることから、一気にそれを意識の起源に結びつけるという手法は、ひとつの謎を説明するのに別の謎をもってくるという意味で、論理的な誤謬を犯しているようにも思われます。&lt;br /&gt;
　意識とクオリアの起源について、それなりに洗練された仮説のひとつとしておもしろく読んだ本に、ジェラルド・M・エーデルマンの『脳は空より広いか』（草思社）があります。エーデルマンは抗体の化学構造に関する研究でノーベル医学・生理学賞を受賞した学者ですが、功成り名遂げた学者がその学問的余生において脳に関心を向けるのはよくあることですから、門外漢として排斥するにはあたらないでしょう。&lt;br /&gt;
　彼の仮説は、次のふたつ、すなわち神経細胞群選択説＝TNGS（Theory of Neuronal Group Selection）とダイナミック・コア仮説です。&lt;br /&gt;
　“ＴＮＧＳ”において鍵をにぎるのは、「再入力」という概念です。&lt;br /&gt;
　エーデルマンは、脳内のネットワークが形成されるとき、神経回路の自然選択がおこると考えました。ここで再入力とは、単純なフィードバックではなく「いくつもの脳領域を結びつける並行的、同時進行的な信号伝達であり、行ったり来たりくり返し行われる信号のやりとりである」とされます。ここで再帰性をもって結びつけられるのは、ひとまとまりのニューロン群です。その結果、脳のさまざまな場所で起こっているニューロン活動が「同期」することになります。&lt;br /&gt;
　かくして「高等な脳では、再入力による相互作用で結びついたニューロン群が淘汰選択の単位」となります。エーデルマンによれば、こうしたＴＮＧＳ仮説を裏付ける実験データや研究報告は、すでに多数あるとのことです。&lt;br /&gt;
　あらゆる意識活動の局面で、その都度こうした淘汰選択が起こるのですが、そのさい脳は「縮退」のメカニズムを利用します。これは、脳においては、構造の異なる複数のニューロン群が、同じ出力に対応することを指します。この仮説を採るならば、ある人のことを考えたときだけ発火する、いわゆる「おばあさん細胞」のような、細胞ごとの固定的な役割を考える必要はありません。なぜなら、縮退によって、異なったニューロン群が同じ機能を生みだすことができるからです。&lt;br /&gt;
　私がずっとこだわっている脳のハード面とソフト面のギャップをうまく説明してくれるという意味では、この仮説にも一定の説得力はあります。&lt;br /&gt;
　それでは、もうひとつの「ダイナミック・コア」仮説とはなんでしょうか。&lt;br /&gt;
　これは「主に（すべてではない）視床－皮質系の内部で、再入力によってダイナミックに変動しながら相互作用するこの機能クラスター」のことです。これは神経系のどこかに局在するのではなく、さまざまなニューロン群が縮退のメカニズムによってその都度ダイナミックに対応するような、同一機能を持つクラスターを指しています。&lt;br /&gt;
　ダイナミック・コアによって、外界や脳内からの信号は統合的に結びつけられ、その活動はさらに「高い次元の識別」を可能にします。その識別こそがクオリアである、とエーデルマンは主張するのです。&lt;br /&gt;
　この仮説をここで紹介したのは、エーデルマンがクオリアの説明において、ニューロン群の機能的同一性のみを重視しているからです。茂木さんは前回のお手紙でも、&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;ある特定の神経活動のパターンに、ある特定のクオリアが対応するというのは、そうでなければならないという理由はなかったという意味において「偶然」であり、しかし、現にそうなってしまっているという意味においては「必然」であり、そのような意味において徹頭徹尾「偶有性」が支配する領域なのか？　この問題こそが、「クオリア」と「偶有性」の関係を考えるうえで重大な意味を持つと私は考えます。&lt;br /&gt;
(往復書簡、第4信より)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
　と書かれていますが、これは以前から提唱されているクオリアの先験的決定の原理（相互作用連結なニューロンの発火パターンと、クオリアのあいだの対応関係は、先験的に決定しているとするもの）が前提となっていますよね。&lt;br /&gt;
　局在論にはこだわらない茂木さんが、かくも安定した対応関係にこだわられるのはなぜなのでしょうか。私にはエーデルマンの仮説のほうが、たとえば「脳のない男」の例が示すような脳の機能的柔軟性や高い代償性をうまく説明するように思うのですが。&lt;br /&gt;
　しかし、残念ながら、エーデルマンが快調なのもここまでです。彼はここから一気に、「ホムンクルス」や「哲学的ゾンビ」を成敗しはじめるのですが、だんだん議論の雲ゆきは怪しくなっていきます。&lt;br /&gt;
　知られるとおり「哲学的ゾンビ」とは、「意識を持たないゾンビにも意識を持つ人間とまったく同じ行動が可能か？」という思考実験です。これに対してエーデルマンは、コア・プロセスＣ’には必然的に意識Ｃがともなうと主張します。Ｃの存在によって、個体同士のコミュニケーションが可能になったから、というのがその理由です。&lt;br /&gt;
　しかし、それではまったく不十分でしょう。意識Ｃがコア・プロセズＣ’の反映であるのはよいとしても、その反映がなぜ必然的であるのかの説明になっていないからです。むしろこの仮説は、＜Ｃ’だけあってＣがないゾンビ＞の存在可能性を補強するものになりかねません。&lt;br /&gt;
　これは、考えてみれば当然のことです。エーデルマンの議論は最初から、意識（＝クオリア）の存在を前提として成立しています。それゆえ彼の議論は「なぜ意識があるのか」を説明できても、意識の実在性そのものを問題にすることはできません。&lt;br /&gt;
　これは、なにもエーデルマンにかぎった問題ではなく、ペンローズやダニエル・デネット、あるいはクリストフ・コッホらの仮説についても、まったく同じことがいえます。どれほど精緻に意識のメカニズムを解きあかしたところで、その実在性を証明できないという一点において、原理的困難を抱えこんでしまうからです。これすなわち“主観の存在を客観的に証明せよ”というアポリアです。&lt;br /&gt;
　現に「哲学的ゾンビ」問題の提唱者であるディビッド・Ｊ・チャーマーズ自身、こうした還元論に対して、根本的批判をおこなっています。&lt;br /&gt;
　「意識の存在はどこまでいっても、構造や力学の事実に照らして見たその先にある事実であり、したがってどこまでいっても、物理的な記述では説明されないままに終わる」（『意識する心』白揚社）と。&lt;br /&gt;
　しかし、当のチャーマーズが到達したのは、「汎心論」という途方もない――ほとんど「ちゃぶ台返し」じみた――仮説でした。&lt;br /&gt;
　彼は「あらゆる情報が経験と結びつく」という前提から、サーモスタットにも意識がある、と主張します。これはもちろん、サーモスタットに知性や自意識があるといった意味ではありません。ただ、そこに「経験」があるという可能性に、われわれの注意を差しむけようとするのです。&lt;br /&gt;
　汎心論で私がもっとも重要と考えるのは、次のくだりです。サーモスタットには意識の場所がないという反論に対して、彼はこう主張します。&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;「いくら詳しく調べても、システム内に意識を見いだすことはけっしてできないだろうし、われわれはつねに、意識を持ちださなくても処理プロセスを理解できるという教訓である。もし意識が論理的に付随していないのであれば、われわれはシステムの構成に意識が収まる＜場所＞が見つかると期待すべきではない。意識はシステムの処理特性とはまったく別個のものなのである」（チャーマーズ、前掲書）&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
　意識があるとしかいえないような存在（人間ですね）における意識の証明の困難さは、およそ意識がありそうもない存在における意識の存在を否定する困難さと対になっています。&lt;br /&gt;
　電子にすら意識があるとする汎心論において、意識の問題は実質的に消滅します。ここではっきりわかることは、あらゆる存在に意識があるという想定が、反転された独我論（「あらゆる存在は意識の産物である」）にほかならない、ということです。もしそうであるなら、それを論理的に否定することはできません。&lt;br /&gt;
　かくして問題は、理論のレベルから価値判断のレベルに踏みこむことになってしまい、そこから先は神学論争があるばかり、ということになるでしょう。&lt;br /&gt;
　まったく同じ意味で、「哲学的ゾンビ」の議論も、独我論の反転形です。こうした、主観と客観とのギャップを利用した思考実験はいろんなバリエーションがつくれそうですね。たとえば、〈脳がないのにあるかのように振る舞う精神分析的ゾンビ〉や、〈存在していないのに存在するかのように振る舞う独我論的ゾンビ〉の存在すらも、考えるだけなら可能です。&lt;br /&gt;
　意識の問題と同様に、いままさに感じられるこのクオリアを証明するのに、「いままさに感じている」という根拠しかないのはもどかしいことです。主観を自明の前提とできる精神分析、あるいは精神医学の側からいえば、クオリアとは感覚のメタ認知という意味において、心の象徴システムがもたらした現象といえます。&lt;br /&gt;
　それゆえにこの感覚は、離人症（ただし現実感喪失タイプの）のような器質的基盤を持たない疾患においても障害されるのでしょう。離人症患者の訴える「見えているのに現実感がない」という言葉は、そのままメタ認知の障害を意味するでしょうから。&lt;br /&gt;
　ところで、哲学的ゾンビとほぼ同形の思考実験として、哲学者ジョン・サールの「中国語の部屋」があります。これは茂木さんも前回言及されたアラン・チューリングによる「チューリング・テスト」の発展形です。人工知能批判としてしばしば引用されますが、意識の問題を考える場合にも有意義な思考実験です。&lt;br /&gt;
　いちおう概要を記しておきましょう。&lt;br /&gt;
　小部屋の中に中国語が理解できない人が入っていて、ちいさな窓から紙切れがやりとりされます。中の人は外から差し入れられた得体の知れない記号（漢字）の羅列を見て、手もとにある分厚いマニュアルにしたがって返事を書きます。そのマニュアルには、どんな記号にどんな記号を付けくわえればいいかが完璧に書かれているのです。それゆえ部屋の外の人からは、中の人が完璧に中国語を理解しているように見えます。しかし実際には、中の人は自分がしている作業の意味をまったく理解していません。&lt;br /&gt;
　これはようするに、統語論的には完璧に中国語をあやつれるのに、その意味はまったく理解していないという事態が可能かどうか、という議論に置きかえできますね。また理解を意識に置きかえるなら、この小部屋そのものが「哲学的ゾンビ」のモデルともいえます。&lt;br /&gt;
　おそらく言語学的には、“理解抜きの機能”という想定が可能になるのでしょう。しかしラカン的に考えるなら、こうした事態は単に不可能です。象徴界が「意味」を発生するための示差的体系である以上、統語論と意味論の厳密な分離はありえないからです。たとえば、ジョン万次郎がどうやって英語を身につけたかを考えてみれば、これはそんなに荒唐無稽な話ではないでしょう。&lt;br /&gt;
　それゆえ統語論的な理解が完璧になった時点で、意味論的な理解も可能になっているはずです。言いかえるならこれは、意味論抜きの純粋な統語論は――権利上はともかく――事実上はありえない、ということでもあります。&lt;br /&gt;
　さらに、現実問題として考えるなら、そもそもこうしたマニュアルは作成不可能です。それは人工知能の現時点での不可能性と同じ理由によるでしょう。正常な対話が成り立つためには、「文脈」（「空気」をふくむ）の理解が欠かせません。しかし、前回も述べたとおり、コンピュータは文脈を理解しません。それは私たちが「なぜ文脈を理解できるのか」が解明されていないためでもあります。&lt;br /&gt;
　ということは、逆のこともいえます。もし「中国語の部屋」との対話が自然に成立してしまっているとしたら、それは中の人が文脈を理解していることを意味します。文脈を理解しているのに意味を理解していないという事態はありえません。よって、意味をわからずに対話が成立し続けることはありえない、という結論になります。&lt;br /&gt;
　なかば戯れ言としていうのですが、もし量子コンピュータが完成したら、あるいは文脈理解も可能になるのかもしれませんね。なぜなら文脈理解とは、潜在する無数の可能性を、瞬時に単一の意味に収束させることなのですから。そして、その収束の方向は、人間関係（観測者）によって多大な干渉を受けるのですから。&lt;br /&gt;
　話を元にもどしましょう。「中国語の部屋」の思考実験に精神分析的な発想を持ちこむことでわかるのは、意味の理解、すなわち“意識”の必然性です。もっともこれはまだ、哲学的な意味での必然性の証明、というわけではありません。&lt;br /&gt;
　ここで私が主張しておきたいのは、意識の成立における「言語」（≒シニフィアン）の決定的な重要さについて、です。意識とはすなわち“自意識”のことであり、自意識が問題となるのは差しあたり人間においてのみですね。前回のお手紙で述べた意味での“人間”（ネイティリとうちの猫をふくむ）だけが、記号ならざる言語の使い手であることと自意識の問題は、おそらく不可分の関係にあります。&lt;br /&gt;
　フロイトは意識を「心的装置の表面」と見なします。このとき彼は、きわめて重要な指摘をしています。「なにかが、いかにして、意識されるかという問題は、より目的にかなったかたちで述べれば、なにかが、いかにして前意識的になるかということである。その答は、それに対応する言語表象との結合によって、となるであろう」（「自我とエス」『フロイト著作集第6巻』人文書院）。&lt;br /&gt;
　このようにフロイトは、意識の成立において、単なるイメージ――それは言語表象の視覚的部分として二次的なものと見なされる――ではなく言語表象そのものの重要性を強調するのです。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■自己言及と計算不可能性&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　意識と言語の関係を検討するに先だって、ここで意識問題のもうひとつの側面である「自己言及」について考えてみましょう。&lt;br /&gt;
　システム現象学の提唱者である河本英夫氏は、意識の出現を一種の「相転移」と見なします。それは「相転移以前の状態をどのようにしても知ることのできない相転移」とされます。&lt;br /&gt;
　このため意識は、「みずからの由来を問うことができない。そのため意識は、みずから感じとるものだけを知ることができる。すくなくとも意識は、みずからの活動をそれとして感じ取ることができ、みずから自身を知ることができ（自己意識）、みずからをひとつのまとまりとして感じることができ、みずからの前史を解消し、さまざまな情報に対しての選択的制御（集中したり、緊張をすこし緩めたりという制御）のような働き、そして意識は意識以外のものへと向かうという働き（志向性）を行っている」（『システム現象学』新曜社）。&lt;br /&gt;
　河本氏の理論は、精神分析的な意味での言語の特権性についてはそれほど重視していません。この点では私の立場とは異なるものですが、ここでの意識の記述にはおおむね賛同できます。&lt;br /&gt;
　私の立場から付けくわえることがあるとすれば、ここで指摘されていることは、いわば意識に本来的に備わっている「メタ志向」です。フッサールが指摘したように、意識はつねに「～についての意識」なのですから。そのかぎりにおいて、意識とは空の器であり、この器は何重にも重ねることができるでしょう。&lt;br /&gt;
　ここで問題となるのが「自己言及」ですね。&lt;br /&gt;
　私は自意識の存在を、人間の「自己言及」回路を正確に機能させないバグのようなもの、あるいは、「自己言及する自己」と「自己言及される自己」の差分がもたらした効果のようなものではないか、と考えることがあります。この推測が正しければ、意識はまさに言語的な構成物ということになるでしょう。&lt;br /&gt;
　以前もちょっと触れたように、「私」についての「自意識」は、「私」そのものの正確な反映ではありません。デカルトのコギトについていえば、「思う我」と「在る我」はけっして一致しません。つまり、真の「自己言及」は不可能なのです。&lt;br /&gt;
　なぜなら一人称にかぎらず、「自己」を限定するものはつねに言葉であり、言葉は必然的に隠喩的な“不正確さ”を帯びてしまうからです。ですから、自己言及のパラドックス――前回例に出した「クレタ島人のパラドックス」のような――は、論理学や哲学のコンテクストにおいてしか成立しません。&lt;br /&gt;
　さきほど引用した河本氏にいたっては、自己言及問題について、それは深刻な哲学的問題などではなく「ギャグ」にすぎないと喝破しています。&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;「言明そのものが自己に関与するはずもなく、言明間の関連づけを行っているのは言明の外にいて操作を行っている観察者であり、厳密にいえば、言及している『自己』の範囲に観察者をふくめなければならなくなる。観察者をふくめたネットワークで見るべきとき、言明だけの自己言及では何を言い表したものかただちに不明になる。なにか意味ありげなネットワークの一部を作為的に取りだしたにすぎなくなるからである。これがギャグだと感じられる本当の理由である」（河本、前掲書）&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
　言明の不完全性ゆえに、正確な自己言及はありえない、ということ。しかしそれをいうなら、言語の介在しない生理的メカニズムとしてのフィードバック（ホルモン分泌の調節のような）がそうであるように、いかなる再帰性も自己言及も、つねに自己の一部が別の一部に関係する、という形式でしかありえません。&lt;br /&gt;
　だからここで問題となるのは、言葉がもたらす「全体性」の錯覚のほうにあるでしょう。この錯覚を全面的に信ずるかぎりにおいて、はじめて自己言及のパラドックスが成立するのですから。&lt;br /&gt;
　今回の議論にからめていえば、ウィトゲンシュタインとチューリングの対話が両者の対立点を示していて興味深く思われます。ご存じのとおりチューリングは、ケンブリッジでウィトゲンシュタインの講義に参加していました。&lt;br /&gt;
　数学の中で自己言及問題のような矛盾があったとしても、なんらまずいことはないと言いはなつウィトゲンシュタインに、チューリングは反論します。矛盾をはらんだ数学が応用されれば橋が落ちるのだ、と（星野力『甦るチューリング　コンピュータ科学に残された夢』NTT 出版））。&lt;br /&gt;
　ウィトゲンシュタインの写像理論は、チューリングマシンの発想にも影響したといわれていますが、この種の矛盾に対する態度はかなり対照的ですね。しかし、例の「語りえないもの」への問題意識は、チューリングにおける「計算不可能性」の問題に潜在的に受けつがれたと考えるのは、こじつけが過ぎるでしょうか。&lt;br /&gt;
　ちなみに、さきほど計算不可能性のところで触れた「停止性問題」というのは、せんじつめれば、あるプログラムがそれ自身をふくむ系をつねに正しく処理できると仮定するとかならず自己矛盾を引き起こす、という問題です。これを、ある系それ自体の正当性をその系の内部で証明することはできない、と言いかえるなら、ゲーデルの第二不完全性定理そっくりの言いまわしになりますね。実際、両者の証明の手順はかなり似ていたそうですが。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■偶有性から自意識へ&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　かくもハード・プロブレムの中核をなしている自己言及問題ですが、同じくハード・プロブレムである自意識やクオリアの問題と、いかなる関係があるのでしょうか。&lt;br /&gt;
　お待たせしました。ここにおいてようやく“偶有性”が問題となるでしょう。&lt;br /&gt;
　茂木さんの定義によれば、“必然と偶然の中間”である偶有性は、徹底して言語以降の問題です。なぜか。茂木さんは脳にとっての偶有性を、たとえば次のように表現しますよね。&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;　あるアクションを起こすと、ある特定の感覚フィードバックがあることが通例である場合でも、その期待が「裏切られる」こともある。あるいは、通常の場合には随伴しないような刺激どうしが、同時に起こることもある。脳は、そのような場合に、みずからつくった仮説と一致しない外界の事物を切り捨ててしまうことはせずに、むしろ自分の仮説モデル自体を修正し、新たに提示された外界の姿に合致させようとします。&lt;br /&gt;
(往復書簡、第4信)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
　つまり、ある行動がある感覚フィードバックを起こすか起こさないかが不確実である。にもかかわらず、脳はいかにして学習と適応をなしとげるのか。そういう問題ですね。&lt;br /&gt;
　すみません、私にはこれ、典型的な「偽の問題」に見えるんですが。&lt;br /&gt;
　結論から言います。脳にとっては、ある感覚フィードバックが「ある」ことだけが問題なのです。フィードバックが「ない」ことは脳にとって問題ではありません。つまり、「ない」ことは「ない」として認識されません。なぜでしょうか。&lt;br /&gt;
　「ある」ことと「ない」ことが同じくらい問題になるのは、それが言語として表現された場合のみです。脳は言語の介在なしに「否定」を理解できません。人生において「なかったこと」（なくしもの、死別、失恋など）が一大事になるのは、われわれが徹底して言語的存在であるからです。逆に、子どもや動物が「死」を理解できないとされるのは、彼らが十分には言語的存在ではないからです。&lt;br /&gt;
　茂木さんが出された「ラバー・ハンド・イリュージョン」でもよいですし、私の連想でいえば「逆さ眼鏡」の実験でもいいんですが、この種の錯覚に脳が適応できるのは、おそらく脳が柔軟だから、ではありません。脳がバカだからです。すみません言いすぎました。脳が「否定」を理解できないから、ではないでしょうか。&lt;br /&gt;
　私の考えるところでは、これらの実験のおもしろさとは、被験者が「意識では違うとわかっているのに、脳が勝手に錯覚してしまう」という不随意性を意識できる点にあると思います。このとき脳には、錯覚をもたらすような感覚刺激と、それが錯覚であるという否定的な自意識とが同時に流れこみます。にもかかわらず、なぜか脳は（まちがった）感覚刺激のほうにだけ適応して、錯覚が生じてしまう。&lt;br /&gt;
　もっとも、われわれが単なる光の点滅を「映画」として楽しむことができるのは、この錯覚しやすい脳のおかげですから、これは悪いことばかりではありません。&lt;br /&gt;
　こうした錯覚が起こったり起こらなかったりするというのなら、確かに“偶有性”は問題でしょう。しかし、ほぼ決まって、この錯覚は生じますよね。つまりこの錯覚は、言語の助けなしでは「否定」を理解できない脳が、必然的に起こすものではないでしょうか。&lt;br /&gt;
　整理すると、こういうことです。おそらく脳単独では「偶有性」は問題にならない。そこに言語が介在して、はじめて「偶有性」は理解可能になる、と。&lt;br /&gt;
　ところで茂木さんは、今回スピノザを引用されました。&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;　それに対して、人間という存在は「有限」のものである。したがって、人間という存在は、「偶有的」（contingent）なのだと、スピノザは論じます。ある人間が、ある名前と性質を持って存在するということは、必然的なことではない。どんな人間も、「偶有的」な存在にすぎない。ある人間が、ある姿かたちで存在するということには、なんらの必然性も存在しない。そのようにスピノザは断じるのです。&lt;br /&gt;
(往復書簡、第4信)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
　あのう……ここで使われている「偶有性」は、どう考えても普通に「偶然」のことだと思うんですが……。だってこれ、汎神論のもとで究極的にはすべてが必然である、とするスピノザ哲学における「様態」の話ですよね。だったら茂木さん定義の「偶然と必然の中間」とかとは、なんの関係もない話だと思いますよ。&lt;br /&gt;
　でも茂木さんがスピノザの考えに親近感を抱くのは、なんとなくわかります。万物が自己保存のために一生懸命がんばる力（コナトゥス）のもとにある、なんて発想には、まさに「神に酔える哲学者」ならではの肯定性がありますよね。&lt;br /&gt;
　それはいいんですが、ここを読んで、私はやっぱり茂木さんの「偶有性」という言葉は、粉飾された「必然性」のことではないかと思いいたりました。&lt;br /&gt;
　「偶有性」を問題にする方々は、茂木さんをはじめ、なぜかみなさん、それを「楽しむ」ことを勧められる。これ、自己啓発的には正しい態度かもしれませんが、科学的、あるいは哲学的にはどうでしょうか。本来、これは価値中立的な言葉ですよね。ということは、楽しい偶有性もあれば悲惨な偶有性もあるわけで。&lt;br /&gt;
　早い話が、茂木さんや私が突然「うつ病」に罹患することだって偶有性の問題です。じゃあ、そのときは「うつ」を楽しもう、とお考えですか？　もちろんそんなことは無理です。まず楽しむ機能がやられてしまうのがうつ病なんですから。&lt;br /&gt;
　つまり、偶有性を楽しもうというスローガンは、とりあえずいろんな意味で足場のしっかりした方々が、自分の足場が崩されてしまわない程度に、いろんな不確実性のスリルを楽しみましょう、と主張されているに過ぎず、ようするに「リア充爆発しろ」という話なので、私はちょっと乗れません。&lt;br /&gt;
　そういうわけで、やはりここからは「偶然」の意味で「偶有性」を使いたいと思います。&lt;br /&gt;
　スピノザの発想は、近景すなわちオブジェクトレベルでは偶有的に見える事象も、遠景すなわちメタレベル（神の視点）からは必然であるというふうにもとれます。&lt;br /&gt;
　これ、否定の機能によって作動する言語に「メタ言語がない」ことと、メタ志向を持つことで「学習」と「文脈理解」を可能にしている脳単独の機能という分業と無関係ではありません。&lt;br /&gt;
　繰りかえしますが、「偶有性」は言語的にしか理解されえず、脳はすべての事象を「必然性の度合い（≒確率分布）」でしか理解できないからです。じつはこの箇所は、私がずっと構想中である〈主体における記述可能性としてのＰＳ／ＯＳ理論〉の応用なのですが、その説明は煩瑣(はんさ)になるので省略します。&lt;br /&gt;
　もし関心がおありでしたら、どうか拙著『文脈病』（青土社）をご参照ください。&lt;br /&gt;
　さて、前回のお手紙で、私はルーマンを引用しつつ、社会や主体の起源を、通常の因果律のもとで解明することは原理的に不可能であると述べました。これは、今回述べた「重層的決定」や「構造的因果性」の話題にも関係します。&lt;br /&gt;
　脳と意識の関係を解明する場合にも、同じ困難が指摘できるのかもしれません。&lt;br /&gt;
　違うところがあるとすれば、それは意識が、諸学において自明の前提とされている点でしょうか。“観察者の意識”なくして、いかなる科学も成立しえないように。そのなかでほぼ唯一、意識そのものの根拠や実在性を問題にできる領域が「哲学」でしょう。チャーマーズが提出した「哲学的ゾンビ」の問題が反転した独我論であったように。&lt;br /&gt;
　コンピュータのＯＳは、そのプログラム領域が勝手に書きかえられないように保護されています。意識とはいってみれば、このＯＳのようなものです。ウィルスでＯＳが書きかえられたらパソコンが作動しなくなってしまうように、意識そのものの前提を疑いだしたら学問アプリケーションが立ちあがらなくなります。&lt;br /&gt;
　哲学的問題でしかないゾンビが、脳科学者をおびやかすのは、意識の存在論までが脳科学者の守備範囲であるという誤解にもとづいているように思います。ですから、ここにおいても「領域保護」が必要になるでしょう。&lt;br /&gt;
じつは、私が「語る存在」はすべて人間と見なすべきである、としたのには、そうした含意もあります。&lt;br /&gt;
　脳科学が意識のメカニズムを解明しえたとして、それを再現するシステム（プログラムなりロボットなり）を構築したとします。このシステムが「意識を持った」と証明するには、なにが必要となるでしょうか？&lt;br /&gt;
　私は医師として、救急隊に搬送されてきた患者の「意識レベル」を判定することがあります。ここで重要になるのは、患者が疼痛刺激に反応するか、呼名に反応するか、そして居場所や日時などの見当識を“語りうるか”、ということです。そう、臨床の現場において、“語り”によって“意識の存在”が判定されるということ。&lt;br /&gt;
　ここで、哲学的議論をすべきではありません。それは袋小路です。私からの提案はおわかりでしょう。システムが「語る存在」であるのなら、そのシステムは自意識を持っている。この判定ルールを採用することで、脳科学の「領域保護」は可能になるでしょう。&lt;br /&gt;
　おっと、「そりゃ『チューリングテスト』だーッ！」というツッコミは想定の範囲内ですが、ちょっと違いますね。チューリングテストは、観察者との「対話」によって知性の有無を判定しますが、こちらの「精神分析テスト（仮称）」では、「語り」に「内省」あるいは「自問自答」がふくまれていることを重視しますので。&lt;br /&gt;
　こうした前提で私なりの「意識」のメカニズムを考えるなら、まさにここにおいて「偶有性」が問題となるのでしょう。&lt;br /&gt;
　言語的な主体があらゆることを偶有性の相のもとで経験し、その一方で器質的な主体（「脳」ですね）がすべての刺激を必然性の相のもとで認知すると考てみます。ここに必然的に生ずる「ずれ」において、自己言及問題のパラドックスは回避されるわけですが、なんらかの統合機能をメタレベルに置かないことには、主体はバラバラになってしまいます。&lt;br /&gt;
　前回も触れたアスペルガー障害当事者の手記によれば、感覚を言葉に“まとめあげる”機能なくしては、「空腹感」も理解できないと言います（綾屋紗月、熊谷晋一郎『発達障害当事者研究　ゆっくりていねいにつながりたい』医学書院））。彼らがしばしば混乱におちいるのは、ここでいう「言語的な主体」の機能になんらかの問題があるためかもしれません。&lt;br /&gt;
　あるいは、精神科医の中井久夫氏が精神健康の目安として挙げる「世界の中心であるとともに世界の一部（という感覚）」というバランスの問題もあります。&lt;br /&gt;
　自分が“かけがえのない個人”であると同時に、“霊長類ヒト科ホモ・サピエンス”に分類される個体であるということ。固有性と匿名性。これらの、まったくベクトルの異なるふたつの認識が、認知的不協和もおこさずに成立することは、われわれが偶有的不安や必然的絶望のいずれにも落ちこまずにいられることと、同じ原理によるのでしょう。&lt;br /&gt;
　おそらく意識は、主体におけるこうしたふたつのベクトル間の不協和によって生じ、不協和を調停することで透明化します。神経症のような自意識過剰も、都知事のような無意識過剰も、それぞれの問題を抱えうるとすれば、意識の両義性はあきらかでしょう。&lt;br /&gt;
　この不協和を構成するという意味で、偶有性は意識の糧であり、同時に意識の排泄物でもある。意識と偶有性の関係について、差しあたり私はそんなふうに考えていますが、すでに大幅に枚数を超過してしまいました。これ以降の議論については、機会を改めて展開できればと考えています。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■おわりに&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　さて、長いようで短いようで、でもやっぱり長かったこの往復書簡、これが私から茂木さんへの最後のお手紙になります。&lt;br /&gt;
　対立を固定したくないという茂木さんの趣旨に逆らうように、最後まで対立点に粘着する私の姿勢は、いささかおとなげなかったかもしれません。しかし私は、けっして些細な揚げ足取りばかりしていたつもりはありません。&lt;br /&gt;
　やりとりをつうじて私が問いをぶつけていた相手は、ひとり茂木さんばかりではありません。やみくもに生物学主義を奉る精神科医であったり、あまりに還元主義的な脳科学者であったり、無意味なほど楽観的な決定論者たちであったりと、さまざまな「仮想敵」を茂木さんの背後に見ていました。&lt;br /&gt;
　彼らが茂木さんの「援軍」として、うしろから、あるいは横から私の所説を批判してくれることも、じつは期待していました。いまのところそうした反響はほとんどありませんが、この挑発的な第5信が掲載されればあるいは……と期待しています。&lt;br /&gt;
　しかし茂木さんは、やっぱりいろんな意味で「いい人」なんですね。ここまでアイロニーと無縁な文章は、なかなか書けるものではありません。きっと茂木さんは私と違って、文章のどおりの人、というかキャラなんでしょう。アイロニーを禁じられたら一行も書けない私とは、やっぱり大違いです。&lt;br /&gt;
　その一方で、私たちのやりとりにおける私の“性格の悪さ”については、満場一致で可決されることもまちがいありません。ときとしてネットは、残酷なほど正確な鏡像を与えてくれますが、いまさら性格は変えられません。せいぜいこの往復書簡を、今後の「論争よけ」として活用させてもらうつもりです。&lt;br /&gt;
　しかし、いろいろ紆余曲折はあったものの、結果的に私はこのやりとりを楽しんでしまいました。量子だ宇宙だという「デカい話」をする機会に、ちょっと飢えていたのかもしれません。&lt;br /&gt;
　こういう議論は不毛とみる方もおられるようですが、私はまったくそうは思いません。誹謗中傷や人格攻撃をしないというルール設定さえしっかりしていれば（私、守れてましたよね？）、議論はきわめて生産的な機会になりえるでしょう。&lt;br /&gt;
　私の考えでは、論争の目標は説得や論破ではありません。それは、&lt;strong&gt;相手の言葉で自分の立論が語り直される&lt;/strong&gt;という特異な経験です。紙の裏から眺めるとデッサンの狂いがわかるように、語り口を変えることで自分の立場の偏りが見えることもある。&lt;br /&gt;
　現に私は、もし茂木さんからの問題提起がなかったら、「クオリア」や「偶有性」について考えることもなかったはずです。さらにこの問題は、私がずっと考えているＯＳ／ＰＳ理論においても、新たな展開の糸口をもたらしてくれそうです。そのことに感謝したいと思います。&lt;br /&gt;
　もちろん「クオリア」は幻想だし、茂木さんが定義する「偶有性」は依然として腑に落ちません。しかし、茂木さんとの手紙のやりとりは、掛け値なしに有意義なものでした。&lt;br /&gt;
　茂木さんからの最後の返信を、心待ちにしています。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
斎藤環&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>sofusha</dc:creator>
<dc:date>2010-05-22T15:00:00+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/2010/04/4-0214.html">
<title>第4信　 「因果性と自由」</title>
<link>http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/2010/04/4-0214.html</link>
<description>茂木健一郎から斎藤環への手紙 　斎藤環さま 　私の返信が大幅に遅れたにもかかわら...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;茂木健一郎から斎藤環への手紙&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　斎藤環さま&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　私の返信が大幅に遅れたにもかかわらず、お返事をくださりありがとうございました。寛大な対応に感謝いたします。&lt;br /&gt;
　私の返信がなぜ遅れたのか、また、あの時期に返信をする気になったのか、斎藤さんは精神科医としても興味があるとのことでした。この点については、ほんとうに、お詫びするしかございません。どうか、ご宥恕ください。伏してお詫び申しあげます。&lt;br /&gt;
　斎藤さんのお手紙は、多岐にわたる論点に触れています。ラカンにおける「主体」の問題、言語と人間の関係性、そうして、アスペクトのこと。興味深い論点の数々を提示してくださり、ありがとうございました。&lt;br /&gt;
　まず、冒頭の「「脳がすべて」とおっしゃる方には、私はこの画像をぜひお示ししたい」という議論にともなってお示しになった論文は、たいへん興味深いものと思われます。&lt;br /&gt;
　このような事例が示しているのは、人間の脳の持つ驚くべき可塑性です。人間の知性や感覚を説明するうえで、物質的な存在としての「脳」が必要だということは、経験科学の立場から心の問題を研究している人たちの多くが、正しいという蓋然性の高い事実として仮定しています。しかし、それは、典型的な脳を持っていることが、絶対不可欠な条件であるということまでを意味するのではありません。&lt;br /&gt;
　脳損傷患者の研究などをとおして、脳の神経回路には、高度の「代償機能」があることがあきらかになっています。典型的な脳について、機能局在的な議論がおこなわれることがありますが、それは、かならずそのような部位がなければ機能が果たせないということを意味するのではありません。&lt;br /&gt;
　典型的な脳の神経回路のトポロジー（位相）とその結合パターンがたとえ存在しないとしても、それと機能的に等価な働きを、より小さな容量の回路が代行することは、当然ありえます。斎藤さんが指摘されるように、この代償機能は、ときに私たちの想像を超えたものになります。脳の機能局在を固定化して考える傾向に対して、このような事実は確かに警告的なメッセージとなるでしょう。その一方で、だからといって脳の神経回路網の物理的基盤が、まったく存在しなくてもよいということを意味するのではありません。&lt;br /&gt;
　脳が存在しなくても、心は存在しえるというのは、一種の「二元論」（dualism）の立場です。それは、知的にはたいへん興味のある可能性ですが、いまのところそのような可能性を私は採用いたしません。&lt;br /&gt;
　とりわけ、世間における受容において、脳の機能局在が固定化したものとして考えられる傾向については、つねに警戒しなければならないでしょう。「脳」は、けっしてひとつの物象のことでありません。それは、たまたま進化の過程で現在、私たちが知る人間の脳のようなかたちで実現されているひとつの情報処理システムにほかなりません。「国家」や「日本人」といった、大文字で書かれて仮定されてしまいがちなさまざまな概念と同様、「脳」も、もしそれが大文字で書かれて固定されてしまうものだとすれば、警戒すべきひとつの対象である。この点において、私は斎藤さんに同意します。&lt;br /&gt;
　以下では、斎藤さんがご返信のなかで提起された問題に触発されつつ、私なりのスキームのもとで、ひとつの見とおしを立て、主張を提示することを試みたいと思います。公開の往復書簡という性質上、不特定多数の読者のために、おそらくは斎藤さんにとって既知と思われることにも触れることになりますが、その点はご容赦ください。&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;■「計算可能性」と「リアリティ」&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　斎藤さんは、「言語化」と私たちの存在の関係について、興味深い論点を主張されました。「彼らが人間とまったく異なった物質で構成され、あるいは脳の機能すらも人間とまったく異なっていたとしても、言語によって内省し、語る存在は、ことごとく『人間』なのだ」というジジェクの命題を提示され、言語の持つ力について言及されたものと理解します。&lt;br /&gt;
　映画『アバター』の仮想世界は、すべてプログラム言語によって書かれたものである。人工的な手段による仮想世界の構築。思えば、私たちはずいぶん遠くまで来ました。言語の普遍性、完全性の問題は、日常生活におけるエンタティンメントの次元まで降りてきました。斎藤さんのいわれるように、とても興味深く、またup to dateな論点だと感じます。&lt;br /&gt;
　言語の力。自然科学の文脈では、とりわけ、数学的言語についての議論が重ねられてきました。とりわけ、いま私たちが議論しているテーマにおいて、関連する重要な問題は、この世界は果たして「計算可能」かどうかということでしょう。斎藤さんがあげられた『アバター』も、その描像がコンピュータ・グラフィックスによってなされている以上、その映像世界は基本的に「デジタル・コンピュータ」の能力の枠内で生成されていることになります。すなわち、アバターは、「計算可能」な世界の内側にあるということになるのです。&lt;br /&gt;
　現代文明を支えているデジタル・コンピュータの理論的なモデルをつくったのは、イギリスの数学者、アラン・チューリングです。チューリングが考案し、1936年に発表した論文で記述した「チューリング・マシン」が、さまざまな計算をおこなうコンピュータのひな型になっているのです。&lt;br /&gt;
　チューリングは、単純なデータの書きこみ、読みとり、そうしてデータ操作を繰りかえすことで、さまざまな計算をすることが可能であることを示しました。「万能チューリング・マシン」をつくることで、さまざまなプログラムが実行可能であることを示したのです。&lt;br /&gt;
　チューリングがコンピュータのモデルを構想し、提案した段階では、それは概念上の存在にすぎませんでした。その後、フォン・ノイマンらが今日「フォン・ノイマン型」と呼ばれるコンピュータのアーキテクチャを考案し、世界最初の電子式コンピュータとされる「ENIAC」がペンシルヴァニア大学で構築されることで、現代文明を支える最大の発明品が産声をあげました。&lt;br /&gt;
　ムーアの法則に象徴されるテクノロジーの日進月歩によりコンピュータの演算能力が向上すると、次第に、「世界のすべてはシミュレーションできる」という主張が現実味を持って感じられるようになってきました。&lt;br /&gt;
　世界のすべては、プログラム言語で記述できる。この主張については、今日の識者のかなりの部分は、肯定的にとらえることでしょう。その意味で、斎藤さんが「言語」の重要性を主張されることには、それなりの合理性と現実感がある。&lt;br /&gt;
　もっとも、チューリング・マシンの文脈で問題とされる数学的な形式言語と、私たちが日常もちいている自然言語のあいだには、差異があります。この点については、のちほどまた触れたいと思います。&lt;br /&gt;
　さて、世界のすべての事象は、チューリング・マシンを一つのひな型とするコンピュータによってシミュレーションが可能であるという主張は、「計算可能性」（computability）の問題として議論されてきました。この世の事象のすべては果たして計算可能かどうか、とりわけ、私たちの脳のなかのプロセスが「計算可能」なものであるかどうかということについて、さまざまな議論がおこなわれてきたのです。&lt;br /&gt;
　イギリスの数学者ロジャー・ペンローズは、その著書 &lt;em&gt;The Emperor&#39;s New Mind: Concerning Computers, Minds and The Laws of Physics &lt;/em&gt;（1989年）のなかで、人間の思考過程、なかでも意識的なプロセスの本質的な部分は計算可能ではないと主張しました。とりわけ、ある事柄の意味を「理解する」（understanding）という働きは、コンピュータでシミュレーションができるような「計算可能」なプロセスではないと主張したのです。&lt;br /&gt;
　意識の作用の本質は、「計算可能」ではないというペンローズの主張は、当時の研究コミュニティに大きな波紋をもたらしました。ペンローズは、人間の知能はコンピュータ上にプログラムとして実装できるという「コネクショニスト」の主張を聞いて、それに反論するために&lt;em&gt;Emperor&#39;s New Mind&lt;/em&gt;のような本を書かねばならないと考えたようです。&lt;em&gt;Emperor&#39;s New Mind&lt;/em&gt;というタイトルは、あらためていうまでもなく、The Emperor&#39;s New Clothes (日本では『裸の王様』）という寓話のもじりです。王様が、「賢い者」だけに見える新しい服を着ている。みな、自分が愚かだとは思われたくないので、口をそろえて王様の服を褒めそやす。しかし、実際には、王様は服を着ていない。自分が他人からどう思われるか気にしない正直な子どもだけが、「王様は裸だ！」と叫ぶ勇気を持っている。&lt;br /&gt;
　ペンローズは、人工知能の研究者たちの主張、すなわち、コンピュータのうえで実装可能なプログラムによって人間の知性が実現可能であるという「イデオロギー」を、「裸の王様」と断じたのです。&lt;br /&gt;
　この本が出た直後、私はある学会で人工知能の世界における大家、マーヴィン・ミンスキーと話す機会がありました。「ロジャー・ペンローズの主張をどう思うか？」と聞いたところ、ミンスキーは憤懣（ふんまん）やるかたないというような表情で、「あんなのは愚にもつかないデタラメだ。ペンローズは、自分が他人よりも頭がよいことを鼻にかけて、あのような本を書いたのだ」とたいへんな剣幕でした。&lt;br /&gt;
　ペンローズの本が出版されてから、20年あまりの年月が経ちました。この間、果たして、この世界には計算可能ではないプロセスがあるかどうか、そうして、そのような計算可能ではないプロセスのなかに、意識がふくまれるかどうかという点については、論争として決着がついていないといえるでしょう。この問題について、ふたつの異なるレベルでの議論が可能であるように思われます。&lt;br /&gt;
　まず第一に、系の客観的な振る舞いとして、「計算可能」ではないものが存在するかどうかということです。第二に、たとえ、系の客観的な振る舞いが「計算可能」なものとして与えられたとしても、そのような系の振る舞いに随伴する（重ね描きされる）「主観性」自体は、「計算可能」なものではない、というようなことがいえるかどうかということです。&lt;br /&gt;
　あるシステムの客観的な振る舞い自体において、計算不可能なものがあるかどうかという点については、いまだ論争の決着がついていないといえるでしょう。直感的に考えれば、あるシステムの振る舞いとして、コンピュータでシミュレーションできないもの（すなわち、計算可能ではないもの）はないようにも思われます。たとえば、行動主義の立場をとれば、私の思考内容は、すべて、発話行為や書字活動をふくむ一連の身体運動をとおして把握されることになります。斎藤環さんへのこの返信を生みだした私の思考過程も、神経細胞の活動をふくむ一連の身体運動において把握されます。&lt;br /&gt;
　この返信の具体的な文字列について考えてみれば、一度確定してしまえば、それを「後付け」で再現するコンピュータ・プログラムを書くことは簡単です。一般に、どのような身体運動でも、十分な能力を持ったコンピュータさえ与えられれば、それを任意の精度でシミュレーションすることは可能であるように思われます。&lt;br /&gt;
　直観的には、人間の脳は、コンピュータ以上のことができるように思われます。とりわけ、いままでにない新しいものを生みだすという「創造性」の能力において、人間はコンピュータよりもすぐれているように思われます。現在のところ、人間のように「歩留まりのよい」かたちで創造力を発揮できる人工的なシステムは存在しません。&lt;br /&gt;
　しかし、現在のところ保たれているコンピュータに対する人間の脳の優位性が、果たして原理的なものであるかはわかりません。確かに、マーヴィン・ミンスキーも認めるように、ロジャー・ペンローズの理解能力は並はずれたものであり、その創造性も卓越しています。四次元時空の幾何学的構造を記述する「ツイスター」の概念は深遠なものですし、スティーヴン・ホーキングと共同でおこなった、一般相対性理論で記述される時空に存在する特異点についての研究は、重要な意味を持ちます。また、画家のエッシャーの無限階段のアイデアの元となった「ペンローズ三角形」や、空間を非周期的に埋めつくす「ペンローズ・タイリング」（のちに、その五回対称性が、「準結晶」（quasi-crystal）というかたちで自然界に実在することがわかりました）などのペンローズの業績は、そのすぐれた知性を示してあまりあります。&lt;br /&gt;
　しかし、ペンローズが展開する人間の知性に関するきわめてオリジナルな議論も、それが一度文字列として確定してしまえば、それを再現するコンピュータ・プログラムを書くことは可能です。その点において、ミステリアスな部分はまったく存在しません。&lt;br /&gt;
　人間の「理解」や「創造性」といった能力をふくめた知性全般をコンピュータ・プログラムで書くことはできるかどうか？　つまりは、人間の知性は「計算可能」かどうかは、すくなくとも、それが「後付け」でシミュレートされる限り、可能であると考えざるをえないようです。&lt;br /&gt;
　問題は、創造性を、その時間的発展のなかにおいてとらえたとき、どうなるかです。このときにも、人間の知性の作用は「計算可能」なものと考えてよいのか？　その際、すこし先の出来事でも見とおすことがなかなかむずかしいという時間の流れが、どのようにかかわってくるのか？　創造性を時間の発展において考えたときは、さまざまな難問が、そこに加わってきます。&lt;br /&gt;
　もともと、現代の物理学は、自然の発展法則を時空のなかのパターンとして記述します。アインシュタインの相対性理論の形式によれば、宇宙の全歴史は、時空のなかの物質存在の形式として描くことができます。そのような描像のもとでは、本来、この世界に本質的に新しいものなど存在しえない。すべては、「計算可能」なパターンとして、あらかじめ用意され、存在し、付けくわえるものも減じるものもない。人間の「理解」や「創造性」は、そのような物理的描像の内側にあるのか、外側にあるのか。結局、時間の進行というとびきりの難問を目の前に据えざるをえません。&lt;br /&gt;
　「いま」ということの絶対性。後付けでは、時空のなかのパターンとして把握されるものの、その進行の真っ直中においては、なにも将来を見わたすことのできない暗闇のなかへの「投企」としてしか定式化できないもの。そのような時間の流れのなかに、私たちは確かに生きている。「計算可能性」の議論のそもそもの前提になっている世界観の根本までさかのぼらなければ、問題の本質に到達することはできないのかもしれません。&lt;br /&gt;
　時間の進行の問題については、とりあえず置いておくこととして、物理的時間の存在を仮定したうえで、計算可能性についてもうすこし考察したいと思います。&lt;br /&gt;
　ペンローズは、&lt;em&gt;Emperor&#39;s New Mind&lt;/em&gt;のなかで、「理解」や「創造性」といった意識の作用には量子力学が関与しており、その結果、コンピュータの上に実装可能なアルゴリズムによって実行できる「計算可能」な範囲を超えているのだと主張しました。ここには、量子力学の基礎についての、いわゆる「観測問題」ないしは「解釈問題」といわれる難問がからんできます。&lt;br /&gt;
　量子力学は、電子の振る舞いを、波動関数によって記述します。波動関数は、一つひとつの電子の振る舞いが、どのようになるかという「確率」を与えます。この確率の法則は、もし多数の電子の軌跡を観測したら、かならずそのような統計的法則を満たすという意味において、厳密なものです。そこには、非常に強い決定性があります。その一方、で、個々の電子の振る舞いは、波動関数が記述する範囲内においてランダムに変わる、という意味においては、非決定的です。そして、このような非決定性は、どのようなかたちでも解消されえないということが、さまざまな実験によって確認されているのです。&lt;br /&gt;
　この世のさまざまな物質を構成している基本単位を記述しようとすれば、そこには不確実性が忍びこむことを回避できない。そのようなこの世界のあり方を、量子力学は示しているのです。&lt;br /&gt;
　波動関数自体は、起こりえるさまざまなイベントの確率を与える。では、実際にはどのイベントが起こるか？　起こりえるイベントのうち、実際に起こるイベントはひとつだけです。起こりえるイベントのうち、ある特定のイベントにだけにシステムが着地するプロセスが、「波動関数の収縮」と呼ばれる現象です。&lt;br /&gt;
　「波動関数の収縮」は、過去、多くの論者によって量子力学の不可思議な性質、あるいは「欠陥」として認識されてきました。この点において、現在の物理学において標準的な世界観を与えている「コペンハーゲン解釈」は、実際的な観点を採用します。すなわち、波動関数はそれ自体なんらの物理的実体をあらわすものではない。波動関数に基づく量子力学の大系は、ただ単に、電子のようなミクロな物質の振る舞いを確率的に予言する手続きを与えるだけである。それ以上の世界の実在、あるいはその認識に関するなんらかの視点を、量子力学に求めるべきではない。&lt;br /&gt;
　「コペンハーゲン解釈」を推し進めたのは、物理学者のニールス・ボーアでした。ボーアらの実際的な見地に基づく量子力学解釈に対して、アルベルト・アインシュタインは生涯にわたって不満を表明しました。ボーアとアインシュタインは、ことあるごとに、量子力学の本質について論争を繰りひろげました。名高い「ボーア／アインシュタン論争」です。&lt;br /&gt;
　ボーアらの「コペンハーゲン解釈」に対してアインシュタインが抱いていた違和感は、「観測」ないしは「観測者」の役割が不当に大きすぎるというものでした。科学的記述をするために、確かに私たちは観測をしなければならない。その際、観測者の役割は重要である。しかし、そのことは、世界の在り方そのものを、観測者に依拠させるということを意味するのではあってはならない。それが、アインシュタインがコペンハーゲン解釈に対して抱いていた違和感の核心であったと考えられます。&lt;br /&gt;
　アインシュタイン自身が、科学理論における観測者の役割に鈍感だったわけではありません。「奇跡の年」といわれる1905年に出版された「運動する物体の電気力学について」は、いわゆる「特殊相対性理論」についての記念すべき論文です。このなかで、アインシュタインは、「同時」であることが観測者の立場からどのように定義されるか、具体的な観測の手続きに基づいた操作的定義を与えています。観測座標系にかかわらず真空中での光速度が一定であることを示したマイケルソン・モーリーの実験を説明するために、ローレンツやポアンカレがすでに定式化していた奇妙な変換。一見、複雑怪奇に見えるこの変換式が、「同時性の観測」の原理からみちびかれることを、アインシュタインは示したのです。&lt;br /&gt;
　科学的記述における「観測」の役割の重要性を骨身にしみてわかっていたはずのアインシュタイン。そのアインシュタインが、同じように「観測」のプロセスを重視する量子力学、なかんずくその「標準的」な解釈である「コペンハーゲン解釈」に対して異議を唱えたということは、どのように評価すべきなのでしょう？&lt;br /&gt;
　私は次のように考えます。確かに、コペンハーゲン解釈は、観測過程の役割を重視しているという点において、アインシュタインの相対性理論の立場に一見通底しているように映るかもしれない。しかし、ボーアたちの立場は、そのように見えて、じつは「一線」を超えてしまっている。「コペンハーゲン解釈」は、アインシュタインの相対性理論の立場と決定的に違う側面がある。この点において、アインシュタインは、やはり1905年に出版された「光量子効果」の論文で、みずから量子力学の創始者のひとりと見なされながら（この業績に対して、アインシュタインはのちにノーベル物理学賞を受けることになるのですが）、「コペンハーゲン解釈」に代表される量子力学の「標準的」な描像についに同意しなかった。そのように考えるのです。&lt;br /&gt;
　今日において、量子力学の認識論的、存在論的な地位についての科学者のあいだの見解は分かれているように思います。「コペンハーゲン解釈」に基づく量子力学が、電子のようなミクロな物体の振る舞いを予想するという意味において、「完全」なる記述を与えると考える論者もいる。その一方で、現状の量子力学が、世界観の問題として、きわめて不十分だと考える人たちもいます。&lt;br /&gt;
　量子電磁気学の分野における功績で、朝永振一郎やジュリアン・シュヴィンガーとともにノーベル物理学賞を得たリチャード・ファインマンは、「誰も量子力学を理解してはいないといってもまちがいではないと思う」という言葉を残しています。「コペンハーゲン解釈」を推し進めたボーア自身が、「量子力学によってショックを受けない人は、それをまったく理解していない」といっています。立場の違いはあれ、今日にいたるまで、量子力学が、世界観の問題として、その問題について深く考える人にある種の衝撃と（ときに）違和感を与えることはまちがいありません。&lt;br /&gt;
　私の見るところ、量子力学の問題は、そもそもこの世界の存在のリアリティをどう考えるか、その根幹に関係するなにかをふくんでいるのです。ボーアに対してアインシュタインが発したと伝えられる「君が見ていないときには、月はそこに存在しないというのか？」という有名な問いは、そもそも、人間の認識と世界の存在の関係をどのように考えるかという一点に関わっているように思います。そのことと、「言語」の存在論的／認識論的地位をどのようにとらえるかということは、深く関係しているように考えます。&lt;br /&gt;
　世界が、人類がそれを認識する以前から存在していること、言語的記述を与える前からそこにあること。このことは、私にとっては自明のことのように思われます。もちろん、そのように考えない人もいるでしょう。しかし、そのような人の世界観が、果たしてこの世界のリアリティにほんとうに接触できるのか、私は疑問に思います。&lt;br /&gt;
　チャールズ・ダーウィンは、その著書『種の起源』の最後を、次のように締めくくりました。それまで、人為的な選択による変異や、自然界でのさまざまなる姿の生物、種の近縁性などについて緻密な論証を積みかさねてきたあとで、最後にこのように（ある意味では）詩的なイメージが広がるかたちで全編を終えていることを、私は真に感動的なことと思います。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;It is interesting to contemplate a tangled bank, clothed with many plants of many kinds, with birds singing on the bushes, with various insects flitting about, and with worms crawling through the damp earth, and to reflect that these elaborately constructed forms, so different from each other, and dependent upon each other in so complex a manner, have all been produced by laws acting around us. These laws, taken in the largest sense, being Growth with reproduction; Inheritance which is almost implied by reproduction; Variability from the indirect and direct action of the conditions of life, and from use and disuse; a Ratio of Increase so high as to lead to a Struggle for Life, and as a consequence to Natural Selection, entailing Divergence of Character and the Extinction of less improved forms. Thus, from the war of nature, from famine and death, the most exalted object which we are capable of conceiving, namely, the production of the higher animals, directly follows. There is grandeur in this view of life, with its several powers, having been originally breathed by the Creator into a few forms or into one; and that, whilst this planet has gone circling on according to the fixed law of gravity, from so simple a beginning endless forms most beautiful and most wonderful have been, and are being evolved.&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
　「創造者（筆者注…ここでの『創造者』という語は、当時の社会状況を反映した便宜的なものであり、かならずしも通常のキリスト教神学におけるような『人格神ヶを指すとは限らないと考えられますが）が最初は簡単な生命体をつくり」、そして「この天体（すなわち地球）が重力の法則にしたがって（太陽の回りを）回っているあいだに、かくも簡単なはじまりから、もっとも美しく、そして素晴らしい生命体が次から次へと終わりなく進化してきたのであり、いまも進化し続けているのである」（whilst this planet has gone circling on according to the fixed law of gravity, from so simple a beginning endless forms most beautiful and most wonderful have been, and are being evolved.）という最後の一文。ここで、ダーウィンが、「この天体（すなわち地球）が重力の法則にしたがって（太陽の回りを）回っているあいだに」（whilst this planet has gone circling on according to the fixed law of gravity）と書いているところに、この世のリアリティに対するある感受性を読みとるのです。&lt;br /&gt;
　ダーウィンにとっての最大の興味は、生物学でした。一時期はフジツボの研究に熱中し、ダーウィンの子どもは、父親というものはどの家でもフジツボをいじるものだと思っていた。だから、友人に、「君のパパはいつフジツボをやるの？」と聞いたそうです。晩年は、ミミズの研究をしました。土壌形成という視点から見ると、ある深さの土を食べ、それを地表に吐くことによってミミズは循環作用を持つことになる。この、ミミズについて書いたモノグラフが、ダーウィンの著作のなかで生前もっとも売れたものなのだそうです。&lt;br /&gt;
　ダーウィンは、あくまでも生物に興味を持っていた。しかし、だからといって、世界のリアリティが生物にはじまり、生物に終わるわけではないことも知っていた。生命がこの宇宙のなかに存在しようと、しなかろうと、地球という天体は重力の法則にしたがって太陽の周囲を回っていたのだろうと考えた。そのひんやりとしたリアリティの感覚を、私は愛します。&lt;br /&gt;
　言葉は、確かに私たち人間がこの世界を認識するうえで、たいせつな役割を担っています。人間が思考し、感じたことをお互いにコミュニケートし合い、共有するという意味においては、言葉が非常に重要な意義を持っていることは論を待たない。&lt;br /&gt;
　しかし、言葉以前の世界が存在しなかったとは、私は思いません。とりわけ、いわゆる「自然言語」が世界の境界を画するとは、私は考えない。もし、この言語の普遍性を考える余地があるとするならば、それは、「この天体（すなわち地球）が重力の法則に従って（太陽の回りを）回っているあいだに」とダーウィンが記した、この宇宙の因果的発展を記述する、自然法則との関係においてでなければならない。&lt;br /&gt;
　だからこそ、認識論的にも、存在論的にも、果たしてこの世界に計算可能なもの以外があるのかどうかという問いが、重要な意味を持つと私は考えます。「計算可能性」が、数式のようなシンボリックな言語による解析的な世界か、あるいはチューリングマシンのうえに実装される再帰的な関数として把握されるのか、あるいはコンウェイが考案した「ライフ・ゲーム」のようなセル・オートマトンのようなものとして構築されるのか、それは問わない。いずれにせよ、世界の因果的進行がそのような普遍言語によって把握されつくすのかどうか、そのことが第一義的な重要性を持つと私は考えます。&lt;br /&gt;
　多くの論者が「完全ではない」と感じ、考える現状の量子力学ですが、電子をはじめとするミクロな物体の振る舞いを（確率的な法則を通して）記述するという意味においては、「完全」であるともいえる。「すべての実際的な目的において」（for all practical purposes,FAPP)量子力学は「完全」であることは、多くの論者が認めるところです（「FAPP完全性」）。ダブルスリットの実験などのセットアップにおいて、電子のようなミクロの系がどのように振る舞うか。その観測から得られるデータのすべての確率を、量子力学は与えることができる。その意味において、現状の量子力学に不足はないと考える論者にも、一理あるといえるでしょう。上のような文脈における「FAPP完全性」は、まずは認めてよいということになるでしょう。&lt;br /&gt;
　その一方で、量子力学の現状に、根本的な違和感を抱く人がいることも事実です。私もそのひとりです。根幹は、量子力学における「記述」の前提、「フレーム問題」にあるように考えます。「コペンハーゲン解釈」の現状は、一種の言語至上主義といえないこともない。「コペンハーゲン解釈」に満足する人は、ある記述のシステムが用意されて、それによって世界が十分に記述されれば、それでよしとするのでしょう。&lt;br /&gt;
　しかし、それでは満足できない人たちがいます。そもそも、そのような記述がなぜ可能なのか、そこで採用されている枠組みは、なぜ正当化されるのか。&lt;br /&gt;
　そのような問いをていすることは、「君が見ていないときには、月はそこに存在しないというのか？」という反問を立てたり、「この天体（すなわち地球）が重力の法則に従って（太陽の回りを）回っているあいだに」というフレーズを生物の種の起源を議論する本の最後に書いたりするセンスと、基本的に同じであると考えます。&lt;br /&gt;
　とりわけ、ロジャー・ペンローズが量子力学に対して立てている「フレーム問題」は、潜在的には深刻なものであると考えます。量子力学においては、波動関数を記述する基底ベクトルがとられ、ある状態の波動関数は、それらの基底ベクトルの（複素数を係数とした）線型和として与えられます。そうして、観測をすることによって、系の状態が基底ベクトルで記述される状態のひとつに「縮退」し、観測されると考えるのです。&lt;br /&gt;
　ペンローズがていした疑問とは、こうです。そもそも、基底ベクトルの取り方は任意のはずだ。三次元空間を記述するのに、（ｘ、ｙ、ｚ）という座標系をとっても、それを回転させた（ｘ&#39;、ｙ&#39;、ｚ&#39;）という座標系をとってもどちらでもかまわないように、本来は、ある特定の基底ベクトルのセットが特別な意味を持たなければならない理由はない。&lt;br /&gt;
　たとえば、有名な「シュレディンガーの猫」の実験にしても、同位元素が崩壊し、毒薬の入ったガラス瓶が割れて、箱のなかの猫が「死んでいる」状態と、崩壊がまだ起こらず、猫が「生きている」状態それぞれが、波動関数が収縮する先の「基底ベクトル」にならなくてはならない理由は、量子力学の数学的形式自体からは与えられない。猫が「生きている」状態と、「死んでいる」状態が複素数で結びつけられた、混合状態が複数あり、それらが基底ベクトルのセットになったとしても、等価なはずだ。それなのに、波動関数の収縮の先は、猫が「生きている」、あるいは「死んでいる」状態になる理由はなぜなのか？　その理由は、「コペンハーゲン解釈」のような標準的な量子力学の体系の「外」から与えられなければならないはずです。&lt;br /&gt;
　それでは、その「外」とはいったいなんなのか？　ここに、量子力学が現状で抱えているもっとも深刻な脆弱性があるように私は考えます。そして、それと同型な脆弱性が、（数学的なものを含めて）およそ言語で世界を記述する立場に、普遍的に付随しているように思います。&lt;br /&gt;
　波動関数の収縮のプロセスは「計算不可能」なものであり、そこに人間の「理解」を支えるメカニズムがあり、「意識」の起源があるというペンローズの仮説が正しいかどうかは現時点ではわかりません。すくなくとも、ペンローズがその後にスチュワート・ハメロフと共同で提唱した、細胞内のマイクロチューブル内の量子計算が意識にかかわるというモデルは、そのままでは妥当性を多くの論者が考えています。私自身もそうです。しかし、量子力学の「ＦＡＰＰ完全性」を認めたとしてもなお、記述そのものの枠組みという意味において、量子力学が深刻な脆弱性を抱えていることも、また事実であると私は考えるのです。&lt;br /&gt;
　その脆弱性が、意識の起源問題に結びつくことは、ありえないことではないでしょう。&lt;br /&gt;
　（以上の議論のなかでは、理論的に重要な古典的決定論における「カオス」の問題については触れることができませんでした）&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■偶有性について&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　さて、ここで、以上に議論したことと関連しますが、すこし方向性の異なる問題について言及したいと思います。すなわち、「偶有性」の問題です。&lt;br /&gt;
　いただいた手紙の最後のほうで、斎藤さんは「偶有性」（contingency）について触れ、「半ば確かで、半ば不確か」という私が掲げた偶有性の定義が、どこに由来するものか、というふうに尋ねてくださいました。&lt;br /&gt;
　「そして、〈硬いことと柔らかいことが入りまじった状態〉ですか？　つまりそれは、外はカリッとしていて中はトロトロ、みたいな状態でしょうか。なかなかおいしそうなタコ焼……いやいや偶有性ですね。そう、ここは村上春樹ならまちがいなく『偶有的タコ焼き』とか表現するはずのところです」という斎藤さんの修辞を、私は愛しました。（批判される側がそういうのもなんですが）おもしろかったです！&lt;br /&gt;
　議論でもちいられる基本的な概念について、お互いに明確な理解を共有しておくことは、とてもたいせつなことと考えます。ですので、斎藤さんのご質問に感謝するとともに、私が理解するところの「偶有性」の定義、および性質をあらためて下で記述させていただきます。&lt;br /&gt;
　インターネット上で参照できる&lt;em&gt;Merriam-Webster&#39;s Online dictionary&lt;/em&gt;によりますと、「contingency」という単語について、&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;1 : the quality or state of being contingent&lt;br /&gt;
2 : a contingent event or condition: as a : an event (as an emergency) that may but is not certain to occur  b : something liable to happen as an adjunct to or result of something else&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
と記述されています。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
an event (as an emergency) that may but is not certain to occur  &lt;br&gt;&lt;br /&gt;
すなわち、「（緊急事態のように）起こるかもしれないけれども、起こることが確実とはいえないこと」が、contingencyの第一義であります。このような意味でのcontingencyは、神経経済学など、報酬系の働きを記述し、理解する認知神経科学の分野において重要な意味を持つにいたっています。&lt;br /&gt;
　たとえば、特定のアクションを起こしたときに、特定の報酬をえるということがある程度期待されるということがある。しかし、それは確実、というところまではいかない。まったく予想が付かないということではないけれども、かならずそうなるとまではいえない。そのような行動と報酬のあいだのcontingencyが、ドーパミン系をはじめとする脳の報酬システムによってどのように情報処理され、学習に結びつけられるか。そのような学習の積みかさねが、ある状況に置かれたときの被験者の選択や行動決定に影響するという意味において、contingencyは重要な意味を持ちます。&lt;br /&gt;
　また、2bに記述されている&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
something liable to happen as an adjunct to or result of something else&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
ですが、認知神経科学でさかんに議論され、研究されているsensori-motor contingencyはこの文脈です。なんらかのアクションをして、その結果として、ある特定の感覚のフィードバックがある。あるいは、視覚、聴覚、触覚など、複数の感覚モダリティのあいだで、相関が生じる。たとえば、手をのばしてなにかを触るというアクションを起こすと、触覚というフィードバックが起こる。あるいは、特定の視覚刺激とともに、触覚刺激が生じる。そのような相関が、contingencyとして重要な研究対象となっています。&lt;br /&gt;
　ここで肝心なのは、あるアクションをすると、かならずある触覚のフィードバックが起こる、あるいは、特定の感覚のペアどうしが、つねに生起すると保証されてはいないということで、その点を、上に参照した辞書ではsomething &quot;liable&quot; to happenという表現でとらえています（&quot; &quot;マークは筆者）。&lt;br /&gt;
　あるアクションを起こすと、ある特定の感覚フィードバックがあることが通例である場合でも、その期待が「裏切られる」こともある。あるいは、通常の場合には随伴しないような刺激どうしが、同時に起こることもある。脳は、そのような場合に、みずからつくった仮説と一致しない外界の事物を切り捨ててしまうことはせずに、むしろ自分の仮説モデル自体を修正し、新たに提示された外界の姿に合致させようとします。&lt;br /&gt;
　たとえば、いわゆる「ラバー・ハンド・イリュージョン」がそうです。視野から隠された右手を刺激しながら、目の前に置かれたゴム手袋をスティックで突くと、しばらくして、まるでゴム手袋が自分の手であるような錯覚が生じます。&lt;br /&gt;
　自分と離れた場所にあるゴム手袋が「突かれる」という視覚刺激と、自分の右手が触覚的な刺激を受けるということが同時に起こることは、通例ではありません。しかし、もしそのような事態が招来されたとすれば、脳はすぐさま適応することができる。たとえ、それが、自分の身体という、外界にくらべれば通常は安定している存在であっても、脳は適応してそれに関する仮説を修正することができる。&lt;br /&gt;
　このように、完全に確実ともいえず、完全に不確実ともいえない「汽水域」の相関（contingency）について研究することが、脳科学における重要なテーマのひとつになっています。&lt;br /&gt;
　さて、以上、&lt;em&gt;Merriam-Webster&#39;s Online dictionary&lt;/em&gt;において与えられている定義に沿って、contingencyという概念が、今日の認知神経科学においてどのような意義を持っているかを記述しました。このような意味におけるcontingencyは、日本語でいえば「不確実な相関」あるいは、「半ば確実であり、半ば不確実である」というような意義にとらえられるでありましょうが、そのようなニュアンスをすべて要約して、私は「偶有性」という言葉をもちいています。&lt;br /&gt;
　もちろん、このような意味におけるcontingencyの用法は、認知神経科学という文脈に限られるわけではありません。災害時や緊急時にどのような対応を取るかという計画を立てることを、contingency planといいます。テロや地震、ハリケーンなどの人為的、あるいは自然の災害に対応するうえでは、完全には予測できない不確定要素を考慮することが不可欠です。しかし、不確定要素があるからといって、まったく予想ができないというわけではありません。&lt;br /&gt;
　たとえば、どれくらいの規模の地震が、いつどこで起こるかは、完全に予想できることではありません。しかし、だからといって、地震災害に向けた対策をあきらめるということはできません。地震の発生場所、日時、規模を完全に予想することはたとえできないにしても、ありえる事態を想定して、水、食糧などの備蓄計画を立てたり、人や物資の輸送計画を考える。一方で、その計画では予想できない事態が生じえることも、あらかじめ織りこんでおく。contingency planにおいては、「半ば予想され、半ば予想できない」事態に対する備えが本質的となります。&lt;br /&gt;
　アメリカ合衆国の政府機関であるNational Institute of Standards and Technologyは、2002年にContingency Planning Guide for Information Technology Systemsを公表しました。著者は、Marianne Swanson, Amy Wohl, Lucinda Pope, Tim Grance, Joan Hash, Ray Thomasです。インターネットが現代の私たちの生活にとって欠かすことのできない道具、メディアに成長するにつれて、災害やテロ、妨害行為などに対してどのような備えをするかということは、きわめて重要な政策課題になりつつあるといえましょう。そもそも、インターネットという情報ネットワーク自体が、アメリカの軍部による「敵の攻撃に対して強靱な情報ネットワーク」の研究から生まれたことは、著名な事実です。そのインターネットが、いまや平和や民主主義の重要な支援技術と認識されていることは、歴史のちょっとした皮肉でしょう。&lt;br /&gt;
　 上のような意味でのcontingency planを構築し、実装し、実行することが、進化の過程で人間の脳に課されたもっとも重要な課題だということができます。生きるということは、つねに不確実性に満ちている。どんな緊急事態でも、臨機応変に対応できれば、それだけ生きのびて、子孫を残すことができる確率が高まる。しかし、まったく予想が立たないというわけではない。記憶することは、予想することと強く関係しています。脳の側頭連合野のなかで、記憶がエンコーディングされている領域と、未来を予想する領域はお互いに近い。だからこそ、ときどき両者は混同されて「deja vu」（既視感）という現象も生じます。&lt;br /&gt;
　ベイズ的な意味においては、脳の学習とは、相互作用を通して把握される環境の中に見いだされる規則性を獲得する過程だということもできる。このような文脈において、ベイズ主義者は環境のなかの規則性にこそ注目します。複雑系の研究コミュニティにおいては、（統計的な意味での）規則性では把握しきれない「一回性」（onceness）が注目されます。しかし、ベイズ主義者にとっては、「一回性」の学習、いわゆる「一発学習」（one-shot learning）も、環境との相互作用のなかに見いだされる規則性の発見という学習の一般則の例外ではありません。&lt;br /&gt;
　この点について、私がケンブリッジ大学に留学していたときにお世話になったホラス・バーロー教授と交わした会話が忘れられません。トリニティ・カレッジのダイニング・ホールで、私はホラスと当時興味を持って調べていたいわゆる「hidden figure」について議論していました。斎藤さんが前回提起してくださった論点にそくしていえば、「ウサギか、あるいはアヒルか」というようなアスペクトを、そのような手がかりがいっさいない状態から見いだすという問題であります。&lt;br /&gt;
　「Hidden figure」は、一度気づいてしまえば、時間が経っても忘れることがない。たとえば、下の「hidden figure」 (図１）は比較的容易なものですが、最初に見たとき、私はなかなかわからなかった。朝ご飯を食べながら考えて、その後、研究所に向かいながらときどきちらちら見てもわからず、昼食時に、カレーライスを食べているときに眺めていて「あっ、わかった！」と気付くまで、じつに半日間の時間を要したのであります。（答えはこのお手紙の最後に記します）&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;http://sofusha.moe-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2010/04/04/41_2.jpg&quot; class=&quot;mb&quot;&gt;&lt;img alt=&quot;41_2&quot; title=&quot;41_2&quot; src=&quot;http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/images/2010/04/04/41_2.jpg&quot; width=&quot;300&quot; height=&quot;188&quot; border=&quot;0&quot;  /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;      図１　hidden figureの例&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　一度わかってしまえば、基本的に忘れない。その意味で、「one-shot learning」は一回性の出来事であり、そこには統計性はあらわには介在しないように思われます。しかし、ホラスは、そのような場合でも、外界の規則性について主観的な確率を積みあげるベイズ的な方法が有効であると言いきったのです。このあたりの議論は、追求すればかなりおもしろいものになるでしょう。&lt;br /&gt;
　肝心なのは、たとえ、ベイズ的な立場をとったとしても、偶有性が払拭されるわけではないということです。この世の中に、完全なる規則性（たとえば「計算可能な」規則性！）があったとしても、それが、脳の限られた計算資源によって、すべて把握できるわけではありません。また、ある問題領域において、たとえ、原理的には（ほぼ）完全なる規則性の知覚に到達することが可能であるとしても、学習の過程では、不完全な規則性知覚の状態を経由せざるをえません（ここにおける「完全な規則性知覚」とは、その記述が確率的側面を含むことを許容します。たとえば、電子の振る舞いを扱う限り、確率的なプロセスを含む量子力学の記述は、「完全」なものとなります）。つまり、学習の過程では、「偶有性」が避けられないものとなります。&lt;br /&gt;
　量子力学においては、「必然」と「偶然」、「予想できること」と「予想できないこと」が一体となった「偶有性」が重要な役割を持っています。すなわち、電子などのミクロな物体の振る舞いを記述する数学的な形式において、必然性と偶然性が渾然一体となっているのです。ミクロな物体の振る舞いが、その確率的な記述に関する限り波動関数でつくされるという意味では、必然的である。しかし、波動関数で記述される確率分布のなかで、どの状態に落ちつくかということが予想できないという意味においては、偶然である。波動関数とその収縮というかたちで記述される量子力学の数学的形式そのものが、「偶有性」の純粋な表現になっています。&lt;br /&gt;
　ここで、重要な補足があります。「contingency」には、上と関連しますが、すこし方向性の異なる意義があります。すなわち、「いま、ここに実現されていることは、必然性のあることではなかった」とでもいうような意味にとることのできる文脈です。&lt;br /&gt;
　論理哲学においては、かならずしも正しいとはいえないし、かならずしもあやまりだともいえない命題が、「偶有的」（contingent）な命題だとされます。あきらかに正しい命題は、トートロジーである。一方、同時に正しいことはありえない「矛盾」する命題もある。偶有的な命題とは、論理内部では正しいとも、正しくないとも断ずることのできない命題です。&lt;br /&gt;
　たとえば、「茂木健一郎はもじゃもじゃの髪の毛である」という命題は、偶有的です。たまたま、私の髪の毛はもじゃもじゃなので、この宇宙に出現した「茂木健一郎」については、「もじゃもじゃの髪の毛である」という命題は正しい。しかし、「茂木健一郎」の髪の毛が、論理的必然として「もじゃもじゃ」でなければならなかったということはないのです。&lt;br /&gt;
　茂木健一郎が、ストレート・ヘアだったり、スキンヘッドだったりしたこともありえる。それは、同じくらい「正しい」可能性があった命題です。「茂木健一郎はもじゃもじゃの髪の毛である」という命題は、あくまでも偶有的なものにすぎないのです。&lt;br /&gt;
　スピノザは、『エチカ』のなかで、神を、ありとあらゆる意味において絶対的な「無限」であるとします。したがって、キリスト教をはじめとする宗教における通常の解釈のもとでの神学において神が持っていると仮定されている属性、すなわち、「身体」や「知性」、「意志」のようなものとは、神は無縁だとスピノザは論じます。&lt;br /&gt;
　それに対して、人間という存在は「有限」のものである。したがって、人間という存在は、「偶有的」（contingent）なのだと、スピノザは論じます。ある人間が、ある名前と性質を持って存在するということは、必然的なことではない。どんな人間も、「偶有的」な存在にすぎない。ある人間が、ある姿かたちで存在するということには、なんらの必然性も存在しない。そのようにスピノザは断じるのです。&lt;br /&gt;
　たとえば、私が、「茂木健一郎」という名前で、現代の日本に存在していることに、なんらの必然性もない。一方で、絶対的な無限である「神」のなかには、有限の存在のすべては内包される。だから、「茂木健一郎」という存在は、無限たる神の「一部分」ではある。しかし、絶対的な意味で無限な神にくらべれば、「茂木健一郎」という存在は、必然であるとはいえない。&lt;br /&gt;
　「死後の世界」（afterlife）は、人間にとって切実な「仮想」のひとつですが、それが具体的な風景や、制度や、体験として描かれている限りにおいて、「無限」である神の領域ではなく、「有限」である人間の領域に属する問題となる。David Eaglemanの&lt;em&gt;Sum: Forty tales from the afterlives&lt;/em&gt;は、このような「有限」の立場から、「死後の世界」を描いた興味深い短編集です。 「有限の存在」たる人間に関する限り、「死後の世界」でさえ、偶有的な存在にならざるをえないのです。&lt;br /&gt;
　個人的な話になりますが、このような文脈における「偶有性」を私が自分自身の問題として切実に感じたのは、九州大学における講演会の際、会場にいらしている方々一人ひとりの顔を見つめているときでした。自分自身の講演の際にはそんな暇はなかったけれども、その後のパネル・ディスカッションでは、たっぷりと時間があった。なにしろ、議論する人が五人もいれば、私が話す時間は五分の一ですみます。&lt;br /&gt;
　もちろん、他人の話を聞いていなかった、というわけではありません。一生懸命、ほかのパネリストの話を聞いていた。それでも、私は以前から「多動症」の気があり、ただ人の話を聞いているというだけでは脳に対する負荷としてもの足りない。だから、ちゃんと他人の話を聞き、しかもその場の平穏を乱さないアクティヴィティとして、会場の一人ひとりの顔を見つめるという行為にふけっていたのです。&lt;br /&gt;
　「もし、この人の人生と、私の人生が入れ替わったとしたら。」&lt;br /&gt;
　私は、会場にいる一人ひとりの顔を、じっくりと見つめながら、そんなことを考えていました。&lt;br /&gt;
　もし美人と入れ替わったら、楽しいだろう。しかし、一方で、平凡な見かけの女の子と入れ替わっても、人生にはさまざまな喜びがあるだろう。たとえば、自分が慕っていた人が思いがけなく優しくしてくれるときのように。髪の毛がふさふさした人、髪の毛があまりない人、若い人、年老いた人、やせた人、太った人。どんな人の人生と入れ替わっても、私はその人の人生を「楽しんで」みせる。そのときの私は、そのようなインスピレーションにとらわれていたのです。&lt;br /&gt;
　その感覚には、「偶有性」が二重の意味で関わっていました。まず、どんな人も、その人でなければならなかったという必然性はない。しかし、一度そのような立場を引き受けてしまったら、それはひとつの「必然」となる。この世界には、そのなかに存在する人の数だけの「必然」がある（この点は、斎藤さんのいわれる「偶有性を必然性として肯定するための認識装置」に大いにかかわることでしょう）という意味においての「偶有性」。もうひとつは、それぞれの人生において、かならず「簡単には予見できないものがある」という意味での「偶有性」。&lt;br /&gt;
　九州大学の会場に集まった人たちを見ながら、私は、「なぜかその人になってしまった」という偶有性と、「それぞれの人生に予想できないことがある」という偶有性、二重の偶有性を楽しむことができる、というひとつの見とおしないしは決意のようなものを抱いていたのです。&lt;br /&gt;
　さて、斎藤さんが書簡のなかで提起された問題のなかで、（私から見て）もっとも重要な論点のひとつは、果たして偶有性は認知できるのか、ということです。この点は、まさに、偶有性に適応するために進化してきた脳の機能を考えるうえで、本質的な問題であると考えます。&lt;br /&gt;
　結論からいえば、偶有性自体は、知覚できないと考えます。その理由は、斎藤さんのいわれるように、偶有性が、「偶然」と「必然」の境界面に横たわっているからです。「偶然」から「必然」への跳躍は「命がけ」のものであり、そのプロセス自体は知覚できない。いうならば、それは「経験される」ないしは「生きられる」しかない。しかも、このときの生の経験は、意識のなかで「これ」というかたちで把握されるものではない。それは、無意識から意識までのすべてのスペクトラムをふくむ認知のプロセスをとおして、包絡線のように浮かびあがってくるものでしかない。&lt;br /&gt;
　脳の回路の問題としていえば、偶有性の処理において本質的な役割を果たす報酬系の活動が、そのほとんどが意識にのぼらないものであるという事実がある。意識のなかでそれと感じられるfeelingに対して、emotionはその本義において無意識のものである。したがって、その本質は、意識の起源を問う心脳問題と関連するが、それを包含した、より一般的な問題群へとつながっていく。&lt;br /&gt;
　このような認識のもとで、「クオリア」と「偶有性」の関係を考えることが、現在の私にとってもっとも重要な課題になりつつあります。&lt;br /&gt;
　まず端的には、「クオリア」の本質に「偶有性」が関わっている可能性がある。（私の体系でいえば）「認識におけるマッハの原理」（Mach&#39;s principle in perception）によってクオリアが生みだされるとして、ある特定の主観性の構造、クオリアを生みだす一連の神経活動の時空的クラスターが与えられたとして、それが「私」の意識のなかでたとえば「赤」のクオリアとして感じられるのは、必然なのか？　しばしば議論される、行動的に、また脳内の物質過程としてはまったく同じふたつの主体において、たとえば「赤」のクオリアと「青」のクオリアが逆転しているということはありえるのかという問題（いわゆる「逆転クオリア」）は、この点に関わります。&lt;br /&gt;
　果たして、心脳問題における対応関係（neural correlates of consciousness）の根幹に、偶有性があるのかどうか？　ある特定の神経活動のパターンに、ある特定のクオリアが対応するというのは、そうでなければならないという理由はなかったという意味において「偶然」であり、しかし、現にそうなってしまっているという意味においては「必然」であり、そのような意味において徹頭徹尾「偶有性」が支配する領域なのか？　この問題こそが、「クオリア」と「偶有性」の関係を考えるうえで重大な意味を持つと私は考えます。&lt;br /&gt;
　進化論的な視点から見れば、クオリアは、脳が環境との相互作用においてさらされてきた偶有性に対して、適応してきた結果なのでしょう。認知的安定性と、動的適応性という、一見矛盾するふたつの傾向を同時に内包しなければ、偶有性に対する適応を実現することはできない。その意味において、クオリアが認知的安定性と動的適応性をどのように結ぶのか、この点に、もっとも本質的な問いがあるように思います。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■言語と自由&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　さて、最後に、これまでの斎藤さんとのやりとりのなかから、私が受けとったなかば「無意識」のレベルでの刺激について触れることで、今回のお返事を終えたいと思います。この点は、斎藤さんがラカンを援用して主体の「虚構性」について議論されたこととも、深く関係するように思います。&lt;br /&gt;
　斎藤さんは、お手紙の最後で、「アスペクト」の問題を提出された。そうして、そのすこし前で、（ふたたびび私から見て）とても重要なことを書かれています。&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;ルーマンの議論を敷衍(ふえん)するなら、社会や主体といった概念と、その起源をめぐる問いとのあいだには、決定的なギャップがあることになります。すでに存在している社会や主体の存在と、その起源（ここではコミュニケーションの偶有性）とのあいだには、安定した因果関係はありえない。ただ結果がある場合にのみ、事後的に起源をめぐる問いが導かれるということ。これは、社会や主体の起源を語る理論が、いわば「神話」としてしか記述しえないことを意味しています。&lt;br /&gt;
　社会や主体といった概念について「科学的」にアプローチをしようとするなら、われわれはどうしても因果論の自明性を捨てられません。なぜなら「原因があって結果がある」という思考法は、科学の根幹をなしているからです。&lt;br /&gt;
　その意味でルーマンの問いは、いわば経験科学としての社会学の不可能性にまで及んでいます。&lt;br /&gt;
　ラカンやルーマンの側に立つということは、社会や主体といった問題については「原因から結果が導かれる」というかたちで記述する可能性を断念することにほかなりません。&lt;br /&gt;
　社会や主体の起源に偶有性がある。そこまではいいでしょう。しかし、だからといって「偶有性から社会（主体）が導かれる」とは、けっしていえません。正確には「そこに社会や主体があることによって、はじめて『偶有性』の問題が生ずる」というべきなのです。すくなくとも、私はそのように考えるし、それゆえの「精神分析」でもあるのです。&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
　この点こそが、私と斎藤さんのあいだで、斎藤さんのいわれる「誠実な知的対立」が起こるべきひとつの位相なのかもしれません（もっとも、私自身は、「対立」を「対立」として固定することにはあまり関心がなく、私にとって興味のある他者、すなわち、この往復書簡における斎藤環さんがある言葉を吐くその必然性を、ぜひ理解したいと共感的に思考するタイプなのですが）。&lt;br /&gt;
　斎藤さんは、前回の手紙で言語の重要性を強調された。それに対して、私は、今回のご返信で、（斎藤さんにとって既知であろうことを重々承知しつつも）計算可能性や、量子力学の問題を持ちだしました。一度、そのような地点にもどって、私にとってのこの問題についての見とおしを確保したいと思った。そうして、斎藤さんとそれを共有したいと願った。&lt;br /&gt;
　斎藤さんが正しく指摘されるように、「原因があって結果がある」という思考法は、科学の根幹をなしています。生物が誕生するそれ以前から、人間が言語を扱うはるか前から、宇宙は因果的法則にしたがって時間発展していた。生命や言語という現象は、このような宇宙の（無機的）在り方の延長線上になければならない、すくなくとも、整合性がなければならない。私は、そのように考えます。&lt;br /&gt;
　そうして、宇宙の因果的な法則を与えるのは、数学的な形式であると思っている。たとえば、「シュレディンガー方程式」。「クライン・ゴルドン方程式」。あるいは、アインシュタインの「一般相対性理論の方程式」。あるいは、セル・オートマトンの「世代更新のアルゴリズム」。「ルール１１０」。「クラス４」。このような数学的言語、形式的言語を第一義的に思い浮かべるのは、それらが、この世界の万物の運行を、精緻に記述するということを、多くの事例をとおして知っている（と信じている）からです。&lt;br /&gt;
　ところが、ここにクオリアがある。あるいは言語がある。クオリアや言語は、因果主義者にとってつまづきの石です。なぜならば、そこには、一見、「断絶」があるように思われるからです。&lt;br /&gt;
　言語の意味は、（私の理解では）すくなくともその意識のなかでとらえられるニュアンスにおいては、クオリアと同型のプロセスで生まれてきているように考えます（言語の意味をふくめ、脳内の世界モデルに依拠した能動的意味づけを、私は色などの「感覚的クオリア」（sensory qualia）に対して「志向的クオリア」（intentional qualia）と名付け、体系的に理解しようと試みています）。&lt;br /&gt;
　果たして、脳の物質的なプロセスと、クオリアや自然言語の意味の対応には、必然性があるのか？　あるいは、そこには本質的に「偶有性」（すなわち、必然だけでは決まらない事情）が介在するのか。ここに、重要な問題が所在すると私は直覚いたします。&lt;br /&gt;
　「私」という「主体」は、幻覚（illusion ）にすぎないのでしょう。それをいうならば、すべての言語は幻覚である。しかし、それは疑いなく「いま、ここ」に存在する。それでは、これらの幻覚の存在論的、認識論的権利はなにか。&lt;br /&gt;
　因果的決定論（そこには、量子力学力学的な確率法則を含みます）を重視し、それとの整合性をあくまでも追求しようとするのか？　あるいは、クオリアや言語といった、私たちの存在の物質的基礎から「浮遊」しているものの「自由」に仮託し、偶有性を生きようとするのか？　ここには、さまざまな態度のスペクトラムがあり、取りうる立場があり、そして、そこから生じる（多くは表面上の）対立があります。&lt;br /&gt;
　いわゆる「ソーカル事件」は、この世の物質的存在基盤（およびそれを記述する数学的言語）の（理念上の）厳密性と、自然言語の意味の「自由」の間の乖離をめぐって起きたひとつの「茶番劇」だと考えています。&lt;br /&gt;
　思想家（斎藤さんもそうですが）は、言語の自由を追求してよい。一方、自然科学者は、因果的拘束をひとときたりとも忘れることはできない。自由と因果と。私は、そのあいだをなんとかつなごうと、努力してきました。この世界は整合的であるはずだという「信仰」（あえてこの言葉を使いますが）を捨てることができないからです。　&lt;br /&gt;
　私はこう考えます。たとえ、脳内の物質的プロセスと、クオリア、あるいは言語の意味の対応関係が「偶有的」なものだとしても、それは、この宇宙のなかでは、どの主体に対しても平等に、同型なかたちで起こっているのだろう。なぜならば、偶有性の作用が主体によって異なるということは、よほどアドホックな事態であるように思われるからである。この宇宙は、そのようなアドホックな事態を、何の理由もなしに招来することはないのではないか。対称性は、そのようなかたちでは破れていないのではないか。なによりも、私たちが言語を通してかりそめにも理解し合える（この往復書簡がその一例であると信じたい）という事実自体が、偶有性の作用がこの宇宙でいたるところ同型に起こっていることを示している。&lt;br /&gt;
　それならば、その同型性に、なんらかの法則性を見いだすことはできないか。そこに私の希望があります。結論からいえば、私は、因果的拘束も、言語の自由も、どちらも忘れることができないのです。&lt;br /&gt;
　私は信仰告白をしました。世界は、生命や言語誕生以前から因果的に進行していた。そうして、思想家は、なによりもまず「自由」であるべきだと信じるのです。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
茂木健一郎&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
※図１のこたえは、「地中海」の地図&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>sofusha</dc:creator>
<dc:date>2010-04-05T09:45:00+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/2010/03/post-eac7.html">
<title>第3信　 「人間」と「言語」、あるいは偶有性のアスペクト</title>
<link>http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/2010/03/post-eac7.html</link>
<description>斎藤環から茂木健一郎への手紙 ■はじめに 　茂木さん。2年半のブランクを経て、こ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;斎藤環から茂木健一郎への手紙&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■はじめに&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　茂木さん。2年半のブランクを経て、この往復書簡がゾンビのごとく蘇ったことを、とりあえずはどう受けとめたものでしょう。&lt;br /&gt;
　ずっと涙目で返信を待ち続けていたものの、私はこの往復書簡はとうに終わったものと考えていました。返信がいただけなかったのは、とても悲しいことではありましたが、その事実もまた「茂木健一郎」という人物の一側面であることを示しえたと考えて、それで満足することにしたのです。&lt;br /&gt;
　もっともこの企画、茂木さんによるガン無視パフォーマンスによって世間的に有名になったというところもあって、私もずいぶんとおもしろい経験をしました。&lt;br /&gt;
　いろんな媒体から取材を受けました。たくさんの人たちから「無視されてかわいそうに」と同情していただきました。なかでも、さる著名ミュージシャンは、この企画が往復しないほうに賭けてずいぶん儲けたということで、お礼にとごちそうしてくれました。これもまあ、茂木さんのおかげといえばいえなくもない気がします（しかし、これであの賭け金はどうなるんだろうと他人事ながら心配ですが）。ちなみに彼の話では、ミュージシャンには茂木さんシンパが多いらしいですよ。ちょっと、うらやましいですね。&lt;br /&gt;
　ただ、ひとつだけ見すごせない問題があります。&lt;br /&gt;
　どうやらこの件以降、私は「人気者にねちねちと嫌味をいうキャラ」というポジションを獲得したようで、福岡伸一さんと対談して嫌味をいったり、内田樹さんを批判したり、勝間和代さんに嫌味を書いたりという仕事の依頼が増えつつあります（私は原則として依頼原稿しか書きません）。&lt;br /&gt;
　せっかく営々と築きあげてきた「ひきこもりの第一人者（笑）」からのこうしたキャラシフトは、いったい昇格なのか降格なのか、実際のところよくわかりません。&lt;br /&gt;
　そこへこの返信です。はっきりいっておどろきました。このタイミングはどういうことなんだろうと、不審な思いすらいだきました。たまたまスケジュールに空きができたのだろうかとか、次のディケイドに向けてなにかをリセットされるおつもりだろうかとか、これが「アハ体験」だとかおっしゃりたいのだろうかとか、次々とわき上がるゲスの勘ぐりを必死で退けながら、はたしてこのお手紙に返信すべきか否か悩みました。&lt;br /&gt;
　遅れた事情はもうどうでもいいんですが、なぜいまお返事を出そうとされる気になったのか、この点については精神科医として興味があります。いや、この疑問については、お答えいただくにはおよびません。あれやこれやと「解釈」する楽しみは、私や読者のために残しておいてください。&lt;br /&gt;
　さて、二年半分の嫌味を吐きだして、すこしスッキリしましたので、さっそく本題に入らせていただきます。ちょっとまだ嫌味がくすぶるかもしれませんが、この点はご寛恕くださることを信じています。&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;■「アバター」が「人間」であるということ&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　前回も述べたように、私にとって「人間」を考えるということは、まずなによりも「言語」について考えることを意味します。かならずしも「言語がすべて」とは申しませんが、われわれの日常を覆いつくしている圧倒的な言語の作用を無視した「人間」理解はありえない。私はそのように考えています。&lt;br /&gt;
　別の言い方をするなら、私の「人間」理解において、「脳」はそれほど重要ではありません。なぜなら、人間は「脳」がなくても考えることができるからです。これは冗談ではありません。医学的な話です。&lt;br /&gt;
　2007年7月25日付けの「FOX NEWS」に興味深い記事が掲載されています（&lt;a href=&quot;http://www.foxnews.com/story/0,2933,290610,00.html&quot;&gt;http://www.foxnews.com/story/0,2933,290610,00.html&lt;/a&gt;）。&lt;br /&gt;
　44歳のフランス人男性が、左足に力が入らないという主訴（患者が医者に訴えるおもな症状）で病院を受診し、ＣＴをとってみたところ、なんと彼には脳がなかったのです(下の図1参照)。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;http://sofusha.moe-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2010/03/02/1_2.jpg&quot; class=&quot;mb&quot;&gt;&lt;img alt=&quot;1_2&quot; title=&quot;1_2&quot; src=&quot;http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/images/2010/03/02/1_2.jpg&quot; width=&quot;300&quot; height=&quot;225&quot; border=&quot;0&quot;  /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
　　　＜図1　男性の脳のＣＴ＞&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　脳がないにもかかわらず、彼はごく当たり前に生活していました。公務員として働き、結婚してふたりの子どもまでもうけています。&lt;br /&gt;
　種明かしをすれば、実際には「脳がない」わけではありません。彼は「ダンディウォーカー症候群」というまれな疾患により水頭症（髄液が異常に貯留する病気）を生じていて、そのため脳が紙のように薄くなっていたのです。&lt;br /&gt;
　こういう報告は、この事例にかぎらず時々あるようで、たとえば「サイエンス」誌の1980年12月号には、同様の事例を検討したRoger Lewin氏による「脳はほんとうに必要か？」なる論文が掲載されたりしています (Roger Lewin: Is Your Brain Really Necessary?. Science, 210(12), pp. 1232 – 1234,1980.)。&lt;br /&gt;
　前回もすこし述べましたが、「脳がすべて」とおっしゃる方には、私はこの画像をぜひお示ししたい。ハードウェアがこれほどダメージを受けていても、「人間」というＯＳは繰りかえし起動するということ。この事実は、ちょっと感動的ですらあります。&lt;br /&gt;
　で、ここから先は「脳」ではなく「言語」の話です。&lt;br /&gt;
　茂木さんは、ジェームズ･キャメロン監督の映画『アバター』（2009年）はもうご覧になりましたか。あの映画から受けた感銘や刺激を、“もれなく言語化する”ことはもちろん不可能ですよね。&lt;br /&gt;
　しかし、あの映画のほとんどは“言語”で成立しています。どういうことでしょうか。架空の惑星パンドラの世界は、3ＤＣＧでレンダリングされたものです。ＣＧはプログラム言語で“書かれて”いますね。一説によれば、『アバター』のデータ量は1000テラバイト、つまり1ペタバイトを超えるそうです。&lt;br /&gt;
　あの獰猛（どうもう）なクリーチャーたちや不思議な植生、あるいは巨大なホームツリーまでもが、完全に“言語的に構成”されているということ。&lt;br /&gt;
　この意味でいえば、いまや“言語化不可能“なものは、なにひとつありません。あらゆる音、あらゆるイメージは、デジタル化可能です。味や匂いについてはまだむずかしいようですが、ようはインターフェイスの問題なので、解決は時間の問題でしょう。&lt;br /&gt;
　つまり、あらゆる感覚は、原理的にはデジタル化可能なのです。そして、デジタル化できるということは、言語化可能であるということです。私は、そこまでは“言語”の作用にふくめていいと考えています。&lt;br /&gt;
　もちろん『アバター』という作品自体も、非常によくできていたと思います。私は、キャメロンのＢ級テイストは大好きなので、よくいわれるような物語の凡庸さはあまり気になりませんでした。『ダンス・ウィズ・ウルヴス』（1991年）に似ているとか、ネイティリはポカホンタスだとか、『もののけ姫』（1997年）のパクリだとか、そういう批判ですね。&lt;br /&gt;
　ただ、この物語が、ある意味でハリウッド映画の「常識」をひっくり返している点が、意外に指摘されていない。本題ともかかわることですから、すこしくわしく触れておきましょう。&lt;br /&gt;
　『アバター』という映画の構造は、かの名作『マトリックス』（1999年）に似ています。“仮想空間”に自分の分身（アバター）を介して没入する、という設定が（もちろん惑星パンドラは仮想空間ではありませんが、比喩的な意味で）。&lt;br /&gt;
　しかし、似ているのはここまでです。&lt;br /&gt;
　映画『マトリックス』において（あるいは、奇しくも『アバター』と同時期に公開された『サロゲート』もそうですが）、現実世界は仮想世界よりもおおむね優位に描かれています。虚構より現実がえらい、というおなじみの議論です。&lt;br /&gt;
　たとえば『マトリックス』では、裏切り者、つまり悪役側のサイファーという人物がこんな言葉を口にします。&lt;br /&gt;
　「俺はな、このステーキが存在しないことは知ってるんだよ。口に入れると、マトリックスが俺の脳味噌に、これが肉汁たっぷりで最高にうまいと教えてくれるんだってこともな。9年かかって俺がなにを理解したか、アンタわかるか？　無知の至福さ。」&lt;br /&gt;
　現実よりも仮想現実を選択するという判断が「悪役」のものであるということ。この描写が象徴するように、「現実＞仮想」あるいは「三次元＞二次元」という価値観は、もはやハリウッド映画の強迫観念ですね。虚構産業の自浄作用のようなものでしょうか。まあそれはともかく。&lt;br /&gt;
　　『アバター』で、主人公ジェイクは、あらゆるハリウッド映画的伝統に逆らって、なんと仮想現実に生きることを選択します。この部分、あまりにもあっさりと描かれているので気づかれにくいようですが、これは二重の意味で画期的なことです。&lt;br /&gt;
　前衛映画ではありません。超娯楽大作の主人公が、地球（＝現実世界）に還らず、仮想空間（パンドラ）のヒロインと生きることを選ぶということ。なんともオタク的な「ネイティリは俺の嫁」宣言です。すいませんわかりにくかったですね。これは一般には、漫画やアニメのキャラクターにリアルな恋愛感情を喚起されてしまった漢（おとこ）たちが口にすべきテンプレートとされています。&lt;br /&gt;
　さらにいえば、キャメロンはこの映画で「もう現実とか仮想とか区別しなくてもよくね？」と提案しているようにもとれます。アメリカでは本作を観た観客のなかに、「パンドラから帰りたくない」という思いが高じて、うつ状態におちいった人々がすくなくなかったと報じられています。もしこれが事実なら、キャメロンの目論見は見事に当たったといえるでしょう。なにしろハリウッド映画に連綿と受けつがれてきたプラトニズム（イデア＞現実＞虚構）の伝統を、根底からくつがえしちゃったんですから。&lt;br /&gt;
　さらに視点を変えれば、『アバター』は、きわめて精神分析的な作品でもあります。&lt;br /&gt;
　すくなくともラカン派的な視点から見れば、虚構と日常的現実とは、ともに「想像界」に属するという意味で、本質的な区別はありません。同じように、「地球人」も「ナヴィ」も、ともに「人間」であるという意味では同一の存在です。&lt;br /&gt;
　あの大きすぎて顔色が悪すぎて目がはなれすぎているナヴィたちが「人間」だって？　と不審に思われるかもしれません。&lt;br /&gt;
　しかし、たとえば、ラカン派哲学者のスラヴォイ・ジジェクは、こんなことを書いています。茂木さんは、映画の『ブレードランナー』（1982年）をご存じでしょう。あの作品にはレプリカントというサイボーグのような存在が登場しますが、ジジェクはそのレプリカントたちを「人間」であると見なします。&lt;br /&gt;
　なぜそんなことが可能なのか。&lt;br /&gt;
　たとえ彼らが人間とまったく異なった物質で構成され、あるいは脳の機能すらも人間とまったく異なっていたとしても、言語によって内省し、語る存在は、ことごとく「人間」なのだ、とジジェクはいうのです。&lt;br /&gt;
　じつは私も、この過激な主張を完全に支持するものです。&lt;br /&gt;
　言語システムは象徴界という普遍的な構造を持っており、それゆえ言語を語る存在は、それがいかなる言語であれ、共通の心的装置を持つことになります。もちろんこれは、科学的実証に耐える議論ではありません（「反証」できないため、でもあります）。しかし、だからこそ、精神分析による人間理解として、きわめて重要な「足場」たりうるのです。&lt;br /&gt;
　言語によって内省し、言語によって語るということは、「自分自身の存在について考える」という、一種のメタ認識能力を持つことを意味します。くわしく説明する余裕はありませんが、この能力ゆえにわれわれは『アバター』に同一化できるし、同時にアバターと自分を区別できます。&lt;br /&gt;
　そういえば荘子の「胡蝶の夢」も、マトリックスみたいな構造の寓話でした。ただし、ラカンのひねった解釈によれば、夢のなかで胡蝶になっているときは胡蝶であることを自問自答しないのに、目が覚めて荘子にもどってからは、自分が荘子か胡蝶かを自問自答しているのだから、胡蝶と荘子はかならずしも対等ではない、ということになります。&lt;br /&gt;
　ならば、もし胡蝶も、荘子と同じように自問自答していたとすればどうでしょう？&lt;br /&gt;
　私が『アバター』でもっとも感動したのは、ヒロインのネイティリがジェイクの障害を持った“本体”を救出し、抱きしめるシーンでした。&lt;br /&gt;
　これこそはネイティリが「自問する胡蝶」たる証であり、夢自身による「私はあなたに見られている夢」という告白であり、「ジェイクは俺の嫁（「嫁」です、断じて）」宣言でもあるのです。&lt;br /&gt;
　視覚的なイメージだけを信じる立場からすれば、ナヴィたちに「青のクオリア」以上のものは感じられないかもしれません。しかし、ナヴィとジェイクのあいだには、互いが言語的存在であるという共通認識があった。言語的存在であるということは、「コミュニケーションという幻想」を介して、リアルな「関係」を築きうるということを意味します。&lt;br /&gt;
　そして、この「関係可能性」さえ信じられれば、猫でも犬でも「人間」です。誰であれ、愛するペットに「おまえ、ほんとうはしゃべれるんだろ？」と尋ねたことのない人がいるでしょうか。そういえばうちの猫は、そう尋ねると目をそらすんです。まちがいありません、やつは猫をかぶった「人間」です。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■「主体」の構成について&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　さて、いよいよ本題に入りましょう。&lt;br /&gt;
　今回の茂木さんの返信は、原稿用紙にして50枚ほどもありましたので、なかなか読みごたえがあります。それでも茂木さんの文章はリーダビリティが高くて、あっという間に読んでしまいました。&lt;br /&gt;
　で、とりあえず茂木さんの手紙のあらすじをざっと整理してみました。だいたい、こんな感じでしょうか。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　(1)  茂木さんは、飛行機でタイ人の少年に座席をゆずってあげた。&lt;br /&gt;
　(2)  言語だけでは、意識を現象学的に記述できない。&lt;br /&gt;
　(3)  主体は、無から偶有性という「鏡」のもとで構成される。&lt;br /&gt;
　(4)  茂木さんは、フルマラソンを走ろうとしたことがある。&lt;br /&gt;
　(5)  統計で脳はわからない。&lt;br /&gt;
　(6)  ジークフリートは、ひどい男である。&lt;br /&gt;
　(7)  そういう意味からも「偶有性」が重要である。&lt;br /&gt;
　(8)  地球は、いずれ滅びる。&lt;br /&gt;
　(9)  なんといっても「偶有性」が重要である。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　このうち、(1)、(4)、(6)、(8)については、とりたてて異論はありません。いずれについても「なるほど、いわれてみればそのとおりかもしれない」と感じました。私だってなんでも反論したいわけではありませんのでね、この点はしっかり強調しておきます。&lt;br /&gt;
　あと、(5)については、そもそも私は統計の話をしておりませんので普通に読みましたけど、ちょっとこれまずくないですか。統計的手法を否定してしまったら、それこそ脳科学をふくむ経験科学の大部分は壊滅的な影響を受けませんか？　それとも茂木さんは、脳科学を形式科学として実践されているのでしょうか？　「理論脳科学」のような？&lt;br /&gt;
　まあ、とりあえずこの部分は、「この往復書簡では科学よりも哲学モードで語り合いましょう」というモードチェンジ宣言と理解しておくことにします。私もそれに合わせるつもりです。&lt;br /&gt;
　私にとって重要な論点は、(2)、(3)、(7)、(9)ですね。&lt;br /&gt;
　茂木さんが誠実に書いてくださったので、私とはものの考え方が、もっとも根本的な部分ですれ違っていることがよくわかりました。最初に述べたとおり、この往復（に時間をようする）書簡は、論争ではなくて「立場の違い」の確認を目的としています。ですから、ここに示された論点について、いちいち細かな反論をするよりも、もっとざっくりと、私の思うところを述べておきます。&lt;br /&gt;
　まず、「主体の構成」について、私の考えを述べておきましょう。&lt;br /&gt;
　前回のお手紙で、茂木さんがラカンの鏡像段階について触れてくださったことは、たいへんうれしく感じました。&lt;br /&gt;
　しかし、しかしですよ、誠に失礼ながら、ここには大いなる誤解があるといわざるをえません。誤解という強い表現をあえてもちいるのは、茂木さんが、ラカンの名前を出されたからです。つまり、ラカン理論として考えるなら、茂木さんの鏡像理論に関する解釈は、端的に誤解と申しあげるほかないのです。&lt;br /&gt;
　茂木さんの文脈では、鏡像段階も接触によるフィードバックも、主体を生みだすブートストラップという点では同じことになってしまいます。しかしそれでは、「人間」の存在論的な特異性があいまいになってしまいます。&lt;br /&gt;
（※ちなみに、分野によってはこの「ブートストラップ」も、かなり意味に幅のあるコトバですが、ここでは「Wikipedia」にしたがって、もっともシンプルに「単純な要素から複雑なシステムを構築する過程」という意味にとらえておきます）&lt;br /&gt;
　よろしいでしょうか。人間の主体は、まったくの無からブートストラップ的な過程を経て形成される、と茂木さんはおっしゃる。ここで茂木さんは、幼児が鏡像とのあいだで刺激と反応を繰りかえしながら、徐々に自我の輪郭を形づくっていくような過程をイメージされているように思います。&lt;br /&gt;
　ところが、ラカン的な立場からすれば、こうした理解こそが、まさに主体の不当な実体化、ということになるのです。この理解ですと、一度“無から”形成されてしまった「主体」は、ニューラルネットワークという実体化を経て、脳内のどこかにしっかりと位置づけられることになってしまいませんか？　&lt;br /&gt;
　問題は、主体の起源が無根拠である、ということではないのです。むしろ順調に育まれつつあった人間の“生物的”自我が、鏡にふれることで、&lt;u&gt;一気に欠如態に変換させられてしまう&lt;/u&gt;こと。これこそが本来の「鏡像段階」の“意義”なのです。&lt;br /&gt;
　それを信ずるかどうかは別として、鏡像段階の特異性は、システム論的なフィードバックを越えたところにあります。どういうことでしょうか。以下、ごく簡単に説明してみます。&lt;br /&gt;
　生後まもない赤ん坊は、神経系の発達も未成熟のままであり、それどころか、自分と母親の区別も十分についていないとされます。それゆえ、自分の身体イメージも混沌としています。これは「寸断された身体」などと呼ばれます。&lt;br /&gt;
　ところが、生後6ヶ月から18ヶ月くらいの時期に、子どもは鏡に写った自分の姿に関心を持ちはじめます。それが自分自身の映像であることを知って、子どもは小おどりして喜びます。ばらばらに感じられていた自分のイメージが、鏡のなかでひとつにまとめられることの歓びですね。こうした自己獲得の歓びが、触覚でも聴覚でもなく、視覚だけによってもたらされること。この圧倒的な視覚優位性こそが、のちのち重要な意味を持ちます。&lt;br /&gt;
　このとき、母親が子どもの喜びに承認を与える（「そう、それはお前だよ」）ことによって、「これが私だ」という認識が生まれます。これがラカンによれば、最初期の知能ということになります。&lt;br /&gt;
　重要なことは、このとき子どもが&lt;u&gt;完全に騙されている&lt;/u&gt;、という点にあります。&lt;br /&gt;
　人間は、自分自身の眼で自分を直接に眺めることができません。それゆえ左右反転した鏡像という偽のイメージによって、最初の自己像を確立するほかはありません。このとき子どもは、自分が自分であるためには、鏡のような幻想の力を借りなければならないという意味で、きわめて大きな負債を追うことになります。&lt;br /&gt;
　別の言い方をするなら、子どもは鏡像の力を借りることで、ありえないほど早期に自己イメージを確立できる代わりに、「真の自己イメージ」と出会う機会は永遠にそこなわれます。これを精神分析では「主体は自我を鏡像のなかに疎外する」と表現します。&lt;br /&gt;
　多くの場合、こうした「疎外」は自覚されることはありません。だから、一部の人々は、「じぶん探し」と称する、ひたすらおのれの鏡像に騙され続ける旅をえんえんと続けます。しかし、ラカンによれば「じぶん探し」に真の回答がありえないことは、鏡像段階ですでに定められた運命なのです。&lt;br /&gt;
　ラカンは、この段階を構造的な必然と考えます。つまり、事後的に考えて、人間の自己はそのように確立されたと仮定するほかはない、という意味です。言い換えるなら、乳幼児をじっくり観察して、「鏡像段階」を検証することはできません。そういう意味で、鏡像段階は「神話」です。つまりそこには、茂木さんがおっしゃる意味での「偶有性」や「ブートストラップ」は存在しないのです。&lt;br /&gt;
　もっとも、こう述べるだけでは悲観主義すぎるかもしれませんね。&lt;br /&gt;
　主体が欠如としてもたらされること、真の自己像が不可能であることには、きわめて大きなメリットがあります。自己像が幻想でしかないことの恩恵として、われわれはさまざまなイメージに自由に同一化できるからです。尊敬する人物や飼っているペット、あるいは虚構のなかのキャラにまで、容易に自己投影できること。われわれは鏡像に騙されることで、嘘をつく能力を手に入れました。まさにこの能力こそが、想像力の起源でなくてなんでしょうか。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■“言語”の優位性について&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　次に、言語について検討してみましょう。ここでは茂木さんの「言語だけでは、意識を現象学的に記述できない」という指摘に注目してみます。&lt;br /&gt;
　すでに『アバター』のエピソードで、私なりの「人間」理解についてはかなりくわしく述べました。&lt;br /&gt;
　そこにも書いたとおり、私が言語の機能を重視するのは、人間の心的装置をつくり上げているものが、徹底して言語的な成分であるというラカン派の公準にもとづいています。正確にはシニフィアンということになりますが、読者の便宜を考えて、ここはあえて近似的表現をもちいます。&lt;br /&gt;
　茂木さんがおっしゃりたいことはわかります。意識に生起するさまざまな表象は、しばしば言語を越えている。私もある時期までは、そのように考えたこともありました。というか、いまでは「言語を越えた経験がある」と思っていない人のほうが、きっと少数派でしょう。&lt;br /&gt;
　たとえば、茂木さんも私も接点がある現代アーティストの多くは、「いかに言語に回収されない表現を達成するか」という課題につきまとわれているようにすら思います。&lt;br /&gt;
　ここにはきわめて重大な逆説があります。それは「言語を越えた経験」の存在は、言語以外の方法ではけっして伝達できない、というものです。&lt;br /&gt;
　フロイト＝ラカンによる精神分析は、「イメージは言語を越える」という「常識」をくつがえした点に大きな意義があった、と私は考えています。そう、逆に考えるのです。「言語は、表象や意識を越えている」と考えるのです。&lt;br /&gt;
　たとえば、フロイトの著書『夢判断』では、夢に現れるさまざまなイメージが、いかに言語的成分から構成されるか、ほぼそのことばかりが繰りかえし検討されています。もちろん、『夢判断』における夢解釈の妥当性には異論の余地があるでしょう。しかし、あっさり「言葉にならない」とすまされがちな夢のイメージにまで、なんらかの構造や文法を見いだそうとするフロイトの過激な意志そのものは、いまなお価値を失っていません。「言葉を超える」と称して、その実、ひたすら言葉から逃避しているだけの言説よりも、よほど信頼できます。&lt;br /&gt;
　ちょっと古い本ですが、名著『生物から見た世界』で、ヤーコブ・フォン・ユクスキュルは“Umwelt”（環世界）という概念を提唱しています。つまり、生物はそれぞれの認識能力によって、制約された世界を生きているという話ですね。この本でユクスキュルは、コクマルガラスが静止しているキリギリスを認識できない例や、雌のコオロギが雄コオロギの姿ではなく声しか認識できないなどの例をあげています。&lt;br /&gt;
　なかでも、いちばん有名なのは、マダニの例でしょう。マダニの雌は木の枝先の下を動物がとおると飛び乗って血を吸いますが、このとき、視覚や聴覚を持たないダニは、動物が皮膚から発する酪酸、動物の体毛、動物の体温という三つの刺激にしか反応していない。つまりダニの環世界は、光覚、触覚、温覚という三つの刺激だけで構成されているわけです。&lt;br /&gt;
　ほぼ同様のことを、ハイデガーはもっとうまく整理しています。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　(1)石は世界を持たない（weltlos）。&lt;br /&gt;
　(2)動物は世界貧困的である（weltarm）。&lt;br /&gt;
　(3)人間は世界形成的である（weltbildend）。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　なぜ人間だけが世界を形成できるのか。それはまちがいなく、言語の機能ゆえでしょう。世界貧困と世界形成とのあいだには、決定的な断絶がありますが、これもたらしたものこそ言語なのです。もし人間に感覚やイメージしか許されていなかったら、人間の世界ははるかにちいさく、狭いものになっていたはずです。&lt;br /&gt;
　しかし、人間は言語の機能によって、認識できる世界を極大にまで拡張しました。これは、感覚ではなく認識の問題です。むしろわれわれは、（あえて言いますが）言語の力を借りることで、超音波や赤外線のような、感覚閾値（直接に感覚できない刺激）を超えた刺激まで“認識”できる。そうではありませんか（もっとも、言語ゆえに、存在しない“電波”まで受信しちゃう人もいるわけですが……）。&lt;br /&gt;
　茂木さんは、「体験のすべてを言語化できるか」とおっしゃる。もちろん、そんなことは無理に決まっています。なんであれ“完璧な言語化”などできません。というか、それはなにも、言語にかぎったことではない。「任意の感覚や情緒を完璧に媒介せよ」なんてことが、そもそも可能だと思われますか？　そんな試みは、不可能であるばかりか、単に無意味です。&lt;br /&gt;
　私たちは、「すべてを映像化できるか」とか「すべてを聴覚化できるか」という疑問に、あまり悩むことはありませんよね。でも、なぜか、どういうわけか、「すべてを言語化できるか」という問いだけは、えんえんと問われ続けています。それは言語だけが、私たちにその種の万能感を与えているからでなければなんでしょうか？&lt;br /&gt;
　たしか漱石の『猫』に、「二十四時間で経験したことをもれなく書こうとすれば二十四時間かかるだろう」という趣旨のことが書かれていましたが、これはベタに受けとればまちがいです。あらゆる経験の記述が、わずか二十四時間で済むわけがありません。漱石は、ようするに、なにもかももれなく言語化することの愚かしさを言いたかったのでしょうが、それはともかく。&lt;br /&gt;
　むしろわれわれは、原理的には伝達不可能なはずの主観的体験すらも、比喩をもちいたり、「それは言語を越えている」などと言いあらわすことによって共有できてしまうほど、言語に浸りきった存在なのではありませんか？&lt;br /&gt;
　そもそも、「なぜ言葉が伝わるか」は科学的に解明されていません。というか、ほんとうに厳密に考えるなら、言葉でなにかが確実に伝わっていると実証することすらできません（「確率的」にはいえるかもしれませんが）。&lt;br /&gt;
　もしこれが言葉ではなく記号だったなら、意味は確実に伝わっていたでしょう。ラカンが例示したトゲウオの求愛ダンスや、あるいはミツバチの8の字ダンスは、単純な意味を確実に伝達するという意味で、記号的なコミュニケーションです。&lt;br /&gt;
　言葉による伝達の不確実さは、言葉が記号と違って、その意味を一義的に決定できないためもあります。それはきわめて文脈依存的に決定されるわけですが、この「文脈」がまた難物です。というのも、テクストからいかにしてコンテクストが生ずるのか、この疑問すら解明されていないからです。&lt;br /&gt;
　ベイトソンは、コンテクストの認識を「学習Ⅱ」に位置づけましたが、「学習Ⅱ」がいかにして可能になるかは謎のままです。だから、コンピュータはいまだに、真の意味でのコンテクスト認識ができません。漢字変換ソフトなどのコンテクスト認識は、実際にはせいぜいパターン認識止まりです。&lt;br /&gt;
　もっとも、もしコンピュータによる正確なコンテクスト認識が可能になれば、それはほとんど情報革命みたいなものです。この革命は、いわゆる「フレーム問題」をも同時に克服するわけですから、人工知能も夢ではなくなるでしょう。&lt;br /&gt;
　ラカンによれば、コミュニケーションは端的に“不可能なもの”です。言葉がなにかを確実に伝えているということに、いかなる根拠もありません。あとでふれる社会学者のルーマンも、ラカンとは別の角度（「ダブル・コンティンジェンシー」問題）からコミュニケーションの不可能性を指摘しています。精神分析とシステム論という、すくなからぬ対立点をふくむふたつの理論における巨人が、ふたりながら同じ結論に達していることは、きわめて重要です。&lt;br /&gt;
　これを茂木さんがお好きな言葉で表現するなら、“言葉が伝わっている”という事態こそが、偶有性以外のなにものでもありません。われわれは互いに、言葉によって理解し合えているかのような錯覚におちいっているだけなのです。&lt;br /&gt;
　つまり、言葉でなにかを表現したり、それが理解されたりするという事態そのものが、かぎりなく奇跡に近いのですね。&lt;br /&gt;
　しかし、われわれは言葉以外の有効な伝達手段をほぼ持っていません。&lt;br /&gt;
　ＳＦなどでは、脳と脳を接続して意思の疎通をはかりうるような話がよく出てきますが、これがどんなにありえないことかは、たとえばアスペルガー症候群の当事者が書いた手記などを読めばわかります。人は、自分自身の身体に生じた感覚をほどよく抽象化し、言語にまとめあげてから、あらためて自分自身にそれを伝えます。ようするに、これが「認識」です。&lt;br /&gt;
　この過程に個体差があるために、神経系を接続して認識や感覚だけを共有できたとしても、それがなにを意味するかまでは伝わりません。言語という形式に情報を落とし込んでいるからこそ、われわれはそれを受けとり、ふたたびそれを解凍したり加工したりと工夫ができる。&lt;br /&gt;
　むしろ私が驚くのは、その不確実さにもかかわらず、言語が持っている過剰なまでの伝達性です。&lt;br /&gt;
　俳句や短歌、あるいは詩などが典型ですが、われわれは情報量からすればほんの数十ビットという言語刺激から、しばしば無限大の世界をイメージし、それを共有することすら可能です。描写や比喩は言語だけの機能ですが、まさにこの機能によって、わずかな情報量で膨大な共感覚を喚起することが可能になります。すくなくとも、可能であると感じています。&lt;br /&gt;
　言語以外のどんな手段で、はたしてわれわれは、これほどまでに相互理解し合えたでしょうか。&lt;br /&gt;
　音声と文字という、ほぼ誰もが使用できる素朴なインターフェイスをもちいて、これほど高速にやりとりできる“メディア” （と、仮に呼んでおきますが）が、ほかに考えられるでしょうか。われわれは言語という、異常なほど高機能な“メディア”にあまりにも慣れ親しみすぎているために、その途方もない恩恵に鈍感になってはいないでしょうか。&lt;br /&gt;
　そもそも他者の内面などというものは、哲学的にはほぼ完全に不可知の領域とされます。むしろ、私の主観的な体験を他者に伝達することそのものが、かぎりなく不可能に近い事態であるはずです。しかし、言葉のおかげで、われわれは他人の主観を類推したり、あまつさえ共感したりすることまでできる。&lt;br /&gt;
　なぜそんなことが可能であるかわからない以上、私たちは言葉を発するたびに、暗闇を跳躍(ちょうやく)しているに等しいのです。にもかかわらず、その跳躍はおおむね成功する。あるいは成功しているかのような結果が得られる。これはかなりとんでもないことです。&lt;br /&gt;
　繰りかえします。「言語化しきれない体験がある」というのは、当然のことです。むしろ、ある種の体験は言語化が可能であるような結果が得られてしまうことのほうが、謎であり奇跡なのです。この事実ひとつとっても、言語の圧倒的な優位性はゆるぎません。&lt;br /&gt;
　あるいは“逆説”について考えてみましょう。記号で“逆説”は表現できません。だから、「クレタ島人のパラドックス」のような自己言及問題をコンピュータは処理できません。&lt;br /&gt;
　しかし、われわれは、こうした“逆説”も言語で表現することによって、あっさり処理することができます。「『クレタ島人は嘘つきだ』とクレタ島人はいった」という記述のなかに、発言の主体であるクレタ島人と、言及されているクレタ島人は、論理階梯が異なることを自然に含意できるからです。それゆえわれわれはこの“逆説”を、ひとりの批評的精神を持ったクレタ島人（エピメニデス？）が、みずからが所属する「島民性」について論評している、と容易に理解することができるのです。&lt;br /&gt;
　さらに、きわめつけの“事実”があります。メディアとしての言語がとんでもないのは、これのみが一種の自律性によって情報をつくり出すことができるという点にあります。少々、オカルト風に表現するなら、こういうのが「言霊」などと呼ばれるわけでしょう。&lt;br /&gt;
　なにしろわれわれには、言語表現をもちいることで、経験したことのない風景や感情、あるいは魅力的なキャラクターを造形することすら可能です。こうした自律的機能は、視覚や聴覚に依存したいかなる記号にも不可能なことです。フロイトが見いだしたように、幻想や空想の領域では、イメージは完全に言語にしたがいます。そう、惑星パンドラの風景がプログラミング言語で描かれたように、です。&lt;br /&gt;
　フロイト＝ラカンが発見したのは、こうした言語システムの自律的作動が、人間に「欲望」や「症状」をもたらす、という「真理」ですね。じつはここにこそ、精神分析の真骨頂があるのですが、今回は深入りせずにおきます。&lt;br /&gt;
　ちなみにラカン理論といえば、しばしば短絡的に「主体の欠如が欲望をもたらす」的なまとめ方をされやすいんですが、それはいくらなんでも乱暴というものです。言語システムによって媒介されることが、主体の欠如と欲望をかりそめの因果関係で結ぶ、というほうがまだ正確です。だって、欠如が欲望に直結しているのなら、それは欲求と変わりませんからね。&lt;br /&gt;
　まあ、さしあたり「言語がすべて」などとはいわずにおきましょう。しかし、私たちの心は、言語システムというきわめて特異な媒体にとことん浸されていること、この点はやはり、どうしてもゆずれません。&lt;br /&gt;
　だから、「イメージは言語を越えている」と主張される方にお願いがあります。「言語を越えたイメージ」への憧れや共感は、私にも理解できます。しかし、こうした感覚こそが、言語の作用がもたらした効果のひとつである可能性についても、ちょっと立ち止まって考えてみていただきたいのです。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■「感覚」と「言語」の問題&lt;br&gt;　&lt;br /&gt;
　前回のお手紙で茂木さんが指摘されたように、私たちが一個人として、自分の内面に生起するさまざまな感覚を味わうとき、あるいは言語は不要なのかもしれません（この点についても、ほんとうは異論があるのですが）。しかし、そうした感覚の存在を、他者とすこしでも共有しようと思ったら、私たちには言語を使う以外の方法がない。それは、さきほども申しあげたとおりです。&lt;br /&gt;
　赤いリンゴを見て、私がなにを感じたかを示そうとするとき、黙ってそのリンゴそのものを相手に示せばいいのでしょうか？　おそらく、それではむずかしいでしょう。私はリンゴの色を見ているのに、相手はリンゴのかたちや大きさを見ているのかもしれない。たまたま空腹な私には、リンゴがおいしそうに見えたとしても、相手は歯槽膿漏でリンゴが苦手かもしれない。&lt;br /&gt;
　だからこそ、この私の感じている感覚を伝えるには、せめて「このリンゴは赤くておいしそうだ」といった言葉くらいは、そえる必要がある。なんらかの言葉や説明を添えなければ、私たちは同じものを見ていながら、ぜんぜん別のことを考えてしまう可能性があるからです。&lt;br /&gt;
　ちなみに、リンゴの、〈いわく言いがたい印象〉を簡潔に伝えようと思ったら、いまならこういうべきでしょう。「これが“リンゴのクオリア”というものだね」と。すみません、半分は皮肉です。こういう使い方が適切かどうかはわかりません。しかし、もしこんな使われ方が許されるなら、「クオリア」は単なるバズワードにすぎないと私は思います。&lt;br /&gt;
　ところで、こうした感覚の問題をつきつめていくと、前回に茂木さんも名前を出されていたルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタインにゆきあたります。&lt;br /&gt;
　彼は、感覚のなかでも、とくに「痛み」に注目しました。なぜ、「痛み」なのでしょうか。&lt;br /&gt;
　「痛み」ほど主観的な感覚は存在しません。ほかのあらゆる感覚には、原則として「対象」が存在します。でも、「痛み」にだけは、対象があるとはかぎりません。だからこそ、どれほど身体を精査しても原因がわからない痛みというものが存在するのです。&lt;br /&gt;
　しかし、身体的な原因がないからといって、「痛み」の存在を否定することはできません。痛みを訴える患者に対して、治療者は「あなたは、ほんとうは痛くないはずだ」とは、けっしていえないのです。&lt;br /&gt;
　たとえば、「幻覚」について考えてみましょう。存在しないものが見える「幻視」、存在しない音が聞こえる「幻聴」のほか、「幻嗅」「幻味」「幻触」など、さまざまな分類があります。しかし、「幻痛」だけは存在しません。なぜでしょうか（存在しない手足が痛む「幻肢痛phantom pain」は、「幻の痛み」ならぬ「幻の身体」です）。&lt;br /&gt;
　五感には、かならずその「対象」が存在します。われわれはなんらかの対象を見、聞き、嗅ぎ、あるいは味わい、触れることで、その存在を確認します。だからこそ、対象がないのに生じる感覚を「幻覚」と呼びうるのです。しかし、かならずしも対象を必要としない「痛み」だけは、それが「幻覚」か否かの判断を誰にも下すことができないのです。対象がかならずしも存在しない「痛み」は、「純粋感覚」ともいえるかもしれません。&lt;br /&gt;
　だから、「痛み」の測定はむずかしい。かつて室蘭市立医科大学教授が、「長さ1センチの鼻毛を鉛直方向に1ニュートンの力で引っ張り、抜いたときに感じる痛み」を「1ハナゲ」と定義することを提案し、国際標準化機構(ISO)によって認可された、と報じられて話題になりましたが、これは痛み測定のむずかしさをネタにした秀逸な冗談でした。&lt;br /&gt;
　こうした痛みの主観性は、その発生メカニズムによるところも大きいでしょう。医学的には、たとえば「プロスタグランジンやブラジキニンといった発痛物質がポリモーダル受容器を刺激する」といった説明が可能ですが、もちろんこれがすべてではありません。&lt;br /&gt;
　ひとついえることは、「痛み」発生のメカニズムが、かなりの程度、神経系に内在的なものであるということです。痛み刺激をもたらす対象が存在するとしても、その対象が痛みをもたらすまでには、ほかの感覚よりも複雑な過程を経ることになります。また、それゆえに、外部に対象が存在していなくても、神経系の内部だけで、痛み刺激が発生しうるのです。ほかの感覚にくらべて、「痛み」がすぐれて主観的な感覚であるのはこのためです。&lt;br /&gt;
　ながながと「痛み」について述べてしまいましたが、その特異性についてはこれで十分でしょう。&lt;br /&gt;
　ここでひとつの疑問がわき起こります。これほど主観的な「純粋感覚」を、われわれはなぜ言語化できるのか？　客観的対象が存在しない「感覚」を、われわれはなぜ、名指すだけで他者に伝達しうると信じているのか？&lt;br /&gt;
　結論を先に書きましょう。&lt;br /&gt;
　われわれが「痛い」と感ずるのは、まさに「痛い」という言葉があるからです。&lt;br /&gt;
　ウィトゲンシュタインは、後期の代表的著書『哲学探究』において、「痛み」についてくわしく検討しています。そのなかで、彼はたとえば、次にように述べています。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　「ある子供が怪我をして、泣き喚く。すると、大人たちがその子に話しかけ、叫ぶことを教え、さらに後に、文を教える。彼らは子供に、痛いときの新しい振る舞い方を教えるのである」（ウィトゲンシュタイン『哲学探究』 #244）&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　もちろん、これはひとつの極論でしょう。なぜなら、ウィトゲンシュタインは、言葉を覚える以前の子どもは、自分では痛みの存在を理解できないと見なしているからです。子どもは自分の状態について、それを自分よりもよく理解しているおとなの力を借りることで、はじめて理解する。つまり、子どもは、周囲のおとなから「痛み」の表出の仕方を教えられることで、はじめて「痛み」の存在を知る、というわけです。&lt;br /&gt;
　そんな馬鹿な、とわれわれの「常識」はつぶやくでしょう。しかし、さきほど述べたような「痛み」の徹底した主観性を考えるなら、ウィトゲンシュタインに反論することがいかにむずかしいかがわかります。&lt;br /&gt;
　ここでウィトゲンシュタインは、「痛み」を例に取ってはいますが、じつはこの指摘を感覚全般にあてはめようと考えていたはずです。なんらかの言動として表出されないかぎり、「痛み」はもとより、あらゆる人間の感覚は存在しないことになる、と。&lt;br /&gt;
　ひょっとして茂木さんは、「痛み」っていうのは「痛み中枢（前帯状回？）」のニューロンが発火することだ、とおっしゃりたいのでしょうか。まあ、常識的な医師や脳科学者なら、そう答えるのかもしれません。&lt;br /&gt;
　しかし、さきほども確認したように、私たちはすでに科学から哲学の領域に足を踏みいれています。この立場からは、「感覚」と「中枢」の関係にはいかなる因果関係もなく、単なる相関関係しかないことになります。だって医学的なエヴィデンスって、ようするに統計のことですからね。哲学的視点からは「感覚中枢」をめぐる議論になんの意味もないことは、前回のお手紙にも書きました。&lt;br /&gt;
　ところで、純粋に感覚と言葉の議論を延長していくと、かの「私的言語」の問題にゆきあたりますね。これはクオリア問題にも通ずる重要な問題ですから、ぜひ茂木さんのご意見もうかがいたいところです。以下、読者の便宜のために、私なりの要約を記しておきましょう。&lt;br /&gt;
　『哲学探究』においてウィトゲンシュタインは、ひとつの思考実験を試みます。私にしか知り得ない（私秘的）感覚を「Ｅ」と名づけ、その感覚が生じたら日記に「Ｅ」と記入します。もちろん「Ｅ」は、ある種の痛みと同様に、対象を欠いた感覚なので、その存在を客観的には検証できません。それゆえ「Ｅ」は、典型的な私的言語となります。はたして、このようなことは可能なのか。&lt;br /&gt;
　不可能である、というのがウィトゲンシュタインの結論です。&lt;br /&gt;
　さきほど述べたとおり、「Ｅ」を客観的に判断する基準は存在しません。ということは、昨日感じた「Ｅ」と今日感じている「Ｅ」が同じ感覚であるという保証も存在しないことになります。つまり、正しいかどうかの判定ができません。これは、言い換えるなら、私的言語が成立するためには他者と共有可能な外的（公的）基準が必要である、という逆説です。基準というのが、ようするに「言語ゲーム」のルールにあたりますね。つまり、このパラドックスゆえに、私的言語は不可能なのです。&lt;br /&gt;
　ただし、われわれには「ルールにしたがう」ことはできても、「ルールの正しさ」を実証することはできません。だから、ほんとうに厳密にいえば、茂木さんの見ている青と私が見ている青とが同じ感覚であることは証明できないし、私が昨日見た青と今日見た青との同一性すら実証することはできません。なぜなら、その証明こそは「語り得ないもの」の領域だからです。&lt;br /&gt;
　ところで、前期ウィトゲンシュタインでは「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する」とされます。これはきわめて独我論的な言いまわしのようですが、これをもし強引に「私的言語の不可能性」という後期ウィトゲンシュタインの命題と組み合わせるなら、独我論への徹底した反論になってしまいますね。しかし、そのことは、いまはおきましょう。&lt;br /&gt;
　重要なことは、世界と言語がこれほどまでに重ねられていることです。強引な解釈を続けるのなら、ウィトゲンシュタインは、ようするに語りうるもの（＝伝達・共有可能なもの）の総体が世界であるといっているわけです。もし茂木さんがいわれるとおり、クオリアが徹底して私秘的感覚であるのなら、すくなくともウィトゲンシュタインは、それを否定していることになります。&lt;br /&gt;
　余談ながら、私的言語をめぐるウィトゲンシュタインの議論は、ラカンの理論と多くの部分で共鳴します。言語を「大いなる他者」と見なすラカンにとっては、もちろん「私的言語」など論外です。言語はつねにすでに他者として、端的に外部から到来するものであるからです。&lt;br /&gt;
　ラカンとウィトゲンシュタインに共通するのは、感覚に対する言語の先行性、という考え方です。その感覚を名指すための言葉があってはじめて、その感覚は可能になる。この命題は、表向きは、いかにもわれわれの常識に逆らうように思えます。しかし、感覚についてすこしでも厳密に考えようとすれば、このような結論にならざるをえない。&lt;br /&gt;
　ラカンとウィトゲンシュタインが、思想史的にはいわゆる「言語論的転回」（言語が存在に先行すると考える立場）と関係が深いのは、偶然ではありません。もっともこうした発想は、われわれが「言語によってしか思考できない」という制約のもとでの論理的帰結、という可能性もありますから、それが普遍的真理かどうかについては、まだ疑う余地があるのかもしれませんが……。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■「偶有性」は記述可能か？&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　さて、今回のお手紙の最後は、ご提案いただいた「偶有性」問題について考えてみたいと思います。&lt;br /&gt;
　茂木さんは前回のお手紙で、「偶有性」を次のように定義されていました。&lt;br /&gt;
　「『偶有性』とは、規則性とランダム性、既知のことと未知のこと、硬いことと柔らかいことが入りまじった状態を指し、現代の脳科学において、たいせつな概念の一つとなっています。」と。&lt;br /&gt;
　この「偶有性」の解説は、私の知っている「偶有性」とはずいぶん違っているので驚きました。規則性とランダム性の中間？　えーと、「中間」なんですか？　なんだか、とても難解です。いったいどんな状態なのか、私にはちょっと想像がつきません。&lt;br /&gt;
　そして、〈硬いことと柔らかいことが入りまじった状態〉ですか？　つまりそれは、外はカリッとしていて中はトロトロ、みたいな状態でしょうか。なかなかおいしそうなタコ焼……いやいや偶有性ですね。そう、ここは村上春樹ならまちがいなく「偶有的タコ焼き」とか表現するはずのところです。&lt;br /&gt;
　ふざけたことを書いてすみません。しかし、このくだりだけは、どうしても承伏しかねるのです。あらゆる発言のソースを示せとは申しませんが（それは私にも“ブーメラン”ですから）、茂木さん、ぜひ偶有性のこうした定義がいかなる典拠によるものか、私にご教示ねがえませんか。なにも一言一句まちがいなく引用すべきとまでは申しません。ただ、茂木さんのおっしゃる「偶有性」解釈は、あまりに特異すぎて……。&lt;br /&gt;
　たとえば、『広辞苑　第五版』で「偶有性」を引くと、「ある事物を考える場合に、本質的でなく偶然的な性質。例えば人間一般を考える場合、その皮膚の色のようなもの。偶有的属性。偶性。」とあります。&lt;br /&gt;
　ただし、茂木さんは、「偶有性」に該当する英語として、contingencyを採用されていますよね。そこで、contingencyについて、医学辞典などもふくめていくつかの辞書を調べてみましたが、どうしても「予測が付かない偶然」以上の含意が見あたりません。&lt;br /&gt;
　神聖ローマ帝国の元老院議員ググレカスによれば、いまやネット上で「偶有性」というコトバは、「クオリア」、「アハ体験」に続く、茂木さん発のキーワードみたいに流通しているようです。しかし、もし茂木さんの偶有性解釈が独自のものなら、そういう注釈抜きでこうした一般語の定義を改変してしまうことは、いろいろとまずくないでしょうか。&lt;br /&gt;
　なので、とりあえずこれ以降は、「偶有性」という言葉を「予測できない偶然」という素朴な意味で使用することをお許しいただきたいと思います。&lt;br /&gt;
　そういう前提で、いきなり結論からいえば、人間は「偶有性」をけっして認識できない、というのが私の考えです。いや、正確にはこう言うべきでした。認識不可能な領域に与えられた名前が「偶有性」ではないか、と。&lt;br /&gt;
　茂木さんがおっしゃる「ブートストラップ」の過程にも関連しますが、ここでもういちど「コミュニケーション」について考えてみたいと思います。人と人とが出会い、そこにコミュニケーションが生ずること。茂木さんはそれを偶有的過程、すなわち「規則性とランダム性のあいだに揺れうごく」プロセスとしてとらえます。しかし、偶有的なコミュニケーションが繰りかえされるなかで秩序が生まれ、コミュニティや社会が形成されていくこと。この過程は、はたして自明のものでしょうか。&lt;br /&gt;
　さきほども触れたとおり、社会学者のニクラス・ルーマンは、コミュニケーションを徹底して偶有的（『広辞苑』的な意味のほうの）なものと考えました。&lt;br /&gt;
　社会システム論では、人と人とがコミュニケーションを介して社会を形成していくとき、そこには二重の偶有性があると考えます。二重に不確実であるにもかかわらず、なぜか「社会」が成立してしまうという無根拠さにこそ、真の偶有性があるとも考えられます。これは社会学でいう「ダブル・コンティンジェンシー」の問題です。&lt;br /&gt;
　「ダブル・コンティンジェンシー（Ｄｏｐｐｅｌｔｅ Ｋｏｎｔｉｎｇｅｎ以下ＤＫ）」とは、もともとは社会学者タルコット・パーソンズが提出した概念です。&lt;br /&gt;
二人の人間がやりとりをするとき、お互いに相手の出方を見てから自分の行動を決定しようとすると、行動そのものが不可能になってしまうという問題です。自分の行動は相手の行動に依存しますが、相手の行動は当の自分の行動に依存している。つまり、自分と他者の相互作用には二重の依存性があるのです。このとき判断力が正確であるほど、双方にとって相手の行動は予測不可能、すなわち偶有的なものとなるため、行動は決定不可能となります。&lt;br /&gt;
　これは「囚人のジレンマ」や「ナッシュ均衡」などにつながる話でもあるのですが、それこそ茂木さんのお嫌いな確率論に接近してしまいますので、ここではあえて考慮しません。&lt;br /&gt;
　ルーマンによれば、ＤＫから社会秩序がどのようにして可能となるかという問いに対する答えは、次のようになります。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　「社会システムの自触媒作用は、それ自体の触媒、すなわちダブル・コンティンジェンシーの問題それ自体を作り出している。自他の行動の相互的な規定不可能性がどのようにしてまたなぜ生じるのかをいっそう精確に分析すると、このことが明らかになる。＜中略＞他者の行動は、ダブル・コンティンジェンシーの状況においてはじめて規定不可能になるのであり、とくにみずからの行動規定を他者の行動に連結しうるために、他者の行動を予測しようと企てる者にとって、他者の行動は規定不可能になるのである。そのばあいに、ダブル・コンティンジェンシーのメタ・パースペクティブにおいて、相手の行動を予測することを介して作り出される規定不可能性が生じているのである」（ルーマン『社会システム理論（上）』）&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　そう、ここにもひとつの逆説があります。なぜならルーマンは、社会秩序の前提として、自他の行動の相互的な規定不可能性を考えているからです。不可能なのに、なぜ秩序が生じるのでしょうか。ルーマンにとって、そのような問いかけは単に無意味です。なぜなら社会秩序が&lt;u&gt;実際に存在している場合にのみ&lt;/u&gt;、秩序の起源としてのＤＫ問題が事後的に見いだされることになるからです。問いがあって答えが導かれるのではなく、答えが存在する場合にだけ問いが導かれる。ＤＫとはそういう問題なのだ、ということですね。&lt;br /&gt;
　じつはこのＤＫ問題は、茂木さんが前回のお手紙で触れられていた「偶有性の鏡」問題に関連しています。&lt;br /&gt;
　自己と他者の偶有性をはらんだ会話から境界が生じること。あるいは自己が、偶有性をとおして「ブートストラップ」されること。この過程は非常にイメージしやすく、わかりやすい印象を与えます。脳科学に懐疑的な科学者であっても、こうしたロジックには同意される方が多いような気もします。&lt;br /&gt;
　しかし、ひとたびルーマンの苛烈な思考を経たあとで見なおしてみると、ここに一種の、根拠のない楽観性があるような気がしてなりません。&lt;br /&gt;
　ルーマンの議論を敷衍(ふえん)するなら、社会や主体といった概念と、その起源をめぐる問いとのあいだには、決定的なギャップがあることになります。すでに存在している社会や主体の存在と、その起源（ここではコミュニケーションの偶有性）とのあいだには、安定した因果関係はありえない。ただ結果がある場合にのみ、事後的に起源をめぐる問いが導かれるということ。これは、社会や主体の起源を語る理論が、いわば「神話」としてしか記述しえないことを意味しています。&lt;br /&gt;
　社会や主体といった概念について「科学的」にアプローチをしようとするなら、われわれはどうしても因果論の自明性を捨てられません。なぜなら「原因があって結果がある」という思考法は、科学の根幹をなしているからです。&lt;br /&gt;
　その意味でルーマンの問いは、いわば経験科学としての社会学の不可能性にまで及んでいます。&lt;br /&gt;
　ラカンやルーマンの側に立つということは、社会や主体といった問題については「原因から結果が導かれる」というかたちで記述する可能性を断念することにほかなりません。&lt;br /&gt;
社会や主体の起源に偶有性がある。そこまではいいでしょう。しかし、だからといって「偶有性から社会（主体）が導かれる」とは、けっしていえません。正確には「そこに社会や主体があることによって、はじめて『偶有性』の問題が生ずる」というべきなのです。すくなくとも、私はそのように考えるし、それゆえの「精神分析」でもあるのです。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■「アスペクト」の問題&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　最後に、できれば次回につなげるかたちで、私からも問題提起をしておきたいと思います。&lt;br /&gt;
　「偶有性」の対義語は「必然性」ですよね。一応、そのように考えることにしておきます。&lt;br /&gt;
　私は、このふたつの言葉は、ようするに「アスペクト」の問題であると考えています。どういうことでしょうか。&lt;br /&gt;
　つまり、「この世界」というものを考えるに際しては、それを「偶有性」という様相のもとでとらえるか、「必然性」という様相のもとでとらえるか、という認識の問題と考えるのです。&lt;br /&gt;
　ここでちょっと「アハ体験」みたいな話をしてみましょう。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;http://sofusha.moe-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2010/03/02/2.jpg&quot; class=&quot;mb&quot;&gt;&lt;img alt=&quot;2&quot; title=&quot;2&quot; src=&quot;http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/images/2010/03/02/2.jpg&quot; width=&quot;300&quot; height=&quot;155&quot; border=&quot;0&quot;  /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
　　　＜図2  Jastrow図形＞&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　この図2を見てください。有名な「ウサギ-アヒル」の絵（Jastrow図形）ですね。この図にウサギを見てしまうと、アヒルはいなくなります。アヒルを見ているときは、ウサギは見えません。アハ！&lt;br /&gt;
　ひとつの対象をどのように見るかが「アスペクト知覚」と呼ばれ、そこには単なる感覚だけでは説明できない、&lt;u&gt;意味の知覚&lt;/u&gt;の端緒があります。&lt;br /&gt;
　こんなふうに対象を「～として見る」ということができない人を、ウィトゲンシュタインは「アスペクト盲」と呼びましたが、そのことはひとまずおくとして。&lt;br /&gt;
　私が言いたいのは、ものごとというものは偶有的か必然的かのいずれかであって、その「中間」はない、ということです。さらにいえば、事態を偶有的に認識しているときは、必然性の相は見えなくなり、必然性の相で認識しているときは、偶有性の相は見えなくなるでしょう。これを「解釈」ではなく「認識」と呼ぶのは、そこにアスペクト的な認識の排他性があるからです。&lt;br /&gt;
　まあ、実際には、アスペクトなんて話を持ちだすまでもなく、こんなことはカントが「偶然と必然のアンチノミー」として、とっくに指摘しているわけですけれど。&lt;br /&gt;
　早い話が、宗教とは、偶有性を必然性として肯定するための認識装置でなくてなんでしょうか。科学とは、さまざまな偶有性を因果関係という必然性のもとで記述しうることへの信頼ではなくてなんでしょうか。いわゆる「反証可能性」には、そこで記述された「必然性」が「真理」である保証はない、ということもふくまれるでしょう。&lt;br /&gt;
　そして、精神分析とは、人生におけるさまざまな偶有性を象徴界の作動の名のもとで必然化（≒物語化）してみせるためのテクニックにほかなりません。&lt;br /&gt;
　テーバイの王オイディプスが、それとは知らずにみずからのじつの父親であるラーイオスを三叉路で殺害するのも、じつの母親であるイオカステーをめとって子をなすのも、いずれも偶有的な出来事です。この悲劇を、人間が人間になるうえで必然的に反復される悲劇として神話化（オイディプス・コンプレックス）したのがフロイトでした。&lt;br /&gt;
　このように、偶有性を必然性の相のもとで事後的に解釈（物語化）することが、精神分析のテクニックの中核にあります。ここから、近景における偶有性の連鎖を、遠景における必然性の構造としてとらえなおすことが、物語化の端緒であるということもできるでしょう。&lt;br /&gt;
　精神分析が時にカルトに似て見えるのは、このためもあります。ただ、偶有性の解釈に際して、「神」という超越的存在に依拠するか、「無意識」という超越論的な審級を想定するかの違いがあるだけです。&lt;br /&gt;
　ウィトゲンシュタイン“風”の言い方をすれば、あらゆる「事物」は偶有的だが、「事態」はすべて必然的、ともいえましょうか。あるいはデカルト“風”にいうなら、「我がある」のは偶有的、「我思う」のほうは必然的（「我」といった瞬間に、すでに「思って」いるから）ともいえますね。&lt;br /&gt;
　ラカン風な言いまわしでは、「現実界」は偶有性の領域であり、「象徴界」は必然性の領域である、と見なすことも可能でしょう。このことをラカンは、「手紙はかならず宛先に届く」と表現しました。じつはこのロジックは、かなり「後出しジャンケン」めいたもので、ようは「たとえ誤配であれ、その手紙が届いてしまったところがほんとうの宛先なのだ」という意味です。&lt;br /&gt;
　もちろん、こうした極論には反論もありえます。「それなら、人が死ぬのは必然じゃないのか」とかですね。でも、ほんとうに死は必然なのでしょうか。じつは私には、どうしてもそうは思われないのです。いや、私にかぎらず、ほとんどの人々は、自分がいずれ死ぬ存在であることを忘れて生活しています。なかには、ホリエモンのように「僕は死なない」宣言をする人もいます。&lt;br /&gt;
　正直に言いましょう。「人が死ぬ」というのは、たまたま確率100％の「統計的事実」でしかないのではないでしょうか。あるいは「メメント・モリ」風な、「倫理的お説教」でしかないのでは。だって、「この私」がほんとうに死ぬかどうかは、死ぬまでわからないんですから。&lt;br /&gt;
　つまり、「人が死ぬ」ことは、経験論的には必然であっても、哲学的には偶有的な出来事でしかない、とも考えられるのです。ここにもアスペクト知覚がありますね。&lt;br /&gt;
　人間の認識は自由なようで狭いものです。とりわけ感情がからむと視野狭窄が起こりやすい。一般に人間は、自分の不幸は必然性の相のもとで、幸福は偶有性の相のもとでとらえがちです。楽観性というのは、偶有性を介した必然性への信頼であり（そのうちなんとかなるだろう）、悲観主義というのは、必然性の名のもとで偶有性を切り捨てることです（どうせ、なにをやってもうまくいかない！）。&lt;br /&gt;
　どうせ認識のちがいなら、あくまで肯定的に生きよう！　と言いたいところですが……しかし「肯定だけ」になってしまった人の無残さは、「カルト信者」や「マルチ信者」らの“自己啓発”ぶりをみていると、嫌というほどわかります。洗脳というのは「アスペクト盲」をつくり出すテクニックなのだから、当然のことですが。&lt;br /&gt;
　偶有性に満ちた「知的不安」、あるいは「知のフロンティア」という認識において、私も茂木さんと「同じ地点にいる」としていただいたのは光栄なことです。せっかくそのように高く見積もっていただいた以上、予定調和的な対談をお引き受けしなかったのは、やはり正解でした。&lt;br /&gt;
　茂木さんは、ご自身が「他者と向き合うことがどうしても必要」とおっしゃる。ならば、私たちにいまここでできることは、自身の“とらわれ”を誠実に開陳しあうことで、互いにとってできるかぎり扱いにくい、出会ったことを後悔しそうな偶有的他者として振る舞うことでしょう。不誠実な共感や“プロレス”などよりも、誠実な知的対立こそ、書簡の読者が求めているものでもあるはずです。&lt;br /&gt;
　言語と偶有性について、とりわけ偶有性の定義とそのアスペクト的理解について、茂木さんからの“ハードコア”（科学哲学的な意味で）な返信を、畏れとともに期待しています。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
斎藤環&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>脳は心を記述できるのか</dc:subject>

<dc:creator>sofusha</dc:creator>
<dc:date>2010-03-04T09:45:00+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/2010/01/post-0cb4.html">
<title>往復書簡のルール(改訂版)</title>
<link>http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/2010/01/post-0cb4.html</link>
<description>往復書簡のルールを、以下のように改定いたします。 ■テーマ … 「脳は心を記述で...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;往復書簡のルールを、以下のように改定いたします。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■テーマ … 「脳は心を記述できるのか」&lt;br /&gt;
■字　数 … 1回の書簡は、400字詰め原稿用紙で40枚～60枚の分量。&lt;br /&gt;
■回　数 … 書簡は一カ月に1通で、4カ月ほど連載。つまり3往復となります。&lt;br /&gt;
　　　　　　　  ただし、すでに1往復しているので、残りは2往復です。&lt;br /&gt;
■期　間 … 2010年5月まで。&lt;br /&gt;
■掲　載 … 期間中の毎月5日、双風舎ウェブページに掲載します。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
いかなる事情があっても、掲載予定日から一カ月以上、返信が遅れた場合は、遅れた側が応答を放棄したものと見なし、往復書簡は自動的に終結します。さらに、遅れた側は、返信ができなかった理由を書簡の相手と読者に説明し、その全文を双風舎ウェブページに掲載いたします。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
以上&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>脳は心を記述できるのか</dc:subject>

<dc:creator>sofusha</dc:creator>
<dc:date>2010-01-08T10:00:00+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/2010/01/2-2eeb.html">
<title>第2信　クオリア、そして偶有性(茂木健一郎)</title>
<link>http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/2010/01/2-2eeb.html</link>
<description>茂木健一郎から斎藤環への手紙 ■拝復 　たいへん興味深い手紙をありがとうございま...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;茂木健一郎から斎藤環への手紙&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■拝復&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　たいへん興味深い手紙をありがとうございました。斎藤さんがあげられた問題は、どれも私の関心領域（意識の問題）の本質にかかわる、エッセンシャルなものと考えます。&lt;br /&gt;
　お返事を差しあげるまでに、ずいぶんと時間がたってしまい、申し訳ありません。この間、斎藤さんとの往復書簡のことがずっと気にかかっていましたが、さまざまな事情から、ご返信が遅くなってしまいました。心からお詫び申しあげます。&lt;br /&gt;
　斎藤さんがお手紙のなかでご指摘くださったさまざまな点は、たいへん興味深いことばかりでした。斎藤さんは、「クオリア」を疑いのないこの世界属性として立ててしまうことが、ナルシシズムにつながると書かれた。昨今のいくつかの危険な社会的風潮との関連性も指摘された。また、ジャック・ラカンの「我思う、または、我は在る」という言葉を引用して、（クオリアを感じる主体としての）「私」は、確固とした単一の存在としては成立していないと指摘された。また、私が言語の地位を相対的に低く見積もっているのではないか、とも書かれました。&lt;br /&gt;
　どれも、たいへん興味深い論点で、これらの点をふくめ、斎藤さんが提起された問題について、以下で私の考えるところをお話させていただければと思います。&lt;br /&gt;
　すっかりお返事が遅くなってしまったので、斎藤さんのほうでは、「なにをいまさら」とお思いになるかもしれません。また、さまざまな問題についてのお考えも、すでに変化しているかもしれません。それでも、私は、お返事を差しあげようと思います。もし、お時間があれば、お読みくだされば幸いです。&lt;br /&gt;
　お返事がたいへん遅くなってしまったことを、繰りかえしお詫び申しあげます。&lt;br&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;■飛行機のなかの体験&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　斎藤さんの手紙が飛行機のなかのエピソードからはじまったように（一緒の飛行機に乗りあわせていたとは知りませんでした。ボクは、飛行機のなかは食事をしたあと、たいていぐっすりと眠ってしまうので、周囲に気づかないことが多いのです。ごめんなさい）、私も、この手紙を飛行機のなかでのエピソードからはじめたいと思います。&lt;br /&gt;
　斎藤さんからお手紙をもらった夏、私はラスベガスで開かれた意識をめぐる国際会議（Association for the Scientific Study of Consciousness ）に出席しました。1996年以来、年に一回開かれているこの会議は、意識に関心を持つ研究者が集まっており、脳科学をベースに、認知科学や心理学、哲学などのさまざまな分野の立場からテクニカルな議論がおこなわれています。&lt;br /&gt;
　会議の興奮がさめやらぬ帰りの飛行機のなかで、こんな出来事がありました。そのとき、書きはじめていた斎藤さんへの返信のなかにメモを残しておいたので、いまでもありありと思いおこすことができます。&lt;br /&gt;
　トランジットのサンフランシスコではネットにつないで仕事をしていて、飛行機に乗りこんだのは最後のほうでした。私の席の横は、初老のビジネスマンのような方で、英字紙を読んでいました。おやっ、日系の人かな、と思いましたが、アテンダントとの会話で、どうやら日本人らしいとわかりました。&lt;br /&gt;
　通路をはさんだ隣りの席にはアメリカ人が座っていて、携帯電話で熱心に話していました。（ご存じのように、アメリカやヨーロッパでは、ドアが閉まる前までは携帯が使えるというポリシーが多いですね。どのような文化的差からくるのでしょう）。&lt;br /&gt;
　ふと顔を見上げると、私たちの前方に、乳飲み子を一人ずつ胸に抱えた母親と、お婆さん、それに5歳くらいの男の子が立っていました。私の乗った飛行機は東京経由でバンコックまでいく便でしたので、どうやらタイの人たちのように思えました。アテンダントが、私の通路越しの隣人に、「あそこと席をかわってくれないだろうか？　家族の人たちを一緒に座らせようと試みているのだ」と話しかけました。隣りのアメリカ人は、まだ携帯電話で話しながら、「ああ、いいよ」と答え、足元の新聞をまとめはじめました。&lt;br /&gt;
　アテンダントは、すこし前のほうの席を指して、「君はあそこに座ればいい。男の子と君は、こちらに座って」などと言いました。つまり、まだ席の数が足りないので、家族は離ればなれになってしまうのです。そういわれて、「ほほえみの国」から来た人たちは途方に暮れているように見えました。アテンダントは、男の子に、「君は何歳だい？」と聞いています。一人でも座っていられるだろうか、と心配していたのでしょう。&lt;br /&gt;
　私は、そのような様子を見ていて、だんだんいたたまれなくなってきてしまいました。たまりかねてアテンダントに「私がそっちに移るよ」と言いました。アテンダントは私に謝意をしめしたあとで、家族に向かって、「それじゃあ、君たちは一緒に座ることができる」とにっこり笑いました。&lt;br /&gt;
　通路をはさんででも、家族が一緒のほうがよいに決まっています。&lt;br /&gt;
　前方の通路側の席に移ると、窓側にはどうやらアメリカに長く住んでいるらしい日本人の女の子が座っていました。彼女は、熱心にアメリカのスターの写真がたくさん載っている週刊誌を読みながら、サラダを食べていました。離陸前にサラダを食べる人というのは珍しかったので、印象に残りました。&lt;br /&gt;
　うしろの席の窓側の、うこし太った中年のアメリカ人女性が、「彼らはいったいどうやって予約をしたの？」などと、大声でとなりの人に話しています。どうやら、あのタイの家族のことを非難しているようでした。私は、すこし嫌な感じを抱きました。心細い異国からのフライトで、家族が一緒にいるために、少々めんどうな手続きがあったとしても、なぜそのことに目くじらを立てなければならないのでしょう。&lt;br /&gt;
　以上が、私が飛行機に乗りこむ際に起こったことです。それから、飛行機は離陸し、食事のときにワインを飲んだ私は、いつものようにぐっすり眠ってしまって、ふと気がつくと機内は真っ暗になって、みな眠っていたのです。&lt;br /&gt;
　私は十分に休んだような気がしたので、立ちあがり、トイレにいって、帰ってくるとリュックのなかからマックブックを取りだし、斎藤さんへの手紙を書きはじめました。そのまま書き終えてしまえば、こんなにお待たせすることも、ご迷惑をおかけすることもなかったのです。ほんとうに申しわけありません。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■体験の現象学的解剖&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　さて、私の以上の体験は、取りたてて特別なものではありません。私たちの人生は、このような何気ないエピソードからできている。そのほとんどを私たちは忘れてしまいます。実際、当時、私が斎藤さんに往復書簡の返信をしたためようとしているということが無意識のなかになければ、以上のエピソードが私の記憶に残り、こうして文字に定着されることもなかったでしょう。&lt;br /&gt;
　私たちが日常で出会うさまざまな出来事は、それ単独で私たちの世界についての認識を革新したり、画期的な新理論に向かわせるものはありません。その一方で、具体的な「体験」のなかには、私たちが世界について考えるための類いまれなる素材がひそんでいる。たった5分ほどの何気ないエピソードのなかにも、真剣に向きあえば考えこんんでしまうような、不可思議な要素がたくさん詰まってます。&lt;br /&gt;
　斎藤さんが言語の意味を重視される、その意図されるところについては、私なりに理解いたします。人間の精神活動において、言語が中心的な役割を果たしていることは確かです。ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインが生涯にわたって探求したように、「言語」の本性をどう理解するかということが、私たちの存在、認識、そして「心と脳」の関係を理解するうえで、必要不可欠なステップであることはいうまでもないことでしょう。&lt;br /&gt;
　その一方で、いわゆる「言語」だけでは、意識の現象学的な記述をつくすこともできないことも事実だと考えるのです。&lt;br /&gt;
　私は、以上の飛行機のなかの「座席取りかえ」物語を記述する際に、記憶をさかのぼり、そのときに見たこと、聞いたこと、感じたことを振りかえって、それを言語に「置きかえ」なければなりませんでした。それは、ある種の努力が必要な行為でしたし、そのような置きかえをする過程において、私が実際に経験した事象のうち、さまざまな要素が失われていったことも事実だと考えます。&lt;br /&gt;
　たとえば、私は、母親や祖母と離れて座るようにいわれて、途方に暮れていたタイの少年の様子をありありと思い出すことができます。彼に、果たして英語がわかっていたかどうかはわかりません。しかし、周囲の様子から、どのようなことが起きているのか、悟ってはいたことでしょう。ひょっとしたら、お母さんたちと離れた場所に、一人で座らなければならないかもしれない。そんな気配を感じながらも、あわてず、騒がず、静かに通路に立っていた彼の様子を、私は好ましく思い出します。しかし、そのときに私が感じていた印象を、言葉に完全に置きかえることはむずかしいように思います。&lt;br /&gt;
　ウィリアム・ジェームズのいう「意識の流れ」は、けっして言葉のみから組みたてられているわけではない。むしろ、「意識の流れ」のなかには言葉には容易に変換できないものたちがあふれています。&lt;br /&gt;
　意識の問題に取りくもうとするとき、その「解剖学」からはじめるのは、おそらく適切なことでしょう。意識のなかには、さまざまな「クオリア」（感覚質）が並列的に感じられています。そして、そのようなクオリアを感じる主体としての「私」がいる。「私」は、単に世界を受動的に感じるだけでなく、能動的に働きかける存在でもある。その主体性（agency）の構造のなかに、心理的な時間を構成する原理が内在している。&lt;br /&gt;
　私たちの意識は、時々刻々、まるで「かけ流しの温泉」のように流れていくあふれるばかりのクオリアの豊饒を、その重要な構成因の一つとしています。ここでは、かならずしも意識＝クオリアといっているのではありません。クオリアが、私たちが「意識」と呼ぶ主観的体験の欠かすことのできない「部分」となっていることが、体験に照らして事実であるように思われるのです。&lt;br /&gt;
　クオリアの問題を考えるということは、とりあえずのスタンスとして、「言語」以前の体験世界のリアリティを認めるということがなければならない。そのように私は考えます。ここでは「言語」という概念を、通常の含意にもとづいて使っています。「言語」という概念を、いわゆる「クオリア」的なものをふくむ、より普遍的なかたちで再定義するという道もあるかもしれません。また、そもそも「クオリア」というものが、言語的なるものとの関係性においてどのようにとらえられるかということは、ヴィトゲンシュタインの「私的言語」（private language論）との関係性においても、十分に吟味されるべきことでしょう。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■主体の疑わしさ&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　さて、自分の経験のなかに感じられる「クオリア」から出発することは、斎藤さんがご指摘されるように、「主体」というものを措定することと密接に関係しています。&lt;br /&gt;
　斎藤さんは、「主体」は、構成論的なものであり、「底」が抜けていると指摘される。この点において、脳科学的なアプローチは、斎藤さんと同じ出発点に立つといってよいのではないかと思います。&lt;br /&gt;
　物質である「脳」を分解していけば、一つひとつの神経細胞に到達する。神経細胞は、さらに分子から構成されている。分子は、さらに素粒子からなる。素粒子と素粒子のあいだには、割合としてはほとんど圧倒的といってよい真空が広がっています。&lt;br /&gt;
　私たちの素朴な生活実感（いわゆるfolk psychology）に照らして考えれば、そこには「私」という主体が存在しているように思われる。「茂木健一郎」や「斎藤環」といった個人が存在して、「出生」以来、人生のときを積み重ねてきた。個人の死によって、一つの主体の歴史がおわる。そのような素朴な理解を、私たちは抱いています。&lt;br /&gt;
　しかし、そのような主体をつくっているはずの脳のありさまをありありと見れば、その存在根拠はまさに「底」が抜けている。あるのは、お互いに複雑なネットワークをつくって相互作用しあっている素粒子の集合ばかり。その相互作用の基本的な性質は、「水」や「空気」と変わることはありません。&lt;br /&gt;
　現代の脳科学に依拠して「心脳問題」を議論しようとする立場は、けっして「主体」というものを疑いようのない前提とするものではありません。むしろ、「底」が抜けているところからいかに「主体」というものを構成するか。いわば、「無」から「有」を「ブートストラップ」(電源を投入してから実際に操作が可能になるまで、コンピュータが自動的におこなう処理のこと)する点にこそ、現代的な心脳問題の議論の本質があると考えます。&lt;br /&gt;
　1991年に『サイエンス』誌に発表された論文のなかで、ライトマンとジンジャリッヒは、科学革命は、既成の「パラダイム」のなかでは説明され得ない「異常項」（anomaly）の存在によって導かれるのではなく、むしろ当然の事実として前提とされてしまっていることのなかに、そのきっかけがあるのだと論じました。アリストテレスのいう「事実それ自体」（to oti）と、「説明されるべき事実」（di oti）の区別によれば、明示的に「説明されるべき事実」として指摘されるなにものかではなく、むしろ暗黙のうちに「事実それ自体」として前提とされてしまっているなにものかのなかに、科学革命へのきっかけがあると論じたのです。&lt;br /&gt;
　あまりにも当たり前のこととして「事実それ自体」だとされていたことが、じつはほかの原理から「説明されるべき事実」であったということは、科学革命が成しとげられ、新しい「パラダイム」が成立したあとにはじめてわかる。このような視点からは、一見すると当たり前だと思われていること自体の「根拠」を疑い、その成りたちを問いなおすことが必要となる。科学革命は、静かにはじまるのです。&lt;br /&gt;
　たとえば、アインシュタインが「相対性理論」という私たちの宇宙観の変革に成功した際がそうでした。経験的事実としては、マイケルソンとモーリーの実験によって、真空中の光の速度が、地球の公転の運動方向に対してどのような向きで測っても「一定」であることがしめされていた。このことによって、光を伝搬する媒質としての「エーテル」の存在は否定されました。&lt;br /&gt;
　光の速度が一定であるということは、ニュートン力学の体系においては、説明することができない「異常項」でした。この異常項を説明しようと、ローレンツらは奇妙な変換を考えていた。速度ｖを光の速度ｃで割り、二乗して一から引き、それをルートのなかに入れる、特殊相対性理論にひんぱんに出てくるなじみ深い式は、アインシュタインが考案する前にすでに世の中に存在していたのです。&lt;br /&gt;
　しかし、いわゆる「ローレンツ変換」は、光速度が一定だという奇妙な観測事実を説明するためにいわば「苦しまぎれ」に考えだされた「対症療法」にすぎませんでした。なぜそのような式が必要なのか、その深い意味合いについては、わかっていなかったのです。&lt;br /&gt;
　ローレンツ変換の式をふくむ相対性理論の式は、「光速度一定」というニュートンの旧パラダイムにおけるあきらかな「異常項」ではなく、一見すると当たり前のことのように思われていた「同時」という観念の根拠を問いなおすことで自然に導かれる。これが、1905年に出版された論文『運動する物体の電気力学について』のなかでアインシュタインが成しとげた偉大な認識革命の本質です。アインシュタイン以前には、ある出来事と別の出来事が「同時」であるということは、あらためてその根拠を説明されるべくもない「事実それ自体」だと考えられていた。アインシュタインは、事象の同時性自体が、じつは「説明されるべき事実」だとして根本から考えなおした。日常的にいえば、ごく当たり前のことと考えられていた「なにかとなにかが同時である」ということの根拠を問うことで、ローレンツ変換の奇妙な式を導くことに成功したのです。&lt;br /&gt;
　私たち人間が、「主観性」を持ち、そうして「意識」のなかで「クオリア」が感じられる。私たちの生活経験に照らして考えれば疑いようのない「事実それ自体」だとも思われます。しかし、その基礎にどのような事情が存在するのか、疑わないままに放置するのでは、心の本性を理解したいという人間の知的探求は、本質的な意味では前に進まないでしょう。&lt;br /&gt;
　相対性理論が、事象と事象の「同時性」というごく当たり前のように思われる前提自体を問いなおすことで、認識の枠組みの革命をもたらしたように、「主体性」や「クオリア」といった私たちの心のなかに映る「事実それ自体」の根拠を問うことで、私たちは「意識の科学」や「心の哲学」の風景を変えることができると信じます。&lt;br /&gt;
　懐疑することがたいせつである。その点において、私は斎藤さんと認識を同じくしています。「主体」は、「事実それ自体」として前提とされるものではなく、むしろ懐疑されるものであり、「説明されるべき事実」なのです。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■主体の成り立ち&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　主体がどのように「ブートストラップ」されて成立するのか。現代の脳科学は、経験主義の立場から、さまざまな知見を積みあげつつあります。&lt;br /&gt;
　「ミラーニューロン」に象徴される認知神経科学の「システム論的転回」。そこにおける議論が示唆している方向性は、「自己」というものを安易に前提にせず、「他者」との関係性において動的にとらえるというものであるように思われます。&lt;br /&gt;
　子どもの発達の過程において、「ものごころ」がついて、自分が意識を持つ存在だと感じはじめる。ちょうどそのころに、他人にも心があるということに気づき、その内容を推しはかる「心の理論」（theory of mind）が成立しはじめる。つまりは、自己意識と、他者意識がほぼ同時に生みだされはじめる。この不思議な符合のなかには、深く味わうべきなにかがあるように感じます。&lt;br /&gt;
　斎藤さんもしばしば参照されるように、ジャック・ラカンは「鏡像段階説」を展開し、自己意識の成りたちにおいて、「鏡」が重要な意味を持つと主張しました。ラカンが指摘するように、「鏡」というメタファーないしは機構は、人間の「自己意識」の成りたちにおいて重大な意味を持つと私自身も考えます。この点において、斎藤さんとさまざまな議論ができればと希望します。&lt;br /&gt;
　「鏡」と自己意識のかかわりがもっとも明示的なかたちで現れるのは、いわゆる「鏡像自己認識」（mirror self recognition）においてでしょう。1970年、アメリカのギャラップは、チンパンジーが鏡に映る自分の姿を自分だと認識できるかどうかという研究をおこない、発表しました。ギャラップは、ある朝、鏡にむかって髭をそっていて、この実験を思いついたのだそうです。&lt;br /&gt;
　チンパンジーは、最初から鏡のなかのイメージが自分だとわかるわけではありません。最初は、別の個体が鏡のなかにいると思って、威嚇したりといった社会的な行動をとる。そのうち、鏡のなかのイメージが自分自身だと気づきはじめる。数日たつうちに、チンパンジーの行動は、自己に向けられた（self-directed）なものに変化していきます。&lt;br /&gt;
　興味深いことに、鏡を見てすごす時間は、社会的な行動から自己にむけられた行動への変化の過程で最大になる。鏡のなかのイメージが自分だとわかってしまうと、興味が減退してしまうのです。&lt;br /&gt;
　この変化のプロセスにおいて、チンパンジーの脳のなかでは、きわめて大きな変化が起こっていると考えられます。自分がこのように動くと、鏡のなかのイメージもそれに対応した動きを見せる。このような、自分の「行為」と「感覚フィードバック」のあいだの関連性をとおして、鏡のなかのイメージが自分のものであるということを学習していくのです。&lt;br /&gt;
　鏡の前で、「このような運動をすると、このような感覚フィードバックが生じる」という関連性にあたる英語の概念は、contingencyです。この言葉は、もし運動と感覚のフィードバックのあいだの相関をある程度定まったものととらえれば、「随伴性」と訳すのが適切でしょう。しかし、より一般的な文脈のもとでは、「偶有性」という訳語をあてることが適切であると考えられます。&lt;br /&gt;
　ここに、「偶有性」とは、規則性とランダム性、既知のことと未知のこと、硬いことと柔らかいことが入りまじった状態を指し、現代の脳科学において、たいせつな概念の一つとなっています。&lt;br /&gt;
　「鏡」というメタファーないしはメカニズムは、物理的な意味での「鏡」に接する以前から、私たちの脳のなかの回路がその機能を発現するうえで重要な意味を持っていると考えられます。「このような運動をすれれば、このような感覚のフィードバックがある」というcontingencyをとおして、私たちの脳は自分自身のこと、そうして周囲の環境のことを学んでいくのです。&lt;br /&gt;
　たとえば、新生児は、自分の身体の範囲を、自分自身の身体や周囲のものをさわったりすることで、学んでいくと考えられています。自分の身体を触れた場合には、「触れる」ということと「触れられる」ということが同時に起こる（「ダブル・タッチ」）。一方、他者の身体を触れたときには、「触れる」という感覚だけが単独で生じる。他者に触れられたときには、「触れられる」という感覚だけが単独で生じる。「ダブル・タッチ」が起こることが、自分の身体を確認するうえでのメルクマールとなり、そのことによって新生児の脳は自分の身体の範囲を学んでいくのです。&lt;br /&gt;
　「ダブル・タッチ」をとおした身体知覚は、contingencyが比較的規則的に起こる「随伴性」に近い領域だといえます。一方、より一般的に考えれば、なにか行為をしたときに、それがどのような感覚フィードバックをともなって帰ってくるかには、偶然性や不確実性が不可避的にともないます。まさに、「偶有性」の領域となっていくのです。&lt;br /&gt;
　たとえば、会話がそうです。他者と向きあって言葉をやりとりする。このとき、自分の発話によって、相手の発話はある程度は予想ができるものの、完全には予想しきれない。ときには、こちらの意図とはまったく関係のないことを相手がいうこともある。一方では、「琴瑟相和す」(きんしつあいわす)とでもいうべき、美しい調和が生まれることもある。&lt;br /&gt;
　他者と会話を交わすことは、つねに、規則性とランダム性のあいだに揺れうごくことを意味します。そこで、「自己」と「他者」の境界のようなものも自然に生まれてくる。そこでの「自己」は、けっして確固とした存在として最初からあるものではなく、むしろ偶有性をとおしてブートストラップされるものである。これが、最近の脳科学が描く「自己」の像であり、いわゆる心脳問題も、そのような文脈のなかで論じられなければなりません。&lt;br /&gt;
　「偶有性」というものを、「一般化された鏡」だと考えたとき、そこに映る自分自身の姿、他者の姿、そうした世界の姿は奥深く、味わい深いものです。そこには、最初から「事実それ自体」として措定された主体などない。主体は、なにもない場所からなんらかのかたちで立ちあげられなければならない。&lt;br /&gt;
　このような「知的不安」のなかにある無限の喜びこそが、現代を生きる私たちにとっての知のフロンティアであるという認識において、私は斎藤環さんと同じ地点にいるように感じています。&lt;br&gt;　&lt;br /&gt;
■統計的描像を超えて&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　偶有性の立場から、どのように「主体」の問題を論じるか。そうして、意識の起源や、クオリアの成りたちを解明するか。ここには、さまざまな興味深い問題がふくまれているように感じます。その際に、「無根拠」であること、「不確実」であることは、私たちがどうしても向きあわなければならないこの世の実相である。そこには、私たちにとってかけがえのない「他者」の本質の問題もふくまれているでしょう。&lt;br /&gt;
　そして、私たちの生の実体を与え、脳もまたそれに適応している「偶有性」の本質をあきらかにするためには、乗りこえなければならない大きな障壁があると私は感じています。&lt;br /&gt;
　私は、その障壁について、斎藤環さんはどのようにお考えなのか、ぜひご意見をうかがってみたいと思います。そして、もちろん、丁々発止のやりとりをしながらも、できれば予定調和ではないかたちで共闘がしてみたいとも願っているのです。&lt;br /&gt;
　生の現場は、予想もできないような「サプライズ」に満ちています。生命の本質は、「オープン・エンド」なこと。今日、私たちが「当たり前」のことだと思っているさまざまな概念もまた、将来書きかえられる可能性が大いにあるといえるでしょう。&lt;br /&gt;
　生命が不可避的に直面する不確実性を、どのようにとらえるか。「統計」の概念を前面に押したてて問題を解決しようとするのが、これまでの科学における一つの有力なやり方でした。&lt;br /&gt;
　ブレーズ・パスカルがサイコロ振りの賭博を「確率」の概念で記述して以来、「確率」は、生きるうえでどうしても直面するさまざまな不確実性をあつかううえで、有効な道具の一つとなってきました。認知科学、脳科学においても、「確率」を中心とする「統計」の概念は、中心的な役割をになってきました。また、「主観的な確率」を基礎におく「ベイズ推定」のやり方も、不確実性をあつかううえで多くの論者によって援用されてきました。&lt;br /&gt;
　今日、科学的「真理」の多くは、「確率」の概念にもとづいて記述されています。論文を書く際、データは「統計的有意性」とともにしめされなければなりません。ミクロな物質の振るまいを記述する量子力学は、「確率」を計算する「波動関数」を与えることで、世界を把握しようとします。統計力学は、あからさまなかたちで確率をその基礎にすえます。経済的な事象や、社会の振るまいなど、ある程度の複雑さを超えた対象をあつかおうとすれば、統計的手法をもちいることが避けられません。&lt;br /&gt;
　私自身、物理学を最初に学んだ、ということもありますし、統計的なアプローチの有力であることは、重々承知しています。人間の特性についても、一人ひとりの行動を離れて、集団としての振るまいを記述しようとする場合には、統計的な方法をもちいるのが効果的であるということは承知しています。&lt;br /&gt;
　それでもなお、私たちの生の問題をあつかうという現場においては、統計的アプローチに限界があるということを痛感せざるを得ない。いかに「統計的真理」という呪縛を超えるかということが、私たち人間にとっての最大の知的な課題であるように感じるのです。&lt;br /&gt;
　たとえば、ある病気にかかっている人が、診断の結果、いま手術をすれば5年生存している確率が30％だといわれたとしましょう。このようなデータは、「証拠にもとづく医学」という視点から見れば、過不足のないものでしょう。また、そのようなデータにもとづいて、手術の方針が立てられたり、医療政策がつくられたりすることについては、それなりの合理性があるといえるでしょう。&lt;br /&gt;
　しかし、一人ひとりの患者の立場からすれば、5年後に自分が「30％生きている」ということはあり得ない。実際には、生きているか死んでいるかのいずれかです。自分自身にとっても、家族や友人たちにとっても、生きているかどうかという「0か1か」の質問にだけ意味があるのであって、「30％生きている」という中途半端な記述には意味が見いだせない。&lt;br /&gt;
　私たち一人ひとりは、この世にわけもわからないままに生みだされ、成長していきます。自分がある姿かたちを持っていることや、ある言語や文化のなかで育つことや、特定の両親のもとで暮らすことは一つの宿命であって、逃れることができません。&lt;br /&gt;
　私は、何回かフルマラソンを走ったことがあります。沿道の人たちがどれほど応援してくれたとしても、最後まで走りきれるかどうかは、自分次第。誰も助けてくれません。私は、体重がオーバー気味だということもあって、30キロ以降は走れなくなってしまった。フルマラソンを実際に走るまでは、小中学校の持久走大会のような苦しさがずっと続くだけだと思っていたけれども、そうではなかった。&lt;br /&gt;
　おとずれたのは、筋肉の限界でした。腕立てふせを繰りかえしていると、いつかは腕の筋肉が疲労して、もうまったくできなくなってしまうのと同じように、30ロを走った私の足のふとももの筋肉は、いまにも切れそうに痛くなってしまった。どんなに応援されても、どれほど自分を奮いたてても、とぼとぼとゆっくり歩くのが精一杯でした。そこにあるのは、絶対的に逃れようもない自分自身の肉体であって、「完走できる確率は30％」といったような、統計的真理などではありませんでした。&lt;br /&gt;
　誰も、統計的真理を生きるのではなく、たった一つの自分の肉体を生きる。私たちの意識や心も、本性においてそのようなものであると私は考えます。&lt;br /&gt;
　脳の神経細胞の活動の解析や、神経活動による情報のコーディングの解析において、統計的手法は欠かすことができない道具となっています。私自身も、ｆＭＲＩのデータを解析したり、認知科学の実験データを参照するときには、統計的なアプローチを援用します。&lt;br /&gt;
　それでも、私たちの脳という「肉体」の活動から私たちの意識がどのように生みだされるか、という根本問題を解明しようとしたら、統計的なアプローチは無効である。純粋に理論的な立場から、そのように考えられるということを、私は『脳とクオリア』のなかで論じました。「アンサンブル」の考え方にもとづく統計的なアプローチではなく、神経細胞と神経細胞の活動のあいだの相互作用のパターンにもとづいて、主体やクオリアは「ブートストラップ」されなければならない。&lt;br /&gt;
　統計的なアプローチから離れることで、「マッハの原理」や「相互作用同時性」が導かれる。基本的な考え方は、いまでも変わっていません。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
■クオリアと生命原理&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　統計的アプローチの有効性を認めつつ、それをいかに乗りこえるかと模索する。これは、きわめて困難ではあるけれども、必要なステップであると私は考えます。&lt;br /&gt;
　その際に、中心になる概念が「偶有性」であると考えます。そして、私は、斎藤さんが「偶有性」の問題についてどのようにお考えなのか、ぜひお聞きしてみたいと思います。&lt;br /&gt;
　その際に、中心となる課題は、いかに「懐疑する心」を持ちつづける一方で、「いま、ここ」の自分の身体を引きうけるか（引きうけざるを得ないことを認めつつ、それを受けいれるか）といことではないでしょうか。&lt;br /&gt;
　斎藤さんは、「しかし、クオリアの全面肯定は、はっきりと「懐疑する心」に対立します。」と書かれた。そのように書かれる含意は、理解いたします。この世に絶対的な「美」があると考えることは、あぶない。倫理的にあぶないだけではなく、この世界のもっともおもしろいものから、私たちを遠ざけてしまう。&lt;br /&gt;
　昔に読んだジョークの本に、ショパンを熱狂的に愛する批評家にしかけたいたずらというものがありました。批評家の目の前に、「これがショパンがはいていた靴下だよ」とぶら下げます。崇拝する作曲家ゆかりのものを前にした批評家は感激して、頬ずりしないばかりに眺めます。その様子をたっぷり見たあとで、いたずら者は、「バカだなあ。それは、ボクの靴下だよ」とばらして、バカにするのです。&lt;br /&gt;
　脱神話志向と神話志向のあいだの緊張感。クオリアは、そのような意味と無意味の邂逅(かいこう)のぎりぎりの境界面に現れるものだと思います。クオリアが、神話化しないように、つねに注意しなければならない。たいせつなのは、硬いものとやわらかいもの、必然性と偶然性、規則と例外、定番とサプライズが入りまじった生の偶有性を、いきいきとしたものに保つことではないでしょうか。&lt;br /&gt;
　あるものの価値が相対的で、底が抜けているとわかっているからといって、「いま、ここ」でその価値を取りあえずは信じることが、否定されるわけではないと考えます。たとえば恋愛。すべての愛がやがて色あせ、醒めることがわかっていたとしても、そのことを先取りして認識し、「いま、ここ」で自分がかかわっている恋愛に没入しないことは愚かだといえます。　&lt;br /&gt;
　私は、ドイツの作曲家、リヒャルト・ワグナーの楽劇を思春期のころから愛聴してきました。2009年夏には、生まれてはじめてバイロイト音楽祭にいくことができました。『トリスタンとイゾルデ』、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、そして『パルジファル』を観るという幸運に恵まれたのです。&lt;br /&gt;
　ワグナーは、しばしば、神話化原理の体現者のようにあつかわれます。しかし、ワグナーがその代表作『ニーベルングの指輪』で、英雄や愛、権力といった「価値」を描くとき、かならずそこには、そのような価値がやがては否定され、解体され、消滅するだろうという認識がともないます。ナチスドイツによって政治的に利用されたため、ワグナー本人のなかに、ファシズム的な危険な志向性があったと思われがちです。しかし、実際には、その作品を注意深く見れば、ワグナーはなにかの価値を説くときにも、その価値が相対的であること、いつかは否定され、解体されてしまうものであるかもしれないことがきちんとわかっている。&lt;br /&gt;
　『ニーベルングの指環』第二夜の『ジークフリート』三幕。おそれを知らない英雄ジークフリートが、炎に包まれて眠っていたブリュンヒルデを目覚めさせ、結ばれます。しかし、英雄はいつまでもじっとしているわけにはいきません。旅立つべきときが来ます。『神々の黄昏』の第一幕の愛の二重唱では、ジークフリートはブリュンヒルデに別れを告げる。ブリュンヒルデが不安なそぶりを見せると、ジークフリートは、「これから私が立てる武勲はすべてあなたの功績であり、私はあなたの腕にすぎない」という。そして、さらに、「私はジークフリートであるとともにブリュンヒルデなのであって、私がいくところ、どこでも二人一緒なのと同じなのだ」と歌います。&lt;br /&gt;
　愛する男にこのようなことをいわれて、うれしくない女はいません。ジークフリートは歓喜するブリュンヒルデと抱擁を交わし、新たな武勲を立てるために旅立ちます。このあたりの音楽は、限りない輝きと希望に満ちています。&lt;br /&gt;
　もし、ワグナーが愛や英雄といった価値が絶対だと思ってこの部分の音楽を書いていたのだとしたら、それはまさに「ゲルマン民族の優越」を唱えるナチスの伴奏曲としてふさわしかったといえるでしょう。しかし、ワグナーという人は、それほど単純ではない。大自然の中の岩山で、ジークフリートがブリュンヒルデに永遠の愛を誓ったそのすぐあとで、崩壊の場面がおとずれます。ジークフリートは、文明のなかに旅し、そこで退廃の味を知る。そのあげくに、文明の体現者、グンターと偽りの盟約を結んで、最愛の女であるはずのブルンヒルデを裏切るために、岩山にもどってくるのです。考え得る、もっともひどいやり方で。&lt;br /&gt;
　そもそも、この世に絶対的な価値などあるわけがない。永続的に存在するものなどありません。地球上で恒久平和を築こうがどうだろうが、何十億年後かには太陽は赤色巨星になってしまい、現在の地球軌道を飲みこんでしまいます。&lt;br /&gt;
　ナショナリズムは、社会のなかで、ある一定のリアリティを持ちます。日本、アメリカ、中国はそれぞれ独自の政治体制、文化をになっていて、それぞれの国で「自分たちが一番だ」と主張する心性があるわけです。しかし、地質学的な時間を考えれば、地球がなくなるそれ以前から、ナショナリズムは相対化される。数億年ごとに地球上の大陸が集合、離散を繰りかえす「ウィルソン・サイクル」。このメカニズムによって、アジア大陸とアメリカ大陸は2億年後に「合体」し、「アメイジア大陸」と呼ばれる超大陸になるといわれているのです。&lt;br /&gt;
　地球科学的、あるいは天文学的スケールから見れば、人間同士の争いは、しょせ意味のないことになってしまう。それでも、私たちをとらえるものに力があるからこそ、私たちの悩みは深いのです。&lt;br /&gt;
　私は、人と人のあいだに横たわる価値の相対を、たいせつな価値だと考えます。同時に、「いま、ここ」の身体を引きうけざるを得ない人間というものを、かけがえのない、そして愛しい存在だと感じます。&lt;br /&gt;
　私自身は、きっと多くのものにとらわれている。なににとらわれるか、ということも、ときとともに移ろいゆくかもしれない。私は、とらわれていない自分を想像することができる。他人がとらわれてしまっていることに対して、寛容になることができる。より自由になることを、働きかけることができる。その過程で、自分自身がとらわれてしまっているものの正体を見極めるかもしれない。そのような一連のやりとりのなかで、生の偶有性のダイナミクスは展開していきます。&lt;br /&gt;
　理性を持ち、学習することに中毒している私たち人間は、つねに変化を志向している。その一方で、「いま、ここ」の自分のあり方を引きうけざるを得ない。脳が解かなければならない認知課題は、いかに動的適応性と認知的安定性を両立させるかという点にある。そのメカニズムの核心に、クオリアや主体がある。&lt;br /&gt;
　すべては、虚無からブートストラップされる。無根拠ではあるが、とりあえず「いま、ここ」に存在する「私」。私の希望は、私が心から不思議だと感じるいくつかの問題について、すこしでも新しい視点を得ることです。そのためには、他者と向きあうことがどうしても必要です。&lt;br /&gt;
　すべては、「延長された鏡」のなかで。&lt;br /&gt;
　それは飛行機のなかか、あるいは街角か。斎藤さんと、またどこかで偶然の鉢合わせをすることはあるのでしょうか。こうして、遅すぎた返事を差しあげることで、希望をつなぎたいと思います。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
茂木健一郎&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>脳は心を記述できるのか</dc:subject>

<dc:creator>sofusha</dc:creator>
<dc:date>2010-01-05T10:00:00+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/2007/06/1_108a.html">
<title>第1信 　「価値のクオリア」は存在するか？（斎藤環）</title>
<link>http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/2007/06/1_108a.html</link>
<description>斎藤環から茂木健一郎への手紙 　はじめまして。 　はじめておたよりします。斎藤環...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;斎藤環から茂木健一郎への手紙&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
　はじめまして。&lt;br /&gt;
　はじめておたよりします。斎藤環と申します。&lt;br /&gt;
　茂木さんの著書は何冊か読ませていただきましたが、その精力的な活動のすべては、とうていフォローし切れていない点をまずお詫びいたします。&lt;br /&gt;
　そのかわりといってはなんですが、妙なエピソードからはじめさせていただきます。&lt;br /&gt;
　じつは私は、茂木さんとこれまでに何度かニアミスしているんですよ。たとえば、私は2006年の夏休みにフライブルクに行ったんですが……（といえばピンと来るかも知れませんね）、ルフトハンザ機内で私たち家族の斜めうしろに茂木さんが座っておられました。驚いたのは、往路だけならまだしも、復路の機内でもほぼ同じ位置関係で、なんというか、この「偶有性」には驚かされました。思えばあの時点で、この企画は萌芽的かつ徴候的に成立しつつあったのかもしれませんね（笑）。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　私の茂木さんへの親近感はこれに留まりません。私たちは活字のうえでも、しょっちゅうニアミスしていますよね。たとえば、「文學界」の辛く長い連載を終えてほっとしていたら、すぐに茂木さんの連載がはじまりました（のちに『クオリア降臨』として出版）。「中央公論」の時評も、私のものが終わった直後からはじまったと記憶します。細かいところでは、「水声通信」や「フィルムメーカーズ」、「d/sign」などでもご一緒していますね。きわめつけは、文芸季刊誌「en-Taxi」で、例の「角川句会手帖」に茂木さんが呼ばれて「おやおや」と思っていたら、その次は私の番で「やれやれ」という感じでした。&lt;br /&gt;
　なにか、私たちは、この業界内では立ち位置が近いように思われているのでしょうか。&lt;br /&gt;
　この企画も、当初は対談形式が考えられていたようです。しかし、私からのたっての提案で、往復書簡というかたちをとらせていただきました。対談をたくさんこなされている茂木さんならおわかりいただけるかとは思いますが、この、かなりの程度日本に特有な座談文化は、「文化人」をキャラ立ちさせるための簡便な装置か、そうでなければ後日単行本に収録して分量を水増しするために採用されているようなふしもあり、およそ厳密な議論のための場所とは言いがたい。かなりましな対談でも、せいぜいのところヌルい共感とアイディアの断片をちりばめて結論は先送り、というものが多いのではないでしょうか。&lt;br /&gt;
　しかし、私は、このやりとりから、なにがしかのしっかりした「結論」を得たい。だからこそ、わがままをいって書簡形式をお願いしたのです。まずは、企画をこころよくお引き受けくださったことに感謝します。私は、かねてから茂木さんが、ご自身のウェブサイトで、高橋悠治さんとのあのたいへんな対談を平然と公開している姿勢に感じ入っていました。私とのやりとりをお引き受けくださった決断にも、同様のfairness（公平、公正）を感じます。まずは、この点に満腔の敬意を表しておきたいと思います。&lt;br /&gt;
　じつは、茂木さんの過密スケジュールから推して、絶対に断られると踏んでいました。企画を持ち込んできた双風舎の谷川さんから「茂木さんＯＫです！」と聞いて、しょうしょう慌てたくらいです。余談ですが、書き手がひそかに「これだけはやりたくないなあ」と思っていることを書かせるのが優れた編集者だ、と言ったひとがいます。その伝でいけば、谷川さんは、なかなかのやり手、と言えるのではないでしょうか。&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　さて、茂木さんはすでにご存じかもしれませんが、私は茂木さんの活動に対して、さまざまな場所でちくちくと批判的に言及してきました。&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　これはなにも、茂木さんが売れっ子で超ねたましいとか、茂木さん仕事選ばなさすぎだろうとか、茂木さん江原啓之と仲よし対談なんかして科学者としていかがなものかとか、茂木さん次はいよいよ中沢新一あたりとオカルト対談本ですかとか、脳科学が台頭すると精神分析のニセ科学性がはっきりしすぎて困りますとか、そういうスカで下世話な動機からではけっしてありません。そんなことはまったく、みじんも考えたことすらないので、私はあくまで否認を貫きます。仮にそうした批判が一瞬、私の心をかすめたとしても、そんなくだらないことはどうでもいい。メディアの露出が増えれば、やっかむ人間はかならずなにか言いたがるものです。そういうノイズはほっておきましょう。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　私が問題にしたいのは、もっとずっと、本質的なことがらです。おそらく、茂木さんの立場と私の立場とは、もっとも根本的なところですれ違う。どこでどうすれ違っているのかというそのありようは、まだ全体像がぼやけています。ただし、その本質的な異質性を見きわめることは、それなりに創造的な営みになりうると私は考えます。この問題をつきつめれば、ひょっとするとパラダイムの共約不可能性、といった大きな問題に直面することになりそうな予感もあります。しかし、対談ではおそらく、そのあたりの違いをはっきりと強調することができません。&lt;br /&gt;
　私の考えでは――「科学」かどうか、という議論を抜きにして考えるなら――認識と行動の説明原理として、現時点での「脳科学」は「精神分析」とそれほど隔たりはない。あるいはひょっとすると「スピリチュアリズム」とも（笑）。いずれもさしあたっては、仮説と解釈の集積にすぎません。おそらく私の予測では、この状況はあと50年くらいは変わらない。&lt;br /&gt;
　とはいえ、私自身は、脳科学についてはもちろん門外漢です。私は、この往復書簡を、私自身の脳科学に対する偏見（がもしあれば）を学習によって克服するための機会としても、大いに期待しているのです。&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;■私の立場&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　やりとりをはじめる前に、私の立場をあきらかにしておきたいと思います。&lt;br /&gt;
　私は、単科の精神科病院に所属する勤務医なので、本業は精神科臨床医です。ご存じかもしれませんが、専門は「ひきこもり」です。余談ながら先日、某所で「斎藤氏は、みずからのひきこもり体験を臨床に活かして……」と、まことに光栄な誤解のもとに紹介されたことがあります。残念ながら、実際のひきこもり経験はまだありません。&lt;br /&gt;
　誤った紹介といえば、多くの精神科医がそうであるように、私もまた「心理学者」「精神分析医」などと、間違った肩書きを背負わされる経験が数多くあります。いちばん困るのは「評論家」ですが、いちいち訂正しなかったのは自己責任ですし、私のメディア上の活動はすべて副業ですから、誤解も含めてまあお好きにどうぞ、という感じです。&lt;br /&gt;
　ただ、「心理学」はともかく、「精神分析」については、積極的な擁護派を買って出ていることもあり、あながち間違いともいえません。もちろん、教育分析を受けておりませんから、臨床家として精神分析の技法を使用することはありません。かといって、私のように、批評のためのツールとして精神分析をもちいることには批判があることも承知しています。しかし、私の知る限り、「発見」ないし「還元」の享楽におぼれることなく「人間」を語りうる手段としては、ちょっとこれ以上のものがない。というわけで「まだまだけっこう使えますよねー」と、宣伝＆リサイクルに、これつとめているのです。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　とはいえ、精神分析擁護派だからといって、脳なんかどうでもいい、と考えているわけではもちろんありません。むしろ、最近の分析家は、積極的に脳科学の成果を取り込もうとしています。たとえば、岡野憲一郎氏などは、脳科学の側から精神分析を再解釈しようと試みています（『脳科学と心の臨床心理療法家・カウンセラ－のために』岩崎学術出版社 ）。対象関係論の泰斗、Otto F. Kernbergもそうした展開を試みつつあるようですし、私がしばしば依拠しているラカン派でも、最近はそうした動向があらわれつつあるようですね。&lt;br /&gt;
　もっとも、高いお金を出して分析家にかかることがセレブの証だったのも今は昔、北米ではＤＳＭ（アメリカ精神医学会が作成する、精神疾患の診断・統計マニュアル）とプロザック（SSRI型抗鬱剤）の普及以降、精神医学は一気に生物学主義に傾きつつあることは、茂木さんもよくご存じでしょう。この潮流に分析家も逆らえない、ということもあるのでしょうね。&lt;br /&gt;
　ところで、私が今でも「採血をしたり切創の縫合をしたりすることがある」というと、医者以外の知り合いはみんなびっくりします。「そんな、まるで医者みたいなことを！」と言いたげな表情を浮かべて。「だから本業が医者なんだよ！」と内心ツッコミを入れながらも、これなら機内アナウンスでドクターコールがあっても寝たふりでやりすごせるな、と安堵する自分がいます。まあ、急病で死にかけている時に私が医師として登場したら、私自身でもガッカリするでしょうけれど。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　余談はともかく、いちおう私の医師のはしくれとして、脳についてもひととおり以上のことは学びました。今を去る20年以上も昔、医学生時代に解剖実習でパラフィンに埋包した延髄のミクロトーム切片をせっせとスケッチしたり、当時はまだ珍しかったＣＧで脳室の三次元構造を学んだりしたものです。&lt;br /&gt;
　教科書とは別に参考書としては、Guytonの生理学書とCarpenterの神経解剖学をよく使いました。とりわけ前者は、感動的なまでに平明かつ明晰な記述で、夏休みなどに英語の勉強を兼ねて繰り返し読んだものです。なかでも、顔の認識の話には深い感銘を受けて、のちに『文脈病』（青土社）なる本を書いてしまったほどです。&lt;br /&gt;
　筑波大学の臨床精神医学教室は、当時から生物学主義的なところで、通常は脳外科や神経内科に入院していそうな器質性疾患（ミトコンドリア脳筋症とか）の患者さんが、多数入院されていました。臨床実習中にグリオーマ（神経膠腫）の患者さんを担当したさい、彼女の「強迫泣」という症状のメカニズムについて、レビュー論文なみに詳細なレポートを作成したこともあります。余談ながら、当時は精神分析よりも神経心理学のほうがおもしろくて、ルリヤや山鳥重の解説書を勝手に読んだりしていました。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　まあそんなわけで、いちおう脳の解剖・生理・組織などについて、テクニカルタームなど基本的なところはわかっているつもりです。&lt;br /&gt;
　このほか、現在の私が脳について、多少は専門家面できるとすれば、脳波とＣＴ（コンピュータ断層撮影），ＭＲＩ（核磁気共鳴画像法）の読影でしょうか。脳波は日々の臨床でしょうしょう鍛えていますので（スケール使わずに周波数が判ります……って、自慢にもなりませんが）、例の『ゲーム脳』のトンデモぶりも、著者の森さんが気の毒に思えるほど見えてしまいました（こういう人でも脳科学者を名乗れるのですから、この業界はじつにフトコロが深い）。&lt;br /&gt;
　もっとも、世間の人たちがよく勘違いしているように、脳波で思考内容までわかったり、脳波をシンクロさせると思考もシンクロしたり（そんな珍マシンを使用したカルト集団もありましたっけ）するわけではありません。あれは、画像診断では見つけられない異常を発見するための、かなり目の粗い測定器具にすぎません。しかも、脳波異常が見つかれば、結局はＣＴやＭＲＩ検査も施行しなければならない。ただ、てんかんなどでは、解剖学的な異常がなくても脳波の異常があったりしますから、まだまだ検査項目としては必須なのですが。&lt;br /&gt;
　ＣＴ読影の経験からいえることとしては、無症状な人でも脳の奇形は意外なほど多いという臨床的な事実です。ベルガ腔とか透明中隔欠損などの異常は、いわゆる健常者にもときおり見られる異常ですね。こうした経験を重ねてくると、脳の解剖と精神症状とのあいだには、ある種のギャップが存在することを痛感させられます。この点は後日、「器質－臨床的隔たり」として、おもに「記述の問題」の視点から取り上げてみたいと考えています。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　そういうわけで、茂木さんのご専門分野に関していえば、私はまったくの門外漢というほどでもありません。とはいえ、大学院を卒業して以降は、神経心理学や精神薬理学を中心にほそぼそとフォローしているだけなので、最新の動向については知識の空白部分も多いことと思います。まあ私のことは、ちょっと偏った知識を持った素人、くらいに考えていただければけっこうです。ロートル学生でも相手にしているつもりで、必要とあらば、容赦なく専門的な語り口でお願いします。読者も茂木さんのそうした側面が、いかんなく発揮されることを期待しているのではないでしょうか。&lt;br /&gt;
　さて、そうはいっても、この場で専門的にトリヴィアルな話題を掘り下げようとは思いません。茂木さん自身もそのような志向性をお持ちだと考えますが、最終的には「クオリアとはなにか」「意識とはなにか」といった、高度に抽象的な問題を大づかみで捉えることができればと考えています。重要なのは個別と普遍を接続するようなメタレベルの抽象性です。あるいは、茂木さんなら「花の美しさ」と「美しい花」とを媒介するなにか、と言いかえられるでしょうか。&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;■「私」と「クオリア」&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ここではまず、私なりの「脳」の位置づけを述べておきたいと思います。&lt;br /&gt;
　私の知る限り、現在の脳科学の知見をすべて動員しても、人間の社会的行動を直接に説明することは、まだできません。もちろん、要素的で断片的な知見から、あくまでも一次近似、あるいはときに文学的比喩として、ある種の行動を解釈して見せることまでは可能かもしれませんが。&lt;br /&gt;
　たとえば、ミラー・ニューロンの存在があきらかになったからといって、そこから人間の模倣行動全般を解説することは、まだできませんね。つまり、模倣という共通の要因を持ちながら、コピー、パロディ、二次創作といった区分が生ずる理由について、脳科学はまだ十分に説明できない。その限りにおいては、脳はまだまだブラックボックスです。&lt;br /&gt;
　さすがに茂木さんは、ほかの「脳科学者」とは異なり、まだ証明されていないことまで「すでにわかっている」と断ずるようなことは、されていないようですね？　&lt;br /&gt;
　それは、茂木さん自身が「ゲーム脳」や「脳トレ」を厳しく批判されている（いましたよね、確か？）ことからもあきかでしょう。「脳によい子育て」や「環境ホルモンが前頭葉を破壊して若者の心が荒廃する」といったトンデモ学説からも距離を取られている。すくなくとも、私に見える範囲での茂木さんは、そうした飛躍については正しく禁欲を貫かれているように思います。私はそこに茂木さんの、科学者の誠実を見て取ります。凡百の自称・脳科学者とは、この点が一番の違いでしょう。&lt;br /&gt;
　これは茂木さんが、脳そのものではなく、その効果としての「クオリア」に注目されているためもあるのでしょう。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　ところで、私の感ずる疑問の第一は、まさにこの「クオリア」という概念にきわまります。&lt;br /&gt;
　「クオリア」を肯定することは、「この私」のゆるぎなさを肯定することです。&lt;br /&gt;
　「この私」という立脚点を肯定することなしに、クオリア概念をつきつめて考えることはできない。言いかえるならば、クオリアについて考えることが可能であるためには、認識の主体である「この私」の肯定、すなわち実体化が前提となるのではないでしょうか。&lt;br /&gt;
　先日、茂木さんは、私のラカン理論入門書『生き延びるためのラカン』（バジリコ）をたいへん好意的に書評してくださいました。しかし、私はあまり手放しで喜べなかった。じつはこの本において、私は随所で「脳科学」への嫌味や違和感を表明しています。それにもかかわらず好意的に評価されるということは、ちゃんと読んでいただけなかったか、脳科学の圧倒的な優位性をふまえて、哀れなラカン派に憐憫の情をかけてくださったのか、そのいずれかではないでしょうか。&lt;br /&gt;
　ほんらい茂木さんは、随所でポストモダン的な発想に違和感を表明されてきたはずです。これはある意味では当然のことで、そのこと自体の当否を、今は問いません。ただ、ポストモダンへの嫌悪と、ラカンの思想の肯定的評価とは、けっして両立し得ないものです。その意味で茂木さんがラカン入門書などに向けてとるべき態度は、「まだそんなことをいっているのか！」と一喝後、本はくずかごに直行、というものであったはずです。&lt;br /&gt;
　ポストモダンとされる思想に共通のものがあるとすれば、それは「主体への懐疑」にきわまるでしょう。ラカンをポストモダニストに位置づけるかどうかは議論のあるところですが、それを準備した「思想家」のひとりであることは間違いない。ラカンの思想は、欠如と逆説の思想です。「人間」とは、欠如した主体の周囲に構成された幻想の一種であると見なすのが、ラカン派です。&lt;br /&gt;
　それゆえラカンは、デカルトのコギトを一蹴します。「我思う、ゆえに我在り」ではなく、「我思う、または、我は在る」だ、とはラカンの有名なジョークです。これは簡単にいえば、思う「我」と在る「我」とが、すでに同一物ではないことを意味しています。そのように、実感的に理解された「我」なるものは、シニフィアンの連鎖がもたらした想像的効果にほかならない。これがラカンの主張であって、それゆえラカニアンにとっての「クオリア」なる概念は、典型的なナルシシズムの徴候、ということになります。証明ができず、「あるとしか言えない（糸井重里）」場所にこそ、ナルシシズムは強く滞留するでしょう。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　私がラカンに依拠する最大の理由は、思考の前提に「欠如した主体」を据えるラカンの発想こそは、思想史的な意味でもあと戻り不可能な切断線だと確信するからです。「マルクシズムの復権」や「フロイディズムの復権」は局所的にはありえても、素朴な「主体の復権」はありえない。もしありうるとすれば、それは巧妙に擬装された退行的身振りとしてのみ可能である、というのが私の考えです。&lt;br /&gt;
　おわかりのとおり、今や「脳」こそは、誰も反論しようのない「主体の座」としての位置を固めつつあります。しかし、ここにひとつの逆説がある。主体の座としての脳がクローズアップされるほど、主体概念そのものは、構成主義的な性質を帯びてしまうのではないか。ニューラル・ネットワークのなかに「主体」が位置づけられてしまうことは、別のかたちでの「主体の死」なのではないか。ラカン派の立場に立っても、あるいはオートポイエーシス理論などのシステム論的な見地からしても、脳神経系は主体の「外部」に位置づけられるからです。&lt;br /&gt;
　さしあたり、私は、「どちらが真か」という論争を準備しているわけではありません。今はまだ、茂木さんと私の「立場の違い」についてはっきりさせようとしているだけです。私がなぜ「クオリア」という概念を素直に受けとめられないのかは、もうおわかりでしょう。「欠如した主体」をすべての出発点とする思想は、クオリアという否定しようのない実感についても、いったんは幻想として受けとめるからです。味気ない身振りではありますが、私はこれを倫理的要請と考えています。ならば、倫理とはなにか？&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　私にとっての倫理とは、まずなによりも、「美」や「実感」に最大の価値を見いださないための、思考の拘束具です。&lt;br /&gt;
　どのような意味でも、「美」は倫理の基準にはなりえません。たとえば、リーフェンシュタールの写真集『ヌバ』は安心して褒められますが、彼女が監督したベルリン・オリンピックの記録映画『オリンピア』については、多くの人が複雑な表情で黙り込むでしょう。ほとんど同質の美が描かれているにもかかわらず、です。&lt;br /&gt;
　あるいは、爆発四散するスペースシャトル・チャレンジャーや炎上崩壊するＷＴＣ（ワールド・トレード・センター）にある種の崇高美を感じずにすますには、ほとんど洗脳に近い倫理的トレーニングで認知を歪めておく必要があるでしょう。しかし、たとえば後者をうっかり「宇宙全体で想像しうる最大の芸術作品」と素直すぎる発言をしてしまった音楽家シュトックハウゼンがどんなめにあったかは、すでにご存じのとおりです。&lt;br /&gt;
　美的判断は倫理とは無関係である。それゆえ、美は価値判断には結びつかない。クオリアも同様です。おそらく、「美のクオリア」はありえても、「倫理のクオリア」は存在しない。なぜなら、倫理性とは、否定と懐疑からしか導かれ得ないからです。それゆえ、倫理を純粋な肯定的質感のもとで「味わう」ことなどできません。また、そうでなければ、倫理など信頼に値しません。実感と経験に抗して超越論的に作用するもの、それが倫理です。あらかじめ存在する上位概念は超越的ですが、その都度、事後的に生成する超越性については、超越論的であると私は言います。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　ここでもうひとつ、困った例について述べておかねばなりません。クオリアについて考えるとき、よくカルトによるマインドコントロールの例を私は思い浮かべます。人がカルトにはまる最初のきっかけは、カルト体験に「真理のクオリア」をどうしようもなく感じてしまうからではないか。マインドコントロールの手法のひとつの典型は、懐疑的な自意識を抑圧することです（「アタマを取る」なんて恐ろしい表現もありましたっけ）。その結果、どういうことが起こるか。&lt;br /&gt;
　私はかつて、日本最大のコミューンを形成していたヤマギシズムというカルト集団の内部調査に参加したことがあります。ヤマギシズムでは、参画にさいして「特講（特別講習研鑽会）」という集会への参加を義務づけられています。くわしくは述べませんが、特講はエンカウンター（集団感受性訓練）などの手法を採用した典型的なマインド・コントロールです。&lt;br /&gt;
　ここで興味深いのは、特講を経験した人びとの感想です。かなりの数の人が特講を終えたあとで、「風景が生き生きと見えた」「新緑が眼に染みた」などという感想を口にする。茂木さん的な表現でいえば、クオリアへの感度が向上しているのです。&lt;br /&gt;
　ならば、彼らの感じているクオリアは「邪悪なクオリア」なのでしょうか？　いや、経験に至るまでの過程はどうあれ、天才の感ずるクオリアと、カルト信者の感ずるクオリアとに、本質的な区別があろうはずがない。まさか「そんなのはニセのクオリアだ」とか「脳の品格が違う」などとはおっしゃらないでしょう？　&lt;br /&gt;
　こういう経験は、ヤマギシに限らず、さまざまなカルト経験者が述べていますね。興味深いのは精神療法のひとつとして知られる森田療法でも、同様の現象が起こることです。これはある意味では当然で、森田療法は自意識の悪循環、すなわち精神交互作用の暴走を解除するために、やはり懐疑的な自意識を抑圧する技法です。これをカルトと呼んではさすがにまずいでしょうけれど、ここにひとつの共通点がある。それは、懐疑を捨てれば捨てるほど、クオリアへの感受性が高まる、という臨床的事実です。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　私の懸念は、もはやおわかりでしょう。私は、懐疑する能力こそが、倫理の前提であると考えています。しかし、クオリアの全面肯定は、はっきりと「懐疑する心」に対立します。&lt;br /&gt;
　私が懸念するのは、茂木さんがクオリアを私秘的なものであるとしながらも、どうやらそれを価値判断の根拠に据えたそうな身振りがかいま見えることです。クオリア概念の価値は、その徹底した共約不可能性にあるという私の理解が間違っていなければ、それはもちろん価値判断のスケールとしては使用できません。ところが、茂木さんは、たとえば次のように書いている。&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;　「クオリアによって価値が決まる。その点において、文学作品はゲルニカや松林図といった絵画となんら変わるところがない。モオツァルトのシンフォニーや、バッハのオルガン曲と変わることがない。文学を初めとして、あらゆる芸術ジャンルにおける傑作を特徴づけるのは、その作品を体験することのなかに潜むクオリアのピュアさであり、強度であり、熱であり、深さである。人間が生きるということの核への関わりである。&lt;br /&gt;
　だからこそ、よほどの覚悟をもって臨まなければ、分析や解体をその生業とする批評家は、実作者に対して負け続けることになる。才能や志において負けるのではない。クオリアのピュアさにおいて負けるのである」（『クオリア降臨』文藝春秋、三五頁）&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
　しかし一方で、茂木さんは次のようにも書かれています。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;　「＜クオリアの先験的決定の原理＝認識の要素に対応する相互作用連結なニューロンの発火パターンと、クオリアの間の対応関係は、先験的（ア・プリオリ）に決定している。同じパターンを持つ相互作用連結なニューロンの発火には、同じクオリアが対応する＞&lt;br /&gt;
　この原理が主張することは、「クオリア」自体は、経験や学習に依存して決定されるのではなく、それ以前に決定されているということである。認識の要素に対応する相互作用連結なニューロンの発火パターンとクオリアの間の対応に、任意性あるいは変化の余地はなく、その対応関係は必然的であるということだ」（『脳とクオリア』日経サイエンス社、一七一頁）&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
　ここに書かれていることは、私からすればもっとも典型的な脳還元主義に見えてしまうのですがどうでしょう。もっとも、後者はもう10年前に書かれた本のようですから、現在の認識は多少は変化されているのでしょうか。最近、茂木さんがいたるところで「偶有性」を強調されているところを見ると、今はこれほど固定的な考え方はされていないものと私は信じたい。&lt;br /&gt;
　なぜなら、ここに引用したふたつの箇所を結合すると、あらゆる価値は先験的に決定されているという、あのなじみぶかいトートロジー（同語反復）に直面することになるからです。もしそうであるなら、茂木さんは、もはや「車内で化粧する脳」や「ゲーム脳」を疑似科学と嗤うことはできません。『水からの伝言』などが典型ですが、ほとんどの疑似科学は、価値を科学的に根拠づけようとする動機において導かれるからです。&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;■「倫理中枢」は存在しない&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ここで、あらためて問いかけようと思います。&lt;br /&gt;
　茂木さんは、脳を価値判断の中枢として位置づけうるとお考えなのでしょうか？&lt;br /&gt;
　ちなみに『脳の中の倫理』の著者、マイケル・Ｓ・ガザニガの相当に慎重な主張ですら、私にはとても許容しかねるものでした。むしろ、倫理とは、科学的事実がどうであろうと、倫理中枢など存在しない、という前提から出発するべきではありませんか？&lt;br /&gt;
　これを私なりに言いかえるなら、仮に「殺人ができなくなる向精神薬」が開発され得たとして、その使用を全面的に禁止する姿勢のほうが、倫理的と見なされるべきだ、ということになります。&lt;br /&gt;
　倫理観も美的判断も、なべて「脳によい」ことは価値が高い、という判断。繰り返し申し上げますが、ここにはトートロジーの構造があります。同時に、そこには（岡崎乾二郎氏の示唆を受けていえば）、「美しい花」を肯定しつつ「花の美しさ」を切り捨てるような逆説もあります。ようするに、私秘的で共訳不可能な価値の存在を、共通言語でやすやすと言いあらわしてしまう矛盾、ということです。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　人が倫理や美を認識しうるのはなぜか。それは、脳に倫理や美を感知する中枢があらかじめ存在するから。ひょっとすると茂木さんは、そのようにお考えではないでしょうか。&lt;br /&gt;
　ならば、そうした中枢の存在はどのようにして証明されますか？　倫理や美の刺激に接したときだけ、発火するニューロンを見つければいいのでしょうか。だとすれば、美の中枢が見いだされる以前に、倫理や美の判断が、あらかじめなされていなければなりません。すると「本当の判断」をくだしているのは、いったい「誰」なのでしょうか？&lt;br /&gt;
　もしクオリアを価値判断や美的判断の道具として不用意にもちいるならば、これと同じ状況に陥るほかはありません。&lt;br /&gt;
　価値観を霊性に求める論理も、同様のアポリア（難問）を抱えることになります。クオリアという概念が自己愛的に見えるのは、そこに徹底して「他者性」が欠けているからではないでしょうか。&lt;br /&gt;
　脳科学も精神分析も、いまだ「疑似科学」という評価を完全に免れてはいません。すくなくとも私は、精神分析が自然科学と同等の記述体系でありうる可能性はとうに断念しています。それにもかかわらず精神分析を捨てないのは、それがナルシシズムを排しつつ他者とかかわり、そこに懐疑と洞察を導くための、代替のきかない唯一の道具であるからです。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　失礼ながら、茂木さんの言説がしばしば危ういものに思えてしまうのは、茂木さん自身の意識はどうあれ、世間は茂木さんに「新しい価値を説く人」を見ているように思われるからです。すくなくとも、茂木さんの読者の大多数は、茂木さんがその華麗な身振りで、脳と価値観を結びつけてくれることを熱心に期待しているはずです。あるいは茂木さんは、まったくそのような自覚をお持ちではないのでしょうか。&lt;br /&gt;
　おそらく、現代ほど、ベタな価値観を説くのがむずかしい時代はありません。ぷちナショナリズムなどと揶揄される若者たちですら、別に日本的価値を心から愛しているようには見えない。むしろ、彼らの言動は、硬直化した「サヨ（左翼）」的言動へのアンチとしてなされており、それゆえ政治運動に結実する可能性はほとんどない。すくなくとも、私はそのように見ています。&lt;br /&gt;
　この状況下、私も含め、ある世代以下の言論人のほとんどは、ベタな価値ではなくメタ価値観を呈示しようとします。メタ価値、すなわち高い価値判断を可能にする条件のほうを問おうとするのです。私のいう倫理とは、そうしたメタ価値観のひとつです。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　こうした風潮の背景にあるものは、ニヒリズムに似ていますが、すこし違います。おそらく「価値観は底が抜けている」という真理が、暗黙のうちに共有されているのではないか。&lt;br /&gt;
　たとえば、ある価値観の正当性を説明しようとすると、「無限背進」「論理循環」「正当化の恣意的打ち切り」のいずれかに陥ってしまうことを、ドイツの哲学者ハンス・アルバートは「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」と呼んでいます。価値観を哲学的に根拠づけえないことは、すでに実証済み、というわけです。&lt;br /&gt;
　ならば、価値観に意味はないのか。もちろん、そうではありません。ご存じのとおり、カントは判断力を「規定的判断力」と「反省的判断力」に分けています。規定的判断力とは、あらかじめ普遍的な判断のモノサシが与えられたうえでなされる判断です。一方、反省的判断力は、個別の特殊な事例から、なんらかの普遍的な判断の原則を、そのつど見いだす能力のことです。これは一種のメタ判断力であり、さきに私が述べたメタ価値観でもありますね。&lt;br&gt;&lt;br /&gt;
　「倫理」とはこの反省的判断力によって導かれる、超越論的なメタ価値を指しています。それゆえ他者性への配慮、とりわけ最大の他者であるところの「象徴≒言語」への信頼なくしては成立しません。茂木さんが言語の地位を相対的に低く見積もっておられるのは、学説としては一貫性があるのでしょうが、私が感ずる違和感の源泉もまた、ここにきわまるといってもよいでしょう。&lt;br /&gt;
　もっとも、言語についてはまた後日、じっくり展開したいと考えています。&lt;br /&gt;
　それにしても、もし仮に茂木さんが、ヘーゲル／ラカンの主張をもじって「クオリアは他者のクオリアである」などとおっしゃっていたなら、すくなくとも議論の前提くらいは共有できたかもしれません。いや、いきなりないものねだりをするのはアンフェアでしたね。&lt;br /&gt;
　ともあれ、お返事を心待ちにしています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;斎藤環&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>脳は心を記述できるのか</dc:subject>

<dc:creator>sofusha</dc:creator>
<dc:date>2007-06-01T01:55:41+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/2007/04/post_b0f1.html">
<title>往復書簡のルールについて</title>
<link>http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/2007/04/post_b0f1.html</link>
<description>この往復書簡は、茂木さんの思想を理解するための入門書ともいえる『脳内現象』（NH...</description>
<content:encoded>この往復書簡は、茂木さんの思想を理解するための入門書ともいえる『脳内現象』（NHKブックス）を、議論のためのおもなテキストにいたします。
初回は、斎藤さんから茂木さんへの書簡です。以降は、設定したテーマとルール（以下を参照）にもとづいて、おふたりに書簡を往復していただく予定です。&lt;br&gt;&lt;br&gt;

■テーマ … 「脳は心を記述できるのか」&lt;br&gt;
■字　数 … 1回の書簡は、400字詰め原稿用紙で15枚～50枚の分量。&lt;br&gt;
■回　数 … 書簡は一カ月に1通で、10カ月ほど連載。つまり5往復となります。&lt;br&gt;
■期　間 … 2007年6月から翌年3月まで。&lt;br&gt;
■掲　載 … 期間中の毎月1日に、双風舎ウェブページに掲載します。&lt;br&gt;&lt;br&gt;

脳科学と精神分析をお互いの視点からながめると、協調や融合もあると思いますし、異論や反論もあるかと思います。主張するべきところは主張して、認め合える部分は認め合う。
学問的な公正さを保ちながら、おふたりが書簡を交わす。そんななかで、専門的でわかりづらい脳（科学）の本質について、読者と共に考えていければと思っております。</content:encoded>



<dc:creator>sofusha</dc:creator>
<dc:date>2007-04-30T11:25:58+09:00</dc:date>
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